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学生とともに地域で学んできたこと(2) - 名寄市立大学/名寄市立大学短期

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学生とともに地域で学んできたこと(2) - 名寄市立大学/名寄市立大学短期
名寄市立大学 道北地域研究所 年報 第30号(2012)
彙報
学生とともに地域で学んできたこと(2)
― 児童専攻、サークル、地域実践のこと ―
清野 茂
名寄女子短期大学家政学科・児童専攻・その誕生の頃 紋別にいた頃(1979〜1984)、国鉄の名寄線がまだあり、札幌へ行くときにはそれに乗って名寄を経由して
出かけていた。その頃、名寄女子短期大学では保育系の学科を作るための模索をしており、家政学科家政専
攻の中に児童学コースを設け、小出真美先生、田中義和先生がいらっしゃった。児童コースを専攻にという
動きがあり、声をかけていただいた。当時の短大は、美土路学長を中心に、地域に根ざした大学をめざして、
大学づくりをすすめており、私にとっては魅力的な職場だった。美土路先生は手紙で私に名寄に寄っていく
ように連絡を下さり、歓待して下さった。小出先生、田中先生、木村純先生、津田美穂子先生、中嶋信先生
らにお会いした記憶がある。その後、特別講義か何かだったかに招かれたこともあり、その時は、まだ単身
生活をされていた木村純先生のアパートに泊めていただいた。教員採用の公募に応募し、採用が決まり、
1984年3月、紋別の学生や親たちに申し訳なさと後ろめたさを感じながら、名寄に向かった。
1984年4月、名寄女子短期大学は、当時の家政学科に児童専攻が開設され、それまでの栄養、家政の2専
攻100名定員体制から150名、2学年合わせて定員300名、実人員330名の学生数となった。当初は、新たな学
科を開設するという構想だったが、うまくはいかず、専攻を設けるという形でのスタートとなった。とはい
っても、この年新たに採用されたのは、私と嘱託教授の三上敏夫先生のわずか2名の教員だけであった。三
上先生は全国的にも著名な綴方教育の実践家で多くの著書を出版していた。三上先生には在任中に公私とも
にお世話になり、また、退職後もよくお会いし、5年前、先生がお亡くなりになるまで、たくさんのご教示
をいただき、親しくおつき合いをさせていただいた。翌年、音楽教育、わらべ歌指導の優れた教師・佐藤志
美子先生が赴任された。新たに採用されたのは、この3人のみだった。これまで家政専攻に所属していた小
出先生、田中先生が児童専攻に移り、児童専攻が教員4名でスタートし、翌年5名となった。児童専攻とい
う名称であったが、専攻が開設されたときには、保母(保育士)資格も幼稚園教諭の免許も振り出せず、家政
専攻と同様に中学家庭科の2種免許のみだった。入学してくる学生の中には保育士の資格を当然取れると思
い込んで来た学生も少なくなく、それを知ってやめようと思った学生もいたという。(その後、1990年に幼
稚園教諭2級免許状が出され、さらに1994年には専攻は保母養成施設となり、幼保の両方の免許・資格を振
り出せるようになり、専攻所属の教員数も8名体制となった。)
当初、ほとんどの学生が教職を履修していたように記憶しているが、児童専攻で保育を学ぶことを期待し
て入学してきた学生が多かったように思う。短大で資格を得られないのなら都道府県で実施されている保母
試験を受験して資格を得ようと小出先生の呼びかけで保母試験のための自主ゼミが誕生している。私の手元
に12冊の「未来の保母ノート」「保母ノート」というタイトルのノートがある。30年〜25年前のもので、保
母試験をめざす学生たちが情報を伝え合うため、また、励ましあうために設けたノートである。一番古いも
のは1982年のもの、家政専攻の児童学コースの時代のものであるが、ノートの端々に小出先生のアドバイス
や励ましの言葉が書き込まれている。このノートは、小出先生が退職されるときに、「当時の卒業生が訪ね
て来たときにぜひ見せてあげて」と手渡されたものである。昨年、児童専攻の一期生のSさんが埼玉から訪
ねてきた際に、初めてその約束を果たすことができた。彼女は、自分の名前や自分の書いた文章をそのノー
トに見つけ、当時の出来事を思い出しては、私に語ってくれた。
その時期(1986〜1991)の就職状況を見てみると6割以上が民間企業、臨職を含めた公務員が1〜2割、保
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母、指導員2割弱という状況だった。保母も在学中に保母資格を取得できるものはまれであったから、無認
可保育所の保母が多かったし、指導員とあるのは、当初学童保育所の指導員となる学生が多くを占めた。徐々
に知的障害児・者施設職員、養護施設(現児童養護施設)職員になるものも増え、また、特殊学校(現特別支
援学校)指導員になるものも出てきた。この状態は90年まで続き、91年、中学校教諭免許取得学生最後の卒
業の年に大量14名の小・中学校教諭を誕生させ(この時期に多くの教員が採用された)、翌92年から幼稚園教
諭が5〜6割、保母・指導員2割、民間企業1〜2割という状況に一変した。
小出先生はじめ当時の児童専攻の教員のことを思うと、懐かしさとともにその地域に果たすべき役割を常
に心がけていた姿が思い出される。それぞれ民間教育団体にも所属し、全道的な役割を果たしながら名寄市
内でも学生とともに地域の親子、保育者への支援も続けていた。小出先生は、未就園の3歳児とその母親と
週一回過ごす子育て支援サークル「ひよこ」を、現在の女性児童センターを会場に実施していた。今から30
年近く前の子育て支援の先駆的な活動といっていいだろう。その後、彼女は、名寄市とリンゼイ市の友好事
業に関わる中でカナダの子育て支援の活動に出会い、その研究をライフワークにしていった。田中先生は、
地域の障害児保育、教育関係者、親たちとともに「名寄障害児を語る会」を運営、地域の関係者とのつなが
りを深めていた。三上先生も、佐藤先生も、紙芝居、合唱などで地域の方々とつながる活動をされていた。
「地域に根ざした大学をめざして」という当時の短大のスローガンそのままに、地域でのとりくみに努力し
ていた。
名寄手話の会・名寄短大手話サークルのこと−地域にはさまざまな人がいて、多くの団体がある
名寄に移り、私もいろいろな方たちと出会った。お二人のろうのお子さんをお持ちで当時手話の会の会長
をしていた福光哲夫さんが、市内の書店に勤めていて、短大に出入りされていた。かつて大学院で聾教育と
手話に関わる研究にとりくんでいた私は、その後も手話への関心を持ち続け、紋別の道都大学では学生のサ
ークルの顧問を引き受け、その前の2年間の札幌時代にも「札幌手輪の会」に所属し、ろう者や手話通訳活
動をする人たちとの交流を続けていた。また、細々ながら手話や聾教育に関わるテーマでの論文執筆や翻訳
を行っていった。手話の会や手話サークルとのつながりは、指文字について、聾教育の歴史、とりわけ戦前
の手話法による教育に関心を持ち、その後しばらくして、戦前手話による教育を守り続けた函館盲唖院長・
佐藤在寛や大阪市立聾唖学校の研究にとりくむモチベーションを保ち続ける要因にもなっていたように思う。
名寄でも発足して数年の「名寄手話の会」に入れていただいた。保母、看護婦、自動車学校の教官、自衛
官、NTTや北電の社員、主婦など、会には様々な職種の人たちがおり、また、小・中・高校生もいた。会の
皆さんと一緒に手話劇に取り組んだり、行事に参加させていただいたりした。当時手話の会では「手話と講
演の夕べ」という市民向け行事を毎年実施しており、その手話劇で浜田廣介原作の「泣いた赤鬼」という作
品の赤鬼を演じた。大学院時代に同じ役を仙台の手話サークル「宮城ひまわり会」の市民行事で演じたこと
があって(「ひまわり会」のHPを見ると1976年の第2回目の手話劇公演で「泣いた赤鬼」が上演されたとあ
り、今も手話劇はサークルのもっとも重要な取り組みと書かれてあった)、そのことを話すと、即決定とな
った。当日、妻と私の二人の子どもも見に来てくれ、娘からはその感想を書いた手紙をもらい褒めてもらっ
た。会には学生や卒業生も何人か参加しており、そうしているうちに学生の中にも関心をもつものも増えて
きて、一緒に例会に通うようになった。数年後、ろうあ者の授産施設「わかふじ寮」のある新得出身の学生
から学内にもサークルを作りたいから顧問にと頼まれ、1988年、学内のサークルも生まれた。一年生と二年
生しかいないという短大特有の難しさもあったが、毎年二、三十名の学生により、運営されてきた。中には
祖父母がろう者、父親がコーダ(聾の両親から生まれた聴者)である学生、自身難聴で、ろう学校出身の学生、
また、父親がろう者で母親が手話通訳者という学生もおり、それらの学生がサークル長を務め、サークルを
盛り上げていった。そのような中で、学生同士が成長しあう姿を目の当たりにして、支援する私自身大いに
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学生とともに地域で学んできたこと(2) −児童専攻、サークル、地域実践のこと−
刺激を受けた。1998年頃だったと思うが、福光さ
んの長男の純さんが埼玉県からUターンし名寄に
戻り就職し、手話サークルの講師を務めてくれる
ようになった。彼はその後10年以上サークルを支
援し続けてくれ、また、彼の仲間のろう者を学生
たちに引き合わせてくれた。彼に続いて彼の後輩
にあたる佐久間さん、高橋さんという名寄在住の
ろうの青年たちが指導に加わってくれるようにな
った。サークルは週一回の例会だけでなく、毎年、
手話だけで交流する合宿研修会を実施、手話の学
習だけでなく、ろう者の生活やろうあ運動のこと
にふれる学習も行っていた。
手話サークルは、四年制大学の保健福祉学部発足以降は、学部の社会福祉学科の学生が中心になったが、
今も継続している。また、特筆すべきこととして、保健福祉学部の教養教育の「言語・リテラシー」の科目
として「入門ハングル」「入門ドイツ語」と並んで日本語とは違う言語としての手話という位置づけで「入
門手話」の授業が取り入れられているが、サークルの活動と授業での学修があいまって、社会福祉法人全国
手話研修センター主催の手話検定試験に挑戦する学生も少なくなく、2年生の段階で2級に合格する学生も
生まれている。
サークルの顧問をしていて、うれしいことがある。私の専門とする領域で学生生活のテーマというべきも
のを見つける学生が時々出てくること。10数年前の卒業生にTさんという学生がいて、その学生が2年生で
私のゼミに入って、ろう者であった祖父の人生を400字詰め原稿用紙にすると80枚の卒業レポートにまとめ
て、当時行われていた「学長賞論文」に応募し、学長賞を受賞したこと。彼女は卒業後もろう者とのつなが
りを続け、保育士の仕事のかたわら札幌聾史研究会のメンバーとなり、ろう者の歴史に関する研究にも参加
している。また、彼女のゼミ論は、北海道聾史研究のシリーズの一冊として同研究会から発刊された。
手話サークルには児童専攻の学生だけでなく、他専攻の学生も参加しており、それらの学生との関わりも
あり、授業だけでは得られぬつながりをそこから得ることもできた。卒業後臨採の教員を続けながら教員を
めざしていた生活科学専攻の学生Fさんからは、ときどき手紙をもらっていた。家庭科の免許では臨採も難
しい時期、離島の教員などを含め4年間過ごし、数十倍の倍率を突破し、採用試験に合格するが、そのとき
に長い手紙をもらった。子どもとも保護者とも一生懸命やってきて、信頼関係を築いてきたこと。しかし、
期限付きだから別れなければならない辛さ。社会から必要とされていないのかと落ち込んだこと。期限付き
が途切れ、職安に何度も通い、やっと合格した所がパートの看護助手で、精神科閉鎖病棟での勤務を命じら
れたことが書かれ、手紙はさらに次のように続けられていた。
「ゼロからの出発でもあり、行きたくないと思う日もありました。でも患者さんが待っていると思うと、行
かなきゃという気持ちになりました。施錠されている病棟。牢屋のような病室。頭に電流を流す治療。血だ
らけ、排便だらけの部屋。泣いている人。怒っている人。笑っている人・・・。/学生時代、精神的な病を
抱えている方達にも接し、少しは理解してきたつもりでしたが、やはり初めはショックでした。いつも何か
に苦しめられていて、この病棟だけが生きている空間でしかない患者さんに何ができるだろうといつも考え
ていました。もちろん私は医師でも看護師でもありませんので医療行為はできません。できること。とにか
く患者さんも部屋もきれいにしてあげること。笑顔でいることを心がけました。/患者さんとはコミュニケ
ーションをとることができました。(今夏の猛暑の入浴介助は本当に大変でした。休みなんてなかったので
日焼けもせず、白いままでした。)/それでも悲しい時は必ずやってきます。何人かの患者さんの臨終に立
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名寄市立大学 道北地域研究所 年報 第30号(2012)
ち会いました。初めて真剣に生きるということを考えました。・・・」
地域のろう者団体、手話の会の方々との交流を重ねながら、手話サークルは、今年で発足25年目を迎える。
子ども会サークルのこと
28年前に名寄に来て、手話の会とともに最初に関わりを持たせていただいたのは、障害児保育や療育の関
係者だった。田中先生がそれらの方々とつながりを持ち、「名寄障害児を語る会」という団体を作り、毎月
学習会を行っていた。市内の学校内に出来ていた情緒障害教室、そして情緒障害教員養成課程に教員を派遣
し、障害児保育に熱心にとりくんでいた「名寄幼稚園」をはじめとする幼稚園の先生や親達だった。これら
の先生方がすばらしいのは、そこに通っている子どもたちだけでなく、地域の子どもや親への支援にも熱心
にとりくんでいたことだった。当時、情緒障害学級はできたばかりの頃だったが、学級は通級制という形を
とっており,子どもたちは多くの時間を普通学級で学んでいた。就学指導の問題もあったと思うが、重い自
閉性知的障害の子どもたちも多くいた。とても一人の教師だけでは対応は難しく、学校が考えたのは、親の
同伴通学だった。学級に入り、子どもの隣りで関わる親もいたし、別室で待機していた親もいたという。子
どもと離れる時間を持たない親の困難は大変なものがあった。親たちに息抜きする時間を持ってもらおう、
そして時には親子そろって楽しい時間を過ごしてもらおうと考えてできたのが「子ども会」だった。障害を
もつ子どもたちがのびのびできる場としての子ども会を作ろうという考えもあったようだ。これは、私が赴
任する前、田中義和先生、名寄幼稚園の芦沢雅子先生を中心に開催されていた前記の「名寄障害児を語る会」
が母体になって始められたものである。学生のボランティアとともに市内の他の幼稚園の先生方や名寄幼稚
園に子どもを通わせている親も数人参加していた。
これは、今でいうレスパイトの活動であり、放課後の活動保障のとりくみといっていいだろう。その活動
に学生達も徐々に多く参加してくれるようになり、学生の支援サークル「子ども会サークル」が結成された。
2週間に1度、土曜日に行われた活動だったが、これも学生主体の活動になっていった。幼稚園の先生や同
じ幼稚園に子どもを通わせているお母さんも引き続き支援してくれた。また、隣町の美深高等養護学校に勤
めていた若い女教師の先生も毎回参加してくれた。幼稚園や小学校の子どもたちから「オッチャン」と呼ば
れていたHさんも参加しては楽しそうに子どもたちと遊んでくれた。軽度の知的障害のあるふだん運送会社
の助手をしているHさんは、宮沢賢治の童話に出てくるような気持ちのやさしい人だった。
子ども会の活動は、季節に合わせて名寄の様々な場所で行われた。浅江島公園、名寄幼稚園の園庭・ホー
ル、冬にはピヤシリスキー場、短大の事務局長さんの畑を借りてイモ植え、芋ほりもした。遠く風連の望湖
台に出かけ、アスレチックを行ったこともあった。新校舎に移って大学公園が整備されてからは、そこで行
うことが多くなったが、短大の調理室を借り、ずうっと手作りのおやつを子どもたちに作り続けたことは、
学生たちの自慢できるこだわりだった。
もう一つ、クリスマス会のことも思い出に残っている。ふだん「子ども会」に参加している子どもたちだ
けでなく、その家族、通っている学校、幼稚園の先生たちも参加し、学生会館いっぱいに歌声や笑い声が響
いた。学生や子どもお母さん方、先生方の歌や人形劇の出し物が出され、料理は学生手作りのものが準備さ
れた。この活動は20年ほど続いたが、学生が、この活動で学んだことの豊かさは大きなものがあった。授業
では決して学ぶことのできない、子どもや親、そして土曜日の午後の休みに子どもや親のために努力する教
師・保育者の姿に多くのことを学んだ。
今、網走で特別支援学級の教師をしている26期卒業生のKさんは、『子ども会の思い出』という文集に次
のように述べている。
「2週間に1回でしたが、いも掘り・砂遊び・アスレチック・ソリ遊びなど、いろいろなことをしました。
他にもクリスマスやお別れ会など、とても楽しい子ども会でした。/楽しく、子どもたちもとてもかわいか
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ったのですが、一度泣きだすととまらない子、遊
びの中に入れない子など、どう接したらいいのか
わからず、何もできなかったのを覚えています。
そんな時に幼稚園の先生方の接し方を見ては、
『す
ごいなぁ。いいなぁ。』私ももっと勉強して、も
う少し自信をもって子どもたちと接することがで
きたらいいなと思ったものでした。/そして、子
ども会だけでなく、他のいろいろな施設を見学し
たり、同じような療育活動に参加し、もっともっ
と多くの人と知り合うことができました。子ども
会サークルに入り、短大の2年間だけ障害をもつ
子どもたちと接するという人も多いと思いますが、
私の場合、このサークルに入り、子どもたちやいろいろな方々と知り合えたことで、卒業後の自分の進路に
大きな影響を受けました。」
また、Kさんと同学年だったToさんも『市立名寄短期大学40年史』に私の「職業ルーツ」というページに
次のような文章を寄せている。
「喜びや励みとなった子ども会サークルのこと―― 私の学生時代、生活の中心は障害児とふれあう「子ど
も会サークル」にありました。「子どもと楽しく遊ぼう! 」という理念はあるものの、経験が浅いため、会
が終わるとみんなで落ち込むこともしばしばでした。しかし、回数を重ねることで「子どもが名前を呼んで
くれた! 」「手をつないでくれた! 」ということが私たちの喜びや励みとなっていきました。サークル運営
をめぐる話し合いでは仲間同士がぶつかり合うこともありましたが、今思えば本当に熱い熱い仲間たちでし
た。お陰で感動いっぱいの充実した学生時代を過ごすことができました。学生時代の経験が忘れられず、子
どもに関わる仕事に就く夢を描きながら、療育サークルのボランティア、期限付き教員、保育士資格取得・・・
あれこれ寄り道をしながら十数年。体の疲れがとれづらくなった頃にようやくたどり着いた教員の道です。
あの頃の子ども達も成長し、それぞれの道を歩んでいることでしょう。小さな喜びや発見を励みにできた学
生時代。今一度その原点に戻り、素直な心を忘れず、人に優しい人間に成長したいと思います。好奇心旺盛
な私はまだまだ自分中心なところがありますから・・・。」
また、親と話し合いを持つなどして、親からも学んだ。学生は親の会の存在を初めて知った。
このサークルの学生を中心に始まり、今も続いている活動がある。名寄地区の特殊学級宿泊訓練のボランテ
ィアとしての活動である。2泊3日(現在は1泊2日)のこの管内二十校近くの学校の特学生徒の集まる宿泊
学習への学生の参加は25年以上続いている。
少人数教育としての基礎科学演習・生活科学演習
私が名寄に赴任した頃には1年生は基礎科学演習、2年生には生活科学演習が開設されていて、全教員が担
当、学生も全員所属していた。私の赴任した年の高校訪問用の冊子「84年版 新しい家政学をつくる−名寄
女子短期大学この一年」には、これらの演習の紹介のページもあって、次のように記されている。
「仲間の中で学ぶ喜び−ゼミ
少人数の行き届いた指導の場として、本学では1年の時から「ゼミ」を重視しています。1つのゼミあたり
5〜10人のゼミの仲間は支えあい、励まし合って、学ぶ喜びを共にしていきます。
ゼミナールの(小人数の演習)の成果をぶ厚い集録にする時、学ぶ喜びを確認しあうのです。」とあり、当
時の全教員19名のそれぞれの演習テーマの一覧が示されている。家政学演習(1991年より生活科学演習)は、
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それぞれの教員の専門、あるいは得意な領域にそったテーマが、基礎科学演習はより基礎的なテーマで実施
されていた。
ところで、かつて先輩の教員から聞いたところによると、特に、基礎科学演習を始めるにあたっては学内
の合意を作るのに苦労があり、当初は自主ゼミの形で始まり、一部の教員による「社会科学演習」となり、
1981年より全教員が担当して「基礎科学演習」となったという。市立名寄短期大学30年史に基礎科学演習に
ついて以下のように記述されている。
「一般系列では、これまで、体育を含め系列主任を決め、系列会議を行いながら、一般教育のあり方、進め
方を検討してきた。/その中で、昭和56年度から学生に基礎学力を習得させ、合わせて短大での学習方法を
身につけさせる目的で「基礎科学演習」を開講した。これはそれまでの「社会科学演習」を発展的に改組し
たものであるが、一般教育の中で総合科目として位置づけ現在に至っている。一つの演習は教員1人あたり
学生10名以内で運営され、学生の主体性を重んじながら文献購読、資料の紹介、各種調査、ビデオの活用等々
多様な方法を取り入れた運営がはかられている。また、原則として全教員の参加で演習は行われるが、担当
教員は当該演習を担当した学生のクラス担任的な役割を兼ねることになっている。・・・・」
後に「生活科学演習」となる「家政学演習」も1984年の赴任時にはすでに開設されていた。これは、それ
ぞれの教員が自分の専門領域に引きつけてテーマを設定して実施していた。
ゼミ活動を通しても学生と障害をもつ方たちや関係者との出会いがあった。手話の会だけでなく盲人福祉
協会、点訳奉仕団の方々、精神障害者の自助組織「グリーンサークル」や精神障害者社会復帰施設「緑ヶ丘
寮」、「緑ヶ丘授産所」の方々との出会いもあった。ちょうど「名寄せ通り」という駅前の商店街がある通
りが改装され、街並みも変わったので、その地図
を元に盲人福祉協会の方々のために立体コピーに
よる地図を作るなどのとりくみをしたこともあっ
た。これには、市の民生部、建設部の方々、商店
街の方々、そして旭川盲学校の先生方にも様々な
支援をいただいた。盲人協会の方々とは、その駅
前通りの点検活動もした。別な年度には赤十字点
訳奉仕団の方の指導をいただきながら、点訳の学
習を行い、盲人協会の方々からご希望をうかがい
カラオケの歌詞カード作りなどもしている。また、
盲人向けに声の広報や本の音訳活動をしている
「名寄声の図書会」の活動を行う学生もいた。精
神障害者の方々とは、ゼミとグリーンサークルの
共催でソフトボール大会を催し、短大の調理室で
料理を作り、食事をしたりもした。ゼミの日以外に週に1回、精神障害者授産施設に通い、レクの時間をま
かされ、七宝焼きなどの創作活動、スポーツなどのレクレーション活動をしたグループもあった。精神障害
の方々の就労の問題に関心を持った学生は、メンバーの方々の座談会を企画したり、メンバーの方々が就労、
実習している企業の事業主さんにインタビューをしたり、メンバーと一緒に一日働く体験を持ったりした。
その学生の一人Haさんは、卒業後知的障害者施設「手稲このみ寮」に勤務、地域生活支援、地域移行の取り
組みにも関わり、長く働いている。また、その他の学生も、養護学校の教員や障害者施設の職員になるなど、
障害児・者に関わる仕事についている卒業生が多くいる。
名寄市の中心街「名寄せ通り」を含む点検活動には、学生とともに身体障害者福祉協会や盲人協会の方々
や点訳奉仕団、声の図書会の方々、そして、前記市役所の職員の方々も参加し、行われた。
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学生とともに地域で学んできたこと(2) −児童専攻、サークル、地域実践のこと−
それらに共通するテーマは、ノーマライゼーシ
ョン。学生自らの活動で地域にノーマライゼーシ
ョン推進の気運を盛り上げるということを志して
いた。その中で当時のほとんどのゼミが行ってい
たように、数々のゼミ集録が作られた。集録の内
容も詳しく紹介したいが紙幅の関係もあり、別な
機会に譲りたい。 知的障害者更生施設−丘の上学園の誕生とその関わり
名寄手をつなぐ親の会を中心とした長年の運動がみのり、21年前に知的障害者更生施設「丘の上学園」が
誕生した。昭和38年の会設立当初は養護学校設置をめざす運動だったが、各地に養護学校が設置され、それ
が困難となった時、また、卒業後のことを考え、入所施設開設へのとりくみに変わっていった。
当時、名寄市から多くの方たちが各地の施設に入所していた。「丘の上学園」が開設される前年、平成2
年時点で名寄市から他の地域の知的障害者施設に入所していた人たちは約50人いた。ちょうど施設の入所定
員の人たちが他の地域の施設に故郷から遠く離れて一人入所していたことになる。平成3年、1991年、施設
は開設されたが、その50人のうち名寄に戻ってこられた方は、数名だった。その代わりに、他の地域から多
くの方たちがやってきた。とりわけ多かったのは、知的障害者福祉施設の設置の少なかった釧路等道東出身
の方たちだった。当時は、障害の重い方たちの高等養護学校の入学が難しい時代だったから、養護学校の中
学部を卒業した入所者が多くを占めていた。成人施設だったが特例で認められており、15歳の入所者が20名
以上いた。
私は、施設のできる前から施設長予定者の桜田さんや後に市の保健福祉部長になる法人設立準備室の山谷
さんを初めとする方々と顔見知りになっていた。学生とともに地域活動を進める中、出会った方たちと「障
害者に関する名寄市行動計画推進委員会」を発足させ、学習、提言活動を進めていた。開設の二年前には、
どんな施設を作るべきか、関係者、市民で話し合おうと呼びかけ、シンポジウムを開いたりもした。地域に
開かれた施設をめざしたとりくみをということで、「しがらきから吹く風」という映画の上映会への協力な
どもした。
しかし、スローガンを掲げ、地域、行政に働きかけても、現実には難しい問題が山積していた。街に出て
行き、普通にくらすことをめざしても、介助の必要な方は、限られた職員の人数の中、頻繁にはできず、思
うようにならない。そのような様子を見ながら、園の行なう行事に学生と一緒に関わってきた。施設の仕事
の大変さは、職員の勤務年数の短さにあらわれている。よい施設、悪い施設という線引きは簡単なことでは
なく、利用者にとってよい施設が、職員の働きやすい施設とは限らない。誠実でがんばる職員でさえ、いや、
そういう職員ほど厳しい労働状況の中で疲弊していく。そんな様子を辛い気持ちで見続けていた。その後学
園は新しい施設長を迎え、大きく変わり、職員の入れ替わりの激しさは解消し、定着するようになった。現
在、現場職員の中心には請われて他の施設から移ってきたO主任がいるが、彼は児童専攻の36期生で、私の
ゼミの学生だった。4人いる副主任の一人も名寄短大卒業のMさん、彼女も私のゼミで、地域支援の副主任
のY支援員も同じく名短出身である。彼も他の施設を経て、名寄に戻り、地域での就労支援活動のリーダー
になっている。学生の頃、ボランティアや学生アルバイトとして出入りしていたメンバーである。その彼ら
が名寄に戻り、健闘している姿を見ると感慨深いものがある。
学生アルバイト―学生、施設の臨時職員になる
当時の施設長から十数年前に、学生のアルバイトを入れたいという提案があった。学生に呼びかけ、二十
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数名の学生が交代で、平日は夕方から夜の八時半まで、土日は終日アルバイトに入っていた。仕事は清掃と
話し相手をしながらの見守りである。「いっしょに寄り添って時を過ごしてほしい」そんな園の思いがあっ
たようである。
知的障害者施設には、様々な人たちがいる。Hさんという名寄出身の方がいた。施設開設以来おられる方
で、話は普通にし、饒舌な方であった。子ども時代から病気がちで、学校を長期に休むことが多く、書き言
葉を十分に持たない方だった。若い頃アルコール依存症になり、強制入院させられたという。精神科、遠方
の救護施設、そして、名寄丘の上学園が開設される前年に近郊の知的障害者入所授産施設に入所した。名寄
の近くに戻ってきたいと思い、その施設に入所、翌年名寄に施設ができると聞いて、当時の指導課長に名寄
への入所をお願いしたのだという。施設に出入りしているうちに、その方と徐々に親しくなり、よく話しを
するようになった。その方にとって学生と話すことがとても心地よいもののようで、同時に、学生にとって
も様々な人生の苦難を経験したその方との対話は、大きな刺激になり、Hさんからこんな話を聞きましたと
よく報告にきてくれた。
数年続いたこの試みで、常時10数名のアルバイト生が施設に勤務していた。児童、生活科学、栄養、看護
とすべての学科、専攻の学生が含まれており、それぞれ貴重な学びをし、利用者の人生にふれ、また、それ
まで経験したことのないゆらぎの場面も体験している。この稿でふれたFさん、Tさん、Y君も、その多く
の学生の一人である。
また、それとは別に外出ボランティアとして利用者の方々と交流する学生も多くいた。一緒にボーリング
やカラオケに行ったり、食事を一緒にしたりした。また、土曜日の午後にフライング・ディスク(FD)などを
ともにする学生たちもいた。学生が出入りするようになり、男性利用者が溌剌としてきたという。全道大会
には学生も何人か同行している。
マカトン法などのとりくみ
ゼミではより継続的で専門的な活動が可能になる。児童専攻の勤務の終盤、2002〜2003年度に私のゼミで
は、マカトン法というイギリスで開発されたサインやシンボルを用いた方法を主に用いて、コミュニケーシ
ョンの保障のためのとりくみをしたことがある。「核語い」と呼ばれる中心になる単語は330語で、比較的
容易に身についていく。それぞれに日本手話を簡便化したサインと単純な図で示したシンボルが考案されて
いる。
学園にうかがっていて障害の重い方へのケアの充実が課題であることを感じていた。話し言葉を持たない
方のケアをどうしていくのか、十分にはとりくまれておらず、その術も持っていないように思われた。音声
言語以外の手段を導入したらコミュニケーションが可能になるのにと思われる方も見受けられた。特にSさ
んという方のことが気にかかっていた。いつも緊張した表情で歩いていた。あいさつの声をかけても反応は
なかった。発声もほとんどしないけれど、職員の話によると理解語はある程度持っているとのことだった。
しかし、身近な職員に手差し、指さしで意思表示するという程度の関わりのようだった。その38歳のSさん
という脳性まひの方のコミュニケーション支援を二年間行なった。学生とともに学ぶために、私は「日本マ
カトン協会」が東京で開催するワークショップに3回参加し、サイン、シンボルの研修をそれぞれ受けてい
る。教材等も市販はしていないから研修会に参加した折に入手し、その準備を進めていった。研修会で非常
に印象深いことがあった。50名ほどの参加者の中に母親が10名近くいたことだった。昼休みに何人かの方と
話をしたが、マカトンを知り、子どもとのコミュニケーションに役立つと思い、参加したのだという。子ど
もの在籍する学校でマカトン法を取り入れているという方もいたが、そうでない方もいた。自分がとりくん
で、学校の教師へ刺激を与えるのだと語った方もいた。
音声言語による伝達手段を持たない彼がサインやシンボルの使用の体験を持ったことで、彼の日常の情緒
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学生とともに地域で学んできたこと(2) −児童専攻、サークル、地域実践のこと−
の安定に大きな影響をもたらした。毎回とりくんでいて、その場では会話が出来ることの彼の喜びがひしひ
しと伝わってきた。それを目の当たりにした学生達の喜びも大きなものだった。学生達はゼミの時間以外に、
隔週の日曜日、その活動に参加してくれた。その研究成果は、学校祭で当時日本で関心を呼んでいた「ベイ
ビー・サイン」とともに展示され、学内、地域の方々にも見ていただいた。
アクティビティ活動のこと
丘の上学園の様子を見て、非常に興味深いとりくみだと思うものがあった。私は、学園の様子をみてきて、
障害の重いメンバーの日中活動が十分ではないと思ってきた。様々な作業科に分かれて行い、重い人たちは
窯業であったり、かつては園芸のしいたけ班のほだ木運びだったりした。それでもうまくいかなければ療育
班と称して散歩ということになっていた。そういう繰り返しを見ていて、何か違うと思ってきた。しかし、
今の体制で、どうやるのかとなれば名案はなかった。「さをり織り」を15年ほど前に作業の一つとして取り
入れ、10数年前からアクティビティ活動が始まった。絵画教室が最初に始まり、続いてリトミック、エアロ
ビクスと広がった。講師はエアロビクス以外は、名寄市内の旧知の方だった。週一回の活動で、予算はそれ
ぞれ年間24万円(1回5千円)だという。絵画教室、リトミックは何回か見せていただいているが、非常に
効果的である。それぞれ、十数名のメンバーが参加しているが、日中の他の活動では見られないエネルギー
をこの活動に注ぐメンバーの方も多くいた。絵画教室の作品は、展覧会を開催したり、絵葉書を制作するな
どして、地域の方々にも紹介している。講師の名寄在住で本学の短大部・児童学科の非常勤講師も務める棚
橋麗子先生は長くメンバーを見続けており、画材を工夫し、指導するのではなく、引き出すように、適切な
声かけをしながら制作を励ましている。北海道知的障がい施設協会主催の「北海道知的障がい芸術祭・みん
なあーと2001」に応募した際には、学園のメンバーが主要3賞を独占している。このような活動を地域の方
の助けを得て、行なうことの意義はとても大きいものがある。最近の私の研究テーマとして「障害者アート」
があるが、学園でとりくんでいる「さをり織り」を含め、このような実践の刺激によるところが大きい。そ
の後私は、障害者アートにとりくむ道内外の施設を訪問しては、その実践について聞き取りをし、また、そ
こから生まれた作品を撮影し、授業や卒業研究に生かしている。このことと関連して、さをり織りをテーマ
に知的障害者更生施設清水沢学園の実践をとりあげた小論を一編書いている。また、社会福祉学科に移って
後のことであるが、障害者アートについての学習、研究は、学生の卒業研究にも生かされている。これまで
3名の学生が「さをり織り」をはじめとする障害者アートをテーマに選び、卒業研究にとりくんでいる。
この30年近くの間に、このように多くの学び合いが、地域の方々との間で行われてきた。免許、資格のこ
とを含め、児童専攻のカリキュラムがまだ充実していなかった頃、別な言い方をすれば、過密でなかった頃、
そのマイナス分を補うが如く、様々な活動を学生とともにした。そこで学べたことは、少なくなかった。し
かし、免許、資格が付与され、2年間で100単位を超す単位を習得せざるをえなくなり、学生と教員の多忙
化は進んだ。そのような中で、初期のような活発な地域活動は、教師も学生も徐々に困難になってきた。
地域連携と学生支援を考える
地域連携、地域の機関、施設、団体、個人と繋がりながら協働する、あるいは協力し合うことは、地域の
教育や福祉の質を向上させるのだと思う。それは、1+1が2以上の力を発揮していくことにつながる。と
ころで、そのような連携を作るためには何が必要なのだろうか。
ひとつは、必要なことをみつける努力をたえず行うことだと思う。このような学びのために、どのような
場があるか、何が必要か。たとえば、私が、地域で学ぶということを学生と考えた時に、地域にどのような
機関、施設、団体、個人がいるかということを紹介してもらったり調べたりして、訪ねそれぞれの方々と話
しこんだ。それを行なう上で、新参者の人間には、その地域の情報を多く持っていて関係者をよく知ってい
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名寄市立大学 道北地域研究所 年報 第30号(2012)
る、いわばキーマンというべき人の助けを得ることが重要なのだと思う。私の場合は、福光さん、芦沢雅子
先生、そしてここには書けなかったが、長くこの地域の特殊学級(特別支援学級)の教師を務めた鷲巣俊誠先
生、佐藤喜代枝先生だったように思う。地域のこと、子どものこと、家族のこと、ことあるごとにお話を聞
かせていただいた。
2点目としては、一方的に援助を得るのではなく、こちらが手助けできることは応える努力をするという
ことだと思う。ただ、これは、自己の状況、学生の修学に関わる状況を無視して行うわけにはいかないとい
うことである。カリキュラムが過密化し、無理が生じることもあり、そのことをしっかり見ることは、重要
である。
3点目には、その準備も含め、状況を見て調整していくことの大切さがあげられる。取り組む中で問題も
生れてくる、その関わる施設、団体との調整も大事になる。そのためにも、前提になる人的関係をしっかり
作ることは、もちろん重要である。もし、目標を持った長期にわたる協働活動を行うのであれば、学習を大
事にした推進組織を作り継続的な活動を進めることも必要になる。89年から98年まであった推進組織、
「障害者に関する名寄市行動計画推進委員会」や下川町で21年前に生まれ、親の会から地域の方々を含むノ
ーマライゼーション推進の団体となった下川障害児自立支援の会「めだか」が、その一つの例となるように
思われる。
4点目には、学生に関わりを持つなら、学生の
主体性を大事にするということである。学生の主
体性をそこなう活動は、学生には無益だし、学生
に心的ダメージを与えることにつながる。「芽が
出ようとするのを待つ。いじればこわれてしまう
から」。私の尊敬する「さをり織り」の創始者、
城みさを氏の言葉である。4年前に大阪にうかが
った折に私のために書いてくれた書の一枚にこの
言葉を書いていただいた。4時間にわたる話の中
で、繰り返し話されたのが、教えるのではなく、
引き出すことの大切さだった。注入してはだめ、
その人の持っているものを引き出すことだと。私自身、大事にしたいと思ってきたことであるが、我知らず、
踏み外すこともある。それは、私のみならず、そういう姿を幾度となく、見てきていることでもある。
地域貢献するために大学があるわけではない。大学は、あくまでも学生の学びと成長に貢献することが第
一である。そのために足かせになるのなら、そのようなことにエネルギーを費やし、疲弊を招くのは、考え
ものである。あくまでも、それが学生の学びになる、学生の成長につながるということがなければならない。
地域に関ることが、学生を成長させる、あるいは、教員を成長させる、教育の質を高めていく、地域とつな
がることによって学生に得るものがあって、同時に地域にも貢献するという内容が求められるのだと思う。
そこに学校があること、施設や団体があり、人々がいるということの意味は、とても大きいと思う。それ
らのものがあることは、そこにつながる人がいるということである。人がいると人と人との出会いがあり、
そこに学びが生まれる。教師には教えられないこと、教師にはできない心的交流を可能にしてくれる。学生
とともに30年以上過ごしてきて、そういう幸せな光景をたくさん見てきている。そして、時に、学び合った
人々が協働のとりくみを始める、あるいは、それぞれの活動へ支援し合うという関係が生まれる。学びも連
携も一方的関係ではなく、「ともに」の関係なのだと思う。
私自身、老いて、もはやすでにここに書き記してきたことは、行いえないことである。それにもかかわら
ず書き連ねたのは、これも老いのせいかもしれないが、かつて児童専攻の開設とともに働き、今残る唯一の
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学生とともに地域で学んできたこと(2) −児童専攻、サークル、地域実践のこと−
老兵としてその記憶を文字に残して置きたいと思ったからである。
参考資料
名寄女子短期大学 82年度〜89年度 「新しい家政学をつくる ―名寄女子短期大学この一年―」
市立名寄短期大学 90年度〜96年度 「市立名寄短期大学この一年」
市立名寄短期大学 「地域に開かれた大学をめざして ―市立名寄短期大学児童専攻の試み」1990
市立名寄短期大学生活科学科児童専攻 「たくましく そして しなやかに」1994
市立名寄短期大学40周年記念事業委員会・市立名寄短期大学同窓会 「写真でつづる市立名寄短期大学40年のあゆみ」 2000
小出まみ「名寄発信のカナダの子育て研究」市立名寄短期大学道北地域研究所『地域と住民』14号.1996
名寄女子短期大学子ども会サークル 「子ども会の思いで」1988
名寄女子短期大学・市立名寄短期大学 各年度 児童専攻・清野ゼミ集録
名寄障害者地域福祉研究会 『ともに生きるまちづくりをめざして』1988
障害者に関する名寄市行動計画推進委員会 障害者の日記念事業・名寄ふれあい広場89記念誌『ともに生きる』1989
障害者に関する名寄市行動計画推進委員会 「国連・障害者の10年」最終年記念誌『ともに生きる』1993
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