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着物を分けるイエスとタビタの奉仕 - めぐみルーテル福音キリスト教会
着物を分けるイエスとタビタの奉仕 使徒行伝 9 章 36 から 42 節 2012/8/5 聖霊降臨節第 10 主日 説教者:芳賀弥男 私がプエルトリコの友人を訪ねに行った時のことでした。友人とビーチで遊び、汗と砂だらけのTシャツと海水パンツという格好のまま、近く のホテルのカジノに行こうとしました。すると、入口にいた黒人のボディーガードに止められて「もうしわけありませんが、こちらのカジノは正装 したお客様でないとご利用できません」と断られました。 実は天国に入る時にも、正装があります。その決められた格好をしていない人は入 国できません。天国に入るための着物とはどんなものでしょうか。 9:36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。 9:37 ところが、そ のころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。 9:38 ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロが そこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。 9:39 そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。 ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれ た下着や上着の数々を見せるのであった。 9:40 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タ ビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。 9:41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そし て聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。 9:42 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。 タビタと言う女性 め じか タビタと言う女性の名前の意味はヘブライ語で「あわれみ深い女性」であり、彼女はユダヤ人でした。彼女は「雌鹿」言う意味のドルカスとい うギリシア名も持っていました。ドルカスと言う名は、今日のキリスト教会の婦人集会や婦人委員会の名前で用いられるほどに有名で、それ らはたいてい、貧しい者のために衣服や施しを集めたり、裁縫したりする女性たちの組織です。 彼女がどのような人物であったかは、彼女が死んだ時の様子で分かります。彼女の遺体は丁重に扱われていました。彼女の遺体の周りに 集りには、金持ちや有名人ではなく、当時もっとも貧しい階級である「やもめ」たちが集まっていました。そして、そのやめたちは泣いており、タ ビタが作ってくれた下着や上着の数々をペテロに見せたのです。 何と言うことでしょうか。今日の日本では特別な非常事態を除き、下着や上着が買えない、持っていないというような人はほとんどいませ ん。しかし、この時代、やもめたちの貧しさは、私たちの想像を絶するものでした。イエスが神殿の献金箱の前に座って、人々が献金箱に献 金を投げ入れているのをご覧になっている時に、貧しいやもめが全財産を投げ入れたのを見ました。その全財産とはレプタ銅貨2枚です。今 の日本円にすると約150円くらいです。しかし、このやもめは、全てを神に信頼していたことをイエスは知っていました。(ルカ21章1-4節) また、 使徒行伝の6章には、教会でやもめたちが毎日の食料配給を受けていたと記されています。(使徒6章1-3節) 社会でもっとも弱い立場はや もめ(未亡人)でしたが、クリスチャンのやもめはさらにひどい扱いを受けていたのです。タビタはそのような人と友達であっただけではなく、彼 女たちに同情し、彼女ができる方法と才能で助けていたのです。 特にこのヨッパと言う町は、地中海の沿岸に面した町でした。おそらく、漁 業や航海の事故で夫を失った女性がたくさんいたのかもしれません。当時の航海は今よりもはるかに危険だったのです。もしかしたら、タビ タもやもめの一人だったかもしれません。このタビタの愛の精神、惜しみのない隣人愛はどこから来るのでしょうか。なぜ、彼女は着物を作っ て分けてあげていたのだと思いますか? イエスがタビタに着物を作り、与えた 実は、タビタはイエスから物凄く豪華で、この世ではもらえないような着物いただきました。タビタもやもめたちのように神の御前でものすごく 汚く、貧しい存在でした。「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、この葉のように 枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹きあげます。」(イザヤ64章6節) このような汚く、悪臭を放つ罪の着物をまとっている者をレストラ ンやカジノは入れたくありません。なおさら聖なる天国に入ることは許されません。しかし、花婿が花嫁に純白なウェディングドレスを着せるよ うに、ご自分の義の衣を私たちにまとわせてくださいました。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜 ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イ ザヤ61章10節) 「ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。 3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言 った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」」 (ゼカリヤ3章3,4節) 旧約聖書の時代、自分の着ている上着を相手に着させる行為は、自分の全てを与えることの象徴でした。ヨナタン王子は自分の着物をダ ビデにあげることで、ダビデを自分自身のように愛している証しとしました。(1サムエル18章1-4節) 主はこのような幻、出来事や表現を通し て、ご自分のいのち、天国の住まい、永遠のいのちが私たちのものであると強調しているのです。 また、私たちも汚れた着物は洗濯します。汚れは洗剤によって落ちますが、完全にきれいになるわけではありません。しかし、私たちの主 はご自分の聖なる血によって私たちの罪に汚れた衣を完全に清めてくださいました。「「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その 衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」(黙示録7章14節) タビタはイエスがこんな罪深く、みじめな自分に目を留めてくださったことを感謝いたしました。自分の罪の全てが、イエスの犠牲によって清 められたことを感謝していました。彼女イエスが自分の罪深い着物を脱がせてご自分が着て全てを失ったこと、ご自分の聖なる衣を罪深い 自分に着せてくださった愛と恵みを知っていました。イエス・キリストが完全な自己犠牲によってご自分の全てをタビタにくださったことを感謝 していました。そして、そのキリストの愛とめぐみはタビタだけのものではなく、全ての人間の者であることも知っていました。ですから、彼女 は主イエスに感謝し、仕えたかったのです。彼女は会ったこともない、イエスにどのように彼女の感謝と愛と喜びをもって仕えることができま すか? 小さなものに仕えることはイエスに仕えること それはちょうど、イエスが終わりの日のことについて弟子たちに教えた時、裁きにおいて天国に入る人の特徴を述べました。その人はイエ スに次のようなことをする人です。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに 飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、 わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』」(マタイ25章25,36節) 今から2000年前のイスラエルの地方の人ならば、イエス に着る物を与えたり、香油を塗ったり、仕えたりすることができたでしょう。しかし、今日の私たちはそのようなことができません。タビタもイエ スに上等な着物を縫って差し上げることができませんでした。 しかし、イエスは言われました。「『まことに、あなたがたに告げます。あなたが たが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25章40節) つまり、私たちが 周りにいる小さな者、子供、困っている人、助けを必要としている人に、イエスに仕えるがごとくに仕えるならば、イエスはそれをご自分に仕え ることと同じだと認めてくださると言うのです。実際に、イエスは真の神ですので、私たちがそのような援助をイエスに与える必要がありませ ん。 イエスは「わたしに仕えたいならば、小さなものに同じことをしなさい」と命じているのです。これがタビタの行なった動機と奉仕の内容な のです。 私たちはタビタと同じように、主への感謝を持っていますか? 自分のことばかりではなく、主に仕えたいという動機だけがあなたの ガソリンでしょうか。あなたはタビタのように自分にできることで主と隣人に仕えていますか? かえって私たちは見返りや報酬を期待し、得す ることを積極的に行い、損になることをせず、困っている人を助けようともしないのです。私も夏はよく汗をかくのでしょっちゅうシャツを取り換 えます。同様に、罪の着物を脱ぎ捨て、神の義の衣を着せていただきましょう!! 「ドルカス基金」「ドルカス会」という組織を作り、困っている人に手を差し伸べること、愛を示すことは良いことです。しかし、ただ衣服を与え るだけでは、真の愛ではありません。全ての人はタビタと同じく罪人です。汚れた衣、古くなった着物はゴミに捨てるように、罪人は天国に入 れないどころか、永遠の地獄の中に投げ入れられます。真の神から救いの衣、義の着物、聖なる着物がプレゼントされていることを紹介する ことこそ、相手に対する真の愛です。その人が天国に入る時に、義の衣をいただいたことを一番の喜びとするでしょう。ちょうどイザヤ61章10 節に「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。」と、義の衣をいただいたことの喜びを表現している とおりです。タビタの信仰と神への愛は、最終的にヨッパの多くの人々に救いの着物を分け与える機会となりました。 私たちは目に見えませんが、イエスからこの救いの着物をいただいていることをまず喜び、主に感謝しましょう。決してこの着物を不信仰に よって脱いではいけません。そうすると、カジノに入れなかった私のように、天国に決して入れません。あなたはタビタのように裁縫が得意で はないかもしれません。しかし、イエス・キリストによってもたらされた救いの恵みを分け合うことは、自分に与えられた才能と賜物に従ってで きるのです。アーメン