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月刊みんぱく2010年11月号

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月刊みんぱく2010年11月号
ぽこ
かしなが ま さ お
樫 永 真佐夫
民博 研究戦略センター
考腹論
ぺこ
ハラ凹ハラ凸
ハラ を考える
でみっともない。近所の手前もあるから、ジョギングはや
めて、太ってほしい﹂と、はなはだ不評だった。豊満で貫
禄のあるハラが、地位や経済力があることを語るからだ。
いっぽう先進国では、メタボリックシンドロームは成人
今 の 日 本 で は 健 康 面 か ら 腹 八 分 く らいがいい と さ れ、 む
病の元凶として目の敵にされる。中年太りも要注意である。
ハノイ滞在中のある日、日本人の友人と早朝のジョギン
しろハラ凹の評価が高まっている。アラフォーにもなると、
ぽっこりお腹
﹁体調もよくなった﹂
グを始めた。友人はみるみる痩せて、
レーニングに励むのだ。ハラに語ってもらうために。
近づくと、海水浴場での生存競争にむけて、俄然腹筋のト
﹁ぽっこりお腹﹂を警戒し始める。
﹁ぽっこりお腹﹂とは、加齢とともに脂肪がたまり、骨
と喜んだ。しかし、彼のベトナム人の奥さんからは﹁貧相
盤のゆがみ、腹筋の衰えと相まって、下腹が出てくるハラ
凸現象である。しかし、深層筋をはじめハラを包んでいる
ち ろ ん 運 動 に も 励 む。 気 安 く 見 せ ない 前 提 だ か ら、下 着
女性もハラを凹ませることに余念がない。そのためにも
妊婦を解放させる記号
たが、今やそう易々とハラに年齢や世代を語らせてはいけ
は都市生活者にとって年齢相応で仕方がない、と思ってい
の力でハラ凹ボディラインをつくりだすという裏技もある。
筋肉群を強化すると、ハラ凹にもどるはず。ぽっこりお腹
なくなってきた。ハラは黙らされようとしている。
あるいは、何日も腹ぺこなのを我慢して、ハラ凹を手に入
という、突起にも窪みにもなるヘンテコな印がついていて、
要因で形を変えることができる。おまけにまん中にはヘソ
食 生 活、 出 産、 年 齢、 職 業、 動 作、 装 飾 な ど、い ろ ん な
には、かなり広がりでることができる。だから、健康状態、
下脂肪も包み込んでいる。しかも骨が邪魔しない前と左右
に し ろ 近 代 医 療 が 発 達 す る ま で、 出 産 はつね に 死 と 隣 り
から解放してくれる、大事な記号でもあったのだろう。な
だ、 妊 娠 中 のハラ は、 妊 婦 を 過 酷 な 生 産 労 働 や 家 事 労 働
ている妊婦たちによく出会う。これまでずいぶん長いあい
過剰な糖分摂取と運動不足でハラ凸の域をこえて肥満化し
ベトナムでは、家族や親族の熱心な指導的介護のおかげで、
重増加は日本の産婦人科でも注意されるようだ。いっぽう
妊婦がハラ凹でいるのは難しいが、妊娠に伴う過度の体
れようという人も、身近に思い当たるだろう。
かなり表情豊かである。ハラは放っておいても語る。黙ら
ハラ は 伸 縮 可 能 な 長 い 臓 腑 の み な ら ず、 内 臓 脂 肪、 皮
かなり表情豊か
せるのは容易でない。
合わせだったのだ。それを思うと、豊満な女性のハラ凸が、
豊穣や再生産の象徴としてしばしば世界各地で神聖視され
た と え ば ギ リ シャ 彫 刻 に も 見 る が ご と く、 た く ま し く
凹凸のある腹筋は、男性的な強靭な肉体の象徴である。ハ
い。あなたはどっちでいきますか。
今の日本では、ハラ凹もハラ凸も心がけ次第かもしれな
てきたのも無理はない。
ルダーのように見︵魅︶せる競技者は、ハラに見事な腹筋
ラ凹の方が上体の筋肉の見事さが引き立つから、ボディビ
を波打たせている。いや、じつは一般の若者でさえ、夏が
2
2010 年 11 月号
3
土人形(力士・谷風)標本番号 H0157899
江戸時代の大横綱は、大きなハラを武器に
勝利を重ねた
ボディビルダーは、筋肉を増強させ、かつ減
量し、地肌を焼いて、筋肉の凹凸の陰翳を浮
きだたせる(2010 年大阪クラス別ボディビル
選手権優勝者、赤星健次郎選手)
モアイ像はわずかだけ
出バラ
特集
ま な み
─
産後のハラは命の証し
やすい
安井 眞奈美
天理大学准教授
人びとの視線が、産婦のお腹に
パラオの出産儀礼
小さくなった服の逆襲
京都服飾文化研究財団チーフ・キュレーター
ふかい あきこ
深井 晃子
出すか、被うか
服は、身体を被うもの。そう書きながら、
﹁え、
とはいえインターネット情報では、身体を頭
服は身体を被うものだった?﹂と改めて思うほ
妊 婦 の 突 き 出 た お 腹 は、 多 く の 文 化 で 豊 穣
部まで被うブルカ︵チャドル︶という服を着る
ど、太腿むき出し、腹出しは、すっかり見慣れ
け ら れ る こ と は あ ま り な い。 し か も 現 代 の 女
イスラーム文化圏の女性たちを話題にしている。
のシンボルとみなされてきた。では、赤ん坊を
性たちであれば、出産直後の伸びきったお腹を、
彼女たちは、ほんの少しだけ被う部分を減らし
た日本の風景である。
人前に曝け出すことなど滅多にないだろう。し
産んだ後の女性のお腹はどうだろうか。出産後、
かし興味深いことに、パラオ共和国では産後の
界も確かにあるが、日本のような︿ファッション﹀
、
たという理由で罰金を科せられると。こんな世
膨らみのなくなったお腹に、人びとの視線が向
女性のお腹にこそ、多くの人びとの視線が集まる。
に起こっている。
身体を被う。小さくなりすぎた服の逆襲が密か
ガールとよばれる彼女たちは、服を重ね着して
しいと願っているとき、森ガールが登場した。森
滅である。だから、もうこのあたりで留まってほ
受けるのは何も被わない、つまり着る文化の消
かって大きく舵を切った。このまま進めば、待ち
二〇世紀のファッションは、カジュアル化に向
係を疑っている。
持実践した。だが腰痛に悩む今、両者の因果関
性たちに支持された。わたしも当時腹出しを支
放﹂という大義に助けられて、腹出しは若い女
したときである。社会的な議論を高めながら﹁解
表するパリのデザイナーたちが、腹出しを提案
サンローラン、パコ・ラバンヌら一九六〇年代を代
ファッションとして認知されるのは、クレージュ、
一九三〇年 代に登場していた。だが、腹出しが
にアメリカで 水 着 や 海 辺ファッションと して
ビキニに比べればずっと慎ましい腹出しは、既
さらには何もつけないヌードも解禁になっていく。
もに人気になる。一九七〇年代には、
おっぱい出し、
核実験の島に因むインパクトあるネーミングとと
海辺では腹出しのツーピース水着︿ビキニ﹀が、
した。
掟が勢いよく破られ、ファッションはそれを扇動
た意識が高まっていた。色々な局面で伝統的な
時は、自由、フェミニスム、ボディコンシャスといっ
腹出しもこのときファッションとして広がる。当
代ミニによって脚出しが解禁されたときだった。
服が劇的なまでに縮小したのは、一九六〇年
解放とファッション
た。
身体が被われる部分はこれまでで一番少なくなっ
つまり欧米の影響が強い服飾文化では、女性の
パラオ共和国は、西太平洋カロリン諸島西端
に位置する大小二〇〇以上の島々からなる島嶼国である。パラオでは、初めて出産
婦がお腹を出して、大勢の前に登場するのである。
した女性を祝福する出産儀礼が現在もおこなわれている。そのときに、着飾った産
腰蓑をつけて華々しく登場
この儀礼は、かつては産後二、
三日目から、また病院で出産するようになった現在
では、産後一カ月ころから始められる。まず産婦が、出産の知識に長けた女性につ
きそわれ、約一週間にわたり毎日、湯を数回浴びる。その最後の日に、今度は簡易
サウナに入って身体を温める。湯と蒸気で温めることで、産婦の心身は癒やされる
と考えられている。その間、産婦の食事の用意や身の回りの世話などは、彼女の母
や姉、または同じ母系親族集団の女性たちが担当する。それゆえ彼女は、さながら
産後のエステを受けているかのように、赤ん坊とリラックスして過すことができる。
次に産婦は、サウナを終えた後、腰蓑をつけて着飾り、二〇〇人から三〇〇人も
の人びとが集まる場に華々しく登場する。彼女の肌には、黄色いウコンの粉を混ぜ
たヤシ油が塗られる。パラオでは、臍が卑猥な部分とされているため、ベルトなど
では多くの女性たちが胸を隠すようになった。それでも、出産儀礼で産婦が人びと
で隠される。またかつて産婦は、腰蓑だけをつけて上半身は裸で登場したが、近年
に披露するのは、産後に快復した身体、より正確にいえばお腹であるといえよう。
その背景には、パラオの人びとがよく知っている神話
「出産は死」だった
がある。神話によると、かつて誰も出産の方法を知らず、
妊娠すると妊婦のお腹を切り裂いて胎児を取り出して
き、神様が人間の娘に恋をした。神様は人間の姿になっ
いた。そのため、妊婦は必ず死ぬ運命にあった。あると
て彼女と結婚し、やがて彼女は妊娠した。まわりの人
びとは悲しんだ。なぜなら出産は、彼女の死を意味す
胎児が産道を通って生まれる、本来の方法を妻に教え
るからである。しかし、神様である夫が出産に立会い、
た。おかげで妻は無事に出産することができ、それを
祝福して、パラオでは出産儀礼を始めるようになったと
この神話を下敷きにすると、出産儀礼で披露される産
いう。
婦のお腹は、かつてのように切り裂かれることなく、女
性のもっている力を出し切り、命を賭けて出産したこと
の証しといえる。それゆえ、産後のお腹が少々たるんで
いようが、そんなことは気にすることではない。産後の
お腹こそ、人前に堂々と披露すべき重要な部分である。
パラオの儀礼は、そのようなメッセージを伝えているか
するようになった現代においても、改めて人びとに、生
のようである。産後のハラは、多くの女性が病院で出産
命の誕生の敬虔さを気づかせてくれるのである。
4
2010 年 11 月号
5
1
960年代
パコ・ラバンヌ
1
970年代ファッション
出産儀礼でお客の前に出る産婦
伝統工芸品・ストーリーボードに描かれた出産の神話。
(左はトレース図)お腹を切っている様子と、無事出産した様子が描かれている
太鼓腹のほとけたち
愛知学院大学教授、民博 名誉教授
たちかわ む さ し
立川 武蔵
ほとけのランキング
太鼓腹について書くことになった、とわたしがいったら、
妻が﹁自分のお腹のことを書くの﹂と訊いてきた。最近、肩
や腕の筋肉が落ちてきて、出てくるのは腹ばかりだ。幼児な
らばともかく、大人になって腹が出るのは恰好がわるい。
仏教のほとけたちにもお腹の出ている方がたくさんいる
が、太鼓腹か否かは、それぞれのパンテオン内のランキン
︵二︶
グと関係するようだ。仏教のパンテオンは、
︵一 仏
)、
、
︵三︶女神、
︵四︶忿怒尊
菩薩︵仏になろうと努力する者︶
︵怒ったすがたで仏法を守護する者︶と︵五︶天︵星辰、ヒ
仏の身体はスマートであり、太鼓腹の阿弥陀仏や大日如
ンドゥー教の神々など︶の五グループにわけられる。
来は考えられない。後期の密教における多面多臂の恐ろし
い形相をした秘密仏も腹は出ていない。さまざまな菩薩が
いるが、彼らにも太鼓腹は見られない。豊かな体の女神は
いないわけではないが、太鼓腹の女神はいない。その理由
はわかる気がするが、ここには書けない。
忿怒尊と布袋
忿怒尊のほとんどは太鼓腹だ。図像学のテキストは彼ら
が﹁恐ろしい﹂と強調するが、太鼓腹は彼らの恐ろしさを
やわらげ、親しみさえ覚えさせる。第五の﹁天﹂の代表で
ある財神クベーラの腹は豊かだ。それは
﹁充分に食べていた﹂
イスラーム世界のハラ踊り
ベリーダンス
―
にしお てつお
西尾 哲夫
民博 民族文化研究部
下腹の肉をぶるぶる
このところ日本でもブームになっているベリーダンス
は、
﹁ハラ︵ベリー︶踊り﹂という名称そのままに、は
げしく腰をふりながら下腹の肉をぷるぷると震わせる特
徴的な動きで知られている。だがアラビア語ではベリー
とよんでおり、ハラ︵腹︶を意味することばは入ってい
ダンスのことをラクス・シャルキー、つまり﹁東の踊り﹂
ない。
ベリーダンスの歴史はよくわからない。アラビアンナ
細に記録したエドワード・レインによると、エジプトで
イトの翻訳者でもあり、一九世紀カイロの庶民生活を詳
はガワージーとよばれる人びと︵いわゆるジプシー︶が
結婚式などによばれて踊っていたらしい。ナポレオンの
エジプト遠征に同行した人びとの回想録などにも、腰を
激 し く ふ る 官 能 的 な 踊 り に 魅 了 さ れ た とい う 記 事 が あ
る。ただし一九世紀のベリーダンサーは腹を露出してい
たわけではないようだ。ベリーダンサーがビキニスタイ
ルで踊るようになったのは、二〇世紀に入ってショービ
ジネス化した後のことらしい。
一九 世 紀のカイロ風 俗 を 描いた イ ギ リス人 画 家 デ イ
尻に脂肪をつけてアピール
ことの証しと思われる。
このように、仏教のパンテオンの上層部つまり仏や菩薩
には太鼓腹は見られない。彼らは﹁お腹がすいても我慢し
ている﹂にちがいないのだ。太鼓腹の忿怒尊は﹁充分に食
べて﹂世の中の不正を怒っているのであろう。
日本では太鼓腹の布袋が有名だ。彼は後漢の禅僧であり、
大きな腹を見せて笑いながら袋を担いで喜捨︵施し︶を求
め歩いたという。布袋は﹁充分に食べていた﹂と思われる。
中国では親しい人びとのあいだの挨拶は﹁食べたか﹂である。
現代の餓鬼
天や人間よりも﹁低い﹂餓鬼は、常に飢えと渇きに苦しみ、
食べても満たされることがない。餓鬼は通常、腹を突き出
鬼に似てきた。極度に飢えると、腹部のみが突き出るとい
したすがたで描かれる。わたしの腹は布袋のそれよりも餓
うが、この現代の餓鬼は充分に食べた証しのメタボ腹である。
たしかにクベーラ、布袋、餓鬼の腹は食べることと関係
がある。食べて豊かになるのか、食べても満たされないの
かの違いはある。
クベーラ
インド クシャーン朝(二世紀ころ)
国立博物館
ニューデリー(撮影・横田憲治)
太鼓腹のマハーカーラ(大黒)
カトマンドゥ ネパール
しゅく
阿閦仏
スヴァヤンブーナート寺院展示室
カトマンドゥ ネパール
ビッド・ロバーツの絵を見ると、ダンサーはかなり大胆
に 胸 元 を 見 せてはいる ものの、腹 か ら 下 は二重 三 重 に
ガ ー ド さ れ ていて と て も 素 肌 が 見 え る よ う な 状 態 で は
ない。中世イスラーム社会史の研究者によると、女性の
女性たちは尻に脂肪をつけるための食事を工夫するなど
尻は男性にとって最大級のセックスアピールだったから、
して努力を重ねたらしい。もっとも個人的な感想をつけ
加えるならば、たとえばエジプト女性の場合などは特に
努力しなくとも、ほとんどの人が雄大な尻を獲得できる
のではないかと思う。
先述の研究者によると、腰を大きくふりながら歩くモ
ンローウォークをさらに大げさにしたような歩き方もあ
を重ねて腰をふりながら歩いていたところ、後ろから男
り、知りあいの中東系女性がお里帰りのさいにスカート
性がぞろぞろついてきたそうだ︵少しわりびいて受けと
めたほうがいいかもしれないが︶
。
観光産業として
もともとイスラームには、歌舞音曲は信仰の邪魔にな
るという考えがあり、露出度の高いビキニスタイルで踊
部のイスラーム法学者のあいだでは、ベリーダンサーは
るベリーダンサーを白眼視する人びとも少なくない。一
メッカ巡礼をしてはならないという見方もある。
現在のカイロでは、イスラームとのかねあいで腹部を
露出しないワンピース型の衣装や、ビキニ型であっても
腹部にチュールレースをあしらった衣装を身につけるダ
ンサーも増えてきた。ベリーダンサーの社会的地位はあ
まり高くはないのだが、エジプトなどではベリーダンス
腹の露出度も決まっていくのだろう。
こうとする動きも出ている。ハラのさぐりあいを通して、
を観光産業として認め、民族文化としてこれを伝えてい
6
2010 年 11 月号
チベット仏教輪廻図の餓鬼道
7
19 世紀初頭、カイロのガワージー
(デイビッド・ロバーツ画、ロンドン)
カイロの国際ベリーダンス
フェスティバルで踊る
ガワージーの女性
ベリーダンス発表会で踊る
パリの女子高生と子どもたち
京都大学名誉教授
「ポリネシア人のハラ」は物語る
かたやま かずみち
片山 一道 真ん中にある饒舌なパーツ
南半球の大海洋世界に散らばる島々のポリネシア人は、
とりわけユニークな身体特徴をもつ。大柄で筋骨隆々のヘ
いえば、やたら出臍が目立つ。そうでない腹は画竜点睛を
欠く感がするほどだ。
こうしたポリネシア人腹は、むかしから存在したのでは
食いだめ体質
足をもち、腹部は過剰なまでに肥大している。こうした彼
な く、 じ つ は 最 近 に な り 生 ま れ た 現 象 の よ う だ。 た と え
側にも伸びる。皮下脂肪が厚すぎ、腹筋や上腰筋が﹁霜ふ
﹁妊婦腹﹂とも違い、ヘソまわりが最膨張、厚い胴は背中
んのビール腹﹂と異なり、二段腹や三段腹ではない。また
場合、つつましき島嶼生活に適応しつつ育まれた潜在的肥
成長パターンや表現型が変貌することだ。ポリネシア人の
変化のように、生活様式の激変とともに、あるグループの
は、身体の時流化現象と関係があろう。近年日本人の体形
過剰に肥満の腹をかかえたポリネシア人が多く なったの
活習慣は、食生活にとどまらない。櫂や帆が船外機に変わ
皮下脂肪は否応無しに蓄えこまれる。もちろん西欧流の生
かくして、ポリネシア人は自らの伝統的体質と西欧流生
んとうをおこしているわけではないから、意識がはっき
ラクレス型体形で、先端肥大したがごとき巨大な下 顎と手
らの身体こそ、雨風寒暑飢餓にさいなまれた古代の遠洋航
案山子になれるほど痩せた者はいないし、活動のじゃまに
ば一八世紀のころの西欧人探検屋たちの記述は大概、
﹁誰
な る ほ ど 太 っ た 者 も い な い ﹂な ど と あ る。 た だ、﹁ 動 く も
も が 高 身 長、 た く ま し い 四 肢、 申 し 分 な い 体 格 で あ る。
さ て 本 稿 の テ ー マ は﹁ ハ ラ ﹂、 つ ま り 腹、﹁ お な か ﹂
。ポ
ままならぬほどに太った首長を打ち負かした﹂などの記述
海活動への適応装置、祖先から受け継いだ歴史遺産なので
リネシア人の場合、なんとも愛嬌のある身体パーツではあ
もあり、ことにタヒチやトンガなどの首長階級には脂肪太
ある。
の真ん中に位置する饒舌なパーツなのである。
りもいたようだが、あくまでも例外的な存在だったに違い
る。さながら彼らのトレードマークのごとし。無口な彼ら
お相撲さんのような﹁あんこ腹﹂とか、ラグビーのフッ
り﹂状態なのかもしれない。上下肢部の皮脂厚の胴体部の
満体質、あるいは﹁食いだめ体質﹂が原因なのだろう。食
ない。
それに対する比率﹁中央体脂肪示数﹂の値が小さいことか
﹁おじさ
カーの ごとき﹁ 寸胴腹﹂ たちが島 中にあふれ る。
ら、胴部に脂肪がたまりやすい質だともわかる。ついでに
脂 肪 組 織 を 食 物 貯 蔵 庫 と し て 活 用 す る よ う に な っ た。 す
用資源が十分でない先史時代に巨大な肉体を維持するため、 一日に二度三度も食事すれば、カロリーのバランスが崩れ、
こしばかり旨みのある銀行のようなもので、多めに食える
り、体重超過、新世界症候群が蔓延する社会となった、と
に減じられることになった。もはや脂肪は蓄えられるばか
機会には脂肪として蓄え、あとはそれを食いつないでいく。 り、車やオートバイなどが普及した結果、肉体活動が極端
そんな仕組みが身についたのだろう。
活習慣とのミスマッチに呻吟することとなった。つつまし
いうわけである。
いみじくも﹁倹約遺伝子型﹂という概念で説明されるよ
き海洋世界での適応装置が仇になったのである。彼らが太
飢えと饗宴をくり返す日々だった
のくり返しだった。食うや食わずの日常だが、ときたまの
た。というのは、近い地域で現地調査している筆者も、
たからだ。いかにも筋骨隆々の体格ではない。むしろ
ボクサーにむいた体形の若者が現地に多いと思ってい
細い。しかし日々の農作業などで足腰の安定感がある。
のである。筆者の視線は自然に腰回り、ハラにむかう。
何ラウンドもパンチを出し続けるには、足腰が基本な
ラが、縦にも横にも割れているのをきっと知っているだ
読者たちは、余分な脂肪を絞りきったボクサーのハ
ランチ運動を何百回も繰り返す。ときには、腹筋台の
ろう。ボクサーは、仰向けの姿勢から上体を起こすク
向けに寝て、メディシンボールというバスケットボール
傾斜やダンベルでさらに負荷をかける。仕上げに、仰
としてもらうことさえある。相手のパンチのタイミング
に似たオモリ入りのボールを、他の人に上から打ち落
に合わせてハラに力を入れ、打撃に耐える訓練をする
ためである。ついでに根性もたたき込む。
ハラにある代表的な急所は、みぞおちと肝臓(右脇
腹)である。ボディブローがきいてしまえば、リングの
吾が名づけ親のハラは偉
大である
た恐怖心の証明なのだ。
うに、かつてのポリネシア人の暮らしは実際、飢えと饗宴
トルマッチで善戦した。
「とうとうあらわれたか」と思っ
饗宴の日、
主役の豚はハラ貯蔵庫へと消えた
るボクサーのハラ、じつはこれこそ彼の内奥に刻まれ
る のは﹁食 べる ﹂か らで はな い。むし ろ﹁食べ な かった﹂
中国雲南省のミャオ族出身のボクサーが、世界タイ
8
2010 年 11 月号
9
ま さ お
かしなが
30歳を超えると誰もが
巨大なハラを誇る
りしている分、よけいに苦しい。多くのボクサーが、練
むかしの衣装をまとう
神官役は見事な出臍
盛大な宴では食えるだけ食いまくる。そんな状況を一変さ
樫永 真佐夫 民博 研究戦略センター
は物語る。
せたのが西欧風食文化。まるで毎日が饗宴のようになった。 からなのだ。そんなことを、﹁ポリネシア人のハラ﹂
勝つために体を絞り、ハラを鍛える
ボクサーのハラ
上を這いつくばらされる。痛くて呼吸もできない。脳し
てやる」と誓った経験をもつのではないだろうか。つら
習や試合でボディブローをもらって倒され、
「もうやめ
くても、腹直筋、腹斜筋をはじめとする腹筋群を厚い
鎧とするべく、腹筋を痛めつけ、鍛える。同じ苦しみ
よろい
を二度と味わわないためだ。
たくましく六つに割れ、無骨な陰影をにじませてい
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