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礼拝説教(2010:06:20) 聖霊降臨後第
礼拝説教(2010:06:20) 聖霊降臨後第四主日 聖書 列王上17:17~24 ガラテヤ1:11~24 ルカ7:11~17 「確かなるものとの出会い」 エリヤと絡めたイエスの伝承 今日の福音書は、ナインという村に住んでいたやもめの息子を生き返らせたという主イエスの伝承が 記されています。この伝承はルカのみが記しているもので、マタイにも、マルコにも、又ヨハネにも出て きません。主イエスが死人をよみがえらせたという伝承は、他にも幾つか記されています。会堂司の娘の 蘇生や、有名なラザロの復活があります。 しかし、これらの伝承が記された背後には、旧約聖書との深い関係が隠されています。その関係という のは、メシアが到来する時、そこで期待されていることがあった。それが死人の蘇りです。 「主なる神は死 を永久に滅ぼしてくださる。全ての顔から涙をぬぐわれる」とイザヤは語っています。従って、このよう な出来事が起きていなければ、如何に期待されたメシアであると言い張っても、これが認められないと いうことになりかねないからです。メシアが到来すれば、 「盲人は見え、足萎えは歩き、耳の聞こえない人 は聞こえるようになり、死人は生き返る」と言われているからです。 今日の旧約聖書は、イエスがなさったように、エリヤという預言者が、サレプタのやもめの一人息子を よみがえらせた出来事を報じています。同じ事を、エリシャも行っています。エリヤやエリシャが神の人 と言われた徴とされているものです。真の預言者や真のメシアと言われる人には、神の心に通じるもの があり、神もまた、彼らの願いを必ず叶えられると信じられていたのです。 確かに、何処の世界であれ、聖者といわれる人は、どこかで神と通じており、彼らの祈りは聞かれると 信じられていたのです。そうした聖者の下には、多くの病人や、様々な問題を抱えた人々が訪れるもので す。そして、実際、彼らの許で多くの奇跡が展開されたというのも報告されています。事実、多くの人が癒 され、多くの人が抱え込んだ問題を解決されたのだろうと思います。そして、これらの癒しや問題解決に 預かった人たちは、必ずこれを、人々に伝えたに違いないのです。 「あのお方によって癒された」、 「あのお 方によって解決が与えられた」と宣伝され、人々の間に崇拝の念を高めていったのだろうと思います。伝 承の多くはこのようにして作られるものです。たしかに、その芯となる事はあったに違いありませんが、 しかし、事は針小棒大になるものです。 聖書は、こうした人々の崇拝の念から生まれた奇跡物語に、一層、神学的な意味を付加しているように 思います。それは、一般の人々の崇拝の念から出た伝承が、神学的に用いられて、主イエスが、まさに、旧 約聖書によって予言されていたメシアであることを裏付ける出来事として取り上げているからです。従 って、様々な伝承が、予言に即した形に修正されて、新約聖書に採用されたと考えられます。死者の復活 なども、何処までが真実で、何処までが過大な伝承であるのか判定の出来ない状況に置かれています。人 というのは、物事を過大に伝えていくものです。瀕死の病人が癒されると、あの人は命までも、よみがえ らせることが出来るお方だと、宣伝するということが起きてきます。そして、このような噂が流れるほど に、イエスは人々に期待を抱かせたお方であったのだと思われます。 命の支配者なる神 確かに、イエスというお方は、比類稀なお方であったのだと思います。福音書を紐解いていく時、イエ スという方の人々への接し方は、誰が見ても隔てのない接し方であります。それが売春婦であろうと、徴 税人であろうと、らい患者であろうと、そこに何の壁もなく親密な接し方をされています。当時のファリ サイ人や、或いは律法学者が、そして一般人が、寄り付こうとしなかった人々に対して、イエスは彼らを も又、一人の同胞として対応されていたのを見出します。 イエスというお方は、一人の自由人として、誰にも束縛されず、ごく自然に隣人に接しられています。 そして、その自由さは、他の人々のためにも発揮されています。貧しさのために人間性が軽んじられてい る人、職業のためにその人間性まで卑しめられている人に、深い同情をもち、そうした人々を差別してい るものに対しては、強い憤りをもたれています。外部から、そして又、内側から、人間を束縛するものに対 するイエスの反発は、大変強いものがあります。外側からというのは、社会的な制裁でありますし、内側 からというのは、魂を縛り付ける宗教的なドグマに対してです。 社会的に制約のある世界であり、それが当然とされていた世界で、それに逆らうことは勇気のいるこ とです。しかし、それが、ごく自然に出来た人です。ごく自然に、人の自由を奪い、それを損なうものに対 する感の鋭さというものがありました。それは、人に与えられている命の尊厳を踏みにじるものであっ たからです。実際、わたしたちは、社会運動に取り組んでいる人々の中に、こうした人間性を損なう悪魔 的な力に対して、非常に敏感な人に出くわします。優れた賜物だと思います。 偉大な魂というのは、多くの場合、人の命の背後にある普遍的な法に目を留めているものです。アブラ ハムは全ての生命を導いている普遍的なものに目を留め、そこから民族を超えた神を見出した人でしょ うし、モーセは、人の命の中に共通して見られる普遍的なものを、あのような律法として提示したのでし ょうし、預言者たちは、そのような命の法に従って生きることの中に、民族の祝福、国民の存続があると 信じてきたのです。そして、これらの人々は、その背後に、永遠の神のご支配を受け止めていたと思うの です。エリヤやエリシャ、そして、主イエスが、命をもよみがえらせたというこの伝承の背後には、彼らの 魂が、全ての命を貫いて流れている神のご支配と密接に結びついていると、人々が強く感じたところか ら出ています。神と一体となった人格と見、命を導くその根本と繋がっている人間と受け止めていると ころから出てきます。そして又、そのことは確かなことであったのだと思います。 神とは、この宇宙を存在させ、この命を生み出しているお方です。宇宙には宇宙の法則があり、命には 命の法則を定めて、神はこれを維持し、発展させ、ご自身の目的へと導かれます。否、その定められた法則 に基づいて現に展開している全宇宙こそが、神の「よし」となされていることなのかもしれません。しか し、人だけが、なかなか、その命の法に同調できないで生きています。 命の神に繋がれる 先にも申し上げたように、宗教的に偉大な人物というのは、この普遍的な命の法に繋がれて生きた人 であったと思うのです。そして、この人々の言葉が、わたしたちの魂に共鳴するのは、わたしたちの命も また、その法の中に生かされているからに他なりません。いや、それを意識するような命として生み出さ れているからに他なりません。犬や猫は、こういうことは理解できません。人だからこそ、私たちの命を 導いている命の法と言ったものを受け止めていくのです。にも拘らず、わたしたちが、それにあまりにも 無頓着なのは、わたしたちの環境がそれをさせないのです。現実的な問題に捉えられ、それに振り回され ているからに過ぎません。心を静め、内省の時を持っていくとき、それは自ずと人の心の奥底から指し示 されてくるものではないでしょうか。この喧騒の中、瞑想することが勧められ、座禅が奨励されるのは、 こうした言葉を聞くためです。凡人は、こうした業によっても、なかなか、命の法を意識し得ないのに、宗 教的な天才は、常時、これを意識できたのですから、驚くべきことです。 モーセは、人の命のあり様を、命の主である神に対する恐れと、共に生かされているものに対する愛に あると理解いたしました。人は天を恐れ、その天の意に沿って人を愛することが何よりも大切と受け止 めました。 「敬天愛人」というのは、西郷隆盛の言葉でもあります。それこそ、人の心の奥深くに刻み付け られているものであるといってよいと思います。 主イエスもまた、この法を、人々の前に明らかになさいました。そして、これを自ら実践されたのです。 そして、その実践において、様々な中傷、非難、蔑みを受けられても、それを中止されることはありません でした。そればかりか、この法が、現実において、たとえ踏みにじられるようなことがあったとしても、そ れは従うべきものであり、又、永遠に変わらざる真理であることを示され続けた方であります。確かに 人々は、そのようなイエスが、為政者や民の有力な人々によって、殺されていくことを経験しなければな りませんでした。まさに、その命の法は、反故にされたのです。がしかし、彼の死後、彼によって示された 真理は、あらゆる世界で踏襲されるものとなってきています。そればかりか、今日、一層、この法の普遍性 が世界に必要とされてきています。 虚しいものとの決別 今、キルギスでは民族的な対立が起きて、数百人の死者がでています。負傷者は数千人と言われていま す。なぜ、こうした対立が起きるのでしょうか。目先のことが、共に生かされてある命であることを覆っ てしまうのです。いや、目先のことが、その人たちの心の奥底にある、普遍的な命の法を、覆い隠すのです お隣の北朝鮮と韓国、或いはわが国との軋轢が高まりつつあります。こうした現状の中でこそ、人は、人 の命の中にある普遍的な法に目を留めていかなくてはならないのです。共に生かされている命を、共に 生かされている命として受け止めていくことが問われています。 同じ神によって生かされている命に対して、命の法を無視して、これを抹殺していこうとするなら、そ れは、必ずどこかで、裁きを受けていかなくては成りません。しかし、この命の法につらなり、何とかして 他者の命を保とうとしていくなら、人類はより大きな祝福を受けることが出来るものと成ります。人間 は、窮地に追い込まれると、野生化する側面を持っています。その顕著な例が、太平洋戦争に突入した時 の日本の現実です。この関係は個人においても同じことです。 主イエスは、命の最も大切な法として、神が命に中に盛り込まれているものを明らかにされた方です。 愛することは赦すことであり、赦すことは忍耐であり、犠牲のだと示されています。わたしたちはこのこ とをしっかりと心に留めて、与えられているはせ場を、走りたいものです。大切なことは、永遠に確かな ものと出合うことです。そして、確かなものに従って、歩みたいものです。パウロは、それに出会ったから こそ変えられて、意味のある生涯を受け止めています。