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資料紹介
清涼寺兜政見沙門天立像の文様と寺院調査における新出資料について
はじめに
アジア宗教文化情報研究所では掛究計酉の一
として寺院所蔵の文化財仁関する調査・研究を進めているが、
な件前官見出し、およか新しい知見を得られたものも少なくない。
と思われる数例について資科紹介を行いたいと考える。まず清諒寺に関する
その過程において従来紹介されていない
謙
られたものである
c知恩院本造章駄天畿に関する知見は、平成四年度に当研究所で実施された国際シンポジウム
成口年度から平成四年度にかけて実施された清涼寺にお吋る未指定文化財調査およびその関連資料調査の際に得
新出資料および霊宝館安置・兜裁毘沙門天像(以下、特に明示しないかぎり﹁清涼寺像﹂と轄す﹀に関する知見は、平
ここではそれらの中から、持に
勝
﹁アジアをとおった仏教のさまざまな姿し関連特別展示における資科講査によってそれぞれ待られたものである
ことを記しておきたい。
6
7
近
(現状)
(1)
一O世紀に遡る作例として注目されている。脇手の
一 、 清 涼 寺 本 造 如 意 輪 観 音 半 蜘 像 団 1 ・z'3#4・5 ・6}
近年、持伊東史関氏によって紹介され、
の
t
ま
-冠苦・
は体幹部・
(彩色)
は龍村初である。
材だが、足先および裾部
られる。
はそれ以前の
彩色も議捕であり、ことに白味が強いためにいささか表情がよみとりにくくなっている点は惜しまれる。
の漆箔は近世の後補であるが、頭部の緑青はそれ以前の状態をとどめていると考えられる。眼に施された
状態をとどめていると考えられる。
さ毛第を刻んだ上から薄く乾漆を盛り上げている。表面の漆箔は近世の後補であるが、一捜部の
らく記ノキ材と
はカヤ材で作られている。木芯は興部と壊の接する付近に込めら
てた右足は体幹部と
一材よりなり、内制は認められない。麗は本腕・脇手ともに両肩
-理培、持物・光背・ム口産は後補されている。
後補され、現状で左足先は遊離している。背面で左肩から右震に向かってかけられた条吊の揺り返しも到材で後
補されている。
{
関 1 ・4 ・G}
木造・彰謀、
で矧ぎつけられている。膝頭を
の
れ、頼からは外されている。撃と脇手・藤詰はお材を矧ぎつける。後補部はお
に数撞訴の⋮一一角材をあてる。造立当初の
ろ
し
の
68
清涼寺兜政毘汐丹天立像の丈隷と寺院調査における新出資料について
︿製作年北)
九世紀末;一 O世紀
胸輿約ニ五・四
頂ー顎一一一七・一
(矧面まで)
左藤奥五
一O田・四
面奥ニ一了二一
援奥約二七・
ム口肱奥行七0 ・七
面長一六・
と彫りの深さは減じながら、張りのある肉身のもつ止架軟さと
台座上面から右膝頭まで問題・九
。七・五(光背・ム口座含む﹀
※以下、単設はすべてセンチメ iトルとする。
総高約
髪襟高八一・九
語幅約一四・九
七
台産幅九四・七
一層張詔一
(所見)
ための平問一部が見られないため、
ある。 かつては大阪・観心寺如意輪観音橡のような鮮やかな彩色が
げている。おそらくかつては神護寺・五大患空蔵菩躍坐設や観心
の軽量なものであったと考えられる。
寺如意輪観音像に見られるような、透かしの入った欝型宝冠を頂いていたのであろう。地髪拡は宝冠を閏{必ずる
JJJM
頭部{図 5} は 筋をすいた抑留を高く結い
接されていたのであろう。
の乳合いを立体に写した印象が明瞭
とがこれを裏付ける。平安時代前期の真言密教膨刻に見られる、長茶羅や盟像に措かれ種官龍的と形容され
京体物としての存在惑を的確に捉えている{図 2 ・3可 全 体 の 彫 り の 浅 さ に 比 較 し て 、 倒 語 の 奥 行 き は 深 い
全体の作風は、九世紀彫刻が有するほどの
九
面部{図 5} は全誌に角の取れた四角い輪郭を呈する。髪際はほぼ直線で広く、顎先が紹く尖らず丸みを帯び
6
9
耳
張
した密教彫刻らしい感が強い。次に援球の輪郭について述べよう。上目芸品の線は、
一Oま紀半ばの京都崩
ι沿ってゆるやかに目尻まで寵線を描いている。下E葦
の議に接する以外は眼球のカ!ブ
る点はいかにも国像を忠実に
E頭で急角度に
の綾は目頭からやはり眼球のカ iブに沿って、こちらはゆるやかに目尻まで弧綾を描く。
められるようになる、下弦の月のような強い下向きの輪郭とは大きく形状を異にする。この
せる。制作年代を誰溺する
がる村近からこの平
で一つの手がかりとなろう。鼻筋は弱から伸びた綾が
の作例がそのような設の輪郭形式が形成される以前の作であるか、そのような流行を取り入れない作
辺の賂溺に顕著に
事実は、
も
こ
工っこ
V 4 J f φ / とを予想
は平声一簡を作っているが、鼻先へと続く隆起が立ち
への起伏は
りが大きい。このような特殻は、鼻先のみ
に塁線を用いて鼻第の隆惹は隈で表す仏一顕の表現を踏まえたものと言えるかもしれない。
がなくなる。鼻先は鼻筋が目立たなくなることに比較して小鼻の
交差し、両日の間にいたるあたり
の
しており、先端の一部
に心地よい姿である。
ち現れ、ゆったりと
接復が認められるが全体に
るだろう。眼の下から両頬にかけての載は軟らかい張りがあるものの、観心寺如意輪観音壊の同
よりはやや嘆くなっている。耳染{図 2 ・3}
先端へと誇りていく様子は
はこのため、外側に開いて立てられた右膝の舗面
ι
の肉体の流れは・自然であり、加盟⋮理な表現がない。作家が人体の構造を
深く理解していたことが読み寂れる箇所である。右手の
{
図 2}。 脚 部 か ら 頭 部
ι いたるこの
プロポ iションは右膝を外に開いて立て、それにともなって壊と上半身・頭部をいずれも軽く右拡制している
した弧を描い
はよく当初の形状を留めている。耳孔付近から断面の丸い軟らかな耳殻がほどけるよう拡
:
v
仁
れていると
この部分の表現は摩すぎることも無く、またあっさりとしすぎることもなく、適度にこまやかな形状に彫り出さ
浅く、上唇は突き出されることはなくかすかに両端を持ち上げ、中央部は少し尖らせて下容κ軽く合わせている。
カ
ミ
家
70
j
脅i
宗寺兜蹴毘沙門天立像の文捧と寺院調査における新出資料について
直観になっ
は頭部を布
傾けているにもかかわらず、
見するとそれ一はど
預ければ、礼拝対象とし
いないことであろう。これは単純に上卒穿を右に領けるだけではなく、通常の坐像よ
肘を立てて掌を頬にあてがっている。注目すべ
くつろいだ
ι倒しているためである。平田的に体全体を右
りも若干襲を後ろに引いて、山内を話方
れたポ iズ合充分に理解して、これを的轄に立体に
し、かつ
あてる姿を平出で見えやすくするために、若干斜めから描いた講躍であらわされるこ
てあまりにも緊張惑を欠いた姿となってしまうことを避けた処置であるかもしれない。長茶羅や仏簡でも如意輪
観音が膝を立てて頬に
とが多い。この作例はそのような平吾
するため広、平面表現特有の約束事でみめる顔
観では礼拝対象としての緊張惑を失わない適度なバランスを探っているのである。しばしば指捕されることだが、
初期の真⋮⋮⋮日替教彫刻では斐奈羅や図橡に描かれた尊棒を影像
はそのよ
の側面をみせるために頭部を斜めに向けたり、前に突き出している腕の構えを見せるために、わ、ざと左右に腕を
ふっているという表現方法を、機械的に立体に適用している場合がある。東寺講堂の不動明王坐像な
に入るよう
(八九
あまり隔たらない
記蔑されている。右膝には韻式衣文がみとめられる
とで、護部から腰・興部にいたる足の組み
方で知意輪観音持有のくづろいだポ lズを再現してみせた作
理解が深まるにつれて次第に姿を減らしていくが、清涼寺如意輪観晋半旗像もそのような理解
うな表現を行った一例として良く知られている。このような平田上の表現技法を立体に適用するというあれノ方は、
密教尊像の形態
が浸透したころの作剖であろう。
で自然に
るを得ない。左の膝頭を地に着ける
しかしながら尊設としての品諮を保ち・ながら、
家の力量は非凡であると
合わせや裳の搭き出す衣文の流れ
ことと合わせて、製作年代は清涼寺の前身寺院である棲震寺が創建された
墳と考えられる。
71
図 l 如意輪観音半髄橡・清涼寺
ア2
清諒寺兜政昆沙門天立f
象の文謙と寺院調査における新出資料について
図3 開背面
国 2 間左{患部
国4 問左斜面
7
3
国S 岡田
図6 同底面
7
4
清涼寺克駿毘沙門天立畿の文様と寺院誤査における薪出資料につい
(現状)
、 清 涼 寺 木 造 毘 沙 門 天 半 蹴 像 冨 7 ・8 ・9 ・mw-H・と
は後補
れている。
び輪郭などを措き
がっている{密口︼。両腕の海老篭手の一部など、
にわたっておそらく近世議半の分厚い彩急が施されている
拡わたって
彰橡としては珍しい半蜘の毘沙門天像である。
が、面部には顔料の表面に亀裂が入り、広い
後補の彩色が剥落している箇所から本来の彩色を窺える部分がある。両眼は近世修理以降に
こんだらしく、本来の造形を読み取りがたくなっている点は増しまれる。光背・持物・
︿構造)︻国防 -M}
いでいる較が見え
る。再膝奥には一二角材を寄せる。材の
際に葉通したらしい穴
た貯先と手先を別材と
部内弱を行つ
材を寄せ、膝前に一材を別に寄せる。碍腕は一肩先より別材。胴との矧面には
している。在捜部には
構造は棒幹部に前・中・背面の
おそらくホゾによって
る。膝前材は三角材によって腕に閤定される。
とし警
部を矧いで
る締緒の付近
る穴がうがたれているが、この意関は不明である {図日}。
は一段目と二段畠の聞で
内部は丸刀であらく内判別されている。踏み下げた左足は藤先の下端から別社となっている。
の両脇には内割にまで
の前で斜めに面部を割れノ放ち、内制を捷している。二段に垂髪を重ねた
いる。わずかに聞かれた
もっとも注目すべき点は上半身の処理句、橡底から観察したところ、胸と悪銭の中間に
半身の鵠から上をや
や左を向いていることを考えると、それに合わせて上半身にも捻
で上下に観り放たれている。なぜこのような処理を行ったのか意閣が読み或りにくいが、
や左鰐に振りたかったのであろうか。頭部が
ア
う
t
ま
挿
は見えない。
ちを加えることは可能性の為る処置であるのただし、現状では外晃でそれほど胸よち上の体部が左右どちらかヘ
撮られているよう
-その他部泣は群青と朱などを用いた槌彩色の顔料で彩色する。開校広
するために親を上下に分割し、それぞれ熱置を施したという可能性である。
めに腕を前後拡割り放ち、ここに別材を挟み込んでいるが、この処置の緊にノミがうまく入らな
裂の可能性として、胴部の奥行きが不十分であったと思われたためにこれか}修正した擦の熟理ではなかろうか。
奥行きを増す
かったのか、割り放ちを容易
(彩色)
期粉下地を作り、既を肉急・髪は
部に金箔を押す。いずれも近世修理の際の処重であるが、
(矧面ま
一七・四
面長一 G-四
︿左足先より旗頭まで)
から、造立岩拐の彩色を二郎観察することができる。
は⋮部盛り上げ彩色が認められる。天冠全・胸平など
像高八九・
腕の海者篭手部には、後請の彩色が剥落した
(製作年代﹀
二世紀
総高約九九・二光背・台座含む﹀
捺奥一一一一・七
九
五・
顎
話奥一三・一一
頂
※右膝下より頭頂までは
腹奥一八・六
一
.
一
一
一
髪際高四五・七(合躍上面より﹀
面幅入・九
右藤高九・一
耳
張
7
6
清涼寺兜按毘沙門天立像の文識と寺院調査における新出資料について
(所見)
白描関像に、両牒を立てて座る
匹の邪鬼の頭部に震を
ろして片足を踏み下げる毘沙門天が見える。おそら
くこの作例もそのような関像に散ったもので為ろう。ただし現状で脚部は台産の天板に接するあたちから内輔が
とに毛第を揖り込んで結い上げている{留日}。地髪
施されており、この部分のノミ痕は造立当初のものと考えられるので、 はじめから上部が平坦な会産拡据えられ
ていたのであろう。
は前述のように二段拡垂髪を表し、地髪とともに
7
s酔
っている。眼は眼球の膨らみが大きいが輪郭は小さく、
には筋肉の隆起が表される。口は軽く開けて上識を
・ ﹂キ
の上で思出する天冠台を表す。面部の輪郭はやや面長な円形で、頬が丸く張り目鼻立ちは顔の中心に寄
立口、
υ
π f'v
の一向端から両頼の下にかけては筋肉の隆起が刻
ι髭を刻んだ瀦
めで弾力感のある耳采を形成している。
暖かせ、その両端は先述のように内引にまで達する穴がある。
いる。耳の輪郭は小さく耳染は貫通しない。耳殻は
にいたる海老篭手をまとう。比較的小
によって固定される形式で為る。腰帯と前楯は苦喰
い籍甲と、襟元には竜頭を付ける。腰甲は大き
一二世紀後半という製作年代を予想させる。殊 臨部にこまかな筋肉の隆起が表され
となるであろう。
ることや頬に起伏の認められることは、定朝様の規範から抜け出しつつある表現ととらえることもでき、
これらの形式的特識は、
ι
ιよって呂定される。下半身は腰甲と軽申を村け、者を履く
く、鵠乳の下端ほどから始まる。腰甲は竜頭から伸びたベルトと鵠と腹部の境をしめるベルトで、円環型の締め
噛を表す。両読に
申由同は言もと拡衣をつけ、冊一屑に龍素な一騎甲を付ける{図 7 ・8 ・9}。その下には口の両賜
ま
当弘陣の系統を検討する上で一つの
c
77
れ
78
清涼寺兜按毘沙門天立像の文様と寺 i
莞調査における薪出資料について
院8 I
司左側面
79
弱音E
、
も
J
時岬雌謀議
1
2 開底面
80
(現状)
一一一、清涼寺木造地蔵菩薩半蜘像{留日・弘・日・日・ロ・
後議の享い彩色によって作風が読み取りにくくなっているが、
全鉢に影れソ毘が荒れたことがあったらしく、彩色は
衣文諌がほとんど見られず、左前腕部にかけては
設紀の農派じ
られる。
い仏師の作と
mm}
いもあったと
と拡台駿は
られる。
とに殺部 い
yは
であたり線が引かれているこ
のつながちが不分明となっている。おそらくこの部泣がも
-持物は後補で為り、
もの匂ある。
っとも荒れが広く及んだのであろう。
'MW
・時}
とから近托以誇の製作に補われ
{図日・日
せ、膝前と裾先・袖先と腰奥にそれぞれ別材、を当てる。像底より胎内を観察すると、了
をきれいにさらえ、 さ ら に 現 在 で は 黒 漆 仕 上 げ と さ れ て い る 。 こ の た め 像 は 全 体 に
みが薄く仕上、げられており、法国軍に比較して非常に軽量である。漆が塗られた時期は不明であるが、像内
に制りを雄したあとノミ
体幹部は前援
れ
眼を蹴入している。日は現状では
衣 部 分 と は 分 離 し て 踊 に 差 し 込 ま れ て い る ︻図口}。すなわち頭部から襟元までの肉身部と
細い輪郭とな
とが構造的
頭部は分厚く擁された後祷の謂桧のために矧閣を判別しがたいが挿し首とし、さらに諜元までの肉身部分は
処理も造立当初に為された可龍性が高い。
を聖なる空間と見散して納入品を安置するために荘厳する事例は、すでに平安後期から見いだされるので、この
材
の
にも区分されている。おそらく耳前にて前後に矧ぎ、
8
1
文様と毛筆院調査における新出資料について
i
青諒寺兜蹴毘沙
っており、 また
りがなく透明震が高い。このため
された左足先も別材である。
︿彩色)
九苦紀半ば
は近世修理の際に磨かれたか、新しいものを入れ
に檎彩された可龍性が高い。議表面が非常に
議志家の寄討を得て堂場や仏像の穆理が一斉に進んだ
下地に軍く萌粉を塗れソ、その上に彩色を撞している。春にも期務下地の
から柏衣の端を袈裟の
に柄衣をつけ、袈裟をまとっているだけの姿で
らし、右前艇には袈裟の講を懸けているようだが、腹部からの衣文
われている左腐上部が
の前衣であると考えられ
らしく、誌の前面
り分けられているだけで、彫刻としてはまったく彫り出されてい主い
から語腕部にかけての衣文畿の連続性をまったく挺損して彩色で袈裟と檎衣を強引に描き分けている。
とは袈裟と檎衣の境界部が彩色で
確認できる{図日・路}。袈裟や左肩には胡粉による盛り上げ存在が施されているが、経年変化に
よって剥落している部分が多い。
ことで容易
この
では
に釣紐をかけている。このため袈裟で
あったようだが、 おそらく近世移理の際に担当仏師が着衣の構或を誤解したらしく、現在は袈裟の途中か
線の連なりが不嬰確となっている{間同・日}。本来は下衣の
うである。
蕩んだ時期があったらしく、説絵を厚く惑わソ上げている処置は荒れた彫り凱を整えるという意味合いもあったよ
時期があるため、先の毘沙門天半蜘像とあわせて本持例もそのと
の彩色が施された時期であるが、清諒寺は
から後補の朱が施されている。後樟
撞端な細い彰状となったとも考えられる。再一屑は別材を寄せ、両手首は別材である。半臨して藤前にかるく伸ば
なおした可能性が考えられる。このとき本来の眼の輪郭が傷んでいたので、これを修理した結果、現状のような
5
長
82
清涼寺兜蹴毘沙門天立像の文様と寺院調査における新出資料について
︿製作年代﹀
二一世紀揺半
(法回一塁)
0 ・四
右膝商
清張
まで)四
総高豹一三三・二一(台産含む) 像高八二・七
面長一
耳張一一0 ・
一
一
頂 i 顎一一酉・六
富幅一五・六
援奥
藤張六
いわゆる半蜘の臨法をとっている。このような姿の地蔵像は康慶作として著
一三世紀に流行した形式でみめったと考えられる。先にも述
い後殖の彩色は、特に肉身部における像表富の荒れを毘化するための措置という意味
ιもみることができ、
四・四
胸奥一一一・七
に擁され
J
¥
のまとい方に誤解が認められる。このような後播部分を除外して考えると、像本体は比較
-端林寺の作関
膝奥田七・九
べたが、
凹
と
られている。
れは平安時代稜期から鎌倉時
コ
ぱ
違を強調するための処理と考えられ、平安末期からいくつかの作例が知られる。
と胸元を着衣部分と加につくれノ、窮に差し込む構造{図 M ・口} は、本来は生身で為るべき既と衣服の質感の相
されている可能性が高いが、もとの姿が有していた鎌倉彫刻らしいE元涼やかな品設はよく保たれている。頭部
的造立当初の状態をとどめていると考えられる。面部に関しては先にも述べたように持に玉眼と自の輪郭が修理
もあるようだが、
ろ
代に顕在化する、生きていると観念された仏橡、いわゆる﹁生身仏﹂としての表現方法の
8
3
一、
し
る
ろう。襟の後ろは
の
となく衣文殺が刻ま
とは、 かつてここに何らかの納入口加を封入し、像内を聖なる空間
O
らえて黒漆仕上げとしている
と看倣す意識が存在していた
と
にノミ眼を
れているのである。手がけた仏師の観察力と技量の冴えが窺われよう。造後銘は発見されなかったが、胎内を丁
まで気を抜く
りによって衣が既に密佐一相するため衣文線が生じないが、襟首にはわずか
者間も背中の援起と腰のくびれ、管部の張りを衣文の起伏によって忠実に再現している点は強い生気を警びた表
と
に空間の余諮があるため裁が発生する {臨時}。この環はそのような細部
現
84
清涼寺兜蹴毘沙門天立像の文維と寺院調査における新出資料について
盟1
3 建議菩寵半旗f
象
台
8う
臨1
4 [可左側面
関1
6 問左斜
86
清涼寺兜践毘沙門天立像の文様と寺院調査における新出資科 ιついて
国1
7 時加部
ど‘
1
8 同忠商
87
w
m
四 、 知 恩 院 木 造 露 駄 天 立 像 国m
札・
2
n
}
・
収続されている。光背および台座・持物の宝棒が後補される。両脚甲から背中にかけては
知思段集会堂に伝来した。
(現状)
現主は後請の厨子
鏑製の吊紐がかけられているが、左側は現在折損して別に保存されている。別材で作られた宕座の角が遊離して
には当初の華麗な彩色が保存されている。
おり、光背のが折損して補強されている。集本体拡った修理・損傷は認められず、保存状態は非常に
好である。全体に油煙で鼻音っているものの、 その
(構造)
の襟一克に
製作当初の影色が全面に良貯に保たれているため、不明な部分が多い。このため表一部観察によって推測するこ
ととなる。体幹部は前譲二材、頭部はおそらく耳後ろにて前後に割り矧ぎ、玉眼を鼠入する。これ
て胴に挿・両
とす
手
る。
先・荷足先は別材。頭部の兜・開腕の鰭袖と大袖・天衣・背面に垂れる裳先も
別材を寄せる。光背・山石塵了持物・兜の鍬型は後補か。
(彩色)
部に当一初の
まの彩急を窺
るため、将来的に穆理が有われれば造立当初の華
には油煙が当たらず、
全身に油嬉と挨が堆積しているが、その下には製作当初に施された萌粉による盛上彩色および切金・金箔が非
れは比較的簡単に註去で
常に良野な状態で保たれている。袴の衣文の内部や裳の
うことができる。これら後世のよ
88
清涼寺兜設毘沙門天立哉の文様と寺院爵査における新出資料について
一
・
ム
ハ
面奥一一一了九
知られる。
った理知的な表需を口正し
おれノ、この
いるが、表情に関しては来患のいささか正洋と
しい若者の姿をとっており、胸前ず
より伝えられた新しい
ホゾには琳事が貼られており、彩色の下地としてゆ叩貼が施されていると考えられる。銘文等は諜表面か
一環な彩色を眼にすることができるだろう。
また
らもホゾからも確認されなかった。
︿製作年代﹀
四世紀
一(台躍含む) 像商人五・一一一
一一一世紀後半 j
総高約一 。七・
(兜の罵庇より'顎先) 兜 接
面長八・
裾張一一六・六
左足奥約
腰張一八・四
右足奥一一・七
で)二回・一一
綾奥一六・四
一肩張
環!顎一九・七
五・四
台駆⋮結五一・入
一
一
面一陣約七・九
胸奥
足先関外側約一一一一了国
ム口産高一
足先関内側二五・入
︿所見)
一
が日本における古例とし
尊格で、伽藍の守護神として造像・安寵された。武装し
意駄十一人散は宋より一議来された泉鴻寺の作併な
一
.
となく、鎌倉初期に慶派によって確立された、 ひきし
のせている。この作例は傘駄天復の基本的形式をすべて踏襲し
した印象に倣う
8
9
し
四
点に拘様化が認められるといってよいだろう。やや上下に寸の詰った顔立ちであるが、践はほどよく見開かれ、
と龍、じあわ
が窺われる。わずかに片足
とした緊抜惑が込められてい
伸ばされ、姿勢に擦がない。者面に大きく垂れた
となく、 かづ輪郭も明瞭に彫りだされており、造像作家の高い
す ず や か に 切 れ 上 が っ て い る 。 口 元 は 上 容 が や や 大 き く 、 ゆ っ た り と し た カiブを措いて
いる。厚すぎる
はまっすぐ
ち姿の中にも次の行動に移らんとする
ι移行する様子を示すが、
を賭み出して動静
の処理・
条
る彩色の処溜も非常に叡た印象を持つ
れていないが、京都・正覚院の木造毘沙門天立像と身体各部の比率・
の輪郭などが酷似しており、 かつ現状で観察で
時代にかけての製作と考えられる。
(3)
仏師と名乗ることで作例の知られる﹁朝円﹂という作家銘が見えることが報告されておわソ、鎌倉後期から南北朝
ている。したがってこの意駄天橡も同系作家の手になる可龍性が考えられるだろう。正覚院の橡は足ホゾに
姿勢・
の作品と考えられる。作家名は現状で検出
れて以降、宋風彰刻の新奇な尊搭や表現技法が充分に岨噂された段階、すなわち鎌倉時代でも後期に入つ
もかかわらず、既に一種の和様化というべき表現が認められる。これらのことから鎌倉彫刻の表現形式が完成さ
の硬さが見出せる。また先述のように意駄天という、鎌倉時代に入ってから造像咋例の薙認される尊慈であるに
見出せず、表情・衣文・姿勢いずれも既に表現技法として完成された美しさとともに一穂の整理されているが故
る。しかし鎌倉初期の憂派作部がもっていた初発的な生命感や試行錯誤のためらしい大仰なまでの造形の薮綻は
裳先も足と同方向に翻っており、静か
れ
て
か
ら
9
0
清涼寺兜設毘沙門天立像の文操と寺院調査における新出資料について
図1
9 章駄天立f
象・知患院
9
1
関2
2 同右斜面
図2
3 向TIil部
間2
1 同背福
92
語涼寺兜蹴毘沙門天立像の文様と寺院調査比おける新出資料につい
五、清涼寺木造兜段毘沙門天立像と四天王像の文様について
を軽ても轍霞寺創建期の
の一角に、
に収載されているが、かつては
清涼寺阿弥玲堂に伝来した木造兜鼓毘沙門天立橡{図出}は、東寺一所蔵木造兜鼓毘沙門天立橡(以下、特に明一不しない
かぎり J
事布地保﹂と略す﹀の現在知られている最吉の模刻作間である。現在は
されたことに始まる。その後長い激動の
阿弥陀堂に伝来していた。諦掠寺は、平安時代の寛平八︿八九六)年に創建された源融の菩提寺・
世紀になって現本尊を安童する釈迦堂とし
れに清諒寺の安青一仏も漸次加えられていくとい
一の寺毘に伝えられる文化財の中には、その起諒が一一系統存在してい
{室温仏は開弥陀三尊橡をはじめとして姿を失うことなく伝えられ、
う現象があった。このため現在清涼寺とい
二世紀になって清涼寺が創建されて以降のものであるという
つの見解が存在している。このた
ることになる。本講で取り上げる兜按毘沙門天龍と四天王像{図M ・ぉ・ Mm-U} に関しても従来、語一議寺由来のも
のとする見解と、
め平安時代一 O世紀の京における基準的作例となりうる彫刻であちながら、その位置づけは不明穫となったままである。
本稿ではこの問題に関して、詳細な観察と赤外線カメラによる文様の確認によって得られた知見をもとに、新たな判
と清諒寺の歴史を概
断基準を提一不してみたいと考える。それに先立ってまず清諒寺の平安時代における震史的変遷を概観しておこう。
節
以下ではかつてこの問題を論じられた塚室長民の乱記をもとに平安時代における
9
3
第
観してみよう。
に伝えられる悶弥陀二一
である。融の家系、 いわゆる嵯峨源氏の菩提寺とし
﹃菅家文草﹄十二 J神高濃相公先考大臣扇語法会願文いによると、この棲霞寺阿弥陀蛍の本尊として覚平入(八
に造立されたものが
八(九鹿
の記事や、長徳田(九九人)年と長袈西(一 O O一一)年に観空寺との
を行って
の記録が知られている。これが現在の清涼寺へとつながる歴史の第一期で為る。
b
年、醍醸天皇の皇子重明親王が亡妻のために棲震寺新堂で一
であった離職源氏が早くに衰退したこともあり、一平安時代の史料にはあまり記録されていない。わ
ずかな例としては
とを示す
の釈迦立像を供養したよ γ
部王記
があった
った指棲釈
とを奏し、勅許
せて持ち
な名づけて清涼寺と号する
るコ立台山清涼寺﹂を建立することを念願し、
の晩年を終え
は勅許を穫
において、東大寺をはじめとする甫都寺院が延磨寺に対抗
璃に釈迦蛍を建てて安置し、この
ついで﹃小右記﹂ によると長和五三 O 一 年、東大寺増資然が没し、彼が宋で製作
迦場環を弟子盛算が棲霞寺の
から、愛宕山に栴檀釈湖瑞像を本尊と
を受けた。清涼寺の館建である。斎黙は宮廷内の
する
得してその夢は貯えられたかに思われた。しかし延暦守の強硬な反対じよって決定は覆され、
たのである。
ム口山清涼寺阿開架に語在
れた。
より賜った宋抜一切経を藤原道長に献納
しなかった部の壮大な夢を、当時の設にとってとりうる限りの現実的な方法で定着させようとした
O 一人)年、輔が宋の
の太政官符によって、
れており、東寺を本寺としていたことが判明する。東寺と東大守は空海が
一(一 O 一
九
﹀
〆
問
、
、
盛算は
と
ある。﹁講堂関白記﹄ によると寛仁一
』
土
している。その甲斐あってか被は
このと
L、
棲霞寺
てはすでに程使い場所に観空寺があり、棋霞寺は融個人の菩提寺としての性格が強かったかもしれない。しかし
九
よ
9
4
法涼寺開設毘沙門天立像の文樟と寺院調査における新出資料について
東大寺別当を勤めたことから関係が深く、盛算もこの縁で資然の弟子となっていたと考えられる。この一
(一
O
世紀
﹀年の記録では棲震寺に赴いて文殊菩磁畿を拝している。この文殊
になって、清涼寺に現存する作関として本尊釈迦加来立橡が揺わることとなる。また藤諜実資は盛算の存力な壇
越であったらしく、﹃小在記﹄
一)年に拝した文殊橡が彫刻ではなかった可能性も存在する。
後とは現存する文殊菩龍騎獅橡である可能性が考えられる。しかし﹃小右記﹄ では到の機会に実資が文殊の臨像
と十六羅漢橡を拝した記録も見え、長一冗一冗(一 O
つの見解
十六羅漢泊旅は今日宋画の名品と知られている作例を示しているのだ
造立キ代に関する
けを保
これらの史料では兎股毘沙門天立像*四天王像・十大弟子像・現在普賢菩薩とされる膏釈夫議などの存症を確
れ、その
一世紀の作と考
-帝釈天像を九世紀末から一 O世紀にかけての
ることが自然であろうひ作風的にも定朝様の影響を見て理ることができ、
認することはできない。この内十大弟子像はもともと現本尊釈迦立像の議侍として
って伝来したと
えて問題ない。
は残された作例で為る。兜股毘沙門天立像・西天
。世紀半ばから一一世紀
られる。嘘峨源氏の衰亡とともに経済的裏づけも失わ
ろの棲霞寺は、先にも触れたが観空寺と寺領争いを
寺創建期の作と見るか、あるいは一一世紀初頭における清涼寺創建期のものと考えるかで、現在は見解が大きく
二つに分かれている。ちなみに
操り返しており、経済状況はあまり余裕がなかったと
ほど遠くない
のことが推測される。すなわち現存する製作年弐の詳揺が判
の安霊仏として造立されるとすれば、経済的ι余裕の見られた創建男から
れていったのであろうっこのような状況からは以
明しない作例が
9う
う
域開上
部の作例
︿
5
﹀
れらの諸像を棲霞寺創建期のも
十世紀の影刻いにおける伊東史郎氏の克解が知られている。
められる
とに注目されて
つの例として捉えられている。また伊
(
6
)
一世紀のものと捉える見解としては松浦正昭氏の論考が存在する。氏は清涼寺像
ι施された文様を
。世紀末から一一世紀初頭
X線を用いた詳細な調査を実施され、その或果の一部を東寺像の原所在を論じた考察の中で紹介された。
わノ始めた
世紀ころ、根本中堂像に同じく兜践毘沙門天立散を安置していた延
一つの要点がある。後述するようにこの点は本稿と結論を異にする部分である。氏はさ
に注目が集
せたものと推脱されている。大変興味深い見解
によって鵠来されたものであり、一桓武天皇の構想した護国仏教興経策のシンボルとして平安京羅
安置されたとするものである。この毘沙門天橡が立東宝記﹄を姶めとする多くの史料に伝えられるよう
とされる)は
ではあるが、史料的な裏づけがない。氏の論考の主題は、東寺兜該毘沙門天諜(氏は子関毘沙門天と呼ぶべきである
謄寺の権威に対抗する意味から、東寺僧でもあった盛葬が模刻
らに東寺像の
のものと捉えるところ
氏の指摘される点は、今国本稿でも詔介しているような、像表面
につい
これとは逆
ι
自天王強と仁和寺一一天王像を挙げている。
東氏は東寺食堂の焼損した四天王橡に関して論じられた際、九世紀の京都における四天王議め作例として清涼寺
れることを指摘され、九世紀から一 O世紀にかけて流行した尊像構成の
いる。民は史料的裏づけのないことか 認
y めつつ、醍醐寺の関山盟主の関与した寺院にこのような尊橡構成が見ら
薩﹀像を加えた尊橡構成が、創建期の醍醐寺や平安時仕以降の石山寺本堂において
けた最初の見解でもある。氏はこの如意輪観音半蜘畿の存夜を重視し、これに兜援毘沙門天橡・宥釈夫︿伝普器具菩
紹介している新出の顛意輪観音半脚像を九世紀末から一 O世紀の非開として位麓づ
る近年の構宛としては♂日本の美栴
時期であろう、 とする見解には一定の説得力が認められるということである。
と
氏の見解は、本論におい
の
96
清涼寺兜銭毘沙門天立橡の文離と寺院調査における新出資料について
に、羅域内の荒震後東寺に移されたと氏は提えられているが、
ιよって靖涼寺が
れる移動の時期は、盛算
創建・整備されてくる時期とちょうど符合することとなる。棲霞寺と束中市リの関係は史料上からほとんど確認でき
ないが、清涼寺と東寺の接点は実捺にどのていどの交流があったかは不明であるものの、盛算の存在がそれ
付けている。事実、清涼寺は中世末期拡いたるまで真一一一一口寺院でもあった。現在東寺に伝えられている兜按毘沙問
るだろう。ただし松浦氏の論考の主題である
天橡が模刻される拡あたり、史料から読取れる状況として問寺の聞に何らかの接触をうかがうことのできる
世紀を造立・年代と推測することは一定の説得力を持っていると
東寺橡の原安置場所を羅域門上とする結論に関しては、奇しくも氏と同時期に東寺銭について、通説の棋拠とな
(
8
)
っている事象を起源に還って検討された関田健氏が結論を興にされる詳細な論考を報告されている。これによる
叫
とが確認されるが、これを溜って所在を特定することはできず、
においても兜蹴毘沙門天像の伝来*
と、東寺兜政毘沙門天立後(開田兵は﹁東寺毘沙門天倣いと呼ぶ)は吋勝語集﹄によって一一一世紀に東寺に
-F
lvφム
、
として紹介している
れる有名な農の安西城での毘沙門天出現
つの伝説を
されることの説明としては不明確な内容であった。後に流布本が出現するにあたって、毘
の編者果宝の草稿段階ゼは毘沙門天にまつわる
安静一経緯などは把握されていなかったというひ出維域門安置説の根拠と
説話に関しても、
ιこの橡
るようになった、門に毘沙門天
るのは
の縁によるのである、
沙門天像が門に安置されるととの必熱性をよれソ明確化するために、安西域に出現した毘沙門天の奇跡にならって
程度であり、門に
し
の域を詔えるものではない可能性いという袈本的な疑義が提示されたのである。ちなみに間臣氏は議涼寺
て本文中に挿入され、広く知られるようになったという。すなわち東寺兜践毘沙門天散の羅城門安麓説とは、伝
砦では門
て
お
し
ι対して松浦氏はその後新たな論拠を提訴されてい
の覆刻作慨に関しては持に言及されていない。関田氏の結論
9
7
2
ニ
ないため、本稿では東寺像は
一世紀以前においてはその安置場所が特定できないものとして論を進めたい。し
たがって本稿においては安置場所が不明で為るものの、現段措で判明している史資粧から盛算が一一世紀にこの
作関を模刻して清涼寺兎橡を造立させた可能性があるのか、という部分が問題として残される。
{浩涼寺兎政毘沙門天哉と四天王後の製作年代に関する見解}
-・・造立年代に関する史料は存しない
清諒寺﹄(淡交社)清本善一一一氏解説
①棲援寺創建期{寛平八(八九六)年}から O世紀にかけてと推定するもの
:::﹃古寺巡礼京都
十世紀の彰刻い
::国録吋釈期一信仰と清涼地﹄(京都国立静物館)解説
-・::伊東史朗氏 25本の美術
②消諒寺封建期{長和五(一 O 一 年}頃と推定するもの
:::松浦正昭氏﹁毘沙門天法の請来と羅城円安置橡﹂(﹃奨術研究ヒニ七 O号)
※兎政毘沙門天橡に関してのみ言及。地の尊像についての年代観は提示されていない。
松浦氏は清涼寺に所荘する倍の作例に関しては特に年代観を提示されていないが、前述した 伊東氏をはじめと
する見解では清涼寺に伝えられる平安時代の仏像彫刻に関して、ある程度 致した年代観が一不されている。すな
覆寺時代のものと考える点で一致している
で実際に清涼寺橡と四天王橡の文様や作風を検討し、本稿の克解を述
c この点が兜践毘沙門天像、を清涼寺創建後の作と考える松浦氏の見解
わち本尊釈迦如来立保や十大弟子立橡を絵けば、多少制昨年代に輯が生ずるものの、すべて清涼寺創建以話、棲
との主たる相違点となろう。それでは以
べてみたい。
9
8
第二節
れている。
︻
罷2 ・
m
}。宝冠の縁取と鳳嵐・
っか苓主している。頭部・背国の腰から
ιは裁金で斜接子文が描かれる
の構造
兜 政 毘 沙 門 天 復 の 表 面 観 察 所 見 と 文 様 園 川 子 部 ・ お2
u-m ・
ボミん邸
d
清涼寺橡は東寺保の模刻ではあるが、
4
主
勺
引カ
t
e
p
z
w
ふH
、
~'l
である。胴叩
{図赤外 1}。
ずかに輪郭を読み取ることができる。東寺像の臨は向かって忘方向を見ているが、
る{関赤外
m
M心。
を金箔り
橡の持国天・増長天橡に見
は上半身に金鎖中
られるものと
半載した宝相華{盟赤外 2} を描く。鞠当中心のベルトは裁金で二重縁の縁取を撞く。
には金箔を押す。
赤外 4} を墨書する。背罰{図赤外 5 ・5} はベンガラ地に
載した宝相華を描く。
}hv
、
を描く。縁に
の吊り輪を出している︻図赤外部守護当は粒子の粗い塑土で成形されている。ただし一部に盛るのみで、
する。腰の石帯は宝相華を象っているが、その中心
.
!
:
前楯は顔料で縁に二重の錠歯文、内舗に三つの円文(一つは半月)を描く。腔当は中心のベルトに金箔で
胸当の
る
条の火炎を浮き彫り
の
関
の
縁
延安まごつ£り、
門図仰} ま
ノ
U 主ヰ関ぃtnL刀 rvd/﹁
で
の文様は由来
考えられる。鼻孔や唇の端には白土らしき名残がある。撞は肉眼では不分明となっているが、赤外線によってわ
人の人物設には金箔が押される。甲習 Cは漆箔と裁金が施されているが、これらは造立当初からの彩色であると
地
これが造立当初の措置で忘るのかは不明である{園赤外出}。
9
9
会
、
資料について
罷調査における
清涼寺兜抜毘沙門天立集の文犠と
①東寺像(問自建氏の所見に基づく)
(本棒﹀
サクラ系広葉樹材・彩色・金箔
像表面はに麻帯を貼今、
(表甲/胸当こ部に隷
(背面)古色
(下甲/金鎖甲)金箔
の文様
(下半身の申縁取り)
縁地に
に彩色する。頭部には白土地を施すか。金鎖甲は彫りつけとし、 そ
像表面は全車に漆下地を施し、その上に彩色する。面部には邑土地を施すか。宝冠の縁と金鎖甲全部、
カヤ材・彩色・金箔
(本体)︻図赤外 1 ・2 ・3・ 4 ・5・ 6}
窃清議寺像{図 M-お・お・幻
-m-m- ぬ・出・詑 -mω}
︿面部/肉身)肌色、眼球に鉱物質の別材をま入する。(肩の獅噛みと接の苦食も眼球に別材)
(宝冠部)不明
(彩急)
の全部と腕部の海老議手、沓の表面など
の
100
清涼寺克設毘沙門天立像の文様と寺院謂査における新出資料について
腕部の海老篭手、下半身の軍、水閣の表面な
は上半身のみで
に金箔を押し、文様を墨描する。金鎖国 e
り上げ。大炎を彫り甘けた頭光は当初のものが
に大きな補修は認められず、彩色・金箔は当初のものが残
鬼の頭髪に粒子の粗い
描し、下半身は小札を糸でつづり合わせる様子を描く。晃沙門天頭部後方に乾漆盛り上げ、右腰後寄ち
と左襲後寄り及び足下の
残る。左手先と持物が後補される以外、
ると考えられる。
︿彩色)
れるが、
はほぼ完全に拭いさられており、
ιは切金で斜格子文を措く。
(宝冠部)縁と良川形、入物像に金箔を押し、さらに冠表面
左目も不明薙となっている。
(麗部/肉身)乳急もしくは白土か。眼球は彩色によって
(耳建表蔀﹀
められる。{図認}
︿表甲/胸当)金諮搾し。胸当てに半裁された宝相花文。帯金の髭に切金。
(北何回﹀赤地に禄青による蓮華文。
した筆慢い
は分析を進めていくこととする。
法諒寺像の文様に関する分析
制面の花形の中心に皮革裂のつングが残る。またこの亘近藤部に釘の露出が認められる{図お}
(下甲/金銭甲)金箔に文様を墨描。問中八王橡と
第三節
前節で検討した所見をもとに以下
1
0
1
現在ほとんど素地をあらわしているか
会ミ
見える東寺諜は、造立当初は金箔を多期した華震な彩色であった
︼
に見られない処理
ある。
から判明す
ι
コ
ー
一
一 uuHd
走者
誤 れる。全面に布張れノ下地を擁している点は、請宗寺像や奈長国立博物館兜該毘沙門天・立像(以下、特に明
しないかぎりは﹁奈長博像﹂と略す){参考 1 ・2 ・3 ・4 ・5
は、かつての東寺鎮の姿を想ばせるものと言えるであろう。
とに対し、
としている点である{関←郊外 1 ・
一方で大きな相違点として、東寺像や奈良博後{参考 1} では金鎖甲をレワ1 7として表している
清涼寺像では上半身は金鎖平を、腰甲では小札を緩り合せた様子をいずれ
の札の中心に緩ハノ糸をし、下からょに肉かつて際関なく譲り合せる禄子は、実轄の桂隅?を参考とした
ることなく器描としている点、これは東寺像の模刻の中では清涼
ことを推測せるが、なぜ下半身の甲のみ、典拠となっている東寺像と大きく異なる形式としているかは不暁で
の金銭甲を淳き移りと
められる処現である。
ある。ちなみに
にのみ
する仕上げ{菌赤外 1 ・m-M}
の制作年代と造形感覚には近しいものが認められる。
文隷の細部を彫り出すことなく搭き出すという手法は、四天王像と
あり、この点からもこの
した鐙状の部品が見えるが、この部世とその田辺に塑土が岡市いられている。
の粗い灰白色
さらに清涼寺像で注目すべきは腰申の一部に郎総理の粗い官盛れノ上げていること{間赤泊} である。襲の両
側ι石帯か
の仕上げに用いられるようなものではないが、この処置がいつ頃施されたものかはさらに検討されね
高い。今回の調査では修理の痕跡らしきものを岡部設から検出できなかったが、現状では明確な判離を下すには
に存在しており、この部位に後世大きく惨理が加えられていない限り、造立当初からの仕上げである可能註が
ば成らない問題である。今語観察できたところでは、この塑士は造立当初に措かれたと忠われる腰甲の撞物文の
の土は
と
で
ることは、裁金と金箔を多用している清諒寺橡の
の
102
j
毒諒寺兜蹴毘沙門天立後の文操と寺院調査における新出資料につい
できない。
されているため、
方で後世鯵理の際に苛われた処置である可能性に関しても保留
けに乏しい。平安時代にも主に奈良地方の木彫仏では塑土を鵠助的に使用している例が
造立当初の処置である可能性
しておきたい。
た、石苦の飾石部分ι皮革製のリングが残っている様子が認められる{密赤外日でこれは両腰に二錨所に
い。また
の付近には鉄製の和釘の頭部と考えられる小さな金羅棒が露出し
いる。
わたって薙諒される。その用途としては、 かつて剣のようなものを腰より吊るすため広、その吊革を懸ける支持
として使われた可能性
あるいは腰から吊るした剣を休部に届定するための処置であったのだろうか。兜政毘沙門天の図橡の中には鰹に
に見えるこの部位はそのような用途が想像される。
や細長い
の結い植物文が描かれる。文様単位の中に蓮華の花と
される。
一種の宝桔華であるのかもしれない。在は措かれてい
一応蓮華文様とみることができるが、実際の蓮ιは見られない
らしき顔料によって葉と
長剣を楓くものがあれソ、清涼寺後の
に、背面には赤地に
葉を鶴田より撞いたものがあるため、
葉が伸びている様子も認められ、単なる蓮華文ではなく、
J
ないが、茎と葉の細い植物文は接甲にも誌かれており 、
後述するように、四天王畿に見られる植物文は奈良・平安時代に一般的な宝相華であることに対し、兜践毘沙
際して描かれたとも考えられる
の状態をよく留めていると考えられる。このような点から、消諒寺兜践毘沙門天橡にみとめられ
には奈良時北弘来伝説話な半裁されたパルメット文による縁取りが搭かれておち、少なくとも脊面に隈
門天像の腰申と脊面に描かれた描物文は類例があまり見られない。議官の修理
っては
たい。東寺像のこの部位における文様に関しては、彰色の剥落や後世の大規模な修理に
る持接的な植物文の起、諒としては、車(拠となった東寺型政毘沙門天龍に施されていた文禄に倣っている可能性が
あることを指摘してお
1
0
3
i
J
;
図2
4 兜蹴毘沙門天笠像・清涼寺
関2
6 [苛背冨
104
議涼寺兎按毘沙門天立{象の文謙と寺院調査における新出資料について
冨2
9 問頭光
10う
図2
7 再頭部
関3
0 石帯の革製品ち輪
罷3
1 s
要甲
図3
3 s
要甲の釘
106
清涼寺兜駿毘沙問
参考 3
の文壊と寺院調査における新出資料嘆について
富部
参考 4 I
司 面部左側面
107
参考 1 克設毘沙門天像
-奈長盟友博物館
参考 2 向 背
間赤外線 1 克毅毘沙門天像襟元
図赤外線 4 鮭
当
間若手外線 2 間 縄 平 の 縁
国赤外線 5 背平の壊物文
国葬外報 3 前
楯
108
清涼寺兜践毘沙門天立{象の文様と寺院議査における新出資料について
よって確認しづらくなっているが、今後の検討課題としてのこ
められた文様宏観察することはできなかった。
王像の表部観察所見と文様
れるであろう。なお、
として東寺橡の二一
とはできなかった。西撃と
世紀頃における模刻と考えられる奈良捧壊の図版{参考 1 ・2 ・3 ・4 ・5} を許載しておくが、管見では
寺像に
第四箭
四天王震は両脇と背面にいずれも大きく鯵理の手が入っており、文様を検出する
ることは、先に見た兜裁毘沙門天像の文隷と非常に類似する処理である
G
また各札
もに甲上胃の札の形式を変えることで、群像としての表現が単調に揺ることを避けている。金箔のよから札を綴り
糸にいたるまで了箪に
{図赤外 8 ・
組ごと
の文様はいずれも甲警の文様と比較する
にはそれぞれ漆活を施した後、正面に荒い筆致で
はり兜践毘沙門天像のものと酷似しており、この両者の彩色を行った人物が向系統の技術
ぜる。ま
儒面じは宝珠{悶赤外 9 ・ロ・日}、が撞かれている。
とを予想
の文様咋その運筆が
を有していた
にv・
ハ YA順 守 ト 山 、
.
.2 4 1 1 必 蜘 Ja
τ
ん
と大胆な筆致を呈することが持徴である。 一見すると何の文様も施されていないかのように見えるが、
ιはこのような
に少しずつ蓮華文と宝珠の形式に変化をつけるという細やかな配患がなされている。平安時代
の一部には毛筋を表す絞金を置いていたことが確認できた
が確認されるが、中でも注目すべきは多開天像{関赤外u ・5 ・
れた援物文の形式は平安時代に遡る吉様{図赤外日・部︼奮を示しており、造立当初の文様、と考え
見すると無文の宝冠は類部が多いが、それらも本来は彩色で伺らかの文隷が描かれていたのであろう。また脇腹・
腰甲や震に
と口髭で
てよいであろう。また面部は、四腕とも自目と
初}で'ある。宝冠下部から覗く地髪の
109
四
{図赤外お・幻m
}。他の三軽からは今回越金を薙認で、会切なかったが、
ものであろう。
申
甲
甲
甲
・
れらも当初は同様の処置が
されて
そらく蓮華文官墨諾する。
は顔料で描かれ、男閣に
ιは三つの火炎宝珠が確認
段に大きく一一一つの火炎宝珠、下段に報い筆致で
で火炎宝珠を一つ描く。{間赤外 7}
下地は金詰とし、金銭甲を墨搭する。︻図赤外 9}
宝相華を措いた小札を並べるの つづれソ糸は謹認されない。腰の
とし、金銭平を墨描する。{図赤外竹山}
・
日
︼
UH
鎖甲を三
らしき痕跡がみとめられるが、
下地は金落とし、宝相花を描いた小札を並べる。花文部には頭科で彩色が施される。{図赤外ロ}
下地は
日 -M- げ}
MH'
下地は金箔とし、亀甲型の
文裁の全体は確認できない。{図赤外
2
馬
鎮料を重ねる。{図赤外諸}
ねて墨描する。金銭甲内は花文をあしらい、周聞に
(宝冠部) 下地は金箔とし、上段に大きく一二つの宝珠を描く。下段には
③広詰天綾︻図お︺{図赤外
要
目
月
間
る。{図赤外日︼
(宝冠部) 下地は金箔とする。正面部は文様の保存状態が悪く、左右の山部
②増長天像{園出}{留赤外日・ロ・日︼
相華を表す。{関赤外お︼
i
要 2
関
左おの山部に誌やはり程い
下地は金箔とし、
①持田天像{昌弘︼{図中部外 7 ・8 ・M
Gm︼
し
、
れ
110
i
膏涼寺子兜践毘沙門天裂の文隷と寺院調査における新出資料につい
留事外親 7 宝 冠 前 面
間3
4 持国天イ象・
i
盟赤外線 8
出赤外線 1
0 親甲の小札
111
宝思右側面
図赤外線 9 上半身の金鎖申
菌3
5 増長天{象・清涼寺
2 上半身の甲曹小札
陸恭外線1
間赤外線 1
3腰
甲
112
請涼寺抱蹴毘沙門天立像の文様と寺院調査における新出資料につい
扇3
6 広目天像・清;京寺
5
関恭外線 1
関部外親 1
7 腕甲の小札
113
左側面
関手タ主義 1
6 上半身の甲骨小札
図37 多開天像・清涼寺
国主幹外線2
1 口ヒゲの裁金@
図主幹外報2
0 日ヒゲの裁金①
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清涼寺兜政見沙門天立像の文様と寺院調査における新出資料について
図赤外線2
5 腰甲の小札と唐草文
図赤外線 2
2 宝冠左側面
図赤外線 2
6 左膝の亀甲文
図赤外線 2
3 上半身の甲胃小札
図赤外線 2
4 胴甲の小札
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下地は金箔とし、多角形の小札
から下に向かって並べて
する。裾部の縁故りは切り金で
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宝冠下部に除く髪と口髭、顎類の毛篇に切れノ金を撞す。{留赤外ω
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下地は金箔とし、羽毛上の小札を交互に並べ、 X字状のつづり糸でつなぐ隷子を墨搭する。︻図
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結びに代えて
本稿は資料紹介の体裁をとっているが、
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清涼寺橡の造立年代に
世紀の溝諜寺創建期のものとす
つの見解が提示されている。今回報告した所見では文様・作風形式から棲霞寺詣来の可龍性が撞めて高い四
しては先述のように接援寺由来のものとする説と
しては研究ノートに近い形式となっているため、最設に観察所見から得られた事実について怠見を述べておき
渚涼寺木造兜践毘沙門天立橡と四天王像の文様についてしに関
部) 亀甲文の中に花文を描いた物を並べる。{関赤外お}
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炎宝珠を表す。{図赤外開}
(宝冠部) 下地は金箔とし、上段
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②多聞天像︻国幻}{図意外回ιおそらく二一つの火炎宝珠、下段に蓮華文を表す。左志の山部に一つの火
亀甲文を施す。{悶赤外口︼
腰
面
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同
2
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天王畿に描かれた文様、ことに甲胃の札を描く墨線の語法が渚掠寺像と酷似している点が住目される。清涼寺後
る
116
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青涼寺兜毅晃沙問夫立像の文雄と寺院調査における新出資料について
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には背甲の縁 半裁された古様なパルメットが描かれていることと許せて、この
可能性が高い。
の製作年代は近接している
の創建に近い時期
は異なっていないため、肉眼と赤外線を酔用した表面観察所見
った力強い作風を示しており、製作年代は
また四天王後は文様のみでたく伊東氏が指擁されるように仁和寺二天像などとも共通する、 一O世紀頃の京都
における西天王像の特畿というべきすの
が予想される。
今回の報告はX線による内部講造の観察な
。世紀にかけて、壊
とどまるという限界が事在することは留意せねばならない。この限界を踏まえながらこれまで検討した所見から
は、西天王像と彩色と文様の描法がよく類似する清涼寺兜蹴毘沙門天立像は九世紀末から
からさほど遠からぬ時期に造立された可龍性が考えられる。
ととなり、現状で元の彩色を失ってしまっている東寺後の、 かつての姿をうかがうことのできる作
この結論が妥当であれば、渚涼中市 u
像は奈良博像をはるかに遡って、東寺畿が請来されてから半世紀ほどの関に
模刻された
4
闘い
とが知られながら厳密な製作年代さえ不明確な清涼寺像に
れる必要が生じてくるであろう。
例と位置づけられることとなる。従来、名品である
関して、改めてその意義が間い
議注
︿
1) 伊 東 史 揺 吋 日 本 の 美 議 器 入 平 安 時 代 後 期 の 彫 刻 恥 一 0 0自年)
伊 東 史 朗 ﹁ 附 弥 詑 知 来 畿 大 阪 ・ 法 違 寺 議L t平安時代影刻史の研究﹄名古屋大学出瓶会) 奥健夫﹁生身仏謀略
(日本美築史﹄ 4 東京大学出張会。五年)
117
(3) 吋南北朝時代の仏橡﹄(至文堂
︿
0 0七年
正覚段像との類似空間向井芳誰氏の調教示による。
)9
4) ﹁ 護 織 清 涼 寺 史 平 安 朝 議 ﹂ ( 吋 塚 本 善 睦 著 作 集 ﹄ 七 九 七 五 年 )
(5)
松浦正昭﹁毘沙門天法の請来と羅域内安震﹂(﹃美議研究﹄三七O号 九 九 八 年 )
九年﹀
吋大正新鯵大蔵経﹄七八・
MMF
。九・恥
による議助金の
四七九
として調査研究計画を実施した成果の一
ある。
九九八・九
ア宗教文化情報辞究所が文部軒学省オ iブンぉワサ iチ・センター
(7) 関田健﹁東寺毘沙門天諜 l 羅城門安置説主連立問題に関する考察 i ﹂(﹃美術冊究﹄一一一七0 ・ 七一号
(8)
関版出典
j平或
本稿中において使用され寸いる図抜は、欝教大学ア
整構事業(平成
最後に、本務執筆にあたりましては資料調査・国販の掲載を揚許可いただした渚涼場調住職鵜鯖光品錦をはじめ
の皆様、総本山知思院文化財保存局の皆様より嗣一埠窓を賜りました。また資料調査と赤外報写真撒影にあたりましては沢野
謀説氏(自進市器埼域記念館副舘長ならびに僻教大学アジア宗教文化清報暗究所学外研究員)・出西泰生悉(悌教大学大学院
博士課粧て調査所見に関しましては高井芳雄氏︿京都魁文化前鯵現所﹀、写真撞影に為たりましては出水信明氏︿唆像工一男出
水了松田健志君他、多くの皆様の御協力を賜りましたむ末尾ながらこの場を街告りいしまして深く御礼申し上げま
まことにありが主ざいました。
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