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マルコの福音書 6章45節から52節 e-聖書研究会 奥田 昭 1、本日の
マルコの福音書 6章45節から52節 e-聖書研究会 奥田 昭 1、本日のメッセージの箇所はマルコの福音書6章45節から52節です。お読みいた します。今日はこの箇所から、「試練を乗り越える信仰」いう主題テーマで、聖書から の教えを学びたいと思います。お祈りをいたします。 2、今日の最初の言葉は、「それからすぐに」です。それからはいつをさしているでし ょうか。先週のみ言葉の箇所は、「五つのパンと二匹の魚」で「男だけでも5千人」の 人を食べさせたところでしたが、その給食が終わられてからすぐにということですね。 大分、日も暮れていました。 イエスは疲れている弟子たちに休憩を取らせることが目的だったのでしょう「強いて 船に乗り込ませ、先の向こう岸のベツサイダに行かせよう」となさいました。イエスさ まのやさしい心づかいを感じずにはおられません。 ご自分は群集を解散させて、一人祈るために山にいかれました。周りの興奮を避けて, 純粋に父なる神の御心をいつも求めておられるイエスさまをみることができます。 弟子たちはどうなったのでしょう。かれらは船の向かい風に会い、なかなか前へ進む ことができないでいました。弟子の中には漁師出身者もいたのに、そのプロの船乗りが いてもだめなくらいに風に翻弄されていたのですね。「漕ぎあぐねて」なかなか前にす すまず、とうとう「夜中の3時」になったと書かれています。当時の時間の夜中の3時 は、現在の「午前3時から6時くらい」の間です。したがって夕方、船に乗ってから明 け方までですから、まる半日くらいの長い間、弟子たちは船の中で悪戦苦闘していたの です。 こんどはイエスです。イエスはどうなされてのでしょうか。「湖の上を歩いて、弟子 たちに近づいて行かれました。」、と書かれています。 本日の第1ポイントの箇所です。イエスが水の上を歩かれることが描かれています。 5月17日の聖日礼拝で、4章35節~41節から、ガリラヤ湖で、荒れ狂う自然を静 められたことを学びましたが、それと同じように、自然を自由にされるイエスがありま す。ここでの、イエスの奇跡は、自然を治めるかたちで、別の姿、水の上を歩く姿が出 1 てきます。おなじ自然に対する奇跡でも、意味合いが違うのは、聖書は同じことを書か ないと何度も言うとおりです。 ここでは聖書を信じない方々からの反論がきそうです。「水の上を歩く」まさか忍者 でもあるまい。奇術でも使ったのではないかと。聖書をイエスの単なる伝記や小説のひ とつとして読めばそうなるかもしれませんが、我々は聖書を信仰の書物としてみていま す。神は天と地をお作りになられました。その神が造られた自然を自由にできるのは当 然です。ちょうど畳屋さんが造った畳の上を自由に歩き回るように、神が造られた水の 上を自由に歩き回ることができるのは、なんらおかしなことではありません。 イエスは「湖の上を歩いて、彼らに近づいていかれたが、そのままそばを通り過ぎ」 るためと、説明されています。なぜでしょうか。 「通りすぎる」とは、神があらわれ る時の聖書の特有な表現です。我々の常識的な表現と異なるものです。出エジプト記3 3章22節「私の栄光が通り過ぎるとき」のように、また第1列王記の19章11節「主 が通り過ぎ」という表現があります。前者はモーセが神さまとの話されている風景です が、旧約時代は神さまの顔を見ることができないとされていましたから、、ただただ神 さまがおられることを目を覆って通り過ぎるのをまつしかなかったのです。後者はエリ ヤと神さまとの出会いの場面ですが、このときも神の臨在のもとに「激しい大風が山々 を裂き、岩岩をくだいたとあります。このように、「通りすぎる」とは、神が通りすぎ るとという表現であらわしているのです。したがって、イエスは神であるとの表現をし ているのです。 また、50節で言われた「わたしだ」も出エジプト記3章14節「神はモ-セに仰せ られた。『わたしは、「わたしはある」という者である』」に、またヨハネ福音書の8章 24節の欄外で「わたしはある」は前記出エジプト3章14節にあわせて、イエスが主 なる神であることを言われた、と説明していますが、ここで示されたのは、イエスは神 であることを現し、そのことを現すために水の上を歩く奇跡でしめされたのでした。 しかし、弟子たちは理解できませんでした。弟子たちは、取り乱して、「幽霊だ」と 叫び声をあげて怯えました。前回のガリラヤ湖の出来事の時は「大きな恐怖に包まれた」 とありましたが、今回はそれ以上の「脅え」だったのです。それは、「彼らはまだパン のことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。」 2 3、今日のポイントの第2は彼らで弟子たちが、なぜ「パンのこと」すなわち五つのパ ンと二匹の魚で男子5千人を給食したことを学ばなかったのでしょうか。なぜ、こころ を閉ざしていたのでしょうか。なぜイエスを幽霊と見間違ったのでしょうか。彼らはイ エスの奇跡を何度も体験しています。そして、まだ1日もたっていない奇跡、イエスの 五つのパンと二匹の魚の奇跡を見たはずです。なぜでしょうか。それはイエスをどのよ うなお方であるのかを悟ることができていなかったからです。悟り、それはイエスはど のようなお方であるかの理解につきます。イエスは神、すなわち神そのものである、と の徹底した理解です。弟子たちは、イエスを目で見ていました。耳でイエスのことばを 聞いていました。しかし、それがわからなかったのです。それはこころを閉ざしていた からです。神様はどのようなこともなされ、どのようなこともおできになりますが、し かし、強制的に我々人間のこころを操られません。その意味で人間は自由です。したが って人間がこころを閉ざしておけば、原則としてその中に霊の働き、聖霊の働きと言っ ていいですが、働くことはないのです。霊の目を開かねばなりません。そうでなければ イエスを神の子と見ることはできません。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊と まことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24) 「ところで、私たち は、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神 から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。」 (第1コリント2:12)われ われに与えられた神を知るとこのできる賜物をもって、こころを開き、なんの先入観や 偏見や誤解や断定なしに、イエスさまとはどのようなお方なのかと求めていけば、イエ スは神、神そのものであると知ることができるようになります。 4、今日のポイントの第3は、弟子たちが船を漕ぎあぐねていたように、人生でさまざ まな試練にあっておられる方に対して、逆境、苦難のときの信仰をどのように備えるか について、学びたいと思います。 まず、逆境、苦難のときどのように対処するのでしょうか。自分の力で、それともイ エスの力を頼むかです。弟子たちは大きな過ちを犯しました。まず、この船はイエスが 強いて乗せようとされたのです。したがって、その責任はイエスにあります。イエスが 責任者であることを彼らは忘れていました。だから、かれらは、その逆境、苦難の解決 をイエスに願えばよかったのです。かれらはそれをせず、自分たちの力にたよったので す。われわれも同じです。逆境、苦難の解決の主はイエスです。我々のなかには力はあ 3 りません。いや、イエスの力を得なければなにもできないのです。そのためには日ごろ が肝心です。旧約の伝道者の書というところに、 「あなたの若い日に、あなたの創造 者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近 づく前に。 」 (12:1)この若い日とは、年齢が若いという意味だけではなく、我々の 人生の中で、明日より今日の方が若いという意味があります。ですから、明日では今日 から神さまに備えを祈りましょう。 次に、逆境、苦難という試練をどのように受け入れるかです。少し長いですが、ヘブ ル書から見てみましょう。「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語ら れたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に 責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての 子に、むちを加えられるからである。」 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父 が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲 らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さら にまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼ら を敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべき ではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私た ちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあず からせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいもの ではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された 人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐに しなさい。 」(12:5~12)訓練とおもって耐えしのびましょう。 次に試練はどうなるのでしょうか。ここもみ言葉を見てみましょう。第1コリント1 0:13に有名なことばあります。 「あなたがたのあった試練はみな人の知らないよ うなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできない ような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、 試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。 」 ヤコブ書には「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛 4 する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(1:12) 最後に試練の向こうになにが待っているでしょうか。おなじくヤコブ書には、「私の 兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 信 仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その 忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、 成長を遂げた、完全な者となります。」(1:2~4) 「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエスは救い主です。いつも そばにおられる愛の方です。どんな困難にも救いの手を差し伸べてくださいます。イエ スは難問を解決される力の有るお方です。そのイエスを信じて今週も歩みましょう。 お祈りをします。 5