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信仰によって生きる - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
“信仰によって生きる” ヘブライ書の福音 24 “信仰によって生きる” 10:26-39 今朝のテーマは、いま聞いた朗読箇所の最後から 5 行目の言葉から取りま した。「わたしの正しい者は信仰によって生きる。」私たちが今まで親しん できた訳文では「わが義人は信仰によって生きる」でした。というと、オヤ と思われる方もおありでしょう。ローマ書の中で使徒パウロも引用していま した。カギカッコで囲んでいますのは、旧約聖書の預言者の言葉だからで、 これは、後でお読みになる方のために申し上げると、ハバクク書の 2 章から の引用です。ちなみに「わたしの」は、ここでは主なる神御自身が語ってお られるので、「わたしの正しい者」は、神の手に握られている本当の意味で の「正しい者」です。主がご覧になって、「よし、正しい清い者よ!」とお っしゃる義人のことです。 人間の目から見て「正しい」人というのは、本物もあれば偽物もありまし ょうが、とにかく表から見ている限り、他の人より立派な実績とか美徳とか、 人を納得させる何かを持っているんです。少なくとも持っているように見え る。しかし聖なる父の目に「正しい」と映るような人が果たしてあるのか… …そのあり得ないものを「あるんだ」と言われるのがこの言葉で、それもそ の人自身の持つ正しさとか、自分で誇りにできる、これだけは自信があると いうものじゃなくて、それとは全く別の何かに気付いた時に、その何でもな い平凡人が命と輝きを持ち始めるのですね。その人の誇りはもう自分の内に はなくて神が送って下さった一人の人の中に移ってしまいます。それが「信 仰により生きる」なのですが……。 この「信仰によって」の「によって」は、英語では by faith と訳しますよ うに by ですが、ヘブライ書が使ったという前置詞は理由、源泉、最終的 -1- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “信仰によって生きる” 「拠りどころ」を指す言葉です。フランス語にレゾン・デートル(raison d' tre)という言葉があります。普通は「存在理由」と訳すのですけれど、結局 何があるから生きているのか……そのより所か根拠です。「生きがい」と言 い直すとちょっと軽すぎて当たりませんが、とにかく、「それがあるから生 きている」と言えるようなもの……それが無ければ「生きていない」も同じ ……そんな何かです。 そういう意味では「学者は真理の追及によって生きる」と言えましょうし、 同じ言い方で「芸術家は美の探求によって生きる」でしょうか。「政治家は 政略によって」生きるのか、「国の安全と繁栄によって」生きるのか。我々 凡人はまあ、「親は子によって生きる」くらいのご愛嬌というところ。でも、 これがなかなかのくせ者です。我々の間にも、ピッカピカのお母さんが何人 かいらっしゃいます。それに今からまさにそれになる、という方たちもおら れますから、水を差すようで申し訳ないが、本当は「子によって」なんかよ りもう一つ大きい生存の根拠、存在理由を今から持っていないと、最終的に はその根拠は崩れます。わが子なんかにはシラケていて、もっと大きな、自 分の仰ぐべき主を仰いでいて、一時的に我が手に委ねられた神の所有……と いう信仰で子を育てて、その神の手に安心して「お返しする」ことを今から 学んでおいて初めて、20 年後、30 年後に深い喜びがあります。これは理論じ ゃなく、経験から申し上げます。脱線はそこまでで……またあの「によって」 という“by”にこだわってみたいのですが。 「母は子によって」生きる。「事業家は仕事によって」「学者は学問的真 理によって」生きる、と並べてみれば当然、「正しい人」は、特に「神に所 有されている本当の正しい人はその人格と清さと、愛の実績によって生きる」 というべき所を、そうは言わないで「ある一人の方への信頼で生きる。」そ れがあれば「生きてる」し、それが無いと結局全部崩れて、生きたまま死ん でしまう。その一人の方を知って信じられるか否かがすべてを決する。ヘブ ライ書はそう断言するのです。これが聖書という本が与える最初のショック -2- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “信仰によって生きる” です。そしてまたそれは究極の目的、生きた人間のレゾン・デートルです。 今日のこの箇所、1 ページ弱、一段半ですか。新共同訳は一段と 3 分の 2 ありますが、決して前の訳文より長いのじゃなく、字数行数とも減らしてレ イアウトが涼しくなっているためです。内容の上から区分すると、26 から 31 までと、32 から 34 までと、35 から終りまでと、三つの段落に分けて考える ことができます。 1.警告─信仰を放棄すれば絶望だ。 :26-31. 最初の段落は厳しい警告になっていて、一読してなぜ、こんな恐ろしい警 告を著者は書かなければならなかったのか、理解に苦しみます。これには事 情があって、この手紙を受け取った人たちは、回りからの圧力や民族的なノ スタルジーもあって、大いに信仰が動揺していたことは前にも申し上げまし た。エルサレムの伝統ある宗教に復帰してユダヤ人仲間ともう一度解け合っ たほうが良いのではないか……? この人たちにはイエス・キリストが頼りな く、不安に思えてきたのです。 それにしてもです。これはあまりにも厳しく、恐ろしい言葉ではありませ んか。聖書に福音を求めて、突き放される感じがしませんか。初めの 4 行半 を読み返します。 26.もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも(これはクリスチャンと して入信後という事でしょう)、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のため のいけにえは、もはや残っていません。 27.ただ残っているのは、審判と敵 対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。 28. モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に 処せられます。 -3- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “信仰によって生きる” これは昔のクリスチャンたちもどうしてだろう?……どうして赦しがない のだろう、と必死で考えました。「ヘルマス」という書物の著者は苦し紛れ にこう説明しています。「人がバプテスマを受けるまでに犯した罪は全部あ の時点で許されるが、その後で罪を犯した場合はどうなるか?」その後のこ の人の説明が少し変わってるんですが、「一回目の罪は、知らずに弱さから 犯したものとして許される。しかし再び同じ罪を犯すならば、それは『故意 に』犯したものであり、キリストの十字架の血の力をもってしても許され得 ない」。これですと私なんかは滅びるしかない絶望人間ですが。 ところが、もっと厳格な人もいて、たとえばテルツリアヌスという人など は、「ヘルマス」のような一回目は許されるなどと言う不真面目な教えは悪 魔の教えである、と言ったものです。でもそんな気違いじみた人はあまり無 くて、実際には二回目以後も許しはあるとカトリック教会は教えました。そ の代わり、ざんげのボックスに入って司祭の前で「告解」の秘跡を済ませな ければならない。これからもう一つエスカレートしたのが 16 世紀のあの「免 罪符」です。結局、何かそういう安心感を与えてくれるものが無いと、ここの 言葉は取り方によっては、不安と絶望に引き込みそうだったんです。教会は 信者のそこの心理を利用して一つの伝統を作り上げたと言っていいでしょう。 でも、よく読んでみるとみんな趣旨を読み違えて、故なき不安の亡霊に悩 まされていただけでした。ここは 29 節の意味をよく考えて読めばすぐ分かる とおり、神様が下さるただ一つの清めの犠牲を、「それはもう要らない!」、 「キリストの血などには罪を清める力は無い」、「神の霊が人を生かす等は あり得ない」と反抗して、軽蔑して、捨て去れば絶望的だ、という当たり前 のことを言っているのであります。 29.まして、神の子を足蹴にし、自分が聖なるものとされた契約の血を汚れ たものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値 すると思いますか。……というより、これは「要らない」「嫌いだ」「呪わ -4- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “信仰によって生きる” れよ」と自分から拒否した場合の結末はそれしか無いということです。 ヘブライ書の著者はこの後、「主はご自分の民さえ裁こうと思えば裁かれ る」と結ぶのですが、民であることを拒否して、進んで神を呪えば問題にな らない……ということで、ここは敢えて神に盾突こうという人だけが震えお ののくべきところでした。 30.「復讐はわたしのすること、 わたしが報復する」 と言い、また、 「主はその民を裁かれる」 と言われた方を、わたしたちは知っています。 31.生ける神の手に落ちる のは、恐ろしいことです。 2.信頼─君たちに関しては安心しているが……。 :32-34. 次の第二段は 32 から 34 まで。書き方と調子はガラリと変わって、著者は 読者への愛と信頼を吐露します。著者の背後には愛の神、キリストが父とお 呼びになったお方の姿があります。暗い重い響きからパッと輝く明るさに切 り替わるあたり、ここは以前ご一緒に読んだ 6 章の真ん中の変化と平行して いますね。私たちもここで、このヘブライ書を受け取った人たちの姿、少な くとも、信仰に入った直後の真剣さや純粋さを垣間見ることができます。あ んなだった君たちが今キリストを侮辱して去って行く筈はない。絶対ない! 32.あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初め のころのことを、思い出してください。 33.あざけられ、苦しめられて、見 せ物にされたこともあり(迫害と侮辱を受けたことです)、このような目に 遭った人たちの仲間となったこともありました(つまり、自分らも同じだと 恥じないで公言した。それだけではなくて、獄中まで仲間を助けにも行った -5- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “信仰によって生きる” -34 節です)34.実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし(当時の 牢獄は差し入れが無かったら飢え死にです)……捕らえられた人たちと苦し みを共にしたし、また自分が、もっとすばらしい、いつまでも残るものを持 っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。 この時代の歴史を読むと分かることですが、ローマでも地方でも繰り返し キリスト教徒追放令とか、ユダヤ人退去令が出ています。そして強制退去の 後はすぐ、暴徒による家屋の略奪です。政府による没収ももちろんあった。 このくだりで私の心を打つのは、失ったものよりもっと貴重ないつまでも 残る富みを持っていたから、それができたというこの言葉です。そういう永 遠の宝を持つか否かが、人生の最終的勝敗を決します。それがあって初めて 地上の富も生かせる。自分の手に委ねられた新しい命……子供たちも生かせ る。仕事も、人との関係も大事にして生かせるのですね。それがすべてにな ったりせず、シラーとシラけていながらかえって、シラけていない夢中にな ってる人の何倍も、かえって大事にできて、人生の終わりに「ああ良かった」 と感謝して喜べるのです。 3.アピール─希望を放棄せずに忍耐を……! :35-39. 最後の第三段は、35 から 39 までで、ここは「その貴重な信仰を捨てるな!」 「約束した方を信頼して、希望を大事に持ち続けよ!」「もとの絶望の世界 へ退却するような、無駄な、もったいないことをするな!」と呼び掛けて励 ます部分です。この人たちは、まかり間違って肝腎のイエス・キリストへの 全面的信頼がグラつくようなことになれば、地上最大の宝を棒に振るかも知 れない。ヘブル書の著者はここで、絶対そんなことはあってはならない。い やある筈は無いという、確信と祈りとが混ぜ合わされて一つになったような、 実に激しい思いをほとばしらせます。 -6- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “信仰によって生きる” 35.だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いが あります。 36.神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が 必要なのです。(忍耐―はしっかり踏み止どまること、同じ信 頼から動かないことを言います。) 37 節は最初に説明しましたように預言者ハバククからの引用です。原典の ヘブライ語の文章と、著者が知っていたギリシャ語訳の文章と、それにこの カギカッコに囲まれた文章と、ほんの少しずつ変化しておりますが、中心思 想は同じです。というより、ハバククの暗示的で、いくぶん輪郭の淡い絵の 中から、著者の信仰はそこにキリストが間もなく、必ず来られてあなたの救 いを仕上げてくださる。本気でこの方に希望をおいて間違いは無い! 踏み止 どまれ。後戻りして絶望と死の中へ転落するな! それをこの人はハバクク自 身よりも多分明瞭に、見通して断言しているのです。私たちが旧約を開いて 読む時みたいに巻物を手にして写しているんじゃないのです。こういう人た ちは。預言者の言葉と意味は頭の中に、魂の中に畳み込んであるのですが、そ れを手掛かりに主なる神の思いに深く触れて震えているのが新約の記者です。 37.「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。 遅れられることはない。 38.私の正しい者は信仰によって生きる。 もしひるむようなことがあれば(後じさりするなら)、 その者はわたしの心に適わない。」 39.しかし、わたしたちはひるんで滅びる者ではなく(後じさりして死の中 へ後戻りする人の中には絶対入りません)、 信仰によって命を確保する者です。 以上を読み通してみると、前段、中段、後段とも一貫して「私たちを死人 から生きた者に変えたイエス・キリストに全信頼を置け。ただ一つの命の道 を捨てて死ぬようなことははするな!」 -7- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “信仰によって生きる” ここはヘブライ書の一つのクライマックス、著者がここまで積み上げて語 って来た大祭司キリスト論の結論と、激しいアピールになっています。 《まとめ》 ゆうべは直人が私共の所に泊まると言うものですから、それに今朝は加納 の団地の掃除日だそうで、じゃ朝ちょっとでも助かるだろう、とか何とか理 由を付けて、息子夫婦を祐二と一緒に帰らせました。「おばあちゃんとネン ネするゥ」と言われると、弱いのですね。 風邪のせいか、おなかの具合が良くないので大事を取って家内が近所の薬 局へビオフェルミンか何か買いに走っている間に、ふと見るともう寝てるん です。さっきまで青い顔をして心配させたのに、もう赤い赤いリンゴみたい なホッペをしてスースー眠っております。まあたいしたことはない。大丈夫 だ、という安心でじっと見ておりまして、そのとき人間の「大事なもの」と か「かわいいもの」という感情の正体みたいなものを分析しておったのです。 まあ皆さん見ていらして、時にオカシク感じられるかもしれませんが、真 奈美でも祐二でも同じですけれど、自分でもバカじゃないかと思うくらいか わいいですね。「織田はんもヤキがまわって、ジジバカの見本みたいになっ た」と言われてもそれで満足なんです。少しも恥じるところは無い。ばあさ んは尚更です。 でもこれは、イイカッコで言うのではないのですが、それでいてやはり、 世間のじいさん、ばあさんと違うなにかシラケのような気持ちで自分たちを 見ていることも本当なんです。孫にすべてをかけるように、のめり込んで執 着したり、自分に引き付けようとしたりは出来ない。する前にシラケている んです。 -8- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “信仰によって生きる” これは自分のものじゃない。私たちのイメージを押し付けるべきものでは ない。私の息子と私の娘のもの、すべて二人の仕方で育てたら良いもの。と いうだけじゃなくて、もう一つ先ですね。主なる神が息子と娘に与えて預け てあるもの。最終的には主のものだ。我々の私物ではない。 これはしかし、考えてみると我々にとってこよなく大事と思えるもの一つ 一つに当て嵌まることですね。家庭でも、仕事でも、学問でも同じだとおも いますが。自分の生きがいとか、宝とか、すべてについて余裕のシラケが必 要なんです。夫も妻も、我が総てでは無い。それのために生きているレゾン・ デートルとは違う。息子だって、娘だってそうです。わが希望のすべてをそ こに賭けた偶像みたいなものじゃないのです。もっと大きなもの、宇宙より も大きく強いものの愛にしっかり捕らえられていたら、そんなものはすべて じゃない。すべてじゃないからこそ、のめり込んでいる世の人、肉の人より 以上にその宝を生かして大事にできます。 こういう考えはしかし、人間の割り切りや知恵からは出てきません。人間 の肉がそれをさせないのです。「これは私のもの。私の誇り。私のより所。 これが無ければ私は死にます。私の名誉、私の財産、私の時間……私の夢を 託したすべてです! 私はそれと心中してもいい。」罪がそれを言わせる。肉 がそれを言わせるのです。 でも、さっきの御言葉にもありましたように、彼らは「自分がもっと素晴 らしいいつまでも残るものを持っていると知っていたので」失っても惜しく なかった。「来るべき方がおいでになる」というそのお方に人生で出会った からです。イエス・キリストの十字架を知った時に、宇宙大の大きな愛で捕 らえられて信仰の人となったから、それができた。勝利者になれたのです。 「学者は学問によって生きる」の次元にとどまるか? 「男子は一生の仕事 によって生きる」の次元に、「母は子にすべてをかけて生きる」「一家の主 -9- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “信仰によって生きる” は生活の安定によって存在理由を持つ」の次元に止どまるか? それともヘブ ル書とローマ書が鋭くも洞察した天の父のお心に触れるか……「私の正しい 者は信仰によって生きる」。聖書という本はまずこのショックを与えて、私 たちの目を全く新しい世界に向けてくれるのです。 (1988/02/07) 《研究者のための注》 1.「故意に」はここでは「敢えて」、神を無視して反逆する傲慢者が、神に 挑戦する態度でキリストを侮辱して去るような形の背教の場合と解しました。 (現在分詞)は継続的アスペクトで「強情に背反し続ける」意味合い を表します。 2.30 節と 31 節に引用される申命記の言葉(32:35,36)は偶像礼拝者の異邦人を裁くだ けでなく、神ご自身の民を愛すればこそより厳しく裁かれるというアモス書 2:3 のよ うな意味合いよりもむしろ、「民をさえ裁く神に敵対し、恵みの霊を侮辱する」こと の恐ろしさを強調するための伏線になっています。 3.33 節「見せ物にされ」という表現から、コロセウムでの猛獣との闘い 等に結び付ける人もいますが、12 章 4 節の「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流す まで抵抗したことがありません」という言葉から考えても、この地方での迫害はまだ 殉教者を出すほどの激しいものにはなっていなかったのでしょう。 4.37 節の「来るべき方がおいでになる」の MT 原文は、直接メシアの来臨に言及せず、 「それは必ず来る」と普通訳される aby" aoB' は強調の不定詞を重ねたヘブライ語の強 調構文であり、LXX は同義語動詞の強調分詞構文にしてと訳してい ます。ヘブル書はこれに冠詞を付けて(来るべき者)が来るという明瞭 にメシア預言の意味を前面に出しています。三者の違いと一貫性と啓示の進展につい ては本文中に述べたとおりです。 5.39 節のは、一部の研究者により「一度救いに入れられた以上 退いて滅びることは無い」という「有終の恩恵」perseverance of the saints の根拠に されることがありましたが、ヘブル書の言おうとする趣旨からは程遠いと思います。 織田昭著「ギリシャ語文法」第 6 部§265 属格 1 のa.「性格描写の属格」その(2) - 10 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. “信仰によって生きる” 「性質・根拠・相応等の属格」を参照して下さい。 - 11 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.