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2016年2月14日礼拝メッセージ 「宣教の本質」 マルコ5:1-20、ヤコブ
2016年2月14日礼拝メッセージ 「宣教の本質」 マルコ5:1-20、ヤコブ2:19、士師記9:23 序論: 先週の木曜日、しげさんと一緒にサマリヤ会の木曜礼拝に出席しました。出席 者 は10名ほど、なかなか強烈な雰囲気で、最初数曲を賛美しておられたのですが、みなさ ん曲を知らないのか司会の高島さんがほぼ独唱しながら、4曲ほどを続けざまに歌ってい くのです。しかも結構リズミカルな曲をアカペラで淡々と歌っていく。これはなかなかで きない芸当で、この1点だけでも、高島さんには尊敬の念を覚えます。しかも私の記憶の 範囲ではこの集会を最低5年以上は続けておられるのです。 さて、しげさんの番です。ハ ーモニカとギターが入り、皆さんの歌も少しだけうめき声のように入ってき始めます。し かし、証しの展開から、最後は千昌夫の「星影のワルツ」を歌うと言うことになりました。 するとそれまでうめいていたみなさんがある意味、熱唱するではありませんか。歌謡曲も 主からの愛の表明と考えれば、賛美になるのであると思い、目が開かれましたね。 「今で ーも ー、好きなんだー、死ぬほーどーに―」その良い雰囲気の中で私もメッセージをさせ ていただきました。それが今日の箇所です。 Ⅰ.教会はいいところ? 私はかつて、よく「伝道」した方だと思います。田舎伝道、デパ ート伝道、道草伝道、誘拐伝道、路傍伝道、プール伝道、当時一緒にいた人たちはよく御 存じでしょう。伝道メッセージも良くしました。説教学では当時の生徒の皆さん を徹底的 に批判させていただき、谷底に突き落とし、這い上がって来た者だけがメッセージ出来る と言う ICBC の恐るべき伝統の一端も担わせていただきました。 当時の伝道を考えるとイ エスを信じること、も当然ありましたが 、「教会にとに かく来て下さい」というメッセー ジが主体でした。もちろん教会はいいところでした。同じ年頃の仲間がいました、牧師が 相手をしてくれました、聖書も教えてもらえました。また特に私にはそれまで見たことも ない宣教師の奥さんによる外国の食事がおいしかったのでした。教会は確かにいいところ でしたねえ。でも教会という建物がなくても伝道、宣教はできるはずです。人を主イエス の所に連れて行くことは教会堂がなくとも可能です。 Ⅱ.イエス、墓場に伝道しに行く主イエスは教会(当時は神殿でしょうか)そういうとこ ろにも行きました。しかし、その宣教活動のほとんどが、町中、知人の家、丘、湖のほと りなどでした。そして今日の箇所ではこともあろうに墓場に行っています。なぜ?この一 人の悪霊につかれた男に会うためにです。後の箇所を読んでもそれ以外の人とは会わずに 帰って行ったようなので、まさにこの男のためだけに行ったと言ってもいいでしょう。私 も一人の人に会いに行ったことはありますが、さすがに 墓場には行ったことはありません。 しかし主はこの地上にお生まれになったという時点で、天からこの世という墓場に来てく ださったのです。なんと感謝な ことでしょうか。 Ⅲ.テラーリスト、イエス!? さて、イエスはこの悪霊付きの男から悪霊を追い出しました。 すると悪霊たちは豚に乗り移り、2000頭もの豚が湖に飛び込んでしまいました。もち ろん村人たちにとっては大損害、イエスという男は何ということをしてくれたのだ、と憤 慨する一方、恐れを抱きます。村ではおそらく有名だったであろう悪霊付きの男が正気に もどって座っていたからです。テロリストは人の命を奪う恐怖主義者ですが、イエスは人 に人生を取り戻させて、周りの人々を驚愕させたテラー(脅威)リストだったと行っても いいのではないでしょうか。 Ⅳ.元悪霊付き、おきざりにされる悪霊付きの男は正気にもどり、何もわからなかったと は思いますが、自分が原 因で村人に損害を与えているということではそこに、いにくかっ たかもしれないし、自分をいやしてくれたイエスについて行ければ安心できたかもしれず、 ついて行きたいと言いました。しかしイエスは彼についてくることを許さず、残って証し しなさい、と言いました。それにしても、彼に対してメンタリングもコーチングもカウン セリングも弟子訓練もせず、ある意味置き去りにするとはすごい勇気です。それでも主は 決して彼を忘れた訳ではなく、しっかりと覚えており、しばらくたってから戻ってくるの でした。私たちも主から見捨てられているように感じるときがあるかもしれません。しか し、主は何か意図があってそうされているのです。決して見捨てられてはいないのです。 Ⅴ.イエスの信仰を考えるさてこの男の信じたばかりの信仰もすばらしいのですが、この ような男をおきざりにするという思い切った行動をする主イエスにはもっとすごい信仰が あったと言えるのではないでしょうか。主はこの男だけでなく。私たちのことをも信じて くださっているのです。 結論: 宣教の本質は愛です。教会はいいところだよ、と言って連れてくる。コンサートを して、人々を楽しませる。それもいいでしょう。しかし、あなたが主の愛を知り、実感し、 どれほど感動しているか、喜んでいるか。これがカギなのです。これは私の見解ですが、 大きな伝道集会やイベント、有名な説教者、海外での奇跡的な働き、これらを活用して人 を集める。これもありでしょう。しかし、大体においてコストがかかります。 それ以上に、 私たち一人ひとりが、この悪霊につかれていた人、のように主がどんな大きなことをして 下さったかを知らせていくならば、宣教は進んでいくのです。そこには大げさな言葉も、 豪華な賛美も、感動的な説教者も全く必要 ありません。今主の愛を喜んでいるあなたが立 っているだけでいいのです。大きい声で叫ばなくても、むしろ飄々と、しなやかに生きる 皆さんこそ宣教の鍵、担い手なのです。感謝しましょう。