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東海道中百物語 東海道中百物語

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東海道中百物語 東海道中百物語
美女をさして「精奇水」…目薬
目薬のお話
安政 6 年(1859 年)、ヘボンの来日後、まもなく米
、ヘボンの来日後、まもなく米
宣教医デュアン・Bシモンズが来日、宗興寺を宿舎
ュアン・Bシモンズが来日、宗興寺を宿舎
とした。シモンズはその後、明治初年になって横浜
市立大学医学部の前身、十全医院で多数の外科手術
を行い、子弟を教育した。また「虫下しセメン円
虫下しセメン円」
でも有名である。
岸田吟香(きしだぎんこう)は、元治元年(
は、元治元年(1864
年)4 月に眼を病み、宗興寺(そうこうじ
そうこうじ)の施療所
でヘボンの治療を受けた。それがきっかけで助手と
なり、「和英語林集成」 の出版を手伝うことにな
った。
岸田吟香がヘボンから製法を伝授された 精奇水
(せいきすい)を売り出したのは、慶応
を売り出したのは、慶応 2 年(1866 年)
のことであった。その後、銀座2丁目で「煉瓦石
銀座2丁目で「煉瓦石
屋」の店舗を設け、本格的に販売するようになる。
これが楽善屋である。
西南戦争に出征した兵士の間で、美人を指して
、美人を指して
「目の薬 だ」と叫ぶ隠し言葉が流行しているとい
が流行しているとい
う話がある。精奇水がいかに広く普及していたかが
わかる。
吟香は上海にも支店を設け、外国からの注文も多
かったという。画家の岸田劉生(きしだりゅうせい
きしだりゅうせい)
は彼の 4 男である。
アメリカ艦載カッターを上回る日本
日本の「押送船」
洲崎大神のすぐ下は海で、そこに船着場があっ
た。神奈川湊は背後に風を防ぐ山があり、水深も比
較的深い入江で14世紀末頃から品川、六浦と並ぶ
物資の集積場として繁栄した。
横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈
川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡
船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られ
た。
この渡船には、帆走・漕走併用の小型の高速船
「押送船」(おしおくりぶね)が使われた。高速航
が使われた。高速航
行を行うために、細長い船体と鋭くとがった船首を
持つのが特徴である。全長 11.7m、幅
、幅 2.5m、深さ
0.9m の船体で、3 本の着脱式のマストと 7 丁の艪を
備えていた。
一般の帆走船は艪を使用するのは無風時に限られ
るのに対し、押送船では常に艪も使って漕走した。
押送船は、その高速性能を買われて、浦賀奉行所な
どの警備船としても使用された。
黒船来航時にも警備に出動し、アメリカ艦の艦載
カッターを上回る高速性能を発揮した。
伊藤博文のベッドで
のベッドで生涯を終えた女性
開港当時、良泉寺住職は、諸外国の領事館に充て
られることを快(こころ
こころ)よしとしないことから、本
堂の屋根をはがし修理中であるとして幕府の命令を
断ったといわれる。
この寺に田中平八が眠っている。田中平八は、天
保 5 年(1834 年)、信州赤穂生まれ。
、信州赤穂生まれ。25 歳頃横浜で
商売をするようになり、困難に何度も遭遇するも、
信州から生糸を仕入れて輸出することに成功する。
横浜南仲通に「糸屋」の商号で店を構え、両替商と
生糸・茶などの輸出で成功し、「糸屋の平八」「糸
平」として世に知られた。伊藤博文からは「天下の
糸平」と呼ばれる程であった。
お倉は、江戸生まれ。幼くして家族が離散し、そ
の後も苦労の日々だった。明治 4 年に田中平八から
資金を得て、横浜に料亭(待合)富貴楼を開いた。
ここには、田中平八や大久保利通・伊藤博文・井上
馨ら明治の元勲が出入りした。日本独特の料亭政治
の流れを作ったとも言われている。
お倉は大官を手玉にとったと、横浜にいながら、
東京の花柳国を属国扱いにしていると噂された。出
張の役人などは横浜に上陸してまず富貴楼に行き、
そこで東京の情報を聞いて、それから東京に行くの
が当時の慣例のようになっていた。ともかくも途方
もない器量と気っ風の持
もない器量と気っ風の持ち主。いい女だったとい
う。
お倉は大磯の招仙閣に避暑のため逗留中、脳溢血
(のういっけつ)に襲われ
に襲われ 73 才の生涯を終えた。前
年に凶弾に倒れた伊藤博文愛用のベッドだったとい
う。
この物語は、NPO 法人神奈川東海道ウォークガイドの会様のご協力により作成しています。
東海道中百物語
∼神奈川
∼神奈川宿∼
平成 27 年 11 月
神
奈
川
県
せんべい屋がうなぎ屋になったワケ
になったワケ
「亀の甲せんべい」は神奈川宿の浦島伝説にあや
かって亀の甲羅の形状にしたお菓子で、享保 2 年
(1717 年)に「若菜屋」が売り出した。文化年代 7
年(1810 年)若菜屋が初めて小麦粉に卵と砂糖を加
えた亀の甲せんべいを製造し、大奥や参勤交代のと
きに御用賜り、好評を博したとある。
街道を行き交う旅人が買い求めたのはもちろん、
参勤交代の諸大名の御用達にもなったものであるら
しい。「若菜屋」は平成元年(1989
1989 年)に閉店、
「浦志満」がその後を受けて「亀の甲せんべい」の
味を引き継いでいたが、これも平成 17 年(2005
年)に閉店した。
横浜関内駅近くに鰻の「わかな」という店があ
る。初代の主人は「若菜屋」の跡取りだったが、せ
んべい屋を継ぐのが嫌で家を飛び出し横浜に出たと
いう。創業は明治 5 年、初めは野毛で酒場、その
後、馬車道で牛鍋屋だったが、この人なかなかの勝
負好きで、ある時、賭場ですってんてんに
負好きで、ある時、賭場ですってんてんになった男
を拾って帰ってきて家に泊めたことがある。
この居候、腕のいいうなぎ職人だったため、腕を
貸してもらう条件で家に置いてやり、自分はうなぎ
屋路線にきりかえた。横浜は海を埋め立てて出来た
街、当時は、大きな調整池等があり天然うなぎがた
くさんいたという。「若菜」の名前はうなぎ屋とし
て残っている。
仲居さんのお龍、晩年の
の悲劇
料亭田中屋は、文久3年(1863 年))創業。田中屋の
前身は、歌川広重の浮世絵にも描かれていた桜屋。
昔は探訪絶景で欄干から釣り糸を垂らせたという。
伊藤博文ら明治の元勲や夏目漱石等数々の著名人に
も愛された。
お龍は、慶応3年(1867 年)に龍馬が暗殺された
に龍馬が暗殺された
後、下関、土佐、京都を経て、明治6年には東京築
地にいたが、明治 7 年ごろ自立の道を模索し、勝海
舟(又は菅野覚兵衛)の紹介で、神奈川宿の料亭・田
の紹介で、神奈川宿の料亭・田
中屋で住み込みの仲居として働いていた。
お龍は頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらい
もうまく、当時無数にいた仲居の中でも飛び抜けて
目立つ存在だった。月琴を奏で、外国語も堪能で、
物怖じしないまっすぐな性格、海外事情にも詳しく
話題も豊富で外国のお客様に評判だった。
明治8年、この料亭に遊びに来る客で、横須賀造
船所建設用の資材の回漕業をしている西村松兵衛と
回漕業をしている西村松兵衛と
意気投合し、西村ツルとして再婚、横須賀で世帯を
持った。しかし、夫の事業の失敗やお龍のアルコー
ル中毒等により幸福な晩年とはいかなかったよう
だ。更にお龍の妹、光枝が夫を亡くし転がり込んで
きて、その後、夫の松兵衛とともに晩年のお龍を残
し出て行ったという。享年67。墓は、横須賀大津
の真楽寺(しんぎょうじ)。
国際都市・
・横浜を支える台場
安政6年(1859 年)、幕府は黒船の来航に伴い、伊
、幕府は黒船の来航に伴い、伊
豫(いよ)松山藩に命じて勝海舟の設計で海防砲台を
松山藩に命じて勝海舟の設計で海防砲台を
構築した。当時の台場は総面積 26,000 平方メート
ル(約八千坪)の海に突き出た扇形で形が蝙蝠
ル(約八千坪)の海に突き出た扇形で形が蝙蝠(こ
うもり)に似ていることから「蝙蝠台場」と呼ばれ
に似ていることから「蝙蝠台場」と呼ばれ
た。
約7万両の費用と工期約1年を要し、万延元年
(1860 年)に竣工した。台場の石は真鶴から、土は権
に竣工した。台場の石は真鶴から、土は権
現山から人の肩によって運ばれたといわれる。この
作業の苦しさを謡(うた
うた)った俗謡(ぞくよう)に「死
んでしまおか お台場行こか 死ぬのがましかえ
土かつぎ」がある。
25 門の大砲を設置する計画であったが、実際には
14 門が据え付けられたという。10
門が据え付けられたという。
門は佐賀藩が作
成し、4門は松山藩が造った。前面(大砲の照準方
向)は、約 2.4km 離れた象の鼻に向いていた。
この台場は、実弾の発射はなかったが、開港場に
付随する施設としても利用
付随する施設としても利用された。諸外国の外交団
が来日した時や、外国の国王・大統領の誕生日など
に儀礼として祝砲を発射する施設となり、国際都市
横浜を支える重要な役割を果たしてきた。
明治32年2月廃止、大正10年頃から埋め立て
られ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。
河童のくれたされこうべ
のくれたされこうべ
昔、神奈川宿の権現山から一筋の滝が麓
昔、神奈川宿の権現山から一筋の滝が麓(ふもと)
の川に落ちていた。このことから川の名を「滝の
川」と呼んでいた。
滝つぼには数百年も生きている河童が住んでい
て、近くの東海道に出かけては旅人にいたずらをし
たり、馬から荷物を奪ったり、田畑を荒らしたりし
て馬子(まご)などを困らせていた。そこで宿場のは
などを困らせていた。そこで宿場のは
ずれに住んでいた剣術使いの浪人が河童退治に乗り
いた剣術使いの浪人が河童退治に乗り
出した。雨の降る夜、浪人が馬子
出した。雨の降る夜、浪人が馬子に変装して馬を引
き、東海道の滝の橋あたりにさしかかると、何者か
が馬の背中に飛びついた。メスの河童だったとい
う。
刀を抜き斬りかかろうとした浪人に、河童は驚き
命乞いをする。「私は滝つぼに住んでいる河童で
す。夫が大蛇に戦いを挑まれ命を落としました。二
人の子河童を育てるため悪いこととは知りながら、
食べ物などを盗んでいました。もう二度と悪さはい
たしませんので命ばかりはお助けください。」「助
けて頂けたら命の次に大切なものを差し上げま
す。」浪人は哀れに思い助けたという。
その後、浪人の家に死んだオス河童の頭蓋骨
その後、浪人の家に死んだオス河童の頭蓋骨(皿)
が投げ込まれ、以来河童は姿を見せなくなった。
投げ込まれ、以来河童は姿を見せなくなった。
その頭蓋骨(皿)は昭和のはじめまで三ツ沢の藤
巻家に保存されていたと伝えられている。
岡倉天心、さすがの切り替
替えし
浦島太郎が竜宮城から戻ったとき
横浜に伝わる話では「遠い昔、相模の国の三浦の
住人浦島太夫が公務で丹後の国に赴任、その地で子
供の太郎が 20 歳余りになった頃、助けた亀に連れ
られて竜宮城へ行き幸せに暮らしました。 年後に
られて竜宮城へ行き幸せに暮らしました。3
帰ってみると、
帰ってみると、300
年も過ぎており、父母も亡くな
っておりました。落胆した太郎は、人づてに両親の
墓が武蔵の国白幡の峰にあることを聞き、子安の浜
近くで墓所を探しました。墓を探す太郎に、乙姫は
墓のある丘の松の枝に明かりを照らし、そのありか
を教えました。その明りに導かれて丘に登り、墓の
近くに庵を結んで、両親の菩提を弔いました。」と
ある。
浦島太郎の父母は三浦半島の出身で、竜宮から帰
った太郎は、父母の眠る神奈川の地に竜宮から持ち
帰った観音菩薩を祀ったのだという。
太郎は両親の墓前に小堂を建てて竜宮から持ち帰
った玉手箱と観音菩薩を安置し、その後何処かへと
去っている。
この伝説の白幡の丘が今の浦島丘であり、太郎が
住んだ庵が後に帰国山浦島院観福寿寺
住んだ庵が後に帰国山浦島院観福寿寺(明治5(1872
(1872
年)廃寺
廃寺)という寺になったとされている。本尊は、
という寺になったとされている。本尊は、
浦島太郎が龍宮より持ち帰ったとされる「浦島観世
音」その左右に浦島大明神と亀化龍女神が鎮座して
いた。亀の形の石塔、「龍燈松」と呼ばれる巨大
いた。亀の形の石塔、「龍燈松」と呼ばれる巨大な
一本松があった。
神奈川の由来
「神奈川」は、鎌倉幕府の執権、北条時宗の発し
た文書の中にも記されている古い地名であるが、そ
の由来にはさまざまな言い伝えがある。
その一つとし て「江戸名所図会」の上無川の項に
その一つとして「江戸名所図会」の上無川の項に
は『神奈川本宿の中の町と西の町の間の道を横切っ
て流れる小溝で、水が少ししか流れておらず、水源
が定かでないため上無川という。この「カミナシガ
ワ」のミとシを略してカナガワというようになっ
た』という説が記してある。
上無川は、現在の神奈川小学校東脇にあったとさ
れているが、関東大震災後の復興計画により埋め立
てられ、今では川の姿を見ることはできない。
他には、日本武尊が東征の折、上無川から船に乗
った時、その宝剣が水面に映り、金色に輝いたので
“金川”と言うようになった。
また、源頼朝がこ の地の風光をめで、神大いに示
また、源頼朝がこの地の風光をめで、神大いに示
す地として、神大示川が「神奈川」となったなどが
ある。
神奈川通東公園は、長延寺が所在した場所であ
る。長延寺は、開港当時、オランダ領事館に充てら
れた。当時を偲(しの)ぶ狂歌の一節に「沖の黒船歴
ぶ狂歌の一節に「沖の黒船歴
史を変えてオランダ領事は長延寺」とある。昭和 40
年緑区に移転した。
岡倉天心の父、岡倉勘右衛門は福井藩の下級武士
だったが、藩が横浜に開いた商館「石川屋」の貿易
商となった。この地で岡倉天心は生まれた。岡倉天
心8歳のとき、母が急逝し、長延寺で葬儀が営まれ
た。父が再婚すると天心は長延寺に里子に出され、
住職の玄導和尚から「論語」「孟子」など漢学を叩
き込まれた。更に宣教師バラが開いた英語塾で英語
き込まれた。更に宣教師バラが開いた
も学んだ。また、東京開成所に入所し、政治学・理
財学を学ぶ。フェノロサの助手となり、その美術品
収集を手伝った。その後、東京美術学校の設立に貢
献し、のち日本美術院を創設した。近代日本におけ
る美術史学研究の開拓者であった。
明治 36 年(1903 年)、岡倉天心は、米国ボスト
)、岡倉天心は、米国ボスト
ン美術館からの招聘(しょうへい)を受け、横山大
を受け、横山大
観、菱田春草(ひしだしゅんそう)らの弟子を伴って
らの弟子を伴って
渡米。羽織・袴で一行が街の中を闊歩していた際
に、1 人の若い米国人から冷やかし半分の声をかけ
られた。「おまえたちは何ニーズ?
? チャイニーズ?
ジャパニーズ? それともジャワニーズ?」。そう言
それともジャワニーズ
われた岡倉は「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何
キーか? ヤンキーか? ドンキーか?
? モンキーか?」
と流暢な英語で言い返したという逸話が残る。
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