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ポンペイにおける交通規制に関する実証的研究

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ポンペイにおける交通規制に関する実証的研究
ポンペイにおける交通規制に関する実証的研究
飯開 麻美
1 研究の概要
その1点がサイクロイド曲線を描くことに着目し、車両
1-1 研究の背景
が縁石に接触しながら進むと、垂直面にサイクロイド曲
ユリウス・カエサルが前1世紀後期に定めたユリウス
線状の摩耗痕ができるとし、さらにこの摩耗痕のある縁
法には交通に関する条項が初めて明確に記されており、
石の角が摩耗して丸くなっている場合は交差点で車両が
古代ローマ都市に交通規制が存在していたことがわかる
曲がったことを示すとしている(Fig.2)
。Fig.2のモデルを
。これまで交通に関する研究は行われてきたが、文献か
使い、ポンペイ各所の分析を行ったところ、交差点で車
1)
両が右側に寄って右折していたことがわかり、さらにイ
らの研究が中心で実証的研究は数少ない 。
2)
辻村純代の Ruts in Pompeii は古代ローマ都市の道路
シス神殿通りのように2台通行が可能な道路において、
研究において先駆的役割を果たした論文である。当該論
通りの両端で右折する際に車両は右に寄っていたため、
文ではカンパニア地方にあったローマの植民地、ポンペ
右側通行が行われていたとPoehlerは述べている(Fig.1)。
イを取り扱っている。これはポンペイが後 79年におこっ
さらに Poehler は、レジオⅥの全域のケーススタディを通
たウ゛ェスウ゛ィウス火山の噴火のより火山灰に埋没し
し、少なくともポンペイのスタビア通り以西のエリアで
たため、都市の大部分の道路が当時の状態のまま残って
は右側通行が原則で、通りごとに進行方向が決められた
ており、都市交通の実証的研究をするにあたり、最適の
交通規制が存在したと結論づけている。
資料となり得るからである
1-2 研究の目的
3)
。
辻村の研究で注目すべき点はまず、車輪間隔は常に一
先行研究では交通規制の可能性、内容を明らかにして
定ではなく 1,420mm から 1,580mm の間に収まるとした
いるが、ポンペイ全体の交通規制の解明には至っていな
上で 、同時に2台通行することが可能な道路幅員を 3,210
い。本研究では交通の起点となる城門での車両の動きの
∼ 3,530mm と算定し 、発掘されている道路の大部分で
傾向を抑えることができれば、城壁内での交通にも適応
二台通行が不可能だったとした点である 。次に、交差
でき得ると考え、城門を対象に摩耗痕を観察する。
4)
点での轍の残り方に規則性があることを見つけ、交差点
先行研究に倣い、ポンペイを研究対象とし、2005年
での曲がり方を10のモデルに集約した点である
から 2007年に行われた現地調査で行った3D レーザース
(Fig.1)。
キャニング技術(IRLIS)を用いた実測データを使用して摩
交 通 規 制 の 可 能 性 を 示 し た 辻 村 の 論 文 を も と に、
耗痕の分析を行う。ただし、道路幅員、摩耗痕の分析か
Poehler は The Circulation of Traffic in Pompeii s Regio
ら得られなかった進行方向について、存在を否定するこ
Ⅵ
において、車両の進行方向を明らかにし、辻村の研
とはできないため、本研究では基本的にはどの道路にも
究からの前進を図っている 。彼は車輪が回転するとき、
両方向通行があったと考え、その上でどちらの方向の進
Fig.1 交差点の轍の記録と縁石の摩耗痕が右側通行を示す箇所(○印)
28-1
Fig.2 Poehlerの提示する摩耗痕のモデル
行により強い傾向があったと述べるに留める。
本論文は以下の構成で進められる。第2章では摩耗痕
ができるモデルを提示する。第3章では分析手法を用い、
城門で車両の動きの特徴を述べ、最後に第4章で研究の
まとめを書き、総括とする。
2 分析方法
ローマ時代の車両の車輪、ハブは鉄製のバンドで覆わ
Fig.3 轍の形成モデルR
れており、これにより敷石、縁石は損傷を受け、摩耗痕
ができた 。路面を転がる車輪は基本的にすべりを伴う転
がり摩擦の状態、いわゆる転がりすべりの状態にある 。
車輪が回転しているとき、すべり部分では摩擦 F が 起き
ており、石と鉄のような弾性変形量の小さな材料同士の
摩擦の場合、摩擦力 F は以下の式で表わされる。 F=Fs+Fp
Fig.4 縁石の摩耗痕の形成モデルC
Fs;凝着摩擦力 Fp; 掘り起こしによる摩擦力
このうち Fp は、2つの材料の硬さが違うときに起こる
もので、硬い方の表面の凸部が、軟らかい方の表面を掘
り起こして溝を形成するときの力である。つまり、鉄よ
り軟らかい石に、鉄が摩擦痕を作る力はFpのみと言える。
このとき、Fp は、以下の式で表せられる。
Fp= A pm , pm=H
A ;すべり方向の投影面積 pm;軟らかい平面の塑性流動圧力 H;2物質のうち軟らかい方の材料の硬さ 3式から、摩耗痕を作る力 Fp は、車体の速度、重量と
Fig.5 ノチェラ門
は無関係で、A と石の硬さ H によることがわかる。この
ことを踏まえた上で、轍の形成モデル R と縁石の摩耗痕
のモデル C を作成した。モデル R は Fig.3にあるように、
溝から車輪が乗り上げようとするときに A =k で、車輪の
形に沿って摩耗痕が作られるため、轍の両端を比較して、
縁が急勾配である方向に車両が進行していた傾向がある
と言える。縁石のモデル C も Fig.4のように縁石に対して
ほぼ垂直に車両が衝突した場合、A =k で摩耗が生じる。
3 城門の分析
Fig.6 ノーラ門
識して設置されたと考えると合理的である。なぜならば、
3-1 ノチェラ門、ノーラ門、サルノ門
ノチェラ門には城門での車両の動きの特徴がよくわ
もし南側から車両が来たとすると、保護石が縁石に接触
かる痕跡がある。ノチェラ門外の東側の縁石に、モデ
することを防げず、保護石を設置した意味がないからで
ル C に当てはまる2つの摩耗痕がある(Fig5: A,B)。2つ
ある。実際、この保護石とノチェラ通り西側の南にある
の摩耗痕は南が深く摩耗し、北へ向かうほど徐々に浅く
保護石に、北側からのみの接触を示す摩耗痕があり(Fig.5:
なっており、その道路面からの高さ A 約 500mm、B 約
D)、ノチェラ門近くで車両は道路の右側に寄って南進し
600mm から、都市内へ向かって北西に進む車両の車軸に
ていたことがわかる。ただしノチェラ門外の西側の縁石
よるものだとわかる。ノチェラ門内ではノチェラ通り西
には、左寄りで北進した車両の摩耗痕が確認でき、必ず
側に、車軸による摩耗痕がある縁石があり、その傍らに
しも車両が右に寄っていなかったようだ。(Fig.5 : E)。
保護石が置いてある(Fig.5: C)。保護石の位置は、摩耗痕
ノチェラ門の縁石の摩耗痕と同様のものが、ノーラ門
の北端に位置していることから、北側から来る車両を意
とサルノ門でも見つかった。ノーラ門から城壁外、南側
28-2
の壁にも車軸がつけた摩耗痕が残っている(Fig.6: A)。こ
の摩耗痕は西側から東側に向かうにしたがって浅くなる
ことから、都市壁内から出てきた車両によるものだとわ
かる(モデル C)。この車両もノチェラ門の場合と同様に、
右側に寄る傾向があったと考えられる。摩耗痕が残る壁
の反対の北側では、車両が壁際に寄っていたことを示す
轍が北側の縁石沿いに残っており、道路の反対側でも車
両が縁石に可能な限り近づいて通行していたことが分か
る(Fig.6: B)。サルノ門の南側の壁面に残る摩耗痕は、そ
Fig.7 サルノ門
の地上面からの高さから、車軸あるいは車輪がつけた痕
だと考えられる(Fig.7: A)。この摩耗痕は西から東へ向か
うにつれて浅くなっていることから、都市壁内から外へ
東進する車両によるもので、右側に寄っていたことがわ
かる(モデル C)。ただし、ノーラ門、サルノ門の場合、
残念ながら摩耗痕が残る壁、縁石の反対側に特定の方向
を示す目立った摩耗痕がないことから、ノチェラ門の場
合と同様に、都市壁内へと進む車両が右側に寄っていた
かはわからない。
3-2 エルコラーノ門、スタビア門、ヴェスヴィオ門
3-2-1 待避所
城壁の北西角に位置するエルコラーノ門は道路幅
3,430㎜で、車両が同時に2台通行するのに十分な幅を有
Fig.8 エルコラーノ門
している(Fig.8)。エルコラーノ門北側の出口付近に4本
の轍が残っており、a-d の轍の距離は 1,450mm で、対を
なしていることがわかる。4つの轍の断面図を作成した
ところ、a と d の対と c では南東側の縁が反対側と比較し
て傾斜があり、南東方向、つまり城壁内へと進む車両が
残したものだとわかった(モデル R)。対して b では、北西
側の縁の傾斜が急であることから、城壁外へと出ていく
車両が残したものだとわかる。したがって、エルコラー
ノ門では両方向通行があったと言える。ところで、もし
a-d と b の轍を残した車両が同時に進んでいたとすると、
正面衝突してしまうため、どこかで避ける必要がある。
このとき、轍がある位置で、つまり城門のなかで避ける
Fig.9 スタビア門
ことは可能であるが、古代の車両は急旋回するには向い
外に2つの待機所があるが、いずれも門へ入ろうとする
てないため、城門の外で一度待避し、対向車が城門を通
車両からみて右側に設置してある。実際、スタビア門の
り抜けた後に進んだほうが都合がよい。そこで、エルコ
待機所について分析方法のモデル R に照らし合わせてみ
ラーノ門の内外にある拡幅された道路が、恐らく待避所
たところ、轍 B の両端で南側のほうの傾斜が急勾配であ
として役立ったと考えられる。
ることから、スタビア通りを南進してきた車両が残した
エルコラーノ門の他にも、スタビア門、ヴェスヴィオ
ものだと考えられ、やはり門の手前で右側に寄っていた
門の城壁内側、ノーラ門の外側も道路が拡幅されており、
ことがわかった(Fig.9)。したがって、右側に避ける慣習
待機所としての意図をもって作られた可能性は高い。こ
に従い待避所が作られた可能性は高いと言える。
れら待機所は興味深いことに、3-1で浮かび上がった、門
3-2-2 ステップストーン
に入ろうとする車両から見て右側に避ける慣習と合致す
スタビア通り南端の道路幅は 4,700mm と広く、2台
るような位置にある。例えば、エルコラーノ門では門内
の車両がすれ違うには十分であるにも関わらず、ステッ
28-3
プストーン (Fig.9: S-W, S-E) があるため、道路幅は東か
ら 1,250mm、1,500mm、500mm に 狭 ま っ て い る。 そ
のため、車両の進路は東のステップストーン (S-E) を跨ぐ
もの、2つのステップストーンの間を通るもの、西のス
テップストーン (S-W) を跨ぐもの3つに限定されている。
た だ し、 車 両 の 両 輪 の 間 隔 が 1,420mm か ら 1,580mm
であることを踏まえると、2つのステップストーン(間
隔 1,500mm)の間を通行できる車両は限定されるため、
実質的にルートは2つに絞られる。このことと、道路を
流れる排水、雨水で歩行者が濡れないように通常 400∼
600mm の間隔で設置されるステップストーンが、スタビ
Fig.10 マリーナ門
ア門近くでは 1,500mm 間隔で設置され、人間が渡れない
向通行だったことがわかる。このとき、例えばノチェラ
こと考えると、道路管理者により交通規制を目的として
門の場合、敷居がある部分の幅員は 2,300mm で最も狭
設置された可能性は高い 。
く、同時に2台通行することは難しいため、敷居の手前
具体的にステップストーン周辺での車両の動きをみて
の比較的余裕の部分で右側に寄る、あるいは待機所で留
みと、轍 A の断面からは車両の進行方向は特定できない
まり、車体同士の接触を避けたのだと考えられる。ただ
が、車両はステップストーン (S-W) を跨いでいたことは確
し、ノチェラ門外の西側の縁石には左寄りで北進した車
実である。噴水近くにある保護石 a に残る摩耗痕からも
両の摩耗痕が確認できるため、必ずしも Poehler の言うよ
車両が城門からステップストーン (S-W) を跨ぐ方向、ある
うに、右側通行という厳密な交通規制がポンペイにあっ
いはその逆に進んでいたと推測できる。轍 C と接する東
たわけではなく、あくまで対向車がある場合に右に避け
のステップストーン (S-E) には車輪の乗り上げ痕がないの
る慣習があっただけと考えられる(Fig5: E)。しかし、「メ
で、轍ができた後に置かれたと考えられる。轍 C の深さ
ルクリオ小路での進行方向の反転は、交通システムを維
から周辺に比べてそこを頻繁に車両が通行していたこと
持していた人々5) がシステムに大規模な改変を計画し、
がわかるが、それにも関わらずステップストーン (S-E) を
構築しただけでなく、それらを強制できたことを示す」と
置くことから、自由な交通を許さない意図の存在を推測
いう Poehler の主張は、スタビア門近くのステップストー
できる。
ンが置かれたことで、通行路が3つに限定されているこ
3-3 マリーナ門
とからも肯定し得るものである。
マリーナ門外の3D データ上で、門から約 10m 離れた
本研究を通し、ポンペイの交通規制の一端を明らかに
部分の敷石に3つの轍が確認できた。Fig.10の a-a の2つ
できたが、今後は得られた知見を城壁内の道路に適応し、
の轍はその位置から連続していることがわかる。3つの
都市全体の交通規制の解明を試みたい。
轍の両端をそれぞれ比較すると、いずれもマリーナ門に
[参考文献]
(1)Sumiyo TSUJIMURA, RUTS IN POMPEII, Kyoto, 1991
(2)Eric E. Poehler, The circulation of traffic in Pompeii s Regio Ⅵ : Journal of Roman
Archaeoligy volume19, Portsmouth, 2006
(3)Anna Maria Sodo, Il cisium birtus: Grete Stefani, MENANDER, 2003, Milano
(4) ラスター•ロール、馬車の歴史、東京、1991
(5) 村木正芳、図解トライボロジー : 摩擦の科学と潤滑技術、東京、2007
近い位置の縁が急勾配であり、これらの轍はマリーナ門
へ向かって車両が登っていたことのみを示していること
がわかった(モデル R)。このことは、マリーナ門だけが
[註釈]
※ 1. O.F.Robinson, ANCIENT ROME, ,London, 1992, p59-82
※ 2. 例えば昨今では Ray Laurence がポンペイの道路の実証的研究を行っており、著書
ROMAN POMPEII Space and society(London, 1994) において建築物との関係から各道
路の性質を明らかにしようと試みているが、交通の実態を伝えてくれる道路構築物の
分析は乏しい。
※ 3. もちろん他にも道路が残っている都市はある。例えばポンペイと並んで古代ロー
マの姿を如実に伝えてくれる遺跡にローマの外港都市オスティアが挙げられる。しか
し後 402 年に西ローマ帝国がラヴェンナへ遷都して以降、オスティアは衰退の一途を
たどり廃墟と化したので、道路の敷石は地中の木の根に押し上げられてしまい、当時
の道路そのままの姿とは言い難い。また、車輪が残した摩耗痕をもとに分析を行う場
合、ポンペイと比較して、縁石がない、轍の深さが浅いなどの点で証拠が得にくく分
析しにくい。
※ 4. ポンペイ、スタビア、ボスコレアーレで見つかった2つの車両と轍を参考に算出
されている。最小値はメナンドロスの家のキシウムの車輪幅から、((1.42m axle × 2)
+(1.79m axle with hubs − 1.42m axle without hubs)) = 3.21m となる。最も大きい車
両の場合は、Villa Regina の轍から ((1.58m axle × 2) +(1.95m axle with hubs − 1.58m
axle without hubs)) で 3.53m になる。この値以上の道路幅員をもつスタビア通りなど
の幹線道路とフォロ南のスクオレ通り、メルクリオ通り、ノチェラ通りのノチェラ門
からカストリコ通りまでの間で 2 台通行が可能だった。なお一台通行の場合は、両側
のハブ(地上面からの高さ 500mm)が縁石より上にあり、かつ道路幅員が車輪間隔以
上なら通行可能である 。
※ 5. 恐らく aedile と呼ばれる按擦官、あるいはⅡ viri と呼ばれる二人官
有する特徴である急な勾配と関連づけられる。実測の結
果によると、マリーナ門内部の道路の勾配は約25度で、
非常に急な坂なために門付近では車両の両面通行どころ
か、下り方向では停止することさえ難しいと考えられる。
したがって、もし車両の通行が一般的であったとしても、
登り方向のみの一方通行であったと考えることが合理的
である。
4 まとめ
都市内外を結ぶ城門では交通量は多く、常に都市へ出
入りする車両がすれ違っていた。実際、ノチェラ門、ノー
ラ門に残る轍をモデル R と照らし合わせたところ、両方
28-4
[ 図版出典 ]
Fig.1 前掲 , RUTS IN POMPEII, p64
Fig.2 前掲 , The circulation of traffic in Pompeii's Regio Ⅵ , p58
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