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第一次大戦前における ドイ ツ金融構造の 地域的性格
第一次大戦前 にお け る ドイ ツ金 融構造 の 地域 的性格 一― ヴュル テ ンベ ル ク地域 経済 を例 として 一一 三 ツ 石 有い 夫 I 問 題 の所在 産業革命 が終了 して資本 主義 が急速 に発展す る ドイツ第二帝政期 の金融構造 は,何 よ りもこの時期 に成立 したライ ヒスバ ンクとベ ル リン大銀行 によって特 徴 づ け られる。 ライ ヒスバ ンクは,世 紀半 ばに創設 されたプロイセ ン銀行 の基 礎 の うえ に1876年1月 1日 営業 を開始 し,そ れ まで の分散的 な通貨単位 ・幣制 をマル クに統 一 して紙幣発行権 を掌握 し,他 方 で各地 に支店 を設置 して全 国的 1) な振替網 を拡充 していつた。他方,ベ ル リン大銀行 は,世 紀 中 ごろの ク レデ ィ ・モ ビ リエ型銀行 の展 開 と金融市場 としてのベ ル リンの台頭,な らびに19世紀 末 以 降 にお け るルールやベ ル リンの石炭鉄鋼業,電 気 ・化学工業 の巨大企業発 展 を背景 としつつ ,証 券発行 と経常的 な資金供給 (交互計算業務)を 組 み合 わ せて特殊 ドイツ型混合銀行 として形成 されたのである。両者 はこの時期 の ドイ ツ国民経済 を金融的に統合す る機能 を果 た しつつ ,同 時 に ドイツ資本 主義 の巨 大 な発展 を金 融的 に支援す る ことになった。 この うち後者 のベ ル リン大銀行 は これ まで の研究史 におい て,第 一次大戦前 の ドイツ金融構造 における独 占的組織 として位置づ け られて きた。ベ ル リン大 銀行 は と りわけ1895年以 降,石 炭 ・鉄鋼業 と電気 ・化学工業 における資本 の集 積 ・集 中か ら成立 した産業独 占 と関連 して,金 融面 での 「中央集権的であ る と 1)Pohl, MIanfred, Festigung und Ausdehnung des deutschen Bank、 vesens zwischen ぢ Cんけ θ, Bd.2, Frankfurt am MIain 1982, S. 切体cんθβa句んθ 1870 und 1914, in:Dθ 竹9θsCん ーー 』 243-257.;居 城弘 『ドイツ金融史研究 一― ドイツ型金融 システム とライヒスバ ンク ミネルヴ ァ書房 , 2 0 0 1 年, とくに第 工編 。 86 彦 根論叢 第 3 3 1 号 同時 に地方分権的な組織網」を形成 し,産 業金融中心の 6大 銀行体制を作 り上 げたのであ り,こ のような独占的銀行組織では, 6大 銀行が銀行集中の頂点 に 位置 し,工 業 に密接 に関係 している地方銀行 は底辺 として各大銀行 の独占支配 体系 に組み入れられていたと把握 されていた告 こ うした把握 に対 して,最 近 の研究 では地方銀行 の よ り積極的な立場が強調 されてい る。た とえばライン地方 の有力銀行 のひ とつ であるベ ル ク ・マル ク銀 Markische Bank)は1870年代 か ら80年代 にか けて,第 一 に交互計 行 (Bergisch一 算業務 の育成 と拡大 を図 り,第 二 に取引範囲 を拡大す るために支店網 の地域的 拡充 を図 り,第 三 に個人銀行 を吸収す ることで顧客層 の基盤 を強化 し,そ して 第四 に資 金的基盤 強化 のため に増資 が行 って拡大 したが,顧 客層 の信用需要 の 増大 によって地方銀行 には資金的 「限界」 が生 じ,そ の解決 はベ ル リン大銀行 との連携 ,そ の証券業務 によっては じめて可 能 となった とい ず告 この研究 によれば,す でに1870∼80年代 の うち にベ ル リンに活動 の拠点 を置 くベ ル リン大銀行 と地方銀行 との間 には扱 う金融業務 に差異が生 じるようになっ て きてい た。つ ま リベ ル リン大銀行 は鉄道 に関す る債権 や公 債,外 国証券や抵 当証券 な ど主 として証券業務 を積極 的 に展 開 したのに対 して,地 方銀行 は地方 産業 との 間で交互計算業務 な どの正則業務 に活動 の重点 をお くことになってい た。 しか しその後,ベ ル リン大銀行 が産業 との結 びつ きを求めて地方進出す る ことにな り,「分化」 (分業)か ら銀行集中 による統 一化 へ とい た り,そ こにお い て 「ドイツ型銀行類型」 であ る兼営銀行制 が確 立すると捉 えられるのである。 ベ ル ク ・マル ク銀行 は1897年に ドイチ ェ ・バ ンクと利益共同体関係 を結 び,そ れ によって国際業務,コ ンソルテ ィウム,産 業大企業 の増大す る資 金需要へ の 対応 が可 能 になった。 こ う して居城氏 は,「地方銀行 の側 か らの兼営化 へ の道」 が存在 した と把握す るのであ る告 2 ) 大 野英 二 『ドイツ金融 資本成立史論』有斐 閣, 1 9 5 6 年, 5 0 ∼ 5 2 頁 3 ) 居 城弘 「ライ ン ・ウ ェス トフ ァー レンの 地方銀行 の展 開 一一 ベ ルク ・マル ク銀行 を中 一一」 『 心 に一 法経研 究』 ( 静岡大学) 第 4 4 巻第 1 号, 1 9 9 5 年, 1 4 1 ∼ 1 4 8 頁 ( 同, 前 掲書, 第 3 章, 所 収) 。 4 ) 同 上 論文, 1 3 9 , 1 4 8 , 1 6 4 頁 。 第一次大戦前におけるドイツ金融構造の地域的性格 87 兼営銀行形成 に際 してベル リン大銀行 と地方銀行 のどちらにイエシアテイヴ があるか,研 究史的に若子の相違があるとしても,い ずれにして も両 タイプの 銀行 は株式所有関係 を媒介 にしつつ利益共同体 を結成 し,系 列化 されることに よって銀行独占体制が形成 されると捉 えられてお り,そ の過程 こそが銀行集中 D と把 握 され て い る。 この銀行集 中 につい て当時 のベ ル リン大銀行 にお け る産業金融 を明 らかに し 一 たヤイデ ルス (Otto」eidelS)は 次 の よ うに指摘 して い る。第 次大戦前 にお け る銀行業 の集中過程 は資本力,地 域的分 岐,そ して営業 の多面性 の 3方 向 にお い て現 れるとされる。 この うち第二の地域的分岐 につい て,厳 密 な本店 中心制 をとっていたベル リナー ・ハ ンデルスゲゼルシャフ ト(Berliner Handelsgesellschaft) を除い て,ベ ル リン大銀行 は産業界 に根 をおろすために地方分権化 の原理 を追 一 に支店 ない し預金所 の創設 ,第 二 に個人 及 してい る。その方法 としては,第 金融業者へ の出資参与,第 三 に地方銀行 の系列化,そ して第四に特殊 な産業会 一 社 (トラス ト)の 設立 があげ られるが ,こ の うち第 次大戦前 におい て典型的 6) に用 い られた方法 は第 三の地方銀行 の系列化 であ るとす るのである。 ヤイデルスの叙述 に従 ってその理 由 を整理す る と,次 の ように考 え られる。 当時す でに地 方銀行 は,ベ ル リン大銀行 と比較 して相対 的 に,時 には絶対的 に も多数 の支店 を特定地域 に配置 して効 率的 に営業 してい た。 ところでベ ル リン 一 大銀行 が支店 を設置す る場合 には,二 つ の危険が存在 していた。それは 方 で, 「 大銀行 の支店 が本 当 に計画的,精 力的 にその地域 に取 り組 もうとす れば,そ れによつて銀行 の本店指導 か ら必然的 に 自由 になって しまうのに,支 店独 自の 一 業務遂行 か ら生 じる 切 の危険 はただちに銀行 全体 にかぶ さつて くる とい う危 支店 は本店 の指導 にきつ く従属 し,そ のために,支 店 がその 険」 と,他 方 で 「 7) 地域 の地域的な活動領域 に深 く根 をおろす 能力 が失 われるとい う危険」 が存在 5 ) 居 城, 前 掲書, と くに1 6 1 ∼1 7 3 頁。 れθ竹ぅ あ けbθs― tt β ttγrttα ttsけ tt Cγ scんθ s αθγαθ切け んあ枕物ぢ 6)」eidels, Otto, Das レ物γ ttba物んθ %αttsけ γ づ θ,Leipzig 1905,S.6567(長 坂聡訳 物づ sづ c妨を切物θ αθγ ttsθ θγθγ』θttcん Ottα Fドイ ツ大銀行 の産業支配』勤草書房,1984年 ,73-76頁 ). 7)」eidels,a.a.0。 ,S.68(邦 訳 ,77頁 )。 なお同書28頁 (邦訳 40∼41頁)に は,ベ ル ク ・マル ク銀行 に関す る居城氏 の指摘 に近 い叙述 がみ られる。 88 彦 根論叢 第 331号 してい る。 こ う して大銀行 は, 組 織 上の二律背反 のために地域拡 張 の第一 の方 法 で あ る支店設立 をあ きらめ, ま た第二の出資参与 は影響力 が小 さい こと, 第 四 の方法 は例外 的な形態 で ある ことを理由 とし, こ うしてよ り地域 に根 ざ した 地方銀行 の株式 を所有 して影響力 を獲得す る第三の系列化 の方法 を選ぶのであ る。 ベ ル リン大銀行 が この よ うに支店設置 に慎重 であ ったことは, こ の時期 の地 域経 済 が全 国的 に統合 されてお らず , 地 域経済 の独 自な構造がなお強 く維持 さ D れてい たことを象徴す る もの として考 えられる。 この ことは,そ もそ も ドイツ 資本 主義 それ 自体 が帝政期 にお い て全 国的な市場統合 を十分 には果 た してい な い ことが ,金 融構造 のあ り方 に も反映 してい る と考 えるべ きであ る。他方 ,金 融機 関内部 では,ベ ル リ ン大銀行や地方銀行 の よ うな信用銀行 だけでな く,他 に貯蓄金庫 と信用組合 ,抵 当銀行 の よ うな多様 な業態 が 区別 され,資 産 の点 で みると信用銀行 は1913年におい て全体 の24.2%を 占めてい たにす ぎなぱ告 こ うして第一次大戦前 の ドイツ金融構造 を一元的な独 占構造 によって特徴 づ け ることには慎重 なアプ ローチが必要 で あ ろ う。本稿 はこ うした基本的視座 に 立 って,ひ とまず西南 ドイツの金融構造 を地域工 業化 と地域経 済形成 の観点 か ら明 らかに しよ う とす る ものである。 それは同地域 の工業化 にお いて資金が い かに して調達 されたか とい う産業金融 の問題 と地域金融市場 ・金融機関の形成 の特徴 を比 較 と関係形成 の点 か ら問 うものである。 正 ヴ ュル テンベル クにおける産業発展 と金融業 ( 1 ) 工 業化前 の産業 と金 融 1 6 ・7 世紀 以 来 , ヴ ュル テ ンベ ル クの広 い地域 にわたって展 開 した農村家内 8)支 店銀行制 が本格的 に展 開す るのは,第 一次大戦後半期 か らイ ンフレ期 にか けてである。 これについ ては さ しあたって小 湊繁 「 相対 的安定期 にお け る ドイツの大銀行 と産業 の資本 蓄積」 (二)『社会科学研 究』第22巻第2号,1970年 ,46∼ 75頁 ;Ausschutt zur Untersuch ung der Erzeugungs― und Absatzbedingungen der deutschen Wirtschaft, Dθ γ ― Ba角んたγ θ溺う しレ移γんa物冴ι 切夕 を 句 切物α Bθttcん け θttθ s し「 物け θ?々 attsscん 切ssθ s Jttγ Cθι αぅKγcαぢ あ つθ 切ヶ み 溺F吻lca?ogttθ Sθ 物 (V.UnterausschuR), Berlin 1930, S.10-20, 参 1月 く。 9)Edwards, Jeremy and Shellagh Ogilvie, Universal banks and GerIIlan industrializa― tioni a reappraisal, ini cο j『 ttο 物づ c ttrづ sけ 。竹 υづ θ 切, XLIX, 3, 1996, p.431. グ妃θ 第一次大戦前におけるドイツ金融構造の地域的性格 89 工 業 的繊 維 製 品 生 産 は , カ ル ヴ とウ ラハ , ラ ー フ ェ ンス ブ ル クを 中心 と して問 屋 制 的 に組織 され , ドイ ツの なかで も先進 的 に展 開 して きたが , 1 8 世 紀 末 まで にそ れ らは 国際 的国内的諸 要 因 の なかで急 速 に表退 した。 これ に続 い て1 9 世紀 初頭 以 降 に 同地域 で は , 近 代 的 工 場 生 産 の 萌芽 的生成 を卒 み なが ら, 農 業 土地 所 有 の独 自な構 造 に起 因す る農 業改革 ・生 産 の停 滞 とこれ に関連 す る内部市場 の 未発 達 , 政 府 の工 業促 進 的経 済 政 策 へ の転換 の 遅 れ な どが工 業化 へ の 障害 と な り, 本 格 的 な産 業発展 が み られ るの は よ うや く世紀後半以 降 になってか らで 1 0 ) あ った。 そ う した19世紀 の経済的停滞 は金融構造 にも反映 してお り,例 えばシュモ ラー (Gustav Schmoller)は ,す でに ドイツ各地域で産業発展 が活発化 してい る1862 年 にお い て さえ,ヴ ュル テ ンベ ル クでは 「 銀行 ・手形業務 はまだ商業 ほ どには 広 く拡大 してはい ない」 と述べ てお り,こ の業種 では61年の調査 で僅 かに41経 営 ,46名 の就業者が報告 されてい るにす ぎな↓t告 1860年代 までのヴュル テ ンベ ル ク金 融業 はほ とん ど個人金融業者 によって担 われてい た。工業化 開始期 までは個人金融業者 の時代 であ った。 そのひ とつ は シュ タール ・フェーデ ラー (Stahl&Federer)商会 で,18世 紀 に設立 された当 初 は皮革取引 と運送業 に従事 し,そ れ と並 んで手形取引 も営 んで いたが,1795 年 に金 融業 を独 立 させ ることになった。証券投資 よ りは産業金融 に向か うこと が多 く,19世 紀後半 になる と銀行設立 に参加 した告 デル テ ンバ ッハ (Doertenbach)商 会 は中世以来 の間屋商人企業 で あるカル ヴ Compagnie)の系譜 を引 き,シ ュ トゥッ 薄布取引会社 (Calwer zeughandlungs― トガル トの支店 が成 長 して独 立 した。 ヴュル テ ンベ ル ク王室 との古 くか らの結 10)拙 著 Fドイッ地域経済 の史的形成』勤草書房 ,1997年 。 11)Schm01ler,Gustav,Die Resultate der Pro 3.Dezember 1861 aufgenommenen Ge― werbestatistik, ini Nttγ ttθ ttbθ竹 scんθ」aんγb,cんθγyttγυaけ θγι attα ぢ scんθCcscんあ cんけ 9づ q Cθο 体け ぢ ん切%α ttθ θ, Jg.1862, 2.Ht., 1863, S。 272-73. θ?宅 巧 pんぢ e Sけaけ pοθ物 ウ 12)Loewenstein,Arthur, Cθ s cん ぢ cんけ θ αθs物 傷γttθ t tbθ scん θ tt KTeα ぢ あ ba物ん切θ sθ ttS物物胡 轡ウ s θt t θγ B 鉾 づθん切竹θθt t β 切 万attα θι 切 初 r73α t t Sれ けθ, T d b i n g e n 1912,S.39f。 (福原 好 喜 訳 「ヴュルテ ンベルクにおける銀行 と産業一-1850年 ∼70年一一」『 金融経済』第114号,19 69年,66∼ 67頁) 90 彦 根論叢 第 331号 びつ きを利 用 して ,た とえば1846年にはエ ス リ ング ン機械 工 場 ,58年 にはエ ス 1 3 ) リンゲ ン綿紡織 工場 とビーテ イヒハ イム杭毛糸工場 の創 立 に参加 した。 もともと本店 をホーエ ンツォレル ンのヘ ヒン 宮廷 ユ ダヤ人 カウラ (Kaulla)は ゲ ンにお き,の ち シュ トゥッ トガル トに支店 を出 したが,こ れが銀行 につ なが っ た。 同家 はフラ ンクフル トの ロスチ ャイル ド(Rothschild)と 姻戚関係 にあ り, この関係 で豊富 な資 金 を利用 で きた。 これは1817年ヴュル テ ンベ ル ク王立ホフ バ ンク (HOfbank)として改組 され,1851年 シュ トウッ トガル ト精糖 工場 ,1858 年 のエス リンゲ ン綿紡織工場 な どの企業設立 に参加 した。19世紀中頃 までの ヴュ 1 4 ) ル テ ンベ ル ク経済発展 はこのホフバ ンク抜 きには語れない。 た しかに1848・49年 の革命 以 降,ヴ ュル テ ンベ ル クにお いて も銀行設立 の計 国人金融業者 の金融的支配 か ら逃れ,独 自の発 画が何度 か提 出 された。例 えばイ 券銀行 を設立するために,商 工業中央局 (Zentralstelle ttr lndustte und Handel) の シュ タイ ンバ イス (Ferdinand Steinbeis)は1852年か ら54年にか けて銀行計 画 を作成 し,そ れを総領事 のザイボル ト(Seybold)が政府 に認可 申請 してい る。 しか しこれは認可 されなか った。その理由 として考 え られる ことは第一 に,政 府 に近 い ホフバ ンクが この計画 に反対 した こと,第 二 に,政 府部内 にお け るプ ロイセ ン派 とオース トリア派 との 間 に銀行構想 で対 立が存在 してい たことであ る。前者 はプロイセ ン銀行 を前提 として,ヴ ュルテ ンベ ル クの銀行 は純粋 な信 用銀行 を構想 し,後 者 はこれに対 して発券銀行 を構想 してい たゆえに,政 府 と 1 5 ) しての統 一 的なプラ ンを作成 で きなか ったのである。 この時期 の産業資金 の源泉 としては貯蓄 と償却金 , 商 業資本 の蓄積, 外 国か らの資金流入が存在 してい たが , い ず れ も決定的なものでな く, ま た銀行 も資 1 6 ) 金供 給 者 と して は確 立 され て なか ったので あ る。 しか し1 8 6 6 年, フ ラ ンクフル 13)Loewenstein, a,a,0。 , S.40f.(チ 障訳68頁 ) 14)Klein,Ernst,Die KOniglich Wurttembergische Hofbank und ihre Bedeutung ttr die ち んγ んθγyttγ 式も_ lndustrialisierung in der ersten Halfte des 19. ahrhundert, 」 ini J叱 b,(ラ み aけ Osけ あ た, Bd。179, 1966, S.324-343. け ウ Otta/ι OんοttO竹 ぢ θ物物αSけ 15)Bergner, Mathias, Das切 傷々 あ θ竹み bθ ィク,scん θ Ba物 ん物 θsθ物.コ 物け Sけθん物物働 ム 切sba物 切物α ?物乃け οttaι θ%B9物 ん物θsθ tts bぢ SF%, St. Katharinen 1993, S. sけ 切γθι ι θγ '7あ 物αθιαθ s reOづ 24-29. 第一次大戦前におけるドイッ金融構造の地域的性格 91 卜が プロイセ ン領 になる と,シ ュ トゥッ トガル トで発行 された手形 が フラ ンク フル トで引 き受 け られない とい う事態が生 じ,ホ フバ ンクの卓越的地位 は終 わ りを告 げ ることになった。 こ う した事態 は同地へ の金融的依存状態か らの解放 を不可避 とし,早 くも1867年には新 たな銀行設立が認可 され,こ う して69年ヴュ ル テ ンベ ル ク最 初 の 株 式 銀 行 で あ る ヴ ュル テ ンベ ル ク ・フ ェ ライ ン銀 行 (wurttembergische Vereinsbank)が , 71年 にはヴュル テ ンベ ル ク独 自の発券 ー 銀行 ノ テ ンバ ンク (Wurttembergische Notenbank)が 実現す ることになると (2)小 営業 と資金問題 領邦政府が直接 間接 に関 わる比較的大規模 な産業経営 の資金 需要が ,以 上の よ うに個人銀行 とホフバ ンクによって充足 されたのに対 して,19世 紀 中 ごろか ら中小営業者層 の 間では信用不足感が高 まってい た。 この こ とは世紀後半 か ら しだい に始 まる この地域 の工 業化 に伴 って信用需要が高 まってい たことと,旧 来 の金融機関が これに対応 しなかったことによると この 要求 に応 えたのが ,シ ュル ッ ェ =デ ー リ ッチ ュ (Wilhelm Schulze一 Delitzsch)の 協 同組合 で あ った。1855年にシュル ッェが シュ トゥッ トガル トで 講演 を行 う と,運 帯責任 と団体財産形成 の協 同組合原則 に基 づい た 「 手工 業銀 行 (Handwerkerbank)」が翌56年3月3日 にシュ トゥッ トガル トに設立 されるこ とにな った。 この種 の銀行 はの ち58年にハ ル,60年 に ビーティヒハ ィム とラー フェ ンス ブル クに設立 され,さ らに62年の営業条例 (Gewerbeordnung)によっ て営業 の 自由が導入 される と本格的 に普及す ることにな った。1863年には最大 の協 同組合銀行であるウルム営業銀行が設立 され,67年 までにヴュル テ ンベ ル 16)Winkel, Harald, Kapitalquellen und lndustrialisierungsprozeS,in:Otto Borst(Hr 「cOθ づ % αづ θNe材 , Stuttgart 1989, S.109-128. 17)Loewenstein, S。 36f.(邦 訳 ,64頁 );BOelcke,Willl A.,フ レ Zγけ scん頓 sgttCん'Cん あ θ』aαθ % Nもγ け け θttbθ θ 物 妃σ切形物 bづ sんθ切け θ, Stuttgart 1987, S.300. tts υοtt α 18)す で に触 れた個 人金融 業者 とホ フバ ンク以外 に問題 となる金 融機 関 は貯蓄金庫 で ある。 貯 蓄金庫 はヴュル テ ンベ ル クにお い て1920年代 か ら本格 的 に成立 し,当 初 は対人信用 に も 与信業務 を広 げて い たので あるが ,19世 紀半 ば まで には リス ク管理 のため に小 営業 に対す る与信 は大幅 に縮小 して い た。 これ につい ては,拙 稿 「 第 一次大戦前 の ドイッ金 融構造 に お ける貯 蓄金庫 の構造転換 一― 社会政策手段 か ら 「 経済主体」 ヘ ーー 」 『 彦根論叢』第3 26号,2000年 ,61∼ 81頁を参照 された い。 92 彦 根論叢 第 331号 1 9 ) ク領内で61の組合銀行 が設立 される ことになった。 1865年10月1日に営業 を開始 したエ ー ビンゲ ン営業銀行 (Gewerbebank Ebing一 en)もそ う した組合銀行 の一 つ で あ った。 この ときの組合員 は44名にす ぎない が ,そ の職業別内訳 をみる と,フ ァブ リカン ト(Fabrikant)と 商 人 (Kaufmann) が各 5名 で最 も多 く,さ らに皮 なめ し工が 3名 ,印 刷 工 と旋盤工 ,毛 皮工が各 2名 ,他 はそれ以外 の多様 な職種 の手工業者 が 1名 ずつ である。ただ し,職 種 に続 けて 「ファブ リカン ト」 を名乗 る者 が さらに 3名 い る。 したが って旧来 の 手工 業者 か ら小 ファブ リカ ン トにい たる工 業化 の時期 の幅広 い営業者層 が ここ に参加 してい た と考 え られる。営業者 以外 では州議会議員 ,市 官吏,郵 便局長 2 0 ) が各 1名 で あ る。 この銀行 の当初 の経営資金 につい て詳細 はわか らないが ,設 立 された1865年末 に経営資金 は15,268マル クであ り,組 合員数 も143名に増加 してい る。最初 か ら交 互計算業務 が行 われ,貸 付 金利 は5%と 手数料 が 手 %, 預金金利 は3%で ,66年 1月か らは組合入会金が30クロイツァー (Kreuzer)と 決 め られた。エ ー ビンゲ ン営業銀行 は何度 かの経営的 な危機 を乗 り越 え,全 体 と して順 調 な発展 を遂 げ,1904年 には組合員数 1,285名,経 営 自己資本854,926マ ル クにまで増加 して,継 続的 に5.5%か ら6.5%の 配当 を生み出 していた。 この 営業銀行 による資金供給 は19世紀後半 か ら20世紀初頭 にお け るこの地域 の農村 2 1 ) 立 地型 産業発展 に重 要 な役 割 を呆 た した。 1 9 0 7 年にお い て ヴ ュル テ ンベ ル クで は 9 組 合 が 1 , 0 0 0 人以上 の 組合 員 を擁 し て い る。 それ は規模 の大 きい順 にウルム, ズ ルツ, フ ロイデ ンシュ タ ッ ト, エ ー ビング ン, ハ ル , ハ イ ル ブ ロ ン, ガ イ ル ドル フ, ビーベ ラ ッハ , そ して カル ヴ 2 2 ) である。 これ らの立 地 を見 るとシュ トゥッ トガル トが含 まれてお らず , 概 して 農村都市 に信用組合 が広 が っていた とい える。そ もそ も信用組合 は規模 が小 さ 19)Kaulla Rudolf,Dウ あ物 20)Dθ θ Ottα 句 づs a けづοt t αθs β a 句 ん切 θs θ9 o S ぢ 物 ぢんγθγ θ θsCん ウCん あι づcん θ物 」 0物 け2/Sι cttι切 物 9, Stuttgart 1908, S。 物 んscん タセル β切 物 ″釣 あん 物 gθ tt tん しbあ胸 切 物 kれ を 紹 あc ん ル タ物 物 死 けθ物 めθ町 31f. dθ γ Cθ ttθ γbθ ba物 ん ど bう%gθ 牝 ゴゴ.Sマ pけ θ%レbθ γ ゴ 8 6 5 -9ゴ 0 5 , o . 0 . , o.,,」S , 1 l f . 21)拙 著,第 4章を参照 されたい。 22)Gemming,Alfred,Das万 gart 1911, S,40。 働物αttθ ?化θttCθ%ossθttSCん̀汐Sttθ Sこ れ ぢ %ル タ物々け θttbθ轡 ,Stutt― 印卜︲︲︱︲︲︱︱︱ 第一次大戦前におけるドイツ金融構造の地域的性格 93 く,融 資先 が小 営業者 であ る ことによって,常 に危険 を伴 ってい た。 もともと 存在 してい たシュ トウッ トガル トの二 つ の信用組合,「庶民銀行 (Volksbank)」 と 「 手工業銀行」 は不用意 に営業範囲 を広 げて1882年破産 し,無 限責任 をもつ 組合員 は出資金 と預金 を失 って,小 営業 は危機 にさらされたので ある。結局両 行 は,シ ユ トゥッ トガル トの諸銀行 に よって救済 されて資本金80万マル クの として株式会社 「シュ トゥッ トガル ト営業金庫 (Stuttgarter Gewerbekasse)」 に改組 された。信用組合 は以後何度 かの危機 を繰 り返 しなが ら,信 用銀行 との 取引が ない小営業者 ・手工 業 のための金融機関 として継続 したのであ ったが , そのための条件 は第一 に, リス ク回避 のために組合 の法的形態 を整備 し,場 合 によっては株式会社化す ること,第 二 に個別分散 的 な組合 の 間 に中央金庫 を設 置 して,組 合 の ネ ッ トワー クを形成す る ことであ つた。前者 につい ては1889年 5月 1日 ,シ ュル ツ ェ 自身 の提 案 に よる 「営 業 ・経 済組合 に関す る帝 国法」 (Reichsgesetz betreffend die Erwerbs― und Wirtschaftsgenossenschaften) が成立 し,後 者 については1898年ヴュルテ ンベルク協同組合中央金庫Zentralkasse ウルムに設立 されたのである。 wurttembergischer Genossenschaft eGttbH.が この時期 に成立 した各地の中央金庫 はその後,全 国的な統一 を目指す ことになつ 2 3 ) た。 ( 3 ) 繊 維工 業 と産業金融 1 8 8 0 年代 か ら現 れて くる 「ネ ッカー中流域」 工業地域 の産業企業 は, 上 に見 た よ うに一方 におい て旧型産業が近代 的な大経営 に転換す るとともに, 他 方 で 手工 業的経営 か ら上昇 して きたそ これ ら産業経営 は資金問題 をいかに して解決 し, こ れに対応す る金融機 関 はいかに形成 されたのだろ うか。 これに関す る資 料 は非常 に制約 されてい るが , こ こではひ とまず ヴュルテ ンベ ル クの主要産業 で あ る繊維産業 につい て, 企 業 9 社 と銀行 の関係 を事例 的に明 らかにした コル 2 5 ) マ ー ル (G.Kollmer)の 研 究 に依拠 しなが ら検 討 してみ た い 。 23)Kaulla, a.a.0., S,34-36.; 2 4 ) 拙 著, 第 6 章を参照 されたい。 25)Kollmer, Gerd, Zur Rolle der Banken in der wurttembergischen Textilindustrie in der Zeit des Deutschen Kaiserreichs,lni Zθ θ9物めθ任ル scん θ Lattα θs―/ うな cんγセル ル γ 切 枕死 け 94 彦 根論叢 第 331号 コルマ ー ル が 事例 と して取 り上 げ た繊 維企 業 とは,マ ー ケ ル ・キ ー ン リ ン社 在 地 エ ス リ ンゲ ン),バ ル フ ・ゼ ー ネ社 (Baruch&S併 (Merkel&Kienlin,所 hne,ヴ ァル トゼ ー/ヘ ヒンゲ ン),ヴ イルヘ ルム ・ベ ンガー ・ゼ ー ネ社 (Wilhelm Benger S6hne,シ Hartmann,ハ ュ トゥ ッ トガ ル ト),パ ウル ・ハ ル トマ ン株 式 会 社 (Paul イデ ンハ イ ム), ト マス ・シ ョイ フ ェ レン社 (Thomas Scheuffel― en,ゲ ッピンゲ ン),ヴ ュルテ ンベ ル ク ・キャリコ製造株式会社 仰Vurttembergische Cattun Manufaktur Aktiengesellschaft,ハ イデ ンハ イ ム),ヴ ュル テ ンベ ル ク 綿 紡 織 株 式 会 社 (Wurttembergische Baumwollspinnerei und Weberei A k t i e n g e s e l l s c h,aエ 丘 ス リ ンゲ ン) , ウ ー イ ンゲ ン漂 白捺 染 仕 上 業株 式 会社 (Bleicherei一 , Farberei一 und Appreturanstalt Uhingen Aktiengesellschaft, シ ュ ト ゥ ッ ト ガ ル ト),コ ル プ ・シ ュ ー レ 株 式 会 社 (Kolb&Schule, Aktiengesellscha北 ,キ ル ヒハ イ ム)の 9社 で あ る。 これ らの事例 は工 場 の 立 地 と企 業 家 の 出 自,製 品 の種 類 ,そ して企 業形態 (資本 会社 と個 人会社 )の 点 で 多様 で あ る。 これ らの企 業 の投 資 活動 と資 金調達 (内部 金 融 ・外 部 金 融)の 関 係 を調 べ るため に,資 本構 成 と利益 動 向,外 部資 金 の構 成 と投 資動 向 が 分析 さ れ る こ とにな る。 コ ルマ ー ル は ,内 部 金 融 (Innenfinanzierung)の 場 合 を 自己 償 却留保 (Finanzierung durch Abschreibung)の 資 金 (Selbstfinanzierung)と 方 場合 を 自己調達 (Eige面nanzierung, 法 に,ま た外 部 金融 (Auneninanzieurng)の 出資 ,関 与 な い し合 併 ,株 式増 資)と外 部 調 達 (Fremdnnanzierung,短 期 ・中 期 ・長期信 用 )の 方法 に 区別 した うえで ,各 企 業 の各項 目 につ い て検 討 して い 2 6 ) くことになる。 コルマ ール によれば, ま ず上記企 業 の投資活動 は1 8 7 0 年代 までは政 治的社会 的事件 とはほ とん ど無関係 に, 時 期 と規模 におい て不規則 に行 われてい たが , 同年代末 に大 きな転換 が生 じ, 以 後帝政期末 までほ とん ど継続的 に多額 の投資 が続 くことになった。 この よ うな投資動 向 に影響 を与 えた もっとも重 要 な要因 として, 利 潤動向があ げ られてい る。それは, 利 潤 が減少 した り, ま た損失 が \geschichte, 47.」 g., 1988, S.399-456. 26)Kollmer,a.a.0。,S.401-403. 一 騨 P 卜 ︲ ︲ ︲ ︲ ︲ ︲ ︱ ︱︲︱ ︱ ︱ 第一次大戦前におけるドイツ金融構造の地域的性格 95 出た りす るときに,こ うした状況から脱するために投資が活発 になるとい うの である。そ してその利潤 についても,い わば特定繊維部門ない し特定企業が繊 維産業全体 の景気 をリー ドす ることになって,対 象 9社 において,利 潤額 に違 2 7 ) い はあ って も変動傾 向 はほ とんど一致 してい る とい う。 ー 次 に 自己資本 の動向であるが, マ ーケル ・キー ンリン社 , バ ルフ ・ゼ ネ社 , ヴィルヘ ルム ・ベ ンガー ・ゼ ー ネ社 の よ うな個人会社 では利潤 の増加 に合 わせ て 自己資本 を増加 させ てお り, そ の際当然 なが ら外部資金 はほ とんど導入 され てない。他方 でヴュル テ ンベ ルク ・キャリコ製造株式会社, ヴ ュル テ ンベ ル ク ー 綿紡織株式会社, ウ ー イ ンゲ ン漂 白捺染仕 上げ業株式会社, コ ルプ ・シュ レ 株式会社 の よ うな資本会社 では, 前 2 社 がそれぞれ 2 回 と 1 回 増資 してい るだ ー けで, 後 2 社 の 自己資本 は不変 である。 この理由 として, コ ルマ ルは, 資 本 会社 は利潤 の うちで きるだ け多 くを配当 にまわす こと, 資 本市場 での調達 は1 9 世紀 では コス ト増 につ なが る こと, そ して株価 の現状 を維持す るために増資 な 2 8 ) どの不安定要因 をあえて作 ろ う としない ことをあげてい る。 次 に短期 ・中長期 をあわせ た外部資金 の動向が考察 される。 これについ て 9 社 の動向 は一様 でないが , しか し個人会社 も資本会社 も1890年ごろか ら負債残 一 高 を次第 に増加 させ ,特 にそれは1910年か らさらに増加する。 般的 に中長期 の外部資金 は設備投資 のため に調達 され,ま た短期資金 は交互計算 ・引受手形 信用 のかたちで生産 ・流通過程途 上 に利用 される。対象企業では設備投資が拡 大す る時期 に長期外部資金 も増加 してい るが ,さ らに中長期信用 が生産 。流通 過程 のために利用 された り,ま た反対 に短期信用 が設備投資初期 に増加 してい る。設備投資向け外部資金調達方法 には,個 人会社 では新 たな資産家 を共同経 営者 に迎 えた り,銀 行信用 を受 けた りす る可能性 があったが,こ れ らは実際 に はほ とんど行 われず に,た い てい親戚 ・知人 か ら融資 して もらう方法 が一般的 で あ った。資本会社 では,信 用全体 にお け る中長期信用 の割合 をみると,た と えば シ ョイフェレン社 ではゼ ロであ った り,ま た他 の企業 で も5%,25%,32 A.a.0., S.403-406. A.a.0., S.407-410. ■ F 96 彦 根論叢 第 331号 %で あ った。 こ う して投資資 金 は非常 に多 くの部分 が ,利 潤 または減価償却 の ための留保 の方法,資 本会社 の場合 は補足的 に株式増資 の方法 か らなる 自己調 達 によってい た。残 りの外部資金 の 出所 は銀行 以外 の領域 に由来す る。個人会 社 ではお もに親戚 ・知人 であ り,資 本会社 では社債 が多 いが ,そ の場合 で も銀 2 9 ) 行 は単 なる仲介役 にす ぎず ,銀 行信用 は 5社 全体 で11.3%に とどまってい る。 コルマ ールは以上 の分析 か ら産業 と銀行 との 間の信用 関係 について,長 期貸 付業務や交互計算信用 が限定的 にのみ展 開 したにす ぎず ,と くに19世紀末 まで 30) につい て銀行 は僅 かに資本市場へ の伸介役 を果 た したにす ぎない と結論す る。 皿 地 方銀行 の営業基盤―― フェライン銀行 を中心 に一― 銀行業 の発展 は産業発展 との関係 におい て展 開 した と考 えるならば,こ れ ま で産業 の賃金需要 の展 開 をみて きたに対 して,今 度 はそれに対応す る銀行 の展 開そ れ 自体 が 問題 となる。 そ こで ここでは ヴュルテ ンベ ル ク銀行業 にお け る集 中過程 の主役 で ある フェライン銀行 につい て,そ の産業金融 に関 わる営業活動 を明 らかに してお きたい。 ヴ ュル テ ンベ ル ク ・フェライ ン銀行 は1869年2月 8日 , ミュ ラー (Gustav Muller)の指導 の も とに設 立総 会 が 開かれ,500万 グルデ ン.の資本 金 は 5回 に わたって100万グルデ ンず つ募集 され,同 年 3月 6日 営業開始 を公 示 した。 開 業 か ら最初 の10ヶ月で早 くも431の口座がヴュルテ ンベ ル クの企 業 と個人 によっ て 開設 され ,ま た この 間 シ ュ トウッ トガル トの個 人銀行 ベ ネデ ィク ト(Gebr. Benedict)の 清算 に伴 って大半 の顧客 を引 き継 ぐと,フ ェ ライ ン銀行 は商工 業 3 1 ) のための銀行 として本格的 に業務 を開始 した。 まず第 1表 はフェ ライ ン銀行 の粗利益 の構成 を同行設立時か ら1910年までの 時期 につい て 5年 ごとに示 した もので あ る。 ここか ら同行 が設立直後 か ら粗利 29)A.a.O.,S.411418. 30)A.a.0.,S.418-420. 31)Dケ θ ,7物究け σttbθク 物竹づ 物sba句ん ぢ 物 Sけ 切あ リ体cんσ 予 りaγ渉ゴ869 Fttθ, Stuttgart(o。」.), S. 12.;Pohl, MIanfred,』 attθ tt N転句け ?ヮ体cんθβa物ん。θscんづ θttbθ cttθ , Stuttgart 1992, S.80. 脚ト ー 第一次大戦前における ドイツ金融構造の地域的性格 97 益 を大 幅 に伸 ば し, 1 8 8 0 年 代 と9 0 年代 の 一 時 的停 滞 の後 , 世 紀転換後 には再 び 利益 を伸 ば してい ることがわかる。 この粗利益 の うちで最 も大 きな割合 を占め てい るのは利子 (この場合 は交互計算業務 にお け る利 さや)収 入 であ り,そ れ は当初 の 3割 前後 の水準 か ら,1873年 の設立恐慌後 の 5割 以上 の例外 的水準 を 別 とす れば,お よそ第一次大戦 までに 4割 前後へ と増加傾 向 にある とい える。 他方 ,証 券収入 は設 立直後 お よび1880年の高水準 と恐慌直後 の低水準 との間 を 乱高下 しなが ら,世 紀転換後 は しだい に 1割 前後へ と収束 してい る。その他 , 手形収入 は 1割 前後 か ら2割 前後へ と全体 として増加傾向 にあ り,ま た手数料 収入 はだい たい 2割 前後 で安定 してい る。以上か ら,フ ェライ ン銀行 が設立後 か ら第一次大戦 まで に,営 業活動 の重点 を証券業務 か ら交互計算業務 と正則業 務 に移行 させ てい る と言 える。 第 1表 第 一次大戦前 にお けるフェライ ン銀行 の利益構成 粗利益 ( 千マルク) 年 1869 構 手形 手数料 12.5 25,2 利子 成 (%) 証券 クー ポ ン コ ンソル テ ィウ ム 抵当 1870 1875 1,571 1880 1,745 1885 23.0 55。1 1,678 2,462 2,318 2,493 1905 2,767 4,378 tts,S.224 け け浄 勉あ け ba物ん切θ sθ 仇け θttθ s Nttγ 出典 :Loewenstein,Gθ s挽ぢ 実際, 証 券市場 の中心 は帝政期 の うちにフランクフル トからベル リンヘ移動 した。かつて ヨーロッパ に君臨 していた 「ロスチャイル ド・コンソルティウム」 は株式銀行 によって解体 され, 1 8 6 6 年からはベル リンのデイスコン トゲゼルシャ ー ドされた 「プロイセン ・ フ トとブライ ヒレー ダー ( B l e i c h r b d e rよってリ )に 98 彦 根論叢 第 3 3 1 号 コンソルテ ィウム」 が台頭 したのであ る。 さらに1 8 7 5 年か らは ドイチ ェ ・バ ン クが これに参加 し, 以 後第一次大戦 まで両行 が コ ンソル テ ィウムの主導権 をめ ぐる確執 を続 け る ことになるのであるが, 1 8 9 5 年 か らはベ ル リン大銀行 が ドイ ツ全体 に関 わるベ ル リン市場 を支配 してい た。1 8 6 0 年に最初 は綿花取引所 とし て設立 されたシュ トゥッ トガル ト取引所 は, 翌 年証券取引 も開始 したのである が , 帝 政期 を通 じてお もにヴュル テ ンベ ル ク公社債 を扱 う専門市場 として特化 してお り, そ の証券取扱額 は1 9 1 0 / 1 3 年にお い てベ ル リン取引所 の それ のわず 3 2 ) か1.5%に す ぎなか った。 ヴュル テ ンベ ル ク ・フェライン銀行 が 関 わつた証券業務 (設立 ・増資 ・社債 発行)は 1895年か ら1913年までの19年間で44件あ る。業種 としては繊維工業 と 機械 ・金属加工 業 (エス リンゲ ン機械 工場 ,ダ イム ラー ・モ ー ター会社 ,ヴ ュ ル テ ンベ ル ク金属製品工場 な ど)が 各 8件 で最 も多 く,次 いで鉄道建設 と金融 業 が 6件 ,さ らに建設 (5件 )・ 化学 (すべ てBASFで 4件 ),食 料 (3件 ) な どが続 くことになる。 これ とは別 にヴュル テ ンベ ル ク公 債 は同期 間 に16回発 行 され,ま たシュ トゥッ トガル ト市債 が 6回 ,フ ロイデ ンシュ タッ トとロイ ト 3 3 ) リゲ ン,エ ス リンゲ ンの市債が各 1回 発行 されている。 これらの意義 を即断は できないが,左 記第 1表 と考 え合 わせると必ず しも重要 とはいえない し,民 間 3 4 ) 証券 だ け を見 るな ら,さ らにその意義 は下 が るだろ う。 これに対 して交互計算業務 は意義 を増 してい た。 この信用 はさまざまな形態 で利用 された。第一 に現 金で の引 き出 し。第二 にライ ヒスバ ンクを通 じた振 替 で,こ れは賃金支払 に利用 された。第三は輸入等 に際 して外国銀行 に対 して負 っ た債務 の支払 に関す る帳簿取引 。 そ して第四 の形態 は引受手形 (Akzept)と呼 ばれる銀行 向け手形振 出で,こ れは世紀転換期頃か ら急速 に普及 して きた もの である。 いず れに して も,こ の信用 は商品流通 に関 わる決済,賃 金支払 ,そ し 32)Pohl, a.a.0,, S,154.;G6mmel,Rainer, Entstehung und Entwicklung der Effekten― bbrse im 19.」 ahrhundert bis 1914, ini Hans Pohl(Hrsg.), Dθ 切け scん θ 』0俗 θ%9θ SCん あ― cんけ θ, Frankfurt am ttlain 1992, S.189f. 33)Die Wurttembergische Vereinsbank, a.a.0., S.66-69. 3 4 ) レ ー ヴ ェ ンシュ タイ ンはそ もそ もヴ ュル テ ンベ ル クでは株式会社 が少 な く, こ れに関連 して社 債 の発行 も少 ない と述 べ て い る。L o w e n s t e i n , a , a , 0 . , S . 1 9 7 f . 第一次大戦前におけるドイッ金融構造の地域的性格 99 て配当支払 の ため に,さ らに設備投 資用 の資金 として幅広 く利用 されたのであ る。ただ し,必 ず しも産業 の側が常 に銀行 か ら信用 を受 けるのではな く, しば しば産業が信用供与者 となって, したがって相互補完的 に作用 したのであ った告 IV 地 域銀行業の集 中過程 とベ ル リン大銀行 フェ ライ ン銀行 は1869年の設立当初 か ら集 中運動 の 中心 に位置 した。71年に は ロイ トリンゲ ン個人銀行 を吸収 して これを支店 と し,ま たウルム とラー フェ ンス ブル クの会社 出資参与 を引 き受 けた。設立恐慌 が始 ま り ,最 初 の競争相手 シュ トゥッ トガル ト銀行 (Stuttgarter Bank)が 1873年に支払不能 に陥 る とこれ を買収 し,こ うして設立後10年の うちに同行 は20以上の個人会社 を吸収するか , 出資参与 で引 き受 けて顧客 を拡大 したのであ った4 この ような フェ ライ ン銀行 の拡大過程 の なかで と くに重要なのは ,1881年 に 個 人金融 業 か ら株式銀行 に改組 した ヴ ュル テ ンベ ル ク ・ア ンシュ タル ト銀行 (Wurttembergische Bankanstalt vOrm.Pnaum&co.)と の利益共 同体協 定 (Interessengemeinscha■ )であ る。 同行 は1855年に設立 されたプフラ ウム個 人 銀行 (Elias Pflaum)を 前身 と して,早 くも1866年にはグルムシュ タッ ト銀行 か ら出資参与 を受 けてい たが ,設 立恐慌 を経 て再度資本強化 の ためのパ ー トナー を探 していたので ある。 そ して1881年に資本金 600万 マル クの株式会社 に改組 す るととも,こ の ときフェ ライ ン銀行が株 式 の 4割 を,ま たグルムシュ タッ ト 銀行 も継続 して 2割 の株式 を引 き受 けたのであ り,こ れ と同時 に上記 の協定 も 成立 したのである。 この協定 は独立 した指導部 を持 つ二 つ の銀行が 3対 1の 分 配計画 に したが って利益 と損失 を分 け合 うものであ り,19世 紀末以降 ドイツ銀 行史 にお いて本格化す る利益共同体協定 の晴矢 をなす ものである告 20世紀 に入 るとフェ ライ ン銀行 は1880・90年代 の不拡張政策 を転換 して,積 35)Loewenstein, a.a,0., S.199-202. 36)Loewenstein, a.a.0., S。 182f.;POhl, a.a.0., S.109. 37)Loewenstein, a.a.0., S.183f.;Riesser, 」 acob, Dづ θ αθ物なcん∽ C?(ァ ba物んθ物 物物α ぢん 任 7【 bl嫉 ンθ物 けγα けぢ0物 づ竹 み Zttsa物 竹レ θ物 ん aη 9 9物 づけ α θγ ゴ 物 け初 づcん ι切 物 θ を ?9 Dθ 切おcんι a物が, 」 ena 1910, S.505. ;Berger, at a.0。 32f, , S。 び θγ Cθ sの 物 け切 ぢγな cん 切 戸 100 彦 根論叢 第 3 3 1 号 極 的 に他行 を吸収 す る政 策 を とる こ とに なる。1906年には ヴ ュル テ ンベ ル ク王 立 ホ フバ ン ク,1909年 にはデル テ ンバ ッハ 銀行 をグ ル ー プに加 えた こ とをは じ め ,1906年 か ら1924年に最終 的 に ドイ ツ銀行 に吸収 され る こ とになる まで に, 4カ 年 を除 い て毎年個 人銀行 を計 28行吸収 して い くこ とになった告 第 2表 ヴ ュル テ ンベ ル クの信用銀行 (1909年) (百万 マル ク) 費 フェライ ン銀行 目 ア ンシュ タル ト 銀行 ラ ンデス銀行 株 式 資 本 準 備 シュ ター ル ・ フェ ー デ ラ ー 25 6。 金 交互計算貸付 45。 3 13.80 15.70 14.00 11,60 24.10 38.80 益 52.2 産 105.5 資 販 士 冗 交互計算預金 2403 18。 2 1467 出典 :Mathias Berger,Das Nもγ ttθ ttbttυ ぢ scん θBa物乃 切θ sθ %,1993,S.36. 第一次大戦前 にフェ ライ ン銀行 に対抗 していたのは,中 小 の個人銀行 を別 と す れば ヴ ュル テ ンベ ル ク ・ラ ンデス銀行 (Wurttembergische Landesbank)と シュ タール ・フェーデラーだ けであ った。 これ ら4行 (3グ ルー プ)は 顧客獲 ` 得 をめ くって激 しい競争 を展 開 した。その方法 は第一 に手数料 と利子率引下げ で あ り,第 二 に個人銀行 などに参加 した り支店 を設置 して新 たな顧客 を獲得す るのである。前者の方法 はランデス銀行が,ま た第二の方法 はシュタール ・フェー デラーが主 にとった方法 で あ り,同 行 はフェライ ン銀行 と同様 にヴュルテ ンベ ル ク地域全体 に合併 や参与 によって支店網 を築 いてい た。1909年にお け る各行 の営業規模 は第 2表 に示 される通 りであ る。それによれば,フ ェ ライ ン銀行 は 資本 金 と準備 の規模 ,さ らにそれに照応 して交互計算業務 ,資 産 で も圧倒 的な 地位 を築 い てい るのがわかる。次 に位置す るのは同行 と利益共同体協定 を結 ん で い るア ンシュ タル ト銀行 で あ り,ラ ンデス銀行 とシュ タール ・フェーデラー はかな り小規模 で あ るか ら,同 表 か らフェライ ン銀行 グルー プが ヴュルテ ンベ 第一次大戦前におけるドイツ金融構造の地域的性格 101 ル クにお い ていか に大 きな割合 を占めてい るかがわかる。 この よ うな集 中傾 向へ の要因 は, ドイツの他 の地域 と同様 に,ま ず第一 に設 立恐慌 に代表 される景気変動 (後退 )に よる資本力 の弱 い銀行 の洵汰があげ ら れる。 しか し そ れ以上 に重 要 な ことと して,第 二 に工 業化 の進展 に伴 う産業 企 業 の側 か ら増大す る資本需要 の要求 に対 して,資 本力 の弱体 な銀行 では応 え きれない とい うことであ る。 ヴュルテ ンベ ル クでは1880年代 には明確 に工業化 へ のス ター トを切 る ことになるのであるが ,銀 行 と工業 の関係 は ヴュルテ ンベ ル クにお いて もまず交互計算業務 を基礎 としてい る。 ここにおい て中小銀行 の 資本 基盤 では工業化 の信用業務 に対応 で きないのである。 さらに第三 に ドイツ にお け る証券取引 の 中心地 で あ るベ ル リン取引所へ の参加 の問題 がある。そ も そ も地方銀行 はここに参加 で きなか ったので あるが ,ベ ル リン大銀行 との利益 共同体 を結成す ることによつては じめて参加 で きるようになった。 こ うして地 域内部での大銀行優位 ,ベ ル リン大銀行 と地方銀行 との 間での前者 の優位 とい 3 9 ) う構造 が 出来 上が ったので ある。 この よ うな大銀行優位 の条件 は外 国業務 にお い てはさらに明確 になる。ヴュ ル テ ンベ ル クの工 業製品 は多 くの割合 で域外 を販路 としてお り,こ れに関 わる 引受手形 と為替手形 の業務 を円滑 に行 うには大 きな資本力 と高 い信用力 が不可 欠 で あ り,そ の点 で何 と言 つて も大銀行 が競争力 を持 っているのであ る。その 典型的 な例 は1888年にお け る トル コ ・アナ トリア鉄道である。 フェライ ン銀行 取締役 の カウラはマ ウザ ー (Mauser)社の武器 トル コ輸 出業務 に関 わつて トル コ政府 と接触 を持 ち,そ こで彼 は,ア ナ トリア鉄道建設 を ドイッの金融 グルー プに委任 したい 旨持 ちかけ られたのである。 この事業 は しか しフェ ライ ン銀行 には大 きす ぎたため に,同 行頭取 シユ タイナ ー (Kllian Steiner)と 親交 の ある ドイチ ェ ・バ ンクのジー メ ンス (Siemens)に話 を持 ちかけ, ドイチ ェ ・バ ンク は トル コ政府 との交渉の末,結 局 これは両銀行 とフラ ンクフル トの ドイツ ・フェ 4 0 ) ラ イ ン 銀 行 に よ っ て 進 め られ る こ と に な っ た の で あ る 。 39)Pohl, 酌I., a.a.0., S.105. 40)Gall, Lother, Die Deutsche Bank von ihrer Grundung bis zum Ersten Weltkrieg l F995, Mmnchen 1995, S,72-74. θD鈎 け scんθβ筋 ゴ ど郷― 870-1914, ini Ders. et. al.,Dあ 」 102 彦 根論叢 第 331号 したが って ヴ ュル テ ンベ ル ク内部 での 集 中過程 は,同 時 に ドイツ内部 での そ れ と並 行 して い た といい うる。 ラ ンデ ス銀行 は, も ともと個 人銀行 デ ル テ ンバ ッ ハ が ゼ ル ゲ ル ・パ リジ ウス ・ドイ ツ組 合銀行 (Deutsche Genossenscha■sbank von Soergel Parrisius&Co.),フ ラ ン クフル トの個 人銀行 と協 力 して1899年 に設 立 した比 較 的新 しい銀行 で あ った。 この 関係 で1904年組合銀行 が ドレス ナ ー 銀行 に よつて吸収 され る と,同 時 に 同行 は ドレス ナ ー銀行 の 影響 下 に入 り,の ち1910年同行 の全 資 産 が ドレス ナ ー銀行 に譲渡 されてそ の 支店 とな り,こ れ に 4 1 ) よってヴュル テ ンベ ル クで最初 のベ ル リン大銀行 の支店 が誕生 した。 デ ィス コ ン ト ・ゲゼルシ ャフ トは,1906年 シュ タール ・フェーデラーが株式 会社 に改組す る際 に出資 し,ヴ ュル テ ンベ ル クに地歩 を得 てい た。 またフェ ラ イ ン銀行 はもともと1871年の ドイチ ェ ・バ ンク創立 に参加 してお り,こ れによっ て最初 か ら両行 の 間 に対等 な提携 関係 が存在 したが ,こ れはベ ル リン大銀行 と 地方銀行 の関係 の持 ち方 としては異質 であ った。 フェ ライ ン銀行 は確 かに ドイ チ ェ ・バ ンクグル ー プの公 式 の構成員 で,証 券発行 に際 しては コ ンソルテ ィウ 第 3表 ヴ ュル テ ンベ ル クにおける株式銀行 の分布 (1914年) 株式銀行名 本店所在地 支店数 ヴ ュル テ ンベ ル ク ・ア シュ トゥッ ト ンシュ タル ト銀行 ガル ト 0 シュ ター ル ・フェー デ シュ トゥッ ト ガル ト ラー銀行 3 エス リンゲ ン株式銀行 エ ス リ ンゲ ン 0 ハ イルブ ロン営業金庫 ハ イル ブ ロ ン 0 ベ ル リン 質金取扱所努 ウルム , テ ュ ー ビ ンゲ ン, ロ イ トリ ンゲ ン, ゲ ッピンゲ ン, ハ イル ブ ロ ン ヴュルテンベルク ・フェ シュ トゥッ ト ガル ト ライ ン銀行 ドレス ナ ー銀行 支店所在地 矛ュー ビンゲ ン, ロ イ トリン ダン, ハ イルブロン 同所在地 シュ トゥッ ト ガル ト 1 シュ トゥッ ト ガル ト 0 シュ トゥッ トガル ト, ウ ルム, ハ イル ブ ロ ン シュ トゥッ ト ガル ト 物 陶 句け θ ttbθ scん θβa物均 θ scん づ Cんけ θ,Stuttgart 1992,S。 1 43f. 出典 :Manfred Pohl,βaαθ 町ガ か ら作成 。 第一次大戦前における ドイツ金融構造の地域的性格 103 ム に参 加 した ので あ るが ,両 銀行 は株 式 を相 互 に保有 した り,監 査役 を派遣 し 4 2 ) た りす る ことは な く,む しろ対等 な位 置 で 関係 を保持 していた。 以上の よ うな帝政期 にお け る集 中過程 の結果,ヴ ユル テ ンベ ル クにおける第 一次大戦直前 の株式銀行分布 は第 3表 の ようであ った。 ここか らもわかるよ う に,フ ェ ライ ン銀行 は支配的 な地位 を占めてお り,こ れにデ イス コ ン トゲゼル シャフ ト系 のシュ タール ・フェーデラーが対抗 してい る。エ ス リンゲ ン株式銀 行 はこの時点 で後者 の支店 となってい るか ら,対 抗 関係 はよ り激 しい もの とい える。ア ンシュタル ト銀行 はフェ ライ ン銀行 と共同体契約 を してい るか ら,す で に地方銀行 は 2行 に集 中 してい る とい える。 また,す でに ドレス ナー銀行 が ヴュル テ ンベ ルク内部 に 3支 店 を設置 してい る ことは注意すべ き点である。 こ う してヴュル テ ンベ ルク域 内で集 中過程 は進行 したが ,こ の ことは統 一 的 一 な ドイツ金融市場 が同時 に形成 された ことを意味 しなか った。 その理 由の第 は,上 述 の よ うにベ ル リン大銀行 が支店 を設置す る ことは20世紀初頭 までなお 一般的 でなか ったことで あ る。第二 にはア ンシュ タル ト銀行 の行動 があげ られ る。 同銀行 はフェ ライ ン銀行 との利益共同体協定 の後,交 互計算業務 と発行業 務 の二面 にわた つて順調 に発展 を続 け るのであるが ,そ の場合,一 方 で グルム シュタット銀行 グループの一員 として,他 方で ドイチ ェ ・バ ンクグループのフェ ライ ン銀行 を域内パ ー トナ ー として使 い分 けなが ら存続す るのである。 また, これまで見 て きた ように,ヴ ュル テ ンベ ル クの銀行 はベ ル リン大銀行 に象徴 さ れる 「 特殊 ドイツ型混合銀行」 の縮小 された形態 と位置づ け ることはで きない。 そ う した意味 で ,第 一次大戦前 の ヴュルテ ンベ ル ク地域金融構造 はなお 自立的 性格 を保持 してい た と言 い うるだろ う。 V 第 一次大戦前 における金融構造の地域的性格一― 結び にかえて一― コルマ ールが ヴュル テ ンベ ル クの繊維企 業 を例 に して検証 した産業 と銀行 と の 関係 に 関す る消極 的 な評価 は ,同 時代 の レー ヴ ェ ンシュ タイ ン (Arthur Loewenstein)の研 究 にお い て もみ られた。す なわち,ヴ ュル テ ンベ ル クの後 104 彦 根論叢 第 331号 発的な工業発展 とあ ま り資本 と必要 としない 中小規模 の企 業優位 ,大 規模株式 会社 の欠如 が この地域 の銀行制度 と産業金融 を特徴 づ け る と述べ られてい ると まさにヴュルテ ンベ ル ク地域経済 の構造的特質 は金融面 におい て も貫 かれてい るとい えよ う。 この ことは,ヤ イデルスが指摘 した 「 地域原理」 が第一次大戦前 のベ ル リン 大銀行 の営業政策 におい てなぜ 考慮 され ざるを得 なか ったか を説明す る もので あ る。 もっ ともヴュル テ ンベ ル クを説明す るだけで, ドイツのすべ ての地域 に 「 地域原理」が貫徹 してい たを述べ る ことは早計 であ ろ う。最初 に示 した よう に,居 城氏 によればライ ン地域 の地方銀行 は産業 との密接 な関係 を強化す るな かでベ ル リン大銀行 に接近 してい くこ とになるか らで あ る。 この ようなライ ン ヴェス トファー レンの地方銀行業 の性格 は明 らかにヴュルテ ンベ ル クのそれ と 異 なっている。 したが って地方銀行 の性格 の共通性 をここか ら導 き出す こ とは で きない。 しか し他面 で,ラ イ ンヴェス トファー レンの銀行 が この地方 の産業 発展 と密接 に関連 しなが ら展 開 した ことは,ヴ ュル テ ンベ ル クにお け る銀行 と 産業 との関係 と同様 なのである。つ ま リライ ンにおい て もヴュル テ ンベ ル クに お い て も地 方銀行 が地域経済 の発展過程 に強 く関連 しなが ら業務 を展 開 したの である。そ こにヤイデルスが指摘 した,ベ ル リン大銀行 にとっての 「 地域原理」 が存在 しうる現実的根拠があ った とい えるであろ 守告 この よ うな金融構造 の地域的性格 は第一次大戦直前 の時期 には変化 の兆 しを 示 してい た。 それ は前節 で指摘 したよ うに,ベ ル リン大銀行 による地方銀行支 配 の手段 が従来 の系列化 か ら新 たに合併 による支店化へ と移行 しつつ あ ったか らで あ る。 こ うした傾 向 はヴュルテ ンベ ル クにお い てだけでな く ドイツ全 国 に お い て確認 される ことで あ り,そ の転換 の要因 は1907年恐慌後 の金融 関係諸立 法 とライヒスバ ンクの銀行統制政策 にある とい えると この一連 の金融政策 の転 43)Loewenstein, a.a.0。 , S.204f, 44)こ こに述 べ たのは,な お仮説 にす ぎない。居城氏 も指摘す るよ うに,地 方銀行 の性格 は, さらに他 の地域経済 と地方銀行 の 関係 を問 う作業 の積 み重ねのなかで 明確 になって くるだ ろ う。 45)藤 瀬浩司 「 第 一次大戦前夜 の ライ ヒスバ ンク と銀行統制」 同、 吉 岡昭彦編 F国際金本位 と 制 中央銀行 政策 』名古屋大学 出版会、1987年,171∼ 213頁。 買ドーーーーーーーーーーーーーーーー 第一次大戦前におけるドイツ金融構造の地域的性格 105 換 に よって第 一次大戦直前 の銀行 業 は,一 方 でベ ル リ ン大銀行 を頂点 とした コー ポ ラテ イヴな体 制 を形成 しつつ あ ったので あ るが ,他 方 で金 融構 造 の 地域 的階 層 的性 格 が 解 消 の 方 向へ 向 か う こ とにな り,そ れ は第 一 次大 戦 とイ ンフ レのの ち の銀行 業 に対 して大 きな転換 を迫 る こ とに な ったので あ った。 これ らの 問題 領 域 につ い て は稿 を改 め て検 討 す る こ とと した い 。 [附記] 本稿は,平 成10∼12年度日本学術振興会科学研究費補助金 (基盤研究 (c)(2))に よる成果 一 の 部である。