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日本近代の﹁信教自由﹂
4 1 日本近代の﹁信教自由﹂の 歴史的性格 │越前真宗地帯の事例から│ 人の尊厳性にもとづく寸人権としての信仰の そこで本稿では、越前の真宗地帯の具体的 自由﹂が保障されねばならないわけである。 な動向に視点をすえ、本願寺の教部省体制批 ついで翌五年三月、従来の神祇省に代って 築を意味するものであった。 め宗教界を動員して、統一的・組織的な国民 設置された教部省のもとで、神道・仏教はじ さらに自由民権運動期の私草憲法の﹁信教自 由論﹂に照明を当て、明治前期における﹁信 判・大教院離脱運動から﹁信教自由の口達﹂ 教自由﹂の実践的課題の歴史的性格の一端を 教化の方向を打ち出した。そして同省の教導 方針を末端に徹底させようとしたことが、と 職の手で、﹁三条の教則﹂を基軸とする教化 りわけ真宗地帯の寺院僧侶・門徒層から大々 明らかにしたい。 その具体的な事象として、管見するところ 的な反発を招く結果となる。 二、越前護法大一撲の寺院の動向 て課題高揚したのが、六年三月の﹁越前護法大一捺﹂ 起し、実に三万人以上の出動をみたが、真宗 今立・坂井三郡下で﹁越前護法大一挟﹂が生 明治六年三月敦賀県(現・福井県)大野・ 明治維新政権成立後﹁神仏判然令﹂によるである。この歴史的性格については、多面的 地帯での﹁護法﹂的要因を直接的契機とする では明治五・六年を中心に全国で計一 O件の ﹁護法一撲﹂がみら仰、そのうち最も激しく 神仏分離政策の行き過ぎが﹁廃仏致釈﹂を誘な分析を必要とするが、少くとも純粋な﹁護 点で、明治初年に全国的に高揚する一般の農 民一授とは、その歴史的性格を異にす加。そ を蒙ったことは周知のとおりである。この点、宗教・教化政策に真っ向から反発したわけで、 の﹁三条の教則﹂を基本とする教化方針を、 神愛国﹂﹁天理人道﹂﹁皇上奉戴・朝旨遵守﹂ の点、明治政権の教部省体制のもとで、﹁敬 かけて絶頂に達し、仏教側には大々的な打撃条の枠内に厳しく拘束するなどの明治政権の ノ大道ヲ宣布スベシ﹂とする﹁大教宣布の詔﹂保を懸命にめざしたものと考、えたい。 が、真宗寺院僧侶・門徒層から激しい反発を 教導職の手で末端に徹底させようとしたこと 三年三月の﹁宜シク治教ヲ明ラカニシテ惟神究極のところ﹁政教分離﹂﹁信教自由﹂の確 からも明白なとおり、神道国教化政策を推進云うまでもなく﹁信教自由﹂成立の前提条 うけたわけである。 することにより、天皇制絶対主義国家の基盤件は、明治十年代の自由民権運動高揚期の種 ② 日本近代の﹁信教自由しの歴史的性格│越前真宗地帯の事例からl 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) 34の 3 夫 発して、明治三年(一八七O) か ら 翌 四 年 に 法 ﹂ 的 側 面 か ら す れ ば 、 僧 侶 の 説 法 を 教 則 三 上 を形成させるためのイデオロギー的支柱の構々の私草憲法にもみられるとおり、要は、個 上 4 2 ての豪農・酒造家木津群平(区長)はじめ紙 十四巻三号 村正立寺等ハ此程ヨリ耶蘇ノ開へ之アリ候ニ 商飯田上祐(戸長)・海産物商木津次平・砂 糖商法幸治郎三郎の居宅等を破致してい加。 若越郷土研究 大決起の発端は、今立郡定友村唯宝寺(真 スベキ﹂と説き、﹁川和田河内同行中﹂とし 付、今般集リ候ハ幸ノ儀ニ付一同ニテ応対致 しかし、浅倉・霊鞍はじめ今立郡下の真宗寺 (河) 年一月郷里に帰省したきいの、いわゆる﹁石 宗本願寺派)出身の教導職石丸八郎が、同 丸発言﹂が、真宗寺院にとっては死活の問題 A ・霊一鞍はじめ長善寺・善祐寺・西法寺等の 居 と、﹁粟田部ヨリ大勢ノ中ヲ脱レ出テ帰寺﹂ 院僧侶は、教導職関係寺院への攻撃を終える るした﹁六字ノ名号﹂の旗をふりかざし、浅 隣接の大野郡に流入し、まず、同郡下で三月五 て出動した。 住職が先頭に立って、落井村正立寺をめざし と大きな波紋を呼ぶ。そして、こうした情報が 日から八日にかけて大一撲の高揚をみるにい 門宅の打ちこわしから始まる。さらに、近隣の 村(現、鯖江市河和田町)の戸長富田重右衛 ついで今立郡下の一撲が、三月十一日小坂 ノ徒ニ之ナキ候問、寺破却等ハ免シ且ハ候様相 手帳﹂を一撲勢に読んで聞かせ、﹁決テ耶蘇 切之ナシ﹂の証拠として、﹁日々ノ事留置候 つけるが、正立寺では﹁耶蘇ノ徒杯ニテハ一 反対すべきもの﹂とか﹁好ましからざるもの﹂ は、むしろ﹁護法﹂的な側面から、絶対に﹁ や﹁耶蘇﹂の教義そのものを問題とするより ばしば﹁耶蘇﹂の語を用いたのは、﹁耶蘇宗﹂ ことが判明する。このさい、真宗寺院住職がし い点からみて、純粋な﹁護法﹂的立場による している。そして、翌十三日には一切出動しな 筋生田村の副戸長輔田治郎左衛門宅が破鼓さ 頼ミ、自ラ旗押立テ大勢ノ中へ加ハリ申候、 という、まさしく﹁法敵 要は、教導職関係寺院を﹁耶蘇ノ寺﹂ときめ れるが、翌十二日になると真っ先に、教導職 之ニヨリ一同始テ疑惑ヲ解キ、柳乱暴ノ所業 感の表現とみなすべきであろう。 たる。 にかかわるとみなされた寺院が攻撃の矢面に 致サズ、即刻引キ去り(後略)﹂、つづいて (破致)などの諸寺院に対して、徹底した打 亡)・定友村唯宝寺(焼亡)・大滝村円成寺 ル如クニ思フ﹂ほどに忌避感をそそる﹁耶蘇 にも、かねて農民の聞に寸夜叉悪鬼ノ襲来ス しかも、門徒農民層の支持・同調を得るため 視する激しい嫌悪 立たされる。しかも、一撲勢の主導的役割を担 松成村満願寺(壊段)・中新庄村妙順寺(焼 L うのが、同郡下の真宗寺院住職であることに 注目したい。 そのときの具体的な事情を、西袋村本浄寺 えたい。かの寸石丸発言﹂にからんで、﹁彼 L ついで一撲勢全般としては、東庄境村の豪 (注・石丸)ハ耶蘇ヲ勧ムルナリ﹂ときめつ の語を用いて、ことさらに喧伝したものと考 農蒲五八郎(区長)、野岡村の古川木戸兵衛 けたのも、教部省の教化政策こそ、いわゆる ﹁信教自由﹂を真っ向から否定するものであり、 ちこわしをかけたのである。 朝、多数の村民が﹁罷出ザル者ハ焼払、罷出 (副戸長)らを﹁耶蘇ノ徒﹂ときめつけて攻 撃を加え、さらに粟田部村に屯集、同村切っ 住職浅倉敬真・小坂村明正寺住職畳一正鞍大弐の 口述書から知ることができ加。つまり、同日早 ザル寺ハ耶蘇ナリ﹂と呼ばわりながら明正寺 に集結し、まず浅倉が﹁松成村満願寺・落井 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) 3 4 第 1表 No 上 日本近代の﹁信教自由﹂の歴史的性格越前真宗地帯の事例からi 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 注 ) ) 3 7 越前護法大ー撲出動の今 立郡下寺院僧侶の受刑調 〔明治 6年(18 僧侶名 寺院名 村名 西 0日 0 禁鋼 1 坂 口、 I 0日 9 " 賄罪金 3円 浅倉敬真 霊鞍大弐 明正寺 亘 関泉寺 戸 菅原了知 了慶寺 粟回部 藤井智行 円正寺 日↑台 感応寺 円 官 品 目 ノi 一 中嶋真譲 粟正寺 上野実寿 浄長寺 樋 " " "口 安楽寺 ロ七 = :1 s 、 甘庶 毎 j 言 f 斎藤大信 道 場 南 井 1 1 深川晃厳 親縁寺 大 野 2 1 3 1 4 1 5 1 6 1 7 1 8 1 9 1 0 2 1 2 2 2 3 2 4 2 5 2 6 2 7 2 8 2 9 2 0 3 1 3 2 3 3 3 4 3 智堂 千年寺 橋 "立 浄法寺 浮橋円心 寺 "袋 寺 "中 " 元教寺 野 光山善数 妙厳寺 中戸ノ口 佐々木信順 称名寺 悪遠 西法寺 j 1 J 1 j 1 J 1 西庄境 岡 司 司 場 坂 徳正寺 筋生田 藤井知信 道 藤井周諦 浅倉明了 " " " " " 善祐寺 伊東瑞真 善休寺 多 宇 尾 場 中 n f j 1 J 1 H 正 藤本智道 斎藤尽涯 上野海底 場 道 洗心 " 泰信 " " " " " " " 上知河内 両善寺 水間坂下 智鳳 端政寺 月尾坂下 1 粟田部 0円 5 . 2 西庄境 " 正立寺、道場 了暁 、 l ・2は . o 1)N )光 l J ! 日 妙 ( 『諸県口書~ 国大野郡暴動一件書類完~ 寺 日蓮宗 天台宗 " 佐々木信空 藤森智門 備考 " 西 (験頃) 玉崎照海 " " " 山 藤善教我 法専 " 片 (妙明) 光 道 " " " " " " " " " " " " " " 中山了雲 阿部円昇 刑罰 袋 本浄寺 1 、 法務省法務図書館所蔵〕、 No.3-34は (明治 6年) C C 1 1 1 『越前 1による。 i'l:史料記載の順序による。 . o 2)記載N 7粟正寺(天台宗)のほかは、浄土真宗にかかわる寺院・道 . o 6感応寺(日蓮宗) .N . o 3)N 場である。 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) 4 4 若越郷土研究 三十四巻三号 真宗寺院はもとより真宗教団全体にかかわる 死活の問題との危機意識に徹したことによる といわねばならない。 今立郡下の寺院僧侶で県から処罰されたも のは、第 1表 に み る と お り 計 三 四 名 で 、 浅 倉敬真の禁鋼 -00日、霊鞍大弐の禁鋼九O @ ⑦ 自のほかは、購罪金三円が一率に課せられて 点及び傍注は筆者による。以下同じ)として、上奉戴・朝旨遵守﹂についても、論理整然と ⑬ 次のとおり鋭︿批判する。厳しい反論を試みる。そして﹁岳連ニ欧州新聞 A 口シ、更ニ一宗ヲ造製シ、以テ之ヲ人民ニ強 所謂敬神トハ本邦一州ニ局ルノ神ナルカ、ヲ得、日ク、近来日本ノ開化剖目驚歎スルニ (通) 将万国普造ノ神ナルカ、臣未タ其ノ会意ヲ堪タリ。何ソ思ハン、此頃政府新ニ彼此ヲ採 詳ニセス。請フ、両ラ其塞ル所ヲ啓セン。 若シ本邦一州ニ局ルノ神ナルトキハ、天地・ュ、顛倒ノ甚シキト云フへシト。(後略)﹂ 日月本邦ニ局テ、敢テ他州ニ関スヘカラスと、彼が外遊中に得た欧州新聞によるわが教 是古時猶太宗ノ偏頗ナルスラ、猶云ハサル部省の教化政策の論評まで掲げて、﹁政教分 所也。方今本邦開化日ニ進ム、実ソ復此説離﹂の必要かつ重要性を力説した。要は黙雷 ヲ持セン。若万国普遍)ノ神ナルトキハ、西として、教部省の﹁三条の教則﹂による国民 いる。これは、同郡下の一捺勢の該当者五三 洋ノ所謂﹁ゴット﹂、或ハ﹁ヂユ│﹂ナル教化政策に対して真っ向から反発したものと 名の六割を占めるところから、他の大野・坂 井岡郡下に比べて、真宗寺院僧侶の主導性が 其ノ人ヲ得ルノ大ナル、実ソ耶蘇ノ右ニ出なお、彼は訪欧中に、﹁欧州政教見聞﹂(明 ⑨ ルコトヲ得ン。口ハニ右ニ出ルコトヲ得ナル治五年七月)と題する意見書を全権大使に差 者ト悶シテ、其説ノ詳ナル、其教ノ巧ナル、いえよう。 ひときわ鮮明に認められる。 =一、本願寺の教部省体制批判 教部省の教化指導体制に対して、仏教諸派 のなかで最も批判的なのは浄土真宗であった。 木、所謂八百万神ヲ敬セシムトセハ、是欧曽テ人ヲ治ムル者ニ非ズ。市シテ政ヲ禅ク、 州児童モ猶賎安スル所一一シテ、草荒・未開、コレ政ヲ行フニハ非ザル也 と、﹁政教一 ノミナラス、他日耶蘇ヲ導クノ先駆トナラし出したが、その冒頭で﹁教也者何ゾ、人ヲ ン。(中略)若夫レ天神・地紙、水火・草導キ政ヲ禅クルニアリ。夫只人ヲ導ク、未タ 明治五年一月からヨーロッパ諸国を視察した さ州、同年十二月パリから明治政府に、教部 是ヨリ甚シキ者ハアラス。(後略)致﹂の問題点を指摘している。つまり﹁政ヲ こうして、彼はまず﹁敬神﹂の概念規定の不祥クル﹂ことと﹁政ヲ行フ L こと、﹁人ヲ導 とくに、本願寺派の指導的な僧侶島地黙雷は、 省下の宗教行政を厳しく追及する﹁三条教則 批判建白書﹂を提出し加。そのなかで、第一条 ov ﹁敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事﹂の敬神愛国に つき、﹁所誇敬神トハ教也、愛国トハ政也。 明確さを追及し、ついで、教部省の﹁政教一致﹂ク﹂ことと﹁人ヲ治ムル﹂こととは峻別すべき の教化政策の矛盾点を堂々指摘したのであ A円 で あ り 、 宗 教 は あ く ま で 人 を 導 く こ と により さらに、第二条の﹁天理人道ヘ第三条の﹁皇政治を禅けるもので、これを政治を行うこと 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) 5 4 産霊神・神産霊神・天照大神を奉肥し、﹁出 仏を撤去し、内陣の中央に天御中主神・高御 では神祭を大本としたので、本堂から阿弥陀 たが、同年二月芝の増上寺に移転する。同院 院は当初、東京麹町の旧紀州藩邸が用いられ 化政策を一手に担う大教院体制に反対して、 本願寺の離脱運動を強力に推し進め加。大教 明治六年七月帰国した黙雷は、教部省の教 四、本願寺の大教院離脱運動 らない。 する結果になることを真剣に訴えたにはかな と混同するのは、﹁信教自由﹂の基本を侵害 ントセハ、大ヲ以テ小ヲ準センヵ、小ヲ以 ノ怪鳥教院也。荷モ大中小其条理ヲ正フセ ハ、是レ条理ヲ履サルノ甚シキ、猿頭蛇尾 教院ナル者ハ従来社寺ノ体裁ヲ以テ可ナリ トシ、独り大中教院ノミ四神ヲ祭ル者トセ 寺ヲ変シテ神洞トナスカ如クナラン。若小 合祭スル者ニ改ルコト、猶今日大教院ノ仏 実ハ他日今ノ神社仏関ヲ廃シテ不残四神ヲ 院トスト云ハ、一時暫用ノ徒名ニシテ、其 果、ンテ然ラハ、現今ノ神社仏関ヲ以テ小教 ハ、中教院モ亦爾セサルコトヲ得ス。大中 己ニ然レハ、小教院モ亦爾ラサルヲ得ス。 小ハ一物ノ本枝也。大教院己ニ四神ヲ祭ラ 惑ハ疑ヲ懐ク、論ヲ待タサル也。況ヤ大中 ス。市之ヲ一所一時二会説セシムル、民不 わずか三年余でくずれ去り、翌五月大教院は も、とりわけ真宗側の大反発にあった恰好で、 諸宗教あげての国民教化という教部省の構想 いる。 九六号﹀にいたく矛盾するものときめつけて 治元年三月の﹁神仏分離令﹂八太政官布告一 強調し、こうした現実の神仏混鴻自体が、明 喜ブノ神ナルヤ、亦之ヲ問ハザルヲ得ズ﹂と ズ是何等ノ神ゾ。仏ヲ忌ムノ神ナルヤ、仏ヲ ヒパ神前ニ仏教ヲ説クモ妨ナシトセパ、知ラ 混靖ノ古ニ復スト云ン欺。若祭紀ノ式タニ用 ヲシテ同ク神殿ニ説教セシムル者ハ、知ラズ 誰カ之ヲ遵奉セザラン。然ルニ今神官・僧侶 の点、﹁且夫神仏判狭山ハ皇政維新ノ詔裁也、 脱の猛運動を進めた結果、明治八年(一八七 五)四月、ついに脱退が実現し加。そのため ⑬ このさい注目されるのは、黙雷が訪欧中、 一月、廃止を余儀なくされたのである。 ヲセンヤ。(後略) 創スル者ノ為ニ数十万ノ固有ヲ改ムルコト 帰国したときは、すでに﹁越前護法大一捺﹂ 教部省体制を厳しく批判したのち、六年七月 が終っていたことで、それだけに越前の真宗 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) ) ラ ( 車﹂を張り神鏡を置いて祭壇を設け、山門の テ大ヲ準センカ、此ノ二ノ外異途アルコト 解散する。さらに、教部省自体もついに十年 そして黙雷は、真宗四派を連ねて大教院離 前に大鳥居をたてるなど、奇異な景観を呈し たといわれ加。 小ハ数十万也、固有スル所也。柔ソ一ノ新 ナシ。然而所謂大ハ一也、新創スル所也。 ついで、各府県の大寺院を選んで中教院とし、 全国無数の寺院・神社の小教院を統轄して、 ﹁三条の教則﹂を基本とする教化、布教体制 をとったのであるが、黙雷は﹁大教院分離建 教院)が、大教院体制の下で質的に変容せざ 以上のように、末端町村の無数の寺院(小 白書﹂のなかで、教化活動の大きな問題点を 次のとおり指摘す加。 るを得なくなることは明白だとし、しかもこ 日本近代の﹁信教自由﹂の歴史的性格│越前真宗地帯の事例から│ 凡教法ノ区別アル、固リ妄ニ混合スヘカラ 上 4 6 ぞって出動し、門徒層を主導するような真宗 とりわけ、前述の今立郡下の寺院住職がこ 承知したものと考、えねばならない。 寺院僧侶・門徒層の大決起の顛末をはっきり ト謂フへシ。 キ、是レ政法家ノ政府ニ報スル所以ノ義務 此人民ヲ善誘シ、治化ヲ翼賛スルニ至ルヘ 害トナラサルニ注意スルノミナラス、務テ 上ハ、能ク朝旨ノ所在ヲ認メ宮ニ政治ノ妨 信教ノ自由ヲ得テ行政上ノ保護ヲ受クル以 ところで、前年一月の板垣退助らの﹁民選議 規制されない﹁人権﹂の域にまで高める必要 性を訴える言辞を呈することはなかっ日以。 束の壁を突き破り、如何なる法律によっても れない。しかしその後は、この﹁口達﹂の拘 信教自由﹂の保障として受容したとは考えら 自身としても﹁信教自由の口達﹂を完全な﹁ ズ(後略)サの文商からもわかるとおり、彼 三十四巻三号 地域の﹁護法﹂連帯に徹した動向こそ、黙雷に この文面からは、完全な﹁伺教の自由﹂の 若越郷土研究 対して今度はあくまで、中央の本願寺の立場 保障規定として読みとることはできない。そ @ から言論に訴えて、教部省1 大教院体制の矛 とは、明らかに﹁信教の自由﹂の政治的拘束 家﹂の﹁政府ニ報スル﹂義務まで要求するこ との厳しい制約が課せられる。しかも﹁教法 の内容には﹁政治ノ妨害しにならないように のため八年六月、政府は新聞紙条例・議誘律 専制﹂への批判・攻撃がはげしくなった。そ 由民権の論調が次第に高まり、政府の﹁有司 院建立の建白﹂を契機に、新聞・雑誌での自 盾点に真っ向からいどむ決意を抱かせたもの とみなす︾﹂とができよ知。 五、﹁信教自由の口達﹂の歴史的性格 会情勢に着目せねばならない。したがって、そ を制定して言論抑圧の挙に出るという政治社 島地黙雷が力説する﹁凡ソ人タル者ハ各自 を示すものといわねばならない。 実は、八年五月大教院が解散して間もなく、 同年十一月政府から本願寺に対して、﹁信教 の後間もなく提示された﹁信教自由の口達﹂ 自由の口達﹂が出される。この点、かねての 島地黙雷を先頭に押し立てた本願寺側の強い の歴史的性格は自ずから明白で、その﹁完全 な自由﹂の保障を勝ち得るためには、ようや シ、他ヲ害スルコトナク、我レ善好ノ事ト目 く緒についた自由民権運動のなかで、その重 固有ノ権利ヲ保守シ、不覇自立ノ特操ヲ養存 セパ、之ヲ行フニ他ノ圧制ヲ受クベカラズ、 要請に応えたものであることはいうまでもな 他人モ決シテ之ヲ妨グベキ権利ナシ。曽子一エ 要課題とする思想・言論・論説の自由、信書 そのなかで次の通り説諭する。 抑政府ヨリ神仏各宗共信教ノ自由ヲ保護シ として、﹁真の信教自由﹂の目標達成のため このさい、真宗地帯の僧侶・門徒層の立場 らない筋合いのものである。 秘密の保持などとともに、大きく掲げねばな (中略)学問固ヨリ之ヲ主トスレパ、教導モ ハズヤ、自ラ反シテ直キ則ハ、千万人トイへ テ行政上ノ祥益ナルモ妨害タラシメス、以 亦然ラザルヲ得ズ。殊ニ教情ハ人ノ信仰ニ一 ドモ我往ント。是真ニ自主自由ノ極致ナリ。 テ保護ノ終始ヲ完全スル、是レ政府ノ教法 任スル者ナリ。宗旨ハ宮ノ左右スベキ者ニ非 テ、之ヲ暢達セシムル以上ハ、乃又之ヲシ 家ニ対スル所以ニシテ、而シテ其教法家ハ 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) 7 4 には、地域の自由民権運動に連係し、さらに られる。その起草者は、越前切つての民権運 @ の内容に、第 2表 の と お り 一 部 章 の 配 列 が 相 政 > 第 6章 司 法 、(第 5章 そこで、現存する﹃北陸自由新聞﹄草案の第 さい、大阪から招聴したかつての﹃山陽新報﹄ @ の主筆永田一二であったのである。 動家杉固定一が北陸自由新聞社を創設する 違するとはいえ、きわめて類似するものとみ 第 5章 行 O条 ( 拷 聞 の 禁 止 ) i の条文などは欠落するが、十六年三月三十一日 六章﹁国民の権利﹂のなかで﹁信教の自由﹂ ﹁第六五号しで、第一 第一二条(通信の自由)の各条文及ぴ註釈を の該当する三条文の双方を配列すれば、第3 掲載するので、これら三条文と﹃山陽新報﹄ これら両新聞の条文については、ほぼ同じ 表のとおりである。 ﹃北陸自由新聞﹄草案の方がはるかに具体的 内容であるが、各条文の註釈を比較すると、 @ で、欧米の学説を引用するなどきわめて説得 的であることがわかる。したがって、他の諸条 のと考えられる。その点永田として、﹃山陽 文の註釈についても、ほぽ同じ傾向を示すも 新報﹄の私草憲法作成の時期から二年近くの 歳月を経ており、彼自身の識見的成長ととも 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) は、その運動の主導性を発揮しようとする真 行政) (第 4章 剣な意識をもつことになる。事実、越前で明 下院) 真宗寺院僧侶・門徒層が果すべき最も重要な 第 3章 ( 国民の権利) > ご(第 6章 治十年代で高揚する自由民権運動において、 上 院) 第 4章 国 民 の 権 利 と考えたい。 、(第 l章 、(第 2章 第 3章 国 会 院 実践的課題こそ、﹁真の信教自由﹂であった 六、私草憲法の信教自由論 第 7章 ( > 第 7章 国 憲 改 正 明治十三年(一八八O) の 国 会 開 設 請 願 運 「北陸自由新聞」草案 「山陽新報』草案 動に引きつづき、かねての政府の憲法制定の つくられた。そのうち越前自由民権運動の展 企図に対抗して、全国各地で﹁私草憲法﹂が 由新開﹄所載の﹁私草憲法﹂に着目したい。 室 第 2章 元 老 院 第 1章 帝 開過程で遅ればせながら作成された﹃北陸自 化を意味する以上、そのなかに﹁国民の権利﹂ 同憲法の起草こそ、自由民権一一運動の成果の成文 の一つとして、﹁信教の自由﹂が当然掲げら れねばならない。 ところが、同新聞で現在残存する分がはな はだ僅妙であるため、諸条文の全容は不分明 であるが、実は、岡山県の﹃山陽新報﹄の十 北陸自由新聞」両草案・章名比較 「山陽新報~ w 第 2表 日本近代の﹁信教自由﹂の歴史的性格越前真宗地帯の事例から│ 四年七月十日号以降に逼載された﹃私草憲法﹄ 上 注: (?)章の掲載分は一切残存しない。 4 8 ム 章 き章で感得したともみられ ia 鮮制る。こうした情況のな 心ニ侵入シ、以テ宗教ノ自由ヲ検束セント f駒 か で 、 ﹃ 山 陽 新 報 ﹄ に 邦ノ憲法ヲ制定スルニ当テ本条ヲ設ケ、宗 最モ注意スベキコトナリ、故ニ吾傍ハ今我 々史乗ニ観ル所ロニシテ、為政家タル者ノ スルヨリ往々不測ノ災害ヲ醸成セシハ、歴 ︹比べ﹃北陸自由新聞﹄ 教ハ其何宗タルヲ論ゼス、各自ノ自由ニ任 ズルヲ以テ最モ適当ノコトト信ズルナリ この点、前述の教部省の﹁政教混清﹂の教 化政策に真っ向から反対する島地黙雷を先頭 ントスルヨリ往々不測ノ災害ヲ醸成セシハ歴 に押し立てた本願寺の意向をそのまま代弁す 同パの自由﹂については、 佐聞 最 噺片﹃山陽新報﹄草案の第 るものであった。また﹁宗教ノ自由ヲ検束セ 々史乗ニ観ル所﹂とは、明治初期に全国各地 の真宗地帯で続発した護法一撲を明確に意識 ﹃北陸自由新聞﹄草案にも恐らく、﹁信教 したものと考、えたい。 ベキモノニ非ズ、然ルニ古今各邦ノ政治家 ニ口吻ニ発スル所ロニシテ、固ヨリ混鴻ス 人心ヲ理ムルトハ方今欧米諸邦ノ学者が常 政治ハ人ノ外部ヲ支配シ、宗教ハ内部即チ と推測される。要は、自由民権運動の高揚する 具体的でかつ説得的な内容規定を試みたもの するほど、﹃山陽新報﹄の分をさらに補強し、 を生起させた真宗地帯の地域性を意識すれば の教部省体制に反発して﹁越前護法大一撲 L ガ動モスレパ、政治ト宗教トヲ混同シテ人 たとみられるが、その註釈では、永田が、さき に、十五年十一月﹃北陸自由新聞﹄主筆に就 も参加することにより、真宗地帯の地域住民 の﹁北陸七州有志懇親会﹂(於越中高岡)に 三月十・十一両日の中部日本海広域民権運動 地の政談演説会に弁士として参席し、また、 @ 教 自 由 ﹂ を 保 障 す る も の と い え る 。 さ ら に 、 の自由﹂についてのほぼ同じ条文が掲げられ 主そまさしく、﹁真の信 E- ﹁雑町﹂と規定する。これこ 山誌後 胡剛山前セズ、各自所信ノ教法 闘円札ヲ奉スルノ自由ヲ有ス 草上良 ﹁ d μ に 一向ト町一劇回章第五条に﹁日本国 安司嚇民ハ何ノ宗教タルヲ論 索、日目 措削と考えたい。 位一そこで、肝心の﹁信教 法月 口 包島 h 門 ηL 定井 相川の補強がなされたもの (削草案の註釈面にかなり 国涜 一 ヲ 享 j 七 陸 その註釈では次のとおり記述する。 由 三十四巻三号 第 ノ、 ノ 自 案 草 任後、翌十六年三月にかけてしばしば越前各 (r 国民ノ権利」の 3条) の自由民権にかかわる強じんな連帯意識を肌 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) 案 草 セヲ シ用 メヰ フア ル自 新 由 聞 自 ヲノ、 若越郷土研究 ニ若ク制定依テ民 国 拷 問 状 白 従ハノ罪ハ フ消律 法セ既 可滅 ラ往 シスニルニ 可依可湖 者 キテラル 罪ズノ ノ、ノ 法 1 0 条 第 ) 任 1 1 条 章 四 ス 可 フ 可カ日 ラ其 ラ本 ス罪民 国 其 法 律 軽 減 但律日 シニ本 有日 ス本 国 民 、 ノ 通 第 1~ 責 其 第 1 2 条 第 新 報 陽 山 ルヲ民 べ白ハ シ状拷 セ間 シヲ メ用 ファ ル自 l レカ ニハノセハ 健消法ラ既 フ滅律ル往 ベスニ可ニ シベ依ラ湖 キテズル モ罪 律 法 ノノ 一 其 法 律 減シ依本 若 ク 制定罪テ民 国 1 0 条 第 日 本 国 コ其 ラ 無 ト 罪 ハ軽但ニ日 ズ但ズ日 ィ、ミン 国 本 シ 律 法 民 ノ 芦 す 書 ン ノ 、 ア 1 1 条 第 1 2 条 第 『山陽新報~ ~北陸自由新聞』両草案・条文比較表 第 3表 9 4 持などとともに﹁信教の自由﹂が、きわめて 過程では、思想・言論の自由、信書の秘密保 心の﹁帝国憲法﹂二八条の規定は、さきの﹁ るニとができたものと考えたい。しかし、肝 その成果は、私草憲法のなかに見事憲章化す ⑥前掲﹃諸県口書﹄。 ④﹃諸県口書﹄コ二賊盗第八七八号(明治六年) 重要な実践的課題として日程にのぼる以上、 退を余儀なくされるとしても、明治初期から 信教自由の口達﹂のレベルまでに、著しく後 ⑦﹃越前国大野郡暴動一件書類完﹄(司法省庶 分として、竹鎗または棒等の持参者には三円、 務局)︹法務省法務図書館所蔵︺。賎罪金の区 ー四O頁、七五 1八九頁。 ⑤前掲﹃明治初年真宗門徒大決起の研究﹄三九 ︹法務省法務図書館所蔵︺。 とりわけ真宗地帯の越前を拠点とする﹃北陸 の真宗地帯での﹁信教自由﹂にかかわる﹁下か 以上に重視されたものと考えねばならないで らの近代化﹂をめざす動向については、大い 省体制批判による大教院離脱運動も、こうし ﹁大日本国憲法大略見込書﹂はじめ二0種類ほ いたのは明治五年一月二十七日で、英・仏・独・ 門主就任早々のため間に合わず、渡欧の途につ 岩倉使節団に同行する予定であったが、明如の によって起草された私草憲法は、筑前共愛会 ③島地黙雷らの本願寺留学生の一行は、はじめ パ各地の﹁近代化﹂の諸相に接し、とりわけ、明 たる外遊を終えて帰国した。かれらがヨl ロソ 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) 自由新聞﹄の私草憲法では、﹃山陽新報﹄案 あろう。 参者には一円、不持参者には0 ・七五円を課し O歳以上、一五歳未満)の竹鎗または棒等の持 不持参者には二・二五円とし、また﹁老少﹂(七 に注目したいところである。 七、総括 ①小著﹃明治初年真宗門徒大決起の研究﹄(田山 ている。したがって、出動者に対する一人当たり 明治初年の﹁越前護法大一按﹂の純粋な﹁ 護法﹂的側面からすれば、教部省体制に対す 文閣出版、昭和六十二年)所収の第 l表 H明治 三円の婿罪金は、罰金刑のなかでは最も厳しい 註 る真宗寺院・門徒層の反発は、究極のところ 初年﹁護法一挟﹂略年表。(四頁)参照。 た末端の真宗寺院・門徒層のひたむきな要求 どが知られ、自由党系と改進党系に大別される。 わけである。 真宗地帯における﹁信教の自由﹂の確保を目 をふまえて、堂々明治政権に訴え、ついに一 とりわけ﹁国民の権利﹂にかかわる諸条文では、 トなど巡遊し、翌六年七月十五日、一年半にわ 蘭・瑞西・伊太利・ギリシア・トルコ・エジプ ②明治十年代の自由民権運動高揚期に、民権派 応の政治的制約が課せられながらも、﹁信教自 植木枝盛﹁日本国国憲案﹂のとおり、法律の留 標とするものであった。そして本願寺の教部 由の口達﹂をかち得たものといえよう。 保なしに国民の権利を鉱山制約的に保障したもの もかなりみられる点に着目せねばならない。 その後、真宗地帯の寺院・門徒層の立場と 域の自由民権運動に連係し、さらに、その運動 治政権の教化政策への徹底した改革を求める必 して、﹁真の信教自由﹂の目標達成のため、地 oi二O 一頁、参照。 ③前掲﹃明治初年真宗門徒大決起の研究﹄一九 日本近代の﹁信教自由﹂の歴史的性格│越前真宗地帯の事例から の主導性を発揮すべく真剣な努力を払うが、 上 5 U 若越郷土研究 三十四巻三号 要性を肌で感じとった意義はきわめて大きいも 脱運動を試みたかを雄弁に物語る︹赤松俊秀・ハ昨年間ニテ太ダ其ノ境域ヲ拡充シタリ。(中 のと考えたい。 笠原一男編﹃真宗史概説﹄(平楽寺書底、昭和略)真宗ノ僧侶ハ最モ鋭意シテ、此ノ有名無実 ⑨黙骨自の﹁三条教則批判建白書﹂はパリで、帰 三八年)︺四四九頁。ナル協同教院ヲ分離セゾコトヲ望ミタリ、真宗 ⑬前掲﹃明治初年真宗門徒大決起の研究﹄一七ノ分離論トハ即ハチ是ナリ。日本政府ハ夙ニ此 国する由利公正(岩倉使節団に同行)に手渡さ 部省に、続いて五月二日教部省から神道各宗管⑫奈良本辰也・百瀬明治﹃明治維新の東本願寺﹄ 長に分離の通牒があり、真宗四派は告諭書を門(河出書房新社、昭和六十二年)は、東本願寺の ⑬明治八年一月、分離運動はついに奏功して分印は原文のまま)と論評するなど、世論の強い 離間届の内示があり、四月三十日太政官から教支持を受けたことも看過できないであろう。 (0 れて持ち帰られたことが、黙雷の﹁日記﹂から 頁、参照。ノ寄 ロ ヒ説教ノ利害ヲ備カニシ、五月二日ノ官 A 判明する︹福嶋寛隆﹁海外教状視察│廃仏状況 ⑬ 前 掲 ﹃ 島 地 黙 雷 全 集 ﹄ 第 一 巻 、 三 四 j三七頁。令ヲ以テ 合併教院ヲ廃止セラレ、(後略)﹂ 下の西欧!﹂(﹃龍谷大学論集﹄四一三)五三 頁、参照︺。 ⑬﹃島地黙雷全集﹄第一巻(本願寺出版協会刊、 昭和四十八年)一六 1二一頁。 ︹明治八年の回顧二︺欄で、条約改正問題につ院分離運動につき、﹁真宗が期したところは、 づき、﹁信仰の自由﹂に言及し、﹁骨仲戸昏密教部省下の宗教政策を撤回せしめ、政教分離を で有ります。(後略)﹂と報じ、また﹁東京日一一五号、昭和四十五年)は、黙雷の政教分離・ 々新聞﹂(明治九年一月六日)︹﹃同史﹄︺が、信教自由論を説き、彼が主導する本願寺の大教 今度大教院が潰れて神仏各宗が別れ/¥になり、⑬福嶋寛隆﹁神道国教政策下の真宗│真宗教団 勝手自由に布教する様に仰出されしは結構な事の抵抗と体制への再編成!﹂(﹃日本史研究﹄ 八年五月九日)︹﹃新聞集成明治編年史﹄凶京した点から、本願寺教団でも当然一撲の顛末 明治編年史編さん会、昭和十五年刊︺が、﹁を十分承知していたとみなければならない。 ⑪前掲﹃島地黙雷全集﹄第一巻、一九八百九。黙 末に頒布して分離の喜びを頒っている。なお本厳如上人が少くとも三月十二日一撲の報を受け 雷としては、﹁人ヲ導キ政ヲ禅クル﹂という条 願寺の大教院脱退の具体的な歴史過程は、﹃本たことを、﹃日誌﹄のなかの﹁越前表之義追々 件が充される限り、あらゆる宗教はそれ自体が、 願寺史﹄同(本願寺史料研究所、昭和四四年︺動揺之報在之﹂の記載から確認できるとしてい 国家により保護されることはあっても抑圧され (七九 l 一 O O頁 ) が 詳 述 す る 。 る 。 さ ら に 上 人 は 、 門 徒 農 民 の 教 諭 の た め 同 月 てはならず、そこには﹁信教自由﹂が保障され ⑬ 大 教 院 廃 止 問 題 に つ き 、 ﹃ 朝 野 新 聞 ﹄ ( 明 治 二 十 七 日 京 都 を 出 発 、福井に下向し翌四月二日帰 ねばならないとの論拠をふまえるものと考、えた ⑫黙雷が、明治五年十二月の﹁三条教則批判建 白書﹂の提出から八年四月の大教院分離許可の 指令が下るまで約二年半の聞に出した建白・論 文等を集計整理すると、建白建言類二二点・伺 室田二点・上書一点・上聞一点・論文三四点・書 簡類七点に達するなど、いかに懸命に大教院離 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) 1 5 日報﹄などの各主筆を経て、三十七年四月﹃再 鐘新報﹄・﹃海南新聞﹄・﹃東海新報﹄・﹃岡山 生北陸政論﹄主筆となり、以後富山にあって残 聞﹄の廃刊により大阪に帰ったのち、﹃東海暁 し、七月十六日まで約三か月におよぶ北陸地方 陸紀行﹄︹注、明治十七年四月十五日東京を発 を 中 心 と し た 旅 行 記 で 、 同 年 八 月 一 日 1十日 尽力している(前掲﹃福井置県その前後﹄一九 時の三十年一月まで、地域の民権思想の啓蒙に @土佐の自由民権運動家植木校盛がその著﹃北 石川県立図書館所蔵)に連 て、恰もヨ│ロソパ諸国におけるキリスト教の の﹃自由新聞﹄ 通して﹁輪翼ノ如キ﹂政教関係を樹立し、もっ 実質的にその基底で支える宗教たらしめること 如く、自らを建設途上にある日本の近代国家を 載︺の最後の結びで、﹁北陸一帯仏教の盛ん F( ノ¥ とりわけ真宗地帯としての地域性にいたく感銘 方今欧米ノ開明諸邦ニ於テハ皆ナ拷問ノ厳刑ヲ 伊太里ノ学士別加利氏﹂の法理論を引用し、﹁ 問禁止﹂の註釈では、﹁モンテスキi氏﹂や﹁ 陽新報﹄草案の分は五行程度であるのに対して、 論づけるなど、きわめて具体的かつ説得的な点 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会) であった日(九六頁)と論述するのが注目をひ 一i 一九三頁、参照)。 をうけたのを要約したものといえる。この点、 ③ ﹃ 北 陸 自 由 新 聞 ﹄ 草 案 の 第 六 章 第 一 O条寸拷 (宮崎円遵博士還暦記念会﹃真宗史の研究﹄永 北陸地方の自由民権運動の高揚に、真宗寺院僧 廃止シ復タ其跡ヲ止メス﹂と結んでいる。また、 記している。彼が十七年春北陸各地を訪れて、 なる危んど驚くべきなり﹂との率直な感想を 田文昌堂、昭和四十一年)で、﹁原則的には、彼 侶・門徒層が深くかかわっていることを示唆す 同章第一二条の﹁通信の自由 前掲﹃島地黙雷全集﹄ (黙雷)の運動は明治八年十一月の信教自由の るものとして、大いに着目じたいところである。 第一巻)。 ⑬﹁分離束縛ヲ論ズ﹂ 口達で終ったとしてよいであろう﹂(四六七百九) ②﹃北陸自由新聞﹄の紙面で、明治十六年一月 寸世ノ政府ナル者ハ動モスレパ区々タル人意ヲ 二五行を数え、﹁米人季抜氏﹂の所説を掲げ、 @福嶋寛隆﹁島地黙雷の教導職制批判についてし と述べるが、二葉憲香﹁島地黙雷の教制建議に 二十四日(二七号 )l同年四月十五日(七七号) 以テ之レヲ検束セント欲ス、宣ニ人民先天ノ約 の註釈でも、﹃山 ﹃龍谷史壇﹄側、昭和三十七年)は、 の計一九件の残存状況については、池内啓司 L 本願寺所蔵の元老院あて﹁教制建議﹂(明治 福井置県その前後﹄(福井県郷土誌懇談会、昭 束ヲ破リ五倫ノ大道ヲ索ル者ニ非サル欺﹂と結 ついて 八年五月三十日)と題する一一紙の文書から、 和五十六年)が詳述する(一八四 i 一九O頁)。 L( 黙雷が大教院分離より進んで、教導職そのもの 付﹁演説会広告﹂(於鯖江市、三月四日)・同 の残存する紙面だけでも、明治十六年三月三日 が注目をひく。 林茂﹁最近発見されたる憲法私案 ・凶︹﹃ 国家学会雑誌﹄五二の一一、昭和十三年︺(法 ⑧永田一二の演説活動につき、﹃北陸自由新聞﹄ の改革あるいは廃止の主張のみられるのに着目 ③﹃山陽新報﹄所載の﹁私草憲法しについては、 制が依然として続く以上は、﹁真の信教自由﹂ している。要は、政教混橘の性格の目立つ教導職 務省法務図書館所蔵)参照。 ﹃北陸自由新 L ω が保障されるはずはなく、したがって、この﹁口 @永田一二は、明治十六年五月、 日本近代の﹁信教自由﹂の歴史的性格越前真宗地帯の事例から│ 達﹂の政治的限界は率直に認めさるを得ない。 上 5 2 若 越 郷 土 研 究 三十四巻三号 日付﹁坂井港政談大演説会広告﹂(於坂井港劇 場、三月五日)・三月二十五日付﹁政談演説会 広告﹂(於泰平座、同月二十六日)・三月三十 一日付﹁政談演説会﹂記事(於東郷町照恩寺、 同月二十九日)・同日付﹁政談演説会広告﹂(於 ことができる。 丹生郡吉江町西照寺、四月二日)などを見出す ︹後記︺本稿では、とりわけ福井県史編さ ん課・福井市史編さん室及び法務省法務 図書館・龍谷大学附属図書館所蔵文書・文 献の借覧で大変御世話になり深謝する。 『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)