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ロシア宗教法の制定とその問題点 mo F

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ロシア宗教法の制定とその問題点 mo F
ロシア宗教法の制定とその問題点
カ
宝
き
清水望
︿早稲阪大学名誉教授﹀
信社会主義体制では﹁宗教死滅論﹂が展開されてきたが、﹁変革﹂後、これは覆され、逆に﹁宗教法﹂制定への
し
箆から
{
1
)
2一市教﹂を品約定的にみた論文は多妓に及ぶが、このような視点より、 いかなる点が悶舗になっているかをと
り上汗ることにしたい。
ロシア宗教法の制定とその背景
moF の報告警に詳し︿円。ここ
一月七日の関連演説で、間際関係をイデオロギi
PA-UT│
ト忠三
ヤ ゴ ル バ チ ョ フ 認 めyhwMH02ggnyog の宗教ないし教会政策の変革によって、ロシアおよびその他東欧諸問
M
九八八年
は、大きな転換揺を迎えることになった。この問題については、
にその詳締を論Cる余裕はないが、ゴルバチョフが
-21
i
ま
途が拓れた。本報告は、 ロシアの民主化に議姿な役割安樹木たした宗教法の制定と問題点について論じたい。西側諸
ロシア空宗教記長の憲I
J
J
Eとその問題点{清水)
から開放し、普遍的な人間的価綴に日をむけるべきだと訴えたとき変化がみられた。すでに同年一一一月に、 ロシア正
教一 000年祭の式典が行われ、﹁人権の閤際化﹂の淡に呼応するかのように、向年四月末、良心の・自由および宗
日、間法律を制定した。他方、ロシア連邦議会は、 3
教組織に関する法律(以下、ソ連良心自由法という)の作業をすすめていることを表明し、改革もいよいよ本格的
(
3
}
なものになった。ソ連邦最高会議は、 一九九O年一O丹
Aaazw
エリツィン切言及 J
E}22 のもとで、問じ一O丹一一五司、﹂信仰告自の自由に相関する法律(以下、 ロシア宗教法と
いう)を制定した。凶側諸凶は当初、ソ連圏内の変化に懐悶統的明、あったが、ソ逮良心自由法の立法作業が具体化
するにつれて強い期待へと変化の兆しをみせた。ゴルパチ 3フの影響力は、間際的にも声価を高めた。しかし狸九
一年八月、保守派のクーデター失敗によりゴルバチョフの影響力は急速に位下し、バルト海沿岸一一⋮自の完全独立を
達成させ、 ソ連は解体した。このようにしてロシアおよび独立菌家共同体 (CIS) は誕生した。
ソ速の崩壊によって、 ソ連良心自由法も笑効性を失うことになるが、この法律の意義、影響力は減り知れないほ
ど大きい。ゴルバチョフに代わってエリツィンが政治の舞台で主投を演じることになり、 ロシア宗教法がロシアの
国民生活により身近なものになった。ロシア正教徒の若い研究者であるA-ダニロブ﹀早吋叩]口問EZt叫によれば、
一九九一年末に終わりを告げたとする。
一九八八年になお、国民の九O%は、﹁無神論者いまたは﹁非信徒﹂と一一おわれたのに、 いわゆる︿宗教ブ i ムV 持
誌が鶴来し、これが一九八C年代末から一九九0年代始めまで続いたが、
九九二年の世論説査では、モスクワ住民の信徒の割合は二七%から一一四%に減少したが、同じロシア鎮のその他
の地域で、変化がみられたわけではなかった。この数かおり社会学者は、︿宗教ブームV後、再び衰選が始まる、と
九九五年には信徒の割合は六
%に婚加するとしている。この結果は、
六O O名か
いう結論を導き出している。しかしながら加の世論調査では、一信徒は、 ロシア領住民の問。%に増加しているとい
う結果も出ている。さらに
22-
宗教法務 1
7
{
予(
1
9
9
8
)
ら
一
一
一000名の世論(抽出﹀謂資に基づいているが、その数値については疑義なしとしない。外見的にみても、こ
︿
5)
のきわめてダイナミックな伸張ぶりは、ダニロフの指摘しているように、闘によって設録された宗教団体の数のゑ
速な増加によっても証明される。
先述のように一九八八年でも、生民の九O%が﹁無持論者﹂、﹁非一信徒﹂とされ、そのす向い比率は、人びとの信条
ているものは、五
%に減少した。これが一九
よりも、 ソビエト詩無神議的イデオロギー及びこれに器づく出ソ遠の信徒にたいする抑庄機構によるものとされて
いる。 一九八九年にすでに﹁無神給者﹂または﹁非信徒﹂
九八九年
億五000万)の半数
九五年までに、さらに一一一O%(約隙000万)までに減少した。他方、逆に若子の世論調変によれば、
一・五倍に増加した。換言すれば、総人口(約
九八八年、関家理論ないし日和見主義的な理由から﹁無神論者﹂または﹁非信誌﹂とさ
。月革命前の状態に復帰すること、
-23-
から一九九五年までに、正教会徒の数は、
が今5、正教徒と一一筒、っ。
九九一一年以来、正教徒と主張するようになった。不評の社会主義調家的イデオロギiか
(
S
)
れてきた多くの人びとが
らの転向は悶ソ連時代にすでに始まっていたが、この過程は秘密と冬れ、統計上、明かではない。棄の数値を的確
に捉えることは困難であるが、 口シア社会が大きく様変わりしつつあることは石定できない。
主}
5
4唱 欠 吋
o
z
d司が、最近の論考﹁信教の自由をめぐる犠烈な争い 1i一
モスクワ正教会の総主教庁渉外部に属し、その後カトリック教会に転向し、現在キリスト教の評論家、ジャ lナ
リストとして話寵している j ・クロトフ
九九六年までの1i﹂(G2W誌・一九九七年一月﹀が指摘しているように、︿宗教ブームV の時
かしすべてのロシア人が正教会に心そ向けたのではないということである。
教会は、消失したイデオロギーの代替物となり、怒らに本来的な文化的・民族的な自己田川一花の対象になった。し
代どいわれる状況下で、多くのロシア人が自らの精神的方向づけを失い、正教会に積極的に出席するようになった。
九九二年から
ロシア空宗教j
去の制緩とその問題点(清水)
つまり疋教会がロシア国教となること、換一⋮一閃すれば、あらゆる社会的かつイデオロギー的な判例約をこえてロシア民
族を包摂することは不可能であった。殆どすべてのロシア入がしばらくの務、正教会に出席したとしても、この教
︿
7)
会に親しみを感じたものはそれほど多くなかった(地方によって異なる冗彼らの多くが他の宗教団体に関心を努
せたとしてもおかしくはない。一ンア宗教法は、外出系の宗教団体に、その活動の機会を与えることになった。
ロシア宗教法の民、五的伎格
ソ連良心自由法とロシア宗教法は、共通するものも少なくないが、その表題からも﹁信教の自由﹂競定に対する
姿勢の相違を読みとることができる。ロシア宗教法独自の条項もあり、出来の宗教敵対的な態度をより払拭してい
る。また同じ﹁信教の自由﹂の文一宮も、個人の権利杓の側面と団体としての権利の側部がみられるが、守ンア宗教法
また﹁共和歯市民は、宗教的な見解ないし無神論
は、より西側指出内的である。ロシア宗教法は、まず、個人の権利として、前文で﹁信教の自由﹂を直接に表明し、
︿
8)
これを﹁共和関市民の不可譲の権科﹂として位壁づけている。
(9
﹀
的確信を口頭ないし文書により、またその他任意の形式でこれを発表し、普及(布教)させるに第一一一条)回線を保障し
2m教的宣伝﹂が認められた。
ている。これまで﹁宗教死滅論﹂を執ように展開し、これを後ろ婚に﹁一次宗教的室長﹂のみが認められていたの
にたいし、
さらに自体としての権利の﹁信教の自由﹂も、より徹底して国教分離の原則を認めている。﹁説教団体は、思の
(刊)
開題に干渉してはならない。また宗教毘体は、国家権力、国家行政の諸機関の選挙および政党活動に参加してはな
らない﹂(宗教法第入条二項)ことにした。宗教団体に法的能力が与えられ、独自の教化・啓蒙活動を行うことが
-24
宗教法務 lH
すl
1告書呂)
保障され、その財政的基数も確保されることになった。
A
(
は
﹀
四派と大統領一の行政機関との協
回は出来、諮僚会議宗教問題評議会が宗教団体にたいし強大な監管権を保持してきたが、この評議会も大統領
{円M)
に直属する﹁宗教団体との協力評議会﹂へと変費した。ロシア正教会を 空間む主要
議会とした。ダニロフが指織しているように、この機関は民主的にみえた。しかもある程度まで、京教出体と間同
との自由で同等の関係を保証し、宗教の自由を保障しているようにみえた。その後、チヱチエン紛争時に、この協
に場大していった
五名の高級官吏とが対次するか
九八七年以来、最初は、緩慢ではあったが、受緑された宗教障体の数は
議会は、 エリツィンによって全国的に改組された。宗教団体の一回名の代表者と
(HH)
たちをとった。
(
日
﹀
ってよいのではなかろ、っか。
しかし制定後、間もなく問題に一なったのは、主として、︿すべての宗教団体の問機V の問問題である。戸ンア正教
西側諸州国の宗教法、とりわけアメリカ的な形式的平等主義の影響が強く、
(
股
会の、他の宗教団体にたいする優位は動かず、それらの活動に制限を加えようとの試みが顕在化してきた。そうし
た実態とは離れてロシア宗教法の内容は
{げ)
宗教的領域で︿多様性﹀と︿良府﹀が展開されるよう配車している。この多様性が、ロシアの多くの人びとli不
信者も信徒もliを不安に陥れ、樗然とさせた。ヨーロッパの﹁伝統的いな教会の多くが関民的教会の性格を帯び
ているのとは対照的である。多くのロシア人にとっては、驚くほど民主的であった。
ロシア宗教法の実態
一
一2
5
する見方もあったが、そのような恐れからは、解放され
事実よりすれば、この協議会を新たな抑在機関として鯨芯 ω
t1シァ言宗教j
去の制定とその望書菱重点{清水)
ロシア宗教法は、商側諸問、とくにアメリカ的な平等'良、支的性格を帯びたものであったが、規範と実態との議
離、西側関経ハ文化にたいする拒絶反応は次第に顕在化した。
ロシア正教会の優位
出体制のもとでもロシア正教会は去認されていたが、その代償として教会の高位聖戦者の出家権力への依存的・
殴﹀}虫色町刊は、就任早々、各地を歴訪したが、正教会系でも、 ロシア正教会のほか、ウク
従属的体質は第ニの天性と、桧口をいわれるほどに停滞していた。正教会の優位は保持したものの、活性化が求め
られた。アレキセイ
(刊日)
一フイナ正教会、グルジア正教会があるが、ウクライナの﹁ユニエイト教会﹂の台頭にみられるように、それは分裂
(
初
﹀
と 対 立 を 招 い た 。 ロ iト の 報 告 二 九 九 同 年 五 月 ) で は 、 ロ シ ア の 人 口 は 、 一 九 八 九 年 、 一 億 四 千 七 百 万 で あ っ
(幻)
︿ロシア・イスラム教徒﹀組織の創立者会議が
九九六年間月中葉、同教誌による広範
た が 、 正 教 会 は 六 千 万 の 傍 徒 を 有 し て い た 。 そ の 後 の テ レ ピ に よ る と 、 信 徒 の 数 は 増 大 し 綾 け 、 現 在 、 七 五 むO
万人であるという。
朗自にかけて、
イスラム教会は、旧体制約のもとでは、未公認の宗教岡山体であったが、
一日から
開かれた。ロシア連邦のつ一九地域の七一一名の代表者が出席した。この会議は、その議長とともに政治的な評議会を
{包)
選出した。議長は、ヴォルガ川流域のイスラム教指導部で一二六年問、首一設の地世にあったM-ピパソフ窓口宵足音 m
(お)
mF20認である。彼は、新運動の創始者として認められる。ロートのエッセナーでの報告では、その信徒数は、
(川副﹀
ローマ・カトリック教会は第一この教勢力を有していたが、これは第二次世界大戦後、ソ速の関境が約一
00キ
一
一
一O O万からこ000万と推定されていたが、最近の論考吋ロシア一イスラムと政治﹄(一九九七年九日付﹀では、
ロシア連邦には二000万から二五0 0万と推定される。
(
3
)
-26-
(
1
)
(
2
)
な政治活動が展開された。この間丹の
言奇数法第 1
1号(1苦9
8
)
ロ、西方に移動し、カトリック註民が突然出現したことによる。間体制約のもと政府は、カトリシズムを分散させよ
{
お
﹂
うとする、ディプスポラ政策をとったが、市ソ速の崩壊によって束縛から解放された。しかし出ソ速の地区にカト
リック教会を建設することはロシア正教会側から厳しい抵拭にあった。
プロテスタント教会とその他の宗教団体の進出
年創立)と福音主義教会とを合同して成立した。その
プロテスタント諸教会は、限体制約ぞも少数派教会としてさまざまな苦難をなめきせられた。最大の福表、主義・パ
プテイスト教会が一九鶴盟年にパプテイスト教会(一八由
一九六三年のメノナイト派のグループがこれに加った。 一九六O年から六宜年にかけて、政府が行った反宗教
←
キヤンペ i ンの結果、分裂が起こり、福音主義・パプテイスト教会協議会が成立したが、法的認可は得られなかっ
G-
た。ポスト・ソビエト時代になっても、少数派教会であった。プロテスタント諸教会に属するメノナイト派のグル!
プは、第ニ次世界大戦中、 ヨi ロッパ・ロシアからシベリアと中央アジアに追放という苦い体験を嘗めたが、
(
お
﹀
シュトリツカiの号門日常江志吋が、その論考﹁ロシアのドイツ系住民のメノナイト派の説出︿エクソダス﹀﹂(九
後、プロテスタント諸教会の多くは、その布教活動を活発に再開した。ドイツヤ彰響をもっ福音主義ル
︿幻)
タi教会を始め、メソジスト教会、アドヴエンテイスト教会、改革派教会、ペンテコステ(フィングスト)派運動
などが、その活動を活発に再開することになったの旧体制下で、プロテスタント教会は小数派教会であったが、
現在でもさまざまな苦難を受けている。しかしロシアが開明販を迎えていることは否定でさない。
このような他の宗教出体の活動存関により、 ロシア正教会は、挑戦を受けることになったのロシアにおける西側
のプロテスタント諸宗派の大量伝道がよく話題にな旬、苦情がつぶやかれたことも確かである。その筒、これらの
2
7
(
4
)
後
九六年五月)で指摘しているように、彼らはドイツとアメリカの信徒集出により、その殆どが組織的に救出された。
ロシア宗教 j
去の制定とその照是差点(j毒水}
諸宗派が実際に確関たる地位を獲得していったことは否定できない。たとえば箪事機構、とくに間防省に、入り込
んでいる兆候がみられる。いくつかの宗派は国防省に特別加な文献、ゼミナiさらに補修コ!スにたいし財政的支援
(泊)
を行っている。国妨省に組み込まれている箪の留書館はもっぱら西側諸国からの諸宗派の文献が備え付けられ、こ
一九九二年夏、この閣で布教を開始し、信徒数も次第に増大していっ
れらの文献が策図書館の唯一の宗教上の文献になっている。
ロシアの缶統になじまないオウム真理教は、
たが、その方法に問題があった。とくに東京の地下鉄サリン事件令契機として、新興宗教・セクトの活動の行き過
(勿)
ぎないしその蒋発をいかに阻止するかが大きな話題になった。新興宗教・セクトのなかに統一協会(ム i ン・セク
-28-
トZooロi一山由玄として知られる)も含まれる。
(
ぬ
﹀
し か し こ う し た 動 き に 関 連 し て 、 関 欧 的 な 宗 教 関 体 の 活 動i!と く に プ ロ テ ス タ ン ト 教 会ii令制限する試みが
運用上の問問題点
えに、これを修正・すべき、だと日諮問、っ、 ロシア正教会の主張に向調しようとする動きは、まず連邦議会、そして連邦政
拡大化し、これを抵定の事実として認めさせようとする動きへと変質していった。宗教法は、その民主的性格のゆ
ロシア正教会の、他の宗教自体に対する優位性をめぐる争いは、その嬢位性を保持するだけでなく、その特権を
四
と替えよう。
このロシア正教会の保守派の強硬な動きに対志して、とくにプロテスタント諸派が強く反発したことは当然のこと
顕在化していった。ここでロシアに居所を有する外閥系の宗教組織は難しい立場に追い込まれることになった。
家教法務 1
7券行事9
8
)
府をも巻き込むことになった。これに対して﹁絃統的﹂宗教間体の範鳴からはずされた外患系の宗教間体、とくに
プロテスタント諸教会は一斉に強く抵拭した。八億教の自由Vそめぐる争いは、織烈なものになり、憲法論争にま
で発展した。他方、エリツィン大統領は外用閥系の宗教関体の自由な活動を制限しようとする動きを真っ向から違憲
として退けたからである。
以下、そのプロセスの大筋を素描することにしたい。まず連邦議会が、 ロシア正教会の意向を汲むかのように、
議会に良心自由委員会を設寵する動きを示した。
長心自由議員会の設置
九九一一年一一月一 0 5、宗教法に新条項の追加を意図する法津案を提出した。
29~
ロシア連邦議会理事部は、まず
それは良心及び信教の自胞の制限を意開削するもので、このために良心自由委員会が設澄された。この委員会のメン
パーの多くは、出来の﹁閣僚会議宗教問題評議会﹂を通じ宗教自体の統制に責任を負ってきた人びとであり、この
評議会の﹁全権委長﹂として宗教生活を抑制し圧力をかけてきた前一殺をもっ。彼らは体制崩壊後も、その前歴も糾
一九九三年秋、良心及び
一九九二年二一丹八日、ポロ!シンにたいし覚え書きを送り、﹁ロシアの宗教組織の
正式の托表者の協力を得ないで﹂、新条項の追加を地中備することを批判した。総主教は、さらに連邦議会議鼠とし
総主教アレキ々イ一 世は、
{他の宗教陸体の}信教の自由を制制限する側の賛荘者になったことは、人々を驚かすことになった。
いた。ロシア正教庁に忠実に詫い、共産党を鋭く批判した。それだけにポロ!シンが、
宗教法の制定に大きな設部を断水たし、当時の政治の舞台の鍵令握る人物として、また民、五主義者として名声を得て
長は、司祭でロシア連邦議会の議員に選出されたV-SEポロ iシ ン ︿
gggasω 句。日25 であった。彼は、
弾されることなく、その職務安保持してきた。彼らの役磯と資格は明記されなかった。この良心自由委員会の委員
ロシア宗教法の和!
2
Eとその問題点(清水)
w
-
て選出されたG-ヤクi ニンのえσkZE
ポルシユチョフぞと出口∞ogg口70
経及、びその他教会の代表者
、
口
は宗教組織の正規の代表者ではないとき倒的した。とくにヤク!ニンにたいする総主教庁の態度は否定的であった。
しかもその覚え繋きで、外国系の宗教団結仲の自由な活動は、 いかなる相場合にも﹁法律的に禁止怒れる﹂おを強調し、
﹁法務省に登録しなければならない︺皆会主張した。法務省も、外国系の宗教団体の登銭後七年までの問、 五割、
その活動の審査を受けなければならず、場合によっては当官庁の許可li費錦iiを 取 り 消 寸 権 限 を 保 持 し よ う と
ぞれは、
G
ロシア正教会は外関系宗
⋮九九三年春のことであった。まず宗教団体の法人格を規定する議
一転して外国系の宗教団体の進出に闘を
(幻}
1シンの見解はそれを先取りした格好になった。それでは、
した。他方、総主教は、﹁新憲法の採択前に法律案を審議することは適切でない﹂と表明したが、ぞれは形式的な
手続き論の域をでず、ポロ
教間体の活動の制限についていかなる動きを示したであろうか。
外国系宗教団体の活動を制燥する動き
の条項に賛成した。
人の独自の活動は、ヂンア連邦の領域では、禁止される︺という文言一を追加要求した。
さらに宗教団体の登録に関し、宗教法第
七条には、﹁泡'誘者が、
一九九O年一 O丹一一五日以前に公認されてい
に聞紙り、これを許容している。良心自由委員会での審議に際して、 G-ヤクl ニンだけが民対し、他の委員は、こ
この修正案は、外開系宗教関体は、 ロシア圏有の宗教綴織により招請され、 いわゆる﹁留の信用を得ている﹂もの
らにその代表者投びその
教法第一八条に﹁外菌系の宗教組識の独自の活動︿このなかに布教、出版、製作、笠松及び経済活動が含まれるてさ
むけ、その活動を制限しようとした
ロシア正教会は、一信徒数も増加し、次第に自信を深め、総主教庁側も、
(
2
)
ない信仰上の教護または宗教上の方針を表明する場合、登銭官庁は、付鵠書類を要求する権限を有し、取・請から数
-30-
主主教法務1
7今(19
9
8
)
るえて一一 カ月の審資期間を要求する権限を有する﹂の文欝を追加要求した。この期日( 九九O年一 O R
一五日)
以降、新しく承認されたすべての宗教間体は、変東申請後、新たに審査され、場合によっては新たに登録される。
へ内
J
JiU、
il翠ましくないlzd一小教関体は遡って禁止される可能性会
この第一七条の追加条項は、この期日以後、登諒された
認めたことになる。
九九三年四月二O白、その日は大統領信任の富民投票の五目前で、ロシア陸民がエリツィンに告任を表明しょ
でもない。彼らは、 エリツィンにたいし外国人が
般的にロシアで活動する
うとした時期であった。宗教語体の代表者らがこの大統領信任の間民投薬を支持したが、エリツィンの背後に宗教
田体の指導者が存在したこと
-31
ことは禁止すべきであるという見解を表明した。結来的に何人が本来、外商人伝道のテi マを切り出そうとしたの
か、これについてはさま、容まな穂測が流れている。良心自由委鼠会黍員長の代行者M ・ザグリシェフ∞畠吋訟の Y54明
がこれに賛意を表し、 ついでヨ!ロッパ・ロシア及びシベリアのイスラムの法律学者、タルガト・タチュ i ジン
CZEZ が、 P ンアの統一は保証されている、伝統的宗教であるイスラム教も、正教会の地盤も強癌
WMm3H4hw仏師
一日、すべての宗教匝体に、家命後、問ソ迷政府によって押叙されていた礼拝堂が返還
11N むきと修遊説で、最初の﹁慌界公会議﹂が関かれた。この会議には総主教と
した。この公会議は合権を持たず、代表機関でもなく、すべての民族的諸力を一つに緩めようとするものであった。
古都大主教でモスクワ総主教山げの﹁外務大臣﹂に相表するスモレンスクのキリール 町内ユロ︿ Oロ∞50HS島 が 出 席
同年五月末、モスクワのダ
有利に操作しようとする笠誌に過ぎなかった。
︿刊
ω
}
されるとする布告に署名した。この布告は一部実施されたものの、概ね紙路上にとどまり、関民投閥抗直前の自らに
かった。彼は、同年四月
州
↓にされている、とこれに禁意を表明している。エリツィン大統領も、不本意ながら、これに賛意を表せざるを得な
ロシア宗教法の制定とその f
荷量題点(潟水)
総主教庁の代表者は、﹁愛盟主義的﹂勢力と妥協を図るためにこれと接触を求めようとした。ぞれは︿民族主義的
路線﹀に回帰するロシア正教会の姿であっ(問。それだけに民主主義的な時代の風潮に触れようとする状況になかっ
た。﹁公会議﹂は、おそらく総主教と調整し、最高の権威の印象を与える声明文そ手渡した。﹁外部から宗教的に侵
入しようとするいかなる試みも、断関として阻止しなければならない。カリタス的な隠れ蓑のもとに彼らは接近し
総主教庁の主猿を擁護する世論操作
世論操作と修正案をめぐる攻防
でくる。ロシアにおける伝道活動は規制しなければならなし﹂というのである。
(
3
)
ては認められていない。﹁伝統的﹂とは、 ロシア正教会が支配的特権をもっ教会であることを、成定の
承認することであった。
連邦議会に棚流出された修正案
鵠の論文が発表され、六回乃には 一五の論文が公表判ぐれた。この過程で六月
日、第
読会で採択、六丹
。の論文が発表され、 アレクセイニ世が外出州系宗教団体の活動を制限するよう提案を明らかにした五月の一 O日以
こうした動きのなかで、 一九九三年五月、 ロシア宗教法の修正案が議会に提出されたが、この五月のや葉まで
し
て
体から、その存荘を恐れられていたルタ i派教会は、プロテスタントの宗派に属するがゆえに﹁↑伝統的宗教﹂とし
したが、プロテスタント諸教会は、﹁信統的﹂教会の範嬢には入っていない。 一六世紀以来、 ロシアで他の宗教問
イスラム教、 ユダヤ教、ヵトリシズムが包摂された。出体制下でも、﹁弱音主義派・パプテスト合同教会﹂ は存在
制限の擁護者になった。そして一般に広まった﹁伝統的宗教﹂という概念を用いた。この概念のなかには正教会、
外国系宗教団体の活動を制限すべきだという論文が多く発表された。大(総)主教が、まず信教の自由の活動の
金
〈
@
降
-32
家教法務 1
7
i
}
(1
9
9
8
)
O Bに第
において補充を求められた条項、とくに宗教出体の無神論的自体の宿家からの
の審議が開始され、七月一関白、修正案が可決された。
のみならず、問年七丹、第コ
分離を規定した宗教法第八条に、﹁留は、肢史的伝統、岬演習、国民的・文化的自立性、芸術及びその他、 ロシア巡
九九二一年八丹に宗教法の、っち削除
邦の民族の文化的水準会保証し、促進する宗教組織、?ンア連邦の伝統的宗派を支持する﹂の文一一百合追加要求した
ことは、 口、ンア正教会の意向的・を強く読んだものであった。それだけではない。
を要求された条項があった。﹁信教の自由﹂についての一般幾定は存続したものの、宗教法第一五条に定めた宗教
品約一信条の権利のうち﹁市長が良らの宗教的信条令自由に選、び、実践し、これを自由に変更する権利﹂という文⋮一8を
をつくり、宗教的見解及び確信を口頭及び文畿で表明し、妨げられることなく神奉任詰礼拝に参加し、かつ宗教的
典礼を行う権利を有する﹂という丈一言も削除を姿求したのである。さらに第二一条は、外国から教会への協力が
﹁ロシア連邦の社会的道徳規範に違反する﹂場合は、﹁麗家機関﹂にロシアに旅行寸ることを禁止する権限を与えて
いるが、この条項など、あらゆる解釈の可能性を与えている。
エリツィン大統領のい反対
E
ロシアのカトリック教会の大河教タデウシュ・コンドルシェヴ f
のような間際世論を考慮してか、八月四日、エリツィン大統領がこの修正案を厳しく非難、議会に差し腐した。外
会議員が働きかけた。これに対し、モスクワの総主教庁の竪務長は信教の白出慌の制限の働きを弁護した。しかしこ
カの諸教会は、ロシアで提案された法律にたいし、 エリツィン大統領に決議で一反対するよう、かなり多数の連邦議
HJ
さ印刷町内 Oロ今回出53ny が民対の意を表明、 ついでプロテスタント・自由教会が反対の決議を行った。アメリ
チ、 立
しかしこの後、状況は変化した。ヨーロッパ
@
-33-
制削除要求した。さらに、宗教的典礼及、び儀式を定めた宗教法第二二条のうち﹁制限を受けることなく、宗教的団体
ロシア宗教j
去の和j
定とその問題点、け青水)
月二五日に公布、期日施行されたロシア迷邦懇法第二八条によれば、﹁各人に良心の自
国系宗教関体の権利の縮減も、﹁伝統的﹂宗教毘体への特権の賦与も許容されない、ロシア憲法に違反する、と言
ο篠かに、何年一一
(叩ぬ)
明した
曲、信仰の自由が保障される。これらの自由は、偶人としての、または他人と共同して任意の宗教を信悔し、もし
くはいかなる宗教も信仰しない権利、ならびに宗教的及びその他の信条を自由に選択し、これを信じ、広め、それ
ロシア連邦においては、
いかなるイデオロギー(思想)も、これを霞家的または義務的なもの
に基づいて行動する権利を含む﹂旨を規定し、さらに、憲法第一口一条によれば、﹁φ
デオロ vfi(思想)の多元性を認める。窃
と し て は 認 め ら れ な い 。 @ ロシア連邦においては、政治的多元性、複数政党制が認められる。川町 社会団体は、
︿ぬ)
法の前に平等である﹂と規定しているので、いまだ施行されていないとはいえ、ポスト・ソビエト時代にふさわし
い︿多元主義V時宍の潮流に逆行する誇りをまぬかれない。何回汚、エリツィンはまったく反対の見解を表明し
リッカーは、①支配的な特権をもっロシア正教会、②制制限された権利をもっ宗教関体であるが、関で﹁ロシアで
また﹁伝統的宗教﹂と﹁非伝統的宗教﹂と二分することも問題と言わざるを得ない。その実態について、シュト
議を含んでいた。
ていたので混迷の様相を深めたとも言えるが、外閥系の宗教団体の活動を制限しようと躍起になることも多くの開
イ
(紛)
伝統的﹂として承認された諸宗教関体、母線滅された権利を有する宗教自体、すなわち一九九O年 以 後 、 始 め て
登録された外密系の宗教盟体など、一 つの宗教団体に整理している。この分類でも、宗教法制定(一九九O年)
九九四年四月、連邦政府は、外盟系の
以前から存在していたプロテスタント教会は、舎の範轄より窃の範幡に入るということになる。
?ンア連邦政府の動き
以上のようなエリツィンの動きにかかわらず、ロシア連邦懇法施行後、
告
-34-
家紋法第 1
7号仕事9
8
)
宗教鴎体の自由な活動にたいし、宗教盟体の登録について定める、諜教法第一七条に﹁外国系の宗教組織の代表者
一九九阻年一
丹、下院に提出された。
︿信教の白山間﹀の反対者の最大
という文替を追加要求した。委員会の法律案の審議は、長引いた。 ⋮九九四年秋、下院で
は、ロシア連邦領土でもつばらロシア宗教組織の諮議にもとづいて、登録に関守る法規に定める伎務の範酪内で話
動することが許され
議決されることになった。最終的法案は、
wその真理と滋
関心事は、四つの核心的な条項において法文比された。発案考には、次の閲つのこと、すなわち、 m
態についての考え方が矛慰するような宗教間体を簡題なく禁止する可能性が存在すること、 m
w外酪系の宗教組織の
w正 教 会 の 宗 教 教 務 が 公 立 学 校 に 割 り 当 て ら れ る こ と
活動が妨げられること、窃閣が宗教生活を統制すること、 m
常にしかもこれは公然と強調されていることであるが、この法律案には、民族主義者、
開条問項は、次のように規定している。
35-
などが問慾になった。
スクワの総主教庁が常に主張している規定が欠けていた。このような欠欽がモスクワの総主教庁を支援する関側、
といっても連邦政府の主張する法律的な根拠となった。
︿信仰告自の自由﹀の行使に係わる一九九三年以来、提示されていた第四条問項には、﹁公共の安全と秩序を危
モ
くする、社会的、人種的、民族的、または宗教的争いの原因になるものと同じように、戦争、暴力、憎悪をかきた
てる宗教組織の創設と活動は、禁止する。これらは、その活動で非法律的な強行措毅を用いるものであり、市民の
である﹂と規定している。
ロシアにおける外慢の宗教組織の活動に対する第
﹁外用閥系の宗教組織は、 ロシア宗教組織側の托表絡がこれを設聾することができる。
この代表者は、醸の
公共の道徳に反する卑狼な、かっその地の活動によるものが入る。またその活動の日的、本来の性格を裏切るもの
肉体的、精神的及び道徳的な健康を指なうものである。またそのなかには、麻薬その他の紙静剤の使用によるもの、
ロシア宗教j
去の制定とその問喜重点(i毒水)
官庁で派遣されるものでなければならない。
-・この代表者の派議は、当該宗教組織がロシアの顕民的立法の意
味で留により承認されているという証拠が、将来において明らかにされない場合、痕否されることがある。外出系
1
8
3
3
3
5
iこ
の宗教組織の代表者は、 ロシア連邦の領域では、その組識がロシア宗教組織の招請状が予め呈示される場合1
れは登録法規にもとづかなければならないiiにのみ活動することができる。
エリツィンの勧告的意見番と意見聴取
エリツィンの勧告的意見書
︿
MM)
に矛盾するものである。
}の立場(見解)は、大統領府の首席補佐賀 R
九日の大統領の見解とはまったく逆に抑圧
一九九五年二月一九臼にこれに箸名した。 一カ月後、さらに下院宛の大統領府︿大統領府の他の首席
補佐宮により署名された)の警簡が送られた。そこで、下続は、
リツインは、
オレホブognyod司 によって仕上げられたものである。
を保鰭している﹂ことが想恕される。したがってロシアにおける外題人の権創刊を縮減する第一路条の修正案は憲法
とくに第一盟条四項は、これを追加することなく削除するよう勧告した。憲法第二八条が、﹁何人にも信仰の自由
これらの政府案に対して、 エリツィン大統領は、その一九九五年一月の勧告的意見舎で、強い姿勢で批判した。
L
.
.
.
(必)
て起こり得ないと考えられる。
意見聴取iiz-パlカi の晃解表明 ii
良心自由委員会は﹁?ンア連邦における良心の自由及び人権に関する﹂法律について、
初めて議会の公聴会を開くことに決めた。もちろん下読が、専門家の見解の支持を引きだそうとすることは、良心
九九五年二月一四日、
的な政府案を強く支持するように要請した。したがって、個々の役職者間の向調が大統領府で得られることは決し
月
-36-
(
4
)
①
<
I
D
ぷ
二
宗教淡第 1
7号
(
J
君
事8
)
∞
い﹂といった規準︹範鵜︺で制約することは不可能である
w
n
r
貨の見解表明には大きな関
の 自 由 の 擁 護 者 に は う ま く い っ た 。 と く に ロ ン ド ン 大 学 教Eaパiカi 摂US m
い﹂ものとして、扱われることはありうる。
とはっきりと述べた。宗教組犠の個々の代表者は、彼らが刑事事件で隷令負い、興事法上、追及される場合、その
都度、
九九O年 の 宗 教 法 と こ の 法 律 の 修 正 案 に つ い て の 政 府 案 と さ ら に 小 僚 子 は と も に 臨 収 さ れ た 。 モ ス ク ワ の 総
こうした専門家の意見が聴取された後、政府案の決定は直ちには期待がもてなくなった。聴取の資料および舟容
み也、
c
︿日目)
理教が間体として登錯し、ロシアに拠点を置いたのは、
{ M哨 )
万人ないし一二万五千人の傍徒を獲得
一年重である。テレビ'ラジオの宣伝番組やコンサi
一年間でロシア市民の
A
サリン事件を契機として、 ロ シ ア の メ デ ィ ア は 、 セ ク ト に 反 対 す る ヒ ス テ リ ッ ク な 興 奮 の 柑 椅 に 包 まれ た 。 ォゥ
部は、ロシアの問問境外にあるものである。
(刊明)
押収の唯一の根拠になった。この組織の教組は、(彼らか りすれば J 外 出 入 で あ り 、 外 罰 で の み 活 動 し 、 そ の 指 導
された。宗教法に対する重大な遼反があったからである。この違反が、受誌の抹消及びモスクワのオウムの建物の
九九五年四月、前述のサリン事件を製機として、 ロ シ ア に お け る 彼 ら の 活 動 は 禁 止
トなど布教活動を展開した。これらの活動開始後、
(げ叩)
九
された(一一一月二
o
a
) 後、オウム真理教日セクトによって、東京地下鉄でサリン事件が是こった。このオウム
このようにして、外悶系の宗教間体の活動の自舟の問題は一応決策がみられたが、公聴会で参考人の意見が聴取
オウム事件の発生
オウム事件とその影響
主教庁はこの公穂会をボイコットした
(
5
)
命
海外絞大の拠点となった。
九
37-
心が寄せられた。宗教閤体の多甑牲を﹁良い﹂とか
ロシア宗教法のが.J)Eとその問喜重点(液水)
羽目、
一九九O年の宗教法の修正案に賛成
ム事件に対して伺セクトの活動の禁止等の判決が下されたが、この事件を契機としてロシア正数以外の宗教間体に
対しても厳しい告発の声が起こった。
保守派の動きとその反発
九九五年四月
G-ヤプリンスキiczm叫Cコ戸川知名目叫g
- サヴィスキ巧丘町江∞除名EE
ra の所属するキリスト教民主党のw
﹂うした印象のもとに、ド視は、その第
した。
はこの案を捻出した。宗教法第盟条の連加条市明は基子の明確な文一首を含んでいた。
﹁関家の安全と公共の秩序を脅かす宗教組織の創設及び活動は、禁止されるいという築である。ここで叶民家
c
体性の侵害、国家の安
口、ンア連邦憲法で、宗教級織
一条で、とりわけ宗教的な世界観が含まれるイデオロギー的多稼性が
憲法第一四条は、さらに明示的な宗教と宗教組織を規定している。それゆえロシア
-38-
と﹁公共の秩序﹂とい、つ概念が新たに導入された。このような概念は、きわめて漠然としており、きわめ
て恋意的な解釈を許すことになるので、この文替の法文化によって、 い か な る 組 織 も ﹁ 国 家 の 安 全 ﹂ に た い す る 途
反を事自に裁判所に訴えることがあり得ると懸念された。この提案が提出された日より一 O 臼後、四丹二回目、
G
憲法第一四条では(ここで法文化された宗教の枠付けをとおしててロシア連邦の世俗的な性格とその民主的な基
問題とされる場合に限られる
が合的組織として定義されるのは、態語第
為を行う社会開体の設立及び活動は、これを禁止する﹂設の規定に言友している
(特)
全保障の破壊、武装部隊の編成、社会的、人種的、民族的珪び宗教的な憎患の一扇動を目的とし、またはこれらの行
る憲法の第一一一一条の五項に﹁ロシア連郊の懇法体制の原則の暴力的変更及、ぴロシア連邦の
c この法律案では公的組織の創設と活動を禁止す
リツインはこのような変吏は箸名して承認するわけにはゆかない、と強い誠子で非難した。下院で提出された法律
二
コ
φ
。
〉
案は、本糞的に憲法で規定されている関係の規制を対象とした
宗教法第 1
7号(19
号
以
(品開﹀
盤をはっきりさせている。
③ヤクi ニンとポルシユチヨフの反対案
w
- ポルシユチヨフ宅色時江∞号'
この議論のさなかに、民主主義的な議員であり、一向祭であるG-ヤクi ニンや
唱は、連邦政府案に対して、下院の券議委員会に﹁良心の自由及びその保持の保障に関するい法律案司令
出向宮出口町 H O d
提出した。この法律案はある意味で奇妙なものであった。その法律案は一九九O年以後、実効的であったものを再
度、法文先したものに過ぎなかったからである。しかし、新提案は、現行の法律にきわめてしばしば衝突すること
w
-39-
を露にしたために関心がもたれたこと令示す。たとえば、モスクワ総主教庁は、個々の翁と宮庁と調整の約束を結
し
ミ
ぶ権利会与えられた。とくに教会と隠防省とが協力することでに大衆に不快感を与えた。軍の学校やアカデミーで
は国の費用で教会が設立された。正教会の司祭アカデミーの学生は、その紡衛義務 iーそのなかでは、彼らは、
かなる武器も携帯しなくてもよいiiを特別れ部隊に吸収することが認められている。指誌の教会区の管理部門は、
総主教庁の教会の再建ないし新築の大がかりの財政援助を行っていたが、問時にソビエト政府により搾取され、破
壊された他の宗派の礼拝堂を、これら宗派に返渡することは断った。総主教及び協の官吏がいかなる約束を結ぶ際
(m川 )
にも、このような協定は 1 1モスレム(イスラム教)またはユダヤ教徒との開に結ばれる際には保障したもののi
いる。
﹁国及び地方の官庁が一つまたは数個の宗教組織を俊遣することは認められない。
その他のイデオロギー組織にいかなる物質的援助も与えない。留の公務銭は、その職務上の地殺を│i市 民 に そ の
閣は、宗教組織および
このようなモスクワ総主教庁の特権北を背景にして、ヤク!ニンとボルシユチヨフの提案は、次のように述べて
i 、これまでのところこの約束は空文化している。
ロシア宗教j
去の制定とその問題点(清水}
宗教との関係に影響を及ばすようなかたちでil濫用してはならない﹂(第五条)。
べての国及び地方の学校施
関誌、信仰告白に関する法律
ヤク!ニンとボルシユチヨフの提業は、審議委員会で五丹一八日、検討され、さらに良心自治委長会に送付され
た
。 一九九五年秋、議会では、すでに過去のものとされていたので、下院は、四月
⋮九九五年 C月五日、
1 ニンとボルシュチヨフの提案との妥協として考えられた。しかしながら、
連の補充法文を含む法律業を提出した。新たな法文は、政府案(信教の自
を補充する政府案に賛成した。良心自由委員会は、四月一間四日の政府案も、ヤク i ニンとボルシユチヨフの提案も
無視したが、
由を制限することに賛成する)とヤク
結局、機構上の関連を示すものではなく、阿茶の相互に矛属する規定の寄せ集めとして呈示された。たとえば、ヤ
クーニンとボルシュチョフの提案から、第四条の新法文が採択され、その民主的立場が反映された。
﹁ロシアは、世俗間家であり、 いかなる宗教も、盟教であることは、認められない。 一つまたは数個の宗教組識の
ために何らかの特権を与え、または制限することは禁止される ο
﹂
その他の筒所で、新たな裕充によって宗教の自由の制限を意躍する政府案が採択された。﹁その目的とその活動
で公共の安全及び秩序に違反し、国家の安全を危うくし、さらに道徳を汚す宗教組織の活動は、禁止する﹂という
一条になっている。
(滋﹀
のである。たとえば、宗教組織の禁止につながる根拠の長いリストご九九四年二月の案)は、現実には変一史され
一条に委譲された。殆ど同じ﹁反布教的な﹂諸規定が、この案の第
あとがきにかえてliその後の動向ll
ることなく新たな第
喝
九九六年中葉以後、現在までに下焼に細流出された宗教法そ変更する修正案が一九九五年四月一四日、下院の第
}24 最近の提案
(
5
-40-
設における教育は低俗的性格のものであるい(第六条)。
室長教法第1
7号 (
1
9
9
8
)
一読会で採択された一 つの案に基づいているのか、または何年一 O月五日に提案として審議されているのか明らか
でないが、 いずれにしても下院は、 一九九六年七月一 O Bに再び﹁信仰告自の自由に関する法律﹂を採決している。
;
iすべての宗派の絶対的な法的平等
一九九C年の宗教法
︿信教の白出﹀に反対する者が論拠として持ち出している論議を繰り返したに過ぎな
共産党党縄県V- ソルカルツザムブ︿房付吋
∞2rと脱出場も、
C
を保障する!iの採択以来、
九九O年の宗教法では、前文において、﹁宗教の
宗教の領域において?﹁法的な空白﹂が題夜北した。セクトが増大し、至るところで、外国系の宗教部体が積極
的な活動家(布教師)を派遣し、布教の場所を広げていった。
自自は、他の人びとの自由と権制約の確保のために必要な制制限にのみ従う﹂旨を規定している。これにたいして一九
九六年七回乃の法律案は、市民の権利の篠保とともに﹁閏の防衛の確保と屈の安全﹂を付加して、その必要性を主張
二条留項﹀。﹁閣の安全﹂とか﹁公共の秩序﹂という概念の導入は、全体主義の笈一一戸口にみられる法文書の法
律に変化したのではないかと、懸念の声が聞かれる。というのは、この概念は、完全に議滅した警であり、出ソピ
(位)
エト体制下で裁判所と宮東により、また恋意的、かつ自らの欲するままに解釈されたし、その余地会残しているか
一九九む年の宗教法では、﹁信教の自由﹂についてロシア市民と間とく外酉市民及、ぴ加熱器籍者にも同等の権利が
(日山︺
九九O年の宗教法の第蕊条﹁係部
保障されていたが、新法律案からは、この条項は遠ざけられた。新法律案から、これに対応する文言を排除するこ
とは、所轄官庁には容務に行われ得ることになった。そういうことになると、
告自の由民府の保隊﹂の爽鷲的内容は損なわれ、純粋に笠言的性格しかもたないことになりかねない。ともあれこ
←
し
ミ
し
のように新法待業は多くの問題をかかえている。
-41
。
た
らである。
ロシア宗教 i
去の f
t
i
J定とその問題点(i青水}
エリツィン大統領のアレキセイ二世訪問
正教会の復活祭、すなわち一九九七年四月} 七日、エリツィン大統領は、?ンア正教会とその社会の安定化への
貢献を評価した。﹁?ンア正教会は、子ンアの社会生活において特別な地位を占めてきた。同教会は、その精神的
道徳的な価値を発展させ、強化し、そうすることによって、市民の平和と合意を遼成してきたからである。私は、
一九九七年は、休暇のゆえに、仙伴
e
エリツィンは、総主教によって執り行われる複活祭礼拝に出席したが、彼は、
5E2♂nZ30同認可止日首相が
ロシアの国家機構と正教会との鶴の協力がさらに拡濯、強ルルされることを確信している﹂と。
奉仕立礼拝に欠席すると怯えられている。その代わりにV- チ ェ ル ノ ム イ ジ ン
﹂れに出席することになった。
別の機会に、 エリツィンは、総主教に対してすべての市誌の幸福のために協力するように呼びかけた。
よって、本年も、われわれ祖屈の精神的・選穂的側刷新への途の重要な里程標になろう﹂と。
同特に?ンアにおけるその他の﹁伝統的な﹂宗教担体にたいし、きわめて強いかたちで、その権限を縮減しようと
ついての諸案を概上げにしていることである。モスクワの総主教庁が若干の権限をもって、特則加な地位を要求し、
これらの発習で、見逃せないのは、 G2W誌 ( 九九七年六丹号)が述べているように、 エリツィンが宗教法に
れ
ニ
コ
しているからである。これに対して、 エリツィンは、アメリカの型に従って、すべての宗教団体おぴすべてのセク
︿山内)
トを華街することなく平等な権利を与えようとする人々の側に緩みしている。現在まで、 いずれの場合にも、
〈
)
-42-
(
2
)
(
3
)
ツインは、議会によって可決されたすべての法律案にたいし、結否権を発動してきた。
ー
宗教法の最近の動向
以上、?ンア宗教法をめぐる争いがいかに嫌烈な・ものであるか、その一端を素描したに過ぎないが、
コ
二
m号(1告98)
宗教法第
リツイン大統領がロシア正教会以外の教会ないし宗教関体の最後の希翠︹の星︺になっていることも確かである。
九
九
概して、 ロシア大衆は、信教の自砲の制限、 モスクワ総主教庁の特権化を支持しているものの、 ロシア疋教会以外
(お)
の信徒を追世一目することに賛成したり、外閉閥系の教会の協力を資めることに加担しているわけでも・ない。ただ
~
一
〈
)
宗教法は、西側指向的と一一夜われているが、ヨi ロッパ的な観念を指向するものではなく、アメリカ的であ
クロトフの論考は、
一子、ぞれ以上に及ぶ小規模の宗教グル!プによって規定されているア
ン大統領が八億教の自由V の擁護者であったこと、またあり続けることに期待合寄せている。
一九九六年六月六月一五ヨに実施された第二回の大統領選挙でエリツィンと争った共産党の G
ロンア連邦共産党の指導者﹂であるばかりでなく、﹁ロンア民族愛一間樹党﹂の指導者である、と
一読している。のみならず、共産主義的な立場からすれば、﹁宗教は、間氏にとって、問料片と見なされていた﹂が、
ノフを、ロ iトは
ジユガ
ロシア正教会により敬意をもたれている宗教的少数派は、その権利を著しく縮減されているが、クロトフはエリツィ
なii勢力を隠ぺいしようとする動きがあることを指摘してるが、正当な指摘であると言えよう。またロシアで、
(閉山)
がかりを得ようと試みている。このような試みの背後に、多綾な、全体主義的なii民族主義的かっ自共産、疋義的
方で宗教組織に巽なる法的地柱を与え、他方で全体主義的なセクトと闘うための
パ諸国では、 アメリカ的な平等主義が現実には理解されることは難しく、ときには衝突さえする。
(白羽)
ょにわたって成長してきた国民的教会をもち、校史、文北及び思考方式がそれぞれの酷民を特徴づけてきたヨiロツ
メリカ合衆拐では、すべての宗教グル iプの絶対的な平等が多元的に指向されている。他方、千年あるいは千年以
理解から出発している。宗教的風土が午、
る。ヤクi ニンが論じているように、本報告で引用したクロトフの論考も、基本的には、形式的な平等の民主主義
)
一
一
四
43-
〈
O年宗教法の内容は、当時の政治的エリートの思考より自由・民主主義的であったことは紛れもない事実である。
ロンア後教法の制定とその間霊重点{清水)
いまやレ i ニンの系譜に属する、いわば孫とも一夜、つべきジユガノフは、教会にパートナ!であることを求め、また
ロシア悶家成立に際してのロシア正教会の積議的な役割を評価している。外国の宗派は危険な要問であり、その影
(叩岬﹀
くない。だからこそジユガノフは、﹁われわれは、正教会を伝統的な、宗教的立倫理的な価値の最も重姿な淵源と
考えている﹂とし、正教会の代弁者のごとくに述べたのであろう。
(五) 本報告の発表後、 一九九七年七月、﹁良心の自由および宗教信体に関する法律(案どが、上下両院を通過
九九七年新宗教法第一一一条一項には
したが、エリツィン大統領は、同月一一一日、この法律案を、多くの点においてロシア憲法に矛臆する、とくに憲法
の保障する信教上の平等に違反しているという理由により矩苦した。この
m項 に ﹁ 由 民 は 、 法 律 の 前
﹁ロシア逮邦においては、良心の自由および信締官・自の自由が保障されている﹂とし、 m
に平等である。実穏に市民的、政治的、経済的、社会的および文化的生浩のあらゆる領域において、自らの宗教な
いし宗教の所属に係わりなく平等である﹂旨を規定している。さらに第関条一項では、﹁ロシア連邦は世俗図家で
MW)
一五年前に驚銭された宗教組織には、
ある。いかなる宗教も、国教または義務的な宗教である旨を宣明しではならない。宗教的結社(集問)は、留から
分離され、法律の前に平等である﹂と規定している。ただこの法案では、
さらにロシア議会は下院が、
一九九七年九月一九日、上院(連邦院)が同月二四日に新宗教法を可決した。
︿
︹伝統的︺宗教関体としての資格を認め、その条件を満たさない宗教グルiプとを庶別している点は問題なしとし
争
ao
‘、、
hOL
(ムハ﹀
この九月に可決された法待は、実際には七月の法律︿案﹀とほほ同じものであり、若子修正された変更を含むもの
にすぎなかったcG2W誌三九九七年一一月﹀も指摘しているように、新宗教法は、すでにロシアないし旧ソ連
-44-
響力は厳しく制限されなくてはならない。この点において、彼が︿民族主義的﹀な傾向を露にしたとしてもおかし
宗教法第 1
7
号(1998)
ロシア祭教 I
去の制定とその問題点(潟水)
において一五年以上、公的に承認されている伝統的な宗教組織と一疋年という保証期間が定められている新興の宗
教グループとを区別している。その際、問題になるのは、ロシアの当該官庁がロシアにおける公的︹な最小認の︺存
在の規準をいかに解釈するかということである。このような方法で︹境存の︺宗教間体のみが公的なゑ訟を得、し
たがってあらゆる特権 ! lすでにソピエト日出家において承認され、特権を得ている! iを享受することに疑義がも
たれたのはむしろ当然のことと震えよう。逆にこれは、 ソピト体制により登錦されなかったすべての閉体が今日で
も公法上の間体として承認されず、ぞれと結びついていた特権を享受することが勺きないことを意味する。この度、
ロシア法務省が、モスクワのセブンスデ 1 ・ァドヴェンテイスト教会の指導部の報告に暴づき、変更された宗教法
の規準に沿うものであり、法人として﹁缶統的﹂宗教団体に闘機するものであり、特権を付与されることを保障した。
(
惚
﹀
旬間
gg呂志一吉宮内コmwcoz。
自の筆者の報告にもとづいているが、それ以後、ロシアウ泳教法をめぐってきま京まの動き
このようにプロテスタント系教会にもかなり配惑を行っている。しかし現実にロシア正教会に特権的な地位が保隊
されていることも安定できない。
がみられたので若干の補足を行づた。
(
1
) 本総は、宗教法学会での⋮九九七年六月二
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一
時
N脅さ口問日︽凶器acamwMHaCC出問答申¥お忠勝阿倍おがある。ロ iト教授は、ミュンヘン大学名後教授の政治学者で沼ソ途、口
同
州
色
気52v
寝苦H
、ンアぷよび独玄関家共肉体の政治員法律に詳しい。ちなみに彼の父はオデッサ駐授の外交官で端同学に縫能であった c上記の著述はいずれ
も、非売品で、九九七年九月、ミュンヘン市街郊外の務者名を訪問した際、頂献酬したものである。向教授は、数多くの品恐怖考を発表して
-45
宗教法書~17~予(1 998)
勺
E鳴
門 f 問中ミを併せて晴樹齢獄した。記して謝獲を決する。
いるが、論説句史訟に芯喜弘勾丸ぬ 5 3 5ぬまた 63
︽悼む号。 F22
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一g
cωH84Vコ ¥ 忍 ミ タ¥A-および同N5払き内MHU尋問削 φ門戸問一好omgRSロ唱。浮き
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Y
2
ぎ票二氏。2
2
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m品目。まけ︽宮沢民yo--詩yeロ﹀吋ggr32E刊誌与問。詩z
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i﹄(館山叫今一九九七年)六一一⋮炎、二八九百同都世間間⋮。本勢では、ソ逮良心自
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市開法および宗教組織法およびロシア宗教法のみ告と持上げたが、ロートのむ守主
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について必ずしも開明確に保描揮しているとは一言いきれないこと、②この法律は、凶家と教会との分離のみを綴定し、顔と世界制酬との分離贈を
定めていない。③ロシア逮郊では、後一俗的な学校で然教教育を白岡市開意関心かつ自由間選択の深刻にもとづいて行う機謝料を明磁に認められてい
V 市防法には、これに対応する規定がない。清水・約掲幾三六七官民以下参照会
る(ロシア宗教法務九条一一項﹀が、ソ漣良、 L自
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をいう。一般には、
(6﹀同﹀除ヨ一 O宅-FPC-きわめてダイナミックな発後ぶ均は、一見しただけ判、も、間闘に豪録された祭教間同体の数の急速な仲間慌によって誌瞬され
る。もちろん綴織にみるならば、この件緩ぶりは、宗教性が増大したことよりも、﹁摘出品引の由同防﹂の細部隊が一層線遂されたからである。
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(日)もっとも・
しかし逆にそれ以外の祭派は緩めない、という可能併はは大いにある﹂。また、吋附険制期的問に考えると、まず一回の粋に絞丹、次にぷ教会を関
晶棋会にする、という戦略も成り立つ﹂としている。諸問氷・泌総量宮四二蕊商問参照。
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連については、問﹁
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訳﹁ロシア連邦練法﹂(ロシア研究開制再開2 ・一九九悶年﹀を参照。
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いしてジユガノフを支持するものがでたのも、ジユガノフの意細見表明に錐周回向したからであろう。いずれにしても共康党の指導獲がロシア
ま 教 会 の 見 解H︿民族主義的問路線﹀を支持する発一一践をしたことは、問教会が、政治的にみてもおろそかにできない、いな有周なものと考
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えているからであうっ。インターファックス通信によると、党指導線の態度(緩晴間後乱など政権側の失敗を党勢拡火につなげられない、つ
笠脅﹂を夜明し、地指導部の繕威低下が鮮閥的になゆたつ九九八年五月一一一な日・戦日新聞夕刊)とい、っ。
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(紛)このい口一については、安己的誌の宮夕、、おき恥守宅手密室、言寄
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に一簿、ヲロシアのアドヴエンテfストに開閉して言えば、後らは、問綾なく授臨時し
(削山﹀み弘実認定器毒殺的内込FONd 5勾¥N印吋ぬ乙デ出・円枠拡
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ているとみてよいであろう。彼らは、ロシアでは、⋮一O年以前から存夜していた。すべての教会が事実上活動を悶悶絶された、スデ i リ
ンの大平線清﹂ゅの疑わしき数年開問(一九一一一六年から一九筏二年ないし四三年)を除いて、少なくとも、九O 年 、 闘 の 承 訟 を 享 受 し て 来
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たし、念品ソ達時代、登録されてきた。々ヅンスデ!・アドヴエンテイスト派はアドヴェンテイストと分かれた品慌である。清水 e
。頁以下参照。
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ロシア宗教法のき活気とその照喜重点(清水)
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・・-∞﹂日この論考では、一九九七年七月業が、その姉間文において、ロシア定数
ロシア連邦に伝統的に存夜する宗派も尊重される﹂旨おい品)が述べられている。一九九O年 の 宗 教 法 が す べ て の 宗 教 笛 体 を 差 別 す る こ と
会が、﹁すべてのロシアの緩史的、精神的、かつ文化的なレヴェルの不可分の構成都宮索﹂であると強調し、かっ﹁イスラム教、仏教その他
なく、したがって、コ白い兇弟片品純一教会、サイエントロジl、オウムなどが法律の摘に平等であったお山知)ことの早々時閣を捻摘してい
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る。ロシア正教会の特権的な地位は、依然として綴革告にみられる。 V
れる。ロシア滞家派の一つの首長として総主教の、この間間象的な儀式そのものへの出席は、どの綬疲憲法の趣旨に適合している明、あろろ
¥日岳町山??でも﹁これを議開明するものとして総主教アレクセイニ散の⋮九九六年八対九時制のエリツィン大統領の獄後式への山山痛が挙げら
か。宗教級織は、憲法によち附四家によあり分離され、法律の前に平等である。﹂また﹁?ンア正教会およびその符緩制は智大僚に、挙制出家的な
池伎のままになっている。ロンアでその地伎は法律の規定よれワはるかに重姿なものになっている﹂としている。さらに、﹁菌防衛の礼終堂
は財政支援を受けているのに、抽出の礼拝笈は信徒らによって後釜され、通常の教区教会の場合同 M支援を受けていない﹂(的・8)同闘が指摘さ
れている。
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(追認)法山の術革告の宗教淡文献に収録しなかった河内町色。語、HS緑、口色町出河内川忌急き叉偽て高んな 土認の嘉門町村民一与なに、 w Kぬ
。片付
{CMtξ﹀の所在地は、チュ
lリッヒ市郊外のツオワコン品刊になっていたが、村といろイメージには綬浅い務かな住之部間にあっ
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V品。宅内山∞設の宵戸 CMd暗号︿史認Nagspsgを本相相会誌問、入手することができた。シ品トリッカーには、﹄出品込色。、 お
E 九bah書室内凶器。殺のと偽gkca室内、俗、ご谷戸とい、つ繁盛曹がある。なお筆者が紡ねた山口mcg土屋内山︿主義22‘
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