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礎 - 金城学院大学
礎 金城学院宗教総主事・大学宗教主事 小 室 尚 子 テモテへの手紙二 2 章19節 しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の 者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべ きである」と刻まれています。 今週「秋の伝道週間」は、校歌制定100周年を記念して、礼拝では、とくに「校 歌」を取り上げています。大学では校歌を歌う時があまりありませんが、この 機会にぜひ校歌を覚えていただきたいですし、その意味を味わっていただきた いと思います。 あらためて校歌の歌詞をみてみましょう。 「いしずえ」とは、建物の土台。 「い き み わお」とは、大きな岩、決して揺るがない礎を意味します。 「聖主」は、イエス・ キリストのことです。イエス・キリストを土台として建てられた金城学院で育 つ私たちは、様々な試練もありましょうが、イエスさまから生命の水や恵みを いただいて、愛する心、信じる心を持って成長し、その成果を神にささげます、 という内容です。実は、今年度の学院聖句標語の聖句も、校歌100周年という こともあって選ばれたのです。 校歌は、金城学院という学校の礎を歌い出しにしていますが、人間の礎につ いても言おうとしているのだと思います。今日はそちらを考えたいと思いま す。 礎について、建物を見ますならば、土台というものは目に見えませんが、そ れが無くては、建物は立ってはいられません。神戸や東日本の震災以来、とく に人々は耐震ということに関心を持つようになりました。そして誰もが倒れな い家を持つこと、そのような建物に住むことを望んでいます。そのために土台 は堅固であればあるほど安心でしょう。そしてその土台の上に、適切に家が建 てられてこそ、土台も生きるし、家も生きるのです。そんなことは誰でも知っ ているはずですのに、なぜ、今、世間を騒がせているような事をしてしまう人 が出るのでしょう。データを流用したり、改ざんしてマンションの土台の手抜 き工事をしていた人達の人間としての土台はどうなっているのでしょうか。 「土台」と言うと、人は建物の土台のことばかりに目を向けてしまいますが、 ― 93 ― 建物と同じように私たちも人として立つためには土台が必要だと思います。今 問題になっている人達も、おそらく普段は、人としての自分はしっかりしてい ると思っていたのではないかと思うのです。でも何かが彼らを揺るがして(会 社の利益のため?自分の利益のため?)データを改ざんしても良い、と思わせ てしまったのでしょう。他の多くの人々の生活や命を危険にさらすことである にも関わらずです。これは「畏れ」を知らない行為です。皆がこのような事を 平気でし始めたら世界はどうなってしまうでしょうか。「畏れ」を知らない世 界は、危険な世界です。皆さんは、自分の中に畏れをもっていますか? 金城 学院は「主を畏れる事は知恵のはじめ」というスクールモットーを持っていま す。人の「礎」と「主を畏れる」とは深く関係しているのです。 旧約聖書の中にこういう話があります。紀元前1千年よりもっと前のことで す。イスラエルの人々はエジプトに長い間寄留していました。イスラエル人が どんどん増えていくのに脅威を抱いたエジプト王は、ついに、イスラエル人に 男の子が生まれたら直ちに殺してしまうようにイスラエル人の助産婦達に命じ ます。しかし彼女達はその命令に従いませんでした。彼女達がファラオの命令 に従わなかった理由は、「助産婦たちは神を畏れていたので」(出エ 1 :17)と いう言葉がはっきりと物語っています。 神は目に見えません。エジプト王のように権威を誇る宮殿に住んだり、戦車 や軍隊を持っているわけでもありません。政治的にも経済的にも権力を持ちま せん。しかし彼女達はそんなものに左右されませんでした。彼女たちだって王 様が恐くなかったはずがありません。でも助産婦達は、勇敢にも、自分達が 知っている、より高い道徳律に従って行動したのです。王の命令通りに男の子 を殺すことは神の御心に反すると確信していました。王を畏れる以上に、神を 畏れたのです。なぜなら王の命も自分達の命も、すべてを司るのは、神である 事を信じていたからです。たとえ自分達が不利になろうとも、命が危険にさら されようと、畏れるべき方を信じていれば何も恐くはない事を知っていたから です。彼女達は動じませんでした。 「神を畏れる」ことが「礎を神に据えている」ということです。 皆さんには、神が、イエス・キリストという堅固な礎を据えてくださってい ます。その土台の上に神の恵みを受けながら自分の家(つまり自分自身)を建 てあげていくのです。材料を何にするか、それは皆さんの自由です。でも建て るからには、自分の仕事が残るようにしっかり建てなさい(神を愛し、人を愛 する教えの許で、社会に貢献するように)、と校歌は歌っているのです。 大学での時間は、いただいた土台の上に家を建てる準備をする時間だとも言 ― 94 ― えるでしょう。そのためには土台であるイエス・キリストの言葉を聞きながら 歩むということが大切です。その中心は、「礼拝」です。神に向き合い、御言 葉を聞く姿勢を欠いていては、堅固な家は建ちません。人は、外見に目を向け ますから人の目はごまかすことが出来ます。が、神はその人の真実を見られる のです。その神の前でいつも自分を吟味し、自分の姿勢を正すことが必要で しょう。 神からいただいた土台を失って倒れてしまわないように、その上に決して揺 るがない自分自身を建てることができるように、この学校で、神に目を向けて いただきたいと願います。土台をすえ、守り導こうとされる神に、ここで出会 い、神を畏れることを知ることが出来ますように、祈ります。 2015年11月 4 日 朝の礼拝 ― 95 ―