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モンスーンアジア諸国の棚田の耕作放棄と崩壊 辻井博

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モンスーンアジア諸国の棚田の耕作放棄と崩壊 辻井博
井
博
つじい
1941年
1964年
1964年
1973年
1973年
1977年
1982年
モンスーンアジア諸国の
棚田の耕作放棄と崩壊
辻
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133
ひろし
京都市生まれ
京都大学農学部卒業
京都大学東南アジア研究センター助手
イリノイ大学大学院博士号(Ph.
D.
)取得
京都大学東南アジア研究センター・バンコク事務所長兼任
京都大学農学部講師
在米国首都ワシントン国際食糧政策研究所(I
FPRI
)
上級研究員
2005年 京都大学大学院農学研究科教授で退任
2005年 石川県立大学教授に就任。2012年退任
新潟市「食の新潟国際賞」評議員。
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1、フィリピン世界遺産のバタッド棚田
私と京大同窓生の法貴さん、それからフィリピン稻作研究所のレネ氏の3人と地元の農家の案
130段ほどあることである。南米のマチュピチュの棚田版と言えよう。
次に驚くことは、棚田の法面が全て石造りになっており、最上部の棚田から最下部の棚田まで
フガオ族の高床農家やロッジがある。
大された美しい「ふるさと」の景色である。円形劇場の底と集落の入り口の部分などに少数のイ
落に入ったところで急に目に入ってくるから、それは大きな感動でありまた日本人にとっては拡
写真(1)に見るように、バタッド棚田はローマ円形劇場のように配置されており、それが集
く見渡せる。
00mにある。バタッド棚田の入り口はバタッド棚田の上辺部に近い高さにあって、同棚田が良
バタッドの棚田はフィリピンの世界遺産であるコルディレラ地域の棚田群の一つで、海抜11
強い恐怖と戦いながら、何時間もである。
標高差がある急傾斜の石造りの高い法面の上の石と粘土の細い畦道を、滑り落ちるかもしれない
内で、3月下旬フィリピン・コルディレラ地域のバタッド棚田を歩いた。下の田と最高 mほど
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しかし詳しく見てみると、この棚田のほぼ %が、耕作放棄されていたり崩壊していることが
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分かる。これはかなり大きな割合である。写真ではあまり
はっきりしないが、棚田斜面の所々で雑草が茂っていると
ころがその場所である。
高い石造りの棚田の端の狭い粘土と石作りの畦道を歩く
のは怖かったが、棚田を下から上まで130段ほど歩いた
から、村の入り口からとは全く違う景観や事実が分かった。
先ず畦から下の棚田を見ると、石の法面が急で足が震える
ほど高いことである。
次に、明るい黄緑の小さい四角形の苗代が棚田にアクセ
ントを付け、田植前の灰色の水のたまった棚田や田植えが
済んだ薄緑の棚田と棚田水面の色合いの組み合わせが美し
かった。
田植えは男性も少しやっていたが、高齢の女性が多かっ
た。おばあちゃんが小さい子供達と田植えをしてるのを一
カ所で見たが、これは子供が年寄りを助ける意味だけでな
バタッド円形劇場棚田
写真(1)
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合員から集めて米国のNGOへ輸出してきた。同農協専務のジミーによれば香り米は、化学肥料
ている。私も茎が紫色の香り米をかなり見た。後述する棚田農家農業協同組合はこの香り米を組
ラ地域の棚田では、稲が近代高収量品種にかなり変わったがまだかなり香り(伝統)米が作られ
れる。香り米は普通のコメの倍ほどの値段で、2014年3月には販売されていた。コルディレ
される。乾燥した籾は、杵と臼で精米され、主として自給用に消費される。余剰があれば販売さ
棚田のコメは穂刈りされ、穂束としてイフガオ族の高床式家屋の家の中に積み上げられ、乾燥
使うのだろう。
漏れや法面崩壊を起すのでそれを防ぐため、草取りなどに使うという。もちろん法面の補修にも
人が石の法面を登る階段で、農家によれば、雑草が生えるとネズミが石の間に住み、穴を掘り水
この棚田の石の法面上に長い石が斜め上の方向に並んできれいに水平に突きでている。これは
うな積み方である。
もあり、彼らが石積みの法面の管理と修理をする。日本の穴太積みの各石をかなり小さくしたよ
積みの裏側は杵で粘土を突き固めているのを見た。案内の農家に聞くと村の農家は多くが石工で
石造りの法面は、色々な大きさの角の丸い石で積まれており、下の方が大きい傾向がある。石
てない。
く、世界遺産の棚田稲作を孫などに伝えるという意味でも大事だと思う。苗は ㎝弱で葉先は切っ
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や農薬は使わず自然農法で生産されている。これが米国で香り米が需要される理由であろう。
壊的循環が存在する。
になる。皮肉なことに観光客の無制限の浸透が、棚田稲作そのものを崩壊させるという、自己破
限に浸透させる。そのため、イフガオ族の若者達は棚田稲作を忌避し、それ以外の職に就くよう
田への急増は、観光関連の農業より遙かに高い収入で軽労働の仕事を増やし、外部の情報も無制
しかし、UNESCOのI
mpac
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.
2008年の報告書に示されているように、観光客のバタッド棚
れているから、多数の観光客がその美しさを楽しむためやってくる。
非常に低いことが、若者が棚田稲作を忌避する理由であろう。バタッド棚田は世界遺産に指定さ
の棚田は平地の稲作と比べ経済効率が非常に悪く単収も非常に低く、労働はきつく、稲作所得が
イフガオの若者達は稲作をしたがらず、農業以外に就職するという。バタッドのように急傾斜
なかったり、所有者が死亡したり移住したりして分からないのが耕作放棄の理由とのことだった。
が、棚田の所有者が高齢化して作り手がいなかったり、他人に貸したがらなかったり、借り手がい
れた農家やレネによれば、何年か前に大きな土砂崩れがあり、政府の補助金によって修復された
バタッドの棚田の %ほどが耕作放棄され棚田崩壊しているのは、非常に痛々しい。案内してく
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2、棚田の耕作放棄は他のモンスーンアジア諸国でも発生している
アジア島嶼部諸国及びチベット高原の周辺諸国には美しい棚田が非常にたくさん存在する。し
かし棚田はその傾斜という地形的要因により経済効率が悪く、観光と市場経済の浸透と経済発展
により、私が調査したフィリッピン、日本、ネパール、インドネシアなどでは、棚田の耕作放棄
と棚田崩壊が急速に進行している。
フィリピンでは、バタッド、バナウエ、キアンガン、マヤヤオの4カ所の棚田を調査したが、
いが、その美しさのため激しかった。
最も高かった。ここへの観光と市場経済の浸透は、棚田地帯への車の乗り入れが可能な道路が無
バタッド棚田の耕作放棄と崩壊は上述のように %ほどで、他のコルディレラ地域の棚田と比べ
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ある。
の無制限の浸透と棚田農家の低所得が棚田の耕作放棄と崩壊の主たる原因であることは明らかで
透度は非常に低く、耕作放棄も棚田崩壊もあまり起こっていない。これらから、観光と市場経済
帯では、自動車道は棚田地帯に入っているが、両地域が遠隔辺境であるため観光や市場経済の浸
場経済の浸透は非常に進んでいる。これら2カ所の棚田に対し、キアンガンとマヤヤオの棚田地
耕作放棄と崩壊が %ほどのバナウエは、棚田地帯への車の乗り入れが可能だから、観光と市
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地面積の %に達した。
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ha
高齢化率が2005年に ・1%と全農業地帯平均の ・1%と比べ非常に高い。
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4年間で2回ヒマラヤ・トレッキングのついでにこの棚田地帯を調査してその美しさを堪能した。
ネパール・ヒマラヤのふもとでは世界最大の美しい棚田・棚畑地帯が広がっている。私は過去
い浸透の結末である。
本の高度経済成長による農村人口の都市への引き抜き、すなわち市場経済の中山間地帯への激し
平地農業地域の %に比べ ・7%と非常に高くしている。これは1960年から 年までの日
5.
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ない。棚田が多い中山間地域の激しい高齢化と低農業所得がそこの耕作放棄率を2005年に、
2007年の販売農家1戸あたり農業所得は中山間地域では 万円で平地農業地域より %少
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日本の耕地の ・3%を含み急傾斜の棚田が多い中山間地域では、 才以上の人口比率で示す
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日本の耕作放棄は1985年から急増し2010年には1985年の3倍の ・6万 、全耕
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トへの古い交易路上の小市バラビセの周りの棚田・棚畑地域と首都から西へ250㎞ほどのとこ
調査した棚田・棚畑地帯は、ネパールの首都カトマンズから東北東に100㎞ほどの、チベッ
しかし一部の棚田棚畑地帯では %ほどにも上る耕作放棄があり、驚いた。
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ろにあるポカラ市の北方のアンナプルナ保護地域の棚田・棚畑地帯である。
両棚田・棚畑地帯とも海抜700―2500mにある。ほぼ1500m以下は稲作で、1500
m以上は四国びえ、2500m以上はジャガイモと作物は階層化されている。
この調査で分かったことは、両地域とも都市に近い地域では耕作放棄は少なく、都市から離れ
るほど耕作放棄は増加するということと、観光やトレッキングが盛んな地域では耕作放棄が激し
いということであった。
まだ仮説だが、両地域とも都市に近いところでは都市のコメや四国びえの需要があって、その
耕作放棄を増大させているのではないか。
農業所得の相対的低下と若者の観光など非農業や都市の職業への就職を増大させ、棚田・棚畑の
でない。アンナプルナ保護地域でのトレッキングの盛行は、イフガオと同じように、棚田・棚畑
登山やトレッキングはアンナプルナ保護地域で非常に盛んであるが、バラビセではあまり盛ん
びえの需要が減り、耕作放棄が発生しているのではないか。
ぼこが多い。そのため都市部への輸送が困難で、経済発展による地域の過疎化のためコメや四国
㎞以上)離れると、ネパールの道路はフィリピンと比べて舗装されておらず、道幅は狭く岩や穴
需要と農家の自給を満たすための生産が行われ、耕作放棄が少ない。しかし都市からかなり(
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次の写真(2)が示す %に
及ぶ棚畑の耕作放棄はアンナプ
ルナ・プーンヒル東方100㎞
ほどの海抜2000mの棚畑地
帯でしばしば遭遇した。
モンスーンアジア島嶼部諸国
及びチベット高原の周辺諸国で
の棚田・棚畑の耕作放棄の理由
モンスーンアジアの棚田・棚畑とそれに付随する里地里山は、近代経済成長の過程で都市に集
3、モンスーンアジアにおける棚田・棚畑の意味とその保全のための社会事業
として伐採されて水不足が発生していることである。
が厳しい労働の棚田・棚畑農業に従事しなくなり、過疎化が進み③棚田上部の水源林が薪や用材
①観光と市場経済の無制限な浸透により棚田・棚畑所得が相対的に低下し、②農家やその若者
をまとめると、
アンナプルナ保護地域の
耕作放棄棚畑
写真(2)
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住してきた各国民の原風景であり、始原美意識、原文化、原社会であり、食料安全保障、環境保
全・国土保全などの「外部経済価値」を国民に供給している。
コルディレラ地域の棚田群が世界遺産に指定されたことは、モンスーンアジアの広大で美しい
棚田・棚畑・里地・里山が人類にとっても大きな価値のあることを示す。これらの価値は市場の
売買を通さず享受されるから外部経済効果と呼ばれ、非常に巨額に達する。
では日本の「外部経済価値」はどうなのか。日本学術会議の報告を基に私が推計すると、20
①棚田農家の所得の増大及び彼らの主食である香り米の自家消費の維持のため、高品質の香り
しようとしている。
棚田農家農業協同組合(ITRFC)とMOU(覚え書き)を作り、次のような社会事業を実行
貴氏、海外青年協力隊員の渡辺真理氏、Phi
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(フィリピン稲作研究所)の研究者、イフガオ
この問題を解決するため、私は若干の事前調査に基づき京大時代の同窓生で農業機械学者の法
棚田・棚畑の耕作放棄や崩壊引き起こしてきた。
えている。しかし上述したように、観光や市場経済が無制限に棚田・棚畑地域に浸透した結果、
私は、モンスーンアジア諸国の多くの国民、そして世界の人々はこの価値を維持すべきだと考
01年で5100億円となり総農業付加価値生産額の %にもなる。
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米生産と差別化され付加価値を付けた香り米の輸出・小売りの増大。
②コメとドジョウのイフガオ棚田での連携生産により、棚田農家の所得を高め、耕作放棄と棚
田崩壊を防ぐ。
③イフガオ棚田の上部にある水源林保全活動支援。
④急傾斜のイフガオ棚田での稻作過重労働の軽減と棚田農家農業協同組合の組合員の刈り穂輸
送の過重費用を削減するため、日本の小型農機具利用への支援。
⑤棚田稲作の所得が観光関連や都市での仕事と比べ低すぎることを解消するため、棚田入場料
や少額の税金などの観光や商業部門から棚田部門への所得移転制度の導入、などである。
諸賢のご理解とご支援を要請する。
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