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シュタイナー哲学がめざしたもの
シュタイナー哲学がめざしたもの ―――人智学・実存主義・西欧神秘主義に照らして――― 森岡 稔 はじめに ルドルフ・シュタイナー(1861−1925)は日本ではおもにシュタイナ ー教育の創始者としてその名が知られています。 しかし、シュタイナ ーの業績は教育だけにとどまらず、医学・農学・建築学・演劇・音楽・ 天文学・絵画などに大きな影響を与えました。また、何をさておいても 「人智学」という霊学体系も築きあげたことを挙げなければなりません。 ところが、学者や一般の人々はシュタイナーの話において霊という言葉 が出てきた瞬間に、もう歩み寄ることをやめてしまいます。 近年、新興宗教がいろいろ新聞の紙面をにぎわすことによってオカル トがいよいよゲテモノ扱いされてきました。もちろん最近ばかりでなく、 歴史的にいっても神秘主義的なものは排除されてきました。科学万能の 時代に何がオカルトかと。オカルトと聞いただけで気味が悪いような感 じをする人が少なくありません。 ところが一方では書店のコーナーに「精神世界」というジャンルが備 えられ、常に人がそのコーナーを取り囲んでいる状況があります。哲学 でもなく心理学でもなくいったい「精神世界」というジャンルとはいっ たい何でしょう。 ともかく研究のためとは言え、心理学にあったユングのコーナーから 「精神世界」のコーナーにあるシュタイナーの本の前に立つにはちょっ とした勇気がいりました。こんな本を読んだらひょっとして、精神的に どこか知らないところへ自分がもっていかれて、そして帰ってこれない のではないだろうか。そんな不安を正直言って私は持ちました。 私自身は深層心理学のフロイト、ユングを経てシュタイナーにたどり 1 ついたわけですが、いきなりシュタイナーを読んでいたらやはりもう、 敬遠していたかもしれません。 ではなぜ、ユングからシュタイナーなのでしょうか。フロイトは意識 と無意識(個人的無意識)を説き明かしました。それを発展させてユン グは、無意識には個人的無意識のほかに集合的無意識があることを見つ けました。集合的無意識とは、普遍的な民族や人類の記憶が眠っている 本来的な「自己」のある領域であるとユングは説いたのです。 さらに、ユングによると自我は意識の中心を形成しているとしていま す。一方、無意識の世界は言ってみれば宗教的な精神世界でもあります。 私がユングにひかれたのは、この無意識を単に抑圧された悪いものが押 し込められた領域であるとしたフロイトとちがって、無意識が活力の源 泉であり、たえず自己実現のために心的エネルギーを送り出すものとし て積極的な意味を与えたことにあります。 ユングはこの自己実現していく過程を「個性化」という名前で呼び、 無意識 にその役割を認めたのでした。では自己実現していくとはい ったい何なのか。個性を発現していくとはいったい何なのか。やはりこ ればかりは自分の「自己」に聞いてみるしかありません。理性や感覚で はとらえられない世界をどうやって求めるのか。ユング理解のために、 自己を考えた思想家を探していたら、そこに人智学のシュタイナーがい て、神秘主義があったわけです。 シュタイナーに、はまってしまうことが良いのか悪いのかは別問題と して、シュタイナーが考えたこと・めざしたものをきちんと整理してみ て了解できる部分は人生に生かしてみるのも悪くないと思います。 『シュタイナー哲学がめざしたもの』という表題をつけましたが、シ ュタイナーだけでなく実存主義や神秘主義をも視野に入れて、広く人生 を考えることがこの論考のねらいです。 さて、近代思想史を、目を凝らして見れば、あるひとつの衝動が一貫 してあるように思われます。それは自己意識と宇宙意識を同一のものと する衝動です。さきほどユングのところで集合的無意識のことを言いま したが、まさにそこで浮かび上がってくる衝動ではないでしょうか。 シュタイナーはこの自己と宇宙意識が同一化するという衝動が次には 2 「愛の衝動」にメタモルフォーゼ(変態)すると言いました。私がシュ タイナーに期待するのはまさにこの点です。つまり普通は自分が「悟 り」を得たことに満足してしまいがちですが、他者との関係の中に、自 己に内面化された宇宙意識が「愛」という形で展開されていくというの です。 とかく現代は人間同志が競争や力による支配という論理で動いていま す。このままで行くと人類は滅亡の危機にあると言っても過言ではあり ません。「共生」という言葉を最近よく耳にしますが、この共生が人類 に今、切実に要請されているのです。シュタイナーが自己に内面化され た宇宙意識が 愛 にメタモルフォーゼするというのならシュタイナー 哲学がまさに私たちが求める哲学ではないでしょうか。 シュタイナーとは誰か 高校の教員をやっている私が同僚にシュタイナーのことを知っている かどうか尋ねるとたいてい、「シュタイナー教育のシュタイナーか」と いう答えが返ってきます。もちろん教員採用試験で勉強したヘルバルト、 ペスタロッチ、フレーベル、スペンサー、デューイとともに思い出され る名前であるわけですが、シュタイナーを研究する前は、実は私もそう いったぐあいの一人でした。 しかし、シュタイナー学校はドイツをはじめ多くの国々で増え続けて おり、現代の教育にその影響を与えつづけています。先日家内の買って 来た雑誌の中にも、モンテソリーとともにシュタイナー教育をしている 幼稚園を紹介する記事が載っていました。 そのシュタイナーは、フルネームでルドルフ・シュタイナーといいま す。ここでは伝記を書くのが本来の趣旨ではないので、ざっと年表形式 でシュタイナーを紹介したいと思います。 1861年 2月27日、ハンガリーとクロアチアの国境沿いにあるクラ リエヴェク(現ユーゴスラビア)でオーストリア南部鉄道の 息子として生まれる。 草原や森の美しい自然環境に育った彼 は活発な感受性を身につけた。 3 1868年 7歳のころ地上の世界とは異なる世界からの霊性を感ずる。 1879年 ヴィーナ・ノイシュタットの実科学校を優秀な成績で卒業後、 秋、ウィーン工業大学に入学。在学中にゲーテを読み耽った。 1883年 偶然にも、「ドイツ国民文庫」のゲーテの自然科学に関する 著作編集に携わるようになる。生活費を稼ぐためにウィーン の商人の家庭で、水頭症を患う10歳の子供の家庭教師を6 年間して、その子供の健康状態を改善することによって教育 の実際を学んだ。 1886年 『ゲーテ的世界観の認識論要綱』(1886)をウィーンで出版。 1889年 ワイマールへ移住。学者・詩人・芸術家など文化人と交流する。 ゲーテ文庫の編集の仕事を熱心に行う。ゲーテは彼を精神世 界へ導いた。 1891年 『自由の哲学』出版。 1895年 『フリードリヒ・ニーチェ、反時代的闘士』出版。 1896年 シュタイナー35歳。自分が霊的人間であることを強く意識する ようになった。ベルリンへ移住して「文芸雑誌」の編集に 携わる。 1897年 『ゲーテの世界観』出版。 外的な世界と内的な世界との葛藤を経験する。 1900年 本格的に作家活動に入り神智学者たちを前にして精神世界に 関しての講演も行った。 1902年 神智学協会ドイツ支部事務総長に就く。 1904年 『神智学』『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』出版。 1910年 『神秘学概論』によって宇宙の進化を扱う。 1913年 神智学協会会長のアニー・ペザントとクリシュナ・ムルティを イエスの生まれ変わりかどうかで意見のくい違いを見いだし、 ベルリンの神智学協会ドイツ支部は独立した組織として「人 智学協会」という名称とともに再出発する。 スイスのバーゼル近郊のドルナハに、神秘劇の舞台や芸術活 動、講義の建物をたてることにし、ドルナハに移住。人智学 4 運動のセンターもともに移動。外壁と内壁の大部分に木彫が 施されたり、他にもいきいきとした造形をめざしたユニークな 建物は「ゲーテアヌム」という名前がつけられる。建物を作っ ていくと同時に舞踏と楽唱をもとにした運動芸術「オイリュトミー」が 誕生する。 1917年 『魂の謎について』出版。魂の営みは表象(神経系)・感情 (呼吸や血液循環)・意志(代謝系)の3つに分かれている と主張。また、それに呼応して「社会有機体三分節化」を提 唱した。 1919年 労働者に「社会三分節化運動」を説くが挫折。 シュトゥットガルトに「自由ヴァルドルフ学校」(シュタイナー教育) 設立。知識は知性だけに訴えるのでなく子どもたちの感情と意志 のいとなみに形成的に働くべきだとする。 1920年 医学講演を行い、霊学によって拡張された医学を提唱。 1922年 宗教革新運動によって新しいキリスト教の儀式を開始する。 「キリスト者共同体」運動を始め、 センターをシュツットガ ルトとする。 人工肥料を用いずに栽培する「バイオ=ダイナミック農法」 を提唱。 ベルリン・フィルハーモニーのホールで人智学の講演。何千人 もの聴衆が集まる。 ウイーンの人智学者の会議「東西会議」で12日間の連続講演。 ドルナハのゲーテアヌムが放火によって焼失。 1923年 ゲーテアヌムで「クリスマス会議」が開かれる。ドイツと他の 国々に新たな人智学協会(一般人智学協会)を設立すること を決意。 1924年 ドルナハにおける会員のための「霊学のための自由大学」が始ま る 1925年 ゲーテアヌムの近くに治療教育施設「ゾンネンホーフ」を設立。 5 第2ゲーテアヌム計画。 疲労のため代謝障害を伴う病気になる。膨大な訪問者の面接 が一因と言われている。 1925年 3月30日、永眠。 (注①) ドルナハのゲーテアヌムは今でも「一般人智学協会」があり、人智学 運動の中心地です。 シュタイナーの築いた自由大学に多くの人たちが 養成コースに通っています。 シュトゥットガルトには、姉妹運動として ヴァルドルフ学校運動やキリスト者共同体のセンター、人智学の拠点 「ルドルフ・シュタイナー・ハウス」があります。 世界各国に一般人智 学協会があり、 霊的認識によって創造の源に触れて人生に意味を見い だした人々は医学・教育・農学・芸術の分野で活躍しています。 人智学の基本的な考え 年表を見ると、「霊学」「人智学」「神智学」「オイリュトミー」と いった、聞き馴れない言葉がいくつか出ているのに気づきます。シュタ イナーは「霊学」のことを「人智学」とも言っています。人間(アント ロポス)+叡智(ソフィア)ということで人智学としました。 宇宙を 自己の中に映し出し、宇宙とともに進化していくという考え方です。霊 界と物質界を仲立ちしうる唯一の存在として人間をとらえています。 人智学は世界(自然界と人間界)を3つに分け、物質界・生命界・叡 智界とします。この分類を人間に当てはめるときシュタイナーはそれぞ れ、肉体・エーテル体・アストラル体と名付けました。表にしておきま すと 人 間 物質界 肉体 生命界 エーテル体 叡智界 アストラル体・自我 肉体は無生物である物質と同じ成分で同じ法則にしたがっています。 6 その肉体にほとんどダブルようにして「エーテル体」があり、そのエ ーテル体を基にして「アルトラル体」が働きます。そして、「アルトラ ル体」が分化して、のちに述べる魂の3つの働き、感覚魂・悟性魂・意 識魂となります。 さて、「エーテル体」とは東洋でいうところの「気」にあたり、生命 力を指しています。エーテル体は人間だけでなく、 動物にもあり鉱物 のような無生物がいくら複雑になったところで生物には成りえません (蛋白質がいくら複雑になってでもです)。したがって、生物に生命力 を与えているものをエーテル体と呼んだのです。シュタイナーは、物質 である肉体は絶えず病気にかかろうとする傾向をもちますがエーテル体 はそれをくいとめようとしているとしていると説きます。 また、 エーテル体は物質である肉体と心との境界にあって橋渡しを したり、 呼吸作用や血液の循環作用に影響を与えています。それに伴 って気質を形成していることが知られています。 胆汁質(激しい気 性)・憂鬱質(内向的)・粘液質(しつこい、潔癖)・多血質(社交 的)がそれです。 エーテル体は肉体と密接に結びついていて、もし離れるときがあると 霊能者か狂人になるでしょう。逆にきちんと調和している状態のときは 実に活気がっていわゆる 元気 な人間となります。 環境に馴染んでいくときもエーテル体が働いていると言えます。 私のことを言うと恐縮ですが、父親の仕事の関係で小学校だけでも3 回転校しています。引っ越した新しいその土地に馴染もうとエーテル体 がさかんに適応しようと努力しました。 もしなかなか適応できなかっ たりすると、エーテル体は呼吸作用に影響していますから喘息になって いたかもしれません。エーテル体とはそういうものです。 ではアストラル体とは何でしょう。アストラル体とは私たちの心の営 み全体のことを指しています。非常に変化しやすく、その法則は共感と 反感という関係として捕捉されるのです。それは、 自分にとって好ま しいものか、そうでないかという人間にとって基本的な他に対する態度 です。区分けしますと、 7 共感 喜び・楽しみ 希望・願望・愛 快感 意志 反感 悲しみ 嫌悪・嫉妬・憎しみ 不快感 知性 アストラル体の働きは多様で、 感動・憧れ・感謝・畏敬・愛情とい った感情をつかさどっています。 さらに、アストラル体が自我と結び付くところに思考が生まれてきま す。どういうことかと言いますと、アストラル体が海のようなものだと します。変化しやすいアストラル体がその変化しやすい体質を変化しに くいものとしていくつかの 概念"という島をつくるとします。 そうい う概念諸島が大きな陸地を形成して司令塔を作るとそれが自我というこ とになるのでしょう。 その自我の表れが 人格"なのです。 アストラル体はバラバラな体験を自我との共同作業によって一つに統 一して概念を形成していきますが、 その一連の作業が 思考"なのです。 自我は生きた概念を取り込むとき成長します。 もっと言うと、 愛"と いう感情が加わると、そのアストラル体は暖かくきらきら光り輝くので す。また、自我と結び付いたアストラル体すなわち、思考が純粋に高ま ったとき、それを 叡智"と呼ぶのです。 叡智 が思考の純粋形であり、 愛 が共感の極致だとすれば、 人智学の理想とするものが 愛" と 叡智"だとされていることがうなづ けます。ちょうど密教のマンダラにおいて、金剛界曼荼羅(さとりの知 恵の堅固でこわれないこと)と胎蔵界曼荼羅(母親が胎児をいつくしむ ように仏が慈悲のこころで衆生を救済する)があったことを思い出しま す。 共感と反感に話をもどしますと、反感という態度は対象を自分 から離れたところにおいて、その物を判断するという批判的知的態度で、 エネルギーをどんどん消費する傾向にあります。 一方、共感というのは自分の中に同化できるものを取り込むという作 用ですから、取り込んだものからエネルギーを吸収していきます。その 結果、魂が活気づけられ蓄積されたエネルギーは意志に集積します。 共感におけるエネルギー集積場所が意志であるとするならば、共感を 働かせるとき、その魂は一つの可能性の種をまいたのだと言います。と 8 いうのは、意志そのもの何かを実現しようとするときの人間の基本的な 衝動・働きのエネルギー発信地となりますから、 エネルギーを意志に 蓄えることは次の生命の営みに可能性を与えたことになります。 今までのべた関係をまとめて図にしますと、 肉体 エーテル体 \ / アストラル体 \ 意志 / 感情 自我 \ / 思考(表象) ・・・・ 共感 ・・・・・・・反感 ・・・ (時間)未来←・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→過去 (意識の明るさ) 暗←・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→明 (存在の重み) 重←・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→軽 ・・・・・・・(注②) 感情のベクトルは2種類あって共感と反感でした。 感情の動きは情 動(アルトラル)という流れになって、たえず流動的になっています。 上の図のように感情は表象と意志の中間に位置していて、感情が反感と いう形をとると、表象にイメージを排泄しようとします。感情が共感と いう形をとると、意志にエネルギーを集積し、何かをしたいという個性 化の発現の可能性を形成します。 意識の明るさや存在の重みという観点でいうと、表象は意識は明るい のですが存在の重みは軽いものとなります。 たとえば、 あることを考 えて表象していたとしても次の瞬間にはもう別のことを考えているよう な具合です。 ところが意志はというと、 意識は暗いのですが実在性は 濃厚です。 シュタイナー教育は、教育現場において、表象に共感のエネルギーを 込めることをめざしています。つまり、ある表象に対しまず教師がアス トラル的に共感のエネルギーを強めます。たとえば、「今から話すこと はおもしろいんだぞー」といったような感情を込めて話をするわけです。 (たとえその話を毎年、極端にいうと前の時間のクラスで話していたと しても)その話が意味のあるものになるまで、意志的になるのです。そ うすれば、表象を生徒と一緒に感動し、ともに体験して意志に結び付け る教育ができるのです。 9 また、その逆のこともあります。意識の暗い意志は方向性を失うと奔 放になったり、自己中心的にエゴイスティックになったりすることがあ ります。それに表象の力を借りてきて高度な目的意識をもたせることが できます。何事もバランス感覚が大切でしょう。 魂の3形態 シュタイナーはよほど3という数に霊的なものをみていたようです。 その思想を追求していくとシュタイナー思想の根本には進化という考え があるので、3とという数の重要性に気がつきます。弁証法の段階も正 反合の3段階であることからも、 3という数は発展段階そのものをさ しており、自ずから進化・進歩を表す都合のよい数字かもしれません。 今までのべてきました、肉体・エーテル体・アストラル体と思考・感 情・意志の3区分をみてきました。さらに、これから述べますのはやは り3区分された魂の形態、感覚魂・悟性魂・意識魂についてです。 ややこしいので、表にしますと、(注③) ◎ 感性や感覚にたより、イメージの生活を大切にする。 感 覚 魂 ◎ 感覚を外に開いて、周囲の環境を自分の中に作用させ ようとする。 ◎ 模倣的。 ◎論理的判断力が支配的である。 魂 悟 ◎内的な衝動に対してブレーキをかける。 性 ◎型にはまったルールの中で生きようとする。 魂 ◎体制的。 ◎自分は他の人とは違う何かをもっているという感じを もつ。そして、自由な生き方をしたいと思う。 意 ◎強制されることを嫌い、解放されうことを願う。 識 ◎他人において、相手にも他のものと違うものを見つけ 魂 愛するようになる。 ◎自分にとってやりたいことはやる。衝動的。 10 悟性魂は現代の管理社会を動かしている意識だといえます。管理社会 は外的ルールから成り立っているので、社会に適応するために学校もこ の悟性魂をそだてるのです。しかし、意識魂は内的衝動ですから、親や 学校が自分の意識魂を認めてくれないと、自己破壊・暴走行為・暴力に 走ることがあります。ある意味では意識魂の悲鳴とも言うべきで、学校 や社会がよくこの意識魂の存在を認めてやり、意識魂を健全で社会的な 流れに修正してやらなければなりません。むしろ、魂全体から見れば、 鬼子あつかいすべきどころか進歩・発展の芽で大切にしなければならな いでしょう。 人間存在の三分説とヨアキム主義 ここで、シュタイナー思想の基となった神秘主義の考え方を述べたい と想います。 神秘主義は、そもそも人間存在を体・魂・霊と3つに分け ます。 霊という考え方がそもそも神秘主義的なのです。 キリスト教が国教となり教父哲学が確立すると、 異教的な「自らの 内に霊的な体験をし、 知識を重視する」グノーシス主義は地下にもぐ らざるをえませんでした。 体・魂・霊という3分説は 古代神秘学の伝 統的見方であったのですが、869年のコンスタンティノープルにおけ る第八回公会議においてそれは、正式に異端とされました。 つまり、この時点で、人間は単に肉体と魂からなる存在とする二分説 となったわけです。この決定はただの教義上の問題ではなく、もっと人 間存在を決定する世界史的大事件でした。 これより、霊的な部分は教会を通じてしか認められなくなり、 先ほ ど述べたように、 個人の中に霊の存在をみとめる神秘学は異端視され ました。 しかし、カトリック教会はこのような異端にも寛容な態度だっ たので神秘主義も延命できました。ところが、 ルターによる宗教改革 により、徹底した理性信仰のために、 厳しく異端や非合理は排除されて しまいました。 シュタイナーの偉大なところはこの三分説を復活させることによって、 神秘主義の精髄とも言える個人的精神の絶対的自由、霊性を誰でも 行 を通じて獲得できることを示したことでした。 実はこの三分説は、シュタイナー以前の12世紀末、イタリアで聖ジ 11 ョヴアンニ・ディ・フィオレ修道院を創設したヨアキム・ディ・フィオ レによって来るべきキリスト教として提唱されたのです。 これは神秘 主義にとっても大切な支柱となりました。 個人の中に霊の存在を認めることをやってのけたヨアキム・ディ・フ ィオレの思想は聖霊主義とも呼ばれます。 彼は、 3つの段階を経て精 神的自由を得るのだとしました。 それは、次のようなものです。 父の時代 子の時代 聖 霊 の時 代 ・律法による支配の時 代 ・福音による信仰の 時代 ・霊的な啓示にようる 愛と歓喜の時代 ・学問 ・叡智 ・認識 ・奴隷 ・奉仕 ・自由 ・恐怖 ・信仰 ・愛 ・下僕 ・独立者 ・友人 ・幼児 ・青年 ・成人 ・苗 ・穂 ・穀物 この聖霊主義は千年王国主義ともなって、民衆革命の思想的支柱にも なりました。 やはり、ヨアキムはシュタイナーの精神的父にあたると思 われます。 (注④) 神秘主義のキーワードは「永遠」です。 神秘主義の「永遠」は大宇宙と人間の小宇宙の照応によって獲得され、 その2つは相互に影響を与えあうという思想です。 グノーシスなど古代神秘主義を異端とした宗教改革と同じころ起こ ったルネサンスは人間の回復をめざし、抑圧されてきた人間のエネルギ ーを開花させました。実は、このルネサンスはグノーシス主義や錬金術 を栄養としていたのです。 錬金術から霊性を振り払って、 近世科学が 起こりました。やがて、この科学は18世紀に入って、不動の権威であ った教会の地位を揺るがしたのです。 19世紀、20世紀と科学万能 の時代をむかえるわけですが、現在では公害や過密、紛争、原子力によ 12 る人類破滅の危機といったように限界性を露呈しはじめました。 神秘主義に未来がうかがえるというのは、こういう歴史背景もあるの です。 神秘主義という思想のねらいは、この人間存在の根源である霊性に自 我が自己実現の過程において気づき、「永遠」を獲得して精神が 愛 と 明るい叡智 に満たれ、終末論的なひからびた世界に希望の光りを 投げかけるものであることにちがいありません。 意識の破綻 「現代人の意識は破綻してしまった、このままでは人類が危険だ」と 多くの人々が警告して久しいと思われます。 ここで、なぜ意識が破綻 して活力がなくなってしまったのかをサルトルの『嘔吐』、ヘルマン・ ヘッセの『荒野の狼』、ゲーテの『ファウスト』で検証していきたいと 思います。 サルトルの初期の小説『嘔吐』において、主人公である30歳の年金 生活者ロカンタンは、毎日図書館に通って歴史上のある人物を研究して いました。あるとき海岸で子供たちが遊びでするように、平らな石を拾 って水面に、 はじかせようとします。石を拾った瞬間、彼は吐き気を 起こし石を捨ててしまいます。この吐き気は一体何だろうと思い日記を つけることによって、記憶をたどったりして吐き気の原因を見つけよう とします。 小説『嘔吐』はこの心象を描くロカンタンの日記という形式になって います。ロカンタンは徐々に現実が「意味」を失っていくのに気がつい て、 もとの自分のように 普通"にもどりたがります。 「私は自分をとりもどしたい。生き生きとした明確な刺激があったら、 眠りからさめるであろう」(『嘔吐』 白井 浩司訳、人文書院 P.24) 小石を握ったときの吐き気が瘧(おこり)のように襲ってくるので、 自分でもおかしいと気づきます。 そして、とうとうロカンタンはキャ フェの主人のズボン吊りをみて吐き気をもよおしてしまいます。 「吐き気は、私の内部にはない。私はあそこに、壁の上やスボン吊りに、 私の周囲の到るところに、それを感じる」 (同、 P.27) 「事物は、与えられた名称から解放された。 事物はそこに、醜悪で頑固 13 な巨人のような姿でいる」 (同、 P.145) とうとう意味をうしなった世界は決定的に、その全貌を「樹の根」を 通してロカンタンの前に現わします。 「存在はふいにヴェールを剥がれた。それは抽象的範疇に属する無害な 様体を失った。存在とは事物の捏粉そのものであって、この樹の根は存 在の中に捏ねられていた、 というか、あるいはむしろ、根も、公園の 柵も、ベンチも、貧弱な芝生の芝草も、すべてが消えうせた。事物の多 様性、 その個性は単なる仮象、単なる漆にすぎなかった。その漆がと けた。そして怪物染みた軟い無秩序の塊が、怖しい淫猥な裸形の塊だけ が残った」 事物にその (同、P,147) 意味 を見いだせないロカンタンは、慣れ馴染んでいた 意味のあったはずの現実が、実は 混沌 であったことに気づいてしま ったのです。ロカンタンは不安感のまっただ中で自分自身の実存に向き 合ってそしてその恐怖感におののくのです。これが吐き気の原因でした。 事物は人間も含めて、偶然性をもって世界に投げ出されています。サ ルトルはこの世界に生きるとは、行動を選択しその責任をとっていくこ とだとしました。サルトル自身、アンガージュマン(参加)という態度 をとって自己の表現としての行動にその自由を見いだしました。サルト ルのこの態度は立派だと思うし、私も勇気づけられました。しかし、あ る意味で、世界を一人で背負い込んでいくと思われるような重みに耐え られる人がいったいこの世の中にどれぐらいいるのでしょうか。 非現実感を意識した瞬間から、その人間は救済を求め始めます。「救 済」とは言い換えるならば、「精神の自由」です。これを宗教に依存し ていくのも一つの在り方だとは思いますが、私自身はそれを潔しとしな い態度をとります。私の心の中には、あくまでも 知 によって世界を 認識したいという衝動があります。 「精神の自由」をどうやって獲得することができるのか。おそらく、 この問いにたいするキーワードは「永遠」です。 「永遠」を描く文学作品は途方もなく多いわけですが、精神の遍歴を うまく言い表している作品にヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』がありま す。非常に霊的な感じのする小説です。 『荒野の狼』の中でハリー・ハラーという登場人物がヘルミーネとい 14 う女性の話からヒントを得てこう心の中で思います。 「私は永遠の思想が必要だった。 それがなくては、生きることも 死ぬこともできなかった。 神聖な彼岸、超時間的なもの、永遠な 価値と神々しい実体の世界が、今日わたしに再び与えられた」 (『荒野の狼』 高橋健二訳、新潮文庫 P.193) また、ハリーの友人のパブロがハリーに向かってこう語りかけます。 「あなたは生きていることにたびたび飽き飽きし、この世を去ろ うと努力しましたね?この時間を、この世界を、この現実を捨て て、あなたにもっとふさわしい別な現実に、時間のない世界には いろうとあこがれています。そうなさい。そのために招待したの です。その別な世界がどこにかくされているか、あなたはご存じ です。あなたの求めるのが、あなた自身の魂の世界だということ をご存じです。 あなたのあこがれるあの別な現実はあなた自身 の内部にだけ生きているのです。私はあなたに、あなた自身のな かにすでに存在するものしか与えることができません。あなたの 魂の画廊よりほかの画廊をあなたのために開くことはできません。 機会と、きっかけと鍵とだけで、ほかには何も与えることができ ません。あなた自身の世界がみえるように手伝ってあげること、 それがすべてです」 (同、P.219) これらの言葉は、いろいろなものを示唆しています。ハリーにとって ふさわしい別の現実とは、「自己」の世界です。(霊の世界ともいえ る)自己にすでに存在しているのですが気づかない世界です。ほかなら ぬ自分の自己に沈潜していき、あくまでも自分で見つけなければなりま せん。自分が主体的に自分のなかに神を自覚することが肝要です。 言い換えれば、あらゆる存在のもとには生への根源である 意志 が ありますので、 そのことに気づくことによって意志は「生」を激しく 要求するのです。 実存に迷った魂は するのです。 15 自己 を知ることによって回復 つまり『荒野の狼』の主題は、このような「自己実現」にあり、この 世の混沌を直視したうえで、本当の秩序を内面に構築していくことにあ ります。この秩序は永遠性・絶対的・無限性をもっていて、その故郷は 他でもない「自己」です。 したがって、 自己実現の過程がとりもなおさず、自己に内在するミ クロコスモス(小宇宙)が宇宙意識であるマクロコスモス(大宇宙)と 同一のものであるという神秘主義への発展と同工異曲であることは言う までもありません。 自己実現はまた、ユングのいう「個性化」理論と同様です。「個性 化」とはすなわち、 精神の自由 を獲得した意識が、十全にその個々 の個性を発揮させ、最大限に自己を表現する行動様式を見いだすことで す。 人にはすべて個性があり、その個性に基づいて果たすべき使命があり ます。嫉妬心、競争、支配など無縁の 自己 の自由世界を味わいなが ら、個性を発揮するのです。人はみな、その使命に早く気づき真の人生 を送るべきであると言えます。 シュタイナーは自己実現を成功させるためには、過去すべてを肯定し なければならないとしています。なぜなら、自己実現の過程は、過去を 否定せず、たとえ自分が悩み、地獄のような生活をしていたとしても人 生を無駄にすごしたと考えません。そういう地獄を通過してはじめて至 福を味わえると考えなければならないし、またそれが真実でもあるので しょう。 地獄と言えば、真実の世界を見いだせなくてまさに精神的地獄のなか で呻吟している姿をゲーテの『ファウスト』に見ることができます。 年表にもありましたようにシュタイナーは初期にゲーテの自然学に親 しみ、ゲーテの科学的著作研究の第一人者でした。ロゴスとソフィアと いう用語を区分しながらこの『ファウスト』の持つ意味とシュタイナー 哲学との関連を考察していきます。 16 理性(ロゴス)と感性(ソフィア) 古代ギリシアでは肉体と魂は一つだという考え方でした。まさに「健 全なる精神は健全なる肉体に宿る」です。肉体文化はもちろん東洋にも ありました。ヨガにしても武道にしても肉体文化です。しかし、キリス ト教は魂と肉体を分離して、肉体をエゴイズムの発するもとだとして魂 の浄化のために、肉体には禁欲を迫りました。 世界精神史の中で最も大きな2つの要素を挙げるとしたら、それは理 性(ロゴス)と感性(ソフィア)です。『ファウスト』の話の前にこの 2つを明らかにしておかなければなりません。わかりやすくするため、 対比して表にしておきたいと思います。 理 性(ロゴス) 感 性(ソフィア) 意識 無意識 精神的 動物的 プログレッシヴ(前進的) レグレッシヴ(退行的) 外的 内的 父 母 男性 女性 言語 非言語 表象概念 想像力 分離 融合 支配・被支配 平和 批判 畏敬・愛 文明的 非文明的 相違 相同 論証 説得 量的 質的 非生命的 生命的 社会的 非社会的 適応 非適応 17 ここでは、なぜこれらの概念がこのような区分けになるのかを一つ一 つ説明するスペースがありませんが、 結論を先に言うと、シュタイナ ーの立場は教育に限らずロゴス一辺倒の文明に、ソフィアを推し進める ことにあったのです。 ファウスト博士が深刻に悩んだのは、ロゴスの知識を溜め込んだのに 生きている実感がないことでした。ファウストの生きた時代に限らず、 現代でも、その人がどのくらい多くの表象をもっているかということが 知性をはかる尺度となっています。 表象とはイメージを意識の表面にのぼらせたものを指しますが、学校 ではその人が多くの表象をもっていればいるほど成績の良い人間だと認 められるのです。つまり、ロゴスにおいて信頼できる価値はこの数量で あり、唯物的で客観的でありあいまいな部分はありません。きちっとし た世界です。 ところが、ロゴスに対するソフィアの世界はというと、量よりも質を 大切にすると言えます。魂の喜びを価値とする世界です。ロゴスが外部 感覚で得られたものを表象するのに対し、ソフィアでは、内部感覚によ って、すなわち「想像力」によってイメージをつくりあげます。 シュタイナーは、人間の心のなかに形象を生み出すこの創造的な力で ある「想像力」は、自然が植物や動物を創造する力と同じだと言いきっ ています。 さてゲーテの『ファウスト』に登場するファウスト博士は実在の人物 ですが、哲学・法律学・医学・神学を究め尽くした学者です。先程も述 べたとおり、ロゴスの世界に生きる博士は、自分が本当に生きていると いう実感がわきません。つまり感性に根ざしていない学問をいくら積ん でも、それは無味乾燥な知識の山にすぎないからです。 まさに毒杯をあおごうとした時、復活祭の合唱が聞こえてきて、ファ ウストは子供のころを思い出します。そしてもう一度生きようと決心し ます。 その後メフィストフェレスという悪魔と契約して学者として得られな かった認識を活動体験をとおして獲得しようとします。 若返ったファウストは純情可憐なグレートヒェンを誘惑して、悲劇的 な物語りの展開になっていきます。これが簡単すぎるほどのあらすじで 18 す。 ゲーテはファウストを通して、ヨーロッパの時代精神がロゴスを 重視してするあまり、唯物論や合理主義によって切り捨ててきた感性 (ソフィア)の復興を描きました。それは、そのまま現在にも大きな問 題提起となっているのです。シュタイナーは年表にも表されているよう に、芸術をとても大切にしました。音楽・絵画・建築・演劇など美的な 世界によってソフィアの世界につながろうとしたのです。だんだんシュ タイナーの本質が見えてきました。 神秘主義の今日的意義 私は、 実存主義からユングを経てシュタイナーにたどりつき神秘主 義という高遠な思想に気づきました。 知によって認識される宗教 でも言うべき神秘主義に想いを寄せたのです。 と おおげさに言えば、 信 仰からではなく思惟によって、 迷妄という海を船をこいでいるうちに 認識の光りを放つ灯台を見つけたと言えるのです。 したがって、いわゆる宗教とちがって神秘主義のとる位置はあくまで も個人的であって非常に孤独な立場をとるのだと言えます。したがって、 私がこれまで述べてきたことも、いかにも私個人に由来するものが多い のでどれだけの普遍性をもつかどうかわかりませんが、 個人のささや かな精神がたどる一例にはなるでしょう。 さて、根本的で素朴な問題は死後の世界や霊の世界があるかどうかと いうことです。霊を定義するのは難しく、私がまがりなりにも 定義 できるとすれば、やはり霊界イコール無意識の世界 であることになり ます。霊の世界は存在を証明できません。物質界とは世界を異にしてい ますので、「はいこれです」というふうに明示できないわけです。個人 個人の人格の内面の世界なのです。他人ではなく自分の 自己"の世界 ですから、ヘッセの『荒野の狼』にあったように、個人が主体的に求め て行かないかぎり知ることができません。「求めよ、さらば開かれん」 です。 人智学では、 自己実現・魂の発展を支えるものはこの論考ではあまり 言及しませんでしたが、 重要な考え方に「カルマ」があります。 これ も誤解をうけやすい言葉ですが、 キリスト教では霊魂は一回性のもの であるのに対し、人智学は「輪廻転生」を考え、カルマの思想をもって 19 います。端的に言えば、霊の進化論であって自己実現の可能性を提供し てくれます。「永遠」を獲得するのは常に ing であって、自己を発 見し、より精神的豊かさを全ての人類が持ち得たらロゴスの世界の限界 を打ち破り、 叡智 と 愛 に満たされたソフィアの世界(聖霊の世 界)がもたらされるだろうことを確認して論考を終わります。 注 ① シュタイナーの年表は『ルドルフ・シュタイナーと人智学』を 参考にまとめたものである。 ② 図は『シュタイナーの治療教育』 P.48の図を参考にした。 ③ 魂の3形態の表は『シュタイナー教育入門』 の P.148∼P.156を 参考にまとめたものである。 ④ 『神秘学序説』 P.68 参照。 参考文献 R・A・ギルバート著『神秘主義』、河出書房新社、1996年。 ゲーテ著 『ファウスト』、高橋 義孝訳、 新潮社、1978年。 コリン・ウィルソン著『アウトサイダー』、 紀伊国屋書店、1972年。 ――――『ルドルフ・シュタイナー』、河出書房新社、1994年. サルトル著『嘔吐』、白井 浩司訳、人文書院、 1971年。 ――――『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』高橋 巌訳、 イザラ書房、1977年。 ――――『神秘学概論』 石井良・樋口純明訳、人智学出版社、1982年。 ――――『教育の基礎としての一般人間学』、高橋 巌訳、1989年. ――――『人智学指導原則』、西川隆範訳、水声社、1992年。 フランス・カルルグレン著 『ルドルフ・シュタイナーと人智学』 高橋 明男訳、水声社、 1992年。 ヘッセ著『荒野の狼』、高橋 健二訳、新潮社、1978年。 荒俣 宏著『神秘学マニア』、集英社、1994年。 高橋 巌著『霊学からの子供の教育』、イザラ書房、1983年。 ――――『シュタイナー教育入門』、角川書店、1995年。 ――――『シュタイナー治療教育』、角川書店、1993年。 ――――『シュタイナー教育を語る』、角川書店、1995年。 ――――『シュタイナー哲学入門』、角川書店、1993年。 20 ――――『現代の神秘学』、角川書店、1995年。 ――――『神秘学講義』、角川書店、1990年。 ――――『神秘学序説』、イザラ書房、1991年。 村本 詔司『ユングとファウスト』、人文書院、1993年。 21