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艸Aーベック リーンとの関連よ り見たひとつの試み一

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艸Aーベック リーンとの関連よ り見たひとつの試み一
青木繁 の F狂 女』考
下 A.ベ ック リー ン との関連 よ り見 たひ とつ の試 み― 一
高
阪
(平 成 5年
一
治
6月 21日 受理)
は じめに
明治 15年 (1882)7月
,福 岡県久留米市 に旧久 留米
(有 馬 )藩 士の長男 として生 まれ,明 治44年
(1911)3月 に,福 岡市 にて28歳 の若 さで この世 を去 った青木繁 は,周 知 の如 く,わ が 国明治期 に
おけるロマン主義 を代表する画家 である。 22歳 の とき (明 治37年 ,1904),代 表作『海 の幸』で瑞瑞
しい感性 を示 し,世 の評半」をとったにもかかわ らず,彼 の早 い晩年の暮 しは悲惨 を極 めた。世 に悲
劇 の天 才 と称 され る所以 である。
青木繁 に関す る研究 をご く簡単 にた どれば,青 木研究 に不可欠の ものである青木繁 の文 章 ,短 歌
,
書簡 については,青 木繁 F恨 象 の創造』 (解 説 ,河 北倫明。 1966,中 央公論美術 出版 )に 収 め られて
い る。本格的研究の基 となる伝記 ,画 業 の評価 の確定 については,河 北倫明氏 の果た した功績 が大
である。 とりわけその『青木繁』 (1972,日 本経済新聞社)は 青木 の全作品 目録 を編 んだ もので,本
文内容 ともども,以 後 の青木研究 の基 となっている。伝記面 では,青 木 の友人梅野満雄 の許 に残 さ
れて いた,同 友人坂本繁二郎 ,蒲 原隼雄 (有 明)の 書簡類 の解読 か ら,青 木 と青木 をめ ぐる人 々の
内面の動 きを丹念 に辿 った ものに,竹 藤寛氏 の『青木繁・坂本繁二郎 とその友』 (1991,平 九社 )が
ある。
さて青木研究 の上で,後 にみるよ うに青木 自身 が語 っていることもあって,盛 んに論 じられ る主
題 のひ とつは19世 紀後半 の西欧絵画,な かんず く英仏 の絵画,わ けて もラファエル前派 との関係 で
ある。 この方面の代表的な著作 としては,高 階秀爾氏 の『 日本近代美術史論』 (1972,講 談社。1980,
1990,講 談社学術文庫 )に おける「青木繁」 と,中 村義一氏の 『近代 日本美術 の側面―明治洋画 と
イギ リス美術―』(1976,造 形社 )が 挙 げられ る。 こうした研究成果 は青木繁生誕百年 を記念す る
「青
木繁 =明 治浪漫主義 とイギ リス展 」 に結実 し,1983年 に石橋美術館 ,栃 木県立美術館 ,ブ リヂス ト
ン美術館 ,ひ ろしま美術館 で開催 された。 この ときの図録 は詳細 な文献 目録 (杉 本秀子氏編 )を 含
めて学術的価値の高 い ものである。
この ように英国 ラファエル前派 との関係 はかな り詳 しく論 じられ るわ りに,同 時期 の ドイツ語圏
高 阪 一 治
の美術 との関係 はほ とん ど手 つかず の ままといって よい と思われ る。 こうした欠 を補 うべ く,本 稿
は この側面 か ら青木 に接近 しようとす る試 みである
(1ち
1.『 似象 の創造』 より
『根象 の創造』 を読 めば,確 か に青木 はそ こここで英仏 19世 紀後半 の絵画 ,な い しは英仏 におけ
②に言及 して いる。 た とえば「画談」,こ れは『白百合』の記者が明治37年 (1904)
る「世紀末藝術」
に青木 の家 を訪れ,そ の とき聴 いた ものを,翌 年 2月 の この雑誌 の第 2巻 4号 に青木 の「画談」 と
して載 せた ものであるが,そ こには次 の ように述 べ られている。なお文中 の「伊太利復興期 以前の
画」 とは,い うまで もな くラ フ ァエル前派 の絵画 の ことで ある。
駒 込 神明台 に其居 を叩 く,導 かれて客間 に通れば,文 書 ,古 楽器 ,古 武器等参差 た る休上
大なる人物画 の胸像人 を硯視 して坐 ろ森厳の気 にうたる。 … (中 略)… 伊太利風 の古画三 四
,
日本古代錦絵 ,曼 陀羅等後方壁間 に懸かれ り。冶 あ りて絵具 にベ タベ タにな りた る作業服 の
儘 出で来 りて一礼 せ られた るは快濶 げなる氏 な り。来意 を告 ぐれば折 か らの黄昏 に作業後 の
。
後仕舞中 なれば暫 し待 たれ よとて自ら別室 よリギ ュス タープ モロー集 ,ピ ュビース・ ド・
シャバ ンヌ集,伊 太利復興期以前 の画 ,バ ー ンジ ョンス集 ,ル ー ブル ロ録 ,印 度建築 ,波 斯
い
建築土工史等 の書冊 を出 して往 かれ,二 三十分後大 に失礼 しました とて再 び出 られ ぬ ち
そ こにあるギ ュス ターブ 。モロー といふ人 な どは実に好 い頭脳 を持 って居 た人 と見 える。
物 を容れる襟度 も博 い人 とみえて,当 時 この人 の眼か ら見 た ら,畢 党弥次馬 に過 ぎないか と
思 はれ るア ンプレ ッシ ョエ ス トの画な どを却 々是 で好 い ところがあると言 って大 にほめて居
●
た といふ面 白い話 があ ります。 モロー といぶ人 は非常 にす きです ち
「わだ つ みの魚鱗宮」 に就 いて》 では
さらに 『 日本及び 日本人』458号 に掲載 された 《美術断片―
こう語 られて い る。
サー・ エ ドワー ド・ バ ー ンジョンスのデ コラチー プ・ コム ポジシ ョンに似 てる処があるか
。
も知れ ぬ,ピ ュビース・ ド・ シ ャウァンヌの平板 な影響 も在 るか も知れず,ギ ュス タープ
モローの風 の着色法 に似 て居 る様 な点 もあるか も知れ ぬ,要 す るに これ は我輩の寧 ろ期 して
待 つ所 である0。
青木繁の F狂 女』考
しか し,『 イ
限象 の創造』には,頻 繁 にではないが,19世 紀後半 の,あ るい は世紀末 の とい うべ きか
,
ドイツ語圏 の美術 へ の言及 も認 め られ る。た とえば「藝術 の成立 と裸体製作」 には次の ように書か
れて い る。
それか ら今一 つは歴史や風俗や一 切の形而 を超越 した理想 の一 派 である。前 に挙 げた人文
批判 といふのが是 である。適当な文字が無 いが新人文派一人生主義一 とで も言ふのか,是 は
時代 を超越 して古往今来 を通 じての人類 の本 性,人 類社会 の状態,近 くは現代文明 の藝術 的
批半Jで ある。(教 訓や指導ではない,或 は トルス トイの如 きバ ー ンジョンスの如 き自ら教訓指
)是 に数 ぶ可 きものは頗
導 して居 る様 に思 って居 たか も知れぬがそれ は畢党未 だ至 らぬのだっ
・下 ってはク リスチー,ピ ュビース ドシャヴァンヌ,ワ ッツ,バ ー ンジ ョ
る多 い,… ,(中 略)・・
ンス,フ ァンタ ンラツール,ベ ック リン,セ ガ ンチニー如 きである,… (下 略)…・い
)。
(傍 線
高阪)
さらに原田直次郎 が ミュンヘ ンで師事 して いた ことで知 られ る ミュンヘ ン・ アカデ ミー教授 ガブ
リエ ル・マ ックスの名 が『根象 の創造』には三度登場す る0。 しか し本稿 においてよ り興味深 い のは
`
すでに海野弘氏が着 目 した ように181,青 木 がゼツェシォ ン (分 離派 )と こ触れ ている ことで ある。 出典
,
は,青 木 が 自作 の『わだつみのい ろこの宮』につ いて解説 を加 えた もので,『 国民新聞』紙上 に明治
40年 4月 11日 か ら14日 まで掲載 された「治海 の鱗 の宮」 である。
又潮水中 に人の居 るの も可笑 しい話 で彼 のセ ッセ ッショニ ス ト (現 代独逸 の絵画改革派 )
に くみするのでは無 いがエ ラで も附 けねばな らな くなる。ち
ここで青木 が「 セ ッセ ッショニ ス ト」 という言葉 によって具体的 に誰 を,ま た どのような作品 を
思 い浮 かべ ていたのか となると, これだけでは定かでない し,ま た, この文意 も半J然 としな い。 と
はい え,海 野弘氏 は この例 としてグスターフ・ク リム トの 『海蛇
I』
(1904)を 考 え,そ こで は「女
の下半身 は蛇体 になってい る。青木 がエ ラ といっているのは,あ るいはこのような表現 をさ して い
るのか もしれない。Jと 述 べ ている力Y10,「 エ ラJと い う ことになれば,た とえば人魚の ような もの
で もよい ことになるであろう。 それにして も「 セ ッセ ッショエ ス トに くみする」 というとき,青 木
が誰 の ことを考 えていたのか は,依 然 として不明 である。
『根象 の創造』 にお いて,19世 紀末 の ドイツ語圏の美術家 に直接触れ てい る箇所 は以上 で尽 きる
ように思われる。しか し,直 接 は言及 して いない ものの,こ うした ドイツ語圏 の美術家 の ことを語 っ
て い るのではないか と思われ る微妙 な箇所 が まだ一 つ ある。 それは先 に挙 げた「藝術 の成 立 と裸体
高 阪 一
治
製作」 における引用箇所 のほぼ直前である。
此原始時代 といふのは歴史眼 の方か ら見た言 はば有史以前 の歴史画 だ。神話画 には西 洋 の
は沢山裸体が描 いて ある,希 臓 の神話 に関す るものの如 きはす べ て と言 つてよい,こ れ はそ
の当時の肉体 を鍛練す る習慣 か らと裸体 の美 を早 く知 って居 たか らだ。 … (中 略)…・男 も女
も青春の熱血が総身の脈管 に淡 って居 てオ リーブ油で毎 日拭 いた皮膚の羽二重の如 く柔 らか
で真 白 くかがやいて居 るのが,神 錆ぴたオ リムプスの高原 で彼鹿此鹿 と大 自然 に遊 んで居 て
或 る時 は渓の陰 で浴 した り,或 る時 は湖畔 に茸笛 を吹 いた りした情趣 を誰が醜 と言 はうぞ。
天員流露詐 り無 き人の 自然 は秋 に春 に其本性 をば教 へ たのだ,波 斯や印度 の音 も然 うで あっ
た(1う 。 (傍 点高阪)
端 的 に言 えば,私 に は,中 略 以 降,「 誰 が 醜 と言 は うぞ」 まで の文 章 は まるで ベ ック リーン
(1827-1901)の 絵 の説明 であるかのように思われ る。 とりわ け「湖畔 に葦笛 を吹 いた りした」情
景 は,ベ ック リー ンが1859年 に制作 した『章 の中の牧羊神 パ ー ン』 (バ イエル ン国立絵画収集 , ミュ
ンヘ ン,ノ イエ・ ピナ コテーク蔵。図 1)を 直ち に思 い起 こさせ る(121。
ここでは葦 に囲 まれたパ ー
ンは腰 を下 ろして笛 を吹 き,左 手中景 には湖 らしきものがかすかに見 える。光の処理 によって世 の
注目を引 き,バ イエル ン国エ ルー トヴィ ヒ I世 の命 によ り買 い上 げ となった この図 は,一 躍彼 の名
を世 に轟 かせた有名 な ものであるだけに,さ まざまなベ ック リー ン関係 の書物 ,画 集 に必ず といつ
てよいほど,図 版 としてあがって くるものである。この引用文 のす ぐ後 に青木 がベ ック リー ン (ベ ッ
クリン)の 名 を挙 げてい ることか らすると,こ うした推測 もあながち無謀 とはい えないで あろう。
以下 この引用文末 までの文意 に照 らせ ば,名 を挙 げてい な いなが らも青木が ここ
加 えて,「 情趣 を」
で,ベ ック リー ンの ことを大変高 く評価 して い る ことが わか るのである。 ここまで考 えて来れば
,
先の「 セ ッセ ッショエ ス ト」 について も,ベ ック リー ンには人魚が登場す る絵が多数 ある ことか ら
すると,ベ ック リー ンを暗示 して い る可能性 も無 い とはいえないであろう。
2.西 欧 1900年 前後 におけるベ ック リー ンの評価
ベ ック リー ンの評価 につ いて は,近 年, ドイツ語 圏 をはじめ とす る西洋美術史学 における19世 紀
美術史 の見直 し,ま た20世 紀 も末 を迎 えるとい うことも手伝 って,再 評価 が図 られ,ベ ック リー ン
研究 は一つの高 まりを見せている(13ち しか し,19世 紀末 か ら20世紀初頭 における彼 の評価 について
は,今 日以上 に高 い ものがあったのである。 この点 を高階秀爾氏 はいみ じくも次のように述 べ てい
る。
青木繁の『狂女』考
しか し,十 九世紀 の末 か ら第 一 次大戦前後 にかけての時期 においては,ベ ック リンは世界
で最 も有名 な画家の一人であった と言 つて よい。『 白樺』がその倉lJTJ号 の口絵 にわざわざベ ッ
クリンの作品 を選 んだ とい うその こと自体 が,彼 の名声 をよ く物語 って い る。事実わが国に
おいて も,明 治末年 か ら大正期 にか けての時期の方 が,現 在 よ りもベ ック リンの名 が よ く知
られていた と言 えるだ ろう。かつて,第 二次大戦前 に日本 に招 来 された松方 コレクションの
なかにもベ ック リンの作品が含 まれて いた し,そ の紹介 も,『 白樺』だ けに とどまらなかった
筈 である(10。
雑誌『白樺』な どわが 国 の ことには後 で触れ るとして,そ れに先だって,こ こで近年のベ ック リー
ン研究 の成果 か ら,1900年 前後 の彼 の評価 をもう少 し具体的に見てお こう。ア ン ドレによれば(10,
1890年 頃か ら高 まって きたベ ック リー ンの名声 が頂点 に達す るのは,彼 が70歳 になった1897年 の こ
とであるとい う。 この年,彼 の古稀 を記念 して,大 回顧展 がバーゼル,ベ ル リン,ハ ンブル クで開
催 された(10。 ベ ック リー ンは今 や 同時代 の人々に とうては美術家 を代表す る存在 とな り,さ しずめ
20世 紀 のパ ブ ロ 。ピカソにも,ヒ され る最大 の天 才 と見 なされたのである。それゆえに,1900年 頃 の
ヨーロ ッパ文化の いたるところに, とりわ け ドイツ語圏 において,ベ ック リー ンの影響 が見 いださ
れ るとい う。なお この年 1897年 には,ベ ック リー ンと因縁浅 か らぬ関係 にあった文 化史家 ヤ ーコプ・
ブルクハ ル トが亡 くなって い る(10。
そしてベ ック リー ンは1901年 1月 16日 にフィ レンツェ近郊の フ ィエ ー ブレで この世 を去 るのであ
る。 ドイツ とイタ リアで彼 の追悼式 が行われ た こと以上 に,こ こで注 目すべ きは,ヤ ー コプ 。ブル
行し
クハ ル トの弟子 の一人である美術史家 ハ イ ン リヒ・ アル フレー ト 。シュ ミー トが1892年以 来干」
てきた 『アルノル ト・ ベ ック リー ン。 グラ ビア印刷 による傑作選』 の 4巻 目が この年 に現われ,そ
して 1年 後 の1902年 にこれの本文 として, 4巻 目の付録 の形で 同著者 によるベ ック リー ンの伝記 が
刊行 された ことで ある。さらに1903年 にはベ ックリー ンの作品 目録 が 出 ている(1働 。ア ン ドレの著作
の巻 末文献 目録 を見れば(19,シ ュ ミー トは『パ ーン Pan』 (1897,1898)を はじめ とす る二,二 の雑
誌 にも精力的 に寄稿 して い ることが窺 えるが,だ とすれば,ベ ック リー ンの評価 の確立 に果た した
彼 の功績 は大 きい と言わ ざるをえない。他方,こ うした状況の中 に,ベ ック リー ンを痛烈 に批判 し
たユ リウス・マイアー =グ レー フェの [ベ ック リー ンの場合』 が1905年 に現われた。『ワーグナーの
場合』 の著者 ニ ー チ ェと同様 に,ベ ック リー ンに対す るマ イアー =グ レーフェの態度 も初期作品に
対す る熱狂 か らOの ,後 期作品 に対す る幻滅 へ と変わった ものであるだ けに,批 判 の論調 は鋭 く,造
形面 に とどまらなかった。当時批評家 として重 きをなし,フ ランスの印象派 を好 しとして美術 の発
展 を重視するマ イアー =グ レーフェは,ベ ック リー ンが歴史 に逆行す るものであ り,し か も民族意
識 の強調 を背景 に して い る として,ベ ック リー ンの手法 はお よそ絵 画 と認 めがた い とまで 言 うに
高
阪
一
治
至 った。1ち この書物 の出現 な どによっていわばベ ック リーン熱 は下火 とな り,一 部 の美術家 な どを
別 として,一 般 の人々の関心 はベ ック リー ンか ら離れてゆ くのである。
以上 ,ベ ック リー ンの評価 について見た最後 に,彼 とゼツェシォ ンとの関連 について触 れてお き
た い。ティッテルの調査 によれば(2り ,ベ ック リー ンの美術 は1890年 以後 になる と,保 守派 か らも分
離派 か らも等 しく賞賛 を受 ける ことになる。保守派 か らみれば彼 の美術 にお ける ドイツ的心情が賞
賛の的であるのに対 して,他 方,分 離派 か らは,彼 の美術 にみ られ る色 と形 の 自由な使用 が彼 ら自
身 の制作 の手本 として賞賛 に値 したのである。 こうしてベ ック リー ンの作品 は,以 下の分離派展 で
展観 されたのであった。 1895年 に ミュンヘ ンで 開催 された国際分離派展 ,1899,1900,1901年 のベ
ル リン分離派展が これである。
3.西 欧 19世 紀末 か ら青木没年 までの ドイツ語圏 の美術 とわが 国の美術 との関連
さて こうした ドイツの動 向 は,わ が 国 の美術 といかなる関係 にあったで あろうか。今 ここで は青
木繁 を取 り上 げてい るのであるか ら,問 題 となる時期 は,さ しずめ明治 10年代 の後半 (1882)か ら
青木没年の明治44年 (1911)ま でである。 ところで一般 に対外的な美術交流 となれば,交 流一般 に
おけると同様 に,広 い意味 における人 と「 もの」 による他 はない。すなわち,直 接的 には美術家の
交流 と,作 品の交流であるが,「 ものJに はこの他 に も雑誌 ,新 聞,書 籍 な どによるいわゆる美術関
連情報 も含 まれるであろう。人が動 けば「 もの」が附 いて来 るのが 自然であるが,「 もの」の移動 は
それ とは別 に考 える こともで きるであろう。 また明治期 の 日本美術の在 り様 を考 えてみれ ば, この
交流 という面 において も西洋諸国 とはけっして対等 ではなかったので あるか ら,い きお い西洋諸国
に人 を遣わ して情報 を入手する,な い しは積極的 に「 もの」 の輸入 を通 じて情報 を掴む とい う こと
にな らざるを得 なかった。 もとよ り,こ うした情 報 を受 け入れ,咀 しゃ くし,消 化す るだ けの素地
がわが 国 の美術 になければ,こ うした ことは困難 とい うより不可能 で あったであろう。
そこで まず この時期 の美術家 の留学 について考 えてみよう。留学先 は ドイツ とい う ことになると
,
数 は限 られ る。最初 に挙 がって来 るのは先 に触れた原田直次郎 (文 久 3年 一明治32年 )(1863-1899)
である。彼 は明治 17年 (1884)に 渡欧 して ミュンヘ ンの美術 アカデ ミーで学 び,明 治 20年 (1887)
に帰国 した。彼 が明治23年 (1890)に 制作 した『騎龍観音』 (東 京 ,護 国寺蔵 ,東 京国立近代美術館
寄託 )(図 2)1ま ,芳 賀徹氏 の研究 によって,ベ ック リー ンとの繋 が りが濃 い ものであることが明 ら
か となった。9。 次 に挙 がって来 るのは彫 刻家 ,新 海竹太郎 (慶 応 4年 一昭和 2年 )(1868-1927)で
ある。彼 は明治33年 (1900)に 渡欧 してベル リンの美術 アカデ ミーで E・ ヘ ルテル に学 び,明 治35
年 (1902)の 帰国後 は,太 平洋画会研究所の彫塑教室で北村四海 などとともに後進 の指導 にあたっ
た。朝倉文夫 ,中 原悌 二郎 な どはここで学 んだ者 たちである。 この新海 が 明治 40年 (1907)に 制作
青木繁の F狂 女』考
した『ゆあみ』(東 京国立近代美術館蔵 )に は,海 野弘氏 の指摘す るようには0,ベ ル リンのアカデ ミー
ばか りでな く,先 に見た分離派や ユーゲ ン トシュテ ィールの美術 を日本 に活かそうとした跡 が窺 え
海 の幸 Jが 生 まれ るのである。以上見
る。そ して新海竹太郎が帰国 してわずか二年後 に,青 木 の 写
た ように, ドイツに留学 した者 はわずかに二人 にす ぎない。 しか し彼 らは先 にみた ような ドイツの
美術状況 を,確 かにわが 国 に伝 えた と言 えな いで あろうか。
ドイツの美術状況 をわが国に招来 したのは,人 ばか りではな い。「 もの」もまた これに与 つて大 き
な力 が あったであろう。作品 その ものが今 日の ようにわが国に頻繁 に来 ることは到底期待 で きな
かったのであるか ら,外 国 の画集 や美術雑誌 ,美 術書籍 ,写 真― そのいずれ の場合 もあるい は鮮明
度 に欠 ける複製色図版や白黒 の単色図版であつた と思われ る一 とい った ものが,競 つて求 め られた
ことで あろう。 この とき,受 信機 の役割 を果た したわが国の美術 団体 ,文 学集団 な どの働 き,ま た
国内 の美術家 に対 して いわば送信の役 目を演 じたそれ らの美術雑誌 ,文 学雑誌 な どの活動 は,ま こ
とに大 きな ものがあった と言わ ねばなるまい。次 にこの点 を簡単 に見 てお こう。
前 に挙 げた中村義一氏の著作 『近代 日本美術 の側面』 は明治期 の美術雑誌 の研究 にお いて も詳細
。働
を極 めるが,こ こではなかで も 〈
第二 章「 白樺」の美術移植 〉が大 いに参考 になる 。 といって も
,
われわれの問題 は,繰 り返す まで もな く,青 木 の没年 までの ことで ある。 さて 中村氏 の調査 によれ
ば,ベ ック リー ンが最初 にわが 国 に紹介 されたのは,雑 誌 『明星』明治37年 (1904)6月 号 の図版
([死 の島』を含 む)に おいてであって,こ れ は平田禿木の提供 によるものであった。 この年 は青木
の 『海 の幸』 が第 9回 白馬会展 に出品 された年 にあたる。 そして青木が没す る明治44年 (1911)3
月 までの, ドイツ美術関連情報 となれば,ひ とまず ,明 治43年 (1910)4月 に創刊 された月刊雑誌
『白樺』 の創刊号 まで跳ぶのである。
「『白樺』 の世紀展」の図録 には雑誌 『白樺』所載 の美術関連記事 一 覧 (土 田幸子氏編 )が 挙 が っ
てお り90,こ れ を見れば
治 44年 の第 2巻 にはマ ックス・ ク リンガー,ル ー トヴ ィ ヒ 。フ ォ ン・
,明
ホーフマ ン,ハ イ ン リヒ・ フォーゲラーに関す る記事 の多 い ことが わか る力M2o, ドィッ語圏の美術
関連記事 が より支配的 なのは前年 ,創 刊年 の第 1巻 である。ここで はクリンガー,ホ ー フマ ンの他
,
セガ ンティーニ,ホ ドラー,フ リッツ・ フォ ン・ ウーデが取 り上 げられて い る。だが こ うした個 々
の美術家 の記事以 上 にわれわれ に とって興味深 いの は,児 島喜久雄 による「独逸 の絵 画 にお ける
Neuidealisten(1)」
(第
1号 , 4月 号),「 独逸新 理想派の画家
(承 前)」 (第
2号 , 5月 号 )で ある。
とい うのは,創 刊号 ,第 2号 を飾 った この主要論文 には, ドイツ語圏の絵画へ のまとまった言及が
見 いだされ るばか りでな く,創 刊当初 の『白樺』同人 の西洋美術 に対す る関心の在 りようが,い や
当時 の 日本 の西洋美術 に対する視線 の方向が窺 えるか らである。 さて中村氏 によれば,児 島 は ここ
で リヒャル ト・ムーテルの『19世 紀絵画史』90な どによりなが ら,西 洋絵画 における「現実 の世界
・シ ャ
よ りは理想の世界 を求 める風潮」 を指摘 して,バ ー ン=ジ ョー ンズ,ワ ッツ,ピ ュヴィス・ ド
高 阪 一 治
ヴァンヌ,モ ロー に言及 しつつ,と りわけベ ック リー ン崇拝 に注意 を促 している。そ してベ ック リー
ンとこの系譜 にあるク リンガー の紹介 に努 めるのである。 さればこそベ ック リーンとク リンガーの
作品各 1点 ,そ れにフラ ンツ・ フ ォン・ シュ トゥックの 1点 が創刊号の口絵 にあがってきたので あ
る(29)。
さて以上の ことか ら,原 田直次郎 の留学期 か ら青木 の没 年 に至 るまでのわが 国 にお ける西洋美術
の受容が,ド イツ語 圏 の美術 を中心 にしてなされて きた,と は言 えないであろう。属白樺』に限 らず
,
他の美術雑誌 ,文 学雑誌の ことを考 えてみて も,ま たわれわれが最初 にみたよ うに,青 木 の書 いた
ものを眼 にして も,概 して言 えば,や は り英仏 19世紀後半の絵画が受容 の中心 を占めた と言わね ぼ
なるまい。 しか しその一 方 で,先 に も見た ように, ドイツ語圏の美術がベ ック リー ンを中心 として
注 目 された ことも,事 実である。確かに この『 白樺』の件 は,青 木 に関 して言 うな らば,青 木 の没
年の 1年 前の ことになるのであるか ら,さ して意味 を持 たない と考 えられ るか も知れない。しか し
,
この『白樺』だけに限って も,中 村氏 がその特色 を述 べ る中で指摘す るように,成 立継続 にあた っ
ては外国 の美術雑誌 ,美 術書 が手 にはいる限 り集 め られた とい う。 しか もその多 くは ドイツ語 の も
ので ある。0ち この ことには,武 者小路実篤や先の児島喜久雄が ドイツ語 ができた とい う以上 に,先
に眺めた ように,そ もそ も西洋の美術事情 において,ベ ック リー ンをはじめ とす る ドイツ語圏 の美
術 が注 目の的であった ということが大 きく関与 して い る。 そして この時期 ,か な り短時間で西洋 の
美術事情がわが 国 に もた らされてい ることか らす ると,確 かに F白 樺』 における場合 ほど一つの所
に幾種類 もとい う ことはなかったか も知れな いが,『 白樺』刊行以前 にも,美 術関連 の さまざまな外
国雑誌 ,書 物 が色々な形でわが国に入 って きていた ことで あろう。 そうした ものはやは り,当 時の
美術状況 を色 濃 く反映 していた もの と思われ る。青 木繁 が こうした ものを眼 にし,そ こか ら触発 を
受 けた とい う ことも,あ ながち考 えられない ことで はな いのである。
4.青 木 の『狂女』
・ク リスチャン氏 によって 『海 の幸』
青木繁 と19世 紀後半 の ドイツ美術 との関係で い えば,ジ ョン
とハ ンス・ フ ォン・ マレー (1837-1887)と の類似 点 が指摘 されている。1ち しか し,こ こで取 り上
げる青木 の『狂女』 (図 3)に ついて は,こ の時期 の ドイツ美術 との関連 はおろか,青 木研究 の上で
も従来 あ まり注意 が払われて こなかったように思われ る。紙 に水彩 で明治39年 (1906)に 結 かれた
この作品 は,ま さに河北氏 の指摘 の如 く,小 品ではあるが (29.1× 15,5cm)印 象 の強 い作品 であ り
青 と白の色彩が鋭 い効果 を放 ってい る。り。 しか し,本 作品の成立事情 についてはよ く分 かっていな
,
い。画中の年記か らみて,制 作 は青木繁 の流寓時代 にお ける久留米帰省中の ことで あろうと考 え ら
れて い るが,い かなる場面 が描 かれているのか,ま た どのような表現意図をもってい るのかについ
青木繁の F狂 女』考
71
ては謎 につつ まれて い る, とされ る●0。
この作品 も青木繁の他 の多 くの作品同様 に未完成 で,全 体的 に軽 く施 された賦彩 は図の下 半分 に
ゆ くに従 って疎 とな り,鉛 筆 デ ッサ ンの跡 もそ こここに見 いだ され る。一見すれ ば,い ささか異様
で あるが,そ の効果 は,確 かに,長 い髪 をもち少々 引 き延 ばされてほっそ りとした裸体 の女性 の し
ぐさや,そ の面長 で眼 を大 き く見開 き蒼 白で回の開 いた形相 によるところが大 きい として も,だ が
それ以上 に,そ れ は何 といって も,こ の裸 体 の女性 と,そ の周 りの設定 との組合 せ によるもの と思
われる。板 を思わせ る色 彩 の粗未 な室内の戸 口に立ち,右 手 で何 か簾状 の ものを押 し上 げてい ると
ころを,正 面 か ら描かれた この女性の光景 は,こ れを見 る者 をして,あ たか も この室内にいて,い
ままさにこの女性 の訪問 を受 けたかのような錯覚に陥 らせ るのである。 そ して この錯覚 は,一 方 で
この女性 の姿 勢 に対す る注意 を怠 らせ ることにもなるのである。 しか し冷静 に見れ ば,い ささか変
化 を加 えられてはい るものの,コ ン トラポス トの姿勢 といい,ヴ ェール状 の ものを翻 らせてい るこ
とといい,こ れは西洋 に伝統的 な姿勢 であって,と りわ けヴィーナスに多 く認 め られ るものである。
そう見れば,こ の女性 の足元 にも何 か名状 しがたい ものが見て取れ るが,水 や水 につかったなに物
かを思わせない こともない。
そこで この立像 ヴィーナス型 ない しその周辺の表現 に類例 を求 めれば,身 体 が少 し傾 いて い る点
か らボ ッティチ ェル リの『ヴィーナスの誕生』 が思い浮 かび,ヴ ェール を身 にまとい引 き延 ばされ
てほっそ りとした身体か らは,た とえばルーカス・ クラー ナハ 1世 の女サ
陛像 が挙 がって くるが,い
ずれの場合 も両手の表現 にお い て著 し く異なる。右腕 の表現 においてよ り近 づ くのは,た とえばル
ンゲの『河ヽ
さい朝 J(1808)に おけるオーロラの図 (図
4)や ,シ ャ ンテ ィイの コンデ美術館所蔵の
ア ングルの『海 か ら上が るブィーナス』 (1848)で ある (図
5)。
しか しこれ以上 にわれわれの注意
を引 くのは, もう一点のボ ッティナ ェル リの作品『アペ レス の誹謗』における画面左端 の寓意像「真
実」 (図 6)で ある。頭部 の傾 きと視線 の方 向,左 腕 の しぐさな どにおいて異なる として も,青 木 の
ものにかな り接近 して くる。そして このポーズを19世 紀後半 に着衣像 で用 いたかのように思われ る
のが,バ ーン=ジ ョー ンズ の F希 望』 (1871)で ある。。 (図
7)。
青木 が この作品 をよ く研究 した こ
とは中村氏 の指摘 の如 く。9,F恨 象 の創造』に明 らかである。0。 裸体 と着衣 ,頭 部 と身体 の向 き,下
に向か う腕 の しぐさ,ヴ ェール と花や鎖 の有無 ,鉄 格子 とそこか ら見 える背景 の町並みな どを別 に
すれば,縦 長 の版型 ,人 物 を取 り巻 く室内の設定 において,青 木 の F狂 女』 はバ ー ン=ジ ョーンズ
の 『希望』 を思わせ る。 それは とりわけ画面上部 か ら垂れ下 が るもの (青 木 の場 合 は簾状 の もの
,
バ ーン=ジ ョーンズの場合 は空 )と 上 げた手の しぐさにお いて顕著 である。
しか し,他 方 で,先 にみた両作品の違 い も大 きい と言わねばな らない。バ ー ン=ジ ョー ンズの [希
望』にして も,ボ ッティチ ェル リの「真実」の像 にして も,結 局の ところ,片 方の手 で前 を覆 うウ ェ
ヌスに伝統的なポーズを踏襲 して い る。 しか も『希望Jの 人物像が手 を上 げ見上 げる格好 をとって
高 阪 一 治
い るにもかかわ らず,ほ とん ど運 動 を感 じさせず静 かであるのに対 して,『 狂女』の女性 は一運動 と
言 うのが強 ければ一動揺 を伝 える。 そもそ も『狂女』の両手 のしぐさは,簾 状 の ものを押 し上 げて
い ることを無視すれば,何 かバ ランスをとっているところのよ うに見 える。 そこでさらに類例 を求
めれば,こ れ まで述 べ たベ ック リー ンの作品中 に見 いだされ るのである。す なわち,ベ ック リー ン
が1872年 に制作 した『海 か ら上が るヴィーナス』 (図 8)が これで ある。つ。板 に油彩 で描 かれた本作
00の 際受 けたヤーコ
品 (59× 46cm)は ,1868年 か ら1869年 にか けて制作 された『ヴィーナスの誕生 』
プ・ プルクハ ル トの批評 を考慮 して,工 夫 を凝 らし,プ ッテ ィにヴ ェール をもたせ るのは同様 であ
るにして も,さ らに花環 をもたせ,し か もこの像 の いわば台座 として足元 に怪獣 の如 き海豚 を描 き
カロえた ものである。 さらに,モ ニ ュメンタルな効果 を出すために,視 点 が低 くとられて い る。所蔵
先 について は今 日で はイ タ リアの個人像 で あ るが,1924年 以前 は ドイ ツ語 圏 にあった もので あ
る。働。青木の もの と較 べ てみれば,も とよ り,女 性 の表情 とその周 囲 の描写 はまった く異 なる。ベ ッ
クリー ンの場合 はヴィーナスに通例 の如 く,女 性 の表情 は穏 やかで,周 囲 は海 と空 ,そ して空 に舞
うプ ッティである。だが この ヴィーナスにはいかに もベ ック リー ンらし く,怪獣 のような異様 な海
豚 が描 き添 えられてお り,ヴ ィーナスはそれゆえ, この海豚 の背 に乗 り,運 ばれて い るとい うこと
になる律0。 したが って,こ のヴィーナスの姿勢 は海豚 の背 の上で まさし くバ ランスをとるしぐさな
のである。 さ らに この ブィーナスは青 木 の女 性 の場 合 とで は上 半身 の傾 き,右 腕 の上 げ具合 い
,
ヴェール の多寡 においていささか異なる として も,全 体的 にみれば,両 手 の しぐさ,ヴ ェールがつ
くる流れる線 ,ほ つそ りとした身体 ,低 い視点 のいずれをとって も,両 作品 ははなはだ類似 してい
ると言わざるをえない。カロえて,ベ ック リー ンには,類 似 したポーズの女性像 が他 に も散見 される。
『打ち寄 せ る波』 (1879)に 2年 先立 つ同題 の作品 におけるエ ンフとおば しき女性やにつ(図 9),1879
年頃 の作品 『春の宵』 に登場す るニ ンフ り (こ の場 合 は木 の精 )(図 10)な どである。
“
なるほどこの『狂女』にも青木 の例 の T.B.S.AWOKIと い うサイ ン と年記 がある。確 かに先 の
バ‐ ン=ジ ョーンズの作品 の ことを考 えれば, このサイ ン も実質的な意味 をもつ と言 えるであろう
し,『 希望』 については,事 実 ,青 木 の熟知す るところであった。 その意 味 で,先 にも見 た ように
,
[狂 女』には,『 希望』のなにが しかが反映 されて い るように見 える。 とはい え,こ れ は必ず しもこ
の作品がラフ ァエル前派 の系譜上 にあることを意味す るものではない のだか ら,あ まりにもこのサ
イ ンに引 つ張 られてはな らないであろう。 この とき,私 には,こ の作品が先 に見 たベ ック リー ンの
女性像 の系譜 に位置す るとい う ことが,願 み られて もよい ように思 えるのである。青木 に とってバ ー
ン=ジ ョー ンズが もつ意味 は,決 して過小評価 されてはな らないが,こ こで は着衣 と裸体 の差 に注
目してみたい。 とい うのは,こ の頃 のわが 国で は,裸体像 が 問題 となって い たか らである 0。 この
“
点 を考 え合わせ ると,私 には,青 木 の『狂女』 は,上 述のベ ック リー ンの作品 な どか ら触 発 を受 け
た青木 が,わ が 国の地 に合わせ るべ く文脈 を変 えて描 いたヴィーナス像の ように思われ るのである。
青木繁の F狂 女』考
もとより改めて言 うまで もない ことなが ら,『 狂女』はベ ック リーンの引 き写 しでは決 してない し
,
両作品 か ら受 ける印象 はまった くと言 って よいほ ど異 なる。 ベ ック リー ンの場合 では,海豚 の表 現
に特異 さが現われ ているとして も古典的,神 話的性格 が まだ色濃 く残 るのに対 して,青 木 の場 合 で
は,何 かにおびえた ような表情 が周囲 のいわば道具だて と相 まって神話性 が欠如 し,ロ マ ン派好 み
の「狂女」ない しは「宿命 の女 Jが あ らたに出現 してい るのである。 ここには青木独 自の感性 によ
るベ ック リー ン解釈 をへ て,青 木 によるひ とつの新 しい女性像 が生 まれて い ると言 うべ きであろう。
青木 は設 定 を狂女 にして,狂 女だか らこそ こ うい う こともあ りうるか と思わせ なが ら,そ の実 ,起
源 が ヴィーナスであることを覚 られずに,思 う存分西洋の理想的な一 といって も世紀末 に出現 した
ところの裸体 の女性像 の研究 に励 んだのではなか ろうか。 そしてその上で 自己 の想像力 を駆使 して
青木特有 の『狂女』 を創 り出 したのだ と思われ る。 ここには もはやベ ック リー ンにはな い何 か強烈
な内面 の表出 といった ものが感 じられ る。 もはや単純 に幻影的 ということは言 えな い まで も,起 源
はい まや起 源 に とどまり,い わば未完成 の強 さ,瑞 瑞 しさと相 まって,狂 お しい までに舞 い歌 う一
人の裸体女性 の妖気 が画面 を支配す るもの となっている。
だがそれな ら,青 木 は一体 どこで こうしたベ ック リー ンの図を眼 にす ることがで きたのであろう
か。 これを特定す ることはなかなかに困難 であ り,わ れわれに残 された課題 というべ きである。確
かに青木 は ドイツに,い や海 外 に行 く機会 をもたなかった。 しか し,青 木 の友人梅野満雄 の言 によ
れば,青 木 は勉強家 であ り,上 野 の図書館 に も随分 と通 い,青 木 自身「僕 が駒込 を離れ る事 が 出来
ない のは上野の図書館 があるか らだ」 と言 っていた という 4ち また 『恨象 の創造』 に見 られ るよう
“
に,青 木 の海外美術 に対する知識欲 は旺盛である。加 えて,い ささか逆説的 にいえば,海 外 に行 っ
ていないだ けに,国 内 における海外の美術情報 にははなはだ敏 感 であったのではなか ろうか。 しか
も,す でに述 べ た ように,青 木 の制作時期 は,ベ ック リー ンを頂点 とする ドイツ語圏 の美術 が世界
の注 目を浴びた時期 と重なる部分 が大 きいのである 0。 こうした点か らすれば,先 にもすでに触れ
“
たように,国 内 に多数流入 した と思われ る美術書 ,美 術雑誌 な どを通 じて青木 があのベ ックリー ン
の作品を知 った ことは十分 に考 えられ るのである。 とはいえ,現 段階ではこの ことは推預!の 域 を出
ない。
おわ りに
本稿 では,青 木 の『恨象 の創造』 を導 きの糸 として青木 とベ ック リー ンとの関連 を探 り,『 狂女』
にその美術上 の関連 を見た。われわれは青木 の独 自性 を確保 しつつ,本 作品 を西欧19世紀末美術 の
文脈 において,わ けて も,こ うした ドイツ語 圏 の美術 との結びつ きにお いて,眺 めようと試 みた。
確 かにここに取 り上 げた作品は小品であ り,そ の関連 は青木 の他 の作品 にお い て も考慮 されて然 る
74
高 阪 一 治
べ きであろう。 これを含 めて,わ れわれに残 された課題 は多 い と言わねばならず,本 稿 は問題提起
に とどまると言 うべ きである。 ともあれ,私 には,青 木繁研究 において,ベ ック リー ンに限 らず
,
当時の ドイツ語圏 の美術 との関連 が もう少 し願 み られて もよいよ うに思われるのである。
註
(1)こ こで言及できなかった貴重な文献については,「 青木繁 =明 治浪漫主義 とイギ リス展」の図録所載 の文献 目録を
ご覧 いただきたい。
(2)高 階秀爾,「 青木繁」,『 日本近代美術史論』所載,講 談社学術文庫,1990,117-151頁 は,青 木 を西欧の世紀末芸
術 との関連で捉 え,青 木 の画面の背後 に世紀末的雰囲気を指摘 したす ぐれた論考である。特 に127,146頁 を見 よ。
0
青木繁『傾象の創造よ
, 9頁 。なお本稿 における引用文 においては,原 則 としてかな遣 いは原文のままとし,漢 字
は新字体 を使用 した。
は)同 書,14頁 。
同書,29頁 。
働
(6)同 書,43頁 。
(7)同 書,59,63貢 。原田直次郎 と森鴎外,お よびガブ リエル・ マ ックスの三者の関係については,芳 賀徹氏の著書
F絵 画の領分』
,朝 日新聞社,1984年 の中,H「 画家の留学」における「森鴎外 と原田直次郎」が大変 に有益 である。
また同書,皿 「夏目激石―絵画の領分」は青木繁研究の上でも示唆するところが大 きい。 また原田直次郎 と森鴎外
との関係については,新 関公子氏の論考,「 森鴎外 と原田直次郎―初期二部作
Fう
たかたの記』 F舞 姫』 F文 づかひ』
にみる友情 と協力」
,Fへ るめすよ岩波書店,第 38号 ,1992年 7月 ,106-122頁 。同著者,「 続・森鴎外 と原田直次郎
一二人の表現の特質 をめ ぐって」
,『 へ るめす』第39号 ,1992年 9月 ,144-162頁 に詳 しい。 この文献 については勝
國興氏 のご教示による。
(8)海 野弘
F日
本 のアール・ ヌーブォー』,青 土社,1988,103頁 ,「 モダン・ スタイル再訪―青木繁J
⑬)青 木繁 『偶象の創造』
,20頁 9
10
海野弘,前 掲書,103-105買 。
t〕
青木繁 F侵 象の創造』
,42買 。
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Rolf Andree:Aη 夕
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10
Bёc滝′
力 .う 〃
θG♂ 物,と,9,Basel
u,Munchen 1977,Farbtafe1 7.
主要なものを二,三 挙げてお くなら,以 下のものがある。Rolf Andreα op cit.47ssナ .X″ .,4η ο″ Bdc寛腕
1827-1901.4″Gd形 ′
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g,Kunstmuseum Basel,1977.4″
150.G9う ク盗 洗
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%α Fiesole,Palazzina Mangani,1980 42ssナ
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ク″s s91bsナ
,,電trチ ′
物
《
お邦文 では,以 下の ものがある。高階秀
爾,「 ベ ックリンの再評価」
,同 著者『美の回廊― ドラクロフか らミロまで一』,美 術公論社,1980所載,185-190頁 。
河村錠一郎,「 アルノル ト・ ベ ックリーン。両義的な象徴世界」
,美 術出版社,Fみ づえ』1986,941号 ,68-81頁 。
1987年 に国立西洋美術館で開催 された「バーゼル美術館所蔵作品によるアルノル ト
・ベ ックリーン展」の図録。一 こ
の図録 を見る機会 を得たのは,福 岡県立美術館学芸員西本匡伸氏,な らびに福岡市立美術館学芸員都築悦子氏の ご
好意 による一。美術出版社,『 美術手帖』1987,3月 号の特集頁
「世紀末 を射 る二つのB。 バーン=ジ ョー ンズ とベ ッ
青木繁の F狂 女』考
クリーン」 に所載の,高 山宏,「 死 と球体J,58-67頁 , と池内紀,「 新 しい時代 の大いなる予言者」
,82-91貢 。拙
稿「ベ ックリーンとマレーーベ ックリーンの F春 のめざめ』 (1880,チ ュー リッヒ美術館)を めぐって一」,同 志社
大学文学部美学・芸術学研究室 『美学・ 藝術学』第 6号 ,1991,17-36頁 参照。
10 高階秀爾,前 掲「ベ ックリンの再評価」,186頁 。
10 Rolf Andree:Arnold BOcklins Leben lni Rolf Andree,op.cit.,S1634.
・クロニク』
10 バ ーゼルで開催 された大回顧展については,ハ インリヒ・ ヴェルフリンがその展覧会評 を『クンス ト
に書 いている。Heinrich Wё l■ lin:Die BOcklin― Autttellung zu Basel.In:κ ″%sた 力抱η力,NF
IX,1897,S.
%Basel
3437.ま た1898年 の Basler」 ahrbuぬ に掲載 された彼 による祝辞 は,Heinrich Wδ lfflin:K筋 %Sθ力拗
1946の 109か ら118頁 に再録 されている。
同書253頁 参照。この折,祝 賀ムー ドの中で発行 されたベ ック リーン記念カー
ドに関する興味深 い記述 については,ク リスティアン・ ゲールハール,「 アルノル ト・ ベ ックリーンとバーゼル」
,
前掲「バ ーゼル美術館所蔵作品によるアルノル ト・ ベ ックリーン展」の図録所載,42買 参照。
10 この関係 については,Werner Kaegと
'鍵
Bё cklin
und Burckhardt ln:Werner Kaegi力 ωう〕″♭物妨
E力 θ
郭妙力虎,Bd.VII,Basel 1982,S243248.を 見よ。 また ドロテア・ クリス ト,「 アルノル ト・ ベ ックリーン P
アルノル ト・ ベ ックリーン !」 ,前 掲「バーゼル美術館所蔵作品 によるアルノル ト・ ベ ックリーン展」の図録所載
,
キ リス ト
17頁 ,ま たクリスティアン・ ゲールハ ール氏の前掲論文,同 図録所載,37-40頁 ,さ らに有川治男氏,「 《
の死 を嘆 くマググラのマ リア)を めぐるノー ト」,同 図録所載,56,57買 ,海 津忠雄氏 の著書『中世人 の知恵―バー
ゼルの美術か ら』,新 教出版社,1984の 35頁 以下参照。
10 Heinrich AIfred Schmid:ん 勿 ″
Bδcttt加 .Eケ η♂4熔 ωク
カ′力π 力¢
紹ο矧昭♂
ηゐルを
杉力¢力sK″ ηs鯵 盗 カ
'フ
P力ο
ttQgttα υ
″拓
♂.4 Bde Munchen 1892-1902 Bd l, 1892;Bd.2, 1895;Bd 3, 1897i Bd 4,1901,Bellage:Arnold
B6cklin, Sein Leben und sein Schaffen, 1902
Heinrich Alfred Sch■ lidi И%7'c力 ″λ 力7
,フ 杉
力7
4η翅″
βσθ
々′
ゲ
物s. Neudruck, der die Nachforschungen bis zunl Herbst 1902 enthalt. Munchen 1903
191 Rolf Andree:op cit,S 558.
90 1895年 ,オ ッ トー 。」・ ビアバ ウム とともにユ リウス・ マイアー=グ レーフェによってベル リンで創刊された雑
″″=G絡 ″ 盗 αオ
誌 Fパ ーン』は,ベ ックリーンを指導理念 として生 まれたものである。Kenworh MoffettフИ♂
ガ肱 ,WIunchen 1973,p.165,note 232参 照。
じ
ゲ
ルη,Stuttgart 1905,ま た
′Bσ諺力
物 ″η,ブ カ L力 ″ ク
οη 力″ 近カカ¢
9, Alfred JuliuS A4eier Graefe:D″ 脆 ′
Kenworth Moffett op.cit,pp.5260(Der Fall B6cklin)を
参照。 ドロテア・ クリス ト,前 掲論文, 9買 にも
百及がある。 また Thomas ヽ . Gaehtgens: Les rapports de l'histoire de l'art et de l'art cOntemporain en
│「
Allemagne a l'opoque de W01fflin et de Meier―
Graefe lnI Rθ 物♂虎 力″,N° 88,1990,p.31-38は , 当時の現
代美術の代表 としてベ ック リーンを取 り上 げ,そ の評価 をめぐるもの として,興 味深 い。
1221 Lutz Tittel Die Beurteilung Arnold BOcklins in der Zeitschrift fur bildende Kunst von 1866 bis 1901 1n:
4ク sGナ
Kαサ4夕 ηο凌
″Bdc滝′
力 , Basel 1977, S. 123-130.
90 芳賀徹,前 掲書,245-262頁 。
90 海野弘,前 掲書,50,51頁 。
12FOl
,造 形社,1976,109-149買 。特 に■2-127買 。
中村義―,F近 代 日本美術の側面―明治洋画 とイギリス美術―』
以下 この項特に断わ らない限 り,中 村氏 の研究に依る。 また『白樺』に関す るす ぐれた考察 に,高 階秀爾氏 の「 F白
,同 著書『 日本近代の美意識』青土社,1986
樺』 と近代美術」ならびに「明治三十年代芸術 における世紀末的背景」
所載,各 321-371貢 ,61-80頁 がある。1981年 に西宮市大谷記念美術館 で開催 された「『白樺』の世紀展」の図録 も
高 阪 一 治
貴重である。
90
90
前掲図録,121-126買 。
クリンガーはベ ックリーンと,ま たホーフマンはベ ックリーンと同時代 のハ ンス・ フォン・ マレー と結 びつきの
強い美術家である。なおクリンガーに関する邦文文献には,1988年 に国立西洋美術館で開催 された「マ ックス・ ク
リンガー展」の図録,お よび『みづえ』1988,946号 に掲載 された千足仲行,「 夢 と現実の間で―マ ックス・ クリン
ガーの近代性」,78-96買 と,池 内紀,「 〈
劇〉を読 む―版画連作
90 Richard Muthe■
av"渤 修 虎″励
Fド
ラマ』 をめぐって」同誌,106-107頁 がある。
″ケが
η 19.ヵ カルク″虎オ,3 Bde.1893/94 Richard Muther attι 助
げ 肋 力陶 覺励 ″ηg,4 vols,,1907,vo1 3,Book 4,esp.pp.151247.ベ
リ
ックリーンについては225頁 以下。 この
英語文献については勝國興氏の ご好意 により見 る機会を得た。
90
『森の沈黙』,ク リンガー『An
中村義―,前 掲書,124頁 。なおこれ らの複製図版 は次のものである。ベ ック リーン
die Schё nheit(美
に)』 ,シ ュ トゥック『罪』
。高階秀爾,「『白樺』 と近代美術J,同 著者
F日
本近代 の美意識』所載
330,331頁 。
00
中村義―,前 掲書,■ 2-■ 6買 9
00 」ohn
claristiani Shigeru AOki and the Pre―
Raphaelites。
また この翻訳,ジ ョン・ クリスチャン,〈 青木繁 とラ
ファエル前派〉
図録所載,32,37頁 。ただし,こ の翻訳では Hans von Marё es
,「 青木繁 =明 治浪漫主義 とイギ リス展」
の表記 はハ ンス・ フォン・ マレース となっている。 ジョン・ クリスチャン氏 はマレーの作品名 を挙 げていないが
,
おそらく,マ レーが1873年 にナポ リ臨海研究所の 2階 の一室,元 図書室 として使われた部屋の 4つ の壁 に,フ レス
コ画で描 いたいわゆる Fナ ポ リのフレスコ画』の中,北 壁中央図「漕手J,そ してあるいはさらに西壁「漁に出かけ
る漁夫たち」の図のことを,ま たベル リンロ立美術館
(旧 西)に 所蔵 されている北壁の油彩習作のことを指 してい
るのだ と思われる。なお,館 蔵品図録 『石橋財団石橋美術館名作選』1990,に おける26『 海の幸』の項参照。 また
ハ ンス・ フォン・マレーに関する邦文では,以 下の拙稿 を参照されたい。「ハ ンス・ フォン・ マレーーその芸術 の基
本的立場 を求めて一」,同 志社哲学年報, 3号 ,52-73頁 ,1980。 「ハ ンス・ フォン・ マレーの Fナ ポリのフレスコ
画についてJ(上 ,中 の 1,2),鳥 取大学教養部紀要,17巻 ,77-119買 ,1983。 同21巻 ,65-86頁 ,1987。 同23巻
■-28頁 ,1989。 「ハ ンス・ フォン・マレーの
Fマ
,
レーー レーンバ ッハニ人 肖像画』 (1863)」 ,同 志社大学文学部美
学・芸術学研究室 『美学・ 藝術学』第 5号 ,40-55頁 ,1990。 また註■前掲の拙稿。なおジョン・ クリスチャン氏
の指摘以前か ら,マ レー と青木 との関係 については勝國興,前 川誠郎の両氏か ら示唆を得てい ることを申し添えた
い。筆者の見解については他 日を期 したい。
河北倫明,前 掲書,33頁 。同著者,青 木繁,日 経 ポケット・ ギャラリー,1991,22『 狂女』の項。
9か
3)館 蔵品図録
/
F石 橋財団石橋美術館名作選』1990,30『 狂女』の項。なお従来の解釈については,ま た河北倫明
嘉門安雄,F現 代 日本美術全集 7 青木繁/藤 島武二』,集 英社,1972の 作品解説 (解 説,河 北倫明),な らびに中央
公論社,『 カンブァス
日本の名画12 青木繁』,1978の 大島清氏の作品解説,さ らに朝 日新聞社,Fア サ ヒグラフ別
冊 美術特集 日本編53 青木繁』,1988の 橋富博喜氏の作品解説をも参照。
00 1987年 に伊勢丹美術館,石 橋美術館,栃 木県立美術館,山 梨県立美術館 で開催 された「バーン=ジ ョーンズと後
期 ラファエル前派展」の図録,15図 。同図録,64,65頁 。
00
中村義一,前 掲書,194頁 。なお同書には図版第 7図 としてボス トン美術館所蔵のバ ーン=ジ ョーンズの F希 望』
が挙がっている。
90
青木繁,「 年月不詳 の断片」,F信 象の創造』所載,63-67頁 ,特 に63,64頁 。
13' Rolf Andree:op.cit,,Farbtafe1 22
青木繁の『狂女』考
77
1381 Rolf Andreα op.cit,,Farbtafd 21.
硼 Rolf Andree:op.cit.IS.368f.■
10
,応 Sサ
″ Bδ a々 ′
ゲ
″,BaSel 1977,S,101.
・娩 チ
・,4″ 勿ο
この点は,龍 と観音 という組合せに違いはあるものの,ど こか原田直次郎の『騎龍観音』を思わさないでもない。
D Rolf Andree:oっ ,cit,,S.406.Kat.Nr.舒 〕
7.
“
8参 Rolf Andreα Op.cit.,S.408,Kat.Nr,33.1.
匠秀夫,〈「朝散」―裸体画問題 とその前後〉
,集 英社,『 全集 美術のなかの裸婦。12 日本の裸婦J,1餌 1所 載
二
118-127貢 ,お よび中村義 ,『 日本近代美術論争史』
,求 龍堂11981参 照c
1431
,
10 梅野満施 「憶,青 木繁君」,竹藤寛,前 掲書,92買 志
99 高階秀爾氏はもう少し広い視野からであるが,「 明治ロマネスクの構造J,同 著者『日本近代の美意識』所載,385
頁において,い みじくも次のように述べている。
「 とすれば,わ れわれは,明 治の三十年代力ヽ 西欧 においては1900
年前後のいわゆる世紀末芸術の全盛期 とちょうど重なりあっているという事実の重みを,嫌 でももう一度考え直し
てみなけ│れ ばならない。
」
副
潮
│
齢
図
l A
ベ ック リー ン
葦 の 中 の牧羊神 パ ー ン
1859年
図2
原 田直次郎
騎龍観昔
ミュンヘ ン
1890(明 治 23)年
ノイエ・ ピナ コテ ー ク
東京
護 国寺
青木繁
狂女
1906(明 治 39)年
紙 に水 彩
29.1× 15.5cm
石橋 美術館
図
8 A.ベ
ック リー ン
海 か ら上が るヴ ィーナ ス
1872年
板 に油 彩 59× 46cm
ベル リン 個人蔵
Ⅷ排襴 ⑤ ﹃
曽対﹄蝋
図3
副 淵 ︱ 部
図9
A.ベ ック リー ン
打 ち寄 せ る波
1877年
チ ュー リッヒ美術館
図 10
A.ベ ック リー ン
春 の宵
部分 図
1879牟 Fuミ
フランクフル ト・ ア ム・ マ イ ン
(1920年 の時 点 )
その後所在不明
Ph.オ
ッ トー・ ル ンゲ
小 さい朝
部分 図
図5
ア ングル
海 か ら上が るヴ ィーナ ス
1808年
ハ ンブル ク
1848:F
クンス トハ ン
コンデ美術館
シ ャ ンテ ィイ
Ⅷ排澱○ ﹃
曽対﹄N
図4
副
溺
│
郎
図6
ボ ッテ ィチ ェル リ
アペ レスの誹謗 部分 図
図 7
バ ー ン =ン ョー ンズ
希望
1495と Fuミ
1871年
フ ィ レンツェ ー
ニ ュー ジー ラ ン ド
ウフ ィー ツ ィ美術館
ダ ニ ー デ ィ ン美術 館
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