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2008.1.6

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2008.1.6
「感動し、心から進んで」
出エジプト記 35 章10∼29 節
1、出エジプト記あらすじ
出エジプト記で有名なお話はエジプトに奴隷になっていたイスラエ
ル人たちが「モーセ」という指導者によって神様に守られエジプトから
脱出し、て「十戒」という十の戒めが書かれた石の板をもらう、という
ものです。
2、2度わたされた石の板
モーセ2度石の板をわたされます。はじめに神様にもらった板はモーセ
が粉々に砕いて。飲めやうたえの大騒ぎ。神様は偶像を拝んではならない
とイスラエルの民にはるか昔から語ってくださっていたのに、そんなこと
すっかり忘れてモーセが1ヵ月以上も帰ってこなかったもんだから待ち
きれなくて、自分たちで神様を作って拝んでしまったのです。そりゃモー
セでなくても怒りますよ。1ヵ月以上も山にこもって神様からやっといた
だいた十の教えをもらって山から下りてきたらイスラエル人たちが、エジ
プトでの奴隷状態からすくってくださった神様のことをすっかり忘れて、
子牛の像を作ってお祭りしてたなんて。
神様はイスラエル人を懲らしめました。何人かは命を落としました。
神以外のものを拝むことは神様が大変嫌われることだったんですね。
でもモーセは神様に、このイスラエルの民を何とかしてくださいとお
願いしました。神様はもう一度山に登れ、とモーセに命令されました。
そうして同じように「40 日 40 夜」山にこもって神様からまた同じよう
に石の板に十の戒めを書いてもらったのです。
3、神は哀れみ深いお方
神様はもう一度チャンスをくださったのです。イスラエルの民が再び神
様のことだけを礼拝するようになることを期待して。今日の聖書箇所のひ
とつ前の 34 章のにはこうあります。
「34:4 そこで、モーセは前のと同じような二枚の石の板を切り取り、翌
朝早く、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を手に持って、シナイ山
に登った。
34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の
名によって宣言された。
34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ
深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰
して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
1
主は哀れみ深いお方なのです。そして恵みは千代にとありますが、罪は
三代に四代にといわれるお方なのです。千代と4代はものすごく違います。
恵みが圧倒的に大きいのです。罰すべきものは罰すると言われる神はそれ
にもまして恵みと哀れみの神であったのです。
4、山を降りてきたモーセに民は感動した
モーセが十の戒めを書かれた石の板を持って民の前に現れた時モー
セの顔は輝いていた、とあります。それは確かに神がモーセと出合っ
たことの証であったのです。自分たちの手で自分たちの神を造り拝ん
だことの罪深さを思い知ったイスラエルの民はモーセを恐れました。
近づくことが出来なかった、とあります。神がまたお怒りになりイス
ラエルの民を打つのではないか。モーセが山から二度目に降りてきた
今度こそ本当にイスラエルの民は滅ぼされるのではないか、そんなお
それがあったのです。
しかしイスラエルの民はモーセから意外な言葉を聴くのです。それは
礼拝のための祭司の装束、契約の箱、そして幕屋建設のための命令で
した。それが今日読んでいただいた箇所です。
どう考えても神の民にふさわしくないもの、幕屋の建設にふさわし
くないものであった彼らに、しかし主は哀れみを持ってもう一度チャ
ンスを与えてくださったのです。罪ゆえに滅んでもおかしくない民に、
神のきよい聖所の建設をおまかせになった。
この命令を聞いて、イスラエルの民は感動したものは心から自ら必要
なものを、もって来ました。またその知恵のあるものは幕屋の建設に
たずさわりました。それは高度な技術を持った金細工人や大工の経験
者だけではありませんでした。
5、すべての感動した民が
私がこの箇所で感銘を受けたのは35章26節です。
「35:26 感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を
紡いだ。」
とあります。
ヤギの毛をつむぐ、と言う作業は当時の女性たちの間では日常的なこ
とでした。しかし彼女たちはそれさえも用いられれば、と思いやって
きたのです。
感動して、とあります。この言葉はこの分厚い聖書の中で出エジプト
記の35章21節、と36章の2節、そしてこの箇所35章26節の
3箇所にしか用いられていません。
神はしばしばこのような目立たないひと人に焦点を当てます。
2
ヤギの毛をつむぐと言う一見小さな奉仕に対して主は目を留めてく
ださる。
それはイエス様が貧しいやもめのささげた2レプタのわずかな献金
を「誰よりも多くささげた」と評価したことに似ています。
このことからも21節の「感動したものと、心から進んでするものと
はみな、会見の天幕の仕事のため、また、聖なる装束のため、またそ
のすべての作業のために、主への奉納物を持ってきた」と言うのが、
特定の人でなく、感動したものすべてが行ったことであることがわか
ります。そしてそのささげものと、奉仕はモーセが「もうしなくても
いい」と断わるほどになったと36章6節にあります。神の哀れみに
感動したものは心からささげたのです。そしてそれはあふれんばかり
になったのです。
6、出来上がった幕屋
このような人たちによって幕屋は建設されました。
幕屋はイスラエルの民が移動するたびに、解体され、組み立てられ
ました。幕屋はイスラエルの民の真ん中に設置されたのです。
幕屋は聖所として、神と出会い罪の許しの場所となりました。しか
し、神は決してこの幕屋にお住みになる方ではありません。礼拝する
ものの心がこの幕屋を作り、そこに神がともにおられるのです。神の
哀れみに感動したもの、そして心からささげるもののとともに神はお
られるのです。
使徒の働き17章24節「 この世界とその中にあるすべてのもの
をお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮など
にはお住みになりません。」
とあります。
イエスキリストがこの地上に来られた時から、キリストが幕屋とな
ってくださり、私たちの心に住んでくださるのです。そしてキリスト
が住んでくださる私たちが呼び集められ二度と罪に、滅びにむかって
ゆくことのないように与えられたのが教会です。
私たちの罪は許されるはずのない罪、しかしイエスキリストによっ
て赦されました。罰せられ滅びるはずだったのに、神の哀れみのゆえ
に罪が赦されました。このことに感動したので、私たちはクリスチャ
ンになったのです。山のように大きな罪を、イエス様がしょってくだ
さったので私たちの心は軽く弾んでいます。
神様の恵みに感動していますか。
御言葉の豊かさに感動していますか。
もし感動しているなら、イスラエルの民のように私たちも、教会のた
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めに奉仕をしようではありませんか。与えられたものを、心から進ん
で惜しみなくささげてゆこうではありませんか。
神はそのような私たちの心を見て喜んでくださり、さらに恵みによっ
て満たしてくださいます。
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