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礼拝説教(2010:04:04) 主の

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礼拝説教(2010:04:04) 主の
礼拝説教(2010:04:04) 主の復活日
聖書 出エジプト15:1~11
Ⅰコリント15:21~28
ルカ24:1~12
「主イエスの復活」
イエス様の復活について
復活祭ごとに、わたしの信仰は少しずつ変わってきたように思います。復活祭ごとに、主イエスの復活
についての説教を余儀なくされてきました。余儀なくされてきた背景には、実際はどうだったのだろう
という思いが常にあり、どう語ればよいのか、不確かなものが付きまとっていたからです。語る以上は、
責任を持って語らなくてはならないと、常々思っているからです。皆さんの人生に関わることを語らせ
ていただくわけですから、生半可なものではいけないわけです。
例えば、オーム真理教や統一協会、ものみの塔といった団体のことを考えていただきたいのです。誤っ
た信仰は、確かに、内部では信じる喜び、使命感といつものを受け止めて、全力投球するわけですが、結果
的には間違ったところで生きているわけです。オーム真理教などのように、信仰途上で、その誤りが明ら
かになって救われた人もいますが、大半はそのまま信じて、突き進んでいるのです。軌道修正されている
とはいえ、どこまでその教理を検証する自由があるのか分かりません。
事実、統一協会は、まさに文鮮明に仕えることこそ、天の神に仕えることだと理解させられて、文鮮明
の言葉に絶対的な服従をしていく団体であります。彼こそが再臨したキリストであり、世界を統一して
いく救い主であると信じさせ、その信仰を利用して、信徒に徹底した経済活動をさせるのです。信仰生活
は経済活動なのです。彼らは文教祖の野望のためにではなく、世界救済の事業に用いられていると信じ
ています。
信仰は、信じて幸福であれば、生甲斐をもてればそれで良いというものではありせん。それが、人にと
って真実なものであるのかどうかということが、重要です。真実なものでなくても、人は信じれば、そこ
に精神的な救いがあるものです。感謝の気持ちを持つことが出来ます。様々な信仰がこの世に存在する
のは、幸福でありたい、生甲斐のある人生を送りたいという願いにつけ込んでいるわけです。
私たちは、こうした宗教の現実を、他山の石として、私たち自身の信仰に付いても吟味し続けることが
大変重要なことであります。
「ただ信ぜよ」
「ただ信ぜよ」では、真実を愛される神に対して申し訳の立た
ないこととなっていきます。だからこそ、何時も、この復活祭が来ると、この真実は何であったのだろう
と問わざるを得なかったのです。
「神さまは何でも出来るのだから信じればよいではないか」と言われる
でしょうが、トマス以上に疑い深いのが、私であり、今日の世界だと思うのです。
復活をどう考えたらよいのか
しかし、これは私だけの問題ではなく、20世紀の後半から、今世紀にかけての新約聖書の研究者の間
でも問題とされてきたことであり、彼らの様々な問題提起を受けて、私自身も変えられてきたといって
よいと思います。中でも、アドルフ・ブルトマンという新約学者を通して、聖書の非神話化という新約聖
書の読み方が展開されるようになって、現在は、聖書に対する理解の仕方の常識ともなってきています。
非神話化というのは、聖書を記した時代の人々は、自分たちの受け止めた大切な真理を神話的な仕方で
伝えたために、その神話的な伝承から、本当に伝えたかったことを知ることが大切だと考えたわけです。
そのためには神話的な伝承から、何が語られようとしたのかを聞き取っていくことが大切だということ
であります。
例えば、処女マリアからお生まれになったというようなことも、ひとつの神話的な表現であります。そ
の神話的な表現の背後に隠されている弟子たちのイエス様に対する思いを受け止めていくことが何よ
りも大切なこととしたのです。これならは、新約聖書が伝えようとしていたことが良く分かりますし、パ
ウロなどがイエス様の降誕の具体的なことに関しては何も語っていないというようなことにも、納得が
いくのであります。福音書よりも早い時代にパウロは文章を記していますから、イエス様の具体的なこ
とはもっと分かっていたはずですが、あまりそのことには触れません。むしろ、イエス様によってもたら
された福音の内容に関して詳しく伝えているだけです。パウロの語っているようなことが物語化され、
或いは絵画化されたといってよいのではないでしょうか。神話化といわれるわけです。
ところが、教会の歴史は、不思議なことに、この作業を一層強化してきたところがあります。無原罪の
マリアの教義も、天国、煉獄、地獄といった世界が生み出されてきたのも、やはり、そういう神話化の延長
線上にあったのです。しかし、今日のようにあらゆることが判明し、聖書の示している世界観との矛盾が
大きくなって、初めて、聖書が語ろうとしている、本当のことに目を留めなくてはならないと考えられる
ようになったのです。今までは、聖書が語っていること全てを本当のこととしてきたのですが、本当のこ
とは、処女マリアから生まれたとか、復活したとか言われることの中に、隠されてあるということです。
隠されているというと、弟子たちが隠したということになるのですが、そうではなく、こうした、あたか
も現実に起きたかのような出来事を記すことによって、彼らの魂に起きた出来事を記しているというこ
となのであります。
空であった墓
主イエスの復活の背後には、主イエスの弟子たちにとって理解し難い悲惨な死があったことを、私た
ちは思い起こさなくてはなりません。弟子たちは主イエスの逮捕の折には、逃げはいたしましたが、その
処刑の際には、気づかれないように成り行きを見守ったはずであります。彼らが、まさにこの方こそイス
ラエルを再興してくださる方と信じて付き従った方であります。確かに、主イエスの生き方は彼らが期
待していた形とは異なっていました。あまりにも社会的に疎外されている人々に重点が置かれていたか
らです。しかも、弟子たちにご自身のような生き方を求められるイエスに接していて、ここにこそメシア
のメシアたるところがあるのだと、その思いを確かにし、そのような社会を樹立してくださると信じた
のであります。特別に政治的な反乱を起こされたわけではありませんし、神に対する不敬を働かれたわ
けでもないのに、むしろ、政治的にも宗教的にも喜ばれなくては成らない生き方が成されたにも拘らず、
捕らえられ、辱められ、最も残酷な方法で死刑に処せられたことであります。彼らにとってこのことは、
為政者の横暴としか映りませんでした。なのに、なぜ神は沈黙されるのだろうか。主イエスの真に無残な
死のさまを見つめた弟子たちの現実があります。
この絶望した弟子たちの中に、生前の主イエスのお姿が生き生きと示されたのではないでしようか。
それは他でもなく、主イエスが神と共に歩んでおられた姿であります。自分たちは、ただイエスのみを見
つめていのに、イエスは、常に目に見えない神と共に歩まれていたのだという確かさに出会っているの
です。現在の新約聖書の研究者は、新約聖書の全てが、復活体験から語りだされていると見ています。イ
エスと共に生活していた時には見えなかったことが、イエスの死後、初めて見えるようになり、そこから
福音書をしるしているということです。この世界が始まり、人類が生み出され、この後、どのように導か
れていくのか私たちには分かりませんが、にも拘らず、それを生み出し導いている究極の存在として神
がおられます。主イエスは、この方を天の父と呼ばれました。それはご自身と密接に関わって働かれる方
であり、私たちにおいても同様に働いていてくださるお方であります。弟子たちは、その神と共に時間を
越えて、時間の中で生きられたイエスを、イエスの死後になって見たのです。
福音書に空の墓の伝承が残されています。主イエスと出会う場所は、墓の中ではないのだと示されて
います。墓とは、この肉体的な世界の、物質的な世界の成れの果てであります。全てのものは消滅してい
く。その消滅していくものの中に何かを求めてもそれは虚しいことであります。 生きている方
今日の福音書に、空になった墓の前でうろたえている婦人たちに対して語られている天使の言葉があ
ります。
「なぜ、生きておられるかたを死者の中に探すのか」と問われています。たとえ、そこにイエスの
ご遺体があったとしても、天使の言葉は変わらないのだと思います。生きておられる方は死者の中には
おられないのです。
主イエスは生前の歩みの中においてこそ、生き続けておられるのです。その生が永遠に変わることの
ない神の法、神のご支配、神の本質の中に生きられていたからです。連綿と続いていく命の本質を生きら
れたがゆえに、主イエスは永遠なのです。弟子たちはこのようなイエスの命に出会っているのです。今も
尚、イエスが天でご支配をなされるということの意味は、主イエスの命によって示された人のあり方こ
そ、天が人に求めているものであり、永遠普遍な法でるということです。そこに祝福があり、そこに人を
導こうとされているのか、天の意思であるということです。
弟子たちは、主イエスの死を通して、このような普遍的な、時代を超えても変わらない、命の本質に触
れのです。そこに神の命に対する願いのあることを知ったのです。同時に、その命に、その神の願いに触
れさせるがために、主のご生涯があっことを悟らされています。
人は、それを知らずに、現実は、虚しいものを追い求めて生きています。しかし、弟子たちは、この主イ
エスの死以来、神のお心に従って生かされたいと願い、又、この世を越えてそこに生きようとした人々で
す。そこにこそ、人の生きる大切な生き方があるのだと目を開かれているのです。
こうした弟子たちの内的体験が、目に見える形で表現れるとき、あのような復活物語となったのだと
思われます。確かに、神は主イエスの十字架において示されたように、人に対して無限の許しを掲げて
関わっていてくださいます。しかし、それは私たちのどんな歩みをしようと勝手だということではあり
ません。父である神と言われるように、私たちの歩みが御心に添ったものとなることを願っていてくだ
さる方です。自らの自由な意思によって、そうなるよう願ってくださる方です。私たちは、そのような神
が共にいてくださるという信仰の中でのみ、新しくなることのできるものです。そして、主イエスが復活
の命であるように、私たちもまたその復活の命を生きるものとなっていくのです。
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