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ネパール、「包摂」、人類学 共同研究を終える前に
ネパール、「包摂」、人類学─共同研究を終える前に 文・写真 名和克郎 共同研究 ● ネパールにおける「包摂」をめぐる言説と社会動態に関する比較民族誌的研究(2011-2014) 最終年度の中間報告 本共同研究は本年度が最終年度であるため、本来であれば 流を行ったことは、本共同研究にとっても非常に意義深いこ とであった。 ここで 3 年半にわたる本共同研究の最終的な成果を判りやす く提示すべきであろう。しかしそのような原稿を 2014 年 12 月半ばという指定の締切までに書くことは実質上不可能であ ネパールの状況と包摂研究の展開 本誌 144 号の拙稿でも触れたように、ネパールでは、2008 る。まず、本年度は予算の制約もあり、成果論文集の草稿検 年に成立した制憲議会が解散した後、2013 年 11 月に第 2 回 討を目的とした研究会を、本原稿締切後に 1 回開催するのみ の制憲議会選挙が行われた。ネパール・コングレスと共産党 で終了する見通しである。さらに、第 2 回制憲議会選挙後の UML がそれぞれ第 1 党、第 2 党となり、マオイストが大きく ネパールの政治情勢は流動的であり、当初設定されたタイム 議席数を減らしたこの選挙については、ジェンダーやカース テーブル通りに新憲法が制定されるかは予断を許さない。本 ト・民族毎の議員割合の分析などから、2006 年以降進んでき 共同研究がネパールにおける「包摂」という、現実の政治過 た「包摂」への動きが押し戻されているのではないかといっ 程において主要な問題となっている事象に焦点を当てている た議論がすでになされている。制憲議会の最大の任務は憲法 以上、近い未来に確実に生じる政治上の何らかの決定(非決 制定であり、その期限として 2015 年 1 月 22 日という日程が 定という決定の可能性もある)以前に、結論めいたことを論 挙げられているが、この日までに憲法制定に至る基本的な合 じるのは躊躇われる。従って、本稿の内容は中間報告的なも 意が形成されるか自体、原稿執筆時には予断を許さない情勢 のとならざるを得ない。 である。議論の主要な焦点の一つは連邦制の内実であり、そ 本研究会と密接に関係した本年度の主要な成果としては、 2014 年 5 月に幕張で開催された国際人類学民族科学連合の年 次大会において、藤倉達郎(京都大学)と共に 2 つのパネル、 れが如何なる形で制定されるかは、今後のネパールの「包摂」 のあり方に直結する。 他方、ネパールの「包摂」に関する研究は、本研究会が行 Comparative ethnography of inclusion in Nepal: discourses, われている期間中に、さらに大きく展開した。中でも本共同 activities, and life-worlds 、及び Politics, culture, and cultural 研究との関係で特筆すべきは、トリブバン大学中央社会学人 politics in the Himalayas を開催したことが挙げられる。両パ 類学部が中心となって 2011 年から行われた「社会的包摂ア ネルとも、日本からの発表者の多くは本共同研究のメンバー トラス・民族誌プロファイル(SIA-EP)」プロジェクトであろ であり、内容的にも共同研究での議論を大きく反映したもの う。このプロジェクトは、全国的なサンプル調査を行い、カー となった。またその際、本共同研究と連動した科学研究費に スト・民族、母語別のネパール国内の人口分布の詳細な地図化 よる研究「体制転換期ネパールにおける『包摂』を巡る社会 のみならず、識字率から、安全な水や便所へのアクセス、携帯 動態の展開に関する比較民族誌的研究」(基盤研究 B、研究課 電話の保有に至る社会的包摂に関わる諸事項についても、カー 題番号 24320175)等によりネパール内外(かつ日本国外)で スト、民族、地域別の大まかなカテゴリー毎に地図化して示す 活躍する気鋭のネパール人研究者 4 名を招き、議論と研究交 作業を行った。加えて、従来十分に知られてこなかった個々 のカーストや民族集団につ いて基礎的な民族誌情報 を提供する、それぞれ 100 ページほどの Ethnographic Series を、20 冊 以 上 刊 行 している。基本的な情報の 収集・整理・提供から政策 提言、さらには人材育成ま でを視野に入れたこのプロ ジェクトを本質主義的だと して批判することは可能だ が、社会との相互関係を無 視した批判が生産的である とは思えない。ただ、様々 な 配 慮 に も 拘 わ ら ず、「 包 摂」を巡る議論の焦点が、 民族、カースト、地域、及 国際人類学民族科学連合でのパネル、Comparative ethnography of ʻinclusionʼ in Nepal の様子(2014 年 5 月、幕張)。 18 民博通信 2015 No. 148 びそれらと交叉するジェン ダーを巡る議論に偏っていく傾向 は、指摘しておきたい。 「国民統合」、「包摂」、人類学 SIA-EP プロジェクトの出版物は、 ネパールの文化人類学の出発点に 位置する 1 冊の著作を思い起こさ せる。ネパール人類学の父とも称 されたドル・バハドゥル・ビスタ の『ネパールの人びと』 (初版 1967 年)である。ネパール全土を自ら 歩いて集めた文字通りファースト ハンドのデータに基づいて、最終 的 に は 30 に お よ ぶ 異 な る 集 団 に 関する基礎的な民族誌情報を網羅 した本書は、ネパール人自身十分 に知らなかったネパール国内の民 族的多様性を明らかにすると共に、 1960 年のマヘンドラ国王のクーデ SIA-EP プロジェクトの出版物の一部。 ターにより成立したパンチャーヤ ト体制下での近代化と国民統合への期待を表明した著作であっ 共同研究の射程 た。ビスタはパンチャーヤト体制が終わり複数政党制が復活 SIA-EP プロジェクトはまた、本共同研究が何であり、何で した後、1991 年にバラモン的な運命論的思考がネパールの発 ないかを教えてくれる。本共同研究は、これまでの研究会での 展を妨げているという論争の書、Fatalism and Development を 発表題目からも明らかなように、全ネパールにわたる資料収集 出版したが、この著作においても、運命論をインド起源の外 や戦略的なフィールドの選択を行っておらず、ネパールに関す 来思想として批判すると共に、西洋の個人主義を単純に導入 る「包摂」の全体像をその成果のみから示すことは到底不可 するよりはネパール国内のヒンドゥー高カースト以外の諸民 能である。他方、本共同研究が、SIA-EP プロジェクトのよう 族の価値観に学ぶべきだという主張を行っている。ネパール な体系的な試みでは把握しきれない現象に焦点を当ててきた という国家の存在と、国内に存在する多様性を前提にしつつ、 ことも確かである。参加者の多くはカーストやジャナジャー 単なる西洋化ではない形で近代化とネパールの国民統合を進 ティといった範疇のみからでは捉えられない現象を扱ってお めていくべきだという彼の基本姿勢は、一貫したものだった り、ネパールという国民国家を前提とした「包摂」の議論で と筆者は考えている。 はこぼれ落ちてしまう状況を扱った研究もある。また多くの SIA-EP プロジェクト、とりわけその民族誌シリーズは、ほ 研究は、長期にわたるフィールドワークの成果を元に、 「包摂」 ぼ 50 年前のビスタのプロジェクトを補完するものであるか 問題の歴史的位置づけとも関わる、状況の多元的な変化を のようである。他方、ビスタの国民統合へのヴィジョンと、 扱っている。 2006 年以降の「包摂」を巡る議論との差異もまた、一見明確 人類学的なネパール研究においては、南アジア外部に、イ に見える。ビスタが持っていたのは、明らかに、ネパール国 ギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、日本等を基盤とする 内の様々な人々が交じり合っていくというイメージだった。 複数の研究伝統が現在に至るまで長く並立し、重要な業績が ビスタが異民族異カースト間の通婚の増加について、多くの 英語、ネパール語のみならずフランス語、ドイツ語、日本語 ネパールの知識人と異なり極めて楽観的かつ肯定的であった 等でも書かれてきたが、近年フランスやドイツの研究者も英 ことは示唆的である。他方、現在のネパールにおける民族、 語で研究成果を発表する傾向が高まっている。国際人類学民 カースト、地域を基盤とした運動の主流は、「少数民族」と訳 族科学連合でパネルを組んだのはこうした趨勢をも考慮して しうるネパール語ジャナジャーティの英訳として nationalities のことだったが、結果として本共同研究の水準を示すことが を採用していることが端的に示す通り、「一つのネパール人」 出来たものと確信している。本共同研究の成果出版物はまず への融合を明確に拒否している。因みに、中央社会学人類学 は日本語で刊行される筈であるが、それが単に既存の研究成 科長のオム・グルンは、ジャナジャーティ運動の中心人物の 果を補完する以上のものとなるよう、共同研究終了後も引き 1 人である。だが、王政廃止後、国の統一的シンボルの欠如 続き努力していく所存である。 が研究者により指摘される状況にあっても、ネパールにおけ る「包摂」を巡る議論において、ネパールという枠組自体が 疑われることは極めて少ない。ドル・バハドゥル・ビスタと 4 4 4 オム・グルンという 2 人の人類学者の間の差異を正確に 測定 する作業は、決して容易ではない。それはその作業が、現代 ネパールの「国民」とその内的多様性を巡る想像力の展開を 跡づける作業に直結しているからである。 なわ かつお 東京大学東洋文化研究所教授。専門は社会・文化人類学、ネパール及び ヒマラヤ地域の民族誌。著書に『ネパール、ビャンスおよび周辺地域に おける儀礼と社会範疇に関する民族誌的研究―もう一つの<近代>の布 置』(三元社 2002 年)、共編著に『グローバリゼーションと〈生きる世 界〉―生業からみた人類学的現在』(昭和堂 2011 年)他。 民博通信 2015 No. 148 19