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「壬申の乱」はこうして起きた

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「壬申の乱」はこうして起きた
古代にもあった関ヶ原の戦い
「壬申の乱」
はこうして起きた
(第4完結編)
《大海人陣営側は、大海人皇子を正当な皇位継承者と
が 生きていたならば 、世の中の空 気を読んで戦 争と
して大海人大王と呼んだ。以降大海人側の人物の会
いう最 悪の手 段は採らなかったに違いない。
話は、大海人大王と書くこととする。
しかし、近江の大友
大 友 皇 子 はまだ 若 い 。焦らなくとも天 皇になる機
陣営側の人物にとっては、
それは認めることができない
会 は 後 々十 分 あったは ず 。ここで 戦って 大 友 皇 子
ことであるため大海人皇子と呼んでいた。》
を死なせ てしまえば 、天 智 天 皇 の 思 惑 が す べ て 水
おお きみ
の 泡になってしまうことが 、
どうして側 近は見 通 せな
序章
かったの か 。側 近 は 軍 師( 注 6 )の 役 割 であり、イエス
おお ともの み
こ
てん
じ
マンでは天 皇の亡き後を託 せない。例え先 帝の「 戦
てん のう
壬 申の 乱 で 大 友 皇 子( 天 智 天 皇 の 長 子・ )の
い の 指 示 」や 、遺 言 が あったとしても、そ の 時 々の
最 大 の 悲 劇は、中 臣 鎌 足
情 勢を見 極 め、自らの 判 断で戦 いを回 避 することを
なか とみの かま たり
注1
の 死 後 、彼 のような優
(注2)
秀な軍 師を抜 擢しなかった 父 親 、天 智 天 皇
に
(注3)
選 択 する決 断 力を持ち、先 帝のやりたいことの真 髄
原 因 がある。当 時 、倭 国 の 皇 位 継 承 権 の 慣 例 では、
を理 解 できる者 でなくてはならない 。あえて 先 帝 の
現 天 皇 の 兄 弟 が 長 男より優 先されていた 。従って 、
指 示に従わない 勇 気を持ち合わ せていなければな
大 海 人 皇 子( 天 智 天 皇 の 実 弟 )
が 次 期 天 皇に
らない。指 示 待ち人 間 やイエスマンでは軍 師は務ま
なれば 万 事 円 満に治まり「 壬申の 乱 」などは勃 発し
らない 。中 国 の 三 国 志 時 代 の 蜀 の 王 、劉 備 に 仕え
なかったは ずである。各 地 の 有 力 豪 族も大 海 人 皇
た諸 葛 孔 明を思い出してほしいものである。
子 が 即 位 するものと思って い たにち が いない 。当
天 智 天 皇 の 男 子 の 実 子 は 一 人しかいない 。ここ
時 はまだ 大 和 朝 廷 の 全 国 の 豪 族 に 対 する支 配 力
は何 があっても大 友 皇 子を死なせてはならなかった。
も弱く、分 権 連 合 国 家 の 様 相 が 色 濃く残っていた 。
ここに近 江 朝の軍 師 不 在という弱 点の所 以 がある。
おお
あまの
み
こ
(注4)
しょ かつ こう めい
ゆえん
した がって 、主 従 関 係 の 弱 い 各 地 の 王 にとっては 、
̶「 賢人は不忠に似、大奸は忠に似る」という言葉
子 が 、天 皇になるための 布 石として 何 の 相 談もなく
がある。人はうわべだけで見てはならないという戒めだ。
勝 手に太 政 大 臣( 注 5 )に任 命されたこと自体 が 不 満
この原典は中国の『宋史呂誨伝』にある。
「大姦は忠に
であった 。
似、大詐は信に似る」である。過去において中国や朝
それに中 央 集 権 化しようと試 みた 天 智 天 皇(もと
鮮で滅びた王は、
この言葉のように国事より遊興を好
の 中 大 兄 皇 子 )の 志 はよい が 、協 力した 豪 族 たち
み、
これを戒めない側近を重用している。滅亡した国に
側 からしてみ れ ば 白 村 江 の 戦 いで 戦 費を費し、戦
は自らの本性を隠し、王に国事を顧みさせなくしてしまう
いによって 人 材を失った 豪 族 に 対して 朝 廷 からの
側近(大奸)
が必ず存在している。歴史は繰り返すので
補 填 が 何もなく、す べ て 協 力した 地 方 豪 族 の自己
ある。
だ じょう だい じん
はく すき の え
負担にさせられたこと等々に数々の不 満を募らせて
いた 。
「 壬申の 乱 」が 起きた 時 期に、
もし、中 臣 鎌 足
55
だい かん
実 の 息 子 で あっても皇 位 継 承 権 すらない 大 友 皇
いまし
そう
し
りょ かい でん
だい かん
たい さ
いまし
てん
む
てん のう
後に、天 武 天 皇( 大 海 人 皇 子 )を継 いだのは、第
おお つの み
こ
一皇位継承権のある大津皇子
おお
図1
天皇家系図
たの ひめ みこ
(天智天皇の長女大田皇女
婚姻
の 長 男 )でも第 二 皇 位 継 承
くさかべの
み
こ
あやこのいらつめ
宅子娘
天智天皇︵中大兄皇子︶
おおと ものみこ
大友皇子
︵皇位継承権無︶
おおたのひめみこ
大田皇女
︵長女︶
大津皇子
え い れ ば 、即 位 す る 可 能 性
さららのひめみこ
このとき大 友 皇 子 が 生きてさ
讃良皇女
とう てん のう
が 持 統 天 皇として 即 位した 。
︵第一皇位継承権︶
たけるのみこ
とい ち の み こ
天 皇 の 皇 后 である讃 良 皇 女
︵次女、後の持統天皇︶
建皇子︵夭逝︶
十市皇女
した がって 、や むなく天 武
たけちのみこ
えておくべきであった。
高市皇子
ような事 態になる可 能 性を考
︵皇位継承権無︶
結 果 論 かもしれない が 、この
と う ちのいらつめ
第 1 編を見ていただきたい 。)
兄
兄弟
遠智娘
係 の 系 図 は 2 0 1 3 年 7 月刊 の
天武天皇︵大海人皇子︶
天 皇 家 親 族 の 複 雑な相 関 関
ぬかたおう
んでいたのである。
(この時の
額田王
なかった 。二 人ともす でに 死
弟
む なかたのきみのあまこのいらつめ
さらら
の次 女 讃 良 皇 女の長 男)でも
宗像君尼子娘
権をもつ草 壁 皇 子( 天 智 天 皇
じ
肉親
は十 分にあった。讃 良 皇 女の
かつらぎおう
野王
である。残 念ながらその 草 壁
お おつの み こ
ろう
陥 れ る 策 略 を 弄して い た の
おおは く のひ めみこ
ある大 津 皇 子を反 逆 の 罪 に
大伯皇女
す べく、第 一 皇 位 継 承 権 の
く さ かべの み こ
皇 女 は 、草 壁 皇 子 を 天 皇 に
草壁皇子
︵第二皇位継承権︶
実 子 は 草 壁 皇 子 の み 。讃 良
皇 子 が 天 皇 になる前 に 病 気
で 死 ん でしまったことは 、讃
良 皇 女 にとって 大 変 な 誤 算
であったにちがいない。
そ のとき、母 違 い の 兄 弟 である大 友 皇 子を彼 女
極 的 だった 大 友 皇 子を無 理 やり担ぎ 出し「 壬 申の
が 天 皇に推 挙 す れば 、当 時 、天 皇 家 の 武 力に敵う
乱 」で 死なせてしまった 。天 智 天 皇 の 思 惑もこれで
有 力豪 族はすでに存 在しなかったので、慣 例には反
万 事 休 す である。側 近 は 云 わ れるがままに 忠 実 に
するが 大 友 皇 子を天 武 天 皇の 養 子とし、彼 女 が そ
実 行していればよいというものではなく、自らも考え
の 後 盾となれば 、豪 族 たちは 大 友 皇 子 が 即 位 する
ていなければ 務まらない( 現 代 でもイエスマンの 方
ことを承 諾しただろうと推 察 する。
が 責 任を取らなくて 済 む )。また 、大 友 皇 子 は 天 皇
けれども結 果としては 、当 時 の 側 近 は 戦 いに 消
になれなくとも「 駄目で元々」なのである。
かな
56
古代にもあった関ヶ原の戦い
「壬申の乱」
はこうして起きた
(第4完結編)
だい かん
̶ まるで 晩 年 の 太 閤 秀 吉をみているか のようだ 。
忠 に 似 。大 奸( 家 康 )は 忠 に 似 たり」を実 行したの
秀 吉 は 黒 田 官 兵 衛 が あまりにも 優 秀 な 軍 略 家 で
である。家 康 は 教 養 において農 民 上がりの 秀 吉 に
あったため、彼が 家 康に近 づくことを恐れていた。近
比 べ 、学 問 には秀でていたため、この 兵 法を十 分 に
づけば 豊 臣 家 にとって 将 来 災 いになるかも知 れな
心 得ていたであろう。自らはあくまで豊 臣 家を立てる
いと危 険 視していた。それをいち早く悟った官 兵 衛
ふりをして 、裏 で は 有 力 大 名 と 縁 戚 関 係を 結 び 、
は、自らの身の 危 険と黒 田 家を守るため、若くして家
着 々と自らの 存 在 感を大きくし 親 密 な 大 名 の 数を
督を実 子 の 長 政に譲り自らは隠 居してしまった ( 黒
拡 大させていった。そして大 坂 城 西 の 丸に入って国
田 如 水 )。もう諫 言する者は誰もいなくなった。それ
政を掌 握した。これに対し石 田 三 成が 反 旗を翻した
からというもの 秀 吉 は 権 力におぼれだし、賢 人がど
のである。
んどん 離 れていった 。後 は 皆 様ご 存 知 の 通り豊 臣
当 時 、淀 君 は 豊 臣 家 の 存 続より自らの自 尊 心を
家 滅 亡という悲 劇となった。
重んじ、華々しくいさぎよい死を選んだ。
しかし華々し
秀 頼 はまさしく両 親 が 生 み 出した 悲 劇を自 身 に
くいさぎよい 死に様など在り得ない 。それは単なる自
受けてしまったのである。家 康はこの 軍 師 不 在 の 豊
己 満 足に過ぎない。実に愚かとしか言う他はない。
臣 家 の 弱 点を、
うまく捉え立ち 回った 。
「 賢 人は不
前田利家の妻、
「 まつ 」は自らの 自 尊 心を棄 て 、
ひい
かん げん
とら
お家 のため人 質として家 康 に従った。
壬申の乱 両陣営と主な戦場
図2
いしずえ
その おかげ で 前 田 百 万 石 の 礎 が で
越前
戦場
大友皇子側
大海人皇子側
若狭湾
き、前 田 家 は 明 治まで大 大 名として
存 続したのである。
そ
美濃
若狭
野上行宮
琵
息長横河
極 めるだけ の 能 力と見 識 が あ れ ば 、
とこ や ま
烏籠山
近江
難波
大阪湾
河内
恵我河
莿萩野
乃楽山
下つ道
高安城
中つ道
上つ道
当麻
飛鳥古京
(飛鳥浄御原宮)
甘羅
大海人皇子
ないと思うと、実 に 残 念 の 一 言 に 尽
後どういう権 力 構 図になるかの 見 通
しができなければならない。
前 号( 第 3 編 / 2 0 1 4 年 1 月刊 )で
親 類 や 身 内 が 実 子 にとって 一 番 危
ゆ え ん
伊賀郡家
名張
険な存 在になると書 いた 所 以 はここ
にある。
莵田
莵田吾城
吉野宮
大和
積殖山口
神戸
伊 勢 湾
山背
鹿深山
鈴鹿郡家
瀬田 栗太
莵道
摂津
三重郡家
川曲
時 代 の 流 れは変わっていたかもしれ
きる。
トップに 立 つ 者 は 、自分 の 亡き
朝明郡家
鈴鹿関
山前
安川
倉歴
大津宮
尾張
桑名郡家
鈴鹿峠
大友皇子
57
一 旦 総 退 陣をして 時 代 の 行 方を見
安八磨評
湖
丹波
え
が 、左 大 臣という地 位 に 固 執 せ ず 、
不破郡家
不破関
琶
三尾
が の あか
大 友 皇 子 の 側 近 である蘇 我 赤 兄
伊勢
対 立 する両 派 に 担 が れ 、最 期 は
死 か 放 逐 の 運 命 が 待 って いる。結
果 は 良きにつけ 悪しきにつけ 、親 の
責 任である。
蘇 我 氏 の 親 類 縁 者 たちの 泥 沼 の 権 力 闘 争を思
しかし、ここに誤 算 があった。吹 負はこのように言
い 返してほしいものである。権 力とは 、そ れ ほど 魅
い放った。
「 皆 の 者 、近 江 軍 の 大 将は大 野 果 安と壱 岐 韓 国で
力 的なものなのであろうか?
み
わの
たけち
ま
ろ
天 智 天 皇 にだけ 従 順 である愚 かな当 時 の 重 臣
ある。我 が 左 翼 部 隊 長 の 三 輪 高 市 麻 呂 将 軍( 注 1 0 )
たちは、天 智 天 皇 の 本 来 の 意 図を汲 み 取る能 力と
は近 江 軍の大 将である大 野と壱 岐の顔を知っている
見 識 がなく、単 純に扱 いや す い 一 人 息 子 の 若 い 大
(三輪は敵将二人と近江朝内で面識があった)。
この
友 皇 子を、次 期 天 皇にして自らの権 力を守るために、
戦は短期決戦でしか勝てないだろう。
国 情など 考 慮 せ ず 私 利 私 欲 で 動 いたのである。ま
よって2百 の 騎 馬 隊は、雑 魚 の 兵には決して取り
さに「 本 性を隠した 大 奸 」である。大 友 皇 子 にとっ
合わ ず 、三 輪 将 軍の後を一 糸 乱れ ず 敵 大 将目がけ
ては、大 海 人 皇 子は妻である十 市 皇 女 の 実 父であ
て突き進め!機 動 力を活 か すのだ。わしは、お前たち
り自分 の 伯 父にあたる。大 友 皇 子にとってはこんな
が 追 い 込んできた 大 将を歩 兵 3 百 で当 麻 の 湿 地に
悲しい 戦 いを戦う気にはまったくならなかったし、天
追い込み殲 滅するつもりだ。
よいか、長 期 戦になれば
皇 になる気もなかった 。中 臣 鎌 足 が 生きてい れ ば 。
敵 のほうが 有 利になってしまう。狙うは 大 将 のみぞ!
例え天 智 天 皇 の 指 図 であっても、こんな 愚 かな 戦
わかったか」
いは 必 ず 避 けたであろう。どうしても戦 いをする事
情 があるとす れば 、天 智 天 皇 の 存 命 中に仕 掛 けな
ざ
こ
とう
ま
せん めつ
「 おお∼ 」
兵たちの士 気 があがった。
「 三 輪 高 市 麻 呂 頼んだぞ 」
ければならない。
高 市 麻 呂は、
〈大和戦線の戦い〉
おお ともの ふ け い
「 大 伴の武 力のおそろしさを見 せ 付けてくれるわ」
大 海 人 大 王 軍 第 三 軍を任され た 大 伴 吹 負
とう
おお
ま
の
はた やす
(注7)
い
き
おたけ
と雄 叫びを上 げ 、清 滝 街 道を進 軍してくる近 江 軍に
は 、当 麻 の 戦 い で 近 江 軍 の 大 野 果 安( 注 8 )と壱 岐
対して 左 翼 に 馬を走らせ た 。そ の 後を騎 馬 部 隊2
韓国
百 が 続いた。続いて吹 負は、
から くに
に大 敗 北を喫した。そもそも大 伴 氏は古 来
(注9)
より物 部 氏と同じく朝 廷 の 警 護 を 担 当し 、武 力 で
「よし、我々は清 滝 街 道 の 右 翼に移 動 する。大 将 の
もって朝 廷に仕える家 柄であり、戦 闘 能 力は優 れて
傍 には 必 ず 軍 旗 持ちが いる。わしが 指 示 するから
いた 。なぜこのような大 敗 北を喫したの か 。原 因 は
雑 魚 は 相 手にせ ず 大 将 だけを狙え。仕 留 めた 者に
吹 負の驕りである。
は地 位も褒 美も存 分に取らせるぞ 」 おご
吹 負側の兵 力 5 百に対して、近 江 軍はその6 倍の
兵 力を投 入していた。多 勢に無 勢 、いくら大 伴 の 兵
しかし、第3編( 2 0 1 4 年 1 月刊 )で 書 い たように 、
が 強 いからといっても勝てる道 理 がなく無 茶である。
近 江 軍も飛 鳥 に 貯 蔵してある武 器 、弾 薬 、兵 糧 米
吹 負は 功を焦り、勝 利 の 一 番 乗りを大 海 人 大 王 に
を取り戻 す べく精 鋭 部 隊を送り込んできていた 。吹
見 せ たかったのであろう。戦 後 の 朝 廷 での 大 伴 氏
負の 思 惑 以 上 の 速さで、近 江 軍に吹 負 軍 の 背 後と
の 地 位を有 利にしたいがためである。この 焦りの 結
真 横を突 かれ 、逆に大 敗 北を喫してしまった 。吹 負
果 、相 手 の 力 量を見 定 めることなく力 攻 めをしたの
自 身 が 戦 場 から 離 脱 す るの が 精 一 杯 の 有 様 で
である。これ がまさに 裏目にでた 。吹 負は 大 将さえ
あった。
射 止 めれば 、相 手 が 多 勢でも指 揮 系 統 が 混 乱し暴
近江軍側からみれば、天智天皇が対外戦争のため
走 すると読んでいた。
備蓄していた武器、弾薬、兵糧米の奪還こそ重要と考
つわもの
58
古代にもあった関ヶ原の戦い
「壬申の乱」
はこうして起きた
(第4完結編)
えての精鋭部隊の出動であったはず。
よって、
このまま
態を挽 回 せ ねば 大 海 人 大 王に処 断されることは 間
進軍し飛鳥を奪還すべきであった。
しかし、肝心の現場
違 いない 。吹 負は自らが 招 いた 失 態を挽 回 す べく
の将軍がこの任務の重要性を理解しておらず、軍の損
焦っていた 。本 来 、彼 は 第 二 軍 の 到 着を待 つ べき
傷を恐れた結果、大伴の家来荒田赤麻呂にまんまと欺
であった 。この 大 和 戦 線 の 後 半 戦 の 大 逆 転 は 、前
かれて退却してしまったではないか。たいへんな失態で
号 の 第 3 編( 2 0 1 4 年 1月刊 )に書 いたのでお読 みい
ある。
どのようにして欺いたのかは、第3編(2014年1月
ただきたい。
あざむ
刊)
に詳しく書いた。読みなおしていただきたい。
近江戦線の大進軍
この時 点で武 器・弾 薬・兵 糧 米を大 海 人 大 王 軍が
手に入れたことは、勝利が確定したも同然である。
なぜ
〈安川畔の戦い〉
たけ ちの
こ
大 海 人 大 王 軍の主 力部 隊は、高 市 皇 子( 注 1 1 )全 軍
簡単にはそれらを調達できる訳がない。
よって近江軍
総 司 令 官のもとに、ちょうど 安 川( 現 在の野 洲 川 )あ
は長期戦に備えられず、攻撃力の弱体化は免れない。
たりを進 軍していた。
一 方 、吹 負は 第 二 軍 が 伊 賀 、名 張を進 軍してい
古 代 の 安 川 は、今より2キロほど 南を流 れていた 。
るはずであるので、救 援を求 めるべく必 死で馬を走
玉 倉 部 の 戦 い・息 長 横 河 の 戦 い( 犬 上 川 畔 の 戦
らせ た 。飛 鳥を占 領され 、武 器・弾 薬・兵 糧 米 が 近
い)
・鳥 籠 山 の 戦 いと順 調に近 江 軍を打ち破ってじ
江 軍 の 手 に 落 ちれ ば 、この 後 の 大 海 人 大 王 軍 全
りじりと近 江 朝のある大 津に近 づいていた。
軍 の 作 戦 全 般 に 関 わってくる。なんとしてもこの 失
大 和 戦 線も第 二 軍 の 救 援 軍 の 到 着 で 勝 利した
図3
たま くら
べ
と
ながの
こ
よこ がわ
やま
大和戦線陣形図
大和戦線
近江軍
大伴吹負軍
至京都
(清滝街道)
至京都
山岳地帯
突く
真横を
突く
を
横
真
湿地帯
三輪高市麻呂騎馬隊︵200︶
ススキの生い茂る
湿地帯
大伴吹負軍︵300︶
至飛鳥
59
み
なら、武器・弾薬・兵糧米が不足すれば、当時としては
至飛鳥
ひ より
み
との連 絡を受けていた。日和 見で戦 況を傍 観してい
ございましょう。
た 各 地 の 豪 族も、戦 後 の自らのお 家 存 続 のため 大
とかく役 人 は、一 人 ではなにもできない 輩 。できる
海 人 大 王 軍 に 馳 せ 参じてきていた 。呆 れるほど 要
者 に 嫉 妬し、出る杭を打とうとする傾 向 にあります 。
領のよい連 中である。
すでに大 半 の 文 官は義を棄て近 江 朝に見 切りをつ
村 国 男依 大 将 軍は、
け、近 江を脱出しているそうでございます 。近 江 朝が
むら くにの お よ り
「 高 市 皇 子 様 、近 江 軍 は 弱 すぎます な 。これ で は 、
しっ
やから
と
危ないと思えば 、冠 位 の 力など 何 の 役にもたたぬと
箸を折るようなものです 」
わかる役 人には、
もうこちらに情 報 提 供して擦り寄っ
しかし、高 市 皇 子 総 司 令 官は険しい顔をして、
て来ておる者もおります 。女々しい 輩ですなぁ。あぁ。
「 男 依よ。油 断 は 禁 物じゃ。利 で 動くものは す べ て
これは 関 係 のない 話をいたしましてす みません。司
利 で 裏 切る。
しかし、恩 義 でもって近 江 軍に味 方し
いぬ かい むらじ
ている者は、けっして裏 切らぬ 。敵 の 大 将 は 犬 養 連
い
そ
きみ
五十君
やから
である。この 男 変った輩で、近 江 朝でも
(注12)
身の 程をわきまえぬ 奴と役 人どもから嫌われていた。
ざん げん
め
め
令 官!」
「ところで 男 依 、五 十 君という将 軍 。彼 は 国 随 一 の
軍 略 家だ。こころしてかかれ 」
「 高 市 皇 子のご 忠 告 、この男依 、肝に命じました」
そして 、いろいろな 讒 言 が 天 智 天 皇 に 届 けられ た
が 、それでも天 智 天 皇 は 犬 養 五 十 君を可 愛 がって
敵 は 安 川 の 対 岸に横に陣を張っている。敵 兵 力
おられた。なぜだと思うか、男依?」
はおよそ 1 万 5 千 。我 が 方は3 万 。兵 の 数 から言えば
男依は、
勝 てる勝 負である。しかし、戦 場 ではなにが 起こる
「さぁ∼???????」
かわ からないとするの が 歴 戦 の 武 将 の 心 得 である。
「 五 十 君 は 、純 粋 で自 分 自身 に 正 直 な 男 だ 。奸 人
男 依はさっそく軍 議を開 いた。敵は川 べりに布 陣
( 役 人 の 一 部 )は 天 智 天 皇 の 顔 色を窺って 発 言を
している。
うかが
コロコロ変える。冠 位 の 上 下( 肩 書き)の みで 人 に
「 斥 候( 忍 者 のごとく様 子 や 情 報を探る役目の 者 )
対 する態 度を変える人 種 である。天 皇 は 仙 人 では
の 報 告に拠りますと、酒 が 振 舞われている( 実 は 水
ない 。いろいろな立 場 の 人 間 の 意 見を聞き、最 終 判
であった 。五 十 君 は 兵に酔って浮 かれているフリを
断は天 皇自らが 下してはじめて国は成り立 つ。役 人
させていた。斥 候 の 動きもすでに読まれていたので
が 嫌う人 物こそが 重 要なのだ。
ある。)そうであります 」
舟も一 方 からの 風 では 対 岸に押しやられて進 め
「 何!この 男 依をたわけにしおって!明日は目にものを
ぬではないか。多 方 面からの風をうまく操れないと天
見 せてくれるわ。見ておれ 」
皇という職は務まらぬとよくおっしゃっておられた。五
男依はこの時 点でもう感 情 的になっていて、敵 が
十 君は一 匹 狼である。役 人に媚を売らず 、出 世など
冷 静に仕 組んだワナにはまっていたのである。他 の
自己 満 足にすぎぬと一 蹴する人 物であった。
まさにこ
将 軍たちも心に油 断を宿していた。
こび
しゅう
ういう非 常 時にこそ一 番 頼りになる男とわしは思う」
じょう せき
まさに戦 国 時 代 の 秀 吉 の 軍 師 、竹 中 半 兵 衛( 注 1 3 )の
男 依 大 将 軍は、まず 定 石 通り早 朝に騎 馬 隊で中
ような人 物である。男依の顔 色 が 変わった。
央 突 破し敵を分 断 する。敵 がちりぢりになったところ
「 高 市 総 司 令 官 有 難うござ いました。この 安 川の 戦
に騎 馬 隊 が 引き返して 来 て 歩 兵 隊と挟 み 撃ちをし
いで 近 江 朝 が その 五 十 君を大 将として 起 用してき
て叩き潰 す 作 戦を選 択した。
たのは 、大 友 皇 子も彼 の 実 力を認 めている証しで
しかし、男 依 の 不 安 は 夜 から霧 がど んど ん 濃く
60
古代にもあった関ヶ原の戦い
「壬申の乱」
はこうして起きた
(第4完結編)
なってきたことである。霧 が 濃くなると敵 、味 方 が 容
戦 法である。まんまと引っか かったと気 付 いたときに
易に 見 分 けられ ず 、機 動 力 が 武 器 の 大 海 人 軍 騎
は、すでに敵 陣 中に深 入りしすぎていた。
馬 隊も早く走 れ ず 、本 領 発 揮 ができないからである。
男 依 が すぐさま反 転して 攻 撃を命じて 引き返え
結 果 、天は五 十 君に味 方した。
そうと思ったときには、3 万の自軍は敵に完 全に包 囲
残 念ながら朝 方になっても濃い霧は晴れなかった。
されていたのである。この 濃 い 霧 のために潜んでい
昨 夜より一 層 濃くなり視 界を遮っていた 。微 かに敵
た 近 江 軍 の 横を通りすぎてしまってい た の である。
のたいまつが 昨日と同じような布 陣とみえたので、男
まんまと誘きだされてしまった。
依 大 将 軍 自身 が 騎 馬 隊 の 先 頭 に 立って 予 定 通り
この 機を逃さず 近 江 軍 の 大 将 、犬 養 将 軍は四 方
対 岸 の 近 江 軍に向 かって川を密 かに渡り攻 撃を開
八 方 からの矢の攻 撃を命じた。男依は、
かす
おび
はか
「しまった。計られた!」
始 するつもりでいる。その前に、
「 皆の者よく聴け。今 回の敵は近 江 朝の精 鋭 部 隊で
来 た 方 向さえ判らぬ ほど の 濃 い 霧 である。男 依 は
ある。大 将 は 軍 略 でもこの 国 随 一 の 犬 養 五 十 君 将
全 滅も覚 悟 せざるを得ない 状 況 に 陥った 。大 海 人
軍である。これまでの戦いで諸 君らはよく働いてくれ
大 王 軍は、敵の3 6 0 度 全 方 向 からの攻 撃を受け、こ
た。
しかし、今 度の敵はすこしば かり手ごわいと思う。
ちらは敵 の 姿 が 見えずどこから矢 が 飛んでくるかも
今 回 の 我らの 作 戦 は、敵 の中 央を突 破し敵 部 隊 の
掴 め ず 、大 混 乱となり逃 げ 出 すものが 続 出した 。周
分 断を計り、その 混 乱したところに騎 馬 隊 が 反 転し
りの 死 傷 者 は みな 赤 のタスキをした 味 方 ば かりで
て前 後 から攻 撃を加え壊 滅に追 い 込む作 戦である。
あった 。四 方 八 方 から矢 が 飛んでくるので、濃 い 霧
この 濃 い 霧 の中 、赤 いタスキが 味 方 の目印となるで
の中 、ば たば たと倒 れてゆくのは 味 方 ば かりであっ
あろう。こころして攻 撃してほしい。
た。まさに地 獄の修 羅 場と化していた。
高 市 総 司 令 官 の 指 揮 下 の 5 千 は申 訳 御 座 いま
高 市 総 司 令 官の「 油 断 するな!」の言 葉 が 脳 裏を
せんが 待 機をお願い申し上 げます 」
か すめた。自分 の 無 力 からおきた大 失 態である。男
つか
「よしわかった。
じっくり戦 ぶりを見 せてもらおう」
依はこの 濃 い 霧 の中で死を覚 悟し必 死で戦ったが 、
と高 市 皇 子は同 意した。
四 方 八 方 から飛 んでくる矢 の 雨 、退 却 方 向さえわ
からず 、男 依自身も腕と足 に 矢 がささっており、
もう
〈安川の開戦〉
ほぼ 力 尽きようとしていた。
そのときである。神 の 降 臨 のごとく高 市 皇 子 軍 が 、
を渡りだした。
敵の囲みの一 画を突き崩 すように出 現したのである。
しかし、意 に 反して 対 岸 に 渡りきる前 から、敵 は
「 男 依!こちら方 へ 退 却 だ 。総 退 却 のドラを鳴らせ 。
どんどん攻 撃してくるかと思 いきや 少々の 小 競り合
退 却 せよ。無 駄 死にするな!」
いぐらいで奥 へ 奥 へ 退 却していくではないか 。
と高 市 総 司 令 官は男 依 大 将 軍に命 令した。大 海 人
「この腰 抜け者め!恐れをなしたか 。皆の者どんどん
追い詰めろ」
大 王 軍は突き崩された一 画 の 隙 間を、
ドラで示して
一 斉 に 退 却した 。この 作 戦 は 霧を巧 みに 使った 戦
と男 依 大 将 軍 は 命 令した 。そ れ でも相 手 は 小 競り
法である。今 回は大 海 人 大 王 軍 が 大 敗 北を喫した。
合 い 程 度 の 攻 撃しかしてこない 。この 時 である。厭
1 万 人 程 度の味 方を死なせてしまった。
な予 感 が 的 中した。
男 依 は 高 市 総 司 令 官に近 づき、下 馬して九 死に
いや
はま
敵 のわなにまんまと嵌ったことに気 づ いた 。陽 動
61
こう りん
この濃い霧の中、大 海 人 大 王 軍は早 朝 6 時に安川
一 生 のところをお助けいただいたお礼と、自分 の 大
図4
安川畔の戦いの推移
近江戦線
近江軍
大海人大王軍
①
(現在の野洲川)
安川
②
濃い霧で横に潜む近江軍
は見えない。
③
四方八方囲まれ、濃い霧の為
退却方向さえ見失う。
360度全方向からの攻撃。
大海人軍は四方八方から
の攻撃で大混乱。
④
高 市 皇 子 軍の非 常 事 態
の出陣で包囲網を突き崩
した。
退却経路
62
古代にもあった関ヶ原の戦い
「壬申の乱」
はこうして起きた
(第4完結編)
失 態 で 大 海 人 大 王 からお 預 かりした 兵をたくさん
外 であり、挟 み 撃ちになる可 能 性 がでてきた 。犬 養
死なせ たことに対して、平 伏して涙ながらに謝 罪し
将 軍 はただちに全 軍に退 却 命 令を出した 。犬 養 将
た。高 市 総 司 令 官は、
軍 は、
へい ふく
「 男 依 。戦 いはまだ 終わってはおらぬ 。大 将 軍 が そ
「 背 後の敵とは戦うな。戦っても無 駄 死ぞ 。ひたすら
のようなことでどうする。それこそ 不 忠というものぞ 。
固まって大 津 方 面 へ 退 却 せよ」
敵もこの 濃 い 霧 の中では、川を渡ってはこないであ
と言 い 放 つや 阿 吽 の 呼 吸 で 1 万 5 千 の 兵 が 怒 涛 の
ろう。各 部 署の将 軍は陣 形を整えよ」
ように退 却したのである。さす が 精 鋭 部 隊 。犬 養 将
と命 令を発した。
軍 の 意 思 通り末 端 の 兵まで 逃 げ の 体 ではなく、氾
男依は、再 度 陣 形を立て直した。その時、幸 運なこ
濫 川 のごとく一 塊となっての 退 却に対して、第 二 軍
とに霧 が 少しずつ晴れだしてきていた。犬 養 将 軍の
は手も出 せ ず 道を空けてしまい呆 然と見 守るしかな
率いる近江軍が、わが岸からも見え出したのである。
い状 況であった。
もうすでに敵は陣 形を整えていた。敵はほぼ 無 傷で
敵 は 余 程 訓 練されている。
‘ 敵ながらあっぱれ ’
と
ある。男 依 はさす が 軍 略に長 けた 犬 養 将 軍 敵なが
男 依 は 不 謹 慎 だが 思った 。犬 養 将 軍 の 采 配 ぶりは
らあっぱ れと思うと同 時 に身 震 い がしてきた 。不 思
見 事で、戦う前 から先を読んでいて、即 断 即 決した
議と大 海 人 大 王に捧 げ たわ が 命 、死を賭 けても良
ことはすばらしい 。負けていないのに退 却 するのは、
いほどの国 随 一の軍 略 家 、犬 養 五 十 君 大 将 軍と戦
たい へ んな勇 気 のいる行 為 である。目前 の 敵を前
えるよろこび が 沸き出てきていた 。兵 力はこの 敗 戦
にして引き揚 げるとは、なかなか 並 の 将 軍にはでき
でほぼ 互 角になっていた。
ないことである。男 依 はこの 引き際 の 潔さに改 めて
あ
うん
てい
自分 以 上の軍 略 家をみた気 がした。
午 前 9 時 頃 、総 力 戦で 安 川を挟んで戦 闘 が 開 始
辛うじて勝 利した男依のもとに、多 品 治 や 置 始 兔
された 。勝 負は 互 角でなかなか 勝 敗 の目途 が つ か
が 近 寄ってきた。多 品 治は、
なかった 。両 軍ともせ めぎ 合 いが 続き、膠 着 状 態 が
2 時 間 程 続いていた。
無 事でよかった、
よかった」
犬 養 将 軍 は 兵を少 人 数 のゲリラ部 隊に分 け、神
と褒 め 称えてくれたが 、男 依 は 笑 顔を取り繕うの が
出 鬼 没 の 作 戦 に出てきた 。どこからとも無く攻 撃し
やっとで、敗 北 感に苛まれ 放 心 状 態で突っ立ったま
てくる近 江の小 部 隊は、大 海 人 大 王 軍を苦しめじり
まであった。
じりと大 王 軍は退 却に追い込まれていった。
もう午 後
飛 鳥 部 隊 第 二 軍の到 着 が 少しでも遅れていたら、
1 時を過ぎようとしていた 。敵 のゲリラ戦 法 のために
負けていたかもしれない 。あの 戦 法 はいままでに見
大 海 人 大 王 軍 は 組 織 的 な 攻 撃 が できず 、一 旦 総
たことがなかった 。ゲリラ戦 法 は 余 程 訓 練された 兵
退 却を考えていた。
にしかできない 芸 当である。軍を少 人 数に分 けると
この 時 である。神 のご 加 護としか 思 わ れない 事
いうことは、その 小 集 団ごとに指 揮 官 が 存 在 するこ
態 が 起こった 。近 江 軍 の 背 後に飛 鳥 防 衛 軍 である
とを意 味している。その時々の状 況に応じた判 断 が
第 二 軍 が 現 れたのである。紀 阿 閉 麻 呂を大 将とす
できる指 揮 官 が 多 勢 いることである。いままでの 戦
る第 二 軍 である。飛 鳥 から駆 け つ けた 5 千 ほど の
いのように数に任 せての 単 純な力 攻 めとはまったく
兵 たちである。あ の 多 品 治 、置 始 兔 等 の 姿もみえ
違う戦 法 である。男 依 は 何とも言 いようのない 不 気
た 。犬 養 将 軍 にとって 背 後 から敵 がくるの は 想 定
味な恐ろしさを感じていた。
き
ぼつ
きの
おおのほん
63
「 男 依 大 将 軍 、大 丈 夫です か 。敵は退 却しましたぞ 。
じ
あ
へ
ま
ろ
おきそめのうさぎ
ほ
たた
さいな
しばらくして平 常 心を取り戻した 男 依 は、高 市 皇
くる
もと
〈 栗 太 の 戦 いとそ の 他 の 戦 線 〉
子 総 司 令 官にこの戦いの失 態のお詫びと犬 養 将 軍
大 海 人 大 王 軍は、あらためて進 軍 するまでの5日
の 人 並 みは ず れた 戦 ぶりを目のあたりにして、犬 養
間を休 養と負 傷 者 の 手 当て 兵 糧 の 補 給 等 で 費 や
五 十 君という男について知りたくなったことを告げた。
さざるをえない程の手 痛い損 傷を受けていた。
「 彼のことを知りたくなったか。
さもあろう。天 智 天 皇と
同じく父 大 海 人 大 王も彼には一目置 いていた。
しか
男依の親 友の多 品 治は、
「 大 海 人 大 王 軍の精 鋭 主 力 部 隊 がこれほど 損 傷を
し、宮 使いの連 中からは全く生 意 気な奴だと言われ
受けるとは敵もやるもんだ、男依!」
ている。
もっとも戦では役 立たずの 事 務 屋 の 役 人ど
男依は笑 顔で、
もの言い草だろうけどな。わぁはぁははは………」
「 わしは 、い いことを学 んだ 気 が する。実 はあの 犬
犬養五十君という男を天智天皇は可愛がっていた。
養 将 軍と酒 でも酌 み 交 わしてゆっくり語りあ かした
天 皇 の 人を見 抜く目に改 めて高 市 皇 子 は 敬 服した 。
い 気 分でいる。故あって、このたびは敵 味 方に分 か
晩 年 の 頃を除 けば 、天 智 天 皇 はやはり只 者 ではな
れて 戦ったが 、彼 は 今 後 の 倭 国に必 要な人 物 だと
いと改めて確 信した。
思っている。
ただ もの
ゆえ
高 市 皇 子 から大 海 人 大 王も一目置いている人 物
̶ 話は脱 線するが 歴 史は繰り返すものである。
と聞 いた 。理 屈 ば かりわめく役 人 の 受 けは 悪 いそう
秀 吉も晩 年は目が 曇ったためか 、豊 臣 家 の 悲 劇 の
だが 、五 十 君には、信 念 があり智 惠 がある。処 世 術
火 種をつくっていたのである。
のみうまい役 人どもとは合わないはずだ」
かん じん
秀 吉が 天 下 人として君 臨するには、奸 人 家 康を懐
多 品 治は、にこにこ笑 顔をうか べて、
柔するのでなく滅ぼしておかなければならなかった。朝
「 男 依 が そこまで 惚 れ 込 んだ 犬 養 連 五 十 君とか い
鮮に攻め入る前に家 康を死に追いやっておかねば本
う将 軍 、わしも一 度 逢ってみたいものだなぁ」
当の意 味での「 天 下 様 」とは言えない。家 康との戦で
男依は続けた。
ある「 小 牧・長 久 手の戦い 」で和 睦などせず、徹 底 抗
「 軍 組 織をあのように手 足 のごとく使 いこなせる手
戦して家 康を抹 殺しておけばよかったのである。
法を窺ってみたいのだ。今 回の 陽 動 作 戦といい、ゲ
秀 吉は表 面 上でもよいから、はやく
「 天 下 様 」と呼
リラ部 隊 の 神 出 鬼 没 の 動きといい 、いままでの 戦 い
ばれたかったのであろう。勝つためには長 期 戦になる
では 見 たことがない 。以 前 、大 海 人 大 王 からこうい
ことは必 定 。秀 吉 の 高 年 齢がこころを和 睦に向かわ
う話をお聞 か せいただいたことがある。
せた。
しかし、自分の亡き後 、豊 臣 家の力に匹 敵する
とかくトップは 側 近 の 讒 言に左 右され や す いもの
ほどの 家 康を生かしておいたのはまずかった。やはり
だ が 、兄 者( 天 智 天 皇 )は 他 人 の目で み た 意 見 は
豊 臣 家に軍 師 不 在であったのが 災いしたのであろう。
信 用しなかった 。必 ず自分 で 診 たててその 人 の 人
竹 中 半 兵 衛ならば「 長 期 戦 になってもやらねばなら
間 力を、自分 の目で 判 断していたお 方 であった 。こ
ぬことは、やらねばなりませぬ。必ず、後々の災いとな
れだけは 人に任 せることはなかった 。斬り捨 てる事
りましょう」と主 戦 論を主 張したであろう。その竹 中 半
は誰にでもできる。人は活 か すものであり、その者の
兵 衛という武 将は、無 欲がゆえに家 康の本 心を見 抜
特 性を活 か せない 上 司こそ 失 格 であると、大 海 人
いていた。
しかし、残 念ながらこの時 期には半 兵 衛は、
大 王 から教えられたことである」
すでに 病で死んでこの 世 にいなかったのである。秀
男依は大 海 人 大 王の眼 力に改めて敬 服した。
ざん げん
み
吉は「 裸の王 様 」になっていたのだ。
64
古代にもあった関ヶ原の戦い
「壬申の乱」
はこうして起きた
(第4完結編)
図5
延暦寺
守山
大海人軍第四軍
至京都
琵琶湖
山科
草津
近江朝宮殿
至彦根
大津
瀬田唐橋
園山
大友皇子大本営
近江国庁
舟橋
石山寺
65
大海人皇子大本営
5日間の休息の後、
やっと進軍ができるようになった。
大海
人大王軍の勝利をみて、各地から豪族が参陣してきた。
それで兵力は盛り返し4万5千程に膨れあがっていた。
〈瀬田川の戦いの前夜〉
そこへ 高 市 皇 子 総 司 令 官 がやってきた。
「 父 上 、今 から軍 議を開きます 。各 将 軍 は 全 員 すで
現在の草津・守山・大津市の東側を進撃し、旧暦7月
に控えております ので、お越しくださいますようお願
17日
(新暦9月3日)近江国庁に到着した。大海人大王
い申し上 げます 」
軍 は、ここ瀬 田 川 東 岸 の 近 江 国 庁に本 営を設 けた 。
そして、軍 議 が 始まった 。まず 、男 依 大 将 軍 が 口 火
瀬田川河畔までほぼ1キロ半程の位置になる。
をきった。
また、近 江 軍の主 力 部 隊は瀬 田 橋の西 岸の園 山
「 各 将 軍もわかっておろうが、
この瀬田川の決 戦が最
に本 営を置き、瀬 田 橋を挟んでの 睨 み 合 いとなった。
終決戦となるだろう。敵兵力2万、我が軍は4万5千であ
ここにきて、はじめて大 海 人 大 王が美 濃より到 着し
る。兵 力には勝るが、いかにしてこの瀬田川を渡るか
た 。軍 の 士 気 は 一 層 高まり近 隣 の 豪 族 はす べて大
が問 題だ。それに、敵 が攻めてくるというのに瀬 田 唐
海 人 大 王 軍に参 陣してきた。
さすが天 智 天 皇の下で
橋が破 壊されていない。定 石からすれば瀬田唐 橋を
数々の戦いを指 揮し負け知らずの大 将である。その
破 壊しておけば 、戦 略 上も近 江 軍も有 利になり我々
姿の威 厳と凛々しさには、敵を動 揺させる力があった。
の攻 撃を遅らせることができる。わざわざ 破 壊してい
一 方 、琵 琶 湖 西 回りの 第 四 軍 である出 雲 狛と羽
ないということは何 かカラクリを仕 掛けてあるにちが
田矢国は、ほぼ戦いらしいものはなく三尾城での戦い
いない。知 将 、犬 養 五 十 君は健 在である。彼 が 何 か
で多少の小競り合いがあったものの、3千の精鋭部隊
を考えているにちがいない。あの安 川の戦いの軍 略
はほぼ無傷のまま大津京北の郊外で待機していた。
は敵ながら見 事というしかない戦いぶりであった。彼
い ずもの
たの や
こま
は
くに
せ たの から
はし
お
が初歩的なミスを措かすはずは絶対にない。
〈瀬田川の合戦前夜の軍議〉
瀬田川の河口ということもあり、
この戦いはいままでの
え
ち
大 海 人 大 王 軍は、近 江 朝 宮 殿 が 一 望できる近 江
犬上川、野洲川、愛知川などと違い、川幅250メートル、
国 庁に本 営を構えた。大 海 人 大 王も久しぶりにみる
川の深さも3メートルから深いところでは5メートルは
近 江 朝 に、若き日々の 額 田 王との 思 い 出など が 走
ある。騎 馬でも徒 歩でも渡 れない 情 況である。2 0 名
馬 灯のように頭の中を駆け巡っていた。
乗りの高 瀬 舟で渡ろうものなら、敵の2 万の兵が放つ
兄( 天 智 天 皇 )
と共にこの 近 江に遷 都し、立 派な
矢で対 岸に着く前に、わが 兵はハリネズミのように射
宮 殿 や 伽 藍 の 造 営を自ら指 揮した 大 海 人 大 王 に
抜かれて無 駄 死することになろう」
とって、それを自ら消 失させることは 断 腸 の 思 いで
男依は疑 心 暗 鬼になっていた。三 輪 子 首 が、
うね
め
あった 。宮 殿 に 残してきた 皇 女 や 采 女 たちは 、どう
み
わの
こ
びと
「 上 流まで兵を移 動させ 、川 幅 が 狭くなる場 所で渡
しているだろうと心 配 でならなかった 。何としても助
河させてはいかがか 」
けださなければならないと考えていた。
多 品 治は、
大 海 人 大 王は、このような琵 琶 湖にかかる夕日の
「いや、それは無 理だ。川 幅は数キロ先まであまり変
美しさを見たのは、なぜだか遠い昔日のような気がす
わらない。そして、
こちらの軍勢は4万5千だ。
これほど
る。今は兄 者である天 智 天 皇の妻になっている額 田
の大軍を狭い道無き道をそう簡単には動かせない」
王は、かつては、私の妻であった。その時のロマンス
将軍から数々の戦術の提案があったが、
これという
はいまだに鮮 明に覚えている。なんとなく戻れるもの
決定打というべきものはなかった。
しばらく沈黙が続いた。
ならあの頃に戻れたらとの悲しい気 持になっていた。
大 伴 吹 負は、
むかし
ぬか た
おう
66
古代にもあった関ヶ原の戦い
「壬申の乱」
はこうして起きた
(第4完結編)
「 われわれ が 特 攻 隊となり先 陣を努 め 攻 撃 す れ ば 、
せ
たの から はし
瀬 田 唐 橋 の 仕 掛 けはわかりましょう。この 大 伴 が 捨
葉や待遇に騙されて取り立てた兄者も兄者である。
石になりますゆえ先 陣を仰 せ つけくださいませ 」
息 子 のこととなると冷 静 で あり賢 人 の 誉 れ 高き
男依は、
兄 者 でも目が 曇ったの は自 業 自 得 である。左 大 臣
「 それ はできぬ 。大 伴 氏 は 由 緒 ある家 柄 、そのよう
蘇 我 赤 兄も右 大 臣 中 臣 金も、自 分 の 保 身 の た め 、
な危 険な役目は許 すことはできぬ 」
大 友 皇 子を天 皇にする意 向 の 兄 者に近 づきイエス
大 海 人 大 王 はにこにこしな がら 各 将 軍 の 意 見 を
マンを演じきった 大 奸 である。兄 者らしくない 人 事
じっくり聴いていた。そのうえで、ゆっくりと話した。
である。大 友 皇 子を天 皇にする支 持 者を増 や す た
「この 近 江 朝 の 区 割り、宮 殿 、寺 社 の 伽 藍 等々、兄
めの 布 石 人 事 であることはあきらか である。しかし、
だい かん
の 天 智 天 皇 からわ たしが 総 責 任 者を仰 せ つ かり、
それ が 本 当に大 友 皇 子にとってよいことなのか 。部
短 期 間での都 作りであったため 苦 労したものだ。防
下 の 傀 儡となり不 幸になる危 険 すら孕んでいること
備 上も重 要 課 題 であった 。この 瀬 田 川も大きな 防
も、兄 者は考えたであろうか 。
衛ラインであり、橋を破 壊 すれば 東 方 からの 侵 略は
ボスが 変 わると、部 下 の 態 度 が 豹 変 する歴 史 は
渡 河しない限り無 理である。
良くある話 である。利 で 動く者 は 利 で 裏 切るといわ
しかし、
この250メートルの川幅と3メートル以上の水
れる由 縁 である。近 江 軍 の 中で 、犬 養 五 十 君 だけ
深は天然の要害となっている。当初よりこの瀬田川を制
は 骨 のある武 将 の 中 の 武 将といえる。瀬 田 唐 橋を
した者がこの戦いを制すと思っていた。それがわが軍に
残してあるのも、なにか 五 十 君の策 略 があるに違い
振りかかるとは、夢に考えていなかった。皮肉なものだ」
ない 。よいか 。蘇 我 赤 兄と中 臣 金 だけは ぜったいに
男依は、
許さぬ 。必 ず、首を持ってまいれ 」
と
か
かい らい
はら
「 大 王さまに 従ってこの 近 江 宮を建 造したこと、今
男依はじめ全将軍は、温厚な大王がこのように怒りを
でもよく覚えております 。自ら近 江 京を建 造され 、皮
あらわにすることはあまりないので、内心驚いた。唐や新
肉にも自ら破 壊 することになるとは 、お 心 苦しい 大
羅に対処せねばならない大事な時期に倭国人同士が
王 様のお気 持ちお察し申し上 げます 」
無駄な戦いをしていることへの怒りであろうと思った。
おう みの みや
大 海 人 大 王は、
そ がの あか え
なかとみの かね
「敵の頭目は左大臣蘇我赤兄(注14)と右大臣中臣金(注15)
全 将 軍 が 、大 海 人 大 王 の 前に平 伏した 。そして、
全 将 軍 が身を乗り出して大 海 人 大 王の話を一 言 残
である。共に文官出身だ。二人は私や高市皇子のように、
らず 聴き漏らすまいとしていた 。大 海 人 大 王 は 、当
兄者(先帝天智天皇)
と一緒に有力豪族との戦におい
初 からこの 瀬 田 川をいかに渡るかを美 濃 の 野 上に
て、矢や槍が飛んでくる悲愴な戦いを掻い潜ってきた経
滞 在していたころから考えていた。
験がない。戦場の身震いする恐ろしさ、惨たらしいその
多 品 治は、
むご
現場の雰囲気もしらない現場知らずの文官官僚である。
あり
ま
み
こ
しかし、口だけは達 者で純 真な有 馬 皇 子を自ら謀
反に誘い入れておきながら、そのことを兄 者に密 告し
67
潜ったものしかわからぬことじゃ。いつも心 地よい 言
「 大 王 様 は 、われわれ がここまで 勝ち進 むことは当
然と読んでいらしたのです か … …!」
「 戦 い 方も知らぬ や つら、なにが できよう。そのうち、
た張 本 人である。騙し打ちと同様である。自分が認め
二 人 は 本 営 からも逃 げ 出 すであろう。
ところで 本 題
られるなら人を陥れることなど何とも思わぬ非 道 者で
に入る。
よく聴け。これは命 令だ。瀬 田川は琵 琶 湖の
ある。自分の出世ばかりを考えている計算高いケダモ
河 口のため 川 幅 は 広 いが 川 の 流 れはほとんどない 。
ノ。恥 ずべきである。
こんなことは、実 際 敵の矢を掻い
そこで 、密 かに和 爾 部 臣 君 手(注16)と近 江 の 豪 族
わ
に
べの しん きみ
て
い
か
ご
おみ
あ
へ
胆 香 瓦 臣 安 倍(注17)に当 初より2 0 人ぐらいの 乗 れる
高 瀬 舟 を 尾 張 、美 濃 、琵 琶 湖 周 辺 の 漁 師 の 舟 を
数ヶ月か け て 3 百 艘 程 買 い 付 け たり造らせ たりし
ておった 。なぜ だと思うか?男 依 」
「う∼ 。3 百 艘による一 斉 攻 撃でしょうか?」
大 海 人 大 王は話し続けた。
「 敵も2 万 近くの 兵 力をもっている。一 斉 攻 撃をくら
えば 我らは対 岸に着く前に全 滅しよう。
わしは、当初よりこの瀬 田川の渡 河 が、
この戦さの
「この 男 依 、まったくわ かりませ ん 。我 々はい か がし
たらよいのでしょうか 」
「 一 艘の高 瀬 舟の幅は2 . 5メートル程ある。百 艘の舟
くい
つな
を横に並 べ てそれ ぞ れを杭 で 繋 げ 横に板 張りをし、
騎 馬 が 2 頭 走れる橋を作るのじゃ。この舟の橋を3 列
ふな ばし
つくり、
まず 騎 馬 隊 がその 舟 橋を一 気に駆け抜けよ。
そして、敵の前 線 部 隊を殲 滅 せよ」
男依は、
「 大 王 様 の お 言 葉 で す けれど 、今 から舟を集 積し、
最 大の問 題 点と考えていた。それはわしが遷 都を兄
さらに 板を調 達して 舟 同 士 で 繋ぐとなる相 当 の 時
者 から任された時 、都の防 衛として川 底を深く3メー
間 が 必 要 かと思います が?」
トル以 上に掘り下 げて、騎 馬 軍の渡 河を阻 止 するた
「 それ は 心 配 いらぬ 。す でに 和 爾 部 臣 君 手と胆 香
めに意 図 的にしたものだからだ。
これを打ち破る方 法
瓦 臣 安 倍に命じてある。
もう上 流 で 密 かに、漁 師 か
はこの河を設計した者しかわからないだろう。
ら買 い 付 け、造らせており、
もう完 成しておるのじゃ。
この 解 決 法 は、舟を3段 以 上 縦に並 べ て 広 い 舟
夜 の 内に密 かに上 流 からこの 河 口まで 流しておけ 。
の甲板をつくるしかない」
和 爾 部 、わかったな。朝になって犬 養 五 十 君 がこの
男依は、いぶかしげに尋ねた。
ような 橋を見 たら、さぞ かし 腰を抜 か す であろうよ。
図6
高瀬舟を利用した橋
68
古代にもあった関ヶ原の戦い
「壬申の乱」
はこうして起きた
(第4完結編)
わぁはぁはぁはぁ」
「この 男 依 。考えも付きませ んでした 。さっそく手 配
いたします 」
「男依待て!敵にさとられてはならぬ。後は和爾部と胆
の の 、体じゅう矢 で 蜂 の 巣 のように 撃 た れ て い た 。
最 期に馬 上より吹 負が、
「 我 は、大 伴 連 吹 負だ 。我 の 手にか かって死 ねるこ
と誇りに思え」
香 瓦に任 せておけ。全 軍は明日5 時に攻 撃を開 始 す
と言った 時に放 たれた 矢 は 、智 尊 の 額 から後 頭 部
る。お前はいつものように平静を装え。兵にも密かに作
にか けて 貫 通していた 。智 尊 は 後ろ向きに 大 の 字
戦の徹底をしろ。そして、寝たふりをしてたいまつはす
に倒れた。即 死した。
べて消すのだ。敵に舟橋を悟られてはならぬ。
よいな」
これに呼 応 するかのように、近 江 朝の宮 殿の数々
「はは∼ 」
高 市 皇 子も笑 顔で男依を見ていた。
の 方 角 から火 の 手 が あ がった 。出 雲 狛 、羽 田 矢 国
たちが、皇 女 、女 官 、采 女を救いだした証しであった。
近 江 朝 の 北 に 待 機していた 出 雲 狛と羽 田 矢 国 に 、
〈 瀬 田 橋 突 破と近 江 軍 の 崩 壊 〉
7月2 2日、早 朝 午 前 5 時 。戦 闘 が 開 始された 。高
大 海 人 大 王 から当 初より厳 命 がくだされていた。
「 近 江 軍を瀬 田 川 沿いに引き付けさせる作 戦をとる。
瀬 舟 の 橋 は 3 対 。騎 馬 隊 の 第 一 隊 長 は、大 伴 吹 負
そこでお 前 は 手 薄になった 近 江 朝に残されている
将軍以下1500騎。
皇 后 や 女 官 など 身 分 に 関 係なくお 救 いし、安 全な
第 二 隊 長は、置 始 兎 将 軍 以 下 1 3 0 0 騎 。
場 所にお 移しせよ。そして、一 般 の 民 だろうが 敵 兵
第 三 隊 長は身 毛 広 将 軍 以 下 1 3 0 0 騎 。
の 家 族 だろうが 同 様に安 全な場 所に移し終わった
まず 、
ドラと鐘を鳴らし威 嚇し騎 馬 隊 が 3 対 の 舟 橋
ら、宮 殿 や 政 庁に火を放て。よいか 狛 」
を渡りだした 。その 後を歩 兵 部 隊 が 続 いた 。寝 起き
と直々のお言 葉いただいていたのである。
を奇 襲された 上 、この 轟 音と昨日までなかった 橋を
紀 阿 閉 麻 呂を大 将とした 園 山 の 本 営を犬 養 五
見て近 江 兵は一 斉に逃 げ 出した。
十 君 将 軍 が 守 備していた。瀬 田 橋 のカラクリを考え
近 江 軍 の 先 陣となって 守 備をしていたのは 、智
たのはやはり彼であった。
尊 将 軍である。智 尊は
そのカラクリとは、橋板の下に網を敷き、綱で網をくく
こま
「 何 事だ。報 告 せよ」
りつけ大 海 人 軍の騎 馬 隊が橋の中間あたりまで着た
と家 来に問いかけながらも、昨日までなかった舟 橋が
時 、綱を引いて騎 馬ごと兵を瀬 田 川に落とすもので
3 対 見え、大 海 人 大 王 軍の騎 馬 隊 がもう渡りきろうと
あった。そして、相手が川に落下したあとは、兵2人ほど
している光 景を目の辺りにして、愕 然とした。騎 馬 隊
でまた元通りに橋板を戻すカラクリであった。実に単純
は近 江 軍の野 営のテントに火をつけ、近 江 軍はふい
な仕掛けであった。
を突かれたため逃げるのが精 一 杯の状 況であった。
69
智 尊は自分 の 兵 がどんどん戦 線 離 脱し逃 げるの
男 依 大 将 軍は瀬 田 唐 橋 が 破 壊されているという
を必 死で食い止めようとした。
前 提で舟 橋をすでに開 戦 直 後から調 達していたとは、
「ひるむな!持ち場に戻れ 」
さす が 大 海 人 大 王であると思った。ここが 戦いの正
と命 令してもまったく従う者はいなかった。そうこうし
念 場として認 識して地 理 、地 形を知っていないと思
ている内に、智 尊自身が 囲まれていた。
いつき準 備はできないと思った。大 海 人 大 王の軍 略
しの
「 おのれ 。この智 尊に向 かってこい!」
家としての 才 能 は 天 智 天 皇を凌ぐもの が あるのを
と鬼 の 形 相 で 薙 刀を振り回し3 0 人 ほどは 倒したも
感じていた。
図7
(側面)
(正面)
引く
網を引いておく
湖水
引く
綱ごと引っぱる
湖水
このとき、宮 殿 が 燃え出したのである。それを見て、
海人大王とともに国づくりにご協力を願いたいのじゃ」
近 江 兵たちは自分の家 族を守るため戦 線 離 脱 が 相
「だまらっしゃい! !わしも武 人のはしくれ 。敵に温 情な
次ぎ「 戻れ、戻れ!」叫んでも命 令に従う者はなかった。
ど受けて生き延びようとは思っておらぬ。たわけ者 」
五 十 君 将 軍を呼 ぶ 声 がきこえた 。彼 が 声 の 方 向
「 倭 国には今 、人 材 が 足りませ ぬ 。おぬしのような知
をみると、村 国 男 依 大 将 軍 が 馬 上 にいた 。自分 一
恵 者 が 必 要なのだ。わかってくれ 」
「だまれ、だまれ男依 。人 材を失っただと。
しゃらくさい。
人 が 完 全に包 囲されていた。
「 男 依よ。勝ち戦さでよかったな。わしも君 の 運 の 強
かな
おぬしが多くの人材を死なせたのではないか。ばか者。
何を言うか 」
さには敵わなかった」
「 何をおっしゃる。安 川 河 畔 の 戦 いでは 、私 は 死 に
かけました 。軍 略 家としての 差を感じ入りました 。あ
「かもしれぬ。だからこそ五 十 君 。お前が必 要なのだ。
わかってくれ」
「わしは天 智 天 皇を尊 敬している。先 帝を裏 切るわ
の戦いは完 敗でした」
「なにをおっしゃる。あの時はたまたま運よく作戦が成功
けにはいかぬ 。男 依 、刀を抜 け 。さしで 勝 負しろ。男
しただけのこと。最後は退却という無様な戦いであった」
依それでも男か 」
「 五 十 君 殿 、これ から 一 緒 に 新しい 国 づくりを 手
男 依 は 、無 念 ではあるが 説 得を断 念した 。男 依 は
ぶ
ざま
伝っていただけないものでしょうか 」
「 何!わしの命を助けるとでも言いたいのか 」
「 私はここであなたを失いたくないのだ。
これから、大
家 来に、
「 何 があっても一 切 、手を出すな。武 人としての真 剣
勝 負である。わしが 殺されてもこの犬 養 五 十 君 殿に
70
古代にもあった関ヶ原の戦い
「壬申の乱」
はこうして起きた
(第4完結編)
手を出すな。必 ず 逃 が せ 。
よいな!」
と下 士 官に命 令した。男依は中 臣 金に向 かって
お 互 い目と目で 睨 み 合 い 一 瞬 の 静 寂 が 流 れ た 。
「お前のようなやつに騙された大友皇子がお気の毒だ」
まず 、最 初に五 十 君 が 男 依 の 額 め がけて 斬り込 ん
できた。そのときはなんとか 男依は刀ではじき飛ばし
「 右 大 臣 中臣 金であるぞ。無 礼 者 」
た 。男 依 は 大 男 で あるが 、五 十 君も剣 の 振りは 速
と怒り心 頭で叫んだ。
かった 。男 依 が 少 々ふらついたところを、五 十 君 は
すぐに高 市 皇 子 全 軍 司 令 官 が 到 着した。
す
透 かさず 斬りこんできた。その時 無 心に男依は五 十
「 中 臣 金よ。私 利 私 欲に目がくらみ 、若 年 の 大 友 皇
おとし
は
君 の 胴を斬り抜 いた 。五 十 君 は、口 から噴 水 のごと
子を貶めたこと許し難し。即 刻 首を刎ねよ」
く血を吐きその場に倒れた。男依の勝ちである。
このときになって、はじめていままでの 勢 いはどこへ
しかし、男依は五 十 君に近 寄り
「 死ぬな」と叫んだ。
やら中 臣 金は泣きながら、
五十君は男依に抱きかかえられながら笑顔を浮かべて、
「 高 市 皇 子 様 命 ば かりはお助けくだされ 。お願 いで
「あとは頼む。男依!」
ございます 」
といって絶 命した。男依は、
涙ながら命 乞 いをした。高 市 皇 子は「ば か 者!」と
「 五 十 君 。お前は本 当のば か 者じゃ」
一 言 言い残して馬 上の人となった。
と叫び 男泣きをした。
その 後 、中 臣 金 は 首を刎 ねられさらし首となった 。
近 江 朝 の 宮 殿 、寺 の 伽 藍 、す べてが 琵 琶 湖 から
鳥 が 肉を食 べ 骸 骨になっても街 道に放 置された。
吹き付 ける風 にたい そうな 勢 いで 燃え上 がってい
その 3日後 、蘇 我 赤 兄も捕らえられ 同 様に処 刑さ
た 。園 山に本 営を構えていた 大 友 皇 子 は 燃え盛る
れた。大 海 人 大 王は、
宮 殿を見 て、妻 である十 市 皇 女 は 大 丈 夫 だろうか
71
金は、
「なんとしても生きて大 友 皇 子を探し出せ 。皇 子に対
と心 配 であった 。本 来 、蘇 我 赤 兄 や 中 臣 金 にそ そ
する無礼な振る舞いはこの大海人がけっして許さぬ」
のかされて始 めたこの 戦さ。こんな状 況 で 終 焉しよ
しかし、全将軍が血眼になって探したが見つからなかった。
うとは思いもしなかった。
一 方 、大 友 皇 子は一 時 、舎 人 の 勧 めで大 和に落
大 友 皇 子は赤 兄や金の近 江 軍が優 勢に勝ち進ん
ち延びようとしたが、自らの判 断でそれを止めて園 山
でいるとの報 告を鵜 呑みにした自分 が 情けなかった。
に戻った 。そして舎 人 の 物 部 連 麻 呂に大 海 人 皇 子
赤 兄 は 偵 察 に 行ってくると言って 戻ってこない 。
宛 の 一 通 の 書 状を届けさせた。それは天 智 天 皇 の
中 臣 金も宮 殿を守ると言 い 残して行ったきり戻って
長 子らしく死を迎えさせてほしいとの願 文であった。
こない 。大 友 皇 子 の そば の 下 士 官クラスの 者しか
大 海 人 大 王 は 、この 願 いを受 け 入 れた 。男 依 大
残っていなかった。
将 軍は園 山の 包 囲 網を緩 めさせた。静 かな時 間 が
男依 大 将 軍は、敵の本 営のある園 山の攻 撃を命
流れた。つぎに舎 人 物 部 連 麻 呂が 姿を現したときに
令した。そして、
は、皇 子 は 首 だけの 無 残な姿になり、布につつまれ
「 大 友 皇 子を殺さず 必 ず 生け捕りにせよ」
麻 呂の腕の中にいた。
と厳 命した 。しかし、園 山 の 本 営 は 既にもぬけの か
首 実 検 が 行 わ れ た が 、そ れ はまさしく大 友 皇 子
らであった 。中 臣 金 は 敗 走 途 中で 捕まり、男 依 大 将
その 人に間 違 いなかった 。大 海 人 軍 のどの 将 軍も、
軍のもとに引き出された。さっそく、
それを正 視しうる者 はなく、哀 れで 涙を流さぬ 者 は
「 大 海 人 大 王 にご 報 告して 処 分 の 指 示 を 貰 って
いなかった。
まいれ 」
(注1)大友皇子…天智天皇の唯一の皇子。
しかし、母親が召使の伊
うぬ
め
やか こ
賀采女宅子で身分が低かったため、皇位継承権自体が慣例
器、弾薬、兵糧米を取り返さず帰還しようとしたが、第2軍と合
流し勢いを復活させた吹負の反撃に会い戦死。
で認められてなかった。
なぜならば、大友皇子が天皇に即位し
(注10)三輪高市麻呂将軍…奈良盆地の三輪山麓を本拠とした氏
た後、大友に子が無い場合召使の宅子が天皇になる可能性
族で、大神氏から大三輪氏にわかれた。家柄は古く
「大物主
がでてくるからである。有力豪族から見れば、召使に頭を下げ
神」を崇拝しており、天皇家の祖神天照大神を崇拝できず「壬
ることになる結果となり、
プライドにかけても承諾できかねること
申の乱」後、朝廷から疎んじられた。
だったのである。反 乱の種はまかないように配 慮されていた。
おお きみ
大王の神話説をも否定することにもなるできごとなのである。
(注11)高市皇子…天武天皇の長男。
しかし、母親が低い身分であっ
たため皇位承継権はない。
しかし、中大兄皇子(天智天皇)や
(注2)中臣鎌足…のちの藤原鎌足。元々、中臣氏は朝廷の神事を司
実父である大海人皇子(天武天皇)
とともに、大和朝廷に従わ
る家柄で政治には本来関われないため、中大兄皇子に朝廷の
ない豪族を戦いによって滅亡させることに貢献しており、歴戦の
勉学塾の師匠南淵請安を介して近づいていった。バランス感
武 人である。持 統 天 皇の時 代には太 政 大 臣として「 大 化 改
覚に優れ才 気に優れていた。中大 兄 皇 子は人を診る目は鋭
かった。彼が居なければ「大化の改新」などは無かったであろ
新」に貢献した立役者である。
(注12)犬養五十君…近江軍の軍師。中大兄皇子(天智天皇)
と伴に、
う。後に藤原姓を天智天皇から賜り、平安時代の藤原道長など
敵対する有力豪族を大和朝廷の参謀として作戦を実行した。
の藤原氏の始祖となった。
しかし、喧嘩は強いが文官の作成した定めを守らず自由気まま
(注3)中大兄皇子(天智天皇)…西暦626年誕生。後の38代天智天皇。
第34代舒明天皇と第35代皇極天皇の子。皇后は異母兄であ
けん か
に振舞ったので、官僚には嫌われていた。天性の武人であり義
理堅く信念は曲げないところが中大兄皇子に好かれていた。
す
る古人大兄皇子の娘倭姫王。蘇我蝦夷、入鹿の蘇我氏の本
(注13)竹中半兵衛重治…戦国時代の軍師。美濃斉藤家に仕えてい
家を滅亡させた。親密国である百済が唐と新羅の連合軍に滅
たが、領主斉藤竜興が遊興に耽り諫言しても直らなかったので
ぼされたため、白村江で唐と新羅の連合軍と戦ったが、大敗北
実力行使をしていさめた。信長は羽柴秀吉に三顧の礼を尽くさ
を喫し国力を低下させ、かえって地方豪族の不満を助長させ
せて我が家来にと請うたが謝絶したことは有名なはなし。その
た。大津に遷都とし、
「大化改新」をはじめる。
かわり羽柴秀吉の家来なら承諾するとの申し出にやむなく信長
(注4)大海人皇子…西暦631年誕生。後の40代天武天皇。皇后は
う
の
は承諾した。
野讃良皇女(後の持統天皇)。天智天皇の長女大田皇女、
(注14)蘇我赤兄…蘇我氏の分家。本家筋の蘇我蝦夷、入鹿を落と
次 女 讃 良 皇 女を娶る。兄 天 智 天 皇と同じ両 親から生まれる。
しいれた黒幕とも言われている。官職を本家筋に独占され不満
天智天皇の子、大友皇子と皇位継承をめぐって「壬申の乱」
はかなり内在していた。口はうまく人を陥れることにかけては優
が勃 発し、勝 利の上 4 0 代 天 皇となる。今の日本の統 治 機 構 、
れていた。有馬皇子も味方のふりをして煮詰まったところで中
宗教、歴史編纂等がこの時期に定まる。
これを白鴎文化という。
大兄皇子に密告するなど、人間性としてもけっして良いとは言
日本を国号とした最初の天皇である。兄の始めた「大化改新」
えなかった。
を完成させた。天皇の力が一番強い時期であった。
(注5)太政大臣…日本独自の官職。大友皇子が最初の大臣。第2代
には高市皇子が就任。
ナンバー2で、すべての国政を掌握する。
(注6)軍師…君主を補佐して軍を指揮する官職。中国の三国志の「諸
葛孔明」は特に有名。戦いに勝つ作戦参謀であり武官が任命さ
れた。国の存亡も軍師次第と言われる。先見性、兵法、人間力、
すべてに優れていなければならなかった。
トップが鋭い洞察力を
持ち合わせないと優秀な軍師と判断できないところがある。指示
(注15)中臣金…中臣鎌足のいとこ。中臣氏は元来神事、祭事をつか
さどる豪族であった。鎌足が政界に進出してからは政治に関わ
るようになった。鎌足の腰巾着として出世したが、
とりたてての
働きはない。
(注16)和爾部君手…美濃の豪族。若い時から大海人大王の舎人と
して仕えていた忠臣。
(注17)胆香瓦安倍…高市皇子の舎人で「壬申の乱」勃発時に高市
皇子を護衛した。
待ち人間や自分の肩書き、出世をこだわる人間は、素質そのもの
に対し不適正である。
日本では竹中半兵衛、黒田官兵衛、山本
勘助等々、有力戦国大名には立派な軍師が存在した。
(注7)大伴吹負…大伴家は代々朝廷の警護を任務とする名門豪族。
物部氏、蘇我氏と並び称される。
(注8)大野果安…大友皇子の軍の将軍。大和奈良山の戦いで大伴
〈参考文献〉
「美濃路燃ゆ」 渡辺 孝 文溪堂
「壬申の乱」 倉本一宏 吉川弘文館
「壬申の乱を歩く」 倉本一宏 吉川弘文館
「白鳳の嵐」 町田俊子 幻冬舎 吹負と戦い勝利した。
しかし、本来の目的である天智天皇が飛
鳥の倉庫に外敵から守るため備蓄していた武器、弾薬、兵糧
米を取り返さずに帰還したので解任された。
(注9)壱岐韓国…大野果安とともに大伴吹負と当麻で戦い勝利した
ものの、命令の真の主旨が伝えられてなかったため、飛鳥の武
(2014.2.14)共立総合研究所 特命研究員 三矢 昭夫
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