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戦争と和田村~記録集(ファイル名:tokubetsutenkiroku

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戦争と和田村~記録集(ファイル名:tokubetsutenkiroku
終戦70年平和祈念特別展
「忘れ得ぬ記憶」~戦争と和田村~
記 録 集
平成27年度
和 田 公 民 館
終戦70年平和祈念特別展
「忘れ得ぬ記憶」~戦争と和田村~
目
終戦70年平和祈念特別展事業概要
記録集
次
………………………
3ページ
開催にあたり …………………………………………………
4ページ
和田郷友会と『忘れ得ぬ記憶』について …………………
5ページ
〔従軍の記憶〕
1)兵役制度と赤紙について
………………………………
7ページ
2)千人針と応召兵士の見送りについて …………………
8ページ
証言①~⑧、資料①~⑤
〔学校の記憶〕
1)戦時中の和田小学校の様子 ……………………………
20ページ
2)教育勅語について ………………………………………
21ページ
証言①~⑥、資料①
3)青年学校について ………………………………………
27ページ
4)閉鎖を迫られる天辺学館
………………………………
28ページ
1)防空体制の強化と和田小学校のサイレン ……………
29ページ
2)空襲と伊篠に落ちたB29 ……………………………
30ページ
〔空襲の記憶〕
資料①~④
〔生活の記憶〕
1)苦しい戦時下の生活 ……………………………………
34ページ
2)衣料切符について ………………………………………
35ページ
資料①~⑥
3)戦時中にあった様々な供出 ……………………………
39ページ
資料⑦~⑨
4)頻繁に行われた勤労奉仕
………………………………
42ページ
5)軍隊の駐屯 ………………………………………………
44ページ
資料⑩~⑫
資料⑬
〔抑留の記憶〕
満蒙開拓団青少年義勇隊と岡本廣さん ……………………
46ページ
証言①~④、資料①
〔戦没者の記憶〕
1)戦没者数について ………………………………………
51ページ
2)2つの忠魂碑について
…………………………………
52ページ
………………………………
54ページ
さらなる平和への願い ………………………………………
68ページ
年表 ……………………………………………………………
69ページ
3)村葬の実施状況について
資料①~③、証言①~⑩
1
この特別展は、平成2年に和田地区住民の手によりま
とめられた戦争体験記『忘れ得ぬ記憶』を基本資料とし
て、『和田村史』
、和田小学校創立60周年記念『校史』
などの地区資料も活用し、住民から提供された千人針や
軍隊手帳などの実物資料を展示し、戦時中の思い出をパ
ネルで紹介することにより、戦争の悲惨さを語り継ぎ、
平和の尊さを学ぶための機会とする、終戦70年平和祈
念のための事業として実施しました。なお、平成27年
は、佐倉市平和条例施行20周年の年でもあります。
本記録集では、特別展で紹介できなかった内容も一部
加味して、編集いたしました。
【展示方針】
①満州事変(昭和6年)から終戦まで(一部戦後を含む)を対象とし、旧和田村関
係の戦争体験、出来事を中心に紹介する。
②この特別展で、旧和田村出身の戦没者全員を取り上げることを目標とする。
③従軍の記憶、学校の記憶、空襲の記憶、生活の記憶、抑留の記憶、戦没者の記憶
の6つのテーマに分け、資料整理して分かりやすい展示に努める。
④小・中学生にも理解しやすいように、イラストや写真を十分に活用する。
*本展で使用した主な参考・引用文献
1)『忘れ得ぬ記憶』
和田郷友会
平成2年発行
2)『和田村史』
和田郷土史編纂委員会
昭和63年発行
3)和田小学校創立60周年記念
校史編纂委員会
昭和46年発行
『校史』
4)「八木区有文書」
八木区所蔵
5)「大川家文書」
大川悦司氏所蔵
6)「天辺学館日誌」
檜貝長雄氏所蔵
*天辺学館は、大正5年に檜貝勇吉が設立した私立学校
2
終戦70年平和祈念特別展
「忘れ得ぬ記憶」~戦争と和田村~(事業概要)
期 日
平成27年7月8日(水)~9月27日(日)
会 場
和田ふるさと館歴史民俗資料室
(佐倉市八木 850-1)
総入場者数
1,075 人
(関連イベント)
(1)オープニング・セレモニー
日
時
平成27年7月8日(水)
午前10時30分より
場 所
和田ふるさと館玄関ホール
概 要
茅野教育長による主催者あいさつ、蕨市長、栗山
勇氏(元和田郷友会会員)、真行寺才江子氏(元和田
小学校教諭)による来賓あいさつ、和田小学校5・
6年生による発表(朗読及び合唱)が行われる
(2)特別展巡回展示
①10/10~10/21
中央公民館1階ロビー
②11/25~11/29
志津コミュニティーセンター・ホワイエ
③12/1~12/6
臼井公民館2階展示室
3
開催にあたり
終戦から70年もの歳月が経過し、戦争体験者が激減して、戦争を
知らない世代が大多数を占めている現代社会において、私たちが二
度と戦争の過ちを繰り返さない、平和を希求する強い信念を持ち続
けるためにも、苦しかった過去、悲しい出来事にも敢えて目を向け、
戦争があった当時の状況を知り、それを次の世代に語り継いでいく
ことの重要性が益々高まってきております。
このたび開催いたします終戦70年平和祈念特別展「忘れ得ぬ記
憶 ~戦争と和田村~ 」では、平成2年に和田地区住民が中心とな
って出版した『忘れ得ぬ記憶』という戦争体験記録を基本資料とし
て、
『和田村史』や和田小学校創立60周年記念『校史』など過去に
地区でまとめられた資料を活用しながら、それら資料に収録されて
いる住民の記憶を掘り起こして、戦時中の和田村の様子を詳しく紹
介していきます。
この特別展のために、写真、日記、手紙、千人針、軍隊手帳、衣
料切符、防空頭巾、戦死公報や特攻隊員の遺書など当時の貴重な品々
が、住民の皆様から厳しかった当時の思い出とともに提供されてお
ります。
和田村という一農村で何が起きたのか、住民の体験談や資料が物
語る戦争の実態を皆様にご覧いただくことにより、戦争の悲惨さ、
平和の尊さを再認識し、その気持ちを次世代に語り継ぐ機会となれ
ば幸いです。
なお、本展の開催にあたり、戦没者ご遺族をはじめとする多くの
地区住民の皆様方に多大なるご理解・ご協力を賜りましたこと、ま
た、下志津駐屯地広報史料館、平和祈念展示資料館、東京大空襲・
戦災資料センターより貴重な所蔵資料や情報を快くご提供ください
ましたことに、心より感謝申し上げます。
平成27年7月
佐倉市教育委員会
教育長
茅 野 達 也
4
和田郷友会と『忘れ得ぬ記憶』について
み
ぞ
う
先の大戦は、有史以来未曾有の尊い犠牲、多くの若者の命が奪われ
る中で、昭和20年8月15日の敗戦によって終結しました。戦後
の荒廃は目を覆うばかりで、大切な家族を失った傷も癒えぬまま、
食糧や衣類もなく、ただ必死になってその日その日を生きていくと
いう厳しい日々を送りました。
こうした努力の末に、我が国は目覚ましい復興を遂げていくこと
ま
になりますが、その 礎 となった戦没者に想いを致すとき、先ずは生
き残った者が戦没者の慰霊並びにご遺族への慰問、傷痍軍人への援
助をしていくべきだとの考えの下、昭和29年2月21日、和田地
区内の従軍経験者を中心として、「和田郷友会」が結成されました。
初代会長は瓜坪の内田寅之助氏で、結成時に会員198名を集め
て活動を開始し、毎年3月25日の和田地区招魂祭、戦没者英霊の
墓参、忠魂碑前の清掃、和田小学校での慰問演芸会等の行事を行っ
て参りました。そして、総会及び会員相互の親睦も兼ねて、毎年7
月には一泊の研修旅行も実施致しました。
この研修旅行では、戦場での体験や戦没者の思い出・功績などが
しばしば話題となり、高齢化により年を追うに従って会員数が減少
していく現状に鑑 み、
「戦争の実態を正しく後世に伝えていくべきだ」
との声が自然発生的に会員相互に起こり、会として記録集を発刊す
ることとなりました。
戦争体験記『忘れ得ぬ記憶』は、再び繰り返してはならない戦争
への反省と、亡き英霊の鎮魂を祈念して、会員並びに遺族会その他
多くの方々のご支援・ご協力により、また「佐倉街づくり文化振興
基金」の援助を受けて、平成2年7月に刊行致しました。
和田郷友会は平成18年2月に解散となりましたが、終戦70年
を迎える時に当たり、和田公民館主催の平和祈念特別展で本書が取
り上げられることは望外の喜びであり、悲惨な戦争を体験した人々
の生の声に耳を傾け、一人でも多くの方々に戦争の実態を語り継い
でいただきたいと存じます。
お お
い
いしずえ
し ょう い
かんが
平成27年7月
旧和田郷友会会員
栗 山
勇(95歳)
5
『忘れ得ぬ記憶』
和田郷友会編集
(編集者) 山本亮三
熱田久司
(
『
忘
れ
得
ぬ
記
憶
』
よ
り
抜
粋
)
し世にい
た代苦ま
。にしす
語んが
りだ、
つ兵戦
ぐ士う
たたに
めちも
にの武
、生器
心き、
をた弾
こ記薬
め録も
てはな
ま少い
となま
めいま
あ。に
げ若飢
まいえ
六
、
戦
争
体
験
の
記
録
を
綴
っ
た
も
の
は
、
た
く
さ
ん
出
て
持
ち
を
大
切
に
し
て
お
り
ま
す
。
隊
用
語
等
に
つ
い
て
は
、
そ
の
ま
ま
つ
か
い
、
筆
者
の
気
統
一
し
て
お
り
ま
せ
ん
。
慣
用
し
て
い
る
も
の
、
ま
た
軍
平成2年7月発行
戸村正治
栗山
檜貝信一郎
円城寺治司
五
、
表
記
に
つ
い
て
は
、
常
用
漢
字
、
現
代
か
な
づ
か
い
に
き
る
だ
け
正
確
に
記
述
す
る
よ
う
に
つ
と
め
ま
し
た
。
さ
ん
あ
り
ま
す
。
昔
の
地
図
を
見
て
文
字
を
つ
く
り
、
で
四
、
中
国
の
地
名
に
つ
い
て
は
、
漢
字
表
に
無
い
字
が
た
く
し
ま
し
た
。
適
当
で
な
い
と
こ
ろ
は
お
許
し
願
い
ま
す
。
て
い
る
方
に
つ
い
て
は
、
原
稿
の
内
容
で
分
け
る
こ
と
に
三
、
戦
場
ご
と
に
記
録
を
ま
と
め
て
み
ま
し
た
が
、
移
動
し
勇
池田勝治
鈴木
由
(画)
石渡
武
(書)
戸村
光
(写真)
路野吉野
(協力)
立田
内
容
は
自
由
に
書
い
て
頂
き
ま
し
た
。
な
い
も
の
と
が
あ
り
ま
す
。
事
実
を
書
き
残
す
た
め
に
、
に
は
、
今
な
お
鮮
明
に
記
憶
し
て
い
る
も
の
と
、
そ
う
で
二
、
戦
火
を
く
ぐ
り
、
不
思
議
に
も
生
き
残
っ
た
体
験
の
中
い
で
す
。
々
へ
の
鎮
魂
の
譜
と
し
て
受
け
止
め
て
い
た
だ
け
れ
ば
幸
實
で
は
あ
り
ま
せ
ん
。
文
章
は
拙
く
て
も
、
戦
死
さ
れ
た
方
一
、
こ
こ
に
寄
せ
ら
れ
た
体
験
記
は
、
単
な
る
追
悼
や
作
文
6
〔従軍の記憶〕
1)兵役制度と赤紙について
国民の義務(兵役法)として、当時は満20歳を迎えた成年男子は徴兵検査
ぼ
を受けて、その検査結果(甲・乙・丙・丁・戊の5区分)に従って、兵役に服
しなければなりませんでした。兵役の種類としては常備兵役(予備兵役を含む)、
こ う び
後備兵役、補充兵役、国民兵役の4種類で、一般に「現役入隊」と言われるの
は常備兵役のことを指し、陸軍では2年、海軍では3年間服役しなくてはなり
ませんでした。
戦争が激化すると、人員補充のため
常備兵役以外の者にも臨時の召集が
あって兵役に服さなくてはなりませ
んが、その召集令状が赤い色(戦争末
期には色が薄くなる)の紙であったた
め、通称「赤紙」と呼ばれて、受領し
おもむ
た者は戦地に 赴 く覚悟を決めなくて
臨時召集令状(赤紙)平和祈念展示資料館所蔵
はなりませんでした。
和田村の場合は、役場の兵事係職員が臨時召集者に対してこの赤紙を届ける
ことになっていて、海保治郎吉さんが長くこの兵事係を務めていたそうです。
なお、昭和18年12月23日に徴兵適齢臨時特例が定められて、これによ
って昭和19年からは徴兵検査を受けて兵役に服すべき年齢が、満19歳に引
き下げられたため、さらに多くの若者が戦地に行くことになってしまいました。
入営の受付に並ぶ応召者の列(受付後、軍服が支給される)個人所蔵
7
2)千人針と応召兵士の見送りについて
しゅっせい
軍隊への入営や出征が決まると、武運長久、
安泰を祈願して、女性たちが1メートルほど
の白布に、1人1針ずつ縫って千個の縫い玉
をつけたものを「千人針」と称して、召集を
受けた兵士に手渡すことがしばしば行われ
千人針(栗山勇氏所蔵)
ていました。
その縫い玉の図柄として、
「虎は千里を走って千里をもどる」との言い伝えか
ら、虎を描くことが多かったと言われております。また、「死線」「苦戦」を越
えるという意味で、五銭や十銭硬貨を縫い付けることもありました。
応召兵士が出発する日には、各部落に
ちんじゅ
ある鎮守 様で武運長久の祈願と激励の
あいさつ
挨拶などがあって、のぼり旗などを立て
ながら多くの住民が南酒々井駅まで見送
りに行きました。
ろ こ う きょう
なお、天辺学館日誌によると、盧溝 橋
事件発生後の昭和12年8月~11月に
出征兵士の見送り(画・佐々木大次郎氏)
盛んに応召兵士の見送りがあったことが
分かっており、また、太平洋戦争直前の
こ の え
昭和16年7月には、秘密保持のためか通常とは異なり、近衛師
団司令部から応召員見送りを禁止する通達があったことが、八
木区有文書から明らかになっています。
和兵第八九號
昭和十六年七月七日
和 田 村 長
各区長殿
應召員見送リニ関スル件
今般近衛師団司令部ヨリ左記ノ通知有之候
間区内一般ニ御周知方御取計相成度及通牒候也
記
幟旗
(片岡武氏所蔵)
爾今應召員ノ見送リハ絶対厳禁(「八木区有文書」)
8
いもん
証言①
櫻井恒治さんの戦争体験と慰問文
直弥の櫻井恒治さんは、昭和13年12月に現
役兵として歩兵第57連隊に入隊し、本隊が駐屯
している満州の孫呉に派遣されて、国境警備の任
務に就くことになります。
年が明けて5月にモンゴル共和国との国境紛争
でノモンハン事件が発生し、戦局の悪化から櫻井
さんはノモンハンに派兵される部隊の一員となり
かつ
ました。重い装備を担ぎながら歩き続けてようや
くノモンハンに到着してみると、そこで待ってい
たのは捨て身の攻撃をする決死隊の募集でした。
強力なソ連軍の戦車隊に対抗するため、生身の
兵隊が爆弾を抱えて戦車に飛び込むという決死隊
には誰も志願者がいませんでしたが、戦友が何度
櫻井恒治さん
も脇をつついてくるので、仕方なく櫻井さんは志
願しました。志願した6人の決死隊は全員肩章を取らされ、
「こちらが故郷の方
向だ。親兄弟や肉親に別れを告げろ」と言われて、その後食事を供されました
が、誰も食べる人はいません。櫻井さんは2日間泣き続けていたそうです。
ところが、数日すると「決死隊
は別命あるまで待機」ということ
になって、運よく停戦協定(9月
15日)が結ばれたことが分かり、
櫻井さんは命拾いします。
戦地の厳しい生活が続く中、櫻
井さんを慰めてくれたものは、全
国各地から送られてくる慰問文
で、櫻井さんはそれを捨てずに丁
寧に綴り、兵役を終えた後も自宅
に持ち帰りました。櫻井さんは
「私の大切な宝物である」とおっ
しゃっていました。
(
櫻
井
恒
治
氏
慰
問
文
綴
り
よ
り
)
ま
だ
お
手
も
と
に
お
と
ゞ
き
に
な
り
ま
せ
ん
で
し
や
う
か
慰
問
袋
を
お
送
り
し
た
の
で
す
け
れ
ど
此
の
間
二
月
下
旬
頃
他
事
な
が
ら
御
安
心
下
さ
い
ま
せ
私
も
其
の
後
元
氣
に
暮
し
て
居
り
ま
す
か
ら
ほ
ん
た
う
に
御
苦
勞
様
で
ご
ざ
い
ま
す
其
の
後
も
お
元
氣
に
お
働
き
の
事
三
月
三
日
付
の
お
便
り
有
難
た
う
ご
ざ
い
ま
し
た
大
東
亞
戰
争
も
早
や
三
ヶ
月
を
迎
へ
ま
し
た
和
や
か
な
春
風
に
の
せ
ら
れ
て
9
証言②
結婚3カ月で召集を受けた円城寺一郎さん
八木の円城寺一郎さんは昭和13年に軍隊
に現役入隊し、昭和15年9月に満期除隊と
なるまで、ソ連(ロシア)と満州の国境警備
に従事していました。その後、昭和19年ま
でに一度も召集が来なかったので、
「もう結婚
しても大丈夫だろう」ということで、その年
の2月23日に幸代さんと結婚しました。
当時の結婚式としては、新郎、仲人、親族
代表が嫁をもらいに行き、そこで昼食をとっ
出征前に撮影した記念写真
て、新婦を連れ帰ってから、改めて新郎の家
で近所の人たちも交えて披露宴をします。戦
円城寺一郎・幸代ご夫妻
争のため食糧のほとんどが配給制であり、戦
局が悪化していた昭和19年では、食材をそ
ろえること自体がとても大変なことでした。その時の献立は次のとおりです。
ところが、わずか3か
月後の5月23日、夫婦
で田うないをしていた
時に召集令状(赤紙)が
届いて、円城寺さんは近
衛歩兵第10連隊に入
〇鯛のお頭の代わりに、鮒の甘露煮
〇野菜のてんぷら
〇餅の縁を食紅で色をつけて、かまぼこ
に見立てたもの
〇サツマイモで作った羊羹
〇酒(配給されたものを貯めていた)
隊することになってし
まったのです。最後の別れになるかもしれないと思った円城寺さんは、おむす
びを持って、幸代さんと一緒に香取・鹿島両神宮にお参りに行ったそうです。
幸運なことに、円城寺さんは昭和20年9月23日に無事家に帰って来るこ
とが出来ました。
「帰ったぞー」という声を一番喜んでくれたのは、妻の幸代さ
んでした。
10
証言③
栗山
勇(上代出身)さん
昭和15年1月に、現役兵として歩兵第3連隊に入隊。北支派遣となる
が、故郷を離れて戦地に赴く様子を次のように伝えています。
昭和十五年一月十三日東京麻布歩兵第三連隊ト、部隊トホに入隊すべしの現
役証書を受領、一月十二日故郷の皆さんの歓呼の声に送られて出発、都内本郷
の旅館で一泊、十三日早朝入隊。人員点呼を終わると各中隊毎「廻れ右」、私服
のまま再び営門を出て築地付近の旅館に数名ずつ分宿、翌日近くの小学校で兵
器、被服受領、国防婦人会の人に階級章(二等兵)をつけてもらい、天晴れ二
等兵殿。
翌十五日家族との面会。気も晴れ晴れと十六日早朝、芝浦埠頭に向かう。十
り
一時乗船を終わり「出征兵士を送る歌」の吹奏裡に出港。
せんそう
船は北海道炭鉱汽船の威岐丸とか、船艙を二段にした船室は装具と兵隊で身
動きも出来ないすし詰め状態。行き先は北支泰安と現地中隊長殿から前以て手
紙をもらってあった。浦賀水道を出る頃、受領員の関根軍曹殿から「故郷にお
別れしてこい」と許可が出る。
交代で甲板に上がる。房総の山々を再び見る日もあろうかと不覚にも涙がこ
み上げて来る。伊豆大島にかかる頃、冬の日没は早く御神火が赤く天をこがし
て実に美しかった。
『忘れ得ぬ記憶』より
証言④
山本亮三(下勝田出身)さん
昭和8年1月に歩兵第57連隊へ現役入隊。昭和12年9月に再度召集
を受けて上海に上陸し、激戦地を転戦しますが、その時の従軍体験を次
のように伝えています。
十一月中旬ごろ、南昌南方高地陣地を構築、同地附近の警備についたのであ
った。中支も、十一月も終わりになるとかなり寒さが強くなり、五日に上海で
夏服に着替えたままなので、かなりの寒さで夕方になると附近の水田に藁を集
めてその中で一夜を明かすのである。
ぐん こ
大体七カ月来た夏服も、洗濯も思うように出来ず、夏軍袴の膝は切れて抜け、
尻は穴が明き、軍衣の肘等切れ放題の服装にて(中略)
大隊が高安県城にて苦戦中、後方南昌に居った輜重兵及び砲兵の弾薬小隊等
が襲撃されたのであった。特に輜重部隊の損害は大きかったようである。この
時、上勝田の大塚彦三郎さんの戦死の事を聞く。(中略)
二月中旬頃(昭和15年)呉淞に帰着。荷物及び軍装検査等を終えて上海を
11
せいさん
出帆、内地に帰還。
(中略)長い凄惨な戦いを終わって内地に無事帰還した喜び
は、又格別懐かしいものであったが、自宅に帰りいざ少し落ち着いてみると一
緒に戦斗をしており戦死した戦友を思い出し、夜中にも起きて黙祷しておった
のであった。
中隊への補充人員延べ人員六百数十人ときく。帰還後の写真では病気及び戦
傷で先に留守隊へ帰っておった人を含め四十人足らずであった。
『忘れ得ぬ記憶』より
証言⑤
岩井清二(直弥出身)さん
昭和19年11月に衡陽へ前進を命じられ、汽車で移動中に鉄橋爆破の
ため自ら負傷し、野戦病院に収容されますが、劣悪な環境の中で次々と
患者が亡くなっていく様子を詳しく語っています。
な
や
衡陽所在部隊(金沢師団)の病院に入院、真暗な農家の納屋(?)もみがら
むしろ
の上に 筵 を敷いた急造のお粗末なものであったが、激しい痛み、発熱等で気に
か たい
する余裕もなかった。下腹部から下腿まで膨れあがり、出産前の妊婦のような
かっこう
恰好で、便秘どころか小便もなく軍医はあきらめ顔だった。(中略)
二月初旬、衡山野戦病院へ転送された。
(中略)病室は名ばかりで薄暗く、農
わら
家の肥料小屋で藁と破れた筵が敷いてあり、五人の負傷者がおった。しかし、
元気なのは武井上等兵と板垣軍曹の二人で、後はあまり話も出来ない状態で、
一人は二日後、二人も十日位の間に相次いで亡くなった。傷よりも栄養失調症
である。虱が多く、毎夜数匹は手で捕まる。亡くなるとその分多くなる。武井
なお
上等兵は左腕切断で、
(中略)板垣軍曹は傷は癒ったが栄養失調で顔がむくんで
いた。毎夜味噌汁・たくわんで白米の飯を食べて死にたいと言っていた。
(中略)
食事は二食で碗に半分程で、小さな芋二本の日も多く、欠食の日もあった。
雨の降らない日は杖を頼りに野草採りである。その野草も周辺にはなくなり、
げ
ん
げ
小さな紫雲英を十数日間も食した。(中略)
振り返り思料するに、野戦病院は将に生きた人間の墓場である。治療も給与
ほとん
い
い
か
も 殆 どうけられず栄養失調等で短い青春を散らして逝ったその心情は如何ばか
めいふく
りであったか唯々冥福を祈るのみである。
『忘れ得ぬ記憶』より
証言⑥
石渡
武(高崎出身)さん
昭和11年2月に現役入隊。昭和13年に除隊となるが、昭和18年
3月に臨時召集。中支に派遣される。昭和21年1月に復員
12
前方から敵のチェッコ銃が火を吹いて我が方に迫った。直ちに分散固守の構
えで応戦する。頭を射たれては終りと思い、幸い小さななつめの木が二、三本
あったので、おぼれる者は藁をもつかむか、一握りの木に必死になって根元に
頭をすりつけ、身を庇ったが又右から左からと二方から次々と火を吹き、体の
か
周り一帯は弾痕と砂煙、まるで時計の針の如く一本の木を軸に頭を庇ばい、敵
の砲火に対して敏感に動いた。本当に生きた気ではなかった。もうだめかと一
瞬家族を思いうかべた。
こんなところで死にたくない。本当に死にたくない。神に祈った。そのうち
我が軽機関銃が敵の乱射砲火の真只中に、勇敢にも応戦、火を吹き敵チェッコ
銃三機を向こうにまわし射ちまくった。数分ぐらいか敵も我が方の威力に耐え
かねてか、急に砲火かが消えた。
ああ、命は助かった、と安堵感が湧いたが、気は許せない。それも束の間、
誰か吉岡軍曹がやられた、と大声で叫ぶのが聞こえた。(中略)
戦死された吉岡軍曹は私と同郷生まれ、成田市の寺台の農家の長男であり、
同じ郷土の出身から、生前在隊中は何かと面倒を見てもらっただけに心残りが
だ
び
あり、残念でならない。当時遺体は現地分屯隊にて荼毘に付し、一部遺灰を警
備隊の丘に葬り、なつめの木を削り墓標は私が書き供養させてもらった。
復員後は直ちに吉岡軍曹の生まれ故郷成田市の寺台を尋ね、当時の状況等報
告、御遺族一同悲しみを新たに涙をさそった。
『忘れ得ぬ記憶』より
証言⑦
藤崎敏夫(米戸出身)さん
昭和19年に、19歳で繰上げの徴兵検査を受け、無線通信学校を卒業
後、勝浦にあった海軍第12突撃隊に入隊することになる。この部隊は
特攻隊で、藤崎さんは震洋隊に配属となり、いつ出るとは分からぬ出撃
命令を待つ日々を送る。
山口県防府海軍無線通信学校に委託学生として練習生となる。学校はきつか
った。月月火水木金金と唄の文句通り休むことなき特訓、栄養不足、望郷の念
はげ
に悩まされつつ、烈しい訓練に明け暮れ、翌二十年五月二十五日に卒業(中略)
五月二十七日、学友三人と共に、海軍第十二突撃隊(現勝浦市)に配置され
そうしゃ
る。連日、グラマン機その他飛行機より機銃掃射、小型爆弾、ロケット弾等の
攻撃に見舞われ、幾人かの戦死者、多くの負傷者が出ました。(中略)
広島、長崎と特殊大型爆弾のニュース、いよいよ近づいた本土決戦、敵大型
艦艇の来襲近しと思い、
「覚悟」する。八月十五日、今日はバッタリ早朝よりの
定期便、敵機の来襲もなく、気味の悪い程静かな日だった。
13
正午の玉音放送、助かった、戦争は終わった。米軍上陸進駐の為特攻部隊は
いち早く武装解除され解散命令が出され、八月十八日、産土の森に帰ってきま
した
『忘れ得ぬ記憶』より
しん よう
*震洋
ベニヤ張りの小型モーターボート内に爆薬を搭載して、搭乗員が乗り
込んで操縦し、目標艦艇に体当たりをするという特攻兵器
証言⑧
戸村政雄(八木出身)さん
昭和19年2月、現役兵として東部64部隊に入隊。初め満州に駐屯す
るが、終戦は宮古島で迎えることとなる。
昭和十九年三月六日派遣のため佐倉出発、軍用列車は貨物であった。(中略)
外は見る事も出来ず、どの辺を走っているのか分からなかった。
(中略)着いた
所が満州国黒竜江省ハルピン、それから満州第九十七部隊近衛三連隊であった。
次の日より地獄の日々が続くはげしい訓練が始まった。楽しみと言っては寝る
しょうとう
事しかなかったが消燈後毎夜の様に初年兵洗面所集合がかかった軍隊言葉の学
科があった。学科とはなぐられる事であった。終わって有難う御座いましたと
か、ご苦労様でしたとか御礼を言って帰ってきて、床に入るやっと安心して寝
ぬ
られる。いつとなく涙がつめたく枕を濡らしている。(中略)
南方派遣のため船の旅に入る。貨物船で甲板に竹を満載して船底に兵隊が入
る。もし船がやられたら上の竹につかまって救助を待つと言うくるしい船旅の
後、着いた所は沖縄の宮古島と言う小さな島、八月十二日上陸する。その日よ
り一カ月が又地獄、夜も昼も通して飛行場の滑走路造り、なれぬ土地で気候も
悪く、下痢をおこし過労と栄養失調でばたばた倒れていく戦友も多かった。
(中
略)
ぎょくさい
沖縄本島玉砕の知らせが来る。その後最高指揮官の牛島中将自決のニュース
も入る。この島も終わりが近づくと皆覚悟をきめ班ごとにて残りの食糧をかき
集め別れの会食をした事が忘れられなかった。
『忘れ得ぬ記憶』より
14
資料①
出征兵士の見送り状況について(『天辺学館日誌』より抜粋)
【昭和12年8月~11月】
8月17日
出征兵士第三次祈願式
8月20日
出征兵見送リ
8月25日
召集兵ヲ送ル
9月
3日
出征兵祈願式
9月
5日
出征兵見送
9月
6日
出征兵見送
9月
7日
出征兵見送ノ為授業ヲ欠ク
連隊兵舎より出征
(下志津駐屯地広報史料館所蔵)
9月12日
出征兵見送
9月16日
出征兵見送ノ為十時ニテ停業、南酒々井駅ヘ
9月17日
佐倉第百五十七連隊出動ニツキ見送リノ為授業ナシ
9月30日
出征兵(円城寺三郎)見送ノ為、授業午前中
10月 8日
出征兵山本巳一郎氏ヲ送ル
10月13日
出征兵見送リ(佐倉)
10月14日
午後出征兵見送
10月15日
出征兵見送
11月15日
出征兵見送り
資料②
昭和18年の出征兵士見送り(八木区有文書より抜粋)
7月31日
8時17分
南酒々井駅発
石 渡
羽根井
片 岡
椎 名
靜
茂
福次郎
忠
9月19日
9時36分
南酒々井駅発
藤
方
正五郎
9月26日
9時36分
南酒々井駅発
山
本
八
郎
10月22日
10時
6分
南酒々井駅発
円城寺
豊
作
10月24日
16時22分
南酒々井駅発
岩
澤
寅
雄
10月26日
13時50分
南酒々井駅発
小
出
静
雄
15
資料③
京極盛海さんの「軍隊日記」
(京極勇剛氏所蔵)
*京極盛海さんの大正3年12月から
大正4年3月までの入営中の日記
京極盛海さん
(大正三年)十二月一日
一、午前九時入隊
火曜日
晴れ
吾等壱年志願兵一同ハ聯隊裏門前芝地ニ於
テ各中隊ニ分ケラレ当聯隊長殿ヨリ今迠居住セシ場所及ビ
職業等問ハル
其時音聲低キ為メ再問セラル
セラレ兵営内ニ入ル
終リテ引卒
営間近くの第八中隊舎側ニテ各班ニ分
タレ第五班ニ編入セラル
十時三十分身体検査ヲ受ク
班長ヨリ服装検査ヲ受ク
終リテ
夫ヨリ吾等入営者一同は愈
舎内ニ入ル 古兵ヨリ着物即軍服ヲ着セラレ自分ノ着用シ
来リシ衣服ヲ附添人ニ持セ皈ス
茲ニ於テ光栄アル帝国
軍人ノ一員トナリシ事ヲ喜ブト同時ニ覚悟ノ重きヲ知ル
外出心得
日耀
祭日
一、外出セントスルモノハ前日内務班長ニ申出ズルコト
二、晝食ハ中隊ニ皈リテ食スルコト
三、外出時限 朝食后ヨリ夕食前一時間前
四、処分中ノモノハ外出スルヲ得ズ
五、練兵休ノモノ
六、パンヲ内務班長ニ要求スルヲ得
七、軍隊手帳ヲ必ズ持参シ営兵歩哨ニ示スコト皈営セハ班長ニ返スコト
八、外出服装ハ茶褐軍衣袴第三装乙水筒ヲ必ズ持ツコト
剣ヲ吊リ靴ハ悪シキモノ編上服装検査ヲ受ルコト
九、雨天ノ際ハ外服ヲ着シゲートルヲ着ス外同ジ
16
十、皈営シタレバ異常アルナシヲ班長ニ申出ズ
十一、衛戍地域外ニ出ル時ハ地外散歩許可ヲ受クルコト
十二、軍人ノ体面ニ関スルヨーナ体度ヲ取ラザルコト
十三、初年兵ハ軍人ヲ見レバ敬礼スルコト
十四、中隊長、大隊長、聯隊長、軍旗(直属上官)停止敬礼スルコト
十五、火災呼集、非常呼集
資料④
兵 科
官等級
本 籍
氏 名
精勤章
善行證書
片岡
武さんの「軍隊手牒」
(片岡武氏所蔵)
歩兵
陸軍軍曹
片岡 武さん
千葉縣印旛郡和田村大字高岡〇〇〇〇番地
片 岡
武
大正六年〇〇月〇〇日生
昭和十七年十一月一日
兵精勤章附与
昭和十六年五月九日
兵善行證書附与
昭和十三年三月一日現役兵トシテ支那駐屯歩兵第一連隊ニ入隊〇同日支那駐屯
歩兵第三連隊ニ転属〇同日第九中隊ニ編入
〇自三月一日至四月十日西苑附近ノ警備
〇四月十日移動ノタメ西苑出發〇同日保定ニ着。
〇自四月十日至七月二十七日保定附近ノ警備及討伐ニ從事
〇昭和十三年六月二十一日軍令陸甲第三四號ニ依リ第二十七師団編成下令
〇七月二十五日編成完結
〇七月二十八日南京集結ノタメ保定出發
〇八月六日南京上陸
〇九月二日九江附近終結ノタメ南京出發
〇九月六日九江上陸
17
〇九月七日猪頭橋着〇同日ヨリ同地附近ノ警備ニ從事
〇自九月十七日至九月十八日茶園岺八計山附近ノ戦斗参加
〇九月二十六日顧(麒)麟峯戦斗ニ於テ左脚臑部右顔面手榴彈破片創ヲ受ケ同日
第三野戦病院入院
〇十月六日中隊復帰
〇十一月二十三日マラリアノタメ大砂坪患者療養所入院
〇十二月十七日同病院退院〇同日中隊復帰
〇十二月三十一日連隊本部軍旗衛兵要員トシテ勤務
〇自十四年一月二十三日至十四年二月十日南號作戦参加
〇自三月十七日至三月二十一日中號作戦参加
〇三月二十二日マラリアニテ滄県第四野戦病院入院
〇四月七日退院〇同日連隊本部復帰
〇七月二十二日臨時独立混成第百一旅団編成下令
〇七月二十六日編成完結
〇十一月二十五日臨時独立混成第百一旅團ヨリ編成ヲ解レ原所属復帰
〇昭和十六年二月二日河北省献城青蓮寺ノ戦斗ニ於テ左臀部擦過銃創ヲ受ケ河
間患者療養所入院
〇二月二十六日退院 昭和十五年陸支密第二五四號ニ依リ近衛歩兵第四連隊補
充隊ニ帰還ヲ命ス
〇四月二十八日塘沾港出帆
〇五月四日大阪港上陸
〇五月五日東京着 同日転属
〇昭和十三年三月一日ヨリ昭和十六年四月二十八日迠支那駐屯歩兵三連隊ニ在
リテ支那事変勤務ニ従事ス
〇昭和十六年五月九日現役満期除隊ヲ命ス
〇昭和十六年五月九日兵善行証書附与〇同日兵科下士官適任證ヲ附与ス
〇昭和十七年二月軍令陸甲第八號並ニ陸亜密第三十七号ニ依リ四月一日独歩兵
第百十一大隊臨時編成下令〇同日編成第一日
四月三日歩兵第百五十七連隊ニ應召〇同日独立歩兵第百十一大隊第一中隊ニ
編入
〇同月十日編成完結
〇昭和十七年五月二十二日北支那派遣ノタメ佐倉出發
〇同月二十三日宇品港出帆
〇同月二十五日釜山上陸
〇同月二十八日安東通過
〇同月三十日山海関通過
〇同月三十一日泰安到着
18
〇六月三日莱蕪着
〇十一月一日兵精勤章附与
〇昭和十八年四月四日至四月二十九日 昭和十八年度春期作戦参加
〇七月十五日肩胛部機能障碍ニヨリ第五十九師団野戦病院入院
〇同年八月二十六日治癒退院
〇昭和十八年八月二十四日軍令陸甲第八十一号ニ依リ北支那特別警備隊編成下
令
〇九月十三日同隊編成要員ヲ命ズ
〇九月十四日曽村出發
〇九月十五日天津到着
〇九月二十四日編成完結〇同日北支那特別警備隊附〇同日五大隊附〇同日第五
中隊附
〇十月二十七日第五大隊第二中隊ニ編入
〇同月二十九日移駐ノタメ天津出發
〇同月三十日河北省密雲到着
〇十一月三日同省石匣着〇同地附近ノ剿共工作ニ従事ス
〇昭和十九年二月十五日軍令陸甲第十八号ニ依リ北支那特別警備隊編成改正下
令
〇同年五月十九日北支那特別警備隊第五警備大隊編成要員ヲ命ズ
〇六月十日編成完結〇同日北支那特別警備隊第五警備大隊附〇同日第二中隊編
入
〇六月六日密雲出発〇同日河北省昌平県高麗営到着〇同地ニ於テ前任務續行
〇昭和十九年七月十九日冀東作戦参加ノタメ密雲出發
〇同月二十日唐山着〇同地附近ノ警備
〇昭和二十年三月二十一日中隊復皈ヲ命ズ
〇同月二十八日清河鎭着
〇昭和二十年六月八日本土兵備要員トシテ東北軍管区轉属ヲ命ズ
〇六月十四日河北省清河鎭出發
〇六月二十日山海関通過
〇六月二十一日鮮満国境通過
〇 月 日 港出帆
〇六月二十六日山口縣豊浦郡神田村上陸
〇七月三日仙台着〇同日東北第一二二部隊第一中隊附
〇七月二十一日歩兵第三百九連隊編成要員トシテ東北第一三八部隊轉属〇同日
仙台出發〇同日山形着 歩兵第三百九連隊ニ充用〇同日第七中隊ニ編入
〇七月二十五日動員完結
〇八月二日山形発〇同日新庄着
19
資料⑤ 和田村から戦地の兵士に送られた年賀状(桜井徳男氏所蔵)
申をせの現間にをし我感のを忠皇徴新謹
昭上切ら戦下御邁以聖等謝大擴烈室す陽賀
和候望れ地酷休進て戦村感理大なのる燦新
十
す聖に寒心し堅完民激想しる御大と年
七
る戦奮の被 忍遂はにを愈皇繁東し
年
との斗戦成大持に決堪顕々軍栄亜て
一
共大す地下御久鉄戦へ現帝勇を戦八
殿
月
に目るに度心職石体させ國士祈争紘
一
忠的南活候を域の制るらののり下を
日
勇完方躍 安奉團下次れ威勇奉の光
な遂方す ん公結に第つ武戦る新被
るに面る じのをあにゝを奮と春し
同同同同同同和
諸不の勇 奉誠固り御あ全斗共を皇
方軍在
銃田
士断勇士 るをめて座る世にに迎國
面友郷収助後村
(外委会軍入役奉長
のの士諸 覚捧必 候は界依御への
櫻職員長人役
武御諸君 悟げ勝大
我にり稜恭無
公
井員
等宣益威し窮
会
会
運努君将 に以不詔
恒一
銃揚々のくと
分
長
長力共又 御て敗の
治同
後せ戦下 隆
長
久をに気 座國の御
氏
傾
健
候
候
難
信
國ら果
昌
を
趣
慰
注
康
不
克
念
民
れ
と
戸
髙
岩
石
藤
桜
お
旨
問
せ
に
順
服
の
肇
を
村
石
井
渡
方
井
祈
を
文
ら
留
斎
國
象
敬
里
体
綴
ん
意
し
白
由
信
喜
恭
信
幾
り
事
く
松太三二雄太
よ
り
郎郎
郎
)
〔学校の記憶〕
1)戦時中の和田小学校の様子
戦争は様々な形で学校教育にも影響を及ぼします。昭和8年に改訂された色
刷りの教科書は、忠君愛国を基調とした内容になっており、訓育指導も厳しさ
しんせん
を増していきました。和田小学校では、昭和9年に敷地内に神饌園を設置して、
食糧増産の一環として米作りなどが行われるようになったそうです。
昭和15年度の『和田尋常高等小学校経営要覧(抄)』は、「我ガ郷土ノ美ヲ
しんしんれんせい
こ す い
認識シ、誇リヲ持ツ」で始まり、
「心身錬成ヲ重視」
「消費、節約ノ精神ノ鼓吹」
「報恩、建設、不言実行」
「自衛隊訓練ヲ課ス」などの言葉が見え、戦時的な色
彩を帯びてきます。
20
昭和16年4月には小学校は国民
学校と改称され、皇国民の錬成を目的
として、国家主義的色彩が濃厚に加味
された教育内容となり、団体訓練、か
け足、武道などの体錬や、食糧増産の
ための作業が多く取り入れられまし
た。
旧和田小学校校舎と校門
昭和18年頃から戦局が不利にな
ると、どんぐり拾い、いなごとり、桑の皮むきなどの作業が増えて行き、教室
で受ける授業の時間数が減少し、戦争末期の昭和19年から20年にはグラウ
ごう
ンドを芋畑にしたり、空襲に備えて校庭に防空壕を掘ったり、燃料確保のため
の松やに採りの作業に従事。また、軍隊が駐屯してきて校舎の一部が臨時兵舎
となってしまったため、児童は各地区に分散して、寒風、八木、下勝田などに
ある寺院を仮校舎として、授業を受けなくてはなりませんでした。
なお、戦後間もなく教科書の墨塗り作業があり、その後に発行された新しい
教科書も、物資不足の影響からか、単色刷りの簡素な教科書であったそうです。
きょういく ち ょ く ご
2)教育勅語について
明治天皇が教育に関して与えたお言葉で、通
ご し ん え い
ほうあん
まつ
常は御真影とともに校舎内にある奉安所に祀ら
れ、戦時中も紀元節、天長節などの儀式の際に
ほうどく
は、勅語奉読が行われていました。
展示中の桐箱は、和田小学校の教育勅語が納
められていたもので、
「保管の任あたる学校長の
責任は重大で真に職務上の一身をかけておった
といっても過言でない(『校史』より)」と言わ
れるように、戦後になっても桐箱は同校に残さ
れることになりました。
和田小学校で教育勅語
を納めていた箱
21
とうほん
なお、中身の教育勅語謄本については、明治42年3月31日に和田小学校
に下付されましたが、戦後、「教育勅語等排除に関する決議」(昭和23年6月
19日)により、昭和23年7月30日に印旛地方事務所に返還されたことが、
『和田小学校沿革誌』(和田小学校所蔵)に記載されています。
証言①
教員の思い出
その年(昭和16年)の12月8日、佐倉地方の招魂祭の日、だれもが待っ
ていた楽しい催し、いつも一時間位で授業は打ち切り、その日は重要なニュー
スがあるからといって全校生徒が運動場に整列した。
高らかに鳴りわたる軍艦マーチ、真珠湾攻撃の特攻隊の報道が伝えられ、大
東亜戦争の火蓋はきっておとされた。
この日を記念して毎月8日を大詔奉戴日と定め、その日は軍事的な教練をし
たり、話をきいたり国民の士気を鼓舞する日だった。
村にはぽつぽつ召集令状がきた。押尾勝夫、山本英子、山本よね、池田稔、
藤方靜、高石慶子さんたちのおとうさんにも前後して召集令状がきた。
日の丸の小旗を持って兵隊送りにいく婦人会や在郷軍人の姿が毎日のように
見られた。
唱歌の時間になると、きまったように「父よあなたは強かった……」とうた
いだした。身につまされるようだった。
無心にうたう児童がいじらしかった。揃いも揃ってここの子供たちが戦争遺
児になろうとは、神ならぬ身の知る由もなった。戦争は日に日に激しさを加え
て行った。
「戦争っ子」大野しげ(元和田小学校教諭)さん
証言②
『校史』より
児童の思い出(その 1)
昭和9年に入学した私は、つき添いの父の姿を求めてよく泣いた。泣いた仲
間が他に何人か居た様に思う。(中略)
四大節には袴羽織で出席し、菊の御紋章のお菓子を先生から頂いて帰宅した
事。桜井幾太郎村長さんの御祝辞などと思い出はつきない。梅干弁当で一銭貯
金をして金参円也を貯め友人5人揃って佐倉憲兵分隊に献納した。友人の名は
栗山千恵子、椎名久子、戸村かい、石渡てるの皆さんでした。(中略)
戦争っ子の私共は、勝利の旗行列、出征兵士の見送りに南酒々井駅へ、はら
わたの芯まで沁みとおるようなあの見送りの歌、輸送船の歌、など。無言の凱
旋をなされた遺骨のお迎え、そして校庭での村葬参列、限りない悲しみの中で
22
耐えることのみを強要された彼の時代を !そして歩み続けた人生のひとこま、
1日1日を真剣に生き続けてきたいま、家庭にわが子の成長を希いつつある現
在の基礎をゆるがせには出来ない。
いまわが子の通学する鉄筋2階建て校舎のあたりは、曽って松林を開墾し、
報国農場と命名され、高等科時代に私達は下肥を汲み、堆肥をつくり、耕した
ことを記憶しています。
「総動員体制」原田増代(和田小学校卒業生)さん
証言③
『校史』より
児童の思い出(その2)
朝6時半頃登校のため我が家を出発、戦時下のため物資は不足し、私達はつ
ぎのあたった服を着て、教科書と日の丸弁当を風呂敷で包み腰に、防空ずきん
を背に、わらぞうりをはき、各部落別に隊列を組み、上級生の1人が班長とな
り夏の暑い日も、冬の寒い日も、雨の日も、風の日も、雨が降ればどろんこに
なる道を、途中ですべってころんだりしながら遠い部落の子供達は一時間もか
かりながら登校したものである。
7時半学校着、職員室前で整列、班
長が点呼をとり、先生に人員の報告を
軍隊調で報告したものである。授業も
戦時下のことでして、現在の授業とは
大分ちがいました。
ただ体育の授業は非常にきびしく、
軍事訓練的なことをよくやらされまし
た。竹やりを手にエイエイ、木刀手に
エイヤ、よく出来なくてなぐられたこ
木銃訓練(上)
と、このような教科が苦しかったこと、
授業中空襲警報が発令、授業もそのま
(画・佐々木大次郎氏)
ま全校の先生、生徒が防空ずきんをか
避難訓練(下)
ぶり防空ごうに避難、ものめずらしく
銀色の B29 の機体を眺めていてしか
られたり、勉強どころではなかった。
この頃の学校の日課の中で稲作り、甘
藷作り、稲の落穂ひろい、松やに採取、
かしの実ひろい松根油工場の手伝、等
も日課の一つでした。今の中学生の頃
私達は戦争の中に巻きこまれ、生徒と
して勉強しなければならないのに、こ
のような毎日を過ごしていたのです。
「終戦の年のある日」内田文夫(和田小学校卒業生)さん
『校史』より
23
証言④
疎開してきた児童の思い出
私は昭和18年、小学校3年生のとき転校して参りました。当時は大変物資
が欠乏しており、米などは全く今と逆で、配給米は少なく食べざかりの子ども
を持った親は非常に苦労しておった様です。特に農家の生徒が殆どで、中に勤
め人の子どもがぽつんと入った状態ですからお昼の弁当のときは辛かった。今
でも皆が食べていた真白なおにぎりのうまそうであったことは最も印象が強く、
どうして農家にうまれなかったのかとよく思ったものです。衣服類も学生服は
配給でお古を有難く着たし、履物も家で作ったわら草履が顔をきかせていた。
終戦も近くになってくると学校では勉強よりも軍馬の草刈ったり、松やにを
採集することが多くなりました。8月の暑い日(5年生)松やにとりの最中に
校長先生が現場をまわられ明日の正午ラジオを聴くように伝えて行った。
玉音放送をきき終戦を知ったときは子ども心に戦争に負けた口惜しさよりほ
っとした気持ちでした。
「真っ白なおにぎり」柴ヶ谷
証言⑤
勝(和田小学校卒業生)さん
『校史』より
教師としての戦争
昭和二〇年七月十八日、その日は、南酒々井駅南側の山へ松根油を集めに行
く日でした。
松根油は、戦争のために燃料となる石油の少なくなった日本が、その代用品
として松の根っこにたまる油を燃料としたのです。
この松根油集めは、銃後(戦争に行かない人たちのこと)の子どもたちの大
切な仕事でした。
私は、高等科(今の中学生の年
齢の生徒)の男女生徒と自分が担
任している五年生男女数十名を一
人で連れて出かけたのです。
(中略)
山に着いてまもなく、空襲警報
が鳴り響きました。
佐倉機関区から機関車がこちら
に避難してきます。
私たちのいた山は、空から見る
とちょうど陰になり、機関車の適
当な避難場所だったのです。
松ヤニとり(画・佐々木大次郎氏)
「しまった。でも、今から学校
へはもどれないし……」
どうしようと考えている暇もなく、敵の飛行機が飛んできて機関車めがけて
さかんにうっています。こちらにもピューン、ピューンと流れ弾が飛んできま
24
す。
「みんな、木の根元にふせて。」
と大声でどなりました。
しかし、いくら大声を出しても飛行機のばく音と子どものさわぐ声で、声は
消えてしまいます。(中略)
地面にふせるどころか、逆に木にのぼり、敵の飛行機を迎えうつために飛び
上がった日本軍の飛行機との空中戦を見ているしまつです。
「先生、すげえぞっ。」
「あっ、飛行機が火を吹いたっ。」(中略)
「何してるの。静かにして!」
「早く降りなさい!」
いくら声をかけても空中戦に夢中になり、降
りてくる気配もありません。
こうしている間にも弾はピュッ、ピュッと
飛んできます。
だれかの竹かごに当たった弾がプシュッ
とこちらにはね返ってコロッと目の前に転
がります。
グラマン戦闘機(日向一泰氏所蔵)
ドキッとして弾を見ると、私の人さし指く
らいの大きさがありました。
「これがもし子どもたちに当たったら……。」
そう思うとぞっとして体のふるえが止まらなく
なりました。(中略)
今度こそはと、前よりも一段と大きい声で、
「降りてきなさい!」
とどなってもやはりだめです。
「今度こそ私の当たる番かな。」
和田村で見つかった 12.7 ㎜機銃弾
と本当にビクビクしながらその場に立ち続けま
した。(中略)
女子のほとんどは、私の言葉を聞いて雑草の中にふせていてくれました。
しばらくして、空中戦も終わり空も静かになりました。
子どもたちの無事を確認し、仕事にとりかかろうとこしを上げたとき、校長
先生と教頭先生が青い顔をして自転車を飛ばしてやってきました。
「真行寺先生、だれもけがはなかったか。無事か。」
「はいっ。児童全員無事です。」
そう報告すると、
「そうか、そりゃよかった。」
「とにかく今日は作業を中止して学校へ急いでもどろう。」
みんな空のかごを背おい、朝来た道を並んで帰りました。
事故もなく全員そろって帰れたことが何よりもうれしく、未じゅくな私には
貴重な体験となりました。
真行寺才江子(元和田小学校教諭)さん
『平和の鐘』より
25
証言⑥
終戦前後の児童の思い出
私達が高等科の頃だ。戦争も激しさを増し私達の校舎の一部は軍隊の臨時兵
舎となり、大勢の兵隊さんたちは、戦略物資の貯蔵、訓練等に多忙の明け暮れ
でした。今思えば其の頃すでに敗戦へと一歩一歩近づいていたのです。私達の
教室が兵舎となり、私達は下八木の寺で勉強することとなりました。(中略)
日の丸の旗を振って何度か南酒々井駅へ出征兵士を送りに行ったが、そのた
びに戦火は激しくなり、連日連夜にわたり、
本土は空襲警報のサイレンが響きわたり、私
達生徒も学業よりも銃後の守りに明け暮れた
毎日でした。出征家族の勤労奉仕や松ヤニ取
り、又松根油取りまでやった一方物資の不足
は著しく、教科書が不足してきた。そこで上
級生からのものを借りた、いわゆるお下がり
教科書で勉強し又借りられない人は教科書を
持たずに学校へ行った。学用品もノート半紙
は勿論の事、鉛筆消しゴム絵の具や筆など遠
慮なしにものはなくなっていった。20年に
なると戦火は一段と激化し、本土空襲はほと
んど毎日の様でした。校庭や近くの山に防空
壕を蜂の巣の様に多く掘り、空襲警報と同時
に全体生徒がそこへ退避した。(中略)
お寺で授業を受ける児童
終戦と同時に教科書の整理抹殺が行われ、
(画・佐々木大次郎氏)
戦時教育に関するページは切取り、又墨で真
黒に塗りつぶした。国史や地理の教科書
は廃止となり教科書は焼いた。翌21年
には現在の新聞紙を思わせる様な教科書
が配給となった。(中略)
22年6、3制が実施となり、高等科
1年で終了した私達は中学2年生という
事になり、カヤぶき屋根の校舎で新制中
学の勉強がはじまった。先生方も体育の
用具小屋を改造し職員室とした。窓ガラ
スのない所は板を張ったが、隙間風の通
り抜ける教室で冬の勉強は大変つらいも
墨塗りの教科書
のでした。
「臨時校舎」桜井仙作(和田小学校卒業生)さん 『校史』より
26
資料①
農繁期学童勤労
作業出動ノ件
ヲ
希
望
ス
ル
家
庭
・
氏
名
(和田国民学校から出
された通知文)
(
「
八
木
区
有
文
書
」
よ
り
抜
粋
)
二
、
農
業
要
員
割
当
後
應
召
入
営
等
ニ
依
リ
学
童
ノ
勤
勞
出
動
家
庭
ノ
氏
名
幼
児
・
年
令
候 事 致 ナ 標
昭
一
也 項 シ レ 記
和
各 二
、
御 度 バ ノ
乳
調 ニ 学 件 農 部 十
幼
査 付 童 ニ 繁 落 年
児
ノ 貴 ノ 関 期 会 五
ヲ
上 職 挺 シ ( 長 月
持
本 御 身 現 田 殿 二
ツ
月 繁 敢 下 植
十
家
末 忙 闘 ノ ・
五
庭 記
日 ノ ニ 食 麦
日
ニ
迄 折 依 糧 刈
テ
ニ 柄 リ 事 )
増
御 恐 多 情 学
産
報 縮 少 ヨ 童
和
上
告 ニ ナ リ 勤
田
子
被 存 リ 之 勞
村
守
下 候 ト ガ 作
国
ノ
度 へ モ 増 業
民
必
此 供 増 産 出
学
要
段 左 産 ハ 動
校
ヲ
及 記 活 緊 ノ
長
希
御
動 急 件
望
願
ニ ノ
岩
ス
協 要
井
ル
力 務
泰
治
3)青年学校について
和田村には、農業に要する知能技能を身に付けるための農業補習学校と、軍
事教練等を行う青年訓練所がありましたが、昭和10年の青年学校令により、
これらは統合されて「青年学校」となり、さらに昭和14年4月からは小学校
卒業後に職業に従事する男子
については、青年学校に通学
(普通科2年、本科5年)する
ことが義務化されました。
昭和18年8月1日、和田村、
佐倉町、根郷村、酒々井町の4
町村により「組合立佐倉青年学
校」が弥勒町にあった私立佐倉
組合立青年学校(櫻井徳男氏所蔵)
図書館を校舎として設立され
27
ることになったため、和田村青年学校は同年6月30日をもって廃止となりま
した。
4)閉鎖を迫られる天辺学館
昭和18年10月12日に、「教育
ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決
定されますが、この方策の中で、中等
学校中の男子商業学校が整理縮小、文
科系大学及び専門学校の理系への転
換、そして各種学校の指定学校以外の
整理などが規定されていました。
私立天辺学館(檜貝長雄氏所蔵)
申
候頼陸協軍ノ處昭
添追也有軍議、用分和
この影響によるものか、同年12月
候而
之省會海途ニ十
本
候關ヲ軍ニ就八
7日付けの県告示で、三育学院・日新
月
ニ係設、轉テ年
中
付ノ置文用ハ十各
学舎・道徳科学専攻塾・修養学館・高
ニ
テモシ部ス當二種
關
ハノ之、ル分月學
松学館・松崎裁縫女学校が廃止さます。
係
可ニニ軍措ノ三校
者
能轉附需置間日々
和田村にあった天辺学館は檜貝勇
ヨ
ノ用議各ニ之附舎
リ
限ス決省關ヲヲ轉
吉が創設した私立の各種学校で、整理
右
リル定)シ處以用
ニ
提コ致關テ分テ措
の対象となっていましたが、昭和18
關
供トス係ハス御置
シ
轉ニコ官内ル依ニ
年11月22日には県との話し合い
連
用決トヨ閣事頼關
があって、学館の廃止手続きが進めら
絡
方定﹅リニ無致ス
無
御ノ相成關之置ル
れたようです(正式な廃止日は不明)。
之
配趣成ル係様候件
場
意旨コ校各通貴
なお、天辺学館の校舎について、翌
合
相ヲレ舎廳牒校
ハ
成以ニ轉(致廢
月12月28日付けで千葉県内政部
適
度テ依用内置止
宜
此之リ措閣候後
長から陸軍省関係の施設として転用
處
段ガ貴置、處校
置
及斡校ニ内校地
が決まった旨の通知(右掲載文書・檜
相
御旋々關務舎校
成
依方舎ス、ヲ舎
貝長雄氏所蔵)がありましたが、実際
度
頼依ハル陸他ノ
天
教
辺
第
学昭一
館和八
長十二
八六
年號
殿十
二
月
廿
八
日
千
葉
縣
内
政
部
長
28
に転用されたことはなく、同館では授業を継続することが出来たそうです。
〔空襲の記憶〕
1)防空体制の強化と和田小学校のサイレン
戦争が長期化し、敵航空機による空襲の被害を
最小限に食い止めるため、昭和12年4月に防空
法の公布、昭和14年1月には警防団令が制定さ
れて、全国各地に警防団組織が作られていきます。
警防団は団長、副団長、分団長、部長、班長及
び警防団員で組織され、水火消防、防空監視、警
報発令、灯火管制等の業務を行いました。
八木区有文書中に昭和17年1月15日~2
3日の9日に亘る警報伝達灯火管制訓練実施に
関する文書が残されており、同文書に添付された
防空頭巾
付表により、当時の警報伝達系統が2系統あった
ことが明らかになっています。
また、警報を知らせるサイレンにつ
いては、和田小学校の屋根に煙逃がし
の様な構造物(正面玄関は入ってすぐ
の天井裏付近)があって、その中にサ
イレンが設置されていたそうで、設置
和田小のサイレン塔(円城寺卓也氏所蔵)
時期の詳細は不明ですが、昭和17年
2月24日付けで和田村警防団長が
すいめい
「警報用サイレン吹鳴試験実施」を知らせる通知(八木区有文書)を出してお
りますので、昭和17年には和田小学校にサイレンがあったものと推定されま
す。
29
2)空襲と伊篠に落ちたB29
近隣の千葉市で大きな被害を出した
空襲というと昭和20年6月10日(死
傷者391)と同年7月7日(死傷者1
204人)の空襲がよく知られています
が、佐倉市域においてもB29による爆
撃や米軍艦載機による銃撃等の被害が
あったことが、『佐倉市史巻四』の「市
域の空襲」で明らかにされております。
和田村は軍事施設もない農村地帯で
爆撃するB29(日向一泰氏所蔵)
したので、爆撃による被害は無かったよ
うですが、南酒々井駅近くにあった仮橋(下勝田)のところがV字谷のように
なっていて、空襲時に機関車が退避してきたことから、米軍艦載機に狙われて
銃撃を受けることが多くありました。
和田村上空は、米軍機が東京
を空襲して基地にもどるための
帰路に当たっていたために、日本
の戦闘機と空戦をしている様子
がよく見られ、貝塚さんのお宅
(下勝田)の側にある畑に日本軍
機が墜落してきたこともあった
伊篠の墜落現場(戦災資料センター所蔵)
そうですが、取分け昭和20年1
月27日、酒々井町伊篠に墜落し
たB29については、当時を知る和田地区住民の記憶に鮮明に残っております。
このB29はマリアナ基地から飛来した
第73航空団所属の爆撃機で、東京にある中
島飛行機武蔵野工場を爆撃目標として空襲
した後、船橋付近で常陸教導飛行師団の二式
と りゅう
戦闘機「屠 竜 」(小林雄一軍曹、鯉淵夏夫兵
長搭乗)による体当たり攻撃を受けて、和田
村の長熊上空を低空で黒煙を吐きながら(桜
二式複座戦闘機「屠竜」
(日向一泰氏所蔵)
30
井仙作さんの記憶ではこの時B29は火を噴いていたそうです)飛び去り、伊
篠の白幡神社付近に墜落しました。
ほ り ょ
このためB29に搭乗していたマクドネル機長以下9人が死亡、2人が捕虜
となりました。体当たり攻撃した小林雄一軍曹(20歳)、鯉淵夏夫兵長(19
歳)の両名も戦死しています。なお、上代にパラシュート降下した米兵1人は
遺体として発見されており、同じくパラシュートで脱出した米兵1人が印南小
学校付近の田んぼで捕虜となったそうです。
資料①
燈火管制のやり方(「八木区有文書」)
方 り や の 制 管 火 燈
昭
和
十
六
年
十
二
月
千
葉
県
産
に
勵
む
こ
と
が
大
切
で
す
。
總
て
警
報
に
即
應
し
て
充
分
燈
火
を
工
風
利
用
し
て
戰
時
下
増
空
襲
警
報
が
解
除
さ
れ
た
ら
警
戒
管
制
に
す
る
こ
と
屋
外
燈
は
全
部
消
す
な
い
様
に
す
る
屋
内
燈
は
全
部
消
す
か
又
は
絶
對
に
外
か
ら
光
の
見
え
空
襲
管
制
(
空
襲
警
報
が
發
令
さ
れ
た
時
の
や
り
方
)
警
戒
警
報
が
解
除
さ
れ
た
ら
準
備
管
制
に
す
る
こ
と
屋
外
燈
は
全
部
消
す
(
残
す
燈
火
は
警
察
で
決
め
ま
す
)
へ
て
覆
を
掛
け
る
屋
内
燈
は
五
十
燭
以
下
(
疊
一
枚
五
燭
の
割
)
に
取
替
警
戒
管
制
(
警
戒
警
報
が
發
令
さ
れ
た
時
の
や
り
方
)
(
点
け
て
悪
い
も
の
門
燈
、
軒
燈
、
廣
告
燈
、
装
飾
燈
等
)
も
の
が
あ
る
屋
外
燈
は
点
け
て
良
い
も
の
と
消
さ
な
け
れ
ば
な
ら
ぬ
屋
内
燈
は
燭
光
も
球
の
數
も
自
由
に
点
け
て
宜
し
い
準
備
管
制
(
警
戒
警
報
が
解
除
さ
れ
て
ゐ
る
時
の
や
り
方
)
(
廻
覧
板
で
廻
し
て
下
さ
い
)
31
資料②
昭和12年関東防空演習資料(「八木区有文書」)
資料③
昭和17年県下警報伝達灯火管制訓練資料(「八木区有文書」)
32
資料④
「天辺学館日誌」より抜粋(昭和17年4月~昭和20年8月)
(昭和17年)
4月18日
5月 6日
(昭和18年)
4月 4日
(昭和19年)
11月 3日
11月 6日
11月12日
11月18日
11月22日
(昭和20年)
1月 1日
1月27日
2月16日
空襲アリ
空襲警報アリ
夜半警戒警報発令
空襲
空襲ニツキ午前中
昨夜空襲二回
空襲三回
空襲ニ関スル通牒アリ
授業午前中ニテ空襲
昨夜三度敵機来襲
空襲
大空襲
2月17日
2月25日
3月10日
3月15日
4月 7日
5月 8日
5月25日
7月 6日
7月10日
同上
空襲
空襲
空襲模様ニテ生徒来ラズ
空襲早仕舞
空襲アリ(千葉附近)
空襲
夜半千葉爆撃
大空襲
7月13日
7月17日
7月18日
7月30日
8月10日
8月13日
千葉戦災ノ為三日間休業ス
早朝ヨリ空襲ナリ
多少空襲アリ
空襲ニテ生徒来ラズ
空襲
早暁ヨリ終日ノ空襲警報 日没ニ及ンデ解除セラレズ
33
〔生活の記憶〕
1)厳しい戦時下の生活
戦争は、一般の人々の生活(銃後の生活)にも様々な影響を及ぼしていきま
す。戦争が長期化していくと、軍費の確保、軍需物資や食糧の増産が求められ、
また石油、鉄など輸入に頼っている資源が不足し、その確保・備蓄などが急務
となってきます。
太平洋戦争が始まった昭和16年12月
頃には、戦費調達のために全国的規模で貯
蓄運動が積極的に展開され、和田村にも各
部落毎に貯蓄目標額(総額76,935円)
が設定されていたことが、八木区有文書で
明らかになっています。
米不足に対応するため、昭和14年4月
戦時国債(藤崎言行氏所蔵)
に米穀配給統制法、続く15年10月の米
穀管理規則の公布により、米の供出など統制管理が進められます。昭和16年
しゃく
には米穀配給通帳制度が導入されて、米の配給量は1人1日2合3 勺 (約33
0g)が基準(後に2合一勺に減少)となりました。
マッチ・砂糖・食用油・塩・酒・衣類などの生活必需品も順次配給制に切り
替わりますが、昭和15年11月には砂糖・マッチの切符制が全国で始められ、
事前に交付された購入切符がないとそれら生活必需品を購入する事が出来ない
という制約が加わるようになります。そして、「医薬品、青果物、麦類、魚類、
芋類、食肉類など、あらゆる物資が逐次配給統制の対象となったが、年を追う
ごとに各品目ともに予定の配給量が示されても、戦争の激化とともに実際に物
資が確保されることは少なくなっていった」と『佐倉市史巻四』に記されてい
るように、和田地区に残されている当時の各種通知文書からも、苦しい生活状
況を知ることが出来ます。
34
2)衣料切符について
きゅうはく
戦争で綿花や羊毛などの原材料の輸入が困難となり、繊維製品の供給が窮迫
してきたため配給制を導入していましたが、昭和17年2月より「衣料切符」
を交付して、繊維製品の購入についてさらに制限を設けることになりました。
衣料切符は甲種(点数80)と乙種(点数100)の2種類あり、乙種は都市
部に配布されました。
主な繊維製品の点数をみると、
みつぞろい
背広三揃 が50点、学生服の上
下揃が32点、女性用ワンピー
スが15点、ブラウスが8点、
靴下2点、ハンカチ1点、毛布
(一枚物)18点、手拭・タオ
ル3点、縫糸1点で、切符は切
衣料切符(大川悦司氏所蔵)
り離さないまま販売店に提示し
て、商品を購入することが原則となっていました。
又
ハ
帰
還
シ
タ
ル
ト
キ
(
「
八
木
区
有
文
書
」
よ
り
)
8
、
入
営
又
ハ
應
召
中
ナ
ル
ニ
依
リ
衣
料
切
符
ノ
交
付
ヲ
受
ケ
ザ
リ
シ
モ
ノ
退
営
身
分
ヲ
証
明
ス
ル
書
類
衣
料
品
ヲ
與
ヘ
ラ
レ
タ
ル
点
数
ノ
範
圍
内
ニ
於
イ
テ
不
足
ス
ル
ト
キ
7
、
新
ニ
任
官
シ
タ
ル
将
校
又
ハ
出
征
ス
ル
将
校
ニ
シ
テ
軍
装
備
上
必
要
ナ
ル
卒
業
證
明
書
、
就
職
証
明
書
不
足
セ
ル
ト
キ
上
必
要
ナ
ル
衣
料
品
ヲ
調
達
ス
ル
ニ
与
ヘ
ラ
レ
タ
ル
点
数
ノ
範
圍
内
ニ
テ
6
、
大
学
、
専
門
学
校
等
ノ
卒
業
者
ニ
シ
テ
新
ニ
就
職
シ
タ
ル
者
ガ
勤
務
5
、
新
ニ
出
生
シ
タ
ル
モ
ノ
罹
災
者
ナ
ル
旨
ノ
警
察
官
等
の
証
明
書
4
、
火
災
、
盗
難
其
ノ
他
ノ
災
禍
ニ
依
リ
衣
料
品
ヲ
滅
失
又
ハ
毀
損
シ
タ
ル
者
居
住
ス
ル
旨
ヲ
明
示
ス
ル
ニ
必
要
ナ
ル
証
憑
外
國
人
ニ
対
シ
テ
ハ
規
則
第
十
八
條
ノ
規
定
ニ
依
ル
證
明
書
、
日
本
人
ハ
外
國
ニ
3
、
外
国
ニ
居
住
ス
ル
者
ニ
シ
テ
内
地
ヲ
旅
行
ス
ル
モ
ノ
醫
師
又
ハ
産
婆
ノ
妊
娠
五
ヶ
月
以
上
ナ
ル
旨
ノ
證
明
書
2
、
妊
娠
中
ノ
女
子
両
親
、
媒
酌
人
、
相
手
方
等
ノ
婚
約
成
立
ノ
證
明
書
1
、
婚
約
ノ
整
ヒ
タ
ル
女
子
情
ニ
依
リ
直
接
切
符
ヲ
交
付
ス
ル
コ
ト
一
、
市
町
村
長
ハ
次
ノ
各
事
項
ニ
該
当
ス
ル
コ
ト
ヲ
證
明
シ
タ
ル
者
ニ
対
シ
其
ノ
事
特
別
用
衣
料
切
符
ノ
交
付
九
八 七
六 三
二
一
、 状 、 、 ル 、 、 部 、 衣 、
省 況 経 省 コ 部 四 落 市 料 町
略 ヲ 由 略 ト 落 、 会 町 切 村
明 責
会 五 ヲ 村 符 長 一
確 任
長
経 長 一 ハ 般
ナ 者
ハ 省 由 ハ 枚 二 衣
ラ ハ
前 略 シ 交 宛 月 料
シ 別
號
テ 付 ヲ 一 切
メ 紙
ニ
交 ニ 交 日 符
世 様
依
付 当 付 現 ノ
帯 式
リ
ス リ ス 在 交
主 ノ
處
ル 切
町 付
ノ 簿
理
コ 符
村
受 冊
シ
ト 表
内
領 ヲ
タ
紙
ニ
印 備
ル
交
居
ヲ 付
時
付
住
徴 ケ
ハ
責
ス
ス 一
経
任
ル
ル 般
由
者
モ
コ 用
責
ノ
ノ
ト 衣
任
欄
各
料
者
ニ
一
切
ノ
其
人
符
欄
ノ
に
ノ
ニ
職
付
受
印
印
次
払
鑑
ヲ
如
を
押
ク
押
捺
一
捺
シ
般
ス
35 用
繊維製品の不足が深刻となる昭和19年には、甲種・乙種の区分が、30歳
以上に交付された第一種(点数40)と、30歳未満への第二種(点数50点)
に変更され、手拭・タオル、足袋・靴下、縫糸の購入に必要となる制限小切符
についても、厳しく制約(手拭・タオルは1枚しか購入できないなど)が加え
られていきました。
なお、和田村では婚姻又は妊娠中の女性、大学等を卒業して就職する者、火
災盗難にあった者のほかに、新生児に対しても、特別に切符の増配をしていた
ことが八木区有文書で明らかになっています。
資料①
二
、
其
他
ノ
仝
一
万
八
千
円
(
以
下
省
略
)
昭和十六年度國民貯蓄奨励運動ニ関スル件(「八木区有文書」)
一
一 内 、
増
、
貯
加
蓄
目
標
組
合
額
貯
蓄
目
三
標
万
五
一
千
円
万
七
千
円
如
ク
配
分
増
額
セ
ラ
レ
タ
リ
(二)
今 國 ン
般 民 コ
縣 貯 ト
國 蓄 ヲ
民 目 望
貯 標 ム
蓄 額
目 増
標 加
額 ノ
千 件
五
百
万
円
増
額
セ
ラ
レ
タ
ル
ヲ
以
テ
本
村
左
ノ
度
ニ
甘
ン
ジ
時
難
克
服
ニ
邁
進
シ
貯
蓄
目
標
額
達
成
ニ
萬
全
ヲ
期
セ
ラ
レ
得
ノ
増
加
ヲ
図
ル
ト
共
ニ
日
常
生
活
ニ
再
検
討
ヲ
加
ヘ
消
費
生
活
ハ
最
小
限
畜
報
國
ニ
邁
進
シ
各
自
職
域
ニ
於
テ
全
能
力
ヲ
発
揮
シ
テ
生
産
的
所
其
重
要
性
ヲ
飽
ク
迠
自
覚
シ
其
ノ
自
覚
ヨ
リ
発
ス
ル
燃
ユ
ル
熱
意
ニ
依
リ
貯
誠
奉
公
時
難
克
服
ノ
要
諦
ナ
ル
ヲ
以
テ
此
際
全
縣
民
打
ツ
テ
一
丸
ト
ナ
リ
ノ
□
非
常
時
局
ニ
際
會
シ
之
ガ
目
標
額
ヲ
確
保
ス
ル
コ
ト
ハ
銃
後
國
民
赤
増
強
ヲ
望
ム
ヤ
誠
ニ
切
ナ
ル
モ
ノ
ア
リ
既
ニ
年
度
ノ
半
ヲ
経
過
シ
タ
リ
ト
雖
モ
此
額
セ
ラ
レ
一
億
六
千
五
百
万
円
ト
決
定
セ
ラ
レ
タ
ル
ヲ
以
テ
一
段
ト
国
民
貯
蓄
ノ
改
訂
セ
ラ
レ
タ
ル
ニ
依
リ
本
縣
貯
蓄
目
標
モ
千
五
百
万
円
(
一
人
約
十
円
)
増
ノ
増
加
ヲ
見
ル
ニ
至
リ
從
ツ
テ
本
年
度
ニ
於
ケ
ル
貯
蓄
目
標
ハ
百
七
十
億
円
ト
算
成
立
シ
之
ニ
伴
ヒ
本
年
度
ノ
公
債
発
行
予
定
額
ハ
三
十
五
億
余
万
円
政
府
ニ
於
テ
ハ
第
七
十
七
議
会
ニ
於
テ
臨
時
軍
時
費
四
十
三
億
餘
円
ノ
追
加
予
□
□
国
民
貯
蓄
奨
励
要
綱
ニ
基
キ
鋭
意
努
力
中
ノ
ニ
ト
﹅
存
ス
ル
モ
今
般
(一)
昭 昭
和 和
十 十
六 六
年 年
度 度
國 國
民 民
貯 貯
蓄 蓄
奨 奨
励 励
運 運
動 動
ニ ニ
関 関
シ ス
テ ル
ハ 件
當
初
縣
ヨ
リ
指
示
セ
ラ
レ
36
資料②
和田村戦時生活実践要綱実施ニ関スル心得(『和田村史』より)
ル ヌ
慈
善
事
業
等
ニ
寄
附
ス
ル
コ
ト
(
以
下
省
略
)
資料③
記
念
貯
金
ヲ
励
行
シ
、
将
来
発
展
ノ
資
ト
為
ス
ト
共
ニ
一
部
ヲ
公
共
事
業
結
婚
費
ノ
総
額
ハ
各
自
年
収
二
割
以
内
ニ
止
メ
節
約
シ
タ
ル
分
ヲ
以
テ
リ チ ト
ヘ
コ ニ
又
手 ト 会 嫁 目 婚 ハ 披
伝 ) 長 婿 出 儀 三 露
人
之 ノ 度 ハ 菜 ハ
ヲ 土 申 当 酒 成
ニ
対
披 産 ス 日 壱 ル
ス
露 物 ハ 一 合 可
ス 並 之 日 限 ク
ル
一
( ニ ヲ 限 度 隣
切
此 里 廃 リ ト 家
ノ
ノ 帰 止 ト ス 近
心
場 リ ス ス ル 親
附
合 土 ル ル コ 等
ケ
ニ 産 コ コ ト 最
等
少
於 ハ ト ト
ハ
ノ
ケ 一
之
範
ル 切
ヲ
囲
一 之
ナ
ニ
切 ヲ
サ
止
ノ 廃
ゞ
メ
心 止
ル
料
附 シ
コ
理
等 部
ト
ハ
ハ 落
一
ナ 常
汁
サ 会
二
ザ ノ
菜
ル 折
ホ
金
ヲ
励
行
ス
ル
コ
ト
祝
品
引
出
物
等
ハ
一
切
之
ヲ
廃
止
シ
極
力
剰
費
ヲ
節
約
シ
必
ズ
記
念
貯
ニ
ノ
ハ
絶
対
ニ
之
ヲ
廃
止
ス
ル
事
祝
儀
ハ
成
ル
可
ク
現
金
ト
シ
物
品
ヲ
以
テ
ス
ル
場
合
モ
虚
礼
ニ
渉
ル
モ
ハ
用
ニ
適
セ
ザ
ル
モ
ノ
ハ
絶
対
ニ
調
達
セ
ザ
ル
コ
ト
衣
服
調
度
品
ノ
支
度
ハ
質
素
ヲ
旨
ト
シ
成
ル
可
新
調
ヲ
見
合
セ
将
来
実
ニ
渉
ル
モ
ノ
ハ
厳
ニ
之
ヲ
謹
ム
可
事
既
製
ノ
服
装
ア
ル
者
ハ
之
ヲ
使
用
ス
ル
ヲ
妨
ケ
ス
ト
云
へ
共
贅
沢
参
列
者
又
之
準
ズ
女
共
儀
礼
章
ヲ
附
シ
テ
礼
服
ニ
代
フ
ル
ヤ
ウ
ス
ル
事
ナ
ル
服
装
ヲ
廃
シ
極
力
将
来
平
常
着
用
シ
得
ベ
キ
清
浄
ナ
ル
服
装
ト
シ
男
一
ロイ、
婚
式神礼
服前ニ
ハニ関
成於ス
ルテル
可各事
ク人項
国其
民ノ
服分
又ニ
ハ応
団ジ
服簡
ヲ素
用ニ
ヒ挙
ル式
事ス
トル
シコ
、ト
女
子
ハ
華
美
銃後奉公会会則(『和田村史』より)
(
以
下
省
略
)
十
一
、
其
ノ
他
本
会
ノ
目
的
達
成
ニ
必
要
ナ
ル
事
業
十
、
軍
事
援
護
思
想
ノ
普
及
徹
底
九
、
身
上
及
家
事
相
談
八
、
稿
軍
七
、
慰
問
、
慰
籍
六
、
弔
意
五
、
労
力
奉
仕
其
ノ
他
家
業
ノ
援
助
遺
族
家
族
ノ
援
護
四
、
現
役
又
ハ
応
召
軍
人
若
ハ
傷
痍
軍
人
並
ニ
其
ノ
三
、
兵
役
義
務
服
行
ノ
準
備
二
、
隣
保
相
扶
ノ
道
義
心
ノ
振
作
第
第
一
第
第
、行係四テ三的益ヲノ二務一
兵フ団条之条ト々整精条所条
体
ス義フ神
ヲ
ヲ
役
ト本組本
勇ルト本和本
義
緊会織会
奉トニ会田会
務
密ハスハ
公共基ハ村ハ
心
ナ第
ノニキ国役和
昂
本
ル二
精軍挙民場田
揚
村
連条
神事郷皆ニ村
ニ
絡ノ
ヲ援一兵置銃
居
ヲ目
振護致ノク後
住
保的
作ノ兵本
ス
奉
チヲ
ス実役義
ル
公
左達
ル施服ト
世
会
ノス
ヲニ行隣
帯
ト
事ル
以当ノ保
主
称
業為
テリ準相
ヲ
シ
ヲ関
目
備扶
以
事
37
資料④
節米運動実施に就て(「大川文書」)
て
全
縣
民
に
七
分
搗
米
を
常
用
せ
し
め
る
事
と
な
っ
た
の
で
あ
る
(
っ
て
居
る
の
で
あ
る
此
處
に
於
い
て
本
縣
に
於
い
て
は
白
米
食
を
以 廃
下 止
省 し
の
で
あ
る
七
分
搗
米
を
常
食
と
し
て
之
等
の
疾
病
を
豫
防
し
且
つ
國
民
﹅
脚
気
其
の
他
の
健
康
障
害
を
来
し
國
民
の
体
位
を
低
下
せ
し
め
て
居
る
白
米
食
は
銃
後
國
民
の
保
健
上
に
悪
影
響
を
及
ぼ
し
國
民
病
と
云
う
は
る
白
米
禁
止
七
分
搗
米
常
用
の
決
定
を
な
し
た
る
は
此
の
趣
旨
に
他
な
ら
ぬ
央
聯
盟
に
於
い
て
之
が
運
動
に
乘
り
出
し
節
米
と
保
健
の
重
要
性
に
鑑
み
期
す
る
事
が
刻
下
喫
緊
の
要
務
と
さ
れ
て
居
る
曩
に
國
民
精
神
總
動
員
中
る に
亘
此 る
所 と
に も
於 此
い の
て 興
食 亜
糧 建
問 設
題 の
を 聖
重 業
要 を
視 完
し 遂
且 せ
つ し
今 め
よ ね
り ば
節 な
米 ら
の ぬ
實 の
践 で
を あ
は
今
後
尚
相
當
長
期
に
亘
る
事
を
覺
悟
せ
ね
ば
な
ら
ぬ
又
如
何
に
長
期
の
有
難
き
國
柄
な
る
に
今
更
感
激
す
る
處
で
あ
る
併
が
ら
事
変
の
終
局
三
年
に
亘
る
事
変
に
際
し
て
も
食
糧
に
何
等
缺
乏
を
来
さ
ぬ
事
は
誠
に
此
物
た
る
米
の
全
需
用
量
を
自
國
の
産
す
る
天
惠
の
國
で
あ
る
為
め
に
既
に
る
重
大
な
原
因
と
な
る
の
で
あ
る
我
が
國
は
農
を
以
っ
て
國
本
と
し
主
食
と
銃
後
と
を
問
は
ず
之
が
潤
沢
で
あ
る
か
否
か
は
其
の
戦
の
勝
敗
を
決
す
要
せ
ぬ
所
で
あ
る
近
代
戦
の
特
質
と
も
云
ふ
経
済
戦
就
中
糧
食
が
第
一
戦
事
変
下
に
於
い
て
糧
食
の
問
題
が
如
何
に
重
大
で
あ
る
か
は
今
更
言
を
節
米
運
動
実
施
に
就
て
)
略
の
体
位
向
上
を
計
り
人
的
資
源
の
確
保
を
圖
る
事
が
今
日
重
要
國
策
と
な
資料⑤
塩割当販賣實施ニ関する件(「八木区有文書」)
ニ
対
ス
ル
必
需
量
(
以
上
ハ
各
月
需
要
量
ナ
リ
)
(
以
下
省
略
)
塩
需
要
量
、
三
、
漬
物
用
ニ
ツ
イ
テ
ハ
漬
物
セ
ン
ト
ス
ル
量
一
、
各
戸
別
ノ
人
員
、
二
、
味
噌
又
ハ
醤
油
醸
造
量
ニ
対
ス
ル
会
毎
ニ
村
役
場
ニ
之
ヲ
ナ
ス
コ
ト
申
請
ハ
各
個
人
別
ニ
左
記
別
ニ
之
ヲ
調
査
シ
集
計
シ
テ
各
部
落
ニ
、
自
家
用
味
噌
、
醤
油
、
醸
造
、
漬
物
用
塩
ノ
需
要
ニ
関
ス
ル
役
場
ニ
送
付
ス
ル
モ
ノ
ト
ス
査
シ
各
家
庭
用
鹽
通
帳
ニ
検
印
シ
配
給
表
二
通
ヲ
作
成
シ
一
ヲ
ハ
.
各
部
落
会
ニ
於
イ
テ
ハ
各
隣
組
各
戸
別
ノ
人
員
ヲ
正
確
ニ
調
リ
各
部
落
ニ
配
給
割
当
ス
ノ
上
当
該
町
村
ニ
通
知
シ
町
村
ニ
於
イ
テ
ハ
適
宜
ノ
方
法
ニ
依
フ油
、
加漬
算物
額等
ハノ
市季
町節
村的
ヲ需
單要
位増
トニ
シ対
テシ
専右
賣ノ
局外
ニ加
於算
イ割
テ当
決ヲ
定行
ロ
.
農
家
等
特
ニ
塩
ノ
使
用
量
多
キ
モ
ノ
ニ
対
シ
又
ハ
味
噌
、
醤
当
一
定
量
(
貮
〇
〇
瓦
)
ヲ
割
当
ス
二
、
一
般
家
庭
ニ
対
ス
ル
割
当
イ
.
通
帳
制
ニ
依
リ
一
人
一
ヵ
月
一
、
実
施
期
日
實
施
昭要
和領
十
七
年
一
月
一
日
ヨ
リ
各
部
落
会
長
殿
十
七
年
一
月
八
日
和
田
村
長
桜
井
幾
太
郎
正
ヲ
期
セ
ラ
ル
﹅
様
特
ニ
御
配
意
相
成
リ
度
此
段
及
通
知
候
也
有
之
右
実
施
ニ
当
リ
テ
ハ
特
ニ
御
協
力
ナ
シ
下
サ
レ
配
給
ノ
円
滑
適
鑑
ミ
之
ガ
需
給
ノ
安
定
確
保
ヲ
期
ス
ル
ハ
極
メ
テ
緊
要
ナ
ル
次
第
ニ
相
成
リ
候
ニ
ツ
イ
テ
ハ
塩
ハ
國
民
生
活
上
絶
対
的
必
需
物
資
ナ
ル
ニ
市
町
村
ヲ
單
位
ト
シ
テ
塩
販
賣
統
制
割
当
制
ヲ
実
施
セ
ラ
ル
﹅
事
ト
職
ヲ
相
煩
ハ
シ
居
候
處
今
回
更
ニ
一
月
一
日
ヨ
リ
左
記
要
領
ニ
依
リ
事
変
以
来
物
資
ノ
統
制
實
施
相
次
キ
之
カ
運
営
ニ
関
シ
テ
ハ
種
々
貴
塩
割
当
販
賣
制
實
施
ニ
関
ス
ル
件
38
資料⑥
ロ
、
家
族
数
四
人
以
上
ノ
家
庭
一
戸
ニ
対
シ
五
本
ヲ
配給統制品割当ニ関スル件(「八木区有文書」)
イ
、
家
族
数
貮
人
以
下
ノ
家
庭
一
戸
ニ
対
シ
参
本
ヲ
保
管
セ
ラ
レ
度
シ
配
給
量
ハ
左
記
ノ
通
リ
五
、
ロ
ー
ソ
レク ノ
バ
指
命非 定
ニ常 店
依時 ニ
ラ用 於
ズニ イ
シシ テ
テテ 購
使特 入
用別 セ
スノ ラ
ル場 レ
ヲ合 タ
得ニシ
ス使
用
各ス
人ル
大モ
切ノ
ニナ
四
、
菓
子
此
点
ニ
関
シ
テ
ハ
特
ニ
御
配
慮
ヲ
希
望
致
之シ
モ候
切
符
記
載
一
戸
当
リ
切
符
記
載
量
ノ
配
給
ヲ
ナ
ス
三
、
酒
望
ア
ラ
バ
適
当
量
ノ
配
給
ヲ
ナ
ス
コ
ト
ヲ
良
シ
ト
ス
依
ル
コ
ト
ナ
リ
常
ニ
酒
ヲ
用
ヒ
サ
ル
家
庭
ニ
対
シ
テ
モ
希
近
ク
正
月
用
ノ
配
給
モ
之
有
筈
ニ
ツ
キ
實
績
量
ニ
ノ
ミ
量
前
回
ヨ
リ
モ
僅
少
ニ
テ
需
要
量
ニ
比
シ
充
分
ナ
ラ
ズ
正
月
増
配
用
ヲ
含
ム
十
二
月
分
家
庭
用
酒
ナ
レ
共
□
各
切
符
記
載
ノ
指
定
店
ニ
テ
御
買
取
ノ
コ
ト
家
族
数
八
人
以
上
ニ
対
シ
テ
ハ
各
戸
五
合
宛
家
族
数
四
人
―
七
人
ハ
一
戸
当
リ
各
四
合
宛
二
、
食
用
油
一
、
臨
時
配
給
砂
糖
家
族
数
三
人
以
下
ハ
一
戸
当
リ
三
合
各
戸
一
斤
宛
一
月
十
日
迠
切
符
有
効
慮
成
シ
下
サ
レ
度
此
段
及
御
依
頼
候
也
割
當
致
シ
候
間
御
多
忙
中
恐
レ
入
候
ヘ
共
公
平
ナ
ル
配
給
方
御
配
本
日
午
後
待
望
ノ
切
符
到
着
致
シ
候
間
早
速
各
部
落
会
ニ
配
給
配
給
統
制
品
割
当
ニ
関
ス
ル
件
各
部
落
会
長
殿
和
産
昭第
和
十
六號
年
十
二
月
三
十
日
和
田
村
長
桜
井
幾
太
郎
きょうしゅつ
3)戦時中にあった様々な供出
軍備を整え、大量の物資を戦地に供給し続
けなくてはならないため、「供出」という名
のもとに政府に強制的に物資の提出を求め
られました。その内容は米や野菜などの食糧
ばかりでなく、木材、干草など原材料や飼料
ぼんしょう
となるもの、また鍋、釜、ヤカン、寺院の梵鐘、
うさぎ
金貨、銀貨などを含む金属類、そのほか 兎 や
し ゅ ろ
棕櫚皮など衣類や綱・網の生産に必要となる
材料が集められ、飼料用の麻袋、廃乾電池、
廃電球、古クギまでもが回収の対象となって
金属の供出(画・佐々木大次郎氏)
39
いました。
なお、宝金剛寺の京極勇剛住職のお話では、金属類の回収により、梵鐘や仏
具を供出させられたため、代用の仏具で対応しなくてはならなくなったそうで
す。
こ か つ
液体燃料、特に航空機燃料の枯渇が深刻化し、代用燃料の生産が急務となっ
たため、昭和20年3月16日に「松根油等拡充増産対策措置要綱」が閣議決
定されると、松根油の供出が強く求められるようになり、終戦間近い昭和20
年8月の時点においても、和田村の各部落に対して相当量の松根掘り取り作業
を課して、供出を求めていたことが、八木区有文書で明らかになっています。
釘供出ニ関スル件(
「八木区有文書」
)
一戸当たり5本以上の釘供出を求めている
幟
旗
(八木区所蔵)
幟
旗
(八木区所蔵)
愛国婦人会の襷
40
資料⑦ 金属製品家庭等回収實施ニ関スル件(「八木区有文書」)
テ
ハ
代
替
物
件
ヲ
考
慮
セ
サ
ル
ニ
依
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特
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注
意
ノ
コ
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(
以
下
省
略
)
ル
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明
瞭
ナ
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合
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之
ヲ
供
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メ
ザ
ル
コ
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尚
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回
ノ
供
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釜
、
薬
鑵
類
ノ
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必
需
品
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付
テ
ハ
眞
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品
又
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不
用
品
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剰
品
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隣
保
班
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ヲ
通
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回
収
物
件
ノ
蒐
集
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入
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コ
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庭
ノ
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、
愛
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ル
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保
組
織
ヲ
通
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回
収
ヲ
実
施
ス
ル
ヲ
以
二
、
今
回
ノ
回
収
ハ
國
民
ノ
供
出
意
欲
濃
化
ヲ
一
ノ
契
機
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ナ
ス
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毫
モ
減
シ
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ル
モ
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重
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的
目
的
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一
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ガ
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他
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金
属
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要
性
ヲ
ト
ナ
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ル
コ
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今
回
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回
収
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ハ
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ル
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ニ
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ム
ノ
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回
収
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セ
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ニ
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金
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一
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通 掲 ル ﹅ 近 シ
和
振
第
一
七
四
號
資料⑧ 昭和18年度産米供出割当表より(「八木区有文書」)
天
宮
髙
髙
上
長
八
辺
本
崎
岡
代
熊
木
三
三
五
俵
一
、
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六
〇
俵
六
九
〇
俵
一
、
八
八
〇
俵
四
〇
五
俵
八
九
〇
俵
四
四
〇
俵
下
勝
田
上
勝
田
八
五
〇
俵
一
、
一
五
〇
俵
瓜
米
坪
戸
三
一
〇
俵
四
九
〇
俵
上
別
所
二
五
五
俵
直
寒
弥
風
一
、
二
五
〇
俵
四
〇
〇
俵
部
落
名
供
出
数
量
備
考
41
昭
和
十
八
年
度
産
米
供
出
割
当
表
資料⑨
軍需造船供木ニ関スル件(「大川文書」)
ニ
申
込
書
取
纏
メ
報
告
相
成
様
御
措
置
願
上
候
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テ
本
供
木
ハ
四
月
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日
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見
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有
之
候
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付
速
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一
般
ニ
周
知
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方
御
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配
方
相
成
度
御
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頼
旁
々
此
段
及
通
牒
候
也
供
出
或
ハ
献
納
ス
ル
ノ
氣
運
讓
成
促
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以
テ
國
家
ノ
要
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資
セ
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ル
﹅
リ
得
ル
モ
ノ
ハ
傳
来
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ル
モ
ノ
ト
雖
モ
之
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應
召
セ
シ
ム
ル
ノ
心
情
ヲ
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テ
屋
敷
林
社
寺
境
内
林
並
木
平
地
林
ノ
林
木
ニ
シ
テ
苟
モ
其
等
目
的
ノ
用
材
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付
テ
ハ
此
際
一
曽
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御
努
力
ニ
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リ
廣
ク
國
民
ノ
愛
國
心
ニ
訴
ヘ
進
ン
テ
ノ
為
メ
ニ
ハ
萬
難
ヲ
排
シ
テ
本
運
動
ノ
貫
徹
ヲ
ナ
サ
ヾ
ル
可
カ
ラ
サ
ル
現
状
ル
ニ
拘
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ズ
容
易
ナ
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サ
ル
モ
ノ
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有
之
候
然
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大
東
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戦
爭
完
遂
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承
知
ノ
如
ク
近
時
兵
器
船
艦
車
輛
ノ
特
殊
用
材
ノ
蒐
集
ハ
事
火
急
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要
ス
実
効
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擧
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ツ
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有
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誠
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感
謝
ニ
堪
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ル
次
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候
軍
需
造
船
供
木
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御
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軍
需
造
船
供
木
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十
八
年
四
月
廿
三
日
大
政
翼
賛
會
和
田
村
支
部
長
ひんぱん
4)頻繁に行われた勤労奉仕
20歳以上の男性が軍隊に召集されてしまうと、慢性的な労働力不足となり、
食糧生産地であった和田村では、応召家族のために地区ごとに手分けをして農
作業を手伝ったり、勤労報国隊などと称して、男女の区別なく、道路の補修、
物資の運搬など軍に関係する様々な奉仕作業に駆り出されることになります。
和田村は南酒々井駅や八街飛行場に近い位置にあったためか、荷物の運搬、飛
行場での草刈りをさせられた人が少なくありません。
戦局が悪化するのに伴い、勤労奉仕の回数も増えていくとともに、大人ばか
りでなく、在学中の学生までも奉仕活動に従事するようになり、軍需物資増産
のために工場などで働く人も増えていきました。
八木にお住いの竹尾なをさんは、佐倉高等女学校4学年に在学中、実籾(現
42
習志野市)にあった日立精機に動員され、
旋盤などの作業に従事することになり
ますが、卒業後(昭和19年3月)も引
ていしん
き続き挺身隊として働いたそうです。
直弥の原田聖さんは土岐家政女学校
を卒業後、勤労奉仕のために、毎日片道
2時間ほど歩いて佐倉陸軍病院まで通
いました。原田さんは笑顔を絶やさない
日立精機にて(竹尾なを氏所蔵)
ように病院の事務仕事や慰問に心を配り、患者からも喜ばれていたそうです。
和田小学校の児童も例外ではなく、農作業の
手伝い、どんぐり拾い、ススキの穂取り、昭和
20年になると松の幹にキズをつけてヤニを採
集する、松ヤニ採りの作業が盛んに行われたそ
うです。
なお、昭和20年5月25日に和田国民学校
長名で出された「農繁期(田植麦刈)学童勤勞
作業出動ノ件」と題する文書(前掲資料)が残
佐倉陸軍病院にて
っており、当時の児童に田植え、麦刈り、子守
(原田増代氏所蔵)
などの奉仕活動をさせていた様子を知ることが
出来ます。
資料⑩
勤労報国隊出動ニ関スル件
(「八木区有文書」)
午
後
四
時
終
了
(
以
下
省
略
)
午
前
七
時
根
郷
国
民
学
校
集
合
下
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度
此
段
及
通
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ニ
付
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方
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配
慮
付
自
五
月
一
日
至
五
月
丗
一
日
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ニ
業
隊
出
動
方
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動
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布
有
之
候
ニ
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処
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郷
村
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軍
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件
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々
御
配
慮
ニ
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勤
労
報
国
隊
出
動
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ス
ル
件
各
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長
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田
村
長
昭
和
二
十
年
四
月
丗
日
43
資料⑪
蓄力挺身隊出動
一
、
集
合
時
刻
一
、
集
合
場
所
午
( 前
以 七
下 時
和
田
村
農
業
倉
庫
ニ関スル件 (「八木区有文書」)
省
略
)
成
様
御
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候
運
搬
ナ
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ハ
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レ
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村
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軍
隊
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物
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頼
候
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ニ
依
リ
割
当
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候
間
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配
慮
相
成
十
二
日
牛
馬
車
出
動
方
依
頼
有
之
候
ニ
付
決
六
六
六
三
部
隊
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自
八
月
九
日
至
蓄
力
挺
身
隊
出
動
ニ
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ス
ル
件
各
区
長
殿
昭
和
二
十
年
八
月
六
和日
田
村
長
代
理
助
役
資料⑫ 昭和二十年度松根掘取割当数量ニ関スル件より(「八木区有文書」)
宮
長
直
寒
上
天
八
髙
髙
本
熊
弥
風
代
辺
木
崎
岡
四
一
七
六
貫
二
九
五
八
貫
八
一
七
八
貫
二
六
一
六
貫
二
〇
八
八
貫
二
〇
八
八
貫
八
八
七
四
貫
八
八
七
四
貫
五
九
一
六
貫
上
別
所
五
九
一
六
貫
瓜
米
坪
戸
三
一
三
二
貫
五
〇
四
六
貫
下
勝
田
上
勝
田
六
八
八
六
貫
一
、
三
一
八
〇
貫
区
名
割
当
数
量
備
考
5)軍隊の駐屯
本土に迫りくる連合軍との決戦に備えて、関東地区の防衛力強化のために、
昭和19年7月21日、大本営は第36軍の戦闘序列を発令しました。これに
より第36軍に編入された第93師団(金沢、富山、松本で編成)は、米上陸
作戦に対抗する中核兵団となるため、「決部隊」と呼ばれていました。
佐倉には第93師団から決63部隊(歩兵第202連隊)が、臼井の国民学
44
校に司令部を置いて、要所に軍隊を駐屯させて、武器弾薬を貯蔵するなどの準
備を進めました。和田村には八木区に残っていた文書から、決63部隊第三大
隊の栗山隊(栗山俊明少佐)が駐屯していたことが分かっていますが、天辺の
路野吉野さん記憶では、昭和20年4月に決68部隊(山砲兵第93連隊)、6
月からは入れ替わりに決64部隊(歩兵第203部隊)が駐屯して来たそうです。
なお、勤労奉仕の関係で、和田村の住民が酒々井町に駐屯していた捷部隊(捷
5897)から協力を求められることもありました。
軍隊の駐屯先は学校、寺院、民家などで、和田村では直弥の宝金剛寺をはじ
めとする各地区のお寺や、和田小学校にも兵隊がやってきたため、子どもたち
の一部は寺院などを仮校舎として授業を受けなくてはなりませんでした。
また、第64部隊(決64部隊と思われる)から、和田村に対して鋸、薪、
カマ、ナタ、カナヅチなどの借用依頼があり、各地区に割り当てて数を揃えて
いた様子が八木区有文書で明らかになっています。
天辺に駐屯していた決64部隊については、終戦後の9月17日に、住民の
見送りを受けて帰郷していったそうです。
資料⑬
軍隊使用道具借入ノ件(「八木区有文書」)
天宮 髙 髙 上 長 八 上 下 瓜 米 上 直 寒 部
勝勝
別
落
辺本 崎 岡 代 熊 木 田 田 坪 戸 所 弥 風 名
一 一 三 二 一 一 三 三 二 一 二 二 二 一
鋸
一 一 三 二 一 一 三 三 二 一 二 二 二 一
薪
割
一 一 三 二 一 一 三 三 二 一 二 二 二 一
カ
マ
一 一 三 二 一 一 三 三 二 一 二 二 二 一
ナ
タ
一 一 三 二 一 一 三 三 二 一 二 二 二 一 ヅ
チ
カ
ナ
頼中第
候ニ六
也候四軍
へ部隊
共隊使
取ヨ用
纏リ道
メ左具
御記借
持道入
参具ノ
御借件
配入
慮方
煩申
シ込
度有
此之
段ニ
及付
御御
依多
用
各
區
長
殿
昭
和
二
十
年
三
月
廿
一
日
和
田
村
長
45
〔抑留の記憶〕
まんもう
満蒙開拓団青少年義勇隊と岡本廣さん
昭和7年3月1日、中国北東部に満州国が建国され、
昭和11年8月に満州への農業移民計画である「二十
カ年百万戸送出計画」が策定されると、国策により国
内から大量に移民を送り込む事業が展開されました。
「満蒙開拓団青少年義勇隊」は、数え年16歳から1
9歳までの男子を満州に入植させることを目的とした
もので、隊員の募集が昭和13年1月にから開始され
ました。
岡本廣(左)さんと豊吉(右)さん
この青少年義勇隊を国内で養成・教育する機関とし
(高梨直子氏所蔵)
て、内原訓練所が茨城県東茨城郡下中妻村内原(現水
戸市)に開設され、終戦までに8万6千余人を育成したと言われています。
八木出身の岡本廣さんは和田小
学校高等科2年生の時に、この内原
訓練所に入所しましたが、昭和19
年12月頃に一時帰国していた兄
すいりょう
の豊吉さんに誘われて、北安省綏稜
県に入植することになって、翌年2
月に、和田小学校全校児童の見送り
を受けながら、南酒々井駅から旅立
内原訓練所(高梨直子氏所蔵)
って行きました。
ところが、頼みの綱だった兄の豊吉さんに赤紙が来てしまい(5月)、ひとり
ほ り ょ
取り残される形で8月9日のソ連軍による満州侵攻があって、捕虜となって終
ぶ じゅん
戦後も撫 順 という炭鉱で強制労働をさせられました。
う
まだ体の小さかった廣さんは体力もなく、厳しい寒さと飢えとも戦わなくて
はっしん
かか
はならず、発疹チフスという病気に罹り、昭和21年3月15日に亡くなりま
した。数え年で17歳だったそうです。
46
証言①
岡本豊吉(八木出身)さん
満蒙開拓団として昭和14年に渡満。その後召集を受けて、黒竜江省三
神府に駐屯する部隊に入隊。終戦後、ソ連で抑留生活を送る。
てつれい
昭和十四年十一月、三カ月の訓練を終え開拓義勇軍として渡満、北安省鉄驪訓
練所に入所、三年の訓練を終え永住の地同省安古鎮に入植(中略)開拓の第一
ふ
歩が始まる。山から木を切り、草を刈り、屋根を葺き、生きていくため必死の
日々であった。
(中略)戦争は悪化し、召集で出て行く人、生活に耐えかねて離
農する人、団員は減るばかり、やっと見通しがつきやれやれと思った矢先、と
うとう自分にも赤紙が来た。二十年五月
黒竜江省三神府の部隊に入隊した。
来る日も来る日も爆弾をかかえた戦
車に飛び込む訓練だけであった。そして
二十年七月チチハルに向かって出発、
(中略)ソ連の重戦車は満州里の国境を
突破して進撃してくるニュースが入っ
て、それから間もなく終戦が告げられた。
兵器所に入れられ武器は全部取られて
鉄驪の開拓地(高梨直子氏所蔵)
完全な捕虜となる。(中略)それから一
か月、いつ射殺されるかヒヤヒヤの毎日
であった。兵舎の周りに何人ものロシア兵が自動小銃を持ち、ぐるぐる廻って
いた。(中略)
ついた所はクラスノヤルスク。うす暗い部屋に入れられ、持っている毛布に
つつまれソ連抑留の第一夜、時々廻って来るソ連兵の言葉はチンプンカンプン。
あくる日からいよいよ強制労働が始まる。三交替で石炭下し、夕飯がすみ五時
頃出発する。パンはマッチ箱位の重いすっぱいパン、そしていくらか塩味のつ
いている水の中に二、三つぶのグリンピースが入っているスープ、重労働の中
であっても一日の食事はパン三百グラムとその身の入っていないスープのみ、
がいとう
着ていた防寒外套も重く感じるほど体力も日に日に衰えていくのを感じた。
(中
略)意識だけがあるという本当に地獄の生活であった。
そして二十二年五月五日帰国の声がある。本当に信じられない。又他の労働
に移動するものとだれしもが思っていた。(中略)
やがて迎えの船が来た。日本の白い着物を着た女の声、「ご苦労様でした。」
この時のこの声は女神の声であったように思われ、今も涙でうるむ。
『忘れ得ぬ記憶』より
47
証言②
清宮義雄(高岡出身)さん
昭和15年1月、歩兵第57連隊に入隊。後、北鮮咸興において決戦陣
地構築中に終戦。ソ連軍により武装解除を受け、抑留生活を送る。
私は戦争の事を忘れようと努力している。ましてソ連の抑留生活の苦痛を思
こっかん
い起こすとき、戦慄を覚える。幾多の同胞が酷寒零下四十度以上の地で栄養失
つうこん
調により尊い生命を失い、凍傷により足の指先をもぎとった事は、誠に痛恨の
極みで、そんなことを考え、敢えて忘れようと努力しているわけである。私た
ちは捕虜と言われるが、敗戦により日本国のため代償として労力を提供した(中
略)
サウガワニと言う所は樺太の真岡の対岸にあって天気の良い日には真岡が見
える。本当に酷寒の地で零下四十度以上の日々が続くときもしばしばであった。
きゃはん
作業は主として樹木の伐採であった。防寒帽、防寒ズキン、防寒脚絆、防寒
靴を身にまとっても決して温かいと感じないところであった。零下四十度以上
になれば作業中止、それ以外は毎日作業である。二人引きの鋸で雪をかき分け
もみ
ての作業で大変な苦痛の連続であった。食糧と謂えば籾の配給で、それを松の
まま
枝に切り込みを入れ二枚合わせてごりごりとやり玄米とし、その儘で炊き上げ
あわ
たものが主食で、副食はノロと言う動物の肉とセーチカ(雑穀で粟のようなも
の)のスープ、それに大根、人参の塩漬が毎日であった。従ってビタミン欠乏
により体に紫の斑点が出来、自然に体力が減少し、命を失った同胞が多かった。
『忘れ得ぬ記憶』より
証言③
秋本 清(直弥出身)さん
昭和19年6月にハルマヘラ島に上陸し、終戦時には第2方面軍野戦貨
物廠ドタカ出張所におり、その後捕虜収容所に入れられる。昭和23年
1月、復員。
かんしょ
二十年の三月頃になると、糧食も底をつき始めて、農場の甘藷を食い始めた
のだがそれも一週間位で無くなり、仕方なく甘藷の新芽を食う事になった。新
や し
ゆ
芽を摘んだのに椰子の木を倒して叩き、澱粉を取り混ぜて茹でるのだが真黒で
食えた物ではないが、食べなければ生きて行けないので食べるしか無かった。
(中略)
48
二十年十月初め頃、連合軍の報復手段として犯罪行為のあった者を戦犯とし
しょう
て差し出す様命令が来たのだ。当貨物 廠 からも何人か出す様廠長より命令が来
たのだ。
(中略)中隊長が来て「召集兵や妻子のある者は可愛想だから一緒に行
ってくれ。」と頼みに来たので行く事にした。(中略)十月下旬、陸海一緒に快
速艇に乗せられ、モロタイ島戦犯収容所に入れられた。
(中略)それからは毎日
のように重労働が始まった。船の石炭降ろしに行けば、インドの兵隊がピッケ
え
ルの柄を持っていてところかまわず叩かれ、小さい船倉に一人ずつ入れられ満
載になるまで水も飲まさず使われ、椰子の木倒しに行けば大きな十五メートル
位ある木をロープを付けトラックで引き倒し、重くて動かないのを片付けさせ
棒で叩かれると夢中になり片付ける日々が続き、叩かれて肉が腐って入院する
者も二人ばかり出た。
(中略)昭和二十一年に入ると、米・英関係から取調べが
始まり、将校は大体死刑が多く、東七部隊の将校が五人と海軍憲兵十人ばかり
の死刑が決まった。(中略)
全員が天皇陛下万歳を叫び銃声と共に若い命が南国の島に消えて行った事を
思うと、深い悲しみと底知れぬ怒りを覚えずにはいられなかった。勝った国も
負けた国も皆同じ事をやったのに、何故負けた国ばかり戦犯を出さなければな
らないのか、何時の世も同じで師団長、旅団長は命令した覚えなしと責任を逃
れ、部下が責任を負わされたのだ。悲しくむごい戦争が二度と起こらぬ事を念
じ、私の戦記としペンを置きます。
『忘れ得ぬ記憶』より
証言④
鈴木 由(長熊出身)さん
昭和19年8月に第10飛行師団隷下の第3対空無線隊編成要員とな
り、その後、南支派遣軍の一部隊として転戦。衡陽にて終戦。抑留中に
マラリアに罹り、生死の境をさまようが、戦友の助けでようやく帰国す
ることができる。
げ
り
本隊と合流した時には私もマラリア、下痢等に悩まされていて、半病人とな
ようや
つか
っていた。 漸 く屋根の下で夜寝られる事も束の間、この兵舎も突然重慶軍に追
出され、私の隊は漢口飛行場の滑走路の隅に野営することになった。(中略)
高熱のため何が何やら判らず用便もままならず、編み上げ靴の中に小便を足
し、衛生兵のリンゲル液の注射も寒中にそのまま大腿皮下に注射され、その液
の冷たさに半日は足がしびれ、両足を合わせて暖をとり我慢して快復を待った。
(中略)
昭和二十一年の正月は全く記憶無く、それでも私には生命はあった。幾分春
49
しゅ み だ ん
の暖気を感ずる頃、又病院の移転があった。或る寺院に送られた。寺の須弥壇の
のきした
が き
前後、軒下等あらゆる所に餓鬼と化した病兵がひしめいていた。その頃にとな
ると病院に薬品なく、内科、外科、伝染、皆一緒にて死を待つだけが病院の役
となっていた。(中略)
きゅうきょ
四月下旬の或る日、復員船が揚子江に来たので急遽乗船せよとの命令があっ
し っ た
た。私は歩行も皆と共にすることが困難であったが、戦友に叱咤され乗船地点
た ん しゅう
に来て見れば、幾百の兵が次々と端 舟 に乗って本船に乗り移るのを見た。
(中略)
げんそく
ば し ご
本船の舷側は高く、縄梯子にて乗船するが、私は両腕両足共に筋力全くなく梯
し っ た
つか
子を登ることが出来なかった。戦友達は私を叱咤、腕を掴み尻を押して貰い、
は
死物狂いに這い上がる事が出来た。(中略)
かえり
顧 みて今回の私記を書き下す時、一つの勲もなく、一つの功もなく、又楽し
せいすい
な ぜ
き事など更になく、今四十四年の逝水を経て往時を振返える時、何故か昨日の
の う り
きょらい
しょう と く
事象を語るように次々と脳裏に去来する。
(中略)毎年挙行される招魂祭の 頌 徳
碑に刻まれた先輩諸英霊は大命を受けて最愛の家族、肉親と別れ一切の私情を
まいしん
絶ち、異国の戦場にて困苦に耐え、悪戦苦闘任務に邁進され不幸弾雨の中に斃
れ、又糧食も尽き空腹に耐える術なく病魔に襲われ、唯夜空に輝く星を仰ぎ想
ひたすら
ゆうきゅう
いを遠く祖国にはせ、只管に日本興隆と家族の安泰、民族悠久 の平和を念じて
つた
さ ん げ
奉公の誠を尽くされましたが、武運拙なく散華されました。その悲惨極まる想
いは正しく永く後世に伝えねばならないと思考します。今、物言わざる諸兄の
しの
るいこん
温容を偲び涙痕一筋を禁じ得ない。
『忘れ得ぬ記憶』より
資料① 満蒙開拓団青少年義勇隊訓練課程等証明書(高梨直子氏所蔵)
50
〔戦没者の記憶〕
1)戦没者数について
先の大戦(日中戦争以降)で犠牲となられた全国戦没者総数は、310万人
に上ると言われております。千葉県の戦没者については、千葉市にある千葉県
み た ま
まつ
護国神社に幕末から昭和期までの戦没者5万7000余の御霊が祀られており
ますが、
『佐倉市史巻四』によれば、同神社に祀られている佐倉市域を本籍地と
する戦没者数の総数は934人。この内、判明している満州事変以降の戦没者
数は、860人であるとしています。
しょう と く
昭和27年に和田村が新しく建立した忠魂( 頌 徳)碑には、西南戦争以降の
和田村の戦没者123人のお名前が刻まれていて、その後に判明した4人の戦
没者を加えると全体で127人。さらに満州事変以降の戦没者に限定すると1
20人となって、前掲の860人との比較では、和田村の戦没者が約14%に
達しています。
なお、和田村の戦没者120人中、戦没時の年齢が判明している112人の
年齢構成を見ると、20歳未満が2人、20~29歳が65人、30~39歳
が41人、40~49歳までが4人で、20~49歳までの世代で約95%を
占めていることが分かります。
〇新しい忠魂碑に刻まれている満州事変以降の戦没者(4人分追記)
檜貝秀男、押尾一雄、松井揚治、藤井正治、宮本由雄、石田勘藏、石田 利、石田
政雄、池田榮雄、石毛芳顕、石田正二、池田利司、石渡信乃夫、石渡靖夫、岩井義郎、
石渡俊一郎、石渡文夫、石渡誠二、石渡
勲、石渡重治、岩井良平、石渡 靜、石渡
常吉、石渡正義、石渡正男、石渡 羨、石渡俊治、石渡祐治、初芝丈夫、初芝廣吉、
羽根井英夫、羽根井正夫、羽根井 茂、戸村清治、戸村勝巳、戸村
操、戸村武夫、
戸村貢人、富永利雄、荻島好雄、押尾 貢、押尾義雄、押尾敏行、大山 茂、小川義
一、太田和三郎、太田 甚、押尾 満、大塚彦三郎、渡邊徳治、加藤安治、川澄留次
郎、片岡莊治、吉岡米吉、多田富造、多田幸作、髙石輝雄、積田之治、那須
孝、那
51
須佐一、中川良助、六崎義二、圓城寺四郎、圓城寺正治、栗山隆巖、栗山喜一郎、山
本 節、山本元造、山本 勇、山本一司、山本源之亟、山本五郎、山本勝治、矢澤文
夫、藤崎光雄、藤崎一男、藤崎豊治、藤崎
靜、藤崎 明、藤方 靜、藤方二郎、小
出勝太郎、小出庄一、小出敏範、小出一郎、小出靜雄、秋本清治、佐藤留夫、櫻井 馨、
齋藤健雄、齋藤恒二、櫻井勝男、櫻井 忠、齋藤大助、北村幸吉、宮崎留吉、椎名政
雄、椎名 富、椎名 貴、宍倉 進、清宮治郎吉、清宮喜八郎、清宮誠司、清宮洋一
郎、清宮利忠治、清宮忠三郎、清宮六雄、清宮 忠、鈴木由蔵、藤方次雄、實川賢二、
石渡武雄、押尾光榮、石渡
巖、大塚嘉男、小出寅雄、岡本 廣、戸村かね、石田武
夫、櫻井豊(敬称略、順不同)
和田村年別戦没者数
60
48
50
41
40
30
集計
20
12
10
1
1
2
3
3
3
6
0
2)2つの忠魂碑について
現在、和田地区には和田診療所の隣に、戦没者慰霊のための2つの忠魂碑が
き ご う
存在しています。1つは昭和5年10月に建立された堀田正恒伯爵揮毫による
「忠魂碑」と刻まれた古い石碑で、残念ながら2つに割れているため、地面に
横たえられております。
52
もう一つは、昭和
27年12月に和
田村で建立した柴
田等千葉県知事の
古い忠魂碑建立記念の杯
(宝金剛寺所蔵)
しょう と く
揮毫による「 頌 徳」
を浮彫りにした忠
魂碑で、こちらには西南戦争以降の和田村出
身の戦没者123名のお名前(海保治郎吉助
役の書による)が刻まれています。
古い忠魂碑については、もともと和田小学
横たわる古い忠魂碑
校の敷地内(現和田駐在所側道の奥にある工
場附近)に建てられていたものですが、終戦により GHQ の占領下になると、昭
和21年11月17日に内務省警保局長から学校内にある忠魂碑は撤去するよ
うに通達が出たため、和田小学校では忠魂碑前に穴を掘って、綱引き用のロー
プを使って引き倒し、穴に埋める措置を取りました。その際に、古い碑が2つ
に割れてしまったのです。
当時の和田小学校校長であった岩井泰治さんは、
「GHQ の命により校庭にあった、日露戦争の忠魂
碑が撤去されました。戦没者の家族のことを考え
ると誠に申し訳無い次第と今でも残念でなりませ
ん」と語っています。
これを悲しんだ和田村の人々は、サンフランシ
スコ条約が発効して、日本の主権が回復する昭和
27年に、現在の場所に新しい忠魂碑を建立し、
古い忠魂碑も掘り起こして、その脇に安置したの
です。
なお、昭和26年9月24日に和田中学校(昭
忠魂碑を引き倒す児童
(画・佐々木大次郎氏)
和23年開校)で行われた慰霊祭のために作られた位牌が宝金剛寺に残されて
おり、位牌の裏書により、当時の主催者が和田村青年団、遺族会、引揚援護会
53
であったことが分かっています。ちなみにこの位牌は、現在も毎年和田地区で
行われる慰霊祭に用いられております。
新しく建て直した忠魂碑
慰霊祭用の位牌
(宝金剛寺所蔵)
3)村葬の実施状況について
不幸にして戦争のために命を落とした方々のために、和田村では和田小学
校を会場として、村を挙げて葬儀を執り行いました。この村葬に関する資料
は少なく、八木区有文書及び天辺学館日誌より読み取れる村葬の実施状況の一
部を示すと、以下のとおりとなります。
なお、栗山勇さんの記憶によると、村葬は昭和21年にも行った(栗山隆
戦時中に行われた村葬
戦後に行われた村葬
(昭和12年11月24日実施)
(昭和20年12月6日実施)
押尾彰一氏所蔵
石田定雄氏所蔵
54
巌・昭和19年11月29日戦死)そうです。
村葬に使用した水引
(宝金剛寺所蔵)
〇村葬実施状況
(昭和12年)
11月24日
押
尾
一
雄(昭和12年
(昭和13年)
6月 5日
7月16日
宮
松
本
井
由
揚
雄(昭和12年11月 5日戦死)
治(昭和13年 5月16日戦死)
(昭和14年)
5月12日
10月 8日
櫻
大
井
塚
勝 男(昭和14年
彦三郎(昭和14年
3月23日戦死)
5月 1日戦死)
(昭和17年)
5月14日
12月11日
初
秋
芝
本
丈
清
夫(昭和17年
治(昭和17年
1月29日戦死)
9月21日戦死)
那 須
石 渡
山 本
羽根井
山 本
孝(昭和18年
信乃夫(昭和18年
元 造(昭和18年
正 夫(昭和18年
節(昭和18年
1月15日戦死)
6月 6日戦死)
5月 6日戦死)
6月 6日戦死)
2月 7日戦死)
藤
清
戸
崎
宮
村
光 雄(昭和18年11月 6日戦死)
喜八郎(昭和18年12月29日戦死)
貢 人(昭和19年 7月14日病死)
石
石
藤
渡
田
崎
靜(昭和19年 6月 9日戦死)
利(昭和19年11月11日戦死)
男(昭和19年12月10日戦死)
(昭和18年)
5月31日
6月14日
10月 8日
11月
8日
(昭和19年)
3月29日
8月
5日
(昭和20年)
12月
6日
一
9月29日戦死)
55
資料① 村葬の通知ハガキ(昭和18年10月1日付け)
(「八木区有文書」
)
資料② 村葬の通知文
(昭和20年12月2日付け)
(
「八木区有文書」)
資料③ 村葬事務分擔表より(「八木区有文書」)
案
内
係
栗
山
安
治
石
田
輝
義
清
宮
捷
一
郎
葬
列
係
石
田
治
郎
右
衛
門
戸
村
伝
進
行
係
一
般
会
葬
者
係
遺
族
係
僧
侶
係
石
渡
良
之
助
宮
本
和
助
戸
村
由
松
栗
山
松
雄
石
渡
潔
藤
方
喜
一
郎
斉
藤
晃
藤
崎
義
雄
山
本
祐
二
石
田
啓
次
郎
来
賓
係
(
二
号
室
)
髙
橋
紋
三
郎
羽
根
井
道
平
渡
辺
磯
七
来
賓
係
(
一
号
室
)
祭
壇
係
髙
石
信
太
郎
岡
本
芳
松
原
田
吉
太
郎
式
場
係
海
保
治
郎
吉
受
附
係
石
原
留
治
会
計
係
石
渡
恭
二
庶
務
係
岡
本
種
蔵
葬
儀
委
員
長
貝
塚
章
七
郎
故
海
軍
兵
曹
長
故
海
軍
兵
曹
長
石
渡
靜
君
石
田
利
君
村
葬
事
務
分
擔
表
二
〇
・
一
二
・
六
56
故
陸
軍
准
尉
藤
崎
一
男
君
証言①
銃後の犠牲者
八木の戸村貢人さんは、天辺学館を卒業
ちょうよう
けんてつ
後、徴用で船橋市海神にあった日本建鐵工
業に勤務しました。この会社では海軍航空
機用の部品を製造していて、戸村さんは金
けんこう
属プレス工として、昼夜兼行で働いていま
した。
こわ
そんな無理がたたって、体を壊して一時
実家に帰ることになりましたが、「少し体
が楽になったから」といって、すぐに職場
に戻ってしまいました。
昭和19年7月13日、「お腹の調子が
戸村貢人さん
み
悪い」と訴えて、戸村さんは寮医に体を診
ようたい
てもらいましたが原因がよく分からず、翌朝容態が急変して船橋病院に入院。
治療の効果もなく、栄養失調と急性腹膜炎のため、その日の夕方に亡くなりま
した。
「ここの病院は明るくていいなぁ」と言ったのが、戸村さんの最期の言葉
となりました。(翌月の8月5日に、戸村さんの村葬が行われる)
八木の戸村かねさんは、佐倉町立家政女学校を卒業後、神奈川県川崎市にあ
った「マツダ」という大きな工場に勤務することになり、実家を離れて、その
工場で電球などを製造する作業をしていました。
昭和20年4月15日、川崎市街が約200
機のB29による爆撃を受けて、大きな被害が
出ました。戸村さんも、この空襲で額に爆弾の
破片が突き刺さって、道路に倒れてしまいまし
た。
戸村さんの友人がそれを見つけて、直ぐに病
院に運び手当を受けましたが、意識不明の状態
が続き、4月20日に息を引き取ったそうです。
戸村かねさん
57
証言②
押尾一雄(上勝田出身)さん
昭和12年9月29日、上海攻略戦須宅
の戦闘にて戦死
ろ こ う きょう
昭和12年7月7日の盧溝 橋 事件以降、戦
争は拡大していき、8月13日には、上海で
武力衝突(第2次上海事変)があって、日本
は大量の増援部隊を上海に送り込むことにな
ります。
佐倉に残っていた歩兵第57連隊の留守部
隊(隊長は福井浩太郎大佐)を母体として、
新たに動員をかけた人員を合わせて歩兵第1
押尾一雄さん
57連隊が組織されることになり、押尾さん
は9月2日に臨時召集されました。今回は伍長として兵役に就くことになり、
第8中隊(中隊長は東平久雄中尉)に配属となりました。
9月17日の朝、157連隊は小雨の中を軍旗を先頭にして佐倉駅まで行進
し、大勢の人々に見送られながら戦地へと旅立っていきました。神戸港から輸
さかのぼ
送船に乗って上海に向かい、23日に揚子江を遡って呉菘というところに上陸
します。
東平隊は28日からの攻撃で第一線に立たされて、敵陣の中を前進していき
み け ん
ました。そして29日の須宅での戦闘で、押尾さんは眉間に敵弾を受けて戦死
します。伍長であった押尾さんは、死ぬ直前まで「姿勢を低くしろ」
「あわてる
な」「河野は居るか」と部下のことを心配していたそうです。
押尾さんの遺骨は、約2か月後の11月19日に南酒々井駅に到着し、大勢
の人々の出迎えを受けました。11月24日には和田村をあげての村葬が、和
田小学校の校庭で行われました。小学6年生で父親を失った押尾和一さんは、
「戦争だからやむを得ないと思ったが、戦争さえなかったら父は死なずに済ん
だ。父は温厚な人だった」と語っています。
58
〇戦友からの手紙(押尾彰一氏所蔵)
自分らの分隊長押尾一雄伍長の壮烈なる戦死の状況を涙と共に遺族の方に申
し上げます。去月二十三日〇〇嗎頭に上陸したる我が福井部隊は(中略)明く
る二十九日午前八時頃昨日の陣地に対し再び攻激前進を開始しました。今度は
しっかりと綿畑の畔をぬって地面に伏さったままジワジワと前進しました。十
時か十一時頃昨日の線よりも五十米位後方敵から百米ばかりのところまで進出
した時自分の直ぐ右前に居った筈の分隊長が今迄終始「姿勢を低くしろ」
「あは
てるな」
「河野は居るか」と連呼して居たのに声がしなくなりましたので「分隊
長」と呼んで見ましたが返事が有りません。驚いてはい寄って見たときにはす
でに前額部眉骨の上に敵弾を受けて壮烈なる戦死を遂げて居りました。最後の
一言も言葉を聞かなかったことは誠に自分等隊員一同残念に堪へないところで
ありますが直前迄の言動に依り其の不動の信念はよく解って居りますし最後の
有様も誠に立派なるものでありました。定めし押尾伍長殿の心中には一点の雑
念もなく唯陛下の萬歳を念じて戦死を遂げられたものと信じて居ります。屍は
自分等の手で後方へ捧持して奉り一同涙の内に其の掛りの人に渡しました。そ
の際身に付いて居りました貴重品は之を分隊で保持して居ります。連絡の就き
次第御渡し致そうと思って居ります。其の後自分が代って分隊を指揮する事を
命ぜられてやって居りましたが、自分も右膝に負傷して只今野戦病院に送られ
ております。早く好くなって再び戦線に帰へり必ず此の仇は打ってやる覚悟で
す。分隊員の内誰でも生きて故山の土を踏むことが出来れば必ず訪問してくは
しく御話申し上げる心算であります。甚だ要領を得ない文面で恐縮であります
が右の通りお知らせ申し上げます
十月一日
河野萬一
押尾一雄君御遺族様
証言③
石田
利(天辺出身)さん
昭和19年11月11日、レイテ島オル
モック湾での戦闘で戦死
石田利さんは、大正3年生まれの天辺出身で、
和田小学校、天辺学館と進学して、昭和8年に志
願して海軍に入隊しました。航海学校で運用術を
学んだ石田さんは、駆逐艦の乗組員となって、一
年のほとんどを海で暮していました。
昭和16年4月にふじさんと結婚しますが、
「たった2日ばかりの休暇を利用して、本人と親
石田 利・ふじご夫妻
59
しゅうげん
と仲人だけで形ばかりの祝言 を挙げました。主人とは離れ離れの生活で、半年
に一度、時には一年近くも海に出ていて、たまに戻ってきても数日しか家にい
なかった」そうです。写真は昭和17年11月30日、乗艦の「大潮」が損傷
して舞鶴に戻って来た時に撮影されたものです。
ふじさんは、空襲があったある日、夫の戦死を知らされます。子どもを背負
って天辺の家に戻って来た時、役場の兵事係の人が戦死公報を持ってきたそう
です。
石田さんは、昭和19年11月11日に駆
逐艦「若月」に乗って、輸送任務中に敵艦載
機の爆撃を受けて、レイテ島オルモック湾で
戦死しました。
戦後、遺骨を抱いて、千葉から列車に乗っ
て佐倉に帰る際に、満員列車の中、遺骨箱を
そりゃく
粗略に扱う様子を見ていて、ふじさんは「夫
くや
が何のために死んでいったのか」と、悔しい
思いをしたことがあるそうです。
遺骨箱の中身は、「石田利之霊」という紙
切れ1枚でした。ふじさんの手元に残った遺
品は、手先が器用だった石田さんが、ふじさ
戦死公報(石田定雄氏所蔵)
んとお姉さんのために作ってくれた2つのビ
ーズの財布でした。
遺品となったビーズの財布
(石田定雄氏所蔵)
60
証言④
石渡正義(高崎出身)さん
昭和20年5月4日、桜花特別攻撃隊と
して出撃、伊江島周辺海域にて戦死
高崎出身の石渡正義さんは、和田小学校を
卒業後、天辺学館に進学、昭和16年に志願
して予科練に入隊しました。予科練では操縦
員の道を歩むことになり、岩国航空隊から三
重航空隊へ、そして延長教育のため台南航空
隊で訓練に励んでいる時、特攻隊員の募集が
あって、石渡さんはこれに志願することにな
ります。
石渡正義さん
その特攻とは、
「桜花」と呼ばれる大量の爆
薬を搭載した小型飛行機に、人間が搭乗して
敵の大型艦船に突入していくという恐ろしい
攻撃でした。
石渡さんは、昭和19年11月9日に特攻
じんらい
の部隊である海軍第721航空隊「神雷部隊」
に入隊。昭和20年1月頃に九州の鹿屋基地
特攻機「桜花」
(日向一泰氏所蔵)
に進出して、出撃の時を待つことになります。
昭和20年5月4日、出撃命令が出されて、石渡さんは桜花に搭乗して敵の
大型艦船に突入し、戦死します。戦死の知らせ聞いた石渡さんの母親は、
「正義
っー」と叫んで、声を上げて泣いていたそうです。
お
家族に残した遺書には、
「我々が死んで皆様が幸福になられたら何で惜しみま
せう
決して父母様には驚かれず
私の帰りを笑って迎へて下さいませ」と書
かれていました。
戦後になって、家に帰って来た石渡さんの遺骨箱の中には、
「英霊」と書かれ
た紙が1枚。甥の石渡國男さんは、
「あんなに長身でがっしりしていた叔父が紙
切れ一枚になってしまったことが、子ども心にも非常に悲しかった」と語って
います。
なお、石渡さんが所属していた神雷部隊から、430人もの特攻戦没者を出
61
しています。
昭
父和
母二
様十
年
(
石
渡
正
義
氏 正
遺 義
書
よ
り
)
証言⑤
御
身
御
自
愛
の
程
を
迎
へ
て
下
さ
い
ま
せ
私
の
帰
り
を
笑
っ
て
決
し
て
父
母
様
に
は
驚
か
れ
ず
何
で
惜
し
み
ま
せ
う
皆
様
が
幸
福
に
成
ら
れ
た
ら
出
来
ま
し
た
我
々
が
死
ん
で
思
い
ま
す
私
も
覚
悟
は
御
覚
悟
を
出
来
て
居
ら
れ
る
事
と
成
る
を
御
許
し
下
さ
れ
た
以
上
父
母
様
も
私
の
搭
乗
員
に
東
洋
平
和
を
お
待
ち
下
さ
い
十
分
御
身
体
を
強
健
に
も
た
れ
事
は
有
り
ま
せ
ん
今
に
成
つ
て
何
に
も
申
し
上
げ
る
そ
れ
も
出
来
ま
せ
ん
で
し
た
何
か
糸
に
で
も
引
か
れ
る
思
ひ
致
し
私
の
心
も
明
け
ん
と
致
し
ま
し
た
が
今
迄
何
度
か
家
を
訪
問
致
し
何
と
も
お
詫
の
申
す
言
葉
は
有
り
ま
せ
ん
下
さ
れ
た
母
様
何
一
つ
孝
を
致
さ
ず
父
幾母
星様
霜
の
今
日
迄
愛
し
育
て
渡辺徳治(長熊出身)さん
昭和19年11月19日、レイテ島作戦
にて戦死
佐倉中学校に入学した渡辺徳治さんは、同
級の山本貴義さんと一緒に、毎日総武本線の
線路上を歩いて通学していました。佐倉中学
し は ん
では、渡辺さんは進学組に入って、卒業後師範
学校に進学し、教員の道を歩むことになりま
す。
戦争が激化してくると、学校の教員であっ
まぬが
ても召集を 免 れることはできず、昭和16年、
きょうべん
銚子の国民学校で教鞭 をとっていた渡辺さん
渡辺徳治さん
のもとに赤紙が届きます。入隊したのは歩兵第57連隊で、短い準備期間を置
いて、渡辺さんは孫呉へと出征して行きました。
日本の敗色が濃厚になっていた昭和19年7月、渡辺さんが所属する57連
隊は孫呉を出発して、フィリピンのレイテ島に派遣されることになります。同
年11月1日、レイテ島オルモック湾から上陸した57連隊は、陸路をバレン
シア経由でリモン峠に向かいます。
62
このリモン峠では米軍との激戦が繰り広げられ、日米双方とも大勢の死傷者
を出すことになります。圧倒的兵力と物量で迫りくる米軍と闘いながら、武器、
ようしゃ
弾薬、食糧の補給が絶たれて、幾日も降り続く雨が容赦なく体力を奪い去り、
たお
日本の兵士が次々と斃れていきました。1
1月19日、渡辺さんはこのような戦闘の
中で戦死してしまいます。
渡辺さんの両親は、戦死の知らせを聞
いても、人前では悲しむ姿を見せませんで
した。ただ、母親が「子どもでも居ればな
ぁ」とつぶやいていたそうで、主がいなく
教え子とともに(個人所蔵)
証言⑥
なった渡辺さんの部屋には、愛用のヴァイ
オリンがポツンと残されていました。
多田富蔵(米戸出身)さん
昭和19年11月29日、レイテ島リモ
ン峠にて戦死
多田富蔵さんは米戸に生まれ、和田小学校
を卒業してからは、家業の農業に従事してい
ほが
ました。人柄が朗らかで、野鳥を捕まえたり、
川魚(ウナギなど)をとることが好きで、2
級年下の藤崎敏夫さんとはよく遊んだ仲で、
藤崎さんの話では、マラソンが得意な多田さ
んは、小学校で行われる合同運動会でも優勝
したことがあるそうです。
多田富蔵さん
20歳を迎えた多田さんは、徴兵検査を受
けて軍隊に入隊することになり、地区の人々が諏訪神社に集まって区長の発声
で万歳三唱、その後、南酒々井駅まで近親者、青年団、婦人会の人たちによる
見送り。南酒々井駅には他地区の人々もたくさん集まっていて、多田さんが「国
あいさつ
のために戦ってきます」
「元気で行ってきます」と挨拶すると、婦人会・青年団
63
が歌う「勝って来るぞと勇ましく~」に送
られて、他の出征者とともに列車に乗って
行ってしまいました。
多田さんが入隊したのは、やはり歩兵
第57連隊。渡辺徳治さんと同じレイテ島
に上陸して、激戦地リモン峠で、昭和19
年11月29日に戦死します。戦死の知ら
せを受けた母親は、一家の大黒柱と心の支
えを失ってしまって、しばらく寝込んでし
リモン峠で発見された鉄兜
(下志津駐屯地広報史料館所蔵)
まったそうです。
戦後、和田地区の慰霊祭で「戦争の悲惨
さ ん か
いまし
ちゅうしん
さ、惨禍を胸に刻み、のちの世への 戒 めとなし、永遠の平和を願い衷心慰霊の
ささ
ついとう
誠を捧げる次第であります」と追悼の辞を奉読した藤崎さんは、
「二度と戦争は
いた
してはならない」と改めて亡き友の死を悼むように語っていました。
証言⑦
石渡
靜(高崎出身)さん
昭和19年6月9日、南洋群島方面の作
戦行動中に戦死
石渡靜さんは、満州事変が発生した翌年の
昭和13年6月に、佐倉中学校(現佐倉高校)
を中退(3学年時)して、志願して横須賀海
兵団に入団しました。後に久里浜の通信学校
に入学して、偵察員としての教育を受けるこ
とになります。
卒業後は木更津航空隊に配属となり、昭和
15年5月より主として中国での戦闘爆撃に
参加、展示中の軍艦旗には攻撃を行った地名
石渡
靜さん
等が記されています。
昭和17年6月に帰国し、鈴鹿や九州各地の航空隊で教育助手をしていまし
たが、戦局の悪化により再び前線へ派遣されることになり、昭和19年6月9
64
日、南洋群島方面の作戦行動中に戦死しま
した。詳しい戦死の状況は、遺族にも知ら
されておりません。
石渡さんの義姉に当たる石渡菊枝さん
は、
「再度前線に派遣されることが決まった
頃のことでしょうか。高崎上空で飛行機が
旋回しているのを祖父が見つけて、
「あれは
靜の飛行機だ」と言っていたのを覚えてい
る」とのことでした。
戦争は戦死された方ばかりでなく、生き
残った人々にも様々な影響を与えます。お
話をしてくれた菊枝さんは戦時中は小学校
じゅん
軍艦旗に記された戦歴
(石渡菊枝氏所蔵)
の教員でしたが、国のために 殉 じることを
名誉なこととして教えて来たのに、戦後に
てのひら
なって、同じ子どもに対して 掌 を帰すよう
に教え方を変えることに抵抗を感じ、教員の職をお辞めになったそうです。
証言⑧
斉藤健雄(上代出身)さん
昭和19年6月1日、サイパン島近海に
て戦死
斉藤健雄さんは上代の生まれで、佐倉小学
校を卒業後、家業である農業に従事していま
した。ご長男の真一さんのお話では、物静か
な優しい父親で、真一さんが日頃川魚を取っ
て遊んでいるのを見て、川魚を飼うための
い け す
生簀を庭に作ってくれたそうです。
斉藤さんに赤紙が届いたのは、昭和19年
あわ
1月10日。出征前の慌ただしさの中、田う
あいさつ
ちんじゅ
ないをしながら挨拶(鎮守様や南酒々井駅で
斉藤健雄さん
行うため)の練習をしている斉藤さんの姿を、近所の人たちが見かけていまし
65
た。
出征の日、近くの熊野神社に集まってくれた大勢の人の前で挨拶をして、身
内や近所の人たちと一緒に南酒々井駅まで歩いていき、盛大に見送りを受けな
がら、斉藤さんは列車に乗り込んで行きました。入隊先は横須賀海兵団。
しかし、その数か月後の昭和19年6月1日、サイパン島へ向かう途中で船
を沈められてしまい、斉藤さんは戦死します。
斉藤さんの一番下の子は、7カ月余りの乳飲み子で、奥さんは5人の子ども
を抱えて、必死になって働きました。親類や近所の人たちが農作業を手伝って
くれて、どうにか暮らしていくことが出来たそうです。
「父親が亡くなったことは、(当時は)仕方がないことだと思っていました。
学校ではいじめなどはなかったが、まだ小学生(5年生)でしたので、淋しい
思いをすることもありました」と、真一さんは言葉少なに語ってくれました。
証言⑨
戸村武夫(八木出身)さん
昭和20年2月7日、ニューギニアにて、
腹部貫通銃創のため戦死
いままで吹き荒れていた感情のあらしが
ひた となりをひそめて
ひとみ
瞬間 わたしの 眸 は
げんしゅく
ぎょうし
厳粛な事実を凝視して動かなかった。
戦死 !!
肉親は ひたすら神に祈り
き せ き
ねが
奇蹟を希ったが
五年越し はげしい闘いに
兄の その肉体は
戸村武夫さん
いろど
赤道下の熱砂を鮮血に 彩 り
魂は、時間の停止した暗黒の世界に
えいごう
永劫に拉し去られ
ただ一片の肉片もとどめなかった。
66
兄はいま
部厚い戦没者名簿の
たった一行の文字となって帰った。
「姿なき復員」戸村光さん
証言⑩
『忘れ得ぬ記憶』より
実川賢二(瓜坪出身)さん
昭和20年3月20日、揚陸使役、防空
壕掘りなどの激務が重なり、宮古島にて
戦病死
八月初旬釜山門司経由で沖縄方面に向け出発、
(中略)約一カ月を要し宮古島に無事上陸した
のは九月中旬の頃、揚陸使役それから防空壕掘
りを毎日の勤務としておったが連日の激務、給
与、休養の不足の重なりによって栄養失調の体
むち
し
つい
に鞭打ち、無理に無理を強いられ、遂に病魔に
実川賢二さん
勝てず戦病死されたとの事。終戦の後、同郷の
戦友小川宝之助氏の胸に遺骨となって昭和二十年十二月下旬広島県大竹港に上
かえ
陸し、十二月丗日千葉県復員事務所に遺骨を納めて氏は還って来たとの事。
(中
略)
君は小学校卒業後、私と同じ様に瓜坪栗山孝義先生の教えを受け、当時とし
まれ
ては稀な英語の教科書を買い求め独学にて勉学に励んでいたが、やがて駅員と
なり南酒々井駅に勤務していたが、同年兵として徴兵検査を受け共に軍隊に入
あ
隊。そして戦病死という不幸な運に遭ってしまった。(中略)
けんきょ
おうおう
真面目でそして謙虚な性質であった君は軍隊に入隊しても不利な面が往々あ
く
ったことであろう。小川氏が語るには宮古島で使役として水汲みに来た時には
はんごう
非常に体力も衰えていて、飯盒に水を汲んで持つ手も大儀な様であったと言っ
ていた。
お う じ
む ぼ う
い
今往時を振返る時、無謀としか謂えない戦をして、青春の日など一日もなく、
又勉強の道も閉ざされ、有為な青年を死なせてしまった。誰がこの様にしたの
あやま
か常に私は自問してみている。この 過 ちは後世の人々に正しく伝え、二度とし
67
てはならないことを願いこの記を終わらせたい。
「亡友実川賢二氏を悼む」鈴木由さん
『忘れ得ぬ記憶』より
さらなる平和への願い
今から10年前の平成17年12月、和田地区区長協議会、遺族会、郷友会
が中心となって、この「平和之塔」が忠魂碑の隣に建立されました。
戦没者に対する慰霊、二度と戦争の過ちを繰り返さないという戒めと、恒久
平和を願う和田地区の人々の切なる願いが、この記念碑に込められています。
68
【年表】満州事変から終戦まで(一部昭和21年を含む)
年 号
昭和6年
1931
主
9月18日
な 出
来 事
満州事変(柳条湖事件)が起こる
11月19日 関東軍、チチハル占領
12月16日 歩兵57連隊の一部が満州に派遣される
昭和7年
1月28日
第1次上海事変
1932
3月
満州国建国宣言
1日
5月15日
5・15事件、犬養毅首相が射殺される
10月24日 大日本国防婦人会が結成
昭和8年
3月27日
日本、国際連盟を脱退
1933
7月20日
政府、満州移民計画大綱を発表
8月9~11日 第1回関東地方防空大演習が実施される
昭和9年
3月
1日
満州国帝政実施
1934
6月
1日
文部省に思想局を設置
10月 1日 陸軍省「国防の本義とその強化の提唱」を配布
(和田村)
3月26日、満州事変以降初めての村葬が行われる
(和田小学校)神饌園が設けられる
昭和 10 年
1月21日
県、道路愛護奨励規程を制定
1935
4月
1日
青年学校令公布
4月
9日
美濃部達吉、天皇機関説のため告発される
5月
国防婦人会印旛支部結成
10月30日 千葉県国防協会創設
昭和 11 年
2月26日
2・26事件発生、鎮圧のため歩兵57連隊上京
1936
5月22日
歩兵57連隊が満州警備のため、佐倉を出発
9月25日
帝国在郷軍人会令公布
11月25日 日独防共協定成立
昭和 12 年
4月
5日
1937
5月31日
文部省、『国体の本義』を全国の学校等に配布
7月
盧溝橋事件(北支事変)、日中戦争始まる
7日
8月13日
防空法公布
第二次上海事変、日本軍の渡洋爆撃(15日)始まる
9月15~19日
9月17日
関東防空演習
歩兵157連隊が編成され、中国に向け出発
10月26~28日 大場鎮占領祝賀会が行われる
11月 6日 日独伊三国防共協定調印
12月13日 日本軍、南京占領(南京事件)
69
年 号
昭和 12 年
主
な 出
来 事
この年、千人針と慰問袋づくりが盛んになる
昭和 13 年
4月
1日
国家総動員法公布
1938
4月
4日
燈火管制規則公布
5月19日
日本軍、徐州を占領
8月
県、防空本部を設置
4日
9月12~16日
9月29日
県下で防空演習が実施される
県、国民貯蓄奨励運動実施規程を制定
10月27日 日本軍、武漢三鎮を占領
昭和 14 年
1月25日
警防団令公布
1939
2月16日
商工省、鉄製不急品の回収開始
4月12日
米穀配給統制法公布
4月26日
青年学校義務制となる
5月12日
満蒙国境のノモンハンで軍事衝突(ノモンハン事件へ発展)
5月29日
小学校5・6年と高等科男子に柔・剣道を課す
6月
7日
満蒙開拓団青少年義勇軍壮行会
7月
8日
国民徴用令公布
7月24日
千葉県下で一斉に防空準備演習
10月24日 県下防空訓練を実施
11月25日 米穀搗精等制限令公布
(和田村)
4月1日、和田村銃後奉公会結成
昭和 15 年
2月14日
歩兵157連隊が佐倉に帰還
1940
5月13日
第1回報国債券発売
9月23日
日本軍、北部仏印に進駐
9月27日
日・独・伊三国同盟締結
9月
佐倉町で飯米切符制始まる
10月12日 大政翼賛会結成
10月24日 米穀管理規則公布
11月 1日 全国で砂糖・マッチ切符制実施
11月 2日 国民服令公布
11月30日 大政翼賛会県支部発足
昭和 16 年
4月
1日
1941
小学校を国民学校と改称
生活必需物資統制令公布
4月13日
日ソ中立条約調印
7月28日
南部仏印進駐
8月30日
金属類回収令公布
70
年 号
昭和 16 年
主
な 出
来 事
10月 1日 乗用自動車のガソリン使用が禁止となる
11月22日 国民勤労報国協力令公布
12月 1日 県下金属回収が始まる
12月 7日 県、県民戦時生活実践要綱を頒布
12月 8日 真珠湾攻撃、対米英宣戦布告
12月28日 県防空本部、燈火管制を各市町村に通達
(和田小学校)4月1日、「和田国民学校」となる
学童用ズック靴、洋服類の配給が始まる
昭和 17 年
1月
1日
食塩配給制
1942
1月
2日
日本軍、マニラ占領
1月14日
県、地下足袋及びゴム底新旧品引換実施要綱並びに廃電球回
収要綱を決定
1月18~24日
1月
2月
県下灯管整備訓練
佐倉町で金属回収始まる
1日
味噌・醤油の切符配給制、衣料の点数切符制実施
2月18日
酒・菓子・小豆・ゴムまりなどが配給
4月18日
米軍機B25、東京・名古屋などを初空襲
5月31日
満蒙開拓青少年義勇軍千葉県部隊が渡満
6月
5~7日 ミッドウェー海戦
6月
8日
日本軍、アッツ島占領
8月
7日
米軍、ガダルカナル島上陸
10月 1日 県下寺院・教会に対する金属類特別回収が始まる
(和田村)
2月11日、宣戦の詔書伝達式を和田国民学校で行う
(和田国民学校)軍馬用飼料として木の実採集供出
昭和 18 年
1月
8日
1943
大政翼賛会県支部が銅貨・白銅貨をアルミ貨や紙幣への引換
を指示
2月
1日
日本軍、ガダルカナル島撤退開始
2月23日
陸軍省、「撃ちてし止まむ」のポスター配布
5月29日
アッツ島の日本軍全滅
6月
4日
戦時衣生活簡素化実施要綱が閣議決定される
8月
1日
4町村による組合立佐倉青年学校が開校
9月
1日
佐倉町で県下初となる「防空競技大会」開催
10月12日 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定される
11月 1日 兵役法の改正、国民兵役を45歳まで延長
11月13日 県、昭和18年度補助貨幣回収に関する通達
12月 7日 三育学院、高松学館など、県下私立学校の廃止が告示される
71
年 号
昭和 18 年
主
な 出
来 事
12月24日 徴兵適齢臨時特例公布(19歳に引き下げ)
(和田国民学校)乾燥芋供出、芋弁当の日、出征兵士の家へ勤労奉仕
昭和 19 年
1月16日
県、廃乾電池回収に関する通達
1944
2月23日
歩兵57連隊の一部がグアム島へ派遣
3月
県、県民決戦生活実践要綱を制定
7日
4月24日
国民総決起運動の県実施要綱を決定
6月19~20日
7月
7日
7月21日
マリアナ沖海戦
サイパン島の日本軍全滅
米軍、グアム島に上陸
大本営、第36軍の戦闘序列を発令
7月24日
歩兵57連隊を含む第一師団に対し、南方派遣命令が下る
8月
1日
家庭用の砂糖、配給停止
8月
4日
政府、国民総武装を決定(竹槍訓練始まる)
学童集団疎開第一陣、上野を出発
8月10日
グアム島の日本軍全滅
8月23日
女子挺身勤労令
10月20日 米軍、レイテ島に上陸
10月23日 農商省、松根油緊急増産対策措置要綱を決定
10月25日 神風特別攻撃隊、初めて米艦艇を攻撃
5銭、10銭の小額紙幣発行
11月 1日 歩兵57連隊レイテ島オルモックに上陸
11月21日 県、県松根統制規則を制定
11月24日 米軍、マリアナ基地のB29による東京初空襲
12月
歩兵57連隊がレイテ島で壊滅
(和田村) 和田村に軍隊(決部隊)が駐屯してきて、小学校、寺院、民家
が宿所となる
(和田国民学校)時期は不明だが、軍隊の駐屯により、一部児童に対する授
業が、寺院を仮校舎として行われるようになる
昭和 20 年
1月14日
歩兵57連隊、セブ島へ転進
1945
1月27日
酒々井町伊篠にB29が墜落
2月16日
大規模空襲あり、佐倉上空で空戦
2月19日
米軍、硫黄島に上陸
3月
国民勤労動員令公布
6日
3月9~10日 東京大空襲
3月16日
松根油等拡充増産対策措置要綱を閣議決定
3月17日
硫黄島の日本軍全滅
72
年 号
昭和 20 年
主
な 出
来 事
4月
1日
米軍、沖縄本島に上陸
5月
5日
県が国民義勇隊結成を指示
6月10日
千葉市空襲
6月22日
戦時緊急措置法公布
6月23日
沖縄の日本軍全滅、組織的戦闘が終わる
義勇兵役法公布
7月6~7日 千葉市空襲
7月11日
主食の配給、一割減の2合1勺になる
8月
6日
広島に原爆が投下される
8月
8日
ソ連が日本に宣戦布告
8月
9日
長崎に原爆投下される
8月14日
ポツダム宣言受諾
8月15日
戦争終結の詔書を放送(玉音放送)
(和田村)
4月、天辺に決68部隊が駐屯
6月、天辺、68部隊に代わり決64部隊が駐屯
(和田国民学校)運動場を芋畑へ、防空壕づくりと避難訓練、松根油しぼり
等を行う
8月20日
燈火管制解除
9月21日
各校で教科書の墨塗りが開始される
(和田村)
9月17日、天辺の駐屯兵が帰郷する
(和田国民学校)10月15日、戦後初となる運動会を開催
昭和 21 年
1月24日
1946
県内各学校、修身・国史・地理の授業を停止し、教科書を回
収する
2月
(和田村)
歩兵57連隊の生存者が日本に帰還
栗山隆巌二等兵曹の村葬が行われる(期日不明)
(和田国民学校)11月頃、校内にあった忠魂碑が倒される
73
終戦70年平和祈念特別展
「忘れ得ぬ記憶」~戦争と和田村~ 記録集
編集
佐倉市立和田公民館
平成28年2月15日発行
74
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