...

シベリ アのモンゴロイ ド系諸民族

by user

on
Category: Documents
21

views

Report

Comments

Transcript

シベリ アのモンゴロイ ド系諸民族
1.シ ベ リア の モ ン ゴ ロ イ ド系 諸 民 族
シ ベ リ ア 先 住 民 族 の 民 族 誌 に 関 す る研 究 は 既 に18世 紀 に ロ シ ア で 始 め ら れ て い る 。 例 え ば
ミル レ ル(G.F.M
ler)、
パ ラ ス(P.S.Pallas)、
ン ニ コ フ(S.P.Krasheninnikov)ら
ゲ オ ル ギ(J.G.Georgi)、
ク ラー シ ェ ニ
に よ っ て現 地 調 査 が 行 わ れ 、 す ぐれ た民 族 誌 が 多 数 出版
され る よ う に な っ た 。 当時 出版 され た民 族 誌 の最 大 の 特 徴 は 、 人 々 の生 活 や文 化 を こ とば で
記 述 す る だ け で な く、 図 像 表 現 を 多 用 し て 、 読 者 が 視 覚 的 に 具 体 的 な イ メ ー ジ を も て る よ う
工 夫 した 点 で あ っ た 。 当時 写 真術 は誕 生 し て い な い た め、 図像 表 現 とは い っ て も絵 画 や ス ケ
ッ チ で あ り、 そ れ を エ ッ チ ン グ や リ ト グ ラ フ に よ っ て 印 刷 し た も の で あ っ た 。 ま た 、 そ の 絵
も 、 当 時 の 描 画 法 を 反 映 し て お り、 必 ず し も正 確 で は な か っ た 。 例 え ば 、 シベ リ ア 住 民 の 多
く は 典 型 的 な 北 方 モ ン ゴ ロ イ ドで あ る に も か か わ ら ず 、 コ ー カ ソ イ ド的 な 顔 つ き で 表 現 さ れ
て い た り、 着 て い る 衣 服 、 帽 子 、 履 き物 な ど も ヨ ー ロ ッ パ 的 な 表 現 で 描 か れ る こ とが あ っ た 。
ま た 、 一 部 の 特 徴 を 筆 者 や 読 者 の イ メ ー ジ に 合 わ せ て 誇 張 し て い る 場 合 も見 ら れ た 。 し か し 、
必 ず し も 正 確 で は な く と も、 当 時 の ロ シ ア に お け る シ ベ リ ア 諸 民 族 の イ メ ー ジ が ど の よ う な
も の で あ っ た の か を 知 る に は 貴 重 な 資 料 と な っ た の で あ る(Platesi∼ix参
照)。
19世 紀 に は い る と 、 民 族 誌 の 記 述 に も 正 確 さ と 写 実 性 が 要 求 さ れ る よ う に な り、 写 真 の よ
う な 絵 が 民 族 誌 を 飾 る こ と に な る 。 例 え ば 、1850年
代 か ら1900年
代 の初 頭 に か けて 出 版 さ れ
た シ ュ レ ン ク(LvonSchrenck)の
ア ム ー ル 川 調 査 記 録(ReiseundForschungeninAmur
Landeinden
る い はObInorodtsakh.4rnurskogoKraia)に
,fahren1854-1856あ
は、 住 民
の 実 生 活 を活 写 した 見 事 な絵 が 多 数 収 録 さ れ て い る。 あ る い はそ の よ うな絵 画 の 方 が 特 徴 を
的 確 に 表 し、 余 分 な 情 報 を 削 除 し て い る こ と か ら 、 映 像 情 報 と し て は 写 真 よ りす ぐれ て い た
の か も し れ な い(Platesx∼xv)。
し か し 、19世 紀 末 期 よ り民 族 誌 資 料 に も写 真 が 導 入 さ れ 、
次 第 に そ れ が 映 像 情 報 と し て は 主 流 に な っ て い く。
シベ リア の諸 民 族 に関 す る 調 査 、 研 究 で写 真 が 初 め て、 本 格 的 に威 力 を発 揮 した の は 、 ア
メ リ カ と ロ シ ア の 共 同 で 行 わ れ た ジ ェ サ ッ プ 北 太 平 洋 調 査 で あ っ た 。 ボ ア ズ(F.Boaz)の
宰 で 始 ま っ た こ の 調 査 に は ロ シ ア 側 か ら ボ ゴ ラ ス(W.Bogorassあ
と ヨ ヘ リ ソ ン(W.Jochelsonあ
る い はV.1。Iokhel'son)が
主
る い はV.G.Bogoraz)
参 加 し、 そ れ ぞ れ チ ュ クチ 、 コ リ
ヤ ー ク 、 ユ カ ギ ー ル とい っ た 民 族 の調 査 に 当 た った 。 そ の 際 、 当 時 の最 新 鋭 機 器 とし て投 入
さ れ た の が 鑞 管 録 音 機 と写 真 機 で あ っ た 。 鑞 管 に は 住 民 が 語 っ た 言 語 資 料 や 、 演 じ た 音 楽 、
歌 な どが 収 録 され 、 ガ ラ ス乾 板 に は彼 らの 姿 が焼 き付 け られ た 。
ガ ラ ス 乾 板 に像 を 焼 き付 け る 当 時 の 写 真 術 で は 、 余 り動 き の あ る 構 図 は作 れ な い 。 例 え ば 、
1
21.シ
ベ リア の モ ン ゴ ロ イ ド系 諸 民 族
本 書 に収 録 さ れ る ヨヘ リソ ン の写 真 の ほ とん ど は、 木 枠 に 白い 布 で ス ク リー ン を つ く り、 そ
の 前 に被 写 体 とな る人 物 を立 たせ るか 座 らせ るか し て撮 影 した もの で あ る。 彼 は形 質 人 類 学
的 な 問 題 に特 に関 心 が 高 く、 そ の た め の 資 料 と して 人 物 を撮 っ て い た の で 、 人 物 写 真 に は特
に ス ク リー ン の 前 で撮 影 した もの が 多 い。 正 面 、 真 横 、 斜 め とい っ た 具 合 に基 本 に 忠 実 に人
物 を捉 え て は い るが 、 まわ りの風 景 が 入 らな い た め、 ど こで 撮 影 さ れ た の か が よ くわ か らな
い とい う欠 点 が あ る。 しか し、 まだ 伝 統 文 化 が 強 い力 を持 って い た 時代 で あ り、人 も物 もほ
とん ど ヨ ー ロ ッパ の影 響 を受 け て い な い状 態 で 写 し込 まれ て い る。 中 に は この 時代 を最 後 に
急速 に衰 え た もの もあ り、 そ の よ うな もの が写 され て い るだ けで も貴 重 な資 料 とい え る だ ろ
う。 例 え ば、 ユ カ ギ ー ル や エ ヴ ェ ン に み られ る、 金 属 や ビー ズ の飾 りをた っ ぷ り使 った 毛 皮
の コー トや 、 コ リヤ ー ク の犬 の供 犠 な どは今 日で は もは や ど こに も見 られ な い だ ろ う。
写 真 術 と写 真 機 は そ の後 急 速 に 発 達 し、 小 型 化 、 簡 便 化 が 図 られ 、 誰 で も扱 え る機 械 に な
っ た 。1920年 代 に な る とシベ リア の 民 族 調 査 で も写 真 機 は必 需 品 とな り、 数 多 くの 貴 重 な民
族 写 真 が 残 され た 。1920年 代 は また 、 ソ連 の 民 族 政 策 が 形 成 さ れ つ つ あ る 時代 で 、 実 地 調 査
が 盛 ん に行 わ れ 、そ の 中 で 写 真 は各 民 族 の 実 状 を写 し出 す 機 械 と して も注 目 され た 。Plates61
∼76に 示 す リプ ス カ ヤ(N .A.Lipskaia)と
リプ ス キー(A.N.Lipsk の
写 真 は そ の好 例
で あ る。 しか し、 そ の 後 、 機 械 は進 歩 した が 、 被 写 体 とな るべ き伝 統 文 化 の 方 が 急 速 に衰 退 、
消 滅 した こ とか ら、1920年 代 は ロ シ ア化 、 近 代 化 され る以 前 の シベ リア諸 民 族 の 文 化 を写 し
取 る こ とが で き る最 後 の時 代 とな って し ま った 。
先 史 モ ンゴ ロ イ ドプ ロ ジ ェ ク トの一 環 と して 今 回収 集 し て きた の は、 写 真 に よ る民 族 の 伝
統 文 化 の撮 影 、 保 存 が 行 わ れ て きた19世 紀 後 半 か ら1920年 代 に か け て の 時代 の 写 真 で、 全 て
サ ン ク ト ・ペ テ ル ブ ル ク(旧
レニ ン グ ラ ー ド)の 人 類 学 ・民 族 学博 物 館(人
究 所InstituteofAnthropologyandEthnologyも
併 設 され て い る)に 収 蔵 され て い る もの で
あ る。対 象 と な る 民 族 は ユ カ ギ ー ル(Yukagir)、
(Koryak)、
エ ヴ ェ ン キ(Evenki)、
類 学 ・民 族 学 研
エ ヴ ェ ン(Even)で
チ ュ ク チ(Chukchi)、
コ リヤ ー ク
、 い ず れ も東 北 シベ リア を代 表 す る
民 族 で あ る。 そ の 詳 細 に つ い て は後 で民 族 別 に解 説 を加 え るが 、 ユ カ ギ ー ル 、 チ ュ クチ 、 コ
リヤ ー ク は 古 ア ジア(Palaeo-Asiatic)諸
民 族 と呼 ばれ 、 ア メ リカ に進 出 した モ ンゴ ロイ ドの
系 統 を考 え る際 に形 質 的 に も文 化 的 に も重 要 な位 置 を 占 め る。 エ ヴ ェ ンキ とエ ヴ ェ ン は と も
に ツ ン グ ー ス(Tungus)系
の 民 族 で ユ カ ギ ー ル な どに比 べ れ ば シベ リア に進 出 した の は新 し
い とさ れ るが 、 現 在 の シベ リア の民 族 、 言 語 分 布 が 形 成 さ れ る上 で重 要 な 役 割 を演 じた 民 族
で あ る。 以 上5つ の民 族 は い ず れ も狩 猟 、 漁 撈 、 トナ カ イ飼 育 、海 獣 狩 猟 、植 物 採 集 な ど を 主
な生 業 と して い るが 、 居 住 地 と重 要 視 す る生 業 との 関 係 、 また そ の技 術 な どを詳 細 に研 究 す
れ ば、人 間 の 寒 冷 地 へ の文 化 的 な 適 応 に つ い て の知 見 が 得 られ る。つ ま り、 この5つ の 民 族 は
モ ン ゴ ロ イ ドの拡 散 、 自然 適 応 に 関 して 重 要 な 鍵 を握 る民 族 で あ る とい え る。
最 後 に 写 真 の保 存 状 況 に つ い て触 れ る。 写 真 はす べ て 印 画 紙 に プ リ ン トさ れ 、 厚 紙 の台 紙
に は られ た状 態 で 保 存 され て い る。1920年 代 の も の に は ネ ガ フ ィ ル ム も同 時 に残 され て い る
1.ユ カ ギー ル3
が 、 そ れ 以 前 の ガ ラ ス 乾 板 時 代 の もの につ い て は、 乾 板 が 残 され て い る もの の 方 が 少 な い。
個 々 の 写 真 に関 す る情 報 は、 細 か く台 帳 に記 載 さ れ て お り、 い つ 、 ど こで 、 誰 が 、 誰 を 、 い
か に して 撮 影 した か が わ か る よ う に は な っ て い る 。 ヨヘ リ ソ ンの 撮 影 した 写 真 の よ う に 、撮
影 者 以 外 は全 く情 報 が な い もの もあ る が 、 全 体 に写 真 資 料 に 限 らず 標 本 資 料 も、保 存 、 整 理
シ ス テ ム は よ く整 備 され て い る。 しか し、 同博 物 館 は建 物 を は じ め、 設 備 が余 りに も老 朽 化
し て お り(建 物 は18世 紀 の後 半 に建 て られ た歴 史 的 建 造 物 で あ る)保 存 環 境 の整 備 が 緊 急 の
課 題 で あ る。
また 、 旧 ソ連 で は写 真 機 と そ の周 辺 機 器 の整 備 が 非 常 に遅 れ て い る。 感 触 と して は1950年
代 以 後 ほ とん ど更 新 さ れ て こ なか っ た よ う で あ る。 例 え ば 、 カ メ ラ も1950年 代 に は最 先 端 で
あ っ た ろ う と思 わ れ る もの が 今 な お修 理 を重 ね て 使 わ れ て お り(そ れ 自体 は悪 い こ とで はな
い が)、 フ ィル ム も カ ラ ー フ ィル ム の 質 が 悪 く、市 中 に 出 回 っ て い る量 も少 な く、欧 米 の フ ィ
ル ム は高 い た め に現 在 で も調 査 の 際 に使 わ れ るの は 白黒 フ ィル ム が 主 流 で あ る。 しか も現 像
や 印 刷 の技 術 が 低 くプ リ ン トさ れ た も の もす ぐセ ピ ア 色 に変 色 し、 現 在 撮 られ て い る写 真 が
古 写 真 の よ う に見 え る こ とが あ る。 む しろ 、 当 時 と して は最 高 の機 器 と技術 と媒 材 で処 理 さ
れ て い た19世 紀 の写 真 の 方 が新 し く見 え る こ とさ え あ る。 今 日の ロ シ アの 経 済 的 な立 ち 後 れ
は そ の あ た りに も現 れ て い る よ うで あ る 。
1.ユ
カ ギ ー ル(Platesl-23)
ユ カ ギ ー ル は シベ リア の 最 も古 い 住 民 の 一 つ と考 え られ て い る。 彼 ら は17世 紀 まで は レ ナ
(Lena)川
か らア ナ デ ィル(Anadyr)川
にい た る北 東 シベ リア の 広 大 な範 囲 に居 住 して い た
こ とが 進 出 し て きた ロ シ ア コサ ッ ク(RussianCossack)の
報 告 で知 られ て い る。 また 、 地 名
や 周 辺 諸 民 族 との 言 語 的 関 係 か ら16世 紀 以 前 に は も っ と広 大 な地 域 を 占 め て い た 可 能 性 が 指
摘 さ れ て お り、 シ ベ リア の新 石 器 文 化 や ア メ リカ へ 移 住 した人 々 との 関 係 が 注 目 され る。 彼
ら は新 石 器 時 代 以 来 続 け て きた と考 え られ る河 川 漁 携 と森 で の狩 猟 に依 拠 した 生 活 を送 っ て
い た よ うで あ る。 そ して、 彼 らが 焚 く野 営 地 の 火 が あ ま り に も多 く、 夜 空 を輝 か した の で 、
新 た に シベ リア に移 住 して きた ヤ ク ー ト(Yakut;自
称 サ バSakha)は
北 の夜 空 に輝 くオ ー ロ
ラ を 「ユ カ ギ ー ル の 火 」 と呼 ぶ ほ どで あ っ た 。 しか し、 ロ シ ア帝 政 政 府 の支 配 や 商 品 経 済 の
浸 透 な どに よっ て シベ リア の 住 民 が新 た な政 治 的 、 経 済 的対 応 を迫 られ る よ う に な っ た17世
紀 以 降 に は 、 トナ カ イ飼 育 の 強 化 や 毛 皮 獣 狩 猟 に よ る現 金 収 入 の確 保 とい っ た 、 時 代 に即 応
した 経 済 基 盤 の 整 備 に遅 れ を と り、 ヤ ク ー ト、 エ ヴ ェ ン キ、 チ ュ ク チ とい っ た 周 辺 の民 族 に
次 々 と同化 され 、19世 紀 の 終 わ り に は コ リマ(Kolyma)川
とな っ て い た 。 現 在 彼 ら は公 式 に は人 口1,100人(1989年)ほ
の 中流 と下 流 にわ ず か に残 るだ け
ど とさ れ るが 、 固 有 言 語 を話 す
こ とが で き、 古 来 の 漁 法 、 猟 法 を知 っ て い るユ カ ギ ー ル はわ ず か に20人 ほ ど と もい わ れ る。
今 回 紹 介 す る写 真 は全 て ロ シ ア の 民 族 学 者 ヨヘ リ ソ ンが 撮 影 した もの で あ る。 彼 とユ カ ギ
ー ル(コ
リヤ ー ク)た ち との 出会 い は1885年 に コ リマ 川 流 域 の ス レー ドネ ・コ リム ス ク(Sred一
41.シ
ベ リア の モ ン ゴ ロ イ ド系 諸 民 族
nekolymsk)に
流 刑 に処 せ られ た こ と に始 ま るが 、本 格 的 に学 術 調 査 を始 め る の は10年 の 刑 期
を終 えた1895年 か らで あ る。彼 は そ れ か ら ロ シ ア地 理 学 協 会 の 依 頼 で2年 間 コ リヤ ー クの 言 語
調 査 に従 事 し、1898年 か ら は ボ ゴ ラズ と と も に ジ ェ サ ップ 北 太 平 洋 調 査 に加 わ っ て1902年 ま
で カ ム チ ャ ツ カ 半 島(Kamchatka)と
コ リマ川 流域 を 中 心 にユ カ ギ ー ル と コ リヤ ー ク 、 チ ュ ク
チ の 調 査 に従 事 し て い る。 また 、1908年 か ら11年 まで ア リ ュー シ ャ ン列 島(AleutianIslands)
で ア レ ウ ト(Aleut)の
調 査 も行 っ て い る。 ユ カ ギ ー ル に 関 す る彼 の研 究 は様 々 な論 文 とな っ
て発 表 され た が 、 最 終 的 に は彼 の代 表 作 の一 つ で あ るTheJukaghirandJukaghiyized
Tungus,TheJesupNorthPacificExpedition,MemoirsoftheAmericanMuseumofNatural
History,vol.IX,Leiden-NewYork(1926)と
して 結 実 した 。
こ こで 紹 介 す る写 真 に は撮 影 時期 に関 す る デ ー タが な い た め に正 確 な こ とは い えな い が 、
ユ カ ギ ー ル に 関 し て は1895∼97年 の コ リマ 川 で の 調 査 の 時 の もの が 含 まれ て い る 可 能 性 が あ
る 。 とい う の は、 一 部 が1890年 代 末 期 か ら1900年 代 初 期 に発 表 さ れ た論 文 に使 用 され て い る
か らで あ る。 恐 ら く地 理 学 協 会 は調 査 機 器 の一 つ とし て 写 真 機 を貸 与 した の で あ ろ う。 ま た 、
ジ ェ サ ッ プ の 調 査 で も写 真 機 は鑞 管 録 音 器 と と も に最 新 鋭 の 調 査 機 器 と し て使 わ れ て い る。
ヨヘ リ ソ ン は あ た か もそ の 後 の ソ連 民 族 学 の 限界 を予 知 した 如 く、 ソ連 を去 っ て い る。1922
年 の ア メ リカ へ の 出 張 を機 会 に ニ ュー ヨー ク に 居 を移 し、1937年 に そ こで 世 を去 っ た 。 した
が っ て 、 彼 の写 真 に関 す る ノ ー トはア メ リカ に残 さ れ て い る可 能 性 が あ る。
2.チ
ュ ク チ(Plates24-37)
チ ュ クチ は チ ュ コ トカ 半 島(Chukotka)か
に居 住 し、 現 在 人 口15,200人(1989年)を
ら コ リマ川 流 域 ま で の ツ ン ドラ地 帯 と海 岸 地 帯
擁 す る北 東 シベ リア の 代 表 的 な 民 族 で あ る。 人 口 的
に は さ ら に大 きい 民 族 もい るが 、 固 有 言 語(チ
ュ ク チ語)を
母 語 とす る割 合 が70%以
上にも
達 す るな ど民 族 とし て の 勢 い とい う点 で は他 を圧 倒 して い る。 また 、彼 ら は北 東 シベ リア で
も最 後 まで ロ シア 帝 国 の 支 配 に抵 抗 した こ とで も有 名 で 、 中 央 政 府 が彼 ら を完 全 に掌 握 す る
よ うに な る の は ソ連 時 代 に入 っ て か らで あ る と もい わ れ る。18世 紀 以 来 彼 らは銃 で 武 装 した
ロ シ ア コサ ッ ク 軍 の 攻 撃 を し ば しば 撃 退 し た。 彼 らの軍 事 的 、 政 治 的 、 そ し て文 化 的 な力 を
支 え て きた の は 、 トナ カ イ遊 牧 とい う ツ ン ドラ特 有 の経 済 形 態 に あ った 。
トナ カ イ 遊 牧 は環 極 北 地 域 の ツ ン ドラ地 帯 に お け る最 高 の 文 化 的適 応 方 法 で あ る。 労 働 生
産 性 あ るい は食 料 供 給 の安 定 性 か らい え ば、 海 獣 狩 猟 や 大 河 川 に お け る溯 河 性 の 魚 を捕 る漁
撈 の 方 が 優 れ て い る とい う説 もあ る。 しか し、 現 在 比 較 的 多 くの人 口 を擁 し、 高 い 固 有 文 化
と固有 言 語 の 保 有 率 を誇 るの は トナ カ イ 遊 牧 民 と そ の子 孫 で あ る。 父祖 伝 来 の地 で 人 口的 に
少 数 派 に転 落 し、 強 力 な外 来 文 化 の 波 に常 に洗 わ れ て い る現 代 で は、移 動 性 の 高 い 遊 牧 民 の
方 が 外 か らの 影 響 を柔 軟 に受 け とめ る こ とが で き る か らか もし れ な い 。
チ ュ ク チ も17世 紀 ま で は北 東 シベ リア の 片 隅 に暮 らす 小 さ な野 生 トナ カ イ狩 猟 民 の 集 団 で
あ っ た 。 しか し、 ロ シ ア の 北 東 シベ リア 支 配 が 本 格 化 す る18世 紀 中期 よ り、 そ れ まで ソ リ用
3.コ リヤ ー ク5
にわ ず か しか 飼 って い な か っ た 家 畜 トナ カ イ が 急速 に増 加 し、19世紀 に は1万 頭 を こえ る大 群
を有 す る富 豪 まで 出 現 す る。 彼 らの経 済 基 盤 が トナ カ イ を狩 るか ら飼 うへ と転 換 し た の で あ
る。 そ の 原 因 や メ カニ ズ ム につ い て は諸 説 あ り、 わ か らな い 点 が 多 い が 、 ロ シ ア の進 出 に よ
る毛 皮 取 引 な どの 商 業 活 動 の 活 性 化 、 ロ シ ア の 支 配 に服 した 周 辺 諸 民 族(コ
リ ヤ ー ク な ど)
との戦 争 とそ れ に と もな う家 畜 トナ カ イ の 略 奪 な どが 関 係 して い る と考 え られ る。 そ して 、
トナ カ イ 遊 牧 民 へ と転 換 した チ ュ ク チ は ロ シ ア の 支 配 に対 す る頑 強 な抵 抗 を続 け る と と も に、
周 辺 の コ リヤ ー ク、 ユ カ ギ ー ル(チ ュ ヴ ァ ンChuvan、 オ モ クOmokな
ど)、 ア ジ ア エ ス キ モ
ー(AsianEskimo自
称 ユ ッ ピ ックYupik)ら
を 同化 して 、 人 口 は4倍 以 上 に増 加 した 。
他 方 、 チ ュ ク チ の な か に はべ 一 リ ング 海 に面 した 海 岸 地 帯 に も進 出 し、 エ ス キ モ ー らの 技
術 を採 用 して海 岸 地 帯 で海 獣 狩 猟 に従 事 す る もの も現 れ 、18世 紀 以 来 チ ュ クチ は トナ カ イ遊
牧 民 と海 岸 定 住 民 とに分 化 す る こ とに な る。 しか し、 両 者 は親 族 関 係 と経 済 関 係 で結 ば れ て
お り、 トナ カ イ 遊 牧 民 た ち は肉 が 足 りな くな る と トナ カ イ の 皮 革 製 品 や 骨 角 製 品 を さ げ て 海
獣 狩 猟 民 を訪 ね 、 ア ザ ラ シや ク ジ ラ の 肉 と交 換 した 。 ソ連 政 府 に よ る トナ カ イ飼 育 と海 獣 狩
猟 の 集 団 化 や生 産 ノ ル マ 化 が 始 ま る以 前 に は 、 トナ カ イ遊 牧 民 と海 獣 狩 猟 民 の間 の この よ う
な相 補 的 関 係 が チ ュ ク チ の 生 活 レベ ル を維 持 して い た こ とが 、 近 年 の研 究 で 明 らか に され て
いる。
チ ュ ク チ は ロ シ ア政 府 の 支 配 に は 背 を 向 け て いた た め 、 そ の実 態 は20世 紀 ま で な か な か つ
か め な か っ た。 彼 らに 関 す る本 格 的 な 民 族 誌 は、 ヨヘ リ ソ ン と同時 代 に活 躍 し た ロ シ ア 、 ソ
連 の 民 族 学 者 ボ ゴ ラ ス に よ っ て 初 め て 書 か れ る よ う に な る。 彼 も ま た 、 ナ ロ ー ドニ キ運 動
(Narodniki)の
政 治 犯 と して 流 刑 に処 さ れ て シベ リア 先 住 民 族 の研 究 に 着 手 した 民 族 学 者
の一 人 で あ る。 し か し、 チ ュ コ トカ 半 島 周 辺 の 探 検 は17世 紀 に は既 に 始 ま っ て お り、 チ ュ ク
チ と探 検 家 た ち との遭 遇 は そ の 時以 来 で あ る 。 今 回 の サ ン ク ト ・ペ テ ル ブル ク で の収 集 で も、
ボ ゴ ラ ス の調 査 以 前 の 写 真 に接 す る こ とが で きた 。 今 回 紹 介 す る チ ュ ク チ の 写 真 の う ち、
Plates24-33が
そ れ に該 当 す る。 ス ウ ェ ー デ ン の 著名 な北 極 探 検 家 ノル デ ン シ ェル ド(N.A.
E.Nodenskiord)が
ベ ガ号 に乗 っ て行 な った シベ リア北 極 海 沿 岸 航 海(1878-79年)に
同乗 し
て チ ュ コ トカ 半 島 に 赴 いた カ メ ラマ ン に よっ て 撮 影 され た もの で あ る。 た だ し、 この 写 真 に
添 付 さ れ て い た 説 明 書 に記 さ れ て い た 撮 影 年 は ノ ル デ ン シ ェ ル ドの航 海 年 とは食 い違 って い
る。
Plates34-37は ヨヘ リ ソ ンの 写 真 で、 ユ カ ギ ー ル や コ リヤ ー ク の調 査 時 に と もに撮 影 され た
もの と思 わ れ る。
3.コ
リ ヤ ー ク(Plates38-57)
コ リヤ ー ク は カ ム チ ャ ツ カ 半 島 中部 、 北 部 の海 岸 地 帯 とツ ン ドラ地 帯 に す む 先 住 民 族 で 、
人 口 は9,200人(1989年)で
あ る。 そ の名 称 の 語 源 は コ リヤ ー ク語 で トナ カ イ を意 味 す る 「コ
ラ」(kora)に あ る とい わ れ るが 、 ソ連 時 代 の 民 族 政 策 に よっ て コ リヤ ー ク の名 称 が 与 え られ
61.シ
ベ リア の モ ン ゴ ロ イ ド系 諸 民 族
る ま で は 彼 ら全 体 を 意 味 す る 名 称 は な か っ た 。 彼 ら に は チ ュ ク チ と同 様 に 内 陸 部 で トナ カ イ
飼 育 に 従 事 す る遊 牧 民 と海 岸 地 帯 で 海 獣 狩 猟 に 従 事 す る 定 着 民 とが お り 、 前 者 は 自 称
ウ チ ワ ウ 」(chawchywaw)、
後 者 は
「ニ ミル ゥ 」(nymyr'u)と
「チfi'
い う。
コ リ ヤ ー ク は 言 語 的 、 文 化 的 に 隣 族 の チ ュ ク チ に 近 い が 、 歴 史 的 に は 両 者 は 敵:対 関 係 に あ
っ た 。 互 い に 「タ ン ノ 」(tann'o)と
呼 び合 うが 、 か つ て は そ こ に敵 あ る い は異 邦 人 とい う意
味 が 込 め られ て い た と い う 。 彼 ら は も と も と ラ イ バ ル 関 係 に あ っ た が 、18世 紀 に ロ シ ア が カ
ム チ ャ ツ カ 経 営 を 強 力 に 進 め る と と も に 、 両 者 の 対 立 も激 化 し た 。 コ リ ヤ ー ク は 当 初 チ ュ ク
チ と と もに ロ シ ア の支 配 に抵 抗 した が 、 ロ シ ア 側 の 圧 倒 的 な 武 力 の前 に 敗 退 を続 け、 結 局 そ
の支 配 に服 す る こ とに な った か らで 、 最 後 まで ロ シ ア の支 配 に抵 抗 した チ ュ ク チ の攻 撃 に 晒
さ れ 、 トナ カ イ の略 奪 を受 け る こ と に な っ た 。
コ リ ヤ ー ク と ロ シ ア 人 との 出 会 い は17世 紀 中 期 の デ ジ ニ ョ フ(S.1.Dezhnev)、
ヒ ン(M.V.Stadukhin)ら
ス タ ド ゥー
の 探 検 に始 ま る が 、 本 格 的 な 民 族 誌 を最 初 に書 くの は ヨヘ リ ソ ン
で あ る 。 ユ カ ギ ー ル の 項 目 で も触 れ た よ う に 彼 は1885年
に コ リマ 川 流域 に政 治 犯 と し て流 刑
さ れ て 以 来 地 元 の先 住 民 族 に関 す る民 族 学 的研 究 に従 事 す るが 、 ユ カ ギ ー ル と と も に コ リヤ
ー ク の 言 語 と 文 化 も彼 の 関 心 の 中 で 重 要 な 位 置 を 占 め て い た 。 そ し て 、 ジ ェ サ ッ プ 北 太 平 洋
調 査 で は カ ム チ ャ ツ カ 半 島 の 調 査 に 従 事 し 、 大 著TheKosyak,TheJesupNorthPacific
Expedition,MemoirsoftheAmericanMuseumofNaturalHistory,Leiden-NewYork
(1905-1908)を
著 し た 。今 回 紹 介 す る 写 真 の ほ と ん ど は ジ ェ サ ッ プ の 調 査 の 時 に撮 影 さ れ た も
の と考 え られ る。
4.エ
ヴ ェ ン キ(Plates58-77)
エ ヴ ェ ン キ は シ ベ リア の森 林 地 帯 を代 表 す る ツ ン グー ス系 の 言 語 を話 す先 住 民 族 で あ る。
そ の 分 布 は 西 は エ ニ セ イ(Enisei)川
か ら 東 は サ ハ リ ン(Sakhalin;樺
大 興 安 嶺 か ら北 は 北 極 海 ま で 達 し 、 シ ベ リ ア の 面 積 の70%に
布 域 に 比 較 し て 人 口 は 少 な く、 ロ シ ア 側 に30,200人(1989年)、
た だ し 鄂 温 克 族19,343人
、 鄂 倫 春 族4,132人)が
太)ま
で、南 は中国領
も及 ぶ と もい わ れ る。 広 大 な分
中 国 側 に23,475人(1982年
、
公 式 的 な数 字 とし て発 表 され て い る。 しか し、
こ の 数 字 は ロ シ ア 側,中 国 側 と も戸 籍 上 の 数 で あ り、 エ ヴ ェ ン キ 固 有 の 言 語 を 母 語 と し 、 固 有
の 文 化 に 通 暁 す る 者 と な る と き わ め て 少 な く な る 。 彼 ら全 て の 共 通 の 自称 は な い 。 最 も 広 く
使 わ れ るの が
い はOrochen)と
「エ ウ ェ ン キ ー 」(Ewenki)で
あ る と さ れ る が 、 「オ ロ チ ョ ン 」(Orochonあ
る
称 す る者 も 多 く、 そ の 他 居 住 地 の 名 を 冠 し た 名 称 を使 う 者 も い る 。 中 国 の
民 族 政 策 で は 鄂 温 克 族(Ewenkezu)、
鄂 倫 春 族(Elunchunzu)と
分 けて い る が 、 言 語 的 に は
別 の 区 分 を す べ きだ とい う意 見 が 言 語 学 者 の 間 に は強 い 。
エ ヴ ェ ン キ は広 大 な範 囲 に拡 散 して 居 住 して い る た め 、 生 活 様 式 も多 様 で あ る。 民 族 誌 で
は し ば し ば 、 ト ナ カ イ 牧 畜 民 と し て 扱 わ れ た り、 狩 猟 民 と し て 扱 わ れ た り す る が 、 基 本 的 に
は森 林 地 帯 の トナ カ イ飼 育 あ る い は馬 飼 育 を伴 う狩 猟 民 で あ る。 彼 ら の主 な 生 業 は あ くまで
4.エ ヴ ェ ン キ7
も狩 猟 で あ り、 交 通 輸 送 手 段 と して南 の 地 域 で は馬 、 北 で は トナ カ イ を飼 育 す る。 家 畜 は騎
乗 した り、荷 を背 に積 ん だ り して使 う。 北 の 方 で は トナ カ イ ぞ り も使 わ れ る。 彼 ら は馬 や ト
ナ カ イ に乗 って 狩 り に出 か け、 家 を移 動 す る とき に も荷 物 を家 畜 に運 ばせ る。 そ の よ う に家
畜 を利 用 す る こ とに よ って 彼 らは 居 住 地 域 を拡 大 し、 民 族 と して の 勢 力 を伸 ぼ した と考 え ら
れ て い る 。 彼 らの源 郷 はバ イ カ ル湖 周 辺 か ら ア ム ー ル 方 面 と考 え られ 、 他 の ツ ング ー ス 系 諸
民 族 と隣 接 して い た よ うで あ る 。 そ れ が シベ リア各 地 に拡 散 した の に は トナ カ イ 飼 育 が 背 景
にあ っ た 。 そ して彼 ら は、 恐 ら く、 シベ リア に トナ カ イ 飼 育 とい う生 業 あ るい は技 術 を広 め
た 民 族 の 一 つ で あ る。 とい うの は、 チ ュ クチ や コ リヤ ー ク、 ユ カ ギ ー ル らの飼 育 方 法 あ る い
は利 用 方 法 に は エ ヴ ェ ン キ の 方 法 との 関 係 が 色 濃 くみ られ る か らで あ る。
エ ヴ ェ ン キ は17世 紀 に東 シ ベ リア に進 出 し て きた ロ シ ア人 と各 地 で 接 触 す る よ う に な り、
し ば し ば 反 乱 を起 こ し なが ら も、 結 局 そ の支 配 下 に服 し て い っ た 。17世 紀 後 半 に ロ シ ア が オ
ホー ツ ク海 沿 岸 や ア ム ー ル川 流 域 、 さ ら に は カ ム チ ャ ツ カ へ と進 出 す る際 に先 導 役 を勤 め た
者 の多 くは、 ヤ サ ー ク(yasak;毛
皮 に よ る税 金)を 払 っ て服 従 した エ ヴ ェ ンキ の 祖 先 た ち で
あ っ た 。 また 、 これ ら東 方 に つ い て の 情 報 も数 多 く提 供 して い る。そ し て、 そ れ か ら200年 の
歳 月 の 間 に ロ シア 臣 民 と して の 意 識 も形 成 さ れ 、 ア ム ール や サ ハ リン な どで 清 朝 あ る い は 日
本 支 配 下 の 諸 民 族 と出会 い 、 し ば し ば軋 轢 を起 こ した 。19世 紀 後 半 に は トナ カ イ を引 き連 れ
て サ ハ リン に わ た り定 着 す るグ ル ー プ が 現 れ るが 、サ ハ リ ンの先 住 民 で あ るニ ヴ フ(Nivkh;
ギ リヤ ー クGilyak)、 ウイ ル タ(Uilta;オ
ロ ッ コOrok)ら は エ ヴ ェ ン キ との 遭 遇 を非 常 に恐 れ
た とい わ れ る。 エ ヴ ェ ンキ は 自 らを キ リス ト教 徒 で あ り、皇 帝 の 臣民 で あ る と主 張 し、 そ う
で な い ニ ヴ フ ら を 「犬 を食 う連 中」 と さ げ す ん で いた 。
しか し、 他 方 で 私 利 私欲 に走 る ロ シ ア の支 配 者 へ の反 発 も強 く、 ヤ サ ー ク を支 払 う に も槍
の穂 先 に毛 皮 をつ け て役 所 の 窓 か ら投 げ込 む な ど精 一 杯 の抵 抗 、 抗 議 の 意 志 を あ らわ し、 さ
らに武 力 的 に 反 乱 を起 こす こ と も しば し ぼ だ った 。
服 従 、 反 攻 い ず れ に せ よ17世 紀 以 来 ロ シア 人 とは深 い 関係 が 築 か れ て い った た め、 彼 ら に
関 す る記 録 も それ 以 来 ロ シア 、 ヨー ロ ッパ に蓄 積 さ れ て い る。 脱 魂 あ るい は憑 霊 に よ っ て 他
界 と交 信 し、病 気 治 療 や 予 言 を行 う シ ャ マ ンの 典 型 的 な 姿 は17世 紀 以 来 知 られ る エ ヴ ェ ン キ
の シ ャ マ ンの 姿 で あ り、 「シ ャマ ン」(shaman)と
い う こ とば も彼 らの 「サ マ ン」(saman)に
由来 す るほ どで あ る 。 エ ヴ ェ ンキ あ る い は ツ ン グ ー ス 系 諸 民 族 の 言 語 、 文 化 に 関 す る研 究 に
は19世 紀 以 来 の輝 か しい 伝 統 が あ るが 、 その 背 景 に は17世 紀 以 来 の 彼 ら に関 す る情 報 の 積 み
重 ね が あ る。
彼 ら に関 す る映 像 情 報 も18世 紀 に は既 に絵 画 の形 で み ら れ る。 しか し、 や は り当 時 の 絵 は
顔 つ き が ヨー ロ ッパ 的 に な る な ど写 実 性 に問 題 が あ る。 し たが っ て 、 映 像 情 報 と して そ の 実
態 を よ り正 し く伝 え る こ とが で き る よ う に な る の は写 真 術 の 出現 を待 た な くて は な らな い 。
今 回 紹 介 す る エ ヴ ェ ンキ の写 真 は い ず れ も珍 しい もの で あ る 。Plate58は19世
紀 後 半 にサ
ハ リン に渡 っ た エ ヴ ェ ンキ の家 族 の 写 真 で 、 と りわ け珍 し い もの で あ る。 サハ リ ン に は ウ イ
81.シ
ベ リ ア の モ ン ゴ ロ イ ド系 諸 民 族
ル タ が 古 く か ら トナ カ イ 飼 育 を 行 っ て い た が 、 帝 政 ロ シ ア の 臣 民 で あ る と い う 自 負 を も っ た
エ ヴ ェ ン キ は 彼 ら の 放 牧 地 を 次 々 と 侵 略 、 占 領 し て い く。 し か も 、 エ ヴ ェ ン キ の 飼 う ト ナ カ
イ の 方 が 体 格 が よ く 、 群 れ も大 き く、 家 族 も裕 福 で あ っ た 。 写 真 の 撮 影 場 所 で あ る ポ ロ ナ イ
(Poronai)川
流 域 に は本 来 ウ イ ル タ の 放 牧 地 が あ っ た は ず だ が 、 こ の よ う に エ ヴ ェ ン キ が 入
り込 み 、 し か もか な り裕 福 な 生 活 を し て い た こ とが 伺 え る 。
Plates61-77は
リ プ ス カ ヤ の 残 し た 資 料 類 の 中 か ら 発 見 さ れ た 写 真 で 、Plate77以
外 は リ
プ ス カ ヤ と そ の 夫 で あ った リプ ス キ ー が 撮 影 した もの で あ る。 リプ ス カ ヤ は レ ニ ング ラー ド
の 民 族 学 研 究 所 の 優 秀 な 若 手 研 究 員 で あ り、 ア ム ー ル 川 流 域 の ツ ン グ ー ス 系 の 諸 民 族 の 調 査
と民 族 学 的 研 究 に す ぐ れ た 業 績 を 残 し て い る 。 し か し 、第2次 世 界 大 戦 の 激 戦 の 一 つ で あ っ た
レ ニ ン グ ラ ー ド攻 防 戦 の さ な か に レ ニ ン グ ラ ー ドで 若 く し て 病 死 し た 。 こ こ で 紹 介 す る エ ヴ
ェ ン キ の 写 真 の う ち 、 オ リ ジ ナ ル 番 号H-1530台
か ら そ の 支 流 の ア ム グ ニ(Amgun')川
(Tugur)川
の も の は 、 二 人 が1920年
にアムール川の下流
、 さ ら に分 水 嶺 を こ えて オ ホ ー ツ ク海 に注 ぐ トゥ グ ル
一 帯 の ネ ギ ダ ー ル(Negidar)と
エ ヴ ェ ン キ を調 査 し た 際 に 撮 ら れ た 写 真 、H-1538
台 は リ プ ス キ ー が ア ム グ ニ 川 上 流 で 撮 っ た 写 真 で あ る 。 ま た レ1-1541台 は1924-25年
と1927-28
年 の ア ム ー ル 川 とそ の 支 流 域 の広 大 な 範 囲 で行 わ れ た 民 族 調 査 の 際 に撮 影 さ れ た もの で あ る。
1920年 代 に は ま だ ソ 連 の 社 会 主 義 的 民 族 政 策 の 影 響 が 現 れ る 以 前 で あ る た め 、19世
紀 的 な伝
統 文 化 が 色 濃 く残 さ れ て い た 。 人 物 の 背 景 に 写 し こ ま れ て い る 家 屋 や 日 用 品 に も エ ヴ ェ ン キ
の 伝 統 文 化 の 一 端 が 見 え て い て 、 例 え ば 、Plates例
え ば62と67な
どの 背 景 に写 っ て い る家 屋
は 白 樺 の 樹 皮 で 壁 を 作 っ た 伝 統 的 な エ ヴ ェ ン キ の 夏 の 家 で あ り、ま たPlate64で
老人 が右手 で
押 さ え て い る の は トナ カ イ の 背 に 載 せ る 荷 物 用 の 鞍 で あ る 。
5.エ
ヴ エ ン(Plates78-87)
エ ヴ ェ ン は エ ヴ ェ ンキ と な らぶ ツ ン グー ス語 系 の言 語 を話 す 代 表 的 な民 族 で あ る。 そ の居
住 範 囲 は シ ベ リ ア の 北 東 部 、 す な わ ち 現 在 の サ バ 共 和 国(RespublikaSakha)、
地 方(Khabarovskiikrai)北
(Chukotskiiavtonomnyiokrug)、
部 、 マ ガ ダ ン 州(Magadanskayaoblast')、
ハバ ロフスク
チ ュ クチ 自治 管 区
コ リ ヤ ー ク 自 治 管 区(Koryakskiiavtonomnyiokrug)に
あ た る 地 域 に ま た が る 。 現 在 の 公 式 名 称 は エ ヴ ェ ン キ に 似 て お り、 実 際 言 語 、 文 化 に 共 通 点
も 少 な くな い が 、 近 隣 の ユ カ ギ ー ル や チ ュ ク チ 、 コ リ ヤ ー ク な ど か ら の 影 響 も 強 く見 ら れ る。
か つ て ロ シ ア 人 か ら は 「ラ ム ー ト」(Lamut)と
呼 ば れ 、 「ツ ン グ ー ス 」 と呼 ぼ れ た エ ヴ ェ ン キ
とは 区別 され た 。
彼 ら の 生 活 は 基 本 的 に は エ ヴ ェ ン キ と よ く似 て お り、 トナ カ イ 飼 育 を 伴 う狩 猟 民 で あ る 。
森 林 地 帯 に 居 住 す る 者 は トナ カ イ に 乗 っ て 狩 り に 出 か け 、 トナ カ イ の 背 に 荷 物 を積 ん で 移 動
す る 。 ま た 、 北 極 海 近 くの ツ ン ド ラ 地 帯 に 居 住 す る も の は トナ カ イ そ り を 使 う 。 彼 ら の 飼 う
トナ カ イ は 数 は 少 な い も の の 、 体 格 が よ く、 近 隣 の チ ュ ク チ や コ リ ヤ ー ク ら が 自 分 た ち の ト
ナ カ イ 群 を 接 近 さ せ て 、 エ ヴ ェ ン の トナ カ イ と す り替 え よ う と し た た め 、 し ば し ば 軋 轢 を 起
5.エ ヴ ェ ン9
こ した とい わ れ る。
エ ヴ ェ ン も17世 紀 中 葉 に は ロ シ ア 人 と接 触 を は じ め 、 そ の 混 乱 の 中 で ヤ ク ー ト と と も に 近
隣 の ユ カ ギ ー ル を 同 化 縮 小 さ せ な が ら 勢 力 を拡 大 し た 。 し た が っ て 、 彼 ら に 関 す る 記 録 は17
世 紀 か ら残 さ れ て い る。 し か し 、 人 類 学 者 や 民 族 学 者 の 本 格 的 な 調 査 は19世 紀 末 期 の ヨ ヘ リ
ソ ン の 研 究 を 待 た な け れ ば な ら な か っ た 。 彼 は 最 初 の 流 刑 地 で あ る コ リマ 川 流 域 で ユ カ ギ ー
ル と近 接 し て い た エ ヴ ェ ン に 会 っ て い る 。 彼 の 主 著 の 一 つ で あ るTheJukaghirandJukaghirizedTungus,TheJesupNorthPacificExpedition,MemoirsoftheAmericanMuseumof
NaturalHistory,vo1.IX,Leiden-NewYork,1926に
ー ル 化 さ れ た ツ ン グ ー ス)と
登 場 す るJukaghirizedTungus(ユ
は大 部 分 が エ ヴ ェ ンの こ とで あ る
カギ
。 コ リマ 川 流 域 で は エ ヴ ェ ン
と ユ カ ギ ー ル の 交 流 が 盛 ん で あ り 、 通 婚 例 も 多 か っ た 。 例 え ばPlate1の
ユ カ ギ ー ル の族 長 の
妻 は エ ヴ ェ ンの 出 身 で あ る。 また 、外 見 で はユ カ ギ ー ル とエ ヴ ェ ンの 区 別 は難 し くな っ て い
た と見 え 、Plates21-22の
よ う に ど ち らか 判 断 で き な い ケ ー ス もあ る。
今 回 収 録 し た エ ヴ ェ ン の 古 写 真 は 現 在 の サ バ 共 和 国 北 部(Plates78-79)、
(Plates80-83)、
コ リマ 川 流 域
そ してベ ー リン グ海 に 注 ぐア ナ デ ィル 川 の 流 域 とカ ム チ ャ ツ カ半 島 で そ れ
ぞ れ 撮 影 さ れ た も の で あ る。 現 在 で も こ れ ら の 地 域 に は エ ヴ ェ ン が 住 み 続 け て い る が 、 こ こ
に 写 さ れ て い る よ う な 手 の 込 ん だ 装 飾 品 や 衣 装 の 多 く は す で に 博 物 館 で な くて は 見 ら れ な く
な っ て い る。
Fly UP