Comments
Description
Transcript
空 蝉
空 3.空蝉 う つ 蝉 せ み 源氏物語詳解・第三帖・空蝉 あらすじ 空蝉に 二度目の逢引を 拒絶された源氏は、いっそう 恋慕の炎を燃え上が らせる。 三度目の訪問で、空蝉と 継娘の軒端荻を 垣間見る。その夜、寝室に忍びこ んだが、その気配を察した空蝉は 薄衣を脱ぎ捨てて逃げ去る。それに気付か ない源氏は、軒端荻と 愛を交わしてしまう。 自邸に戻った源氏は、空蝉に消息を送り、空蝉もまた 人妻という身でなけれ ば と やるせない思いに 悶えるのであった。軒端荻は、あの夜の後なのに、 何の便りも寄こさない源氏を 妙に しんみりしている。 実は 人違いされたのだ と気付くはずもなく、 主な事がら と すじ立て 源氏の、空蝉への恋心は、いよいよ昂揚する。再び 中河の家に行ったが、空 蝉には逢えず、偶然 軒端荻に逢い 契りを交わす。 1.源氏は 失望落胆して、中河の邸から 帰邸する。空蝉も心残りがあって 煩悶する。源氏の感情は激しくなり いよいよ空蝉が恋しい。 …P.2 2.源氏は 中河の邸に 三度目の訪問をする。その夜、空蝉は、その継娘軒 端荻と 碁をして遊んでいた。源氏は、心をときめかせて、それを垣間見る。 二人にはそれぞれに 特徴があった。 …P.6 3.その夜、小君の計らいで 源氏は 空蝉の寝所に忍ぶ。それと察した空蝉 は 衣を脱ぎ捨てて 逃げ去った。然し 源氏は気付かない。空蝉と思って 契った相手は、軒端荻であった。源氏は、空蝉の脱ぎ捨てた薄衣を持って 侘 しく寝室を出る。 …P.16 4.朧月夜に 源氏は 帰邸しようとした。中河の邸の女房は 源氏を 民部 の御許と 人違いする …P.23 5. 源氏は帰邸後、小君に託して 空蝉に 1 消息を送る。空蝉は「このような 使いは宜しくない」と 小君に注意する。軒端荻は、源氏からの消息がな いのを 変に思う。空蝉は、「夫のない昔ならば」と 煩悶する。 …P.27 原 文 と 注 解 そして 現 1 源氏 代 語 訳 中河の紀伊守の邸より帰り 空蝉を思い 煩悶 寢られ給はぬまゝに、 源氏「我は、かく、人に憎まれてもならはぬを、今宵なむ、はじめて、 「憂し」 と、世を思ひ知りぬれば、はづかしくて、ながらふまじくこそ思ひなりぬれ」 などのたまへば、涙をさへこぼして臥したり。「いとらうたし」とおぼす。手さ ぐりの、細く小さき程、髮のいと長からざりしけはひの、似通ひたるも、思ひ なしにやあはれなり。「あながちに、かゝづらひたどりよらむも、人惡かるべく、 まめやかにめざまし」と思し明かしつゝ、例のやうにも、の給ひまつはさず。 * 寢られ給はぬまゝに…紀伊守邸で 源氏は * かく 眠る事が 人に憎まれてもならはぬを…空蝉から お出来なさらぬままに。 憎まれるように、女から 憎まれる 習慣もついていないのに。 「ならふ」は、慣らふ・馴らふ。1.慣れる・習慣となる・ 経験を重ねる。2.慣れ親しむ・懐く の意。 * 今宵なむ はじめて 憂し と…今夜は 初めて 情けないと。 * 世を思ひ知りぬれば…男女の間を 悟ってしまったから。 * ながらふまじくこそ思ひなりぬれ…生き長らえまい * 涙さへこぼして…残念に思う という考えになってしまった。 その上に 涙までも零して。 * 臥したり…源氏の傍らに。 * 手さぐりの 細く小さき程…先夜は 暗がりの 手探りで、空蝉の細くて小さかっ た体の状態や。 * 髮のいと長からざりしけはひの…髮が あまり長くなかった 様子が。 * 似通ひたるも…小君に よく似ているのも。 * 思ひなしにや・・・それと思うせいなのであろうか。 「おもひなし」は、思ひ為し。1. 思い込みなどで それと決めてしまうこと・気のせい。本人の心構え・他人の受け 止め方 の意。 「にや」は、1.疑問・・・~に~か。2.反語・・・~に~だろう か、(いや~ではない) の意。 * あはれ…形容動詞「あはれなり」の語幹「あはれ」は、感動詞「ああ・はれ」に由 来する と。思わず「ああ」と嘆声を漏らすような 2 しみじみとした感動を表わす のが原義。A.感動詞…賛美・悲哀・驚嘆など さまざまな感動の気持ちを表わす・・・ ああ。B.形容動詞。1.しみじみと心を動かされる。2.しみじみとした情趣が ある・美しい。3.さびしい・悲しい・辛い。4.可哀そうだ。不憫だ・気の毒だ。 5.可愛い・愛しい・懷しい。6.情けが深い・愛情が豊かだ。7.尊い・優れて いる・見事だ。C.名詞。1.しみじみとした感動・しみじみとした風情、情趣。 2.悲哀・哀愁・さびしさ。3.愛情・人情・好意。 などの意。 * あながちに かゝづらひたどりよらむも…無理に 空蝉にかかわりあって、その隠 れ所にまで 探して行き 近寄るとしても。「たどる」は、辿る。A.他動詞として、 1.探り求める・尋ね探す。2.探り当てる・探し当てる。3.あれこれと推量す る・あれこれと考慮する。B.自動詞として、1.思い迷う・途方に暮れる。2. まごつく の意。 * 人惡かるべく…人聞きも 悪いであろうし。 * まめやかにめざまし…真実 心外である。 * と思し明しつゝ…とお思いなさって、夜を明かしながら。 * 例のやうにも…何時ものようにも。 * の給ひまつはさず…計画が失敗したので、源氏は 聊か機嫌が悪く、小君に うと うとしいのである。 源氏は、お眠りになる事が お出来になれないままに、空蝉を 恨んで 「私は このように 人に憎まれたことなど ないのに、今晩 初めて「情け ない」と、男女の仲を 知ったので、恥ずかしくて 人に 顔も合わせられず、 生きて長らえることも 出来そうにもない というような気持に なってし まった」 などと 仰るので、小君は、残念 と 思う上に 涙まで零して 源氏の傍ら に 横になる。源氏は それを見て「とても 可愛らしい」と お思いになる。 先夜は 暗がりの中での 手探りで、空蝉の 細く小さかった体の状態や あ まり長くなかった 髮の様子が、空蝉の弟 と 思うせいか 小君が よく似 ているので 愛しく 思われる。源氏は、「無闇に 空蝉に 関わりあって、そ の隠れ所にまで、しつこく探して 近寄るとしても、それも 外聞が悪いであ ろうし、本当に 癪に触る」と お思いなさって、夜を 明かしながら、何時 ものように、小君に、お言葉を お掛けになったり、お側に つきまとわせる 事も なさらない。 夜ふかく出で給へば、この子は、「いと、いとほしく、さうざうし」と思ふ。 女も「なみなみならず、かたはら痛し」と思ふに、御消息も絶えてなし。「思し 懲りにける」と思ふにも、「やがて、つれなくて止み給ひなましかば、憂からま 3 し。強ひて、いとほしき御振舞の、絶えざらむも、うたてあるべし。よき程に て、かくて閉ぢめてむ」と思ふ物から、たゞならずながめがちなり。君は、「心 づきなし」と思しながら、かくては、え止むまじう御心にかゝり、人惡く、お もほしわびて、小君に、 源氏「いと、つらうも、うれたくも思ゆるに、強ひて思ひかへせど、心にもし たがはず苦しきを、さりぬべき折をも見て、對面すべくたばかれ」 と、のたまひ渡れば、わづらはしけれど、かゝる方にても、の給ひまつはすは、 うれしう思えけり。をさなき心地に、「いかならむ折」と、待ち渡るに、紀の守、 國に下りなどして、女どち、のどやかなる夕闇の、道たどたどしげなるまぎれ に、わが車にてゐてたてまつる。「この子も幼きを、いかならむ」と思せど、さ のみも、え思しのどむまじかりければ、さりげなき姿にて、「門など鎖さぬさき に」と、いそぎおはす。人見ぬ方より引き入れて、おろしたてまつる。 * いと いとほしく さうざうし…空蝉に逢わず 早朝源氏が お帰りなさるので たいそう気の毒であり、源氏が 帰ってしまえば 物足りないと。 * なみなみならず かたはら痛し…一通りでなく 心苦しい。 * 思し懲りにける…源氏が 懲り懲りなさってしまった事であったか。「こる」は、懲 る。懲りる の意。 * つれなくて止み給ひなましかば が 冷淡で 恋 絶えざらむも…私が 源氏の君を好きであっても 源 お止まりなさってしまったら お辛い事であろうになあ。 * 強ひて 氏の 憂からまし…先夜 お逢いしたまま いとほしき振舞の お痛わしい御振舞いが 強いて 絶えないとしたら。 * うたてあるべし…それも 嫌であろう。「うたてあり」は、うたて有り。嫌だ・嘆か わしい・どうしようもないようすである の意。 * よき程にて かくて閉じめてむ…何と言っても 際限がないから いい加減で んな こ 私にも逢わない、 御消息も下さらない 所で 止めてしまおうと。 「てむ」は、 1・強い意志…~してしまおう・きっと~しよう。2.強い推量…~に違いない・ きっと~だろう。3.適当・当然…~するのがよい・~すべきだ。4.可能推量… ~することが出来るだろう。5.勧誘…~てくれないか などの意。「てん」とも。 * たゞならずながめがちなり…いわくありげに、じっと 考え込みがちである。「ただ ならず」は、徒ならず。1.普通でない・いわくありげである。2.並々でない・ 優れている。3.妊娠している の意。 * 心づきなし と…空蝉の態度を 気に食わないと。 * かくては…このような状態のままでは。 * え止むまじう…この恋が。 * いと つらうも うれたくも思ゆるに…私は 4 空蝉の事を ひどく辛く いまいま しく思わずには 居られないから。 「うれたし」は、嘆かわしい・腹立たしい・いま いましい の意。 * 強ひて思ひかへせど…無理にも 忘れようと、繰り返し 考えるのだが。 * 心にもしたがはず苦しきを…その心に従わず 逢いたい思いで 苦しいから。 * さりぬべき折をも見て…きっと逢う事が出来る機会を見つけて。 * 對面すべくたばかれ…對面できるように 手立てをしなさい。「たばかる」は、謀る。 1.考えをめぐらす・思案する・工夫する。2.相談する。3.欺く・騙す・誤魔 化す の意。 * のたまひ渡れば…仰り続けるので。 * わづらはしけれど…厄介な事 と 思うけれども。 * いかならむ折…仮令 どんな折にでも。 * 國に下りなどして…任国(紀伊)に * のどやかなる夕闇の…暇で 下向したので。 閑静な夕闇で。 「夕闇」は、「宵闇」とも。月がなくて 夕方から暗くなる状況。 「夕闇の」の「の」は、指定。万葉、相聞「夕闇は道たづた づし月待ちて行かせわが背子その間にも見む」。 * 道たどたどしげなるまぎれに…道の はっきりしない 暗さに紛れて。「たどたど し」は、 「たづたづし」の転?1.主観的に、おぼつかない・確かでない。2.客観 的に、はっきりしない・ぼんやりしている の意。 * この子も幼きを いかならむ…この小君も 幼少であるから 首尾は どうであろ うか。 * さのみも え思しのどむまじかりければ…そのように思ってばかりは 考えなさる意志は 気長に お なかったものだから。 「のどむ」1.落ち着かせる・静める・ゆ ったりさせる。控え目にする・ゆるめる。3.時間を延ばす・ゆっくりさせる・猶 予する の意。 * さりげなき姿にて…女に忍び通うような 身づくろいなど きちんとする 姿でな く 何気ない姿で。 「さりげなし」は、然りげ無し。そんな様子もない・何気ないふ うである の意。 * 人見ぬ方より…人に 気付かれない方の 門から。北の門(裏門)であろう。 * おろしたてまつる…源氏を。 夜の深い内に お帰りなさるので、この子(小君)は、「たいそう お気の毒 で、お帰りになってしまったら つまらないな」と 思う。空蝉も、「一通りな らず 心苦しい」と 考えるので、(もし 消息でもあったなら せめて気持だ けでも 何とか 申し上げて おきたい、とは思うのだが)その御消息も 全 くない。「源氏が もう 懲り懲りなさってしまった事で あろうか」と 考え るにつけても、「先夜 お逢いしたまま 5 冷淡で この恋が お止まりなさっ てしまったら、さぞ お辛い事で あろうに。(私が 源氏を好きであっても) 源氏の強引で 困ってしまう 御振舞いが 絶えないとしたら、それも 嫌な ことであろう。(何といっても 際限がないから)好い加減で、こんな所で 止 めてしまおう」と、理性的には 思うのだが、感情は 穏やかでなく、じっと 物思いに 沈みがちである。源氏君は、空蝉の態度を、「酷いなあ」、と お思 いになる一方で、このような状態のままでは、この恋は、止められる事は 出 来ない、と お心にかかって、体裁悪いまでに お困りになられて、小君に、 「私は、空蝉の事を、ひどく 辛く 厭わしく 思わずには 居られないので、 どうにかして 忘れよう と 繰り返し 考えるのだけれど、思い通りになら ず、苦しいのだよ。きっと 逢える事が出来る、そんな機会を 見つけて、逢 えるように、手立てを してはくれまいか」 と、仰り続けるので、小君は、厄介な事だ とは 思うものの、このような恋 の仲介でも 源氏が 言葉を掛け まとわらせなさることは 嬉しく 思われ るのであった。子供心にも、「仮令 どんな折でも、その折には 源氏を 空蝉 の所に導こう」と 機会を待って 過ごして居る際に、紀伊守が、任国紀伊に 下向したので、邸内は 女たちだけで、のんびりとした 閑静な夕闇で、道も はっきりと見えない 暗さに紛れて、小君は、自分の車に、源氏を お乗せし て、紀伊守邸に お連れ申したのである。源氏は、「この子も 未だ幼少の身、 首尾は どうであろうか」と お考えになるが、そんなふうに 思ってばかり、 気長に お考えなさる気持は、全く なかったものだから、目立たない服装で、 「門などの 鍵が掛けられる前に」と、急いで お出かけになる。小君は 人 目のない門から 車を引き入れて、源氏を お降ろし申し上げる。 2 源氏 空蝉と軒端荻を 垣間見る 童なれば、宿直人なども、殊に、見いれ追從せず、心やすし。東の妻戸にたて たてまつりて、我は、南の隅の間より、格子叩きのゝしりて入りぬ。御達、 御達「あらはなり」 といふなり。 小君「なぞ、かう暑きに、この格子は下されたる」 と、問へば、 御達「晝より、西の御方のわたらせ給ひて、碁打たせ給ふ」 といふ。「さて、向ひゐたらむを見ばや」と思ひて、やをら歩み出でつゝ、簾垂のはざま に入り給ひぬ。この入りつる格子はまだ鎖さねば、隙見ゆるに寄りて、西ざまに見通 し給へば、このきはに立てたる屏風も、端の方おし疊まれたるに、紛るべき几帳など 6 も、暑ければにや、うち掛けて、いとよく見いれらる。 * 追從(つゐそう)…こび諂う。「つゐそう」は、「ついしょう」とも。1.人の後につき従うこと。2. へつらうこと の意。 * 南の隅の間…南の隅の 柱と柱のあいだ(間)から。東よりの隅であろう。 * 格子叩きのゝしりて入りぬ…格子を叩いて上げて、大声を出して入った。 * 御達(ごたち)…女房たち。 * あらはなり…格子を上げると 内部まで丸見えよ。「あらは」は、露・顕。1.丸見えだ・露骨 である・外に現れているさま。2.はっきりしている・明らかである。3.公然としている・表 だっている。4.遠慮しないさま・不躾である などの意。 * 下ろされたる…「れ」は、尊敬。 * 西の御方…紀伊守と同腹の妹、「軒端荻」 。空蝉には継娘。西の対に住んでいる。 * さて 向ひゐたらむを見ばや…碁を打って * この入りつる格子…小君が 向かい合っていたら、それを見たい。 さっき入った格子。 * まだ鎖さねば…まだ 閉めて 鍵を鎖して ないから。 * 隙(ひま)見ゆるに寄りて…明るく透いて 見られる所に 寄って。 * このきはに立てたる屏風も…小君の入った 南の格子の側に立てた屏風も。 * 端の方おし疊まれたるに…一方の端が 折りたたまれている上に。 * 紛るべき几帳なども…見通す 邪魔になるはずの 几帳なども。 * うち掛けて…几帳の 帷子(かたびら)を 横木に 掛けてあるので。 * いとよく見いれらる…室内が。 子供なので、宿直の人も 特別に 気を使って ご機嫌もとらず、安心である。 母屋の東の 妻戸の側に 源氏を お立たせ申し上げて、自分は 南の隅の間 から 閉まっていた格子を 叩いて 大声をあげて 中に入る。女房たちは、 「格子を上げると 中が 丸見えですよ」 と 言っている。小君が、 「どうして こう暑いのに、格子を 下ろしているの」 と 尋ねると、 「昼から、西の御方(軒端荻)が お渡りあそばして お二人で 碁をお打 ちあそばして いらっしゃいます」 と 言う。源氏は、「碁を打って 向かい合って居るならば そこを見たい」と 思って、静かに 歩を進めて 妻戸口から 格子と簾の間に お入りになられ てしまう。小君が 先ほど入った格子は まだ 閉めてないので、その明るく 透いて見える所に 近寄って、西の方を 見通しなさると、小君の入った南の 格子の 側に立てた屏風も 一方の端が 7 畳まれていて、その上に 目隠しの はずの 几帳なども、暑いからであろうか、帷子を で、室内が たいそう よく見通される。 横木にうち掛けてあるの 火近うともしたり。「母屋の中柱にそばめる人や、わが心かくる」と、まづ目 とゞめ給へば、濃き綾の單襲なめり。何にかあらむ上に着て、頭つき細やかに、 小さき人の、ものげなき姿ぞしたる。顔なども、さし向ひたる人などにも、わ ざと、見ゆまじうもてなしたり。手つき、やせやせとして、いたう、ひき隱し ためり。今一人は東向きにて、殘る所なく見ゆ。白き羅の單襲、二藍の小袿だ つ物、ないがしろに着なして、くれなゐの腰ひき結へるきはまで、胸あらはに、 ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげに、つぶつぶと肥えて、そゞろ かなる人の、頭つき額つき物あざやかに、まみ・口つき、いと愛敬づき、はな やかなるかたちなり。髮は、いとふさやかにて、長くはあらねど、さがりば、 肩の程、いと清げに、すべて、「ねぢけたる所なく、をかしげなる人」と見えた り。「むべこそ、親の、世になくは思ふらめ」と、をかしく見給ふ。心地ぞ、「な ほ、靜かなるけをそへばや」と、ふと見ゆる。かどなきにはあるまじ。 * 火近うともしたり…灯火を 二人に近く 点してある。 * 母屋の中柱にそばめる人…中柱の所に居る 横向きの女。母屋の中で 壁に関係な い柱。東廂の間と母屋のあいだの柱であろう。 * 濃き綾の單襲なめり…下に ようである。夏に、 紅の濃い綾の 単襲、即ち単物のような物を着ている 女子は、襟の部分はひねり重、端の部分は縫った単衣を 二 枚重ねる。一枚の時は 一般には 下に汗取りを着るのであろう。 「なめり」は、~ であるようだ・~であると見える。断定の助動詞「なり」の連体形「なる」+推量 の助動詞「めり」=「なるめり」、その撥音便「なんめり」 、その撥音「ん」の表記 されない形。 「なンめり」と 読む。この帖 最終ページ参照。 * 何にかあらむ上に着て…薄暗くてよく解らないが、単襲の上に 何かを着て。 * 小さき人…小柄な人。 * ものげなき姿ぞしたる…特に 注目するような所のない あまり見栄えのしない姿 をしている。 「ものげなし」は、これといって認める程でもない・たいした事でもな い・あまり目立たない の意。 * さし向ひたる人…軒端荻。 * ひき隠しためり…「ためり」は、~たようだ・~ているようだ・~ているように見 える。完了の助動詞「たり」の連体形「たる」+推量の助動詞「めり」=「たるめ り」、その撥音便「たんめり」 、その撥音「ん」の表記されない形。 「たンめり」と む。この帖 最終ページ参照。 * 白き羅の單襲…白い羅(紗か絽の織物)の単襲を 下に着て。 8 読 * ないがしろに着なして…無頓着に 着こなして。 「ないがしろ」は、蔑。1.人を軽 くあしらう様子・無視する態度である。2.人目を気にせず うちとけた様子 の 意。 * 腰ひき結へるきはまで…腰に結んだ * 胸あらはに…乳の下ほどまで 袴の紐の所まで。 胸を広げている樣である。 * ばうぞくなるもてなしなり…だらしのない 身のもてなしである。「ばうぞく」は、 「凡俗」または「放俗」の転。下品なさま・無作法なさま・無遠慮なさま。 * つぶつぶと肥えて…丸々と太って。 * そゞろかなる人…背の すらりとしている人。「そぞろか」は「そそろか」とも。聳 ろか。背丈のすらりと高いさま の意。 * 物あざやかに…はっきりしていて。 「あざやか」は、鮮やか。1.色・容姿などが 際 立って美しい・美しさが印象的である。2.線・形などが際立っている・はっきり している。3.性質・言動などがきちんとしている。4.新鮮である・生きがいい などの意。 * はなやかなるかたちなり…派手な顔つきである。 * さばりば…髮の下がった端。 * ねぢけたる所なく をかしげなる人…何もかも ひねくれた欠点がなくて、美しい 樣の女性。 * むべこそ…道理で。 「むべ」は、宜・諾。「うべ」とも。もっともなことに・なるほ ど・いかにも の意。 * 親…伊予介。 * 心地ぞ…一目見た時の 心持では。 * かどなきにはあるまじ…才気のない女では あるまい。 二人の近くに 灯火が 灯してある。「母屋の中柱に、横向きになっている人 が、自分の思いを寄せている 空蝉であろう」かと、真っ先に 目を お留め になると、下着は 濃い紅の 綾の単襲のようである。(薄暗くてよく解らない が)何であろうか、単襲の上に着て、頭つきが 細やかで 小柄な人が、あま り 見栄えのしない姿を しているのである。顔なども、向かい合っている人 (軒端荻)にも、わざと 見えないように 気をつけている。手つきも、痩せ 痩せした感じで、袖の中に 引き隠しているようである。もう一人は、東向き なので、すっかり 丸見えである。白い羅の単襲に、二藍の小袿のようなもの を、しどけなく 着込んで、紅の腰紐を 結んでいる際までも、胸を顕わにし て、嗜みのない恰好である。とても 色白で美しく、丸々と肥えて、すらっと 背が高い人で、頭の恰好や 額の具合が、くっきりとしていて、目元・口元が、 たいそう 愛嬌があって、華やかな容貌である。髮は、たいして 9 房々と長く はないが、髮の下がった端の様や、肩のあたりが、ひどく 美しく、何もかも ひねくれた欠点もなく、美しい女性 と見えた。「道理で、親の伊予介が、この 上なく 可愛がることであろうよ」と、興味を持って 御覧になる。そのお心 には「もう少し 落ち着いた感じを 加えたいものだ」と、ふと思われる。才 気のない女では あるまい。 碁打ちはてゝ、けちさすわたり、心とげに見えて、きはぎはしうさうどけば、 奥の人は、いと静かにのどめて、 空蝉「待ち給へや。そこは、持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」 などいへど、 軒端荻「いで、この度は負けにけり。隅のところどころ、いでいで」 と指を屈めて、 軒端荻「十・二十・三十・四十」 など數ふるさま、伊豫の湯桁も、たどたどしかるまじう見ゆ。少し品おくれた り。たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、目をし、つとつけたれば、 おのづから、そばめに見ゆ。目少し腫れたる心地して、鼻なども、あざやかな る所なう、ねびれて、にほはしき所も見えず。言ひたつれば、惡きによれるか たちを、いといたうもてつけて、この勝れる人よりは「心あらむ」と、目とゞ めつべきさましたり。にぎはゝしう愛敬づき、をかしげなるを、いよいよ誇り かにうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さるかたに、いと をかしき人ざまなり。 * けちさすわたり…駄目に 碁石を詰めて塞ぐこと。 「けち」は、欠。駄目とも。両方 の境界にあって どちらの所有にもならない目をいう。「わたり」は、辺り。1.ほ とり・あたり。2.間接的な言い方で、人・人々・方 の意。 * 心とげに見えて…機敏そうに見えて。(とげ)は、疾げ。「疾し」の「と」+「げ」。 「疾し」は、1.時期が早い。2.速度が速い の意。「げ」は、気。接尾語。形容 詞の語幹(シク活用は終止形) ・形容動詞の語幹などについて、いかにも~のようす である・~らしく見える などの意の形容動詞の語幹を作る。例、あさましげ・あ はれげ・怪しげ・いみじげ・いぶせげ・恐ろしげ・親しげ・汚げ・さうざうしげ・ 頼もしげ・恥づかしげ・誇らしげ・難しげ・弱げ・侘しげ・をかしげ など。 * きわぎわしうさうどけば…特に 際立って ざわついていると。「きわぎわし」は、 「きはきはし」とも。際際し。けじめがはっきりしている・際立っている の意。 「さうどく」は、騒動く。騒ぎ立てる・はしゃぐ の意。 * のどめて…落ち着いて。 * 持(じ)にこそあらめ…あいこ(勝負なし)でしょう。「じ」は、持。歌合・囲碁な 10 どで、互いに優劣のないこと・あいこ・もちあい の意。 * このわたりの劫(こふ)をこそ…この辺の 劫をお打ちなさい。「こふ」は、劫。1. 仏教語。非常にまがい時間。2.囲碁で、一目を双方で交互に取り得る形になるこ と・劫争い の意。 * 隅のところどころ…ここと そこの隅は 何目でしょうか。 * いでいで…さあさあ 勘定しましょう。 * 十(とを) ・二十(はた) ・三十(みそ)・四十(よそ) * 伊豫の湯桁…湯桁とは 湯槽(ゆぶね)のこと。伊予道後温泉は 湯槽の多さで有 名。 * たどたどしかるまじう見ゆ…覚束なくなさそうに見える。「たどたどし」は、不確 実・たずねさがす の意。伊予介の任国の事もあって 花集に 古歌とていだせり。伊予の湯の湯桁の數は かく言った。花鳥余情「六 左八つ右は九つ中は十六 す べて三十三ありといへり」とある。 * たとしへなく口おほひて…譬えようもなく つつましやかに 袖で 口を被い隠し て。 * さやかにも見せねど…顔を。 * 目をし つとつけたれば…じっと 目をつけているものだから。 * そばめに見ゆ…横向きの顔が 見られる。「そば目」は、「かたはら目」と同じく、 傍らから見える姿・横から見える形 の意。 * 鼻などもあざやかなる所なう…鼻筋なども 端整で はっきりした所がなくて。 * ねびれて…年齢よりは 老けて見える。「ねびる」は、年寄りくさくなる・ふける の 意。年齢よりも年寄りじみて若々しさのない事 の義である。 * にほはしき所も見えず…若々しい 美しさも 見られない。 「にほはし」は、匂はし。 つややかに美しい の意。 * 言ひたつれば…一つ一つ 言いたてれば。 * 惡きによれるかたちを…醜い 悪い部に近い顔を。 * いといたうもてつけて…たいそうひどく つくろって。「もてつく」は、もて付く。 1.身に備える・身につける。2.取りつくろう の意。 * 心あらむ…考えがあるだろう。物事に 理解があるだろう。 * 目とゞめつべきさましたり…見る人の心を留めるに相違ない様子をしていた。 * にぎはゝしう愛敬づき…明るく快活で 愛嬌があって。 * をかしげなるを…美しげであるのを。 * いよいよほこりかにうちとけて…ますます 得意そうに気を許して。「ほこりか」は、 誇りか。誇らしいさま・得意そうなさま の意。 「か」は、接尾語。物の状態・資質 を表す語などについて、それが 目に見える状態であることを示す形容動詞の語幹 を作る。例、さやか・のどか・ゆたか・明らか など。 11 * そぼるれば…ふざけているから。「そぼる」は、戯る。1.たわむれる・ふざける。 2.しゃれる の意。 * ひほひ多く見えて…艶々した若い美しさが * さるかたに…「にほひ多く見え」と 際立って見られ。 いう点で。 碁を 打ち終えて、結を押すあたりは、機敏に見えて 陽気に 騒ぎたてる けれど、奥に居る 空蝉は、とても 静かに落ち着いていて、 「お待ちなさい。そこは 持でありましょう。この辺りの 劫を 先に数えま しょう」 などと 言うが、 「いいえ、今度は 負けてしまいました。此処の隅 そちらの隅は 何目か しら さあさあ 勘定しましょう」 と、指を折りながら、 「十・二十・三十・四十」 と 数える様子は、伊予の湯槽も すらすらと 数えるのにも 覚束なくなさ そうに見える。少し 品が落ちる感じがする。空蝉は 譬えようもなく つつ ましやかに、袖で 口を被い隠して 顔も はっきりとは 見せないが、源氏 は、じっと 目をつけているものだから、自然に、その横向きの顔が 見られ る。目が 少し腫れぼったい感じがして、鼻筋なども 端整で はっきりした 所がなく、年齢よりは 老けて 若々しい所がなく 艶々した美しい所も 見 られない。一つ一つ 言い立ててゆくと、醜い 悪い部に近い顔を、たいそう ひどく つくろって、この美しさでは 優れている軒端荻よりは、「物事に 理 解があるだろう」と、きっと 見る人の心を 引き留めるに相違ない 様子を していた。軒端荻は、明るく 快活で 愛嬌があって、美しげで あるのを、 ますます 得意げに 気を許して、笑ったり ふざけたり するものだから、 艶々した美しさが 沢山に 見られて、「にほひ多く」と いう点では 全く 美しい様子である。 「あはつけし」とは思しながら、まめならぬ御心は、これも、え思しはなつま じかりけり。見給ふ限りの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひ、そばめ たるうはべをのみこそ見給へ、かくうちとけたる、人の有樣、垣間見などは、 まだ、し給はざりつる事なれば、何心もなう、さやかなるは、いとほしながら、 ひさしう見給はまほしきに、小君出でくる心ちすれば、やをら出で給ひぬ。渡 殿の口により居給へり。「いとかたじけなし」と思ひて、 小君「例ならぬ人侍りて、え、近うも寄り侍らず」 との給へば、 12 源氏「さて、今宵もや歸してむとする。いとあさましう、辛うこそあべけれ」 と聞ゆ。「さも、靡かしつべき氣色にこそはあらめ。童なれど、ものゝ心ばへ、 人の氣色見つべく、しづまれるを」と、おぼすなりけり。 * あはつけし…軽薄である。 「あはつけし」は、軽々しい・浮ついている の意。 * まめならぬ御心…実直でない 源氏のお心。 * これも…軒端荻も。 * うちとけたる世なく…寛いでいる時がなくて。 * ひきつくろひ…様子を 取り繕い。 * そばめたるうはべをのみこそ…源氏に 恥ずかしがって 横を向いている 表面の 姿だけを。 * 垣間見などは…物の隙間から 覗き見するなどということは。 * 何心なう…何の気もなく、少しも 気付かずに。 * さやかなるは…姿形が はっきりと丸見えなのは。 * ひさしう見給はまほしきに…何時までも 御覧なさりたいけれども。 * やをら出で給ひぬ…静かに お出になられた。 * いとかたじけなし…小君は 今迄ずっと 源氏が 此処に立って居られたのかと思 って たいそう 勿体無い事と。 * 例ならぬ人…軒端荻を指す。 * いとあさましう 辛(から)うこそあべけれ…たいそう あきれるほど 如何にも 辛いことであろう。 * などてか…どうして 無駄でお帰し申しましょうか。 * あなたに…西の対に。 * さも 靡かしつべき氣色にこそはあらめ…そんなふう たばかり侍りなん に 蝉を きっと自分の心に 従わせる事が出来るような 様子でいるようである。 * ものゝ心ばへ 人の氣色見つべく しづまれるを…物事の事情や 人の顔色を かに見る事が出来るほどに 空 確 落ち着いているのだから。 「軽率である」とは お思いになられるが、源氏の お堅くないお心には、こ の女(軒端荻)も、捨てては おけないのであった。ご存知の範囲内の女性は、 誰も 寛いでいる時がなく、恥ずかしがって 横を向いている 上辺の様子だ けを 御覧なさるが、このように 打ち解けた女の様子を 物の隙間から 覗 き見する事などは、未だ なさった事が なかったので、二人の女が 何も気 付かずに 姿形が はっきりと 丸見えになのは、気の毒では あるが、何時 までも 御覧なさりたいけれども、前の格子口より 小君が 出てくるようで あるので、静かに 出て 渡り廊下の戸口に(今迄、そこに 13 じっとして居た かのように見せかけて)寄り掛かって居られる。それを見て 小君は 源氏が 今まで 其処に 寄り掛かって居られたもの と 見たから たいそう 勿体 無い と思って、 「珍しく お客様が 居りまして、近くに 参れません」 と 言う。源氏は、 「それでは、今宵も 無為に、帰そうとするのか。全く 呆れてしまう。酷 いではないか」 と 仰ると、 「いいえ 決して。お客が あちら(西の対)に 帰りましたら、きっと、 お逢い出来るよう 手立てを 致しますから」 と、申し上げる。源氏は「そのように、きっと 自分の心に従わせる事が 出 来そうで あるようだ。小君は 子供であるけれども、物事の事情や 人の顔 色を 確かに見る事の出来る程に、落ち着いているのだから」と、お思いにな るのであった。 碁打ちはてつるにやあらん。うちそよめく心地して、人々、あかるゝけはひな どすなり。 女房「わか君は、いづくにおはしますならむ。この御格子は鎖してむ」 とて、鳴らすなり。 源氏「しづまりぬなり。入(り)て、さらば、たばかれ」 と、の給ふ。この子も、いもうとの心は、撓む所なく、まめだちたれば、言ひ 合はせむかたなくて、「人ずくなゝらん折にいれたてまつらん」と思ふなりけり。 源氏「紀の守のいもうとも、こなたにあるか。われに、垣間見せさせよ」 とのたまへど、 小君「いかでか、さは侍らん。格子には、几帳そへて侍(り) 」 と聞ゆ。「さかし。されども」と、をかしくおぼせど、「『見つ』とは、知らせ じ。いとほし」と思して、「夜更くることの、心もとなさ」を、の給ふ。こたみ は、妻戸を叩きて入る。皆、人々、しづまり寢にけり。 * うちそよめく心地して…着ている衣が 音をさやさやと立てるような気がして。 「そよめく」は、1・そよそよ、さやさやと めく 音がする。2.賑やかである・ざわ の意。 「めく」は、接尾語。名詞・形容詞・形容動詞の語幹・副詞・擬声語・ 擬態語などについて、~のようになる・~らしくなる・~という音をだす などの 意の動詞を作る。例、婀娜めく・今めく・色めく・親めく・子めく・才めく・綺羅 めく・上衆めく・そよめく・時めく・どよめく・閃く・仄めく・由めく・喚く ど。 14 な * 人々…女房たち。 * あかるゝけはひなどすなり…退散する 気配がする。「あかる」は、別る・散る。退 出する・別れる・別々になる の意。 * わか君…小君を指す。 * この御格子…南の隅の。 * しづまりぬなり…人々は 寝静まってしまった。 「ぬなり」は、1. 「ぬ」が断定の 場合…~たようだ・~しまったようだ。2. 「なり」が伝聞の場合…~たそうだ・~ てしまったということだ。 * 入(り)て さらば たばかれ…それでは * この子も いもうとの心は 母屋に 入って 工面してみよ。 撓む所なく…源氏は 空蝉の強情に 困ったのだが、 小君も、姉の気持は 人の申し入れを 素直に折れて 受け入れる所がなくて。「い もうと」は、妹。 「いもひと」のウ音便。1.男から女のきょうだいを呼ぶ語。姉に も妹にも用いる。2.年下のきょうだい の意。 「いも」は、男性から、年齢の上下 に関りなく、妻・恋人・姉妹など女性を 親しんで呼ぶ語。 * 人ずくなゝらん折…人が 少なくなったらば その折に。 * こなたにあるか…こちら 母屋の 空蝉の所 に 居るのか。 * いかでか さは侍らん…どうして 垣間見など そのような事が 出来ましょうか。 * さかし されども…尤もである。だけれどもね、自分は 疾くに 覗き見をしてし まったのだよ。 * いとほし と思して…折角 ったでは 気の毒である と * 夜更くることの 小君が 骨を折っているのに、もう 疾くに見てしま お思いなさって。 心もとなさ…夜の更けて行く事の 待ち遠しさ。「こころもとな し」は、心許なし。1.待ち遠しくて心が苛立つ・じれったい。2.気がかりだ・ 不安だ。3.ぼんやりしている・はっきりしない。4.不十分で物足りない など の意。 * こたみは 妻戸を叩きて入る…前には 格子をあげて内部に入ったが 廂の間の 南側の隅の 妻戸を こつこつと叩いて 今度は 東 女童に開けさせて 入った。 * しづまり寢にけり…ひっそりと 静かになって 眠ってしまっている。 碁を 打ち終えたのであろうか、衣擦れの音が するような感じがして、女房 たちが、各々の部屋に 下がって行く 気配などがする。 「若君は、何処に いらっしゃるのでしょうか。この御格子は 閉めましょう」 と 言って、格子を 閉める音をさせる。源氏は、 「静かになったようだ。それでは 母屋に入って、手引きする工面をしなさ い」 と、小君に 仰ゃる。小君も、空蝉の気持は 15 人の申し入れを 素直に受け入 れる事がなくて、堅物で いるのであるから、話を付ける術もなくて、「人目の 少なくなった その折に、源氏を 中に お入れ申し上げよう」と 思うので あった。源氏は、 「紀伊守の妹(軒端荻)も、この母屋の 空蝉の所に居るのか。私に 垣間 見させよ」 と、仰るが、 「どうして そのような事が 出来ましょうか。格子には、几帳が 添えて 立ててあります。覗き見など 出来ません」 と 申し上げる。「尤もである。だけれども(自分は 疾くに見てしまったの だ)」と、内心 面白くお思いなさるけれども、「折角 小君が 骨を折ってい るのに もう見てしまった、では 気の毒である」と、お思いなされて、「夜の 更けて行く事の 待ち遠しさ」を 仰る。小君は、(先程は 格子をあげて 内 部に入ったが)今度は、東廂の間の 南側の隅の妻戸を こつこつと叩いて、 女童に開けさせて 内部に入るのであった。女房たちは、皆 ひっそりと静か になって、眠ってしまっている。 3 空蝉逃走 源氏 軒端荻と契る 小君「この障子口に、まろは寢たらん。風吹き通せ」 とて、疊ひろげて臥す。御達、東の廂に、いとあまた寢たるべし。戸放ちつる 童も、そなたに入りて臥しぬれば、とばかり空寢して、火明き方に屏風をひろ げて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。「いかにぞ。をこがましき事も こそ」と思すに、いとつゝましけれど、みちびくまゝに、母屋の几帳の帷子引 き上げて、いと、やをら入り給ふとすれど、皆しづまれる夜の、御衣のけはひ、 やはらかなるしも、いとしるかりけり。女は、「さこそ、忘れ給ふを、嬉しき」 に思ひなせど、あやしく、夢のやうなる事を、心に離るゝ折なき頃にて、心と けたる寢だに寢られずなん。晝はながめ、夜はねざめがちなれば、「春ならぬ木 のめ」も、いとなく歎かしきに、碁打ちつる君、 軒端荻「今宵はこなたに」 と、今めかしくうち語らひて、寢にけり。わかき人は、何心なく、いとようま どろみたるべし。 * この障子口に…この 東廂の東側の 襖の口 即ち 四枚の中、第二第三を開け、 出入りに使う口。 * 疊ひろげて臥す…薄縁を 広げて敷いて 寝た。中古 単に 疊といったのは 16 全 て薄縁である。 * 戸放ちつる童…小君のために 妻戸を開けてやった 女童。 * そなた…東廂。 * とばかり空寢して…暫く 狸寝入りをして。 * 影ほのかなるに…光を遮って * いかにぞ…結果は 薄暗い所に。 どうなる事であろうか。 * をこがましき事もこそ…このような 子供に導かれたのだから どうも 愚からし いこともあるだろう。 * いとつゝましけれど…ひどく * 皆しづまれる夜の…皆が皆 気が引けるけれども。 眠り込んで 静かになっている夜なので。「夜の」の 「の」は、指定。 * やはらかなるしもいとしるかりけり…柔らかな地の着物が 却って ひどく はっ きりと 衣擦れの音を 立てるのであった。「しも」は、副助詞。副助詞「し」+係 助詞「も」 。1.強意…~それそのもの。2.取立て…よりによって・~に限って。 3.却って…~にも拘わらず、 」却って。4.必ずしも…必ずしも~ではない など の意。 * さこそ…如何にも あんなふうに、御消息も 絶えてなしで。 * 思ひなせど…敢えて 思い込むけれども。 「おもひなす」は、思ひ為す。思い込む・ 考えて~だと決める の意。 * あやしく 夢のやうなる事を ある 源氏との密会 心に離るゝ折なき頃にて…今思っても 夢のようで ではあるけれども 怪しく 心に離れてなくなる折の ない 頃なので。 「あやしく」は「心に離るゝ」に懸かる。「を」は、接続助詞。1.逆接 …~のに。2.順接…~ので。3.単純接続…~と・~が の意。ここは、「事(密 会)で あるけれども」となる。 * 心とけたる寢(い)だに寢(ね)られずなん…せめて 取ろうとするが それさえも 打ち解けた 睡眠だけでも 取る事ができない。「だに」は、副助詞。1.強意… せめて~だけでも・~だけなりと。2.類推…~だって・~のようなものでさえ。 3.添加…~までも の意。拾遺、恋二、読人不知「君ふる涙の凍る冬の夜は心と けたるいやは寝らるゝ」 。 * 春ならぬ木のめ も いとなく歎かしきに…昼は 物を思い込んで 春の木の芽で はないけれど、この目も 休まる暇がなく、歎く状態であるのに。一条摂政(伊尹) 集「夜はさめ晝はながめに暮らされて春は木の芽ぞいとなかりける」。 「木の芽」に 「この目」を懸ける。 「いとなし」は、暇無し。暇がない・絶え間がない・せわしい の意。 * 今めかしくうち語らひて…当世風に陽気に、空蝉と 17 語りあって。 「この障子口に 私は 寝るとしよう。風よ 吹き通っておくれ」 と、言って 小君は、薄縁を広げて敷き 横になる。女房たちは、東廂の間に、 大勢集って 寝ているのであろう。先程、小君のために 妻戸を 開けてやっ た女童も、そちらの 東廂の間に入って 寝てしまったので、小君は、暫く 狸 寝入りをして、(皆が 寝込んだ と見てから)灯台の火の明るい方に、屏風を 広げて 光を遮り、薄暗くなった所に、そっと 源氏を お入れ申した。「結果 は どうなるのであろうか。(このようなまだ子供に 導かれたのだから)愚か しいことも あるであろう」、と お思いなされるので、ひどく 気は ひける のだけれども、小君の 手引きに従って、母屋の 几帳の帷子を 引き上げて、 たいそう静かに お入りになろうとするが、皆が 寝静まっている夜なので、 お召し物の 衣擦れの様は、柔らかではあるが、却って ひどく はっきりと、 音を立てるのであった。空蝉は、「あのように 御消息も 絶えてなしの状態で、 私を 源氏の君が お忘れなさるのは、嬉しい事」と 敢えて 思うけれども、 先夜の 今 思っても 夢のようであった 源氏との 密会ではあったのだけ れども、(それが)怪しく 心から 離れてなくなる折の ない折なので、せめ て 打ち解けた 睡眠だけでも取ろうとするのだが、どうも 取る事が出来ず に、昼は 物思いに耽り、夜も 寝覚めがちなので、春の木の芽ではないが こ の目も 休まる暇もなくて、歎く状態であるのに、碁の相手をしていた君(軒 端荻)が、 「今夜は こちらに 寝ましょう」 と、当世風に 陽気におしゃべりして、側に 寝てしまったのである。何 思 うでもなく、無心に たいそう よく眠っているのであろう。 かゝるけはひの、いとかうばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、單衣うちか けたる几帳のすき間に、暗けれど、うちみじろき寄るけはひ、いとしるし。「あ さましく」おぼえて、ともかくも思ひわかれず、やをら起き出でゝ、生絹なる 單衣一つを着て、すべり出でにけり。 * かゝるけはひの…このような いと やをら入り給ふ 源氏の そぶりで。 * うちみじろき寄るけはひ…体を動かして 空蝉に 近づく様子が。「みじろく」は、 身動く。体を動かす の意。 * あさましく…呆れるほど困ったと。 * すべり出でにけり…母屋から そっと抜け出した。 (いとやをらに入り給ふ)源氏の 気配がして、御衣の香が、たいそう香高く、 匂ってくるので、空蝉が、顔を上げて 様子を窺うと、単衣の帷子を 18 打ちか けてある几帳の隙間に、暗いけれども、源氏が にじり寄って 来る様子が、 はっきりと 分かるのである。空蝉は、「呆れてしまう程に、困った事」と、思 われるので、何とも 分別もつかずに、そっと 起き出して、生絹の単衣を、 一枚はおって、そっと 母屋を 抜け出てしまうのであった。 君は、入り給ひて、たゞ一人臥したるを、心安くおぼす。床の下に、二人ばか りぞ臥したる。衣をおしやりて、より給へるに、ありしけはひよりは、ものも のしくおぼゆれど、おもほしもよらずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしく 變りて、やうやう見あらはし給ひて、あさましく心やましけれど、「『人違へ』 と、たどりて見えんも、をこがましく、『あやし』と思ふべし。本意の人をたづ ねよらむも、かばかり逃るゝ心あめれば、かひなく、『をこ』にこそ思はめ」と おぼす。「かの、をかしかりつる火影ならば、いかゞはせむ」におぼしなるも、 惡き御心淺さなめりかし。 * たゞ一人…軒端荻。 * 床の下…孫廂の下手。即ち南の方。武家では で 広廂を大廂ともいった。ここは孫廂 南廂の外(南側)である。 * 衣をおしやりて…女の。 * ありしけはひよりは…かっての 女の様子よりは。 * ものものしく…大柄であると。 * おもほしもよらずかし…人違いであるとは お思い付きにも なられなかった。 * いぎたなきさまなどぞ…目を覚まさない様子などが。「いぎたなし」は、寝汚し・寝 穢し。寝坊である・なかなか目を覚まさない の意。 * あやしく變りて…妙に 違っていて。 * 見あらはし給ひて…人違いだと お分かりになられて。 * あさましく心やましけれど…呆れる程に 不愉快であるけれども。 * たどりて見えんも…もし 女から 探って見られるとしたら。 * 本意の人…目当ての 空蝉。 * あめり…あると見える・あるようだ・あるらしい。動詞「あり」の連体形「ある」 +推量の助動詞「めり」=「あるめり」、その撥音便「あんめり」、その撥音「ん」 の表記されない形。普通「あンめり」と 読む。 * かひなく…尋ね甲斐もなく。 * をこ にこそ思はめ…源氏の行動を * かの をかしかりつる火影ならば…もし この一人臥している女が 先程 垣間見 た時の あの火影に見えた 愚か者と 空蝉は 思うであろう。 美しい女ならば。 * いかゞはせむ…人違いであっても 構わないだろう。 19 * 惡き御心淺さなめりかし…源氏の 「なンめり」と けしからぬ ご思慮の浅薄さ と 言えよう。 読む。この帖 最終ページ参照。 源氏君は お入りになって、女が、ただ一人寝ているのを 安心に お思いに なる。孫廂の下手に 女房が 二人ばかり寝ている。源氏は 女の衣を 押し のけて、傍らに お寄り添いなさると、先夜の様子よりは 大柄な感じに 思 われけれども、人違いであるとは お気づきなされない。女が 目を覚まさな い様子などが、空蝉と 妙に違っていて、だんだんと 人違い と お分かり になられて、呆れる程に 不愉快ではあるけれども、「源氏が『人違いをしたの だ』と もし 女から探って見られる としても 愚かしく、女の方も『変だ』 と 思うであろう。目当ての空蝉に 尋ね寄っても、空蝉は このように避け る気持が あるようであってみれば、尋ね甲斐もなく、また 源氏の行動を 愚 かな事 と 思うであろう」と お思いになる。「(もしこの女が 先程垣間見 た時の)あの火影に見えた 美しい女であったならば、(仮令 人違いであった としても)構わないであろう」と 思いになるのも、けしからぬ ご思慮の浅 薄さである、と 言えよう。 やうやう目さめて、いと、思えずあさましきに、あきれたる氣色にて、何の、 心深く、いとほしき用意もなし。世(の)中を、まだ思ひ知らぬほどよりは、 ざればみたる方にて、あえかにも思ひ惑はず。「我とも知らせじ」とおもほせど、 「いかにして、かゝる事ぞ」と、後におもひめぐらさむも、わがためには、事 にもあらねど、あの、つらき人の、あながちに世をつゝむも、さすがにいとほ しければ、度々の御方違に事つけ給ひしさまを、いとよう言ひなし給ふ。たど らむ人は、心得つべけれど、まだ、いと若き心地に、さこそ、さしすぎたるや うなれど、えしも思ひわかず。憎しとはなけれど、御心とまるべき故もなき心 地して、猶、かのうれたき、人の心を、いみじくおぼす。「いづこに、はひまぎ れて、『かたくなし』と思ひゐたらむ、かく、しふねき人は、ありがたき物を」 とおぼすにしも、あやにくに、紛れがたう、思ひ出でられ給ふ。この人の、何 心なく、若やかなるけはひも、あはれなれば、さすがに、なさけなさけしく契 りおかせ給ふ。 * やうやう目さめて…軒端荻は 徐々に 目が覚めて。 * いと 思えずあさましきに…全く 驚くほどに 甚だしい状態なのに。 * 何の 心深く いとほしき用意もなし…思慮が浅く 気の毒なほどに 何の心構え もない。 「いとほし」は、可哀そうだ・気の毒だ・不憫だ。2.困る・嫌だ。3.可 愛い・いとしい・いじたしい の意。 20 * まだ思ひ知らぬほどよりは…まだ 考え知らない 年齢の割りに 比較しては。 * ざればみたる方にて…風流(洒落)がかった 女で。「ざればむ」は、戯ればむ。「さ ればむ」とも。1.洒落たふうに振舞う・風流めく。2.近世語、浮つく・軽薄に 振舞う の意。 「ばむ」は、接尾語。名詞・動詞の連用形・形容詞の語幹(シク活用 では終止形)について、~の性質・状態が備わる・~の状態になる の意を表す動 詞を作る。例、老いばむ・黄ばむ・黒ばむ・萎えばむ・情けばむ・濡ればむ・由ば む など。 * あえかにも思ひ惑はず…弱ったようにも うろたえたりもしない。 「あえか」は、如 何にも弱々しい・繊細である・華奢だ の意。 * 我とも知らせじ…源氏とは * いかにして 知らせたくはない。 かゝる事ぞ…どうして このような事に なってしまったのか。 * つらき人…源氏に対して 冷淡な 空蝉。 * あながちに世をつゝむも…源氏との浮名に対して 強いて 世間を憚るのも。 * 度々の御方違に事つけ給ひしさまを…度々の 方違いに託けて 軒端荻に 逢いに 来たのだ という様子を。 * たどらむ人は…もし あれやこれやと 考えて行く 察しのよい人であったならば。 「たどる」は、辿る。A.他動詞として、1.探り求める・尋ね探す。2.探り当 てる・探し当てる。3.あれこれと推量する・あれこれと考慮する。B.自動詞と して、1.思い迷う・途方に暮れる。2.まごつく * 心得つべけれど…きっと 真相を 悟るに * さこそ の意。 相違ないのだけれども。 さしすぎたるやうなれど…あれ程に 出過ぎたようでは あるけれども。 「さしすぐ」は、差し過ぐ。1.出過ぎる・度を過ごす。2.通り過ぎる・通過す る の意。 「さし」は、接頭語。動詞について、語勢を強めたり 語調を整えたりす る。例、さし仰ぐ・さし受く・さし曇る など。 * えしも思ひわかず…悟る事は とても出来ない。 「えしも」は、下に打ち消しの語を ともなって、どうしても~出来ない・とても~出来ない の意。 * 御心とまるべき故もなき心地して…お心に入れるべき 理由もない気がして。 * かのうれたき あの冷たい空蝉の心を 人の心を いみじくおぼす…やっぱり ひ どく恨めしいと お思いである。「うれたし」は、 「心(うら)痛し」の転。嘆かわ しい・腹立たしい・いまいましい の意。 * いづこに はひまぎれて…どこに こっそりと 隠れて。 * かたくなし…融通が利かない 愚か者。「かたくなし」は、頑なし。1.融通が利か ず頑固である・強情だ。2.見苦しい・みっともない * かく しふねき人…こんなに の意。 頑固な女。 「しふねし」は、執念し。1.執念深い・ しつこい。2.意志や意地を立て通すさま・強情である の意。 * あやにくに 紛れがたう…困ったことに 気持を紛らわす事もできずに。 21 * あはれなれば…可愛いので。 女(軒端荻)は、だんだんに 目が覚めて 誠に 思いも寄らぬ あまりの事 に、呆れかえった様子で、(源氏から御覧になるに)特に これといった思慮深 さもなく いじらしい 心使いもない。男女の道を まだ 考え知らない年齢 にしては、ませた所が ある女で、消えいらんばかりに うろたえるでもない。 源氏は、「源氏とは 知らせたくはない」と お思いになるが、「どうして 源 氏の君と このような事に なってしまったのか」と 後に、もし 軒端荻が 思い巡らせたならば、(真相は分かるであろうが)、それにつけても、源氏自身 のためには、何という事も ないけれど、源氏に 冷淡なあの人(空蝉)が、 源氏との浮名に対して 強く 世間を憚っているのも、やはり 気の毒である ので、(空蝉との浮名が立たぬようにと)度々の方違に託けて、軒端荻に 逢い に来たのだ という事を、上手に 繕って お話になる。察しのよい女ならば、 真相を きっと 悟るに相違ないのだけれども、この女は、まだ 経験も浅い 分別では、あれほど 出過ぎた おませのようでは あるけれども、そこまで は 見抜けない。源氏は、憎くはないのだが、この女に お心を 惹かれるよ うな理由も ないような気がして、やっぱり あの 冷たい空蝉の心を、ひど く 恨めしい、と お思いである。「何処かに、こっそりと 隠れて居て、私の 事を『融通の聞かない 愚か者』と、思っているのであろう。このように 頑 固な女は、滅多にないものを」と、お思いになるのも、困ったことに、気持を 紛らわすことも 出来ずに、思い出さずには いらっしゃれない。(御心とまる べき故も なき心地は、するものの)そうかと言って、この女(軒端荻)も、 何も 気付かずに、初々しい感じが いじらしいので、さすがに、愛情濃やか に、将来を お約束しおかせなさる。 源氏「 「人しりたる事よりも、かやうなるは、あはれ添ふこと」となん、昔人も いひける。あひ思ひ給へよ。つゝむ事なきにしもあらねば、身ながら、心にも え任すまじくなむ有(り)ける。又、「さるべき人々も、許されじかし」と、 かねて胸痛くなむ。わすれで待ち給へよ」 など、なほなほしく語らひ給ふ。 軒端荻「人の思ひ侍らん事の、恥づかしきになむ、え聞えさすまじき」 と、うらもなく言ふ。 源氏「なべて、人に知らせばこそあらめ。この小さき上人などにつたへ、聞え む。けしきなく、もてなし給へ」 など言ひ置きて、かの、脱ぎすべしたる薄衣を取りて、出で給ひぬ。 22 * かやうなるは…このような 人目を忍ぶ恋は。 * あはれ添ふこと…情愛も 加わる事である。 * いひける…言っているようである。 「ける→けり」は、恒久的事実。 * あひ思ひ給へよ…私が 貴方を思うように 貴方も私をお思いなさい。「あひおも ふ」は、相思ふ。互いに思う・思い合う の意。 * つゝむ事なきにしもあらねば…私は 世間を憚る理由の ない身ではありませんか ら。「なきにしもあらず」は、ない訳ではない の意。 * 心にもえ任すまじくなむ有(り)ける…我が心に 任せる事も 出来そうにもないのでありま したよ。 * さるべき人々も 許されじかし…当然に さる 即ち 結婚を許否す 人々 べきはずの 即ち 親伊予介や兄紀伊守も 貴女と私との関係を お許しなさいますまい よ。 * なほなほしく語らひ給ふ…何の事もなく 通り一遍に 語り続けなさる。 「語らふ」 は、「語る」の継続体。 「なほなほし」は、直直し。平凡である・ありきたりである・ 何の取柄もない の意。 * 人の思ひ侍らん事の…他人が * え聞えさすまじき…消息を * なべて ば 何かと 思いますかもしれない事が。 差し上げることは 出来ないでしょう。 人に知らせばこそあらめ…他人に この秘密を 何もかも 知らせたなら 如何にも恥ずかしくて困るでしょう。 * 小さき上人…小さい殿上人 小君。 * つたへ…消息を。 * けしきなく もてなし給へ…私と逢ったなどという 素振も見せずに、何気ないふ うに、態度をお示しなさい。 * 脱ぎすべしたる薄衣を取りて…脱いで すべらかしてある薄衣を持って。「うすぎ ぬ」は、薄衣。薄い布地の着物・うすごろも の意。「すべす」は、滑す。滑らせる・ 着物をすべらせて脱ぐ の意。 源氏は、 「「公然と 誰もが知っている恋よりも、このような 人目を忍ぶ恋の方が、 情愛も勝るもの」と、昔の人も 言っています。貴女も 私と同じように 愛 して下さいよ。私は 世間を憚る事情が ないわけでは ございませんから、 我が身ながら 思うにまかせることが 出来なかったのです。また、「あなた の ご両親やご兄弟も 許しては くださるまい」と 今から 胸を痛めて居 ります。でも 忘れないで、私を 待っていて下さいよ」 などと、如何にも 通り一遍に お話なさる。軒端荻は、 「他の人に 知られる事が 恥ずかしくて、お手紙も 23 差し上げる事が で きません」 と 無邪気に言う。源氏は、 「他人に この秘密を 何もかも 全て知らせたならば、如何にも 恥ずか しく 困ることでしょう。ここの 小さい殿上童(小君)に託して 消息を 差し上げましょう。私と逢ったなどという 素振りも見せず 何気ないふう に 振舞ってください」 などと、言い置いて、あの 空蝉が 脱ぎ捨ててあった薄衣を 手に持って 母 屋から お出になられた。 4 曉月夜 源氏 帰邸せんとす 小君、近う臥したるを、起し給へば、うしろめたう思ひつゝ寢ければ、ふと驚 きぬ。戸をやをら押し明くるに、老いたる御達の聲にて、 御達「あれは、誰そ」 と、おどろおどろしく問ふ。わづらはしくて、 小君「まろぞ」 といらふ。 御達「夜中に、こは、なぞ歩かせ給ふ」 と、さかしがりて、外ざまへ來。いとにくゝて、 小君「あらず。こゝもとへ出づるぞ」 とて、君をおし出でたてまつるに、あか月近き月、隈なくさし出でて、ふと、 人の影見えければ、 御達「又おはするは、誰そ」 と問ふ。 御達「民部の御許なめり。けしうはあらぬ御許のたけだちなりな」 といふ。たけ高き人の、常に笑はるゝをいふなりけり。老人、「これを、つらね てありきける」と思ひて、 御達「いま、たゞ今、たちならび給ひなん」 といふいふ、われも、この戸より出でゝ來。わびしけれど、えはた、おし返さ で、渡殿の口にかい添ひて、かくれ立ち給へれば、このおもと、さし寄りて、 御達「おもとは、今宵は、上にやさぶらひ給ひつる、一昨日より、腹を病みて、 いとわりなければ、下に侍りつるを、「人ずくななり」とてめししかば、昨夜、 まうのぼりしかど。猶、え堪ふまじくなん」 と憂ふ。いらへも聞かで、 御達「あな、はらはら。今、聞えん」 24 とて、過ぎぬるに、からうじて出で給ふ。「猶、かゝるありきは、かるがるしく、 危かりけり」と、いよいよ思し懲りぬべし。 * 小君 近う臥したるを…小君が 近く 東廂の障子口に 寝ていたのを。 * うしろめたう思ひつゝ寢ければ…源氏の首尾は どうであろうか と 気に掛けて 寝ていたので。 「うしろめたし」は、後めたし。1.なりゆきがきがかりである・不 安だ。2.後ろ暗い・気が咎める の意。 * ふと驚きぬ…はっと 驚いて目を覚ました。「おどろく」は、驚く。1.びっくりす る・2.はっとして気が付く。2.眠りから覚める・目が覚める の意。 * 戸をやをら押し明くるに…小君が そっと 妻戸を押し開ける時に。 * おどろおどろしく…大袈裟な声で。 * こは なぞ歩かせ給ふ…これはまあ、どうして 外を お歩きなのでしょうか。「こ は」は、物事を これと指定して 感動・驚嘆の気持ちを現す場合に用いて、これ はまあ の意。 * さかしがりて…利口ぶって。即ち 余計なお世話を焼いて。 * あらず こゝもとへ出づるぞ…出歩くのではない。ここへ出るだけです。 * 民部の御許なめり…「なンめり」と 読む。この帖 最終ページ参照。 * けしうはあらぬ御許のたけだちなりな…悪くはない 相当立派な 民部の御許の 身の丈ですね。 「おもと」は、御許。A.名詞として、1.天皇や貴人の御座所。2. 御許人の略。貴人に仕える人、主として比較的上位の宮仕えの女房。3.女房の名 や職名の下に敬称として付けた語。B.代名詞として、対象の人代名詞。親愛野意 を表し 主に、女性に対して用いる。あなた の意。 * つらねてありきける…連れて 一緒に歩いているのだ。「つらぬ」は、連ぬ・列ぬ。 A.自動詞として、1.一列に並ぶ・連なる。2.連れ立つ・一緒に行く。B.他 動詞として、1.一列に並べる・2.伴う・引き連れる の意。 * たゞ今 たちならび給ひなん…小君は 直ぐに身長が伸びて 民部の御許と並んで しまいなさるでしょう。 * いふいふ…言いながら。終止形を重ねて 副詞とした。 * わびしけれど…源氏は 困るけれども。「わびし」は、侘びし。1.苦しい・辛い。 2.寂しい・もの悲しい。3.貧しい・みすぼらしい。4.面白くない・興醒めだ・ もの足りない などの意。 * えはた おし返さで…そうかといって、老女房を 内に押し戻す事も出来ないので。 「え」は、副詞。1.下に肯定の表現を伴って、~することが出来る・よく~し得 る。2.下に打ち消し・反語の表現を伴って、~することが出来ない・~出来よう か、いや 出来ない の意。 「はた」は、将。A.副詞として、1.あるいは・もし かすると・ひょっとすると。2.上の意を受けて、此れを翻す意を表す。然しなが 25 ら・そうはいうものの・それでもやはり。3.上の意を受けて、係助詞「も」と同 じような意を表す。~もまた・その上また。4.多く きっと・おそらく 下に打ち消しの語を伴って、 などの意。B.接続詞として、「はたまた」に 同じ意。 * 渡殿の口にかい添ひて…東の対に行く 渡り廊下の 入り口の所に ぴったり寄り 添って。 「かい」は、掻い。接頭語。「かき」のイ音便。動詞・まれに形容詞につい て、語調を整えたり、語意を強めたりする。例、かい練り・かい鳴らす・かい曇る・ かい連ぬ・かい捨つ など。 * このおもと…この老女房が。 * さし寄りて…源氏に。 * 上にやさぶらひ給ひつる…上 ご主人 即ち空蝉の所 に 伺候していらっしゃっ たのですか。 * いとわりなければ…全く どうにもならないので。「わりなし」は、1.道理に合わ ない・無理である・めちゃくちゃである・分別がない。2.堪え難い・苦しい・辛 い。3.仕方がない・やむを得ない・どうにもならない。4.殊の外である・一通 りではない・程度が甚だしい。5。格別に優れている・素晴らしい * 下に侍りつるを…下屋 女房たちの控え室 などの意。 にいましたのに。 * まうのぼりしかど…空蝉の許に 参上したのでしたけれども。「まうのぼる」は、参 上る。 「まゐのぼる」のウ音便。貴人の所へ伺う・参上する く 大腸カタルか何かで 腹が痛くもあり * 憂う…歎き訴える。源氏を の意。この老女は恐ら 下痢もしていたのであろう。 民部の御許と思って話しかけるのである。その返事も 聞かずに。 * あな はらはら 今 聞えん…ああ、お腹が お腹が。直ぐにまた お話申し上げ ましょう。 * かゝるありきは…このような 忍び歩きは。 * かるがるしく 危(あやふ)かりけり…軽率であり、危なかったのだ。 * いよいよ思し懲りぬべし…以前よりも 一層 懲り懲りした と お思いなされた に違いない。 小君が 近く(東廂の障子口)に 寝ていたのを、源氏が お起しになると、 小君は 首尾はどうであろか、と 気に掛けて寝ていたので、はっと 驚いて 目を覚ました。妻戸を そっと 開ける時に、年取った女房たちの声で、 「あれは 誰ですか」 と 大袈裟な声で尋ねる。小君は 厄介に思って、 「私ですよ」 と 答える。 「夜中に これはまあ、どうして 外をお歩きですか」 26 と、余計なお世話焼顔で、外にまで出てくる。とても腹立たしくて、 「出歩くのではない。此処に出るだけですよ」 と 言って、源氏の君を お出し申し上げると、明け方に近い 月の光が明る く照っていで、ふと 人の影が見えるので、 「もう一人 いらっしゃるのは どなたです」 と 尋ねる。 「民部の御許のようですね。相当 立派な身の丈ですこと」 と 言う。背丈の高い人が いつも 他の女房たちから 笑われる女房のこと を 言うのであった。老女房は、小君が その女房を 連れているのだ と思 って、 「小君は 直ぐに 身長が 民部の御許に 並んでしまいなさるでしょう よ」 と 言いながら、自分も この妻戸から出てくる。老女房が出て来ては 源氏 も、困ってしまうが、そうかといって また 内に 押し返すことも出来ない ので、東の対に行く 渡り廊下の入り口の所で、ぴったり寄り添って 隠れて 立って居られたところが、この老女房が 源氏に 近寄って来て、 「民部の御許は、今晩は 上に伺候して居たのですか。私は、一昨日から お 腹の具合が悪くて、我慢出来ませんでしたので、下屋に居ましたのに、「人が 少ないので」、と お召しがありましたので、昨夜、参上したのですが、やは り、まだ 我慢が出来ないようなのです」 と 歎き訴える。その相手(実は源氏)の 返事も聞かないうちに、 「ああ、お腹が、お腹が。直ぐにまた お話申しましょう」 と 言って、通り過ぎて行ってしまったので、源氏は 漸くの事で、お出にな る。「やはり こうした忍び歩きは、軽率で 危なかったのだな」と、以前より も増して 懲り懲りした と お思いになされたに相違ない。 5 源氏帰邸 空蝉に消息 空蝉煩悶 小君、御車のしりにて、二條院におはしましぬ。有樣、のたまひて、「幼かり けり」とあはめ給ひて、かの人の心を、爪はじきをしつゝ恨み給ふ。いとほし うて、ものも聞えず。 源氏「いと、ふかう憎み給ふべかめれば身も憂く思ひはてぬ。などか、餘所に ても、懐しきいらへばかりは、し給ふまじき。伊豫の介に劣りける身こそ」 など、「心づきなし」と思ひてのたまふ。ありつる小袿を、さすがに、御衣の下 に引き入れて、大殿籠れり。小君を御前に臥せて、よろづに恨み、かつは語ら 27 ひ給ふ。 源氏「あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそ、え思ひはつまじけれ」 と、まめやかにの給ふを、「いと、わびし」と思ひたり。しばし、うち休み給へ ど、寢られ給はず。 * 小君 御車のしりにて…小君を 御車の尻に乗せて。 * 幼かりけり…お前のやり方は 幼稚であったのだね。 * あはめ給ひて…けなし疎んじなされて。「あはむ」は、淡む。疎んじる・たしなめる の意。 * かの人の心を ら 爪はじきをしつゝ恨み給ふ…空蝉の心持を 非難の爪弾きをしなが 恨みなさる。 「つまはじき」は、爪弾き。人差指または中指の爪先を 親指の腹 に懸けて 弾くこと。気にくわない時や 忌み嫌う時などにするしぐさ の意。 * いとほしうて…源氏が お気の毒なので。 * ものも聞えず…何も申し上げない。 * べかめり…~に違いないようだ・~筈のようだ。助動詞「べし」の連体形「べかる」 +推量の助動詞「めり」=「べかるめり」 、その撥音便「べかンめり」 、その撥音「ん」 の表記されない形。普通「べかンめり」と * などか は 餘所にても 読む。 懐かしきいらへばかりは し給ふまじき…空蝉に逢えないの 仕方ないとしても 何とかして、間接であっても、懐かしい返事だけは 下さ らないのであろうか。「よそ」は、余所。A.名詞として、1.他の場所・遠い場所。 2.直接関係のないこと・他人のこと・別・他人 の意。「き」は、助動詞。1.過 去に直接経験した事実、過去にあったと信じられる事実を回想していう意を表す。 ~た・~ていた。2.平安期以降の用法、動作が完了して その結果が存続してい る意を表す。~ている・~である の意。 * 伊豫の介に劣りける身こそ…伊予介にも 及ばないのである身が。 * 心づきなし と思ひてのたまふ…どうも恨めしいなど いと考えて 空蝉の態度を 気に入らな おっしゃる。 * ありつる小袿を…空蝉が脱いでおいた 小袿をば。 * さすがに 御衣の下に引き入れて…さすがに 「御衣」は 宿直物の事をいう。即ち 宿直物の下に 引き入れて。ここの 体の上に小袿を掛け その上に御衣(宿直 物)を掛けて寝たのである。 * つらきゆかりにこそ…恨めしく 辛い空蝉の縁者の故に。 * え思ひはつまじけれ…どうも 最後まで愛しきる事が 出来そうに思われない。 * いとわびし…酷く つらい。 * 寝られ給はず…寝る事が お出来なさらない。 28 小君を 御車の尻に乗せて、源氏は 自邸である二条院に お帰りになられた。 昨夜の様子を 小君に 仰って、「お前のやり方は 愚かであったよ」と 軽蔑 なさって、あの人空蝉の気持を 爪弾きをしながら お恨みなさる。小君は 源 氏が お気の毒で 何も 申し上げられない。源氏は、 「空蝉が とても ひどく嫌って おいでのようなので、我が身も すっかり 嫌になってしまった。どうして 逢って下さらないまでも、間接にでも 懐か しいご返事ぐらいは して下さらないのであろうか。伊予介にも及ばない 我 が身が 何とも 恨めしい」 などと、空蝉の態度を 気に入らない と 思って 仰る。空蝉が 脱いでお いた小袿を(伊予介に劣りける身 などと 空蝉を 気に入らなく思っていて も)そうは言うものの、宿直物の下に引き入れて、お休みになられた。小君を お側に 寝かせて、いろいろと 恨み言をいい、かつまた 優しくお話なさる。 「お前は 賢いけれど、恨めしく つれない 空蝉の弟だ と 思うと、ど うも 何時までも可愛がってやれるとも分からない」 と、真面目に 仰るので、小君は「とても 辛い」と 思うのであった。源氏 は、暫くの間、横になって居られたが、お眠りになれない。 御硯、急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、たゞ、手習のやうに書きす さび給ふ。 源氏 空蝉の身をかへてける木の下に猶人がらのなつかしきかな と書き給へるを、ふところに引き入れて持たり。かの人も、「いかに思ふらん」 と、いとほしけれど、かたがたおもほしかへして、御言づけもなし。かの薄衣 は、小袿の、いとなつかしき人香にしめるを、身近くならして、見居給へり。 * さしはへたる御文にはあらで…後朝の文ではあるが 「さしはふ」は、指し延ふ。わざわざする・殊更に わざわざ遣る文ではなくて。 それと目指してする の意。 * 手習のやうに…「手習」は、1.文字を書く練習・習字。2.心に浮ぶままに、無 造作に歌などを書くこと・すさび書き の意。この「手」は、文字・筆跡 の意。 * 書きすさび給ふ…書き流しなさる。 「かきすさぶ」は、書きすさぶ。 「かきすさむ」 とも。慰みに書く・気の向くままに書く の意。 * 空蝉の…蝉が出てしまって、殻だけが残っている木の下に 私はまだやっぱり、こ の殻が懐かしいのです(あなたは 蝉の抜け殻のように 薄衣でけを残して身を移 してしまったが 私は見捨てられてもやっぱり 貴方の人柄が懐かしく また の抜け殻の薄衣が懐かしいのです) 。この歌により * ふところに入れて…小君が。 * かの人…軒端荻。 29 この帖の名が付けられた。 蝉 * かたがたおもほしかへして…様々に * 御言づけもなし…軒端荻には * かの薄衣は 小袿の…あの お考えを改めて。 物を言い遣る事もない。 空蝉の残した薄衣は 小袿で。 * いとなつかしき人香にしめるを…たいそう慕わしい人の 移り香に染まっているの (小袿)を。 * 身近くならして…何時も お側に置いて 自分に馴れさせて。 源氏は、御硯を 急ぎ用意させて、わざわざのお手紙ではないが、手習いのよ うに 思うままに お書きになる 貴女は 蝉の抜け殻のように 薄衣だけを残して 身を移されてしまっ たが 私は 見捨てられてもやはり 貴女の人柄が恋しく 蝉の抜け殻 のような 薄衣も 懐かしいのです と お書きになったのを、小君は 懷に入れて 持っていた。あの女(軒端荻) も、「この私を どう 思っているだろうか」と、気の毒に 思うが、様々に お 考えを 思い返されて、軒端荻には 何のお言づけもない。あの空蝉の薄衣は 小袿で、たいそう 懐かしい人の移り香が 染み込んでいるので、何時も お 側に置いて、馴れ親しんで 眺めていらっしゃるのである。 小君、かしこに行きたれば、あね君待ちつけて、いみじくのたまふ。 空蝉「あさましかりしに。とかうまぎらはしても、人の思ひけんこと、さり所 なきに、いとなむわりなき。いと、かう心幼き心ばへを、かつは、いかにおも ほすらむ」 とて、はづかしめ給ふ。ひだり右に苦しく思へど、かの御手習取り出でたり。 さすがに、取りて見給ふ。かのもぬけを、「いかに、伊勢をの海士のしほなれて や」など思ふも、たゞならず、いとよろづに思ひ亂れたり。にしの君も、物恥 づかしき心地して、渡り給ひにけり。また、知る人もなき事なれば、人知れず、 うちながめて居たり。小君の渡りありくにつけても、胸のみふたがれど、御消 息もなし。「あさまし」と、思ひ得る方もなくて、ざれたる心に、物あはれなる べし。つれなき人も、さこそしづむれど、淺はかにもあらぬ御氣色を、「ありし ながらの我(が)身ならば」と、取りかへす物ならねど、忍びがたければ、こ の御疊紙の片つ方に、 空蝉 空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびに濡るゝ袖かな * かしこ…紀伊守の邸。 * あね君…空蝉。 * 待ちつけて いみじくのたまふ…待ち受けていて 厳しく 小言を仰る。 30 * あさましかりしに…源氏の君が 忍び込まれた事に 私は 肝をつぶした。 * とかうまぎらはしても…とやかく 誤魔化しても。 * さり所なきに…避ける所は ないのですから。 * いとなむわりなき…どうにもならず * いと たいそう困るのです。 かう心幼き心ばへを…全く このような 思慮の幼稚な気持を。 * ひだり右に苦しく思へど…小君は 左からも は 恥ずかしめられるので 源氏には恨まれ、右からも 空蝉に 心が 苦しいと思うけれども。 * 御手習…御走り書き。 * さすがに…空蝉は 小君を 叱ったものの さすがに。 * もぬけ…薄衣の小袿。「もぬく」は、蛻く。蛇や蝉などが、成長する時期に、殻を脱 ぐ・脱皮する の意。 * 伊勢をの海士のしほなれてや…伊勢の海士の 脱ぎ捨てた衣のように 古く汚くな っているであろうと。後撰、恋三、伊尹「鈴鹿山伊勢をの蜑(あま)の捨て衣潮な れたりと人や見るらん」 。 「伊勢をの」の「を」は助詞。 * 物恥づかしき心地して…自分の行為に対して 気恥ずかしい気がしたので。 * 渡り給ひにけり…自室の 西の対に。 * 知る人もなき事なれば…源氏との秘密を。 * うちながめて居たり…一人で。 * 小君の渡りありくにつけても…小君が を 二条院へ行ったり また母屋や西の対辺り 歩いて行くにつけても。 * あさまし…源氏の態度を 呆れた事だ。即ち 人違いであったのだ。 * 思ひ得る方もなくて…気の付き得る方法もないので。 * ざれたる心…浮いた気持。 * 忍びがたけれども…人妻ならぬ 昔の我が身云々 と思うと じっと堪えていられ ないから。 * 御疊紙(たゝうがみ)…懐紙のこと。薄墨色で大型。後世の檀紙に相当する。 * 空蝉の…蝉の羽におく露が て 木に隠れて見えないように、私も源氏の君からは隠れ その御情の露を受けて、人知れず涙に濡れる私の袖でありますよ。源氏には見 せる気はない。伊勢集中の和歌を用いた。この歌も この帖の名の所縁となった。 小君が、紀伊守の邸に 行ったところ、姉君(空蝉)が、待ち構えていて、厳 しく お叱りになる。 「源氏の君が お忍びなされるなど とんでもない事、私は 肝がつぶれまし たよ。このような事は、とやかく 誤魔化しても 他の人が思う事を 避ける 事は どうする事も 出来ないので、本当に 困ってしまいますよ。全く こ のように 思慮の幼稚な気持を、また一方で 31 どう お思いになって いらっ しゃるのか」 と 言って、小君を お叱りになる。源氏には 恨まれ 空蝉には 叱られて 左からも右からも責められて 辛いのであるが、懷の あのお手紙を取り出し た。お叱りは したものの、空蝉は さすがに、お手紙を 手にとって御覧に なる。あの 脱ぎ捨てた小袿を「どのようであろうか。伊勢をの海士の脱ぎ捨 てた衣のように、古く 汚くなっているのいであろうか」などと、思うのも、 気が気でなく、色々に 思い乱れなさる。西の対の君(軒端荻)も、何となく 気恥ずかしい思いがして、西の対の 自室にお帰りになった。源氏との密事は、 自分以外には 知る人もいない事なので、一人で 物思いに耽っていた。小君 が、二条院に行ったり また 西の対辺りを 歩きまわるにつけても、胸ばか りを ときめかせるが、お手紙もない。「あまりの事、人違いであったのだ」な どと、気付く術もなくて、陽気な性格ながら、何となく 悲しい思いをしてい るようである。情の薄い女(空蝉)も、そのように 感情を抑えてはいるけれ ども、源氏の 通り一遍のものとは思えない 情愛深いご様子を、「結婚前の 生れたままの 我が身であったならば」と、昔の身に 取り返す事の 出来る 事ではないが、じっと 堪えても居られないので、源氏の 御懐紙の片端に(こ のように書き付ける)。 空蝉の 羽に置く露が は隠れて そのお情の でありますよ 木に隠れて見えないように 私も 露を受け 人知れず 涙で濡れる 源氏君から 私の袖なの 源氏物語詳解・第三帖・空蝉 参 考 主な登場人物 源氏十七歳。 帚木の帖の末に 直ぐに 連続する。竪の並一。 空蝉 小君 軒端荻 書名由来 32 終 中河の 河内守の邸を 三度目の訪問をして、帰邸した後、 …御硯 急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで たゞ 手習のやうにかきすさび給ふ 空蝉の身をかへてける木の下に猶人がらのなつかしきかな …P.28 参照 これに対し 空蝉は …ありしながらの我「が」身ならば」と 取りかへすべき物ならねど 忍びがたければ、この 疊紙の片つかたに 空蝉の羽に置く露の木がくれてしのびしのびに濡るゝ袖かな と、書き付けたのであった。 …P.30 参照 これらの歌に拠る。 参 考 「枕草子」が「をかし」を描いた文学である とされるのに対して、「源氏物語」は、「あはれ」を 描いた文学である とされる。 「あはれ」 とは、 A.感動詞 として、 賛美・悲哀・驚嘆など さまざまな感動の気持ちを表わすときに発する語…ああ B.形容動詞 として、 1.しみじみと心を動かされる。 2.しみじみとした情趣がある・美しい。 3.さびしい・悲しい・辛い。 4.可哀そうだ・不憫だ・気の毒だ。 5.可愛い・愛しい・懷しい。 6.情が深い・愛情が豊かだ。 7.尊い・優れている・見事だ。 C.名詞として、 1.しみじみとした感動・。 2.悲哀・哀愁・さびしさ。 3.愛情・人情・好意。 などと 約は多岐にわたる。 言葉の手引き なめり・P.8-2・19-8・24-14。 ~であるようだ・~であると見える。 断定の助動詞「なり」の連体形「なる」+推量の助動詞「めり」=「なるめり」、その 撥音便「なんめり」 、その撥音「ん」の表記されない形。普通「なンめり」と 33 読む。 ためり・P.8-5。 ~たようだ・~ているようだ・~ているように見える。 完了の助動詞「たり」の連体形「たる」+推量の助動詞「めり」=「たるめり」、その 撥音便「なんめり」 、その撥音「ん」の表記されない形。普通「たンめり」と 読む。 あめり・P.19-6。 あると見える・あるようだ・あるらしい。 動詞「有り」の連体形「ある」+推量の助動詞「めり」=「あるめり」、その撥音便「あ んめり」、その撥音「ん」の表記されない形。普通「あンめり」と 読む。 べかめり・P.27-4。 ~に違いないようだ・~はずのようだ。 助動詞「べし」の連体形「べかる」+推量の助動詞「めり」=「べかるめり」、その撥 音便「べかんめり」 、その撥音「ん」の表記されない形。普通「べかンめり」と 34 読む。