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ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識

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ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
高橋秀寿
いたはずである。それゆえに当時の多くの人びとも、﹃ホロコースト﹄
トとの旧世代とのかかわりを政治的なテーマにして世代闘争を展開して
ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
︿ホロコースト﹀の誕生 ―
―
1
はじめに
五 〇 年 代 後 半 か ら﹃ ア ン ネ の 日 記 ﹄ と そ の 演 劇・ 映 画 版 は 全 世 界 で 刊
戮の実態をドキュメンタリー映画や写真などを通して報道していたし、
アメリカ占領軍はナチ強制収容所の解放によって明らかになった大量殺
実を知ったわけではない。すでに拙稿で詳述したように、連合軍、特に
もちろん、西ドイツ市民はこのドラマを通して初めてホロコーストの事
ト﹄が西ドイツで﹁異常に大きな反響を巻き起こした﹂ことを伝えた。
で 四 回 シ リ ー ズ で 放 映 さ れ た ア メ リ カ の テ レ ビ・ ド ラ マ﹃ ホ ロ コ ー ス
ーズに毎回一四〇〇万人が視聴﹂の見出しで、一月二二日から二六日ま
そのためユダヤ人犠牲者、あるいはユダヤ人全般に﹁屠られた羊﹂のイ
スタンスの英雄物語が展開される余地は残されていなかったのである。
求める衰弱者として表象され、ここには自ら自由を勝ち取っていくレジ
た。犠牲者は痩せこけて死に絶えた屍、あるいは食料と医療を解放者に
へ抵抗運動はこの物語においてエピソードとしての意味しかもたなかっ
たのは連合軍の軍事力なのであって、その本来の犠牲者によるナチズム
被写体、あるいは﹁展示品﹂にすぎなかった。ホロコーストを停止させ
人に見せつけたが、その犠牲者はナチ犯罪糾弾のための匿名の能動的な
たしかに終戦直後のホロコースト報道は、ナチズムの非人道・残虐性
を強調するためにその悲惨な実態をグロテスクなまでに赤裸々にドイツ
が西ドイツ社会に与えた衝撃の大きさに驚いてしまったのである。
行・公開され、世界的なヒットを記録している。ドイツでは六〇年代以
メージが付きまとうことになる。ユダヤ人も、ディアスポラ状態が惨劇
一九七九年一月二七日、ドイツの有力紙﹃フランクフルト・ルントシ
ャウ紙﹄は一面トップに﹁
﹃ホロコースト﹄への大きな反響/このシリ
降に、ホロコーストの悲劇とそこにいたる政治・社会的な経緯を写真の
を可能にしたというネガティヴな教訓しかホロコーストから引き出すこ
3 ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
︵ ︶
構成によって訴える﹃黄色い星﹄のようなドキュメンタリー写真集がベ
とができず、そこに英雄物語を構成することはできなかった。ドイツ人
︵ ︶
ストセラーになっている。いわゆる六八年世代はナチズムとホロコース
2
1
劇の物語ではなく、逆境に耐えながら成長していく少女の普遍主義的な
脈絡から切り離されることによって、ホロコーストによるユダヤ人の悲
るための﹁教材﹂となっていく。アンネ・フランクの物語は、歴史的な
にとっても、その犠牲者は同世代や親世代が過去に犯した犯罪を反省す
り、それは八〇年代以降の現象なのである。
誤解を恐れず表現すれば、現在は﹁ホロコースト・ブーム﹂の時代であ
スト生存者の証言もまた﹁世界遺産﹂的な価値をもつにいたっている。
の著作が示しているように、かつては価値を認められなかったホロコー
リモ・レヴィや八六年にノーベル平和賞を受賞したエリ・ヴィーゼルら
︵ ︶
ドラマとして展開された。それゆえに、その演劇・映画版は強制収容所
以上の意味で、ホロコーストでおもに問題になったのはナチズムの犯
罪であって、その犠牲者の悲劇ではなかったといえよう。つまり、ホロ
終解決﹂、﹁絶滅﹂のようなナチ用語で呼ばれ、六三年のアウシュヴィッ
な概念をもつことがなく、加害者を糾弾する﹁残虐行為﹂概念や、﹁最
におけるアンネの死を描くことはなかったのである。
コーストの解放者と加害者、そして犠牲者自身もその犠牲経験を国民史
ツ裁判の後に﹁アウシュヴィッツ﹂が象徴的な概念として定着した。し
この歴史的事件の概念として﹁ホロコースト﹂が定着したことも、こ
の﹃ホロコースト﹄によるところが大きい。この事件は戦後長らく明確
の物語に組み入れる意義を見出しえなかった。そのような物語を欠いた
かし、このドラマをきっかけに市民権を得た﹁ホロコースト﹂概念によ
︵ ︶
ホロコーストは、見聞きするのもおぞましいグロテスクな出来事となっ
って、この事件は
できるようになったのである。また、一九七九年にアウシュヴィッツは
れ以後が物語として描き出され、高い視聴率と観客数を期待することが
における惨劇の以前で終わらざるをえなかったホロコーストは、今やそ
きがけの役割を果たすことになった。
﹃アンネの日記﹄では強制収容所
ーティフル﹄
、
﹃ ヒ ト ラ ー の 贋 札 ﹄ に い た る﹁ ホ ロ コ ー ス ト 映 画 ﹂ の さ
されたことによって、
﹃シンドラーのリスト﹄や﹃ライフ・イズ・ビュ
が社会的に受け入れられ、商業的価値をもつことがその成功によって示
ているといえよう。同時にこのドラマは、ホロコーストの犠牲者の物語
を犠牲となったユダヤ人
活、強制収容所、射殺、ガス殺、餓死など ―
一家の視点から描き出したが、ここに﹃ホロコースト﹄の衝撃は由来し
ト﹀が誕生していることに着目し、この誕生がこのような社会の構造的
いったタームで表現されている現代社会への移行に伴って︿ホロコース
もちろん﹃ホロコースト﹄は︿ホロコースト﹀の唯一の生みの親では
ない。本稿は、脱産業社会やポスト・モダン、グローバリゼーションと
となったのである。その意味で︿ホロコースト﹀はここに誕生した。
くり返すな﹂︶する指示対象として、﹁唯一無比﹂の絶対的な歴史的事件
︵﹁アメリカン・ホロコースト﹂
︶、あるいは警告︵﹁アウシュヴィッツを
ようになった。つまり、ホロコーストはそのほかの破局の悲劇性を表現
壊︶にも起こりえる 破 局 を黙示録的に象徴する概念としても使われる
ば ア メ リ カ 先 住 民 殺 戮 ︶ が 経 験 し、 未 来︵ た と え ば 生 態 系 の 壊 滅 的 破
カタストロフ
世界遺産に登録され、二〇〇五年にその解放の日が国連によって﹁国際
な変化の産物であることを明らかにしていく。﹃ホロコースト﹄もその
は異なり ―
独 自 の 名 称 を も つ こ と に な っ た。 こ う し て﹁ ホ ロ コ ー ス
ト﹂概念は一つの歴史的事件の呼称であるだけではなく、過去︵たとえ
アルメニア人殺戮や南京虐殺のような大量殺戮と
―
4
追悼デー﹂に制定されたが、ドキュメンタリー映画﹃ショア﹄、またプ
あからさまな差別、強姦、知的障害者への﹁安楽死﹂、ゲットー生
―
たのである。これに対して﹃ホロコースト﹄は、この歴史的事件の実態
3
ゲシヒテ第2号 4
出し、第二章で﹁ポスト・フォーディズム﹂概念を用いることによって
一章ではこの脈絡を﹁価値転換﹂論の展開を検証することによって探り
ような社会の構造的変化の脈絡のなかで制作・受容されたわけだが、第
ることが必要な基本的価値観
大 き な 相 違 が 生 じ て い る こ と に 注 目 し、 社 会 の 存 続 の た め に 共 有 さ れ
は、六〇年代末から七〇年代にかけて教育観と労働観において世代間に
彼女にとって労働や業績、節約、道徳
―
構造的変化を確認し、第三章でその変化、とくに時間構造の変化を分析
が大きく揺らいでいることを警
と礼儀作法などの 市 民 的 な価値観 ―
告した。物質面において労働者は市民的な生活水準に到達しているのだ
換 ﹂ が 生 じ て い る こ と を 指 摘 し た 彼 は、 こ の 転 換 を﹁ 静 か な 革 命 ﹂ と
以上に骨を折りたくない。結局人は一回しか生きないのであって、自分
分 の 生 に お い て 何 事 か を 成 し 遂 げ た い ﹂ に 首 肯 し た﹁ 生 課
= 題﹂派が
四八% から三五% に低下したのに対し、
﹁ 私 は 生 を 享 受 し た い し、 必 要
そこに全力を傾ける。困難で、骨の折れることが多いとしても、私は自
いて、﹁私は生を課題とみなしており、その課題のために私は存在し、
︶﹂に関する世論調査の結果によ
見られるとし、その実体を﹁生︵ Leben
って示そうとした。すなわち、六二年から七二年の間に男性労働者にお
るという。その態度は労働意欲・満足の低下や、欲望の即時的充足にも
ビ�ルガ�リ�ヒ
していくことにする。
︿ホロコースト﹀の誕生の歴史的意味を考察する
が、精神面では逆に市民的価値観に反する下層民的な態度がとられてい
2
世論調査に見る﹁価値転換﹂
ことが本稿の最終目的である。
な社会変化をいち早く指摘したのは、
七〇年代から生じていた構造的
︵ ︶
周知のようにR・イングルハートであった。旧来の﹁物質主義的価値﹂
命名した。この﹁革命﹂論から影響を受けてドイツでも価値転換が論じ
に対抗して﹁ポスト物質主義的価値﹂が出現したことによって﹁価値転
ら れ て い く こ と に な る が、 こ の 問 題 提 起 に ド イ ツ で も っ と も 早 く 反 応
ら、社会の存続は危険にさらされる﹂とみなしている彼女にとって、こ
自身の生をもつことが最も重要なことだ﹂を選択した﹁生 享
= 受﹂派は
四二% から五一% へと増加したという。﹁基本信念が恒常的に揺らぐな
したのが世論研究者、なかでもその重鎮であるE・ノエル ノ
- イマンで
ある。日本でも﹃沈黙の螺旋理論﹄
︵池田謙一・安野智子訳、一九九七
のような価値転換は国民共同体の存立にかかわる問題だった。
︵ ︶
年︶の著者として知られ、のちに﹁褐色の過去﹂が暴露されるというス
キャンダルを経験することになる彼女は、自らが設立したアレンスバッ
- イマンは八三年に社会経済学者のB・シュトリュムペルと
ノエル ノ
の間で論争を展開し、その内容は﹃働くと病気になるのか、幸福になる
︵ ︶
ハ世論調査研究所の調査を通して価値転換の実態を明らかにしただけで
のか?﹄という挑発的な書名の刊行物のなかで公表され、論戦はメディ
8
ア に よ っ て も 取 り 上 げ ら れ た。 こ の 論 争 は 価 値 転 換 に 関 す る 国 際 比 較
︵ ︶
なく、著作によって保守的な立場からこの転換に批判的な論評を展開し
た。
ノイマンはすでに七〇年代に、統計研究書﹃私たちはみんな
ノエル ︵ ︶
研究の公表に端を発しているが、ノエル ノ
- イマンはドイツ人の労働モ
ラ ル が 極 端 に 低 下 し て い る 状 況 を こ の 比 較 研 究 か ら 読 み 取 っ た。 戦 後
9
に﹁ドイツ人の最高の特性﹂として﹁勤勉﹂がつねにトップにあげられ
5 ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
5
私たちの社会における価値転換﹄
プロレタリアになっているのか? ―
において﹁静かな革命﹂を確認している。この﹁革命﹂論において彼女
7
6
い。ドイツ人が勤勉であることは﹁一三世紀の文書﹂においてすでに証
であるから、彼女にとって﹁怠惰なドイツ人﹂は形容矛盾にほかならな
も国民としての誇りをもつ者は同時に労働にも誇りをもっていることが
ョナリティ﹂と密接に結びついていることを指摘した。どの国において
この論争の最後にノエル ノ
- イマンは、論争の主題となった﹁労働﹂
が経済的な意味をこえたテーマであり、それは﹁誇り﹂において﹁ナシ
それではドイツ人の労働モラルがほかの国民と比較して著しく低いとい
働素質、労働能力の訓練をしてきた。︹⋮⋮︺私たちは労働への誇
﹁誇りは自己意識と生活能力である。その理由でも労働は非常に
︵ ︶
重要なテーマなのだ。私たちは数百年もの間、労働への熱中、労
う事実は説明できないとノエル ノ
- イマンは反論した。彼女はドイツ人
がこの問題で特有の道を歩んでいる原因を、労働の喜びや誇りは時代遅
りを取り戻すことができるのだろうか﹂
。
︵ ︶
れだという風潮に見出し、この風潮を作り出したとする学校の教科書を
ず、それは不幸な人生への道標﹂なのである。このスローガンが前述の
る﹂といった即時的な欲望充足のスローガンは﹁警告されなければなら
て 重 要 な 役 割 を 果 た す。 そ れ ゆ え に﹁ 私 た ち は す べ て を い ま 望 ん で い
されるものであり、労働の喜びを感じる能力のような人格の発達におい
この論争で彼女は﹁勤勉﹂だけではなく、﹁報酬を先延ばし﹂する忍
耐力の重要性も強調している。彼女によれば、この能力は子供期に獲得
現代社会の政治の変化を﹁解放の政治﹂から﹁生の政治﹂への転換とし
その後も続けられ、その結果も公表され続けた。のちにA・ギデンズは
ノイマンは﹁生﹂に関する前述の世論調査を提示・実施し、その調査は
れてきた背景も明らかにしているように思われる。たとえば、ノエル
彼女の議論は価値転換論の一端だけでなく、そのような議論が生み出さ
- イマンの議論は価値転換論のいわば保守主義版であって、
ノエル ノ
それが全体の議論を代表しているわけではない。それにもかかわらず、
︵ ︶
享
= 受﹂派のライフ・スタイルの神髄をあらわしているとすれば、
て特徴づけたが、ノエル ノ
- イ マ ン は﹁ 生 ﹂ に 関 す る 質 問 を 国 民 に 投 げ
かけ続けることによって価値転換を解釈する枠組みを設定して、価値転
﹁生
﹁先延ばし﹂の能力は﹁生 課
= 題﹂派のライフ・スタイルの極意である
といえよう。しかし、この二つのライフ・スタイルは彼女にとって二者
換の本質を定義しようとしていたと同時に、そのことによって﹁生の政
︵ ︶
択一のものではない。生の享受や喜び、自己実現はほんらい勤労や義務
15
治﹂を実践していたのである。
︵ ︶
めるライフ・スタイルにとっても極意であるといえよう。
ノイマンの議論から導き出されるもっと本質的なこと
しかしノエル は、価値転換論が新たな国民の出現・形成の可能性をめぐる問題とかか
16
13
-
ゲシヒテ第2号 6
︵ ︶
明されており、それは﹁私たちが労働生活のなかで数世紀にわたって育
国際比較調査で検証されたという。そして、ドイツ人のナショナルな誇
ていたのであり、外国人もドイツ人をそのように評価しつづけてきたの
て上げてきた伝統を通して活力を見出してきたことを意味している﹂の
りが国際的に低レベルにあることを前提にして、次のように訴えた。
︵ ︶
だという。そのような伝統にもかかわらずドイツ人の労働モラルが近年
10
になって低下している原因をシュトリュムペルは労働環境に求めたが、
11
意識の結果として、あるいはそのコントラストから生じてくると考えて
含むメディアを非難したのである。
12
いるからである。彼女にとって﹁報酬の先延ばし﹂は﹁生 享
= 受﹂を求
14
あるいは国
―
として知覚されたが、比較的若い世代から構成された緑の党と新しい社
のさまざまな感情がこの議論に纏着していたことである。ノエル ノ
-イ
マンのような保守主義者にとってその可能性は国民共同体の崩壊の危機
/M・シューマンも、価値転換に伴って労働の具体的な内容に対する要
シュトリュムペル側に加担したといえよう。またこの大会でH・ケルン
左右することを指摘している。当時展開されていた前述の論争で彼らは
却﹂は確認されず、その労働への満足度は具体的な内容によって大きく
﹁﹁非慣習的﹂な価値の支持者においても賃金労働からの﹁無秩序﹂な退
を 明 ら か に し た。 彼 ら は 二 重 文 化 が 成 立 す る 恐 れ を 示 唆 し た も の の、
わりあっており、この可能性に対する危惧や不安から希望にいたるまで
民共同体の崩壊とナショナルな枠組みをこえた共同体の形成 ―
に世代
交代後の見取り図を見出していた。その可能性の根拠として持ち出され
求 が 活 性 化 し て い る こ と を 指 摘 し て い る が、 彼 ら に と っ て そ の 問 題 は
値の対立軸 ﹁=慣習的な労働価値﹂/﹁非慣習的な労働価値﹂を構成し、
後者の価値観を抱く被用者が教育水準の高い若年層に増加していること
たのが労働観であった。
﹁労働﹂は国民共同体の物質的基盤を保証して
﹁労働力の使用における大変革﹂、すなわち新種の労働力タイプの形成と
いただけでなく、その結束のための
︵ ︶
工業生
かかわっていた。この見解を展開した彼らの﹃分業の終焉? ―
︵ ︶
産における合理化﹄︵一九八四年︶は学界に大きな衝撃を与えることに
19
なる。
産 の 重 要 な 潜 在 能 力 を 使 わ ず に 逃 す こ と に な る。 職 務 を も っ と 全
とにはならない。︵b︶労働力に制限的に介入することは重要な生
圧搾することがおのずから経済的な最大限化をもたらすというこ
︶労働に対して技術化によって生産過程
﹁︵a ︶ 生 き た︵ lebendig
を自動化することはそれ自体価値がない。生きた労働を最大限に
︶﹂と名づけた。そ
証し、それを﹁新しい生産構想︵ Produkutionskonzept
の﹁信念表明﹂は以下のとおりである。
代になって産業社会で新たな合理化構想が実践され始めていることを検
自動車産業、工作機械産業、化学産業を対象に八〇年代初期に行われ
た現地調査にもとづいて著されたケルン/シューマンの研究は、八〇年
20
会運動に結集していった政治勢力は、新たな国民の形成
まさに政治的な左右の分岐線を
―
自己決定﹀、︿生
︵ ︶
こえた ―
精神的支柱でもあった。そのために、新たな価値観の出現に
保守主義者だけでなく、社会民主党のような左翼政党や労働組合も動揺
しなければならなかったのである。
、その変化は具体的にはどのように議論
では﹁労働﹂と﹁労働社会﹂
されたのであろうか。
︿ホロコースト﹀の誕生と価値転換との関係を探
る前に、この問題を私たちはポスト・フォーディズム概念を駆使するこ
生の享受﹀、︿適合意志
vs
リスク準備﹀、︿教育課
vs
がら、
︿欲望充足の先延ばし
、
︿安全努力
活における労働の中心性 周辺性﹀
vs
21
︶に組み込んでいくことは危険なことで
面・ 全 体 的︵ ganzheitlich
7 ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
とによって考察してみよう。
3 価値転換とポスト・フォーディズム
、八二年のドイツ社会学大会は﹁労働社
価値転換の議論を背景にして
︵ ︶
︵ ︶
会の危機?﹂をテーマに掲げた。この大会でU・エングファーらは、イ
18
ングルハートのいう﹁物質主義﹂/﹁ポスト物質主義﹂概念を適用しな
17
vs
題としての勤勉と学業の優先 非優先﹀の五つの指標に基づいて労働価
vs
市場の組織化
市場による組織化
コマンド・システム
間接統御
ヒエラルヒー
人格 - 個人
規律化・合理化
自己管理
労働倫理
ピューリタン的労働倫理
コミュニケーション的労働倫理
労働力タイプ
プロレタリア→職業化された被用者
労働力企業家
専門的な職業資格・技能
抽象・包括的なメタ能力
職業教育
永続的な継続教育
解放の政治
生の政治
はなく、チャンスなのである。つまり、労働者も熟練資格を獲得
組織原理
し、専門知識によって労働にかかわっていく主権者となることが
政治
︵ ︶
多品種少量生産・消費
生産力となるのであって、その生産力の利用を強化することが重
状況的
要になっている﹂
。
戦術的
﹁新しい生産構想﹂が古典的な合理化形態であるテーラーリ
︵a ︶で、
ズムのモデルとは根本的に異なる合理化構想であることが、︵b︶では
生活態度
その新しさが表明されている。つまり、﹁生きた労働の残滓のなかに潜
在的な妨害要因﹂を見て、労働力を機械化・技術化によって圧搾・削減
し、分業化と熟練の解体によって被雇用者をヒエラルヒー構造に従属さ
せようとする旧来の合理化構想に対して、知性・プロフェショナル化さ
れた専門的労働力が主権者として行使する﹁生きた労働﹂を全面・全体
したがって分業化せずに ―
組み込んでいく合理化戦略が﹁新
的に ―
しい生産構想﹂として対峙されているのである。
ケルン/シューマンのこの研究は、経営体制がフォーディズムからポ
スト・フォーディズムへ移行していく歴史的過程、正確に言えば、ポス
ト・フォーディズムが出現して、フォーディズムと併存していく歴史的
この前提に立って、これからポスト・フォーデ
過程を目撃していた ―
︵ ︶
ィズム研究を参照しながら、その特徴をまとめてみよう。
ポスト・フォーディズムの特徴を際立たせるために、さしあたりフォ
ーディズムを、市場を組織に従属させることで市場原理が内包する偶然
︵ ︶
性を処理し、生産と消費を計算可能なものとして長期的な計画によって
実行する体制であると定義しておこう。そのための組織形態が、ヒエラ
ポスト・フォーディズム
フォーディズム
22
ルヒーにもとづく命令 服
- 従関係のコマンド・システムであり、その際
に計算可能な生産者と消費者を形成するために、伝統的な生産様式はピ
大量生産・大量消費
資格・技能
脱境界化 = 生活の労働化/経営化
生活/余暇・再生産・家族・女・
領域
24
パ ー ソ ン
生産様式
組織形態
23
労働/ - 時間・生産・職業・男・労働力⇔
パ ー ソ ン
人格 - 個人の境界化
図1
ゲシヒテ第2号 8
動領域として厳密に区分されたが、他律的な生産の領域では主観性はコ
れた。労働と生活・余暇の領域は、性分業にもとづく生産と再生産の活
ューリタン的労働倫理によって規律化され、生活・余暇領域も合理化さ
とを次のように指摘している。
が誕生しており、このモラルが新しい労働条件において不可欠であるこ
アなどを特徴とする﹁コミュニケーション的美徳﹂の新しい労働モラル
ーリタン的美徳﹂と並んで、チームワークや意見表明、協調性、ユーモ
パ�ソン
マンド・システムにとって妨害要因とみなされた。客観的な道具的存在
労働力のタイプを、G・G・フォスらは﹁職業化された被用者﹂と命名
練度の低いプロレタリアからこのフォーディズムによって生み出された
展開は生活領域で許されたのである。集約的な長時間労働を課された熟
仕事と生産がうまくいくかどうかは、協力する能力と時間に関す
に、そして広範囲にわたって意志を疎通させなければならない。
労 働 者 は 必 要 と し て い る。 こ の 人 た ち は︹ ⋮⋮︺ 非 常 に 速 や か
﹁ 以 前 は さ ほ ど 重 要 で は な か っ た︵ 勤 勉 と は ︶ 異 な る 美 徳 を こ の
としての労働力と主観的な個性的存在としての人格が分離され、後者の
した。産業社会になって﹁身分﹂に代わる概念となった﹁職業﹂は、青
る 組 織 規 律 に よ っ て 決 定 さ れ る し、 そ の 程 度 は 非 常 に 高 い。 新 し
︵ ︶
少年期に職業教育を通して体系的に習得され、基本的な安定したアイデ
いタイプの労働者が進み出ているのである。それは、自分のノル
マに向かうために我を忘れて集中し、気を散らすまいとしている
ンティティの供給源として、社会化の重要な機関としても労働力の社会
︵ ︶
統合に寄与した。
タイプではなくて、着眼を個々の部分や部分の集団に向けるので
︵ ︶
はなく、むしろ生産過程やモノの流れに向けるような自己意識を
もち、コミュニケーション能力の高い労働者である﹂。
フォーディズムの﹁職業化された被用者﹂に対してこの労働者タイプ
は、自己の労働力の経営者として営利活動を戦術的に展開するという意
味で﹁労働力企業家﹂と呼ばれたが、新しい労働倫理が示しているよう
者﹂
︵ Auftragnehmer 委
= 託受取人︶として、自身が労働を組織していか
な け れ ば な ら な い。 つ ま り、 自 己 管 理 が 被 用 者 の 重 要 な 能 力 と し て 評
長期的なアイデンティティの保持を保証していたが、市場の要求・偶然
生涯にわたって活用され、それが被用者のライフコースを安定化させ、
に、このタイプにはフォーディズムとは異なる労働能力が要求されてい
価 さ れ る こ と に な る。 そ の よ う な 労 働 条 件 下 で 重 要 視 さ れ た 労 働 倫 理
性と技術革新にフレキシブルに対応できるために、専門的技能の重要性
る。﹁職業化された被用者﹂が習得した専門的な﹁職業﹂資格・技能は
が﹁コミュニケーション的労働倫理﹂である。G・シュミットヒェンは
は相対化されることになった。その技能は継続教育を通して永続的に習
︶﹂ と い う よ り も、﹁ 受 託
る。
﹁ 被 用 者 ﹂ は﹁ 労 働 受 取 人︵ Arbeitnehmer
統制﹂と呼んでいる。ここにおいて組織は脱中心化され、命令 服
- 従関
係のなかで行われていた労働力の業績への転換は被用者に委ねられてい
応するポスト・フォーディズムの組織形態を、D・ザウアーらは﹁間接
その意味で市場の偶然性が組織原理となっている。コマ
されていく ―
ン ド・ シ ス テ ム の 硬 直 性 を 打 破 し て、 市 場 の 要 求 に フ レ キ シ ブ ル に 対
こ れ に 対 し て ポ ス ト・ フ ォ ー デ ィ ズ ム で は、 市 場 の 偶 然 性 が 組 織 さ
れ る の で は な く、 逆 に 市 場 の 要 求 に し た が っ て 永 続 的 に 経 営 は 再 組 織
25
八四年に﹃ツァイト﹄紙に、時間厳守や勤勉、無言実行のような﹁ピュ
9 ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
27
26
開発能力、戦略能力、ネットワーク・コミュニケーション能力、問題処
る抽象・包括的なメタ能力、すなわち発展・学習能力、自己組織・自己
ようになったのが、絶えず変化する労働内容にフレキシブルに適応でき
得することが必要となったのである。この技能に代わって重要視される
ーディズムとその時間意識との関係から分析してみよう。
ト﹀の誕生に見られる八〇年代以降の新たな歴史意識を、ポスト・フォ
象 と 関 連 づ け て 議 論 を す る 必 要 が あ る だ ろ う。 次 章 で は︿ ホ ロ コ ー ス
も、ポスト・フォーディズムの出現と労働・生活態度の変化といった現
あるいはU・ベックの﹁個人化テーゼ﹂
、 両 者 の﹁ 再 帰 的 近 代 化 ﹂ 概 念
4
ポスト・フォーディズムの時間意識
︵1︶﹁時間のパイオニア﹂
理能力などの潜在的な労働能力である。専門的技能とは異なり、このよ
うな能力は労働と生活の境界線とは無関係に習得されるものであると同
フォーディズムが妨害要因として労働の領域から疎外
―
時に、その能力には動機づけ能力、情熱力、感受性、創造性、ファンタ
ジーのような
パ�ソン
ドイツ社会学会の八二年大会における前述のエングファーらの報告
は、労働以外の時間の余地を増やすために、収入減と引き換えであって
した ―
人 格 的要因が含まれている。そ の 意 味 で、 市 場 の 偶 然 性 を 処
パ�ソン
理する機関はヒエラルヒーから労働力の主体としての人格に代わったと
いえよう。このようにポスト・フォーディズムにおいて労働と生活は脱
も労働時間を短縮しようとするだけではなく、労働時間を自己決定・フ
︵ ︶
境界化し、市場と経営のロジックが生活領域に入り込み、労働争議を含
レキシブル化することを望む者が、非慣習的な労働価値観を抱く集団を
パ�ソン
﹁労働志向と労働参加は非慣習的な労働価値の担い手からは﹃私
︵ ︶
し て 示 し た 生 活 態 度 の 類 型 化 が 役 に 立 つ。 規 範 と ル ー チ ン を 志 向 す る
︵ ︶
︵ ︶
で に 八 〇 年 代 初 期 に 管 理 機 関 と し て の人 格 個
- 人によって推し進められ
ていた労働現場であった。その数年後にはK・H・ヘルニングらの社会
ライフ・ポリテ��クス
ブルな生活態度である。この意味で﹁状況的﹂な生活態度をポスト・フ
パ � ソ ン
この報告が目撃していたのは、労働時間をめぐる被用者の要求が短縮
からフレキシブル化に移行しつつあり、時間使用の脱集団・個人化がす
キシブルに使用する欲求を明確に口に出している﹂。
32
学者によって﹁時間のパイオニア﹂が発見された。
︵ ︶
31
価値転換論だけでなく、先にふれたギデンズの﹁ 生 の 政 治 ﹂概念、
30
ォーディズム的な日常実践と呼んでかまわないだろう。
体的な目標を立てず、多くのことをアドホックに決定していくフレキシ
して、この日常実践は外部からの刺激に敏感に反応し、詳細な計画や具
生活態度が厳格な計画と堅固な組織に全面的な信頼を置いているのに対
もとづく﹁状況的﹂な日常形態が実践されているという。﹁戦術的﹂な
する﹁戦術的﹂な生活態度とならんで、未決定性とフレキシビリティに
事﹄とみなされている。/この人びとは時間を自己決定してフレ
29
﹁伝統的﹂な生活態度、計画・合理性によって日常を最大限化しようと
中心に増加していることを指摘している。
む労働問題が個人を舞台に展開されることになったのである。
によって生活態度にも変化が生じた
このような労働と生活の脱境界化
︵ ︶
が、その変化を理解する上でフォスが﹁日常形成の三つの基本形態﹂と
28
﹁﹃時間のパイオニア﹄は労働および経営外の日常において自分の
33
ゲシヒテ第2号 10
げていく人物である。﹃時間のパイオニア﹄はその個人の労働時間
時間観念を実現しようと試み、
︹⋮⋮︺時間の独自の形態を作り上
して独自の質を獲得しているのである。
ルのパイオニアである。時間は手段的な性格をこえて、生の構想原理と
離反する一方で、
﹃自分自身のためにもっと多くの時間をもつ﹄と
なく、外在的に占有・構成された他律的な時間によって組織された労働
したがって﹁パイオニア﹂は労働忌避者ではなく、むしろ高い業績意
志を特徴としている。﹁パイオニア﹂が忌避しているのは労働自体では
をフレキシブル化し、それによって労働社会の既成のモデルから
いう要求にこのフレキシブル化を結びつけて、自分の生を全体的
である。労働と職業は生の意味を作り出す中心的な領域とはもはやみな
︵ ︶
に設計しようとしている﹂
。
ニア﹂にとって労働/余暇という労働社会の時間構造のなかでのゼロサ
時間をいわば空白として再生産活動のために使用することは、﹁パイオ
とがその目的ではない。生産活動と労働時間の縮減によって獲得された
この﹁パイオニア﹂たちは収入減を伴っても労働時間の短縮を求める
が、精神・肉体的な疲労回復や家事・育児などにその時間を充当するこ
は時間厳守を含む規律を内面化し、自ら時間の使用と配分を管理し、労
分の行動の合理性を証明しようと努めている﹂。こうして﹁パイオニア﹂
た労働志向は無意味で、それどころか馬鹿げていると暴露しながら、自
間のパイオニアは、勤勉や従順、権威信仰のような美徳によって担われ
に有意味に構造化されることが求められているのである。そのため﹁時
されていないが、主観的に意味ある労働は﹁パイオニア﹂のライフ・ス
ム・ゲームにすぎないからである。労働時間のフレキシブル化を通して
働と生活を組織していこうとするが、むしろこのような自己管理と自己
︵ ︶
︵ Reserve
︶ と み な さ れ て い る。
﹁労働時間の短縮はもっと多くの時間を
自由処理できる経験の前提条件である。一定量の時間が貯水池として要
のフレキシブルなライフ・スタイルを再帰的に構築するための﹁蓄え﹂
分自身のため﹂の時間であり、制度・標準化されたものとは異なる独自
可能性をあらかじめ取り込んでいるために、現在は引き延ばされ、未来
ようにできる限り未決定のままに置かれ、その決定は修正・転換される
ることで、﹁非連続性﹂の要素が取り入れられている。こうして現在と
﹁︵時︶間のパイオニア﹂の時間観念で特に注目されるのはその現在・未
来 観 で あ る。 そ の 計 画 観 念 に は、 偶 発 事 の 可 能 性 が 積 極 的 に 配 慮 さ れ
キシブルなライフ・スタイルを営むための絶対条件である。
求され、時間の準備金が積み立てられる﹂ことによってはじめて、時間
は﹁現在化﹂している。同様のことは﹁パイオニア﹂の人生設計にも当
パ�ソン
タイルの重要な部分であって、労働時間がそのライフ・スタイルのなか
求 め ら れ て い る の は、 再 生 産 の た め の 時 間、 つ ま り 客 体 化 さ れ た 時 間
組織の能力は、制度・標準化された生から解放・解除された個人がフレ
構 造 の な か の 余 暇︵
︶ で は な く、 主 体 的 に 構 成 さ れ る こ と が で
Freizeit
の圧迫や煩忙とは異なる時間との付き合いが可能になるのだという。労
てはまる。その人生設計には多様な可能性が統合され、可変的で、見通
︵ ︶
働社会の制度・標準化された時間が既成のライフ・スタイルを構成して
すことのできないものとして未来は意識的に未決定のまま設定されてい
︶なのである。それは、何らかの社会的目的の
きる自由時間︵ Freie Zeit
ために使用される手段として制度化された他律的な時間とは異なる﹁自
36
きたのであるから、
﹁時間のパイオニア﹂はその意味でライフ・スタイ
35
37
未来の間のスパンが短縮されただけではなく、未来は現在を拘束しない
11 ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
34
べき目的を集団的に設定して、欲望の充足をその未来の時点まで先延ば
成、すなわち発展可能性に移されている。以上のように、未来に到達す
の重点はその行動の結果である未来ではなく、引き延ばされた現在の生
クチュアルな目標と関心にしたがって調整される。こうして現在の経験
危険を冒してしまうと判断されて、人生構造は現在においてそのつどア
る。時間の展望を未来の目的に過度に設定する者は、現在の機会を逃す
商業主義的な大衆音楽を支配しつづけてきた音楽ジャンルの﹁流行歌﹂
NDWの存在は国外にも知られることになる。一九世紀に成立してから
の﹃99の気球﹄︵八三年、邦題﹃ロックバルーンは99﹄
︶のヒットで
ス と ア メ リ カ で ヒ ッ ト・ チ ャ ー ト の 一 位 お よ び 二 位 を 獲 得 し た ネ ー ナ
た 独 自 の 音 楽 潮 流 と な っ た。 ド イ ツ 語 ヴ ァ ー ジ ョ ン で 八 四 年 に イ ギ リ
れ に 合 致 し た サ ウ ン ド を も つ こ と で、 外 来 音 楽 の 模 造 的 性 格 を 払 拭 し
︵ ︶
しし、偶発事の要素を取り除いていくことで現在と未来の間を組織・操
ニケーション的労働美徳﹂の担い手であり、そのライフ・スタイルがポ
関する詳細な分析は行っていない。しかし、﹁パイオニア﹂が﹁コミュ
ヘルニングらのこの研究は、どのような社会的カテゴリーの、どの規
模の人びとが﹁時間のパイオニア﹂に属しているのかという社会構成に
に大きな影響を与えつづけた。三五ヶ国で四〇〇万枚の売り上げを記録
くことになる。しかしその音楽的独自性はその後のドイツ・ポップス界
い、ネーナの国際的な成功の後に社会現象としてのNDWは衰退してい
かし逆説的にもNDWが商業的に成功することでその衝撃性を徐々に失
︵ ︶
スト・フォーディズム的な﹁状況的生活態度﹂にもとづいていることが
し、NDW の代表的作品であるトリオの﹃ダ・ダ・ダ﹄︵八二年︶は、
考察してみよう。
︵ ︶
︵2︶NDWと時間意識
七 〇 年 代 末 か ら 八 〇 年 代 前 半 に か け て、 ド イ ツ で N D W︵
Neue
印していった状況を、八〇年代以降のドイツのポップス潮流の分析から
40
﹁ ア ハ ァ、 ア ハ ァ、 ア ハ ァ!/ ア ハ ァ!/ ア ハ ァ!/ ア ハ ァ!/
ど う し た ん だ い、 俺の カ ノジョ、 ア ハ ァ?/ 沈 み 込 ん で い る ば っ
か り か い、 ア ハ ァ?/ 君がわか っ て い る こ と だ け で い い の か い、
ダ・ ダ・ ダ / ダ・ ダ・ ダ ―
ダ・
回 く り 返 し ︶ / ダ・ ダ・ ダ ―
ダ・ ダ / * * ダ・ ダ・ ダ、 俺 は 君 を 愛 し て い な い し、 君 も 俺 を 愛
/ Let you go, it did’t show
ア ハ ァ?/ This is what you got to know
/*俺は君を愛していないし、君も俺を愛していない*/︵*四
イ ツ・ ポ ッ プ ス 界 の こ の よ う な 動 き に 影 響 を 与 え た が、 以 前 の ロ ッ ク
していない**/︵**二回くり返し︶/ダ・ダ・ダ
ダ・ダ・
―
ン・ロールやロックとは異なり、NDWはドイツ語の歌詞で歌われ、そ
= ュー・ジャーマン・ウェーヴ︶と呼ばれる音楽運動
Deutsche Welle ニ
が展開された。それに先行して成立したパンクとニュー・ウェーヴがド
41
シ�ラ�ガ�
その研究から理解することができよう。そしてこの﹁パイオニア﹂がま
流行歌に対するそのオルターナティヴな性格を挑発的に表現している。
ィヴを提示することによって、NDWは社会現象となったのである。し
てその音楽を商業主義的に支えてきた体制的な音楽産業にオルターナテ
︵ Schlager
、 英 語 の Hit
に 相 当 し、
﹁歌謡曲﹂が日本語の意味として一番
近い︶、とくにその現実逃避的な甘美性や反リアリズム的な性格、そし
︵ ︶
作していたかつての計画や人生設計は、フレキシブル・脱構造化される
38
さに先駆者としてその時間意識をヘゲモニスティックにドイツ社会に刻
ことになったといえよう。
39
ゲシヒテ第2号 12
ダ・ダ﹄では﹁太陽はすぐに沈んでいく﹂という否定の物語にあっさり
逃避的な大衆音楽に対して﹃ダ・ダ・ダ﹄は現在と未来を偶然性で断ち
ダ / ダ・ ダ・ ダ
し、君も俺を愛していない︶ ―
アハァ***/︵***二回く
り返し︶/へーえ、もう遅すぎるって思っているんだね、アハァ
切り、リアリズムを突き付けている。未来を現在に優先させない即時的
と逆転され、最小限の言葉に還元されてしまっている。未来志向の現実
/そして、もううまくいかないって思っているんだね、アハァ/
な欲望充足の賛歌をマルクスは、のちに同名の映画も制作されることに
ダ・ ダ・ ダ / * * *︵ 俺 は 君 を 愛 し て い な い
―
そして、太陽はすぐに沈んでいくんだね、アハァ/︹⋮⋮︺﹂
がら、
﹁俺﹂も﹁君﹂も互いに愛していないという事実が単調にくり返
ぞ、 ス ピ ー ド を 出 すぞ!/ 節 約 し よ う な ん て 思 う な、 経 済 観 念 を
﹁ 僕 の マ ゼ ラ ー テ ィ︹ ス
= ポ ー ツ カ ー︺ は 二 一 〇 キ ロ 出 る / ヒ ュ
ーっとだ、警官には見えてない/こりゃ楽しい/スピードを出す
なるヒット曲﹃楽しむぞ﹄︵八二年︶で謳歌している。
し語られている。この歌詞の意味を理解するために、流行歌歌手ロイ・
捨 て よ う / ス ー パ ー・ ガ ソ リ ン だ け を タ ン ク に 入 れ ろ / 楽 し い
﹁アハァ﹂といった投げやりな感動詞を入れ、コミカルな調子で流れ
ていく均質なリズムの上に﹁ダ・ダ・ダ﹂という赤ちゃん言葉を乗せな
ブラックのヒット曲﹃僕のそばにいておくれ﹄︵六八年︶の歌詞を参照
シ�ラ�ガ�
してもらいたい。
め の ミ リ イ ェ ッ ト 紙︹ ト
= ルコの週間新聞︶/どの簡易食堂にも
有 刺 鉄 線 の 背 後 の ト ル コ 文 化 協 会 / 新 し い イ ズ ミ ー ル︹ ト
= ルコ
の都市︺が東ドイツに/アタチュルクが新しい支配者/ソ連のた
﹁ 壁 の 都 市 の な か の ケ バ ッ プ︹ ト
= ルコ風サンドイッチ︺の夢/
なメロディーを奏でた。
ノイマンのような保守主義者だけではなく、エコロ
この歌にノエル ジー運動の共感者も眉を顰めた。むしろNDWの多くの歌は悲観主義的
ぜ、楽しいぜ!﹂
楽 し む ぞ、 楽 し む ぞ!/︹ ⋮⋮︺ ド イ ツ よ、 ド イ ツ、 僕 を 感 じ
る か い?/ 今 夜 僕 は お前を 縦 断 し て い く よ / 楽 し い ぜ!/ 楽 し い
ぜ!/ 楽 し い ぜ、 ス ピ ー ド を 出 す ぞ!/ 楽 し む ぞ、 楽 し む ぞ!
楽 し む ぞ、 楽 し む ぞ!
ス ピ ー ド を 出 す ぞ、 ス ピ ー ド を 出 す ぞ!
﹁*僕のそばにずっといておくれ/僕のそばにずっといておくれ
/僕は君だけを思い焦がれているんだ/そして泣いている僕の魂
は/過去のもので/過ぎ去っていく/だって僕が君を愛している
ことを君は知っているんだから/君は輝く太陽だ*/僕は君のた
めに天空から星を取ってくるよ/そしてその代わりに君が僕にあ
げられるものを/それは君の心、僕が欲しいのはそれだけなんだ
/君をもう失わないために/︵*くり返し︶﹂
シ�ラ�ガ�
流 行 歌 の 典 型 的 な テ ー マ で あ る が、﹁ 泣 い て い る ﹂ 状 態 は 過
﹁愛﹂は
ぎ去り、その愛は﹁ずっといる﹂こと、﹁失わない﹂こと、すなわち愛
が成就し、その状態が未来にも続くことを想定・願望する必然性の物語
シ�ラ�ガ�
が流行歌では語られていた。しかし﹁輝く太陽﹂の愛の物語は、﹃ダ・
13 ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
スパイ/強制収容所にはトルコから来た情報部員/ドイツ、ドイ
ツ、みんなおしまいだ/ドイツ、ドイツ、みんなおしまいだ/ド
イツ、ドイツ、みんなおしまいだ/私たちは明日のトルコ人、私
困難
0
たちは明日のトルコ人、私たちは明日のトルコ人⋮⋮﹂
容易
40
︵七九年︶として知られていたこ
ミッタークパウゼの﹃ミリトルコ﹄
の曲は、ファールフェルベンとD AF によって﹃ ケバップの夢﹄のタ
変わらず
80
イトルでカバーされたNDW の代表作である。﹃楽しむぞ﹄は欲望充足
の車でドイツを縦断したが、この曲は後進的な管理社会としてデフォル
﹁私たちは明日のトルコ
―
メ さ れ た ト ル コ に 未 来 の ド イ ツ を 見 出 し、 そ の﹁ お し ま い ﹂ を 宣 言 し
た。この歌で何度もくり返されたフレーズ
はNDWでもっともポピュラーなリフレーンとして、そのクレ
人﹂ ―
ドになった。
NDWのスーパースター、ネーナの世界的なヒット曲﹃99の気球﹄
も、最終的には﹁世界が瓦礫となる﹂姿を描いた反戦歌である。五〇万
枚以上の売り上げを記録したアルバムのなかでイデアールは八一年に
﹃氷河期﹄
︵﹁氷河期 ―
私に氷河期が始まる/氷河期の迷路 ―
氷点下
シ�ラ�ガ�
九〇度﹂
︶ を 歌 っ て い る が、 翌 年 に は か つ て 流 行 歌 歌 手 だ っ た ペ ー タ
氷河期/それは海が没
ー・マーファイが同名のタイトル曲︵氷河期 ―
し、大地が裂くとき/そして大陸が瞬間にぶつかり合う/この爆発の最
後の電光をいったい誰が見るというのだ︶をヒットさせている。DAF
と同様にオルターナティヴ音楽として国外でも高い評価を受けることに
なるアインシュトゥルツェンデ・ノイバウテンは、八一年に﹃没落と崩
壊﹄を公表している。
﹁没落と崩壊﹂の原因は時間である。
100
60
20
57年 60年 63年 65年 73年 76年 80年 81年
図2
ゲシヒテ第2号 14
いだ/おいで、ついておいで/眺めてごらん、いかに時間が/私
はその子供をとっくの昔に食いつぶした/そして時間は腹いっぱ
﹁私たちは空っぽだ/私を信じてくれ/私たちは空っぽだ/時間
時間観念の変容といった構造的な脈絡のなかでその歴史的意義を理解し
ではなく、このようなフォーディズムからポスト・フォーディズムへの
れたことも、エコロジー危機に対するたんなる社会・政治的反応として
﹂概念では英語やフランス語
Opfer
ポスト・フォーディズムの歴史意識
―
なければならないだろう。
5 おわりに
たちの目の前で崩壊していくのかを/おいで、ついておいで/私
不安なしに/私たちは空っぽだ/最終的に、
たちは空っぽだ ―
完全に、空っぽだ/没落と崩壊﹂
日本語およびドイツ語の﹁犠牲/
と “Sacrifice”
が 明 確 に 区 分 さ れ て い な い が、︿ ホ
の よ う に “Victimhood”
ロコースト﹀の誕生を理解する上でこの概念の区分は重要であると思わ
このような未来観は当時の世論調査によっても確認される。﹁未来を
人類にとって生はますます容易になりますか、困難に
信じますか?
―
なりますか﹂の問いに、
﹁困難﹂の答えが六五年以降に増加しているこ
れるので、ここで両者を定義しておこう。これから、暴力を加えられて
︵ ︶
とが図2から理解できよう。八三年の青少年調査は、青少年たちはその
︵ ︶
将来に関して短期的なイメージしかもてず、結婚のような区切りにも具
とみな
身体と生命に危害を加えられた受動的犠牲︵者︶を
Victim(hood)
と
し、暴力を行使して身体と生命を捧げた能動的犠牲︵者︶を Sacrifice
以上が楽観的であることも確かめている。つまり、悲観的に見ていた未
ドイツの未来に対しては悲観的であっても、自分自身の将来には八〇%
査は同時に、
﹁ノー・フューチャー﹂世代と呼ばれたその青少年たちが
﹁英雄﹂はその典型的な部類に属する。
に、 国 民 史 の な か で 重 要 視 さ れ た の は お も に 能 動 的 な 犠 牲 で あ っ た。
国 民 史 の 主 体 と し て 歴 史 的 に 評 価 さ れ る こ と は 困 難 で あ る。 そ の た め
前 者 の 受 動 的 な 犠 牲 は﹁ 偶 然 ﹂ に も 外 部 か ら も た ら さ れ た も の で あ
り、その犠牲は能動的に意味づけられにくく、したがってその犠牲者が
呼ぶことにする。
来は個人のものというよりも、
﹁ドイツ﹂や﹁人類﹂一般の未来であっ
もっとも、歴史の一定の状況のなかで受動的犠牲者も国民史を構成す
る上で重要な役割を果たしている。たとえば、戦後にホロコーストの責
はそこに﹁未来志向の問いに対する抵抗﹂を認めている。しかしこの調
た。換言すれば、この悲観論者は既成の社会・国家体制 ―
本稿の用語
を用いるならば、テーラーリズム・ケインジアニズム・社会福祉国家的
ではなく、ドイツ国民もヒトラーとナチズム、さらにはスターリンと共
任はヒトラーと一部のナチスに負わされ、ユダヤ人や東欧の諸国民だけ
の存続に未来を見出すことが
な﹁経営・社会フォーディズム﹂体制 ―
できなかった。その未来観はこの体制に対するポスト・フォーディズム
産主義の犠牲者であることが強調された。そのような犠牲者によって構
︵ ︶
的な懐疑と批判のまなざしでもあったといえよう。また、この時期にエ
成された共同体として西ドイツは構成されたが、加害者国民として政治
来に関する質問に、
﹁一〇年後にもう一度聞いてくれ﹂と答え、調査者
体的な展望は達していないことを明らかにした。ある者は一〇年後の将
43
コロジー意識が活性化され、緑の党や新しい社会運動によって政治化さ
15 ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
42
44
的主権をはく奪された国民が冷戦のなかで有利に国民形成を行う上で、
制として利害をほぼ一致させていたといってよいだろう。
上げていくという点でも、国民国家と産業社会は同じフォーディズム体
パ � ソ ン
しかし、フォーディズム体制に合致した時間意識に代わって、時間の
た。この変化とともに歴史意識も変化し、過去・現在・未来を必然性で
管理機関となった人格 個
- 人が脱集団 外
= 在化された時間の偶然性にそ
のつどフレキシブルに対応していく現在志向の時間意識が出現してき
国民を受動的な犠牲者として構成することは効力をもっており、西ドイ
ツは比較的堅固な国民共同体を築くことに成功したといえよう。
ところが、西ドイツ国民が主権を回復し、西側同盟国として再軍備を
か ら Sacrifice
へと転換
決 定 す る と、 国 民 史 の 解 釈 の 重 点 は Victimhood
していった。ヒトラー暗殺未遂事件を起こした﹁七月二〇日の男たち﹂
はヒトラーの暴虐からドイツ祖国を救おうとした英雄として評価され、
ヒトラーの無謀な戦争の犠牲者︵
た時間の持主は、必然性によってつなぎあわされた歴史にむしろ恣意性
歴 史 意 識 の 産 物 で あ る と い え よ う。 い ま や 偶 然 の 連 鎖 と し て 意 識 さ れ
モダン主義者のいう﹁大きな物語﹂喪失論は、まさにこのような時間・
つなぎ合わせ、能動的に歴史を構築していく英雄・犠牲︵ Sacrifice
︶史
観によって国民形成をめざす歴史意識は魅力を失っていった。ポスト・
︶者とし
戦友共同体のために戦い、命を捧げた能動的な犠牲︵ Sacrifice
て描かれるようになっていった。その典型的な人物が、暗殺計画にかか
の臭いを嗅ぎだした。歴史は人間によって能動的に構築されるというよ
五〇年代に数多く制作された戦争映画のなかで国防軍兵士は、たしかに
わったとしてヒトラーから自殺を強要された﹁砂漠の狐﹂のロンメル将
りも、むしろ外在化された存在として人間を翻弄するものとして感知さ
︶ではあったが、祖国あるいは
Victim
軍である。このような意味転換をできなかった犠牲者集団、たとえば東
へと意味転換できなかったために忘却
Sacrifice
方から強制的に追放された数百万の移住者や空襲犠牲者はむしろ忘却さ
︵ ︶
ドイツ人がホロコーストの加害者であっただけでなく、 Victim
でもあっ
た こ と が 強 調 さ れ、 そ の 是 非 を め ぐ っ て ド イ ツ 国 内 外 で 様 々 な 論 争 が
運命の日﹄などをめぐ
F・ ヨ ル ク の﹃ 火 炎 ﹄ や 映 画﹃ ド レ ス デ ン ―
って空襲犠牲者の記憶が新たに呼び覚まされている。このことを通じて
ラ ス の﹃ 蟹 の 横 歩 き ﹄ な ど を め ぐ っ て 東 方 か ら の 被 追 放 者 の 記 憶 が、
さ れ る 傾 向 に あ っ た 集 団 が、 近 年 に な っ て 自 ら の Victimhood
体験を政
治的に主張できるようになった。すなわち﹁反追放センター﹂やG・グ
から
また、 Victimhood
に 共 感 が 寄 せ ら れ る よ う に な っ た の で あ る。 こ こ
れ、 そ の Victimhood
に︿ホロコースト﹀の誕生の背景をみることができる。
︵ ︶
はその偶然性と受動性ゆえに積極的な
れる傾向にあった。 Victim(hood)
意味を失っていったのである。ホロコースト犠牲者が積極的に歴史的な
主体として想起されにくかったことも、そこに起因している。
ここで、能動的な犠牲者像はフォーディズム的な時間意識とうまく合
致していたことを指摘したい。つまり、過去・現在・未来を有機的に結
びつけて、遠い未来に設定された集団的な目的を達成するために現在と
未来の間を計画によって組織していく時間意識である。過去・現在・未
来のつながりがすべて偶然性によってつなぎあわされている時間意識の
なかでは、人間とその共同体は過去と断絶したまま、予測不可能な未来
に向かって現在を生きなければならない。過去と深く結びついて安定し
ていながら、能動的に集団的な未来を達成していく人間の理想像を作り
よりも
展開されている。このことは、現在のナショナリズムが Sacrifice
の理念と結合する傾向にあるという世界的な現象のドイツ版
Victimhood
46
45
ゲシヒテ第2号 16
だといえる。このような現象は︿ホロコースト﹀の誕生と同じ構造的な
二〇〇三年。
エル ノ
﹃ メ デ ィ ア 史 研 究 ﹄ 第 一 四 巻 第 四 号、
- イマン論争の意味﹂
︶ このドラマに関しては石田勇治﹃過去の克服﹄白水社、二〇〇二年、
二三〇 二
- 四二頁を参照。
︶ こ の 点 に 関 し て は 拙 稿﹁ ホ ロ コ ー ス ト の 物 語
占 領期ドイツにおけ
―
五〇年代以降におけるホロコーストの表象﹂
﹃立命館
―
る記憶と表象﹂
﹃立命館文学﹄六〇四号、二〇〇七年、
﹁アンネ・フラ
ンクの笑顔
Elisabeth Noelle-Neumann / Burkhard Strümpel, Macht Arbeit krank? Macht
Elisabeth Noelle-Neumann, Werden wir alle Proletarier?, Zürich 1978.
︵ ︶
︵ ︶
Die Presseberichterstattung in Israel und Deutschland zwischen Aneignung
Birgit Schenk / Akiba A. Cohen / Tamar Zemach, Holocaust und NS-Prozesse.
Hanno Loewy (Hg.), Holocaust. Die Grenze des Verstehens, Jürgen Wilke /
Vgl. Norbert Frei, „Auschwitz und Holocaust. Begriff und Historiographie“, in:
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
Noelle-Neumann / Strümpel, Macht Arbeit krank?, S.272f.
Noelle-Neumann / Strümpel, Macht Arbeit krank?, S.260.
Noelle-Neumann / Strümpel, Macht Arbeit krank?, S.202f.
Noelle-Neumann, „Störfaktoren“, S.111.
Noelle-Neumann / Strümpel, Macht Arbeit krank?, S.190.
Noelle-Neumann, „Störfaktoren“, S.102.
︵ ︶
Deutschen Soziologentages in Bamberg 1982, Frankfurt am Main / New York
Joachim Matthes, (Hg.), Krise der Arbeitsgesellschaft? Verhandlungen des 21.
装置として分析しなければならない。
て扱うだけではなく、それ自体をイデオロギー装置、あるいは国民化
︶ その意味で世論調査は﹁現実﹂把握のためのとしての資料・史料とし
︵
in: Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie, Jg.37, 1985.
Arbeitsethik und „vergiftetem“ Arbeitsleben als deutscher Sondersituation“,
Mehr Mythos als Realität? Von sinkender Arbeitszufriedenheit, schwindender
Rundschau, 2.8.1983. Vgl. Karl-Heinz Reuband, „Arbeit und Wertwandel –
Heft 26, 27.6.1983, Frankfurter Allgemeine Zeitung, 14.5.1983, Frankfurter
über den Fleiß der Deutschen“, in: Die Zeit, Nr.26, 24.7.1983, Der Spiegel,
Erika Martens, „Was ist faul an der Arbeit? Zwei Wissenschaftler streiten
der Deutschen“, in: Capital, 9/1983.
Noelle-Neumann, „Störfaktoren. Capital-Erhebung 1983. Das Arbeitsleben
Arbeit glücklich? Eine akutuelle Kontroverse, München 1984, Elisabeth
7
und Abwehr, Köln / Weimar / Wien / Böhlau 1995, S.121.
史学﹄二九号、二〇〇八年を参照。
︵ ︶
基盤にもとづいており、ポスト・フォーディズム的な時間意識への変化
にその背景も見いだすことができるということも、本稿の結論として付
け加えておこう。記憶をめぐるこれらの問題は、﹁生の政治﹂のなかで
これまでとは構造的に異なる国民形成が遂行されていることを示してい
るのだ。
︵
注
︵
︶
︶
8
Ronald Inglehart, “The Silent Revolution in Europe”, in: American Political
ノ
―
政治意識と行動様式の変化﹄東
―
︶ 佐 藤 卓 己﹁ メ デ ィ ア 研 究 に お け る﹁ 過 去 の 密 輸 ﹂ を め ぐ っ て
洋経済、一九八七年。
輝男・ 富 沢 克 訳 ︶﹃ 静 か な る 革 命
ロナルド・イングルハート︵三宅一郎・金子
Science Review, 4 (1971),
︵ ︶ この点も注︵ ︶の拙稿を参照。
︵
︵
︵
17 ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
2
9
16 15 14 13 12 11 10
17
1
2
3
4
5
6
︵
︶
︵ ︶
︵ ︶
︵
野村正實﹁新刊紹介﹂
︵﹃岡山大学経済学会雑
Frankfurter Hefte, 3/1985,
Schumann, „Thesen zu „Ende der Arbeitstelung?““, in: Neue Gesellschaft /
さらに
in der industriellen Produktion, München 1984.
Horst Kern / Michael Schumann, Das Ende der Arbeitsteilung? Rationalisierung
Konturen“, in: ibid.
Horst Kern / Michael Schumann, „Arbeit und Sozialcharakter. Alte und Neue
und Arbeitsbeteiligung“, in: Matthes, (Hg.), Krise der Arbeitsgesellschaft?
Empirische Analysen zum Zusammenhang von unkonventionellen Werten
Uwe Engfer / Karl Hinrichs / Helmut Wiesenthal, „Arbeitswerte im Wandel.
1983.
Horst Kern / Michael
Steuerungskonzepte im Betrieb, Hamburg 2005, Jenna Voss / Günter Warsewa,
Umbruchprozesses“, in: Hilde Wagner (Hg.), ›Rentier’ ich mich noch?‹ Neue
neue Herschaftsform. Zur revolutionären Qualität des gegenwärtigen
Hamburg 2003, Klaus Peters / Dieter Sauer, „Indirekte Steuerung – eine
Marktregime – Konturen eines nachfordischen Produktionsmodells,
einer neuen Herrschaftsform“, in: K. Dörre / B. Röttger, (Hg.), Das neue
2001/02, Günter Bechtle / Dieter Sauer, „Postfordismus als Inkubationszeit
und Ambivalenz“, in: FiAB Jahrbuch Arbeit, Bildung, Kultur, Bd.19/20,
Günter Bechtle / Dieter Sauer, „Kapitalismus als Übergang – Heterogenität
in: Mitteilungen aus der Arbeitsmarkt- und Berufsforschung, 3, 31.Jg./1998,
2005.
︶ この概念と﹁労働力企業家﹂概念については
nehmer. Eine neue Grundform der Ware Arbeitskraft?“, in: Kölner Zeitschrift
Opladen 1997, G. Günter. Voß / Hans. J. Pongratz, „Der Arbeitskraftunter-
Subjektorientierte Soziologie. Karl Martin Bolte zum siebzigsten Geburtstag,
von Individuum und Gesellschaft“, in: G. G. Voß / H. J. Pongratz (Hg.),
alltägliche Lebensfürung – zwei subjektnahe Instanzen der Vermittlung
G. Günter Voß, „Beruf und
„Kapitalismus als Übergang“, 2001, Peters / Sauer, „Indirekte Steuerung“,
な け れ ば な ら な い。 こ の 区 分 に 関 し て は、 次 を 参 照。 Bechtle / Sauer,
ニズム的な福祉国家体制︵ 社
= 会フォーディズム︶としても理解され
はなく、その領域をこえた生産と消費を組織しようとするケインジア
領域の合理化であるテーラーリズム︵ 経
= 営フォーディズム︶だけで
︶ このように国民経済・社会の組織化をめざすフォーディズムは、経営
in der post-industriellen Gesellschaft“, in: Soziale Welt, 57, 2006.
„Reflexive Arbeitsgestaltung – neue Grundlagen der Regulierung von Arbeit
︵
︵
誌﹄一九巻三・四号、一九八八年︶
、小野隆弘﹁八〇年代ドイツ経済に
おける合理化と大量失業の間
ケルン/シューマンの議論を中心に
―
Mario Helfert, „Chancen neuer
﹂﹃長崎大学教養部紀要︵人文学会編︶﹄第三二巻二号、一九九二
―
年も参照。
︶ こ の 著 作 を め ぐ る 論 争 に 関 し て は、
Produktionskonzepte. – Zur Kontroverse um die neue Studie von Horst
Kern und Michael Schumann –“, in: WSI Mitteilungen, 3/1985, H. Kern / M.
Schumann, „Kontroverse um „neue Produktionskonzepte“ – Replik“, in: WSI
Mitteilungen, 6/1985, S.356-361, Wolfgang Fach / Ulrich Weigel, „Die Lücke
als Leistung. Über das lautlose „Ende der Arbeitsteilung““, in: Zeitschrift für
を参照。
Soziologie, Jg.15, Heft 2, 1986
Kern / Schumann, Das Ende der Arbeitsteilung?, S.19.
G. Günter Voß, „Die Entgrenzung von Arbeit und
︶︵ポスト・︶フォーディズムの分析全体に使用した参考文献として独
︵ ︶
︵
語文献だけをあげると、
Arbeitskraft. Eine subjektorientierte Interpretation des Wandels der Arbeit“,
24
25
18
19
20
21
23 22
ゲシヒテ第2号 18
︵
その批判として
für Soziologie und Sozialpsychologie, 50, 1998.
Gerd Mutz,
„Der souveräne Arbeitsgestalter in der zivilen Arbeitsgesellschaft“, in: Aus
Politik und Zeitgeschichte, 21/2001.
Karlheinz A Geißler, „Vom Lebensberuf
︵ ︶
Karl H. Hörning / Anette Gerhard / Matthias Michailow, Zeitpioniere. Flexible
Arbeitzeiten – neue Lebensstil, Frankfurt am Main 1990, Dies., „Den
Zeitpionieren auf der Spur: Flexibilisierung der Arbeitszeit undneue Formen
der Lebensführung“, in: Soziale Welt, Heft 4, 1990, Dies., „Der Lebensstil
der Zeitpioniere. Flexibilisierung der Arbeitszeit und neue Formen der
労働倫理および労働観一般に関しては
10. 84.
Mario Helfert, Wertwandel,
Techniken verlangen auch neue Tugenden im Beruf“, in: Die Zeit, Nr.41, 5.
Gerhard Schmidtchen, „Die neue Arbeitsmoral. Veränderte Aufgaben und
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
Hörning / Gerhard / Michailow, Zeitpioniere, 1990, S.145-163.
Hörning / Gerhard / Michailow, Zeitpioniere, 1990, S.100.
Hörning / Gerhard / Michailow, Zeitpioniere, 1990, S.141.
Hörning / Gerhard / Michailow, Zeitpioniere, 1990, S.7.
Lebensführung“, in: Gewerkschaftliche Monatshefte, 4, 1990.
を参照。
Arbeit, technischer Fortschritt, Wachstum, Köln 1986, S.14-43.
﹄ 文 化 書 房 博 文 社、 二 〇 〇 三
―
erstreckte
者は企業と市場のロジックへの従属の度合いを深めているネガティヴ
よって労働時間はむしろ拡張・強化され、雇用は不安定になり、被用
割に達している現在では、このような労働時間と生活全般の再編成に
で標準的とみなされていた労働時間以外で労働する被用者の割合が四
に評価された。しかし、労働時間のフレキシブル化が進行し、これま
他律性を打ち破る可能性の観点からこの人びとはおおむねポジティヴ
ちが抱える問題が指摘されているものの、旧来のシステムの硬直性や
︶ 九〇年の﹃時間のパイオニア﹄研究のなかで、この﹁パイオニア﹂た
Main 1993.
Eigenzeit. Entstehung und Strukturierung eines Zeitgefühls, Frankfurt am
︶﹂ が 出 現 し て い る こ と を 指 摘 し て い る。 Helga Nowotny,
Gegenwart
未来のカテゴリーが姿を消し、代わって﹁延長された現在︵
年 も 参 照。 ま た、 H・ ノ ヴ ォ ト ニ ー は 時 間 の 哲 学 的 論 考 の な か で、
生活史に見る時間意識の日独比較
︶ ベック夫妻の議論に基づく伊藤美登里﹃共同の時間と自分の時間 ―
︵
der Person“, in: Aus Politik und Zeitgeschichte, 34/2007, Voß, „Die
Entgrenzung von Arbeit und Arbeitskraft“, 1998.
Voß, „Die Entgrenzung von Arbeit und Arbeitskraft“, 1998.
︵
Kerstin Jürgen / G. Günter Voß, „Gesellschaftliche Arbeitsteilung als Leistung
を参照。
Zeitschrift für Berufs- und Wirtschaftspädagogik, Bd.90, Heft 6, 1994
zur Erwerbskarriere. Erosionen im Bereich der beruflichen Bildung“, in:
︶﹁ 職 業 ﹂ と そ の 変 化 に 関 し て、
︶
︵ ︶
︵
︵ ︶
Guido Mehlkop, „Methodische Probleme bei der
Engfer / Hinrichs / Wiesenthal, „Arbeitswerte im Wandel“, S.447-451.
nachtraditionalen Gesellschaften“, in: Leviathan, Jg.23, Heft 3, 1995.
Vgl. Peter A. Berger, „„Life politics“. Zur Politisierung der Lebensführung in
2000.
zwischen 1970 und 1997“, in: Zeitschrift für Soziologie, Jg.29, Heft 3, Juni
Zeitreihenanalyse der Wertorientierungen der westdeutschen Bevölkerung
„Gibt es einen Wertewandel hin zum „reinen“ Postmaterialismus? Eine
für Soziologie, Jg.29, Heft 3, Juni 2000, Markus Klein / Manuela Pötschke,
von Untersuchungszeitpunkten und der Einfluß wichtiger Fälle“, in: Zeitschrift
Analyse von Wertvorstellungen und Wirschaftswachstum. Effekte der Wahl
︵ ︶ この議論の総括に関しては
︵ ︶
︵ ︶
19 ポスト・フォーディズムの時間・歴史意識
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38 37 36 35 34
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32
な実態が強調されている。 Vgl. Kerstin Jürgens, „Die Ökonomisierung von
Zeit im flexiblen Kapitalismus“, in: WSI Mitteilungen, 4/2007.
技術に魅了された﹁サーファー﹂タイプ、コミュ
―
を 分 類 し た ヘ ル ニ ン グ ら の 六 年 後 の 研 究 で は、
﹁ギャンブ
―
Karl H. Hörning / Daniela Ahrens / Anette Gerhard, „Vom
︵ ︶ この用語に関しては注︵ ︶を参照。
の第八章を参照。
Lebensperspektiven, 4. Aufl., München 1986
Klaus Allerbeck / Wendy J. Hoag, Jugend ohne Zukunft? Einstellungen, Umwelt,
Dnmoskopie 1978-1983, München 1983, S.682.
Elisabeth Noelle-Neumann / Edgar Piel (Hg.), Allemsbacher Jahrbuch der
を参照。
Welle, Berlin 2003
ung der Neuen Deutschen Welle, Freiburg 1988, Didi Zill, Neue deutsche
Winfried Longerich, „Da Da Da“ Zur Standortbestimm-
Zeit“, in: Soziale Welt, Jg.47, Heft 1, 1996.
Wellenreiter zum Spieler. Neue Konturen im Wechselspiel von Technik und
が見出されている。
ラー﹂に類似した﹁パイオニア﹂の時間観念、とくに現在・未来観念
ラ ー﹂
ニケーション志向の﹁懐疑家﹂タイプ、時間を巧みに操る﹁ギャンブ
タイルのタイプ
︶ 技術・コミュニケーション・時間のテーマにそって三つのライフ・ス
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶ NDWに関しては
︵
40
41
42
43
46 45 44
︵
―
︵たかはし
ひでとし・立命館大学教授︶
戦後ドイツの東方国境をめぐる論争﹄新曜社、二〇〇八年を参照。
二〇〇八年と、佐藤成基﹃ナショナル・アイデンティティと領土
︶ 拙 稿 ﹁ グ ロ ー カ ル 化 時 代 に お け る 戦 争 の 記 憶 ﹂﹃ 図 書 ﹄ 一 月 号、
︵ ︶ 以上のことに関しては次稿で詳しく論じるつもりである。
24
ゲシヒテ第2号 20
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