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2010.3.28

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2010.3.28
マルコの福音書 11 章20~25節
「神を信じなさい」
エルサレムの神殿ではイエスが宮きよめの出来事を起こしていました。両替人の台を倒し
ハト売りを蹴散らしました。このようなことをするイエスに対して祭司長、律法学者たち
はどのようにしてイエスを殺そうかと相談していました。
3章6節の箇所ではパリサイ人がヘロデ党の者たちと一緒になってイエスをどのようにし
て葬り去ろうかと相談し始めた、とあります。
これでついにパリサイ人、祭司長、律法学者というユダヤ人の指導者がそろったわけです。
このそろったみんながイエスを葬り去るための相談を始めるようになったのです。敵がそ
ろった、と言ってもよいでしょう。
先週の最後の箇所では殺す、という具体的な方法まで出てきました。神のひとり子イエス
の十字架の時は確実に迫っていました。
今週は受難週です。主の十字架を覚え、私たちに信仰を与えてくださった主に感謝したい
と思います。
1・「枯れたイチジクの木」
イエスがエルサレムに入られ、商売をしているものたちを追い出した宮きよめの出来事の
前に、イエスは空腹になられました。そこで見つけられたイチジクの木がいかにも青々と
葉も茂り、いかにも何かなっていそうに思わせて実は何もなっていなかったことを見て、
イエスがこのイチジクの木を呪うような言葉をかけられた箇所がありました。それはイチ
ジクの木をエルサレムに見立ててイエスがエルサレムを痛烈に批判されたことでした。
いかにも巡礼者がごったがえしていて、悔い改める者が次々と神殿で礼拝をささげている
ことを予感させるエルサレム神殿でしたが、その中身は強盗の巣、と言わしめたほどけが
れていたのです。
イエスが翌日、昨日見たイチジクの前を通りかかると、昨日まで青々と茂っていたイチジ
クの木が枯れていました。そしてその枯れかたは根っこまでも枯れていたとあります。
ペテロは思い出して、イエスに言ったとあります。
「先生。ご覧なさい。あなたののろわ
れたいちじくの木が枯れました。」
ペテロはなぜ思い出したのでしょうか。14節に「弟子たちはこれを聞いていた」とあ
ります。イエスはわざわざ弟子たちが聞こえるようにこの言葉を言ったきらいがあるので
す。つまりわざと聞こえるようにイチジクに呪いの言葉をかけたのです。
イエスはイチジクに呪いをかけるのが目的ではなく、この言葉を弟子たちに聞かせるのが
目的だったのです。
呪いの言葉を思い出してみましょう。
「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べるこ
とのないように。」
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これはエルサレムがこのままではもう実を結ぶことはない、つまり、このままでは霊的祝
福は失われてしまう、ということを意味していました。
そして朝、来てみると、イエスの呪われたこのイチジクの木は根っこから枯れていたので
した。その意味するところは、エルサレムの霊的、実際的な破壊を意味していました。
エゼキエル書にはこのように預言されています「 神である主はこう仰せられると言え。そ
れは栄えている。しかし、主はその根を抜き取り、その実を摘み取り、芽のついた若枝を
ことごとく枯らしてしまわないだろうか。それは枯れる。それを根こそぎ引き抜くのに、
大きな力や多くの軍勢を必要としない。」
(エゼキエル17章 9 節)
エルサレムの完全な破壊を預言されるイエス。それはイエスの十字架によって再び完全に
建てられるためには必要なことでした。
「『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿
を造ってみせる』と言うのを聞きました。」とマルコ14章58節にあります。イエスはエル
サレム神殿を破壊し、手でつくられない新しい神殿、つまり信じた人の心の中につくられ
る神の宮を建てられると公言なさっていたのです。
まさにエルサレムはイエスによって破壊されなければならなかったのです。それほど、そ
の内部は腐敗していたのです。
2・「言葉の成就」
さてこのイチジクの木が枯れる、ということについてもう一つの面がありました。それは
弟子たちがこのことを聞いていた、ということでした。イエスがこの言葉をわざわざ弟子
たちに聞かせたのは次の日にこのイチジクを見たときに弟子たちが「さとる」ためでした。
弟子たちが「さとる」べきこと、それは「神の言葉は成就」する、ということです。
弟子たちは今までもたくさんの奇跡を見てきました。盲人の目が開かれ、病人がいやされ、
死にひんしたものさえ命を救われる奇跡が次々と目のまえでおこりました。イエスの言葉
がそのまま成って行くということを多く経験してきました。
しかし、そのようなポジティブなこと、肯定的なことだけでなく、イチジクの木が枯れる
という否定的なネガティブなことも神の言葉は成る、成就するのだということを弟子たち
は知らねばなりませんでした。なぜならイエスの十字架は確実に起こることだからです。
イエスがあの恐ろしい十字架につけられるということ、そして三日目によみがえられると
いうことは、確実に起こることであり、神の子であるイエスの言葉がそのまま成就する神
の言葉なのです。
イチジクの木を一晩にしてその根っこまでからしてしまう奇跡はイエスが神ご自身であり、
その言葉には神の権威があることを証明しています。そして一見不可能にみえることが起
こって行くという神の奇跡を表しています。このことはこの言葉の後に続く信仰のあり方
についての前提となることです。
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3・「神を信じなさい」
ペテロの質問に対してイエスは答えられました。
「神を信じなさい」イエスの言葉がそのまま成就するということを目の当たりにしたペテ
ロに突然のイエスのこの言葉です。これは、イエスご自身が神でなくて何なのか、という
ことの確認でもあります。
言葉がそのまま行われるという奇跡を起こしているのは目の前にいるイエスなのだ、私を
信じなさい、と言われているようにも取れる言葉です。しかし、イエスはそうは言わない
で「神を信じなさい」といわれました。イエスを信じるということは神を信じることです。
「神を信じなさい」この言葉は、私たちの心の中に深く根をおろしています。神を信じる
ことは当然のことであって疑う余地のないことです。しかし、以前の私たちはそうではあ
りませんでした。神の存在すら信じることができなかったものです。しかし今、神を信じ
る者へと変えられていることに感謝です。この日本には、そして、この桜の地には、神を
知らない人々が多くいます。ですから先に信じた私たちには、この人たちに、神の存在を
知らせ、神を信じることの素晴らしさを伝える義務があるのです。
イエスご自身が言われたのです。「神を信じなさい」と言われた。弟子たちはとっくに神
を信じているつもりでした。だからこそイエスについてきたはずでした。しかしさらにイ
エスは言われるのです。
「神を信じなさい」
このことは私たちのアイデンティティーともいえるでしょう。教会が教会であるのはこ
の「神を信じなさい」という一言にかかっているのです。
私たちが神を信じなくてだれが神を信じるでしょうか、私たちは神を信じているでしょ
うか。ほんとにそうでしょうか。どこかで神を疑っていないでしょうか。私たちは神の宮
です。神の神殿です。この神殿がけがれていたら私たちは神を信じているとは言えません。
神を信じるならば、私たちの心は聖くされているはずです。心の中に神を疑うということ
は一点も見出すことはできないはずです。しかし心に曇りを見出すことがあります。神を
疑いたくなるような出来事が現実に起こることがあります。しかしそのような時にこそ、
イエスの言われた「神を信じなさい」ということが意味を持ってくるのです。
弟子たちにイエスが言われたのは当たり前のことでした。とくにイエスがそばにおられ
た時には当然のごとく神を信じていたでしょう。しかし、イエスはいずれ十字架にかけら
れるのです。そのあとよみがえられて天に昇られるのです。その時に神を信じることがで
きなかったらどうするのでしょう。
4・「まことの信仰」
そんな弟子たちにイエスは「信じる」ということの本質を語られました。
本文を繰り返します。
「 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、
『動いて、海に入れ』
と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおり
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になります。 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けた
と信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
山に向かって海に入れと言えばそうなる、というのはラクダが針の穴を通る、というた
とえと同じように誇張表現と言ってよいでしょう。
しかし、イエスは必要のないところで誇張表現は用いませんでした。本当に大切なこと
を伝えたい時にこのような表現を用いたのです。
真の信仰とはなにか、信じるとはどういうことか、「神を信じなさい」と言われた真意は
どこにあるのか。
「神を信じる」ということはこのたとえを逆転して読むならば、山にむかって「海に入
れと言えばそのようになるはずである」という信仰を指しています。だからそのように祈
ってそのようにならなくても不信仰と言うわけではないのです、要はそのような信頼を持
って神に祈る、ということが大切なのです。
ここでは,人間的に不可能なことでも、疑わず言ったとおりになる、そしてすでに受け
たと神を見詰める確かな信仰が要求されているのです。
そのような信仰を励ますために,イエスは,神が信仰の祈りにそのとおりに応えて下さる
神であることを 2 度繰り返して言われ、強調されました。
5.「信仰に裏付けられた祈り」
まことの信仰はこのようにして裏付けられるものです。神に対する絶対的な信仰が私た
ちの祈りを高く引き上げ、主へと届くものとするのです。
イエスは信仰のあり方を述べられた後に、そこから引き出される祈りについて語られま
す。
「 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そ
うすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。
」
立って祈るという時はどういう時なのか。と想像するには何かをしているときの途中で
手を休め、祈りたくなった時などではないかなとおもいます。特別な祈りの時ではなく、
日常の中の祈り。そのような祈りの時を私たちは持つことができます。仕事の手を休める
休憩時間もそうかもしれません。買い物の行きかえりの道中かも知れません。イエスがこ
こでわざわざ立って祈る時、と言われたのは祈りには、形式やその場所に関係なく、そこ
に信仰があることが最も重要である、ということを言われたかったのだと思われます。
そしてイエスはその信仰に加えて祈りがそのとうりになるためのもう一つの条件につい
て触れています。
「だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあな
たがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。
」
このことが信仰による祈りのさらに前提となっているのです。
まず祈りの前に自分自身の罪が処理されていなければならないのです。他の人に対する恨
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みごとがあったら赦してやりなさい。そうすれば天におられるあなたがたの父もあなたが
たの罪を赦してくださいます、とあります。
この原則は主が祈りを命じられた、主の祈りにも通じるものです。
マタイの福音書 6 章:12 節には「 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに
負いめのある人たちを赦しました。
」
とあります。
私たちが赦していないものを、主が赦してくださるはずはないのです。自分の利害にこだ
わる狭い心に神のあわれみを宿すことはできないのです。
ます私たちが赦すこと、そして主から赦されることが祈りの大前提になっているのです。
「神を信じなさい」イエスのこの言葉を胸に刻みたいと思います。
信じることのできるものがだんだんと失われていくこの世の中で、信ずべきものを持って
いる私たちは幸いなものなのです。
祈るべき対象が混乱しているこの時代にあって、祈るべき方を明確に知っている私たちは
幸いなものです。
このように信仰を与えてくださった神に感謝しましょう。
まことの信仰によって祈り求めるものとされましょう。
主が十字架にかかってまでもして与えてくださった信仰にゆだねるものとされたいと思い
ます。
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