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Page 1 Page 2 田 野 ー~ はじめに 北海道のタマネギ生産は, 日本経済
日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要
VoL23(1989)pp.41−52
北海道北見盆地におけるタマネギ生産地域の成立と展開
田 野
宏
Formation and Development of Onion Producing Area
in Kitami Basin,Hokkaido
Hiroshi TANO
(Received October 31, 1988)
An increase in Japanese income together with high economic growth on and after the
1960s brought about westerization of dietary habits which caused production in onion produc−
1ng areaS increaSe.
Among fruits and vegetables,Qnion is susceptible storage,so large−scale production centers
tend to Iocate far away from the place of consumption.
1くitami Basin in Hokkaido is Japan’s No,1production center.It came to be a large scale
production center due to a govemment subsidy for establishment of designated vegetable pro−
ducing areas and the rice acerage reduction policy backed by favorable market conditions from
the1960s to1970s.Other primary factors contributing to the formation of this large−scale pro−
duction center can be found in effQrts to improve cultivating techniques made by farmers and
the organization of a shipper’s union for onion shipment in the Kitami district.
This consolidated into one shipper’s union8agricultural cooperative associations in the
Kitami district,which consists of one city and8towns.The shipPerシs union,together with
other producing centers in Hokkaido,came to hold a high share in the Tokyo central wholesale
market during September to ApriL
However,after the middle of the1970s,nationwide excessive production continued,so a
dispertion in a shipment destinations began away from the Tokyo central wholesale market to
many markets throughout Japan。
In addition,the prices of agricultural production materials after two oil crises rose steeply
and income of the producing farmers tended to decrease。
To comter the income decrease,producing farmers in Kitami Basin began making a di一
仔erent response,depending on whether the market is an advanced area or newly−opend area.
In advanced areas,the method of sales was shifted away from shipment to the agricu1−
tural cooperative association towards increased sales to traders.This was done with the sup−
port of accumulated onion income reserves and high cultivation techniques and experience.
Thus they sel1,taking into consideration the movement of the market.
In newly−opend areas,they continue shipment to the agricultural cQoperative association
and simultaneously do multiple farming。This incluldes rice and wheat growing and is an
attempt to avoid the sharp market fluctuations of single−crop onion farming.
日本大学文理学部地理学科
〒156東京都世田谷区桜上水3−25−40
Department of Geography,College of Humallities,and
Sciences,Nihon University,25−40,Sakurajyousui3・
Chome,Setagaya−ku,Tokyo,156Japan
一41一
(4i)
宏
田 野
階を導入期・産地形成期・産地成熟期の三段階に分類し,
1。 はじめに
それらを総合的に把握するとともに,核心的産地の中か
北海道のタマネギ生産は,日本経済の高度成長期以降・
らタマネギの導入・生産形態を異にする先行地域(北見
好市況と需要増加等の社会経済的条件を背景に,作付面
市川東地区)と新興地域(北見市常川地区)を選び,個
積が増加し,今日では全国総出荷量の約35%を占めるに
別経営の実態把握から,産地成熟期段階における農家の
至っている。道内の主要産地は,石狩支庁・札幌市近郊
対応形態と特色を明らかにしようとしたものである。
の伏籠川流域,空知支庁・岩見沢市近郊の幾春別川流域・
上川支庁の富良野盆地,そして網走支庁に属する北見盆
2. 北見盆地におけるタマネギ生産の発展
地(常呂川流域)である。栽培の歴史の最も古い札幌市
2−1導入期
近郊産地は,札幌市の都市化の影響で・作付面積は横ば
北見市におけるタマネギ栽培は,1917年(大正6年)に
い傾向であるが,他の三産地は,1960年代半ばから1970
現在の北見市常盤町・川東・旭町の篤農家が札幌市の興
年代前半にかけて増反が著しく,北海道産タマネギの輸
農園より種子の導入を図り,試作したことが始まりであ
送園芸地域を形成する新興産地として牽引的役割を果た
る6)。導入された種子は,北見盆地内を流下する常呂川流
してきた。なかでも,網走支庁(北見盆地を流れる常呂
域の沖積土壌を中心に作付された。しかし,大正期にお
川流域の沖積低地)は,全道作付面積の40%強を占め,
ける北見地方の商品作物は,全国的にもハッカがその主
全国一の集団産地を形成している。
流を占めていたことや,タマネギに対する国民の消費需
北見盆地のタマネギ生産は,上述した如く・1960年代
要が少なかったこと等によって・栽培の波及効果は少な
半ば∼1970年代前半における,好市況と需要増加等の社
く,出荷・販売は札幌や一部の地元の青果商人の手によ
会経済的条件に支えられながら,野菜出荷安定法指定地
って細々と行われていたにすぎなかった。昭和期に入る
域化(1966年),米の生産調整政策(1970年以降)等に
と,農民組織としての販売組合が結成されたため・1935
伴う行政上の補助事業を積極的に導入することで・大
年∼1940年には作付面積は100hαをこえる水準に達した・
規模大型産地を形成するに至った。地理学の分野では坂
しかし,第二次世界大戦の勃発により,農業生産統制令
本(1981)1)は,北見地方のタマネギの産地完成期(1975
公布によって戦時体制下の生産は下降の一途を辿った・
年頃まで)を研究対象時期と定め,当該地域のタマネギ
戦後期に入り,タマネギ導入期の第二段階を迎えるの
生産の拡大は,価格の上昇による耕境の拡大現象である
であるが,この時期における産地化の基礎を築いた技術
と位置づけながら,精緻な生産性分析にもとづき,来たる
的要因を二つ掲げることができる。第一は,1950年北見
べき成熟期段階に向けての貴重な提言を行なっている。
市常盤町の篤農家(小路弥之助)によって開始された移植
農業経済学の分野において八鍬(1975)2)は栽培から生産
栽培技術の確立である。移植栽培は・それまで行われて
流通までの総合的な解説を行い,滝澤(1983)3)は北見
いた活着率の低い直播栽培に比べて作柄安定度が高く,
タマネギの主産地化と農産物物流問題との関遠を分析し
収益性の向上に大きく寄与することとなった。しかしな
ている。また三島(1982)4)は市場構造と需給調整の立場
がら,1945年∼1950年代は,タマネギバエの大量発生被害
からそれぞれ実態に即した報告を行っている。
が毎年生じており,耕作面積は1958年の時点では53・7hα,
北海道のタマネギ生産は,その後・二度の石油危機を
耕作戸数は86戸しか存在せず,戦前期以下の水準にとど
契機とする生産資材の高騰に加えて,需要の頭打ちによ
まっていた。
る市場価格の停滞,周期的な価格の暴落等により,作付
第二の技術的要因はこのタマネギバエに対する北見地
面積・出荷量の停滞傾向が定着し,産地形成期を過ぎて,
方の病害虫駆除体制の確立である・第二次大戦後には栽
産地成熟期・再編成期の段階に移行しつつある・筆者は
培面積は低迷したものの,上記二つの要因は・北見産タ
北見地方のタマネギ生産が成熟期段階を迎える中で,北
マネギの導入期の中で,来たるべき輸送園芸産地化に向
見市の山間傾斜地における耕境部のおかれたタマネギ生
けて,栽培技術力の向上と蓄積を栽培農家間に浸透させ
産農家の存在形態を分析することで,坂本(1981)の提
た意味において,極めて重要であった。
言の妥当性を検証した5)。しかし,核心地域となる北見盆
地,とりわけ北見市における,産地成熟期段階の生産農家
2−2 産地形成期
1960年代半ばから1973年までは・わが国の高度経済成
の対応形態の分析にっいては後の課題として残された・
長期にあたり,食生活の洋風化に伴いタマネギの消費需
そこで本稿では,北見盆地のタマネギ主産地の形成段
要が著しく増加し,好市況を背景に,北見盆地のタマネ
(42)
一42一
北海道北見盆地におけるタマネギ生産地域の成立と展開
ギは,その生産・流通両面において大規模化の途を歩む
導入期 産地形成期 産地成熟期
ことになる。
1963年には,まず北見市玉葱振興会青年部の結成によ
り,農家労働力の中心をなす青年層を中心に,北見市農
業協同組合に系統一元出荷を目指す共販運動が展開され
た。
作付面積
1,400ba
出荷量
1,300
t
1,200
90,000
作付面積
こうした北見地方における地域農民あげてのタマネギ
作付への積極的取り組みの背景には,戦前・戦後を通じ
て,北見地方を代表する商品作物であるハッカが,ブラ
ジル・中国等の世界市場への参入に伴う価格低落と,石
1,100
80,00D
1,000
70,000
900
60,000
800
油化学による合成ハッカの生産コストダウンによる企業
50,000
化の進行によって窮地に立たされ7),これに代わる商品
700
40,000
作物が模索されていたことが掲げられる。
出荷量
600
加えて,北見地方はわが国の米作の北限地域である
30,000
500
が,オホーツク気団による冷害にたびたびみまわれるた
め,水稲のみでは農家経済の存立基盤は弱体化の一途を
たどる恐れがあった。折しも系統一元化出荷を目指す共
20,000
400
10,000
300
販運動が開始された1964年を含めた3年連続の冷害は,
o
1960 1965 1970197519801985
年
米の10a当り収量を126kg/10a(1964年),120kg/10a
(1965年),138kg/10a(1966年)8)と著しく低下させ,
農林水産省北見統計情報事務所資料より作成
粗収入は12,000円∼15,000円/10aに低迷した。これに
Fig.1 Change of havest area and shipment of
onion producing in Kitami city.
対しタマネギは,4t∼45t/10aの収量をあげ,粗収
入は100,000∼170,000円/10aと米のiO倍に達し,水稲
の冷害時における春播タマネギの耐冷性が地域農民にあ
の生産調整政策に伴うタマネギの増加をはじめとするそ
らためて見直されたのである。このように,従来のハッ
の周辺地域の急速な拡大に応えることは困難であった。
カにかわりタマネギは,米以上の収益性の高い商品作
その結果,北海道網走支庁管内の北見市を中心とした1
物として・北見地方の農民に強い栽培意欲をつのらせる
市4町の8農協からなるタマネギとバレイショの共同集
ことになったのである。この結果,タマネギの耕作面積
荷・貯蔵選別・出荷を主たる業務とする北見広域事業農
は101、9hαと戦前期水準を上回り,増反面積は毎年50∼
業協同組合連合会(以下北見広域事業連と呼称)が1972
100hαの割合で増加していった。
年に組織された。8農協による出資総額は2億7,660万
また1966年には,野菜生産出荷安定法にもとづく産地
円で,固定資産総額は約15億円に達している。主な固定
指定を国から受け,栽培地域は北見市のみならず周辺の
資産は,タマネギ・バレイショ兼用貯蔵庫4棟(14,800
端野町・訓子府町・美幌町等近隣地域にまでおよぶこと
㎡),タマネギ専用貯蔵庫2棟(約5,700近),タマネギ
となった。産地指定による補助によって,主に労賃コス
冷蔵施設1棟(約1,900㎡),タマネギ選別場1棟(約
ト削滅を目的とする出荷期の輸送コンテナー利用,移植
5,700㎡),コンピューター7台となっている9)。
機械(プランター)導入等,様々な生産上の創意工夫が
これらの施設は,当該地域の生産物の大半が都府県消
積み重ねられた。こうした,個別生産農家の生産コスト
費市場を指向した長距離輸送作物であったことが設立の
の引き下げの努力に加え,野菜生産出荷安定法指定地域
背景であり,遠距離輸送のためには鉄道輸送が経済的で,
化に伴う近代化事業による販売,流通のための貯蔵庫・
当時,旧国鉄が北見経済圏の中核貨物駅を石北線東相内
コンテナ等の条件整備が農協を中心に行われた。そして
駅に位置づけていたこともあって,同駅に隣接してこう
1970年には,米生産調整政策開始に伴い,転作奨励金の
した農協団地を建設することになった10)。
付与も手伝って,作付面積の拡大に拍車をかけることに
そして・タマネギの貯蔵・選別・包装出荷・品質の向
なった。
上・均一化・電算業務を行うことで,ホクレンの販売情
しかし,単位農協レベルの対応では,1970年以降の米
報ネットワークを利用して,全国出荷のさきがけとして
一43一
(43)
宏
田 野
の役割を担うこととなった。北見広域事業連の展開過程
の中で最も重要な役割は,r北見タマネギ」の市場におけ
生 産 者
る銘柄確保であり,共計・共販を実施するための,厳重な
(新興地区)
規格統一,共通検査制度がこの中で行われた。こうして
r北見タマネギ」は,生産から出荷に至る技術革新と組
集出荷
貯 蔵
選 別
輸 送
織的統合に支えられ,地域的集積の利益を生かすことで,
北海道内の他産地とともに,9月∼4月の半年間,東京
(先発地区)
単位農協
広域事業達
青果物センター
産地問屋
中央卸売市場を独占する全国一のタマネギの輸送園芸産
地に成長するに至ったのである。
i纏離獺
2−3 産地成熟期
ホクレン
北見市のタマネギ生産は,1964年以降,好市況を背景
に野菜法・米生産調整等の政策補助の積極的な導入によ
全国市場
り,産地内部の技術革新と組織的統合を図ることで,全
大口消費者
(スーハ9一等)
滝沢昭義(1983):r農産物物流経済論」を参考に,生産者
の地区分類別にみた出荷の流れを商系への出荷分を加えて
現地調査により作成
国一の主産地に成長した。しかし,作付面積・出荷量は
1975年頃をピークにその後停滞傾向を示し・今日では産
地の成熟期段階を迎えることとなった(Fig・1)。
Fig.2 Distribution routes of shipment of onion
こうした主産地における生産の停滞傾向は・園芸作物
producing in Kitami region.
の全国的な急成長,産地化の進行・米過剰対策としての
水田利用再編対策による野菜への転作促進と,都市世帯
の消費量の頭打ちによってもたらされた必然的結果とし
て位置づけられよう。そこで農産物過剰のもたらす主産
0
50
100(%)
1975
1976
地への影響を,出荷機構と生産費・収益性の2つの側面
1977
から考察してみよう。
2−3−1北見産タマネギの出荷・販売機構
1978
北見産タマネギの販売は,北見広域事業連と農協によ
1979
る生産物を選別・貯蔵し,ホクレンの指示を受けて発送す
1980
るという共選共販体制と,産地化以前から伝統を持つ農
1981
家が北商(北海道青果商業共同出荷組合)11)傘下の問屋商
人に販売するルートの2つをみることができる(Fig.2)。
問屋商人への販売とその役割は後章において述べるこ
1982
1983
ととし,本章では主産地化推進の原動力となった北見広
1984
域事業連・農協系統出荷にっいてふれる。
1985
北見広域事業連は,わが国の農業近代化政策のr選択
的拡大」r大型化」の方針に支えられて,r北見タマネギ」
の産地銘柄確保のため,東京方面への販路拡大の先駆的
(北見周辺8農協および北見広域事業連青果物セン外合計)
1975
1985
役割を積極的に果たしてきた。北見広域事業連の青果物
(北見広域事業連青果物センターのみ)
センターは,もともと農協が処理し得ない超過部分を販
売する目的から設立された経緯が存在する。確かに産地
形成初期,単独農協の物流販売機能が不十分な時期にお
目東京㎜名古屋駐阪
いては,超過部分そのものがr北見タマネギ」の生産量
團中国・四国■九州□誹東課ヒ.一ヒ陸等)
急増と販路拡大部分の全てにおいて合致していたことは
事実である。しかし,その後の生産作付量の増加は,単
独農協レベルにおいても,野菜法・米生産調整等の国の補
助事業を背景に出荷・貯蔵施設の充実が図られるように
(44)
一44一
北見広域事業連青果物センター資料による
Fig.3 Change of destination ratio of onion
producing in Kitami region.
北海道北見盆地におけるタマネギ生産地域の成立と展開
なった。このことは,共選共販体制下における北見広域
の産地銘柄を確保するための販路形成の役割を果たして
事業連と単独農協との出荷・販売の二重構造が生まれる
きた。しかし,産地成熟期段階に入り,全国的な生産過
ことを意味するわけである。
剰と単独農協レベルの出荷施設の充実化により,北見盆
北見広域事業連へのタマネギ出荷は今日,北見広域事
地の生産余剰分の出荷による,危険分散の役割を担う形
業連・農協・玉葱振興会のルートを通って生産農家に出
に変貌しつつあると解釈できるのである。
荷量が割り当てられ,地区ローテーション方式により,
2−3−2価格停滞と生産費上昇に伴う収益性の変化
2∼3年に一度は自己の生産の全量を北見広域事業連選
1960年代後半以降,タマネギは生産技術の安定化と品
果場に廻すことが義務づけられている。北見地方のタマ
質向上,北見広域事業連を中心とする大型出荷体制の確
ネギの出荷先割合の変化(Fig.3)を注目すると,北見
立に伴う消費市場の確保によって,北見地方の重要な商
地方全域でみる場合,1975年には出荷先は東京方面が約
品作物に成長したが,その収益性の変化について考察し
70%を占め,名古屋方面が15%,以下その他の地域となっ
てみよう。
ている。そして出荷量が増加するとともに,1980年に
北見地方をはじめとして,北海道のタマネギ生産にみ
は,東京方面への出荷は50%に低下し,名古屋・大阪・
る1戸当り作付規模は,府県の数倍に達している。たと
中国・四国・九州方面への出荷割合が増加していること
えば北海道に次ぐ産地の兵庫県淡路島の経営耕地規模
がわかる。
は,0.5∼1.Ohαに集中しているため,定植・収穫調整に必
これをさらに先述の北見広域事業連の青果物センター
要な労働は殆んど全て家族労働力でまかなわれるのに対
に限ってみると,1975年当時は,東京方面への出荷が北見
し,北見盆地の農家経営規模は2・0∼5・Ohαの範囲に集中
全体を上回り80%を占めていたことがわかる。そしてそ
する。北海道産の春まきタマネギの移植期は5月上旬∼
の後10年聞に,東京方面への出荷は40%以下となり,九州
中旬(約10日間)とされるが,家族労働のみではこの間の
・中国・四国方面の遠隔地への出荷が多くなっている。
移植作業が不可能のため,出面とよばれる雇用労働力と
北見広域事業連は,産地形成期段階にr北見タマネギ」
定植機が必要である。収穫に際しても同様に出面と収穫
Table l Change o{per10ares expenditure of onion producing farmhouse management
and its family income,ln Kltami region,Hokkaido
年
離君肥料費光繍費瞬具費雇用労働費粗収益利
1,511
10,706
13,666
224,703
141,463
154,138
14,903
1,80G
13,623
13,758
147,957
61潅42
73,968
3,673
15,644
1,602
16,337
14,143
124,643
22,992
4L297
2,380
16,760
2,183
19,914
18,673
333,829
211,312
22,202
132,851 △17,885
118,190 △45,251
1970
1,126
14,916
1971
880
1972
1973
1974
4,640
19,879
3,822
24,577
1975
2,927
25,706
4,676
24,374
23,732
26,441
208,667
204,413
1976
1,773
27,134
5,419
28,646
1977
4,432
25,1M
4,472
32,082
24,838
1978
4,609
25,110
3,653
33,102
29,458
1979
6,201
1980
6,502
1981
9,432
1982
1983
副家族労働報酬
10,982
5,398
15,651
2,885
136,210 △72,302
94,178 △ 126,371
235,651
11,350
△8,429
70,498
63,763
△6,636
△54,973
3,535
37,483
28,363
26,332
4,416
37,504
31,829
30,020
4,581
42,871
32,534
4,662
47,383
3L662
3,348
51,324
34,093
334,583
84,451
152,549
24,268
240,223
20,358
74,995
25,284
24,063
1984
7,196
31,241
2,918
43,812
1985
9,854
32,651
3,315
46,563
419,059
185,291
33,089
524,438
272,631
33,360
125,726 △133,808
130,663 △94,967
257,148
344,308
△65,397
△43,555
一農林水産省北見統計情報事務所資料による一円,△印はマイナス(赤字)
一45一
(45)
田 野
機が用いられるために,農機具費(固定財費)と,雇用
宏
入する農家も存在したが,自家採取農家が多く,生産費に
労賃がかさみ,北見地方をはじめとして北海道産タマネ
占めるウェイトは大きなものではなかった・しかし,1975
ギの生産コストは府県産に比べて割高となっている。そ
年以降,これら在来種にかわってF1品種(一代交代雑
れにもかかわらず北海道のタマネギ栽培が成立している
種)が作付の主流を占めるようになりつつある。F1品
理由は,経営規模の大きさがもたらす収益の絶対量が府
種導入の利点は,在来種に比べて玉締りがよく,形状不揃
県産を大きく上回るからである。しかし,定植期間が栽
いが少ないこと,長期保存に耐えること等から,出荷調整
培学的にみて限定されること,定植期間をのばしても雇
が可能である・このため出荷団体,個別経営農家の両サ
用労賃が上昇すること等から,スケールメリットを生か
イドともに導入に積極的である。その反面,F1品種の
すことはできない問題点を内包している12)。
種苗は,四国香川県のS種苗会社に依存しているため,毎
そこで1970年∼1985年までの15年間の10a当りタマネ
ギ生産費と収益性について考察してみることにする
年・ホクレン・農協を通じて購入の必要を迫られること
になった。しかし在来品種は,10a当り種子代が5,000
円程度であるのに対して,F1品種は3倍強の約17,000
(Table1)。
1970年は米生産調整政策開始の年であり,タマネギの
円と高価である。このため多くの農家はF1と在来品種
市況のよい年であった。参考までに同年の北見地方にお
とを組み合わせて栽培している。
ける米は,粗収益62,807円,利潤14,139円,家族労働
このように,石油危機以降,出面の売手市場化・F1
報酬24,560円であったから13),米に対して粗収益3・58
品種の導入が進む中で生産費の大幅な上昇がみられた結
倍,利潤2,25倍,家族労働報酬6.28倍の収益をあげたこと
果,15年間の粗収益は横ばいもしくは逓減の傾向にあ
になる。こうした米に対する経済的有利性は,北見地方
る。従来,暴落の年はあっても3年に一度は秋どりタマ
のタマネギ栽培面積の増加を加速させた原因であった。
ネギの好市況によって,高収益が確保されてきたのであ
しかし,家族労働報酬をみると,1985年までの15年間
るが,近年の販売価額は長期停滞の様相を帯びつつあ
に5回の赤字経営にみまわれるなど,投機性の強い作物
り,生産費の上昇に伴う実質所得の低下をきたしている
であることがうかがえる。タマネギ経営の収益性は単年
ことが看取されるのである。
度で推し測るのではなく3年周期のトータルで考慮すべ
3. 産地展開期・成熟期段階におけるタマネギ生産地
きであることがこの表より読み取れよう。
域の特色
生産費にみる流動財・固定財諸費用の変化についてみ
ると,15年聞に,肥料代2。19倍,光熱動力費2.2倍,農
3−1北見盆地のタマネギ生産地域
機具代4.3倍に値上りしている。この値上りの主な原因
前章では, r北見タマネギ」の産地形成による大型産
は,1973年,1978年の2度にわたる石油危機の影響によ
地化・市場のシェア確保の過程の中で,北見広域事業連
り,農業生産資材の価格上昇を誘発した結果によるもの
を中心とする出荷先の変化が進み,生産農家は,ホクレ
である。
ンを頂点とする巨大な大型共販体制に編入されるなか
とくに農機具は,移植・収穫時に欠くことのできない
で,生産費の上昇と価格停滞による収益率の低下がもた
ものであるが,償却期間が5∼6年と短く,固定費負担
らされている状況を論じた。本章では,北見盆地のタマ
として今後もタマネギ経営に大きくのしかかる要因とな
ネギ生産地域の生産実態を述べるとともに,かかる事態
に個別経営農家がどのような対応をみせつつあるのか
るだろう。
タマネギ経営において最も労力を要する作業は,さき
を,実態調査を中心に考察することにしたい。
に述べたように移植と収穫の作業である。この時期には,
北見地方のタマネギの主産地化は北見市が最も古く,
北見市内在住の主婦層を中心とした雇用労働力(出面)に
主産地形成の牽引的役割を果たしてきた。作付面積は産
頼ることになる。タマネギ作付面積の増加に伴い労働力
地全体の約40%を占めるため,これをもって栽培の中心
需要が増したのに反して,熟練を要する雇用労働力の高
とし,北見市を中心に分析を進める。
齢化による出面の売手市場化が進んだ結果,雇用労賃が
北見市農家を作付面積からみると,水稲が1,479hα,
上昇し,生産費の増加を招く結果となっている・
小麦1,382hα,タマネギ1,293hαで,以下ビート,バレイ
また,種苗代の上昇も無視し得ない重要な問題である。
ショがこれに続く14)・農産物の販売額からみると,タマ
本来北見盆地のタマネギは,札幌黄系の北見黄と呼ばれ
ネギが約3G億円,水稲が約20億円で,市全体の約50%以
る在来品種が90%以上を占めていた。農協から種子を購
上を占め,実質的には北見市の農産物を代表する双壁と
(46)
一46一
北海道北見盆地におけるタマネギ生産地域の成立と展開
もいえる作物である。北見市全体の1戸当り
平均経営耕地面積は1980年農林業センサスに
昏
よると,5.42hαで,府県に比べれば大きい。
しかし北海道平均の81hαよりも小さく,大
規模経営で知られる十勝・帯広市の15,8hαに
σ
○
は遠くおよばない。さらにこれをタマネギ栽
培に限定してみると,1戸当り平均耕地面積
は約2.3hαと少なくなる。この数字はタマネ
ギ栽培面積を総栽培農家戸数で除したもの
で,市街化区域に隣接する第二種兼業農家も
含めた数字であるので,専業・第一種兼業農
○
○ ○
家はもう少し規模は大きい。けれども前章で
述べたように,スケールメリットを生かすこ
㊥
とのできない作物であること,さらには,栽
培の適地が,主に沖積地に限定されること等
の経営的・自然的条件に影響されて,おのず
Q
O 川東地区
⑤
から労働集約的作物とならざるを得ない。
0 4K皿
北見市内におけるタマネギ栽培は,山地・
塵
150ha
常川地区
100
50
25
§眺礁・台地匿麗北見市馳
丘陵・台地をさけて,常呂川水系の沖積平野
を中心に立地する。1970年以前は,川東地区
農林水産省北見統計事務所資料より作成
をはじめとする北見市街地に隣接する地区に
おいて栽培が行われたが,以後10年闇に市内
各地に作付地が拡大している(Fig溢)。市内で最も作付
Fig.4 Distribution map of onion producing
area in Kitami basin.
面積の大きい地区は,川東地区と常川地区である。前者
需給関係が生まれていた。
に比べて後者は主に米生産調整政策開始以降に主産地化
戦後,1954年に北見市内の生産者の集まりである北見
の進んだ地区であるが,両地区ともに,北見盆地のタマ
玉葱生産組合に多くの農家が参加し,指導的役割を果た
ネギ生産地の中でも中心的産地とみなすことができよ
す地区となっていった。この地区の大半の農家は,遅く
う・本章では,両地区を,先行地区・新興地区として位
とも1960年代から栽培を開始している・したがって・米
置づけ,生産形態の分析を行う。
生産調整政策による補助金を受けることもない状態で・
3−2 タマネギ産地の展開と農家対応
高収益をあげるための経営努力が望まれるために,農家
3−2−1先行産地(北見市川東地区)
自身の経営意欲も他地域に比べて高い方である・
この地区は,常呂川右岸の沖積低地に位置し,タマネ
タマネギ栽培に好適な土壌は,沖積地の中でも自然堤
ギ栽培面積160hα・販売戸数41戸よりなり,一戸当り平
防や砂州地形等にみられる砂壌土質の土地とされる。川
均経営面積は3・6hαの集落である。栽培の歴史は北見市
東地区のタマネギ畑は,常呂川の堆積した沖積土壌であ
内でも常盤町・旭町(いずれも現在市街化区域に編入)
るが,砂礫土壌を基盤としているため・場所によっては
と並んで最も早く,植松多助によって札幌興農園から種
極端に粗粒な砂礫土が分布し,心土は礫質で固い。この
子が導入されたことが始まりとされている。
ため川東地区の玉葱振興会青年部では,1967年に心土破
しかし,第二次世界大戦以前はハッカ栽培が主流をな
砕による土地改良を実施し,有効土層の層厚化を図る作
しており,タマネギは自給用作物の枠を出ていなかっ
業を行なった。これによって同地区のタマネギの10a収
た。1933年(昭和8年)には,従来購入していた種子を同
量は4,500kg以上の水準になったとされている。
地区の田中篠松により,初めて自家採取がはじめられて
川東地区の総農家数は,1985年に71戸存在し,このう
おり,同市内のタマネギ耕作面積増加のきっかけをつく
ち専業が36戸(51.4%)で,第一種兼業農家24戸(33・8
ったともされている。地区内農家は,第二次世界大戦以
%)をあわせると60戸(84、5%)に達する(Table2)。
前,タマネギの販売組合をつくり,特定業者と結びつく
北見市の多くの先行産地が市街化によって兼業化が進
一47一
(47)
田 野
宏
んでいるのに対して,市街地とは常呂川をへだてている
Table2 Number of farmhouseholds by size of
ことから・高い専業農家率が今日も維持されていること
cultivated Iand,and classified fu11−time and
part−time in advanced and newly opened
になる。これらの専業・第一種兼業農家は,3.Ohα以上
onion producing area,Kitalni city.
の階層に多く,第二種兼業農家は1.0∼3.Ohα以下に集中
川 東 地 区
1975
1985
している。
専
兼
別
そこで地区内生産農家の経営実態を把握するために,
北見市農家台帳をもとに農家単位の聞き取り調査を行っ
た(Table3)15)。1戸当りタマネギ平均経営面積は先述
経
営
規
模
別
農
家
数
したように3・6hαであるが,経営規模の大小を問わずに
タマネギ栽培が浸透していることがわかる。1975年から
1985年までの間の栽培面積の変動をみても殆んど変化が
みられない・作物別所得構成をみると,5,0hαまでの農
斥
家はタマネギ専作であるが,規模が大きくなるとビート
収入に1割程度依存している。北見市1戸当りの平均タ
1975 1985
専 業
59
36
68 45
第一種兼業
17
24
22 33
11
5 3
8
6
第二種兼業
1hα未満
1∼3hα
3∼5hα
5∼10hα
15
9
11
6
4
7
16
29
21
21
12
30
22
48
29
4
10∼20hα
20hα以上
合 計
0
84
タマネギ栽培農家幽54
マネギ経営面積2・3hαと比較すると,大規模農家群によ
常 川 地 区
7
1
71
41
収穫作物(h巳)タマネギ(160)
6
0
95
25
2
81
48 47
タマネギ(166)米
1985 飼料働61)米(4)1即1壽)(213)ビ
る専作経営が行われているとみてよいだろう。
2,0hα未満層(農家番号①,②)は農業専従者が70歳
農業集落カード・北見統計情報事務所資料による
以上で専業経営ではあるが,移植機と収穫機の共同利用
によって固定費負担を小さくしている。相手の共同利用
とくに,川東地区のように栽培の歴史も古く,生産技
農家も聞き取りによれば,2,5hα農家であるとのことで
術・経営指向の高い農家は,“自分のつくったタマネギは
あった。これに対して・5・Ohα以上の専作農家は全て機
自分で処理したいし,栽培技術能力に応じた評価を得た
械は個人保有で占められ,50歳台の夫婦2人による充実
い。けれども,現行では極上品を作っても他の中級品や
した経営をみてとることができる。
下級品と同様の扱いを受けてしまう。”として現行の系統
当該地区は,1965年以降北見地方におけるr北見タマ
ネギ」の主産地化にむけて,共同共販化を積極的に促進
共選・共計制度に強い不満を抱く農家が多く存在する。
もともと川東地区では大型産地化以前からの商人との結
する役割を果たしてきた地区である。しかしそれにもか
びつきが強く,個人的つながりや義理人情にからまれて
かわらず,共販化率は50∼60%程度しか進んでいないの
一定量を商人に販売する場合も多い。しかし,価格停滞
はいかなる理由によるものであろうか。
と,生産コストの上昇による収益率の低下を招いてい
北見地区の生産者の共同計算は,r平均精算単価×出
る今日,商入への出荷が収益率の向上と,生産コストの
荷量」で行われる。農協,北見広域事業連はともに大型
削減に少なからず寄与する面のあることを指摘しておき
選果機を導入していることから,大量出荷をこなすた
たいQ
め・選果機の速度を一定以下に下げることができず,ま
た不良品を除去する選果労働者が,コストの増嵩もあっ
収益率向上の面からいえば,例えば,定植作業は,1
日4∼5人の出面を用い,30aの作付が限界であるが,
て一定数以上の人数をふやせない(三島11982)16)。この
5hα以上の規模の農家では,複数の機械を利用するが,
ことが上級品・下級品も混在した“規格品”として取り
作業時間を長びかせる場合,規格外品の出現率が収量5
扱う結果につながってしまう。
t/10aにつき50kg(5%)出ることになる。これが5
これに対して,北商傘下の商人の使用する選果機は,
hα全体となると2,500kgが格外晶となる。こうした格外
国の補助のない自己資本調達による機械のため,比較的
品について共選共販制度では没収措置がとられるのに対
小型である・このため選別速度がゆるく,北見広域事業
して・問屋商人相手の販売では格外価格として,規格品
連や農協中心の共計出荷体制において,1つの規格品と
に上乗せされることになる。しかも,95%の規格品に対
したものを,さらに上級品と下級品として選別し得る品
しても上級品に関しては,中級・下級品を上回る価格で
質選定分類が可能である。前者の方法では,上級品,下
販売することが商人に対しては可能である。商人への出
級品も同じ価格で精算されるのに対して後者の方法で
荷は・上級品・下級品・格外品といった細かな分類で販
は,品質に応じた販売が可能である。
売できることから,川東地区のような生産意欲の強い農
(48)
一48一
北海道北見盆地におけるタマネギ生産地域の成立と展開
Table3 Farming circumstances of onion producing farmhouses in advanced and
newly−opened area,Kitami city.
隆
経営畔諾栽欝作物欄挙礎
農業専従者2)
卸
1・8hα
2
1.9 2.0 : 1.9
3
川
4
5
6
7
8
「
東
9
10
地
11
12
13
区
2・・h噌8h♂
1
1:l l:lil:1
3・5
3・Oi3・0
3・9 3・913・9
鋸雛ii
iii iil灘
1:l l:11::1
14
15
16
17
18
19
6M・4M・6F
6M・5F
6M・6M
5M・5F
5M・2M
5M・3M
5M。5F・3M
5M。5F・3M
5M・5F
5M・5F
6M・3M・3F
0(9.5) b(0.5)
6・5 4・oi4・0
1器 lllil:1
1、5
王.9
1.0 1.0
1.0 1.0
0(9)b(1)
O(10)
O(9)b(1)
0(8)
0(8)
0(8)
O(8)
骨 20
2.0 2.0
21
22
4,6
4.6 3.0
5.0 3。5
O(7)r(2)b(1)
’23
川
24
25
26
5,0
4.0 3.0
O(7)w(2)r(1)
5.5
5.5 4.5
5.0
5,0 3,0
5.6
4.0 3.5
O(7)r(2)w(1)
地 271
5.7
5.0 3.0
O(6)w(3)r(1)
28
2g
30
5.8
4.0 2.5
0(6)P(2)r(1)b(1)
5,9
3.5 3.0
O(6)r(2)w(2)
6,0
4.0 3,5
0(6)r(2)w(2)
7.5
4.0 3.5
O(6)b(2)w(2)
9.0
7,0 3,5
O(6)w(3)r(1)
区
31
32
33
10,5
8.0 4.0
(%)
1
0
(共同)
専
30
(共同)
専
60
1兼
60
1兼
40
30
専
40
20
専
50
40
専
50
40
専
50
40
専
50
40
pl.h
P1.h
P1.h
pl.h
pl.h
pl.h
pl.h
P1.h
P1.h
pl.h
pl.h
pl.h
pl。h
pl.h
P1.h
専
専
専
0
60
0
0
20
20
40
10
50
50
50
専
60
60
専
50
50
専
60
50
none
none
1兼
100
90
専
100
80
pl.h.C.t.rp
1兼
90
80
P1’h.
1兼
100
80
pl.h.C.t.rp
専
100
80
P1.h.C。t.rp
専
95
80
pl.h.C.t.rp
1兼
90
70
PLh.C.t.rp
専
100
80
5M・5F
3M・3F
P1.h.C、t.rp
専
100
80
pl。h.C.t.rp
1兼
85
50
3M・3F
P1.h.C。t.rp
専
100
80
pl.h.C.t.rp
専
100
100
P1.h,C.t.rp
専
95
80
P1.h.C.t,rp
専
100
100
pl。h.C.t.rp
専
100
70
P1.h.C.t.rp
専
100
80
5M・5F
5M・5F
5M・5F・2M
6M・2M
3M。2F●6F
O(5)w(4)r(1)
(%)
専
5M・5F
4M・4F
5M・2M
5F・2M
5M・5F
5.5
F1品種5)
共販率5)
50
7M
6M
6M
0(8) r (2)
0(5)w(3)r(2)
専兼別4)
1
専
5M・2M・3F
r(2)
r(2)
r(2)
P(2)
3.0
7M・7F
7M・6F
5M・5F
7M・7F
6M・5F
0(10)
0(10)
0(10)
O(10)
0(10)
O(10)
0(10)
O(10)
O(10)
O(10)
O(10)
O(9)b(1)
0(10)
所有機械3)
1)O:タマネギ,w:小麦,r:米,b:ビート,P(イモ)(所得順位別に割合を示す) 2)5Mは50歳代男子,5Fは50歳代女子
3)P1:タマネギ移植機,h:タマネギ収穫機,C:コンバイン,t:トラクター,rp:田植機
4)専:専業農家,1兼:第一種兼業農家 5)農協・広域事業連向け出荷割合
6)作付量に占めるF1品種の割合 ※ 5)・6)の数値(彩)はおおよその割合である
一北見市農家台帳をもとにした聞き取り・アンケート調査による一
家程,r個人の能力に応じた報酬」として評価を与える
対抗措置が講じられいてる。対抗措置は,出荷業者によ
むきカ∫強い。
って異なりはあるが,農家労働力の高齢化のみられる農
r北見タマネギ」の出荷には,商人を通じてのルートが
家に対して,商人自ら出面を確保し,雇用労賃の立替払
存在することは,前章で述べたが,この商人の殆んどは・
いを行うことで農家の労働力確保の手間を省き,資金運
札幌に本部を置く北商(北海道青果出荷商業協同組合)の
営の円滑化を図ったりしている。さらには・生産農家の
傘下に集結し,独自の出荷システムを持っている。特に近
出荷時におけるコンテナー使用料・運賃を無料サービス
年の共選共販による大型集荷組織化と比べて北見広域事
化することで,農家自身の生産コスト引き下げに寄与す
業連・農協の行なえない・小回りをきかせたきめ細かな
る商人も多く存在する。
生産者へのサービス化によって,集荷販売量を確保する
川東地区のタマネギ生産農家は,他地域と比べ生産技
一49一
(49)
宏
田 野
術は高く,タマネギ収入によって好市況時に得た農家資
1980年以降,10hα以上層の形成がみられる。地区内生産
本の蓄積が進んでいる。このため,生産・販売面におい
農家の経営実態を把握するため,川東地区と同様の調査
て,独立指向型の経営形態を示す農家が多い。たとえば,
結果から考察することにしたい(Table3)。
農業改良普及所・農協等が,F1品種の普及に力を入れ
常川地区のタマネギ栽培面積は,1975年にピークに達
ているなかで,依然として在来品種の占有率が高い。F
したが,当時は耕作面積の80%以上を占め,農家経営に
1は在来種に比べて玉締りの度合が硬いことから,従来
おける依存率は高かった。しかし,1985年には,いずれ
の品種に比べて,軟らかさと甘さの点で劣ると判断する
の階層も作付量を大きく減少させていることがわかる・
農家が多く存在する。そこでF1品種を混えながら,自
作付面積の減少は,需要停滞と生産コストの上昇に伴う
家採取の道も残すことで,生産コストの上昇をふせぎ,
所得率の低下によるものであるが,より直接的な原因は・
品質の高いタマネギを商人相手に販売することで,高収
作付規模拡大に伴う雇用労働力確保の困難さであった。
益をあげようとする農業が生まれるわけである。
タマネギ作導入時,農協指導のもと,労賃コストの削減
ここに,北見盆地におけるタマネギ先行産地の農家が
を目指して機械利用集団が結成された。しかし,移植の
産地の成熟期段階を迎え,共選共販体制に参加しながら・
時期が限定されるため個人の利用期間が短く,集団を構
その一方において商人による品質格差に応じた独自の集
成する農家が作業適期に移植が行えず,行えたとしても,
荷システムを利用することで,近年の販売価格の低下を
作業を急ぐあまり,活着率の低さが収量の低さをまねく
少しでも,くいとめようとする対応形態がみられるので
等といった問題が生じた。このため機械の個入所有化が
ある。
進行し,農家毎に移植・収穫時の雇用労働力確保と生産
3−2−2 新興産地(北見市常川地区)
費上昇に迫られることになり,結果として作付面積を減
常川地区は,北見盆地内でも川東地区と並んでタマネ
少せざるを得なくなったのである。
こうした中で,タマネギの周期的な価格の暴落は,栽
ギ栽培面積が166hαと多く,販売戸数47戸よりなり(Tab・
le2),一戸当りの経営面積は約2・8hαの集落である。
培の経験が浅く,資本蓄積の進んでいない農家の多い常
栽培の歴史は新しく,1970年の米生産調整政策の開始
川地区では不安を抱く農家が続出した。これを背景に上
とともに,急速に栽培面積を伸ばした新興産地である。
常呂農協では,第8次上常呂農業新興計画をうち出した。
川東地区と同様に,常呂川右岸の沖積土壌にタマネギ畑
同案によるとr需要の動向に即し,地域農業条件を最
が立地している。王960年代まで,沖積地は,水稲と一部
大限に生かした農業生産を展開する」と述べ・この中で
麦作を中心とした水稲単作地であった。タマネギ作は,
特定作物(タマネギ)の過作の是正と地域の条件に応じ
1962∼1963年頃に一部農家の間で,50∼60hα作付する農
た小麦・豆・一部野菜等の導入による輪作体系の確立を
家も若干存在したが,本格的な導入は1970年に入ってか
提唱している。そして,タマネギによる所得は農家経営
内の6∼7割にとどめ米をはじめ・麦・ビート等,最低
らである。
また共販率・F1品種の割合の高さからもわかるよう
価格保証制度の該当作物を導入することで,専作による
に(Table3),種子の販売・生産出荷体系はすべて上常
リスクの分散を図ろうとしている(Table3)。
呂農協,北見広域事業連を通じて行われており,いわば
具体的に,農家番号33番農家の経営事例を紹介してみ
行政・農協主導型の産地拡大とみることができよう。
よう。同農家は60代の母・30代長男,20代長男の妻の3人
作付体系は,稲作転換特別対策事業による国の補助を
が基幹労働力をもち,10,5hαの経営耕地を保有している。
中心に10∼15戸の農家が営農集団を結成し,大型移植機
1975年には減反により8。Ohαまでタマネギを増やし,
・収穫機等の共同利用を行ない,低コスト・高収益をめ
1973年の好市況時1,600万円のタマネギの家族労働報酬
ざすことで・土地利用型農業の確立を目指していた。そ
が得られたこともあった(残り2・5hαは水稲収入で約70万
の過程でタマネギは好市況に支えられ,1970年から1975
円の家族労働報酬があった)。しかし,その後数回の暴落
年のわずか5年間に70hαから200hαへと3倍近い増加を
で共済基金を受けるなど赤字経営を経験した。その結果
示した。ところが,1985年には166hαとなり,作付量は
出面確保の困難さも影響して,現在では40hαにまで作付
むしろ減少傾向にあるといえる。
規模を縮小させている。そして残り6・5hαのうち2,5hαを
常川地区は,総農家戸数81戸で専業・第一種兼業農家
水稲・40hαを小麦にあてることにした。その結果1984
をあわせると96%を占め,平均経営耕地規模は5hα∼
年の家族労働報酬よりみた収入別内訳は,タマネギ:
10hαと比較的大規模経営農家が多い(Table2)。とくに
2,960,000円,水稲:625,000円,小麦:2,480,000円,
(50)
一50一
北海道北見盆地におけるタマネギ生産地域の成立と展開
合計6,065,000円の家族労働報酬を得たことになる。こ
めの技術導入,流通条件の整備づくりが農協を中心に検
の数字は1973年当時の家族労働報酬1,600万円には遠く
討されている。目下,ナガイモ,ニンジン等が一部農家
およばないが,タマネギが赤字になる年のことを考える
に導入され,1985年には双方あわせて40hαの作付が行わ
と小麦作を農家経営内に組み入れたことで,経営は比較
れた。とくにナガイモはトン当り販売価格が200,000円
的安定し,危険分散の効果があらわれたことになる。
(タマネギは50,000円)と,高価格で販売されたことか
常川地区の農家は,作物別所得構成で示したように
ら有望作物として農協・農民の間では注目されている。
(Table3),タマネギを基幹作物としながら小麦・ビー
商品作物一部門のみに依存せず,こうした新たな作物
ト・米等販売価格保証作物を中心に,一部ナガイモにみら
の導入と試みは,多くの障害に直面するものかもしれな
れる商品作物を農家経営に組み入れることで,専門化・単
いが,貴重な努力として評価されるべきであろう・タマ
一化によって生ずる経営の不安定を複合経営を指向する
ネギ供給過剰の折,新たな商品作物導入による耕種農業
ことで極面の打開が図られようとしている。とくに5・O
との複合経営の展開に今後澄目すべきである。
hα以上の大規模経営農家程その動きは顕著である。この
4. まとめ
ことは価格停迷に対応する方策を,タマネギ作の豊富な
技術の蓄積に支えられて,コスト削減と販売方法を個別
本稿は,全国一のタマネギの輸送園芸産地である北海
経営の枠内で対処・工夫することで,専作化を維持し,
道北見盆地を対象に,成熟期段階における大型野菜主産
発展させようとする先行産地(川東地区)の動きとは好
地の生産体制の状況と問題点を把握するとともに・産地
対照を示す。
化過程の異なる先行産地と新興産地における生産農家の
もとより常川地区は,川東地区に比べて,栽培の歴史は
対応形態を明らかにした。
10年前後と浅く,行政指導型新興産地である。このため,
北海道北見盆地のタマネギ生産は第二次世界大戦前,
タマネギによる農家資本の蓄積は進んでおらず,価格暴
一部篤農家を中心として常呂川流域の沖積地に導入され
落時における対応は,技術力・販売力のいずれをとっても
た。当時は,ハッカが当該地域の主要な商品作物であっ
個別経営内において対処することは不可能に近い。その
たこと,タマネギの需要が少なかったこと等から,産地
意味からしても,1戸当り3・0∼4・Ohαの適正基準面積に
形成には至らなかった。
おさえ,基幹作物に位置づけながら複合経営を指向した
第二次世界大戦後,ハッカの衰退,冷害による米作不
同地区の農家の判断は正しいものといえよう。しかし・
振により,これに代わる商品作物としてタマネギが登場
タマネギにかわる作物が小麦・ビート・米等,土地利用
した。作付面積の拡大には,病害虫駆除体制の確立,直
型作物であることから,米麦両用のコンバイン・トラク
播栽培から移植栽培への移行等による栽培技術の向上が
ター防除機等,機械の購入に迫られ減価償却費の増大を
寄与したことはいうまでもない。秋どりの「北見タマネ
まねく結果となってきている(Table3)。
ギ」が他の北海道産とともに全国市場を独占するに至っ
上常呂農協は,第9次上常呂農振計画17)において,ス
た最大の要因は,日本経済の高度成長によってもたらさ
ケールメリットによるコストダウンをはかることを目的
れた消費需要増加に伴う好市況によるものであった。
に,1985年を基準年度とする米・麦作機械利用集団を結
こうした社会経済的背景のもと,北見盆地のタマネギ
成させた。Table,3,農家番号33は同じく農家番号29,
は野菜生産出荷安定法にもとづく産地指定を受け,1970
31,32他2戸合計6戸を一集団とする利用組織を結成し
年以降の米生産調整政策等の政府補助を受けて作付面積
たが,一戸当り平均,年間85万円,一集団で年間約500
を増大させた。そして北見タマネギの出荷販売には・北
万円の返済金を7年問にわたり支払い続けなければなら
見市を中心に周辺8農協が北見広域事業農業協同組合連
ない。タマネギの機械共同利用集団は,移植時期の硬直
合会を結成し,ホクレンの販売情報ネットワークを利用
性から崩壊したことはすでに述べたが,そのことにより
して大型共選共販による出荷体制が形成された。これに
移植機・収穫機等の個人所有化が進んだ。この結果,専
対抗して,問屋商人も北海道青果商業共同出荷組合(北
作の川東地区に比べて農家保有機械台数が増加し,固定
商)を結成し,集出荷体制の強化が図られた。この2つ
財費が農家経営を圧迫する新たな問題として生じ始めて
の流通販売体制の完成によって,名実ともに大型輸送園
いる。こうしたことから,タマネギ,プラス米・小麦・
芸産地の確立をみるに至った。
ビート等の輪作体系による複合経営を指向する一方で,
しかし,1970年代後半以降における全国的な野菜の生
タマネギに匹敵する収益性の高い商品作物を導入するた
産過剰によって,北見広域事業農業協同組合連合会の取
一51一
(51)
田 野
宏
り扱いのタマネギは,従来の東京市場出荷中心から九州
じた販売システムを利用することで,収益の低下を防ご
中国地方をはじめとする地方市場出荷量が増加し,生
うとする動きがみられる。
産余剰分の出荷を取り扱う危険分散の役割を担う形とな
1970年の米生産調整政策以後に産地化をみた北見市常
った。そして生産過剰による野菜価格の低迷に加えて,
川地区では,栽培開始後5年聞で川東地区同様のタマネ
二度の石油危機は,生産資材・雇用労賃等の高騰をまね
ギ専作地域が形成された。しかし,成熟期段階を迎えた
き・生産農家は価格停滞と生産費増加に伴う農業所得の
今日では,タマネギを基幹作物としながら,価格の保証
減少にみまわれることとなった。
された小麦・ビート・米等の作物を中心に,一部商品作
こうした,状況を背景に北見盆地のタマネギは,作付
物を組み入れることで,専門化単一化によって生ずる経
面積が低迷し,生産農家は,生産・販売面においての対
営の不安定を,回避しようとする動きが顕著である。
応が迫られるようになった。
栽培の歴史の最も古い先行産地,北見市川東地区では,
本稿をまとめるに際し,現地調査の際御協力をいただいた,
戦前戦後を通じての永年の栽培技術と農家資本の蓄積に
北見市役所農務課・木村 豊氏,農林水産省北見統計情報事務
所・宮部 實氏(当時),北見広域事業連青果物センター所長・
支えられながら・大型共選共販体制のもとでの農協出荷
に参加し,収益安定を図る専作経営が堅持されている。
しかし一方で・問屋商入の市場動向をみた品質格差に応
参 考文
岩永重勝氏に厚く御礼申し上げます。
本稿は1986年度日本地理学会秋季学術大会(於・三重大学)
にて発表したものを訂正加筆した。
献
1) 坂本英夫(1981):北海道北見地方におけるタマネギ生産の
注
生産安定事業の開始に伴い,タマネギを中心とする野菜出荷
商人が設立したものである。
1964年のr野菜生産出荷安定法」制定により,国の農業組
織に対する補助事業が進むにつれて,全道に占める取り扱い
立地,人文地理,33,21∼40
2)八鍬利郎(1975):北海道のたまねぎ,農業技術普及協会,
590ぺ一ジ
3) 滝澤昭義(1983)=農産物物流経済論, 日本経済評論社・
シェァは低下している。
232ぺ一ジ
北海道のタマネギの主産地化は・農協共販制度の確立によ
4) 三島徳三(1982):青果物の市場構造と需給調整一たまね
って大きく進展した。しかし,一方において・共選共販制度
の大型化・平準化がもたらす硬直性を是正する意味におい
て,産地商人独自の,時として柔軟性に富む集出荷システム
は,主産地の存続条件の一つとして重要な意昧を持つものと
ぎを素材にr明文書房,204ページ
5) 田野 宏(1988):北見盆地周縁傾斜地におけるタマネギ生
産の存在形態,地理誌叢,29−2,29∼34
6) 北見市玉葱振興会(1977):北見市玉葱発祥60周年記念誌,
考える。
30ぺ一ジ
7)遊佐幹夫(1982):オホーツクのハッカ,オホーツク書房,
12)
前掲1)において坂本(1981)も同様の指摘を行っている。
13)
前掲8)による。
116ぺ一ジ
14) 北見市史編纂委員会(1983):北見市史,下巻,967ぺ一ジ
北見市史編纂委員会(1983)1北見市史・下巻,967ぺ一ジ
15) 調査農家は,北見市農業委員会の農家台帳から川東地区・
8) 農林水産省北見統計情報事務所統計資料による
常川地区のタマネギ生産農家を抽出し,調査協力の得られた
合計33戸の農家に対して,聞き取り(1985年8月,1986年8
9) 全国農業構造改善協会(1984)1北見広域営農団地とその営
農指導体制のあり方一広域営農団地総合指導書r63ぺ
一ジ
月)とアンケートによる調査を行なった。
16)
10) JR石北線東相内駅は,旧国鉄合理化に伴う無人駅となり,
17)
貨車輸送の基地とならずトラック輸送に変化した。
上常呂農業協同組合(1985):第9次上常呂農業振興計画
(案),49ぺ一ジ
11) 北商(北海道青果出荷商業協同組合)は,1961年の青果物
(52)
前掲4)による。
一52一
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