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井上隆晶牧師 ローマ13 章11~14 節

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井上隆晶牧師 ローマ13 章11~14 節
2015 年 7 月 5 日(日)主日礼拝説教
『眠るイエス様』 井上隆晶牧師
ローマ 13 章 11~14 節、マルコ 4 章 26~29、35~41 節
❶【種を蒔いたら寝て待とう】
(マルコ 4 章 26~29 節)
今日は、嵐の舟の中で眠るイエス様から、信仰とは何かというお話をしましょ
う。そのお話の少し前に、
「成長する種のたとえ」というのが出てきます。ま
ず、その話をしましょう。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしてい
るうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知ら
ない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、…」
(26~28 節)種とは神の言
葉を意味し、土とは私たち人間を意味しています。人の中に蒔かれた神の言葉
は必ず成長するというのです。悪というのはもともと創造されたものではない
ので存在ではなく、善が欠けた状態にしか過ぎません。だから悪は必ずなくな
ります。一方、善は神が創造されたものであり、神様の性質ですから、いつま
でもなくならないのです。神の言葉は善い物ですから必ず残り、その内にある
命によっておのずから成長するというのです。人間に出来ることといえば、神
の言葉を語った後は、夜昼寝起きするだけだというのです。日本にも同じよう
なことわざがあります。
「果報は寝て待て」といいます。果報は寝て待てとは、
運というものは人の力ではどうにもできないものだから、あせらずに時機を待
つのが良いということです。
「寝て待て」といっても、怠けていれば良いとい
う意味ではなく、人事を尽くした後は気長に良い知らせを待つしかないという
ことです。
人間は神に一切をまかせて「眠る」のです。眠るというのは委ねる最高の行為
です。神の言葉を語ったら、芽が出るまで信じて待ちましょう。あまり、掘り
起こしたり、触ったりしないほうがいいのです。問題があっても放っておきま
しょう。神の言葉にまかせておきましょう。その人の中に蒔かれた神の言葉の
生命力を信じて、待ちましょう。それで十分なのだと思います。
・
「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼し
ていることにこそ力がある。
」
(イザヤ 30:15)
私たちの勝利は、神を信じて待つことです。
❷【向こう岸に渡ろう】
「その日の夕方になって、イエスは『向こう岸に渡ろう』と弟子たちにいわれ
た。
」
(35 節)とあります。
「夕方」になってから湖を渡るのは危険でした。ガ
1
リヤラ湖というのは海抜マイナス 213mの谷底にあり、周囲を山が巡っている
ので、たびたび山からの突風が湖に吹きつけては嵐になりました。ペトロは漁
師ですからそのことを良く知っていたと思います。しかしイエス様が言われた
ので彼らも従ったのだと思います。
●先日、都城城南教会の会堂建築献金の趣意書にこの御言葉が書かれてありま
した。
「あの日の夕方、主は、一日働いて疲れ果てた弟子たちに向かって、
『さ
あ、夜の海を越えよう』とおっしゃいました。弟子たちの葛藤、そして祈りを
思います。しかし弟子たちは、…重い体を携えたまま、夕暮れ時にもかかわら
ず舟を出しました。ここに主の弟子の何たるかがにじみ出ています。私どもの
主の弟子として、この主の御声に従いたいと願います。なぜなら、主の御言葉
に従って踏み出す道は、ただ夜の闇に消えてゆく歩みではなく、必ずや夜を貫
いて向こう岸の『新しい朝』へといたる道のりであると知らされたからです。
」
創立 130 周年を迎える 23 人の教会員の小さな教会の決断です。
私はこれを読んで「ああそうか」と思いました。教会というのは、夕方になっ
てから、暗闇に向かって船出するようなものなのだと思いました。伝道の成果
が上がらず、牧会の成果も上がらず、疲れることもあります。お先真っ暗とい
うようなことがあります。その闇に向かって、その闇の中に船出するのです。
それでいいのだと思いました。
❸【嵐に遭う舟(教会)
】
「弟子たちは…イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになるほどであった。
」
(36~
37 節)とあります。
「湖」はこの世であり、死の世界を象徴しています。昔か
らユダヤ人たちは水を怖がりました。水は滅びの道具であり(ノアの洪水、エ
ジプト軍を沈めた紅海を思い出す)
、彼らは水の中に蛇(レビヤタン)が住ん
でいると思っていました。
「ほかの舟も一緒であった」とあります。舟は教会
を象徴しています。イエス様を乗せた弟子たちの舟だけでなく、他の舟もみな、
嵐に遭うのです。安全な教会というのはありません。どんな教会も一緒です。
どんな教会も、もう潰れるのではないかと思うような試練に遭ってきました。
外からの攻撃・迫害に加えて、内からは分派・争い・裁判、もめごとが出てき
ます。今までいくつも見てきました。
イエス様はどうしていたかというと「しかしイエスは艫の方で枕をして眠って
おられた。
」
(38 節)とあります。
「艫の方」とは舟の後ろです。舵を取る場所
です。教会の舵取りをしているのは人間ではなく、キリストです。しかしイエ
ス様が舵を取っていると思っていたら、舵取りが寝ていたというのです。運転
2
手がハンドルを握っていないようなものです。慌てるのはもっともです。面白
いです。まるで漫才です。そこで「弟子たちはイエスを起こして『先生、私た
ちがおぼれてもかまわないのですか』
」と言いました。私たちもたびたびこの
ように祈ります。
「神よ、教会が潰れても構わないのですか。教団が潰れても
構わないのですか。このままだったら教会は潰れますよ。あなたは何をしてい
るのですか。眠っているのですか。あなたがこの航海に誘ったのです。それな
のになぜこんな目に遭わせるのですか、それでも私たちのことを愛し、心配し
ているのですか。
」この地球という船もどこに行くのか分かりません。神様が
舵を取っているなら、どうしてこの船は再び、戦争の荒波に飲まれようとする
のか。神様は眠っているのではないか。神様に任せておけないというのです。
本当でしょうか?本当に神様は舵を取っていないのでしょうか?寝ているの
でしょうか?詩編の著者はこう祈りました。
「見よ、イスラエルを見守る方は、
まどろむことなく、眠ることもない」
(詩編 121:4)私たちの目には、神様が
眠っているようにしか見えていないのです。眠っているのは神様ではなく、実
は私たちの信仰なのではないのでしょうか。蒔かれた神のみ言葉は彼らの中で
眠っていて働いていませんでした。
するとどうなったかというと、
「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に『黙
れ、静まれ』といわれた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
」
(39 節)
とあります。人間には心の恐れ・不安という風や波や嵐を静めることは出来な
いということなのです。出来るものならやってみれば良いでしょう。あなたは
どこまでも沈んでゆくでしょう。それらの恐れ・不安という荒波や暴風を静め
たのはキリストなのです。つまり「神のことば」なのです。神の言葉が入って
きたら心が平静さを保ち、穏やかになるのです。それ以外に、心の平静さを保
つことはできないのです。イエス様はここで弟子たちに「
『なぜ、怖がるのか。
まだ信じないのか。
』
」
(40 節)と言われました。私たちが怖がるのは、み言葉
を信じないからです。
❹【眠るイエス様】
イエス様はなぜ、舟の中で寝ていたのでしょう。私は最初、この物語を読んだ
時、
「よくまあ、この人はこんな嵐のような状況で眠れるものだ」と思いまし
た。私はヨット部でしたから水の怖さは何度も見てきました。水をかけられた
ら普通の人は目が覚めます。水がかかっても眠り続けるなんてことができるの
だろうか、よっぽどこの人は疲れているのか、鈍感なのかと思いました。しか
しイエス様は何がやってきても安心して眠ります。まるで幼子のようです。幼
子は地震の時にも、どんな災害の時にも親を絶対的に信頼して眠ります。どん
なに失敗しても、親が赦してくれることを信じ切って眠ります。イエス様の眠
りは、私たちに信仰とは何かを教えているようなのです。
イエス様の眠りは死の象徴です。父なる神を完全に信頼して、安心して水、つ
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まり死に飲み込まれようとしているかのようです。かならず浮いてくる、復活
することを信じていたからです。眠るイエス様は、土の中に蒔かれた種です。
ひとりでに成長する神の命を象徴しています。この話は「洗礼盤」の中で再現
されます。洗礼とは何でしょう?それは死と復活の像です。キリストに一切を
委ねて、安心して死ぬことです。私たちが安心して死ねないのは、裁きを恐れ
るからです。でも、もう裁かれません。私の代わりにキリストが裁かれたから
です。だから安心して死ねるのです。洗礼とはキリストと共に死ぬことです。
キリストと一緒だったら、死んでも大丈夫と思うことです。なぜならキリスト
と一緒なら必ず生きることにもなると信じているからです。でも弟子たちはキ
リストと一緒にまだ死ねません。それほどキリストを信じ切っていないのです。
それほど委ねてもいません。イエス様と運命を共にできるかどうかを彼らは試
されたのです。
●加賀乙彦という作家がいます。精神科の医者であり、上智大学の教授もして
いました。彼は医学生のころ、人体の解剖をして組織のすみずみまでの整合性
に神の存在を予感し、フランスに留学中に宗教芸術にふれ、キリスト教の底力
のようなものを感じ、聖書は学生のころから読んでいましたが、仏教の経典も
読み、仏教とキリスト教の間に立って50歳近くまでうかうかとすごしてしま
ったと語っています。地位や仕事に不満はないのですが、これでいいのかと問
い続ける内に、またすぐに十年がすぎ、本当にこれでいいのかという思いが再
び募って、上智大学の神父に相談し、洗礼を受けたそうです。
聖書の中には、自分のすべてを神様に委ねた婦人たちが出てきます。レプトン
銅貨二枚、つまり彼女が持っていた生活費のすべてを献げた貧しいやもめがい
ます。また「最後のパンの粉と油」をエリヤに与えたところ、
「壺の粉は尽き
ることなく、瓶の油もなくならなかった」
(列王記上 17 章 16 節)サレプタの
婦人もいます。すべてを委ねた時、神様がその人を養って下さるのです。永遠
のいのちをいただくために必要なのは、このイエス様の手の中に、幼子のよう
に倒れかかる信頼です。満ち足りていながら不安な心から解放されるのは、こ
の時です。加賀乙彦氏も主の御手の中に倒れ込んだのです。
神がわたしたちの舟に乗っておられます。一緒にこの世を渡り、天国に連れて
行ってくれます。死は私たちを飲み込もうとします。しかし、私たちは安心し
て暗闇の中、死の中に沈んで行きましょう。安心して死に飲み込まれましょう。
イエス様と共に沈めば、必ず永遠の命に浮いてきます。イエス様と一緒に眠り
ましょう。委ねきって、出来ることだけをしていきたいと思います。
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