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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Author(s) Citation Issue Date URL ゲーテは何故フランクフルトを去ったか--ドイツの都市 の印象 都築. 正巳 茨城大学教養部紀要(15): 135-144 1983 http://hdl.handle.net/10109/9833 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。 お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html ゲーテは何故フランクフルトを去ったか 一ドイツの都市の印象一 都 築 正 巳 Warum hat Goethe Frankfurt verlassen? Impression der deutschen Stadte Masami TSUZUKI これから私の1980年2月から1981年U月までの1年10カ月のドイツ滞在を通じて,体験 したこと,考えたこと等若干報告してみたいと思います。私は最初の4カ月をバーデン・ ヴュルテンベルク州のブラウボイレンという小さな町にあるゲーテ・インスティトゥート にて単身過ごし,後の一年半をヘッセン州の近代的な大都市フランクフルトにて家族と一 緒に滞在しました。ブラウボイレンにっいては,語れば長くなりますので,割愛させてい ただきます。またフランクフルトでの生活面も語るべき適当な機会が他にもあろうかと考 えております。今日は「何故ゲーテはフランクフルトを去ったか」というテーマ意識にお いて,フランクフルト,ワイマール,その他ドイツの諸都市の歴史や性格や雰囲気を話題 にしてみたいと思います。 さて,フランクフルトの私共の住居は,一つの窓を開けるとタウヌス山脈が遠く霞んで みえ,他方の窓をあけるとフランクフルト空港に着陸する飛行機が入れかわりたちかわり 見える所に位置しておLりました。歩いて数分のところにマイン河があり,犬を連れたドイ ッ人にまじって,岸辺をよく散歩したものです。そして午後八時過ぎ散歩を終えて自宅に 帰って来ますと,なお窓の向こうに虹が美しく輝いていることなどありました。さて,S ・バーンで一駅のところに中央駅があり,さらに二駅進むと旧市街の中心ハウプトヴァツ へに至ります。はじめてのとき,中央駅に行くっもりでS・バーンに乗ったところ,まも なくアンパノと聞こえてきたので,さらに進んで行き,どうやらハウプト・バーンホフ( 中央駅)らしく聞こえてきたので降りてみたら,ハウプトヴァツへでした。っまり,ハウ プト・バーンホフがアンパノにしか聞こえないところに生きたドイツ語の冒険があるよう です。 ハウプトヴァツへで下車すると,出口の一つはツァイル街に面しており,それを横切っ てマイン河の方へ歩くと,市役所レーマーと聖バルトロメウス教会に囲まれた広場にやっ て来ます。レーマーという名は,かつてフランクフルトの市参事会がZum Rδmerと自称 する都市貴族から建物を買いとって,市役所に改築したことに由来します。そして,この 大聖堂前広場のことを人はR6merberg(ローマ人の丘)と呼んでお・ります。フランクフル ト市民に世界で一番高い山は何かと聞くと,Rδmerberg と答えるそうです。その理由 は,そこがHei藍and(救世主),つまり大聖堂までほんの一歩のところにあるからだそう 136 茨城大学教養部紀要(第15号) です。しかし,実はHeiland とは近くのリンゴ酒製造所の名前なのだそうです。 さて,私のようにシュヴァーベンの田舎町から,いきなりマイン河畔の由緒ある大都市 にやって来て当惑を感じないとすれば,むしろ不思議なことです。近代都市が非人間的で 人の心に安らぎを与えないのは,概ねその無性格と捉みどころのなさから来るのかもしれ ません。その点ドイツの大多数の都市が持っている類型的性格,つまり昔の城郭,中心に 聾える大聖堂,その前の広場,広場に面する市役所といった構造がいかに人間の精神に安 らぎを与えるか,一考に値するものです。ゲーテはanschauen(直観)という言葉をしば しば用いておりますが,これは人間の営みの歴史的な総体をじかに目でみるといった程度 のことを極く単純に意味しているのだと思います。たとえば広場で市が行なわれている様 子を見れば,広場が人間の経済生活にとって必然であったこと,その必要性のために生じ たことは,いかなる説明もなしに理解できることです。ところが市の習慣が消滅してしま えば,広場が何のためにあるのか分からなくなります。われわれ近代人は,こうして人問 相互の関係を理解し得なくなり,自分自身の位置を喪失してしまいます。その点中世に由 来する都市の構造が,部分的にせよドイツの市民生活の中である意味を持っているという ことは,うらやむべきことです。ドイツの都市は大部分東京のようには巨大化しない性質 のもので,その中心部分はおおよそ歩いて一巡できる程度の大きさであります。 さて,そこの住民はともかくとして,外来の旅行者にとって,フランクフルトの町が必 ずしも快適な印象を与えていないことは確かです。すべての近代都市に見られる捉みどこ ろのなさがあり,どこが町の境界であり,どこが町の中心であるか一見しては捉えられな いこともその一つの原因でしょう。だから,中央駅前正面のKaiserstraβeをフランク フルトのメイン通りと勘違いし,そこの頽廃した雰囲気をもってこの町全体を評価する性 急な旅行者も少なくないものと思います。しかし,フランクフルトの地図を見るならば, フランクフルトもまたドイツの都市の類型の上に立っていることが分かります。つまり, 近代的な発展区域の中心とも言うべき鉄道の駅は一般に昔の城郭の外側にあり,そこから 大聖堂の尖塔をめざして歩けばやがて歩道になり,まもなく大聖堂前広場に至るという構 造はフランクフルトにも当てはまるわけです。従って,Kaiserstraβeを通り抜けて真 直ぐに進めば,お・のずから町の中心のRδmerbergに至るわけですが,その間にくぐり抜 けなければならないはずの城郭は今ではもう存在しておりません。今でも城郭を残してい るニュールンベルクのような町と比較してみると,それだけですでにフランクフルトが趣 きを異にしていることが理解できます。また.たとえばウルムの大聖堂が厳然として町の 中心に聾え立っているのに対して,フランクフルトでは多くの高層建築が視界を遮り,聖 バルトロメウス教会の尖塔さえ,もはや唯一目標ではなくなっております。勿論,フラン クフルトに都市計画がないわけではなく,目下ツァイル街の模様変え,旧オペラハウスの 復興,市電の撤廃計画等,町の改造は日々進行しているわけですが,それでもなおこの町 には,東京やパリに似た,たえず拡大発展する傾向がひそんでいるのかもしれません。 そこで,おおよそこの町の歴史について概観してみたいと思います。聖バルトロメウス 教会の前に,歴史庭園と呼ばれるいささか異様な一角があります。近年「ローマ人の丘」 にも地下鉄を通す工事があり,かって戴冠式を終えたばかりのドイツ皇帝が群衆の前には じめて姿を現わした神聖な場所を深く掘り下げたことがあります。元来この地域は1945年 に灰塵に帰しており,レーマーの建物もわずかに一一部を残すのみでありましたから,復興 都 築:ゲーテは何故フランクフルトを去ったか一ドイツの都市の印象一 137 のための工事が科学的探究心のために絶好のチャンスを与えノニとになります。ところで, そこから古代の遺跡が発掘され,5000年以来いくっかの文化が地下に層をなして眠ってい ることが判明したわけです。まずケルト人の原始的文化がありますが,これ自体マイン河 の氾濫によって何度も交代したであろうことが想像されます。やがて,ここはローマ時代 にローマの植民地となり,ローマの軍団に属すると思われる浴場が造られております。さ らに中世に入り,794年にカール大帝がフランクフルトに諸候,司教,法王の使節を召 集しておりますが,カール大帝及び2代目の後継者ルートヴイッヒがこの地区,っまり, ローマ人の浴場の上に,王宮を建てております。以上はフランクフルトのいはば考古学的 な歴史に属するものですが,ホーエンシュタウフェン朝時代,1200年頃の城郭は現在のグ ラーベン通りにあり,ゲーテの生家があるヒルシュグラーベンもそこに含まれておhります。 Hirschgraben(鹿濠)という名は,町の籠城に備えて,かつて濠に鹿が放し飼いされたこ とに由来するものです。 さて,1356年以来,カール四世の発布した帝国法Goldene Bulle にフランクフルトが 皇帝の選挙の地として確定します。戴冠式は従来通りアーヘンで行なわれましたが,これ もまた1562年にはフランクフルトに移行しております。従って,この地で34名の王が選ば れ,10名が戴冠されたことになります。 1372年にはフランクフルトはSchultheiβ,っまり帝国官吏の地位を買い取って,自由都 市となります。一般にReichsstadt(帝国都市〉は諸候の支配下にあるLandesstadt(領 封都市)と異なり,皇帝に名目上属するが,実質的には自治権を持っております。こうし て,フランクフルトは皇帝と諸候の争いには中立を保ち,徴税,市,都市拡張等の権利を 確保して行きます。このころフランクフルトの境界は現在の内側のCity−ring(環状道路) にあったわけです。ところが30年戦争の頃,大砲の改良に基づいて安全性を喪失したので, さらに補強の工事がなされたわけです。っまり,城郭の外側に土塀を築いてこれを補強し, その外側に濠を造り,さらにその外側を第二の壁で囲んだわけです。しかも砲台を設置す るため外側の壁はその部分だけ迫り出すわけで,現在外側の環状道路がジグザグの進行を するのもそのためです。 さて,それでも,おおよそこの時代のフランクフルトの人口は約2万3,000人です。因 みに,現在のフランクフルトは人口64万で,さらに150万を含む地域の経済的,文化的中 心であります。参考のために,1977年の資料に基づき,人口によるドイツの都市の大きさ の序列を上げるならだ,西ベルリン,ハンブルグ,ミュンヘン,ケルン,エッセン,フラ ンクフルト・アム・マイン,デュッセルドルフと並んでおり,このうち100万以上がベル リン.ハンブルグ,ミュンヘンで,90万代がケルン,60万代がエッセン,フランクフルト, デュッセルドルフ,ドルトムントです。さらに50万代がドゥィスブルク,シュトゥットガ ルト,ブレーメン,ハノーファーであり,40万代がニュールンベルク,ボーフム,ヴッパ 一タールとなっております。その中で私に好印象を与えた町はブレーメンとニュールンベ ルグでしたが,それもおそらくこの町がなお類型を保持していること,人口の増加が類型 を破るに至っていないことが原因のようです。ブレーメンとニュールンベルクではなお, ●・ sの風景に出くわしましたが,フランクフルトのRomerbergからは,年間の特定の日を 除き,市がすっかり姿を消してお・ります。これはKleinmarkthalleに収容され,恒常化さ れたということですが,どっちみち近代化に他なりません。 138 茨城大学教養部紀要(第15号) さて,フランクフルトにおいて,すでに1805年に町の城郭や要塞が撤去されているのは 意味深いことです。つまり,19世紀はフランクフルトに急激な都市の変化をもたらした時 代と言えるでしょう。1810年にフランクフルトはハーナウ,ヴェッツラー,アシャッフェ ンブルク,フルダを含めて一つの大公国Groβherzogtumを形成し,ダルベルク候爵に臣 従を誓うわけですが,1813年には再びこれを撤回しております。これはナポレオンの指令 に基づくもので,一一つの歴史の幕合劇であります。さらに1848年フランクフルトのパウル スキルへでドイツ最初の国民集会が開かれたことは余りにも有名です。その際,オースト リアを中心とする大ドイツ主義とプロイセンを中心とする小ドイツ主義が争い,結局後者 に結着を見,プロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム四世をもってドイツ帝国が形成 されるわけですが,この皇帝は帝冠を拒否することによってフランクフルト国民集会の成 果を踏みにじることになります。やがて1866年にフランクフルトはプロイセンに併合され, プロイセンの一地方都市として,570万グルデンの銀貨を8台の列車を連ねてベルリンに 運んだことが,一っの屈辱として語られております。しかし,こうしたことでフランクフ ルトの経済は沈滞せず,1877年にはボルンハイムを加えて拡張発展して行くわけです。今 日金融業の中心として国際的な地位を保っているフランクフルトが1945年には潰滅的な打 撃をこうむっていることも忘れてはならないでしょう。フランクフルト市民は古き良き時 代を思い起こしながら,最近の醜悪,頽廃,非人間性を指摘しますが,しかしフランクフ ルトの歴史には,みずから類型を打ち破って行く前衛的精神がないとは言えないようです。 さて,こういう性格の町で,私共生活を開始したわけです。外国人が多く,ドイツ人は 半数程度かと想像したほどですが,厳密には52万のドイツ人に対して12万の外国人が含ま れております。ドイツ人好みの樹木に囲まれた閉静な地域は家賃も高いので,結局われわ れが選んだ場所は外人労働者区域に隣接し,程遠くないところにあるAutofriedhof(自動 車墓地)が窓から見る風景を著しく損うところにありました。 さて,私が留学の地としてフランクフルトを選んだのは,言うまでもなくフランクフル トがゲーテのイメージにつながる町であるからです。フランクフルトにはゲーテ大学とい うゲーテの名に因んだ大学があります。一般にドイツの大学は高名な人物の名を帯びる習 慣のようだから,ゲーテ大学が特にゲーテ研究のために建てられたわけでないことは勿論 です。創立が1914年ですから,その歴史の浅いのにまず驚かされます。確かにゲーテ時代 にゲーテ大学があり得ようはずもないことは明らかで,むしろゲーテの死後100年たって, ゲーテの故郷の町フランクフルトの大学にゲーテの名が付けられたことの方が意味深いの かも知れません。ところで,建物の歴史が古いか新しいかは,地図上の位置を確認すれば, お・お・よそ見当がっきそうです。私にとっては市電でボッケンハイマー街道を行き,Bocke一 nheimer Warteで降りるのが一番の近道でした。この停車駅にはこの名に対応する一つ の見張塔が建っておりますが,これは1435年に建てられたものです。かつて,ケーニヒシ ユタインの護衛隊がフランクフルトの市からやって来る商人をここで出迎えたということ です。ケーニヒシュタインは風光明媚な保養地で,今なおタウヌスの山中に城吐をとどめ ておりますが,これは1796年にフランス軍によって廃櫨にされたものです。ともあれ,ゲ 一テ大学をRδmerber9を中心とする放射状の町の発展の中に置いてみると,中央駅より 外側に位置しております。中央駅の開始は1888年ですから,ゲーテ大学よりやや歴史が古 いわけです。その点ハイデルベルグの旧大学の建物が最初の城郭の内側にあるというのは, 都 築:ゲーテは何故フランクフルトを去ったか一ドイツの都市の印象一 139 この大学の歴史の古さを物語るものです。ゲーテ大学は1967年以来ヘッセン州立大学であ りますが,その創立に際してフランクフルトの書箱商JUgelの多額の寄付に頼っており, 今でも中心の建物はこの人物の名に因んでJOgel−Hausと呼ばれております。 さて,フランクフルトに来てゲーテを体験するに至ったかと問えば,やや心許ない心境 です。勿論研究のレヴェルでは今日どこにでもある程度の文献は備わっており,それほど 地域差はないと思います。ゲーテ大学で興味を持った学者にR.R. Wuthenow, Christa Burger, E. Fischer−Lichte 等がありますが,彼等はゲーテ・プロパーの学者ではなく, ヴーテノーにとっては審美主義が,ビュルガーにとっては文芸社会学,フィシャー・リヒ テにとっては構造主義がそれぞれ本領でもあります。従って,グンドルフや木村謹二氏の ような,ゲーテ精神にのめりこむタイプの学者ではありません。っまり,ゲーテ研究から 一・ ツの人間学的テオリーに至るのではなく,彼等にとってはゲーテの外部にすでに独自の テオリーがあると思われました。 さて,Th.マン研究者がリューベックを, カフカ研究者がプラハを訪れるのは,作者 及び作品世界とのいわば生の遜遁を経験したいからでしょう。勿論経験即精神でないとこ うに常に問題はあります。ゲーテは「詩と真実」の中で,1764年4月3日のヨーゼフニ世 のローマ王としての戴冠式を詳しく描いております。私もまた「ローマ人の丘」に立ち, 群衆の一人になったっもりで,皇帝とローマ王が大聖堂からレーマーへ渡された板張りの 橋を,従者にかしずかれながら,徒歩で行き,やがてレーマーのバルコニーに姿を現わす 光景を想像してみたものです。戴冠式の一連の儀式の描写を通じて,少年ゲーテを支配し ている自由都市フランクフルトの市民たる誇りが彷彿として浮かび上がって来ます。 勿論ゲーテは単なる一市民以上のものでありました。母方の祖父テクストル氏は市長, Schultheiβの地位にあり,文字通りフランクフルトの第一人者でした。それが少年ゲー テにとってどれほど得意であったかは,「詩と真実」の描写にうかがわれます。それにっ けても父方の祖父がただの宿屋の経営者であったというのは少年ゲーテにとって屈辱であ ったに違いありませんが,晩年のゲーテはこれを淡々と受けとめてお』ります。ゲーテの先 祖に関して高橋健二氏の評伝から引用してみます。「祖父F.ゲオルク・ゲーテは仕立屋 として地方のチューリンゲンから誇り高い自由市フランクフルトにやって来,1705年,評 判の高かった旅館を持っ南方出身の未亡人を後妻に迎え,それを一流旅館にもりあげ,巨 富をなした。1701年に生まれたヨーハン・カスパール・ゲーテは,その財産をふやしはし なかったが,親ゆずりの金力で,金に糸目をっけず,自分のひとり息子ゲーテの教育を計 ることができた。ゲーテの父はライプチヒ大学を出て,弁護士の資格を得たが,その間に 父が死んだので,母を助けて旅館を売り,1733年,大ヒルシュグラーベンに二軒続きの家 を買い取って,移り住んだ。それがゲーテの生まれた家である。」 このようにゲーテの父方の先祖は高貴ではないが,金持ちではあったわけです。ゲーテ の父も学識はありましたが,その学識を有効に生かす道を考えないで,金力でもって帝室 顧問宮の称号を買い取り,市長の娘に求婚し,こうして子供の教育を除けば,およそ無為 の有閑貴族の道を選んだわけです。 さて,いずれにせよゲーテはフランクフルトの上流市民の出であり,ゲーテ・ハウスに 見られる貴族趣味はブルジョア的な富裕さを物語るものです。しかるに,そのゲーテが何 故に自由都市フランクフルトを去り,小さな公国の主都ワイマールで生涯を終えることに 140 茨城大学教養部紀要(第15号) なったかは,未だに謎と言う他ありません。勿論,従来通り,ゲーテを青春,壮年,老年 の三局面において捉え,精神の有機的発展を辿ることは,人間学的に常に興味深い事柄で あります。もとより,これはでき上がった事実を踏まえての解釈ですが,しかしゲーテが 一生フランクフルトにとどまったらと,接続法による仮定をしてみることも可能です。こ の立場に立てば,ゲーテのワイマール宮廷への臣従は,市民精神に対する裏切りであり, 時代錯誤とさえ言う学者もあります。 さて,こうした場合図式化に陥ることの危険さは常にあるようです。ゲーテはフランス 革命の精神を肯定しておりますが,ジャコバン党の恐怖政治には顔をそむけました。また, ゲーテはフランクフルト市民たることの誇りを感じておりましたが,しかしゲーテの最も 身近かなところにいた父親は,はたしてエグモントのように自由と寛容の精神を体現して いたでしょうか。ゲーテの父親はずい分窮屈な男でありまして,おそらく若きゲーテに とって,封建制度よりも父親の存在の方が,はるかに有害な栓桔であったかもしれないで しょう。勿論ゲーテの父親は息子に対しては甘く,ライプチヒ大学遊学中,フランクフル ト市参事官の給料に相当する額を仕送りしているほどで,ゲーテにとって,当分親のすね をかじることも可能であったでしょう。しかし,ゲーテの本性は,あくまでも精神的に自 立すること,市民として有意義な活動を見出すことにあったわけです。当時のドイツに著 作権が確立しておれば,あるいは事情は変わったかもしれません。そうであれば,デビュ 一作「ゲッツ」をもってしても当分経済的に自立することは可能であったでしょうが,数 多い海賊版はゲーテの名声を保証するとはいえ,自費出版の赤字を埋め合わせることさえ できなかったわけです。一方フランクフルトにおけるゲーテはウェルテルのように無為の 生活に悩んでいたとも言えます。弁護士としての業務は父親がさっさと片づけてくれました が,残された余暇を充たすべき真に意義ある活動は発見されずにおりました。ゲーテの「 ウェルテル」の中で,封建制度のみならず市民生活まで槍玉に上がっているのは,若きゲ 一テの精神状況の昏迷を反映しているものです。だから,ゲーテがフランクフルトにとど まったら,あるいはバイロンのように自滅する以外に道がなかったかもしれません。 ゲーテは晩年において「詩と真実」の中で,何故に自分がフランクフルトを去らねばな らなかったか解釈を試みております。あるいは「詩と真実」そのものがその動機を明かす ために書かれたのかもしれません。しかし,ゲーテの説明は必ずしも納得の行くものでは ありません。 「ゲッッ」や「ヴェルター」で一躍有名になったゲーテはフランクフルトの 銀行家シェーネマンの娘リリーと婚約するに至るわけですが,ゲーテはこの美しいリリー を逃がれるためにワイマールへ遁走を試みたという次第です。勿論このいきさっは紆余曲 折を極めており,最初イタリアへ遁走するっもりでスイスまで来るのですが,リリーに対 する未練からフランクフルトに引きかえすわけです。そのリリーにっいて,ゲーテは晩年 自分が最も愛した女だと言っております。 「ファウスト」のグレートヘンのモデルとされ るフリーデリケ・ブリオンでもなければ,ウェルテルを狂わせたシャルロッテ・ブツフで もなかったわけです。ゲーテがリリーから去ったのは,ゲーテ独自の結婚生活に対する恐 わけでないのは,後年のクリスチャーネとの関係を見ればわかることです。リリーとの結 婚から生ずるであろうブルジョァ的な華やかさとワイマール宮廷の質実剛健は妙な対照だ と言えるでしょう。ワイマール大公の尽力でゲーテが貴族に昇格されたことに関し,ゲー 都 築:ゲーテは何故フランクフルトを去ったか一ドイツの都市の印象一 141 テは,フランクフルトの旧市民はとうに自分達を貴族のレヴェルにあるとみなしていたか ら,大して驚くにはあたらなかったと述懐しております。 さて,ゲーテはリリーを愛していたとはいえ,リリーを取り囲む社交界を確かに愛して はいなかったようです。一般に富裕な市民が持っ貴族以上の貴族趣味は,同類に対する排 他的意識に根ざしたもので,ある種の没趣味でもあります。従って,ゲーテのワイマール への移住を階級的上昇をめざす市民のエゴイズムとして一般的定式に当てはめるのは危険 であって,むしろゲーテにとって栓桔を意味したものは,まず第一にフランクフルトの市 民相互の排他的身分意識であったと思われます。これを例証するものとして,1731年のフ ランクフルトの衣服取締令を上げることもできるでしょう。ここでは身分は,上は主要高 官から下は召使に至る5段階に分かれており, 「市民」という共通の階級意識から程遠い ものがあります。こういうフランクフルトを去りワイマールに移住したゲーテが一自由都 市,一公国,それどころか一国家を越えてヨーロッパの理念に到着したことは確かですが, フランクフルトにとどまればドイツのバルザックになったであろうと速断するわけにもい かないようです。 さて,私がワイマールを訪れたのは1981年の9月初旬,フランクフルトに来てからすで に一年以上たっております。その間西ドイツはあちこち見て歩きましたが,ゲーテ研究者 の義務意識からどうしても一度はワイマールを見ておこうという気になりました。周知の 如く,ワイマールは現在東ドイツにありますから,滞在許可が必要になります。フランク フルトの旅行業者に6週間前に予約すれば,旅行業者の方で必要な手続きを取ってくれま す。私は一日本人旅行者だから無害ですが,西ドイツ市民の場合はもっとむずかしいでし よう。ワイマールでも,血の通いあった者同志,久々の出合いを楽しんでいると思われる 風景をみかけました。私はフランクフルトからベーブラーゲルストゥンゲンにて国境を 越えワイマールに赴きました。距離的には283キロだからデュッセルドルフに行くのと大 して変わらないわけですが,国境のパス・コントロールにおよそ2時間を要します。とも かく,戦後の東・西ドイツの分離は,ドイツ民族のみならず,ゲーテ研究者にとっても不 幸な事態です。 さて,ワイマールは現在人口6万3000の小都市です。 フランクフルトが人口10万であ った当時は7,8000人程度でした。 駅からレーニン通りを徒歩で20分ほど行くと旧市街に至ります。旧市街には今なお・シラー 通りやゲーテ広場がありますが,その周囲をエンゲルスやリープクネヒト等の名に因んだ 通りが囲んでおります。また,しばしばソヴィエトの政権を讃えるポスターがかかげられ ているのも奇妙な印象です。私は午後,広場に面するホテル・エレファントに到着し,翌 日に備えて,おおよそ町の概観を捉もうと思って,散策に出かけました。カール・アウグ スト大公の宮殿,ゲーテ,シラーの夢を実現するはずであったドイツ国民劇場,シラー通 り,ゲーテ・ハウス等外側から眺め,橋を渡って,イルム川の向こうの公園にあるゲーテ のガルテンハウスまで赴きましたが,なお日没まで間がありました。それから市役所地下 のレストランの入口で夕食のために並んでいる人々の列に加わったものです。今なお世界 各地から観光客を引き寄せているこのワイマールという小都市は,2,3時間もかければ 路地まで見尽せるでしょう。 さて,現在は美術館として用いられているカール・アウグストの宮殿は,ゲーテ時代に 142 茨城大学教養部紀養(第15号) ゲーテの理念を生かしながらイタリア風の様式で建てられたものです。18世紀においては 居城はもはや要塞としての意味を持たず,王候の権勢を代表する性質のものとなりますか ら,周囲をめぐらしていた濠も埋められることになります。ワイマール宮殿は過去に幾度 も火災に見舞われておりますが,1774年にも落雷のため焼失しております。その直後1775 年11月,ゲーテはワイマールに移住しているわけですが,宮殿は公国の財政的貧困のため 当分放置されたままになっておりました。ともあれ,周囲を田園に囲まれた小都市ワイマ 一ルになお王候の宮殿が堂々と構えているのは不思議なことです。18世紀において,ワイ マールはフランクフルトとライプチヒをっなぐ通商路からはずれており,おのずと商業の 発展は阻まれていたから,国の財源は概ね土地と農民が支えていたと言えるでしょう。町 自体が宮殿の一部であり,市民自体が王候の下臣であるという領封都市の場合,フランク ルフトのような自由都市とまた別の意味で保守的であります。1783年,プロイセンの首都 ベルリンにおいてさえ,人口14万のうち完全市民は約1万で,人口の約3分の1は王候に 依存する特権市民であったということです。ましてその小型版とも言うべきワイマールに 被支配階級の自発的意志等あったはずはありません。 ゲーテの革命劇が庶民不在であると言って非難されますが,エグモントのような庶民の 精神を体現する一人の偉大な人物を描いて他に何の不足があろう,とゲーテなら言うかも 知れません。実際ワイマールのカール・アウグストはエグモントのように自由,高遭,寛 容の人であったようです。ゲーテはワイマール公国よりも,おそらくこの人物に生涯の夢 を托したのでしょう。フランクフルトには身を滅ぼすほどの自由があったとすれば,ワイ マールには前向きに実践する自由があったと言えるでしょうか。実際ゲーテがワイマール に移住してからの10年間に実践したことは,まさに庶民のために,ワイマール公国の行政 を改革すること以外のものではなかったわけです。たとえば大公の軍隊を減らしてその分 だけ人頭税を軽減したこと等が上げられます。しかし,こうした啓蒙主義的な改革の試み が壁にぶっかったのは,当時のドイツとしては,思うに当然のことで,ゲーテはまたして も逃亡を余儀なくされます。こうしてゲーテがイタリアで構築して持ち帰った古典主義の 理念とは,現実にそっぽを向き,非政治的で,周囲に垣をめぐらす理念でありまして,多 分その頃にあのハイネやベルネに非難される,ゲーテの冷たくよそよそしい,超然とした アポロ的詩人像が確立するわけです。しかしフランクフルトの青春を通りすぎて来たゲー テにとって,ヘルダーリンやG・フォールスターを滅ぼしたジャコバン主義の危険さが分 からないはずはなかったと思います。目に見えない,捉え難い,理念のための理念に身を 投ずるほど,ゲーテはもはや若くはなかったわけです。ゲーテが晩年にバイロンを自己の 分身のように讃えたのは幾分不可解なことですが,こうしたカオスへの衝動,破滅への意 志はすべてフランクフルトの青春に起源を持つものです。 さて,ワイマールは今でもドイツの典型的な小都市に属すると言えるでしょう。この町 の何がゲーテに救いの力を発揮したのか単純には言えないでしょう。それはまず第一にア ウグスト大公やルイーゼ公妬やシュタイン夫人をめぐる人間関係がかもし出す雰囲気であ ったでしょうが,周囲にはなお牧歌的な自然があり,全体を見渡せる人間の営みがあり, なかんずく有意義な実践の見通しがありました。神聖ローマ帝国という空洞化した権威が なお亡霊のように被いかぶさっているフランクフルトやヴェッツラーには有能な若者を生 かす空間がなかったとも言えます。実際ウェルテルを情熱に駆り立てたものも,現実にひ 都築:ゲーテは何故フランクフルトを去ったか一ドイツの都市の印象一 143 そむこうした倦怠であったと言えるでしょう。 ともあれ,ゲーテはワイマールにおける活動を通じて,10年の後,有意義な典型の理念 に到達するわけです。彼はイタリアのシチリア島で根本植物Urpflanzを見たと言い,そ の絵を書いて見せるほどですが,その自然科学的評価はともかく,それが人間学的な意味 を帯びていることは確かです。っまり,あらゆる植物の原型を意味する一つの種が地中海 の島にはえているということは,単にその事実だけが問題ではないようです。なぜなら, 彼がイタリアで体験したところの自然と人間の営みの調和もまた美の典型であり,あらゆ る文化的活動の模範たり得るという含みを持っているからです。ところで,この主張がわ れわれ日本人にとって意昧を持つのは,むしろイタリアをドイツに,西洋古代を西洋近代 に置きかえて見るときではないでしょうか?ドイツの,ないし西洋の大部分の都市は中世 に由来するもので,今なお初期の類型を保持しております。町の中心にある大聖堂,広場, 市役所,そして周囲を囲む城郭がそれです。つまり,王権に保護されて始まった商業的活 動が自立し,王権に対抗し,やがて西洋近代文化を支える倫理的基盤を作ったということ です。 ルネッサンス以降の古代の復活とは,文化の連続を文字通り意味するものではなく,王 権や宗教的観念に抑圧されていた新興階級に,古代が新しい人間の理念を提供したという ことです。従って,われわれ日本人がゲーテ同様イタリア旅行を企ててもゲーテと同じ理 念には到達しないでしょう。むしろ,われわれにとって西洋体験が意昧を持つのは,目下 われわれを支配している近代資本主義文化の源流がそこにあるからです。勿論文明の構造 自体いたるところ共通の没個性,捉みどころのなさを示しているのですが,しかしフラン クフルトの地図がなお都市の起源を認識させてくれるように,われわれは,西洋文化の異 質の精神的基盤に気づいて驚かされることがあります。大聖堂の中のひんやりした空気と 蒼弩のように巨大な空間は,私を荘厳な気持ちにさせてくれはしましたが,宗教的な壁画 や浮彫や石像をっいに愛着をもって眺めるには至りませんでした。キリストの傑刑を媒介 にしなければ成立し得ない社会は,逆説的に言えば,深く自我に根ざした社会でもありま す。現代の日本人は文明にお』いて西洋をしのぐ感がありますが,西洋人は日本の企業倫理 をある種の家父長的意識とみなしているようです。西洋人には全体のために自我をおさえ, 留保することはできても,全体のために自我を捨て去ることなど思いもよらぬでしょう。 さて,ゲーテは自己の美意識にそってワイマールの町そのものを改造しておLります。宮 殿にはゲーテの理念が生かされているし,彼のフラウエンプランの持家もイタリア風に改 造し,広いトレッペンハウスを設けてお・ります。しかし,とりわけ彼が愛したイギリス風 庭園こそゲーテの美意識を感じさせるものと言えるでしょう。イルム川にそって広大な庭 園が拡がっておりますが,曲がりくねった道と樹木がたえず視界を遮り,変化に富む風景 を与えてお・ります。たとえばヴェルサイユ宮殿には幾可学的均整を保った果てしない人工 庭園が拡がっておりますが,そこに立つと自己の卑少さがみじめに感ぜられてきます。そ こには無限なもの,偉大で崇高なものが支配しておりますが,自然が親しみ深く訴えて来 ることはないようです。その点ワイマールのゲーテ公園では,視界は樹木によって遮られ 無限へ拡散することはなく,たえず自然によって囲まれているという意識をもたらしてく れます。ここには自然と人間的営みの調和という文化理念が実現しているわけですが,こ れはもはやイタリア的なものというよりも,むしろ極めてドイツ的なものではないかとい 144 茨城大学教養部紀養(第15号) う気がしてきます。なぜなら,ワイマールの町がゲーテの威光によって特別のものにされ たとはいえ,この町も結局のところドイツの多数の小都市の類型に属していると思われる からです。自然と人間的営みの調和を実現する町は,おのずから全体を一望のもとに捉え られるほどの規模を要求するでしょうが,こうした小都市は,実際旅をしてみると,丘と 川と平野が交代するドイツの自然の中に無数に点在しております。 さて,国際都市フランクフルトを去りドイツの一地方都市ワイマールへ移住したゲーテ は,皮肉にも国民文学の代表者となり,ドイツの国民文学を世界文学のレヴェルに高める に至ったわけです。しかるにゲーテの理念の現実的基盤は,ドイツの国家的統一一を政治的 に推進したプロイセンの精神とまさに相反するものではなかったかということです。ゲー テの文学は地方的・民族的な感受性に根ざすもので,伝統的な共同体の枠内にあったと言 えます。それ故にこそ,ゲーテの文学はみずみずしさを保ち,典型的にドイツ的なものと なったわけですが,一方ドイツの国家的統一をもたらしたプロイセンの軍国主義と官僚主 義もまた,あるいは一っの地方的な特質にすぎなかったのではないか,という疑問もわい て来ます。 さて,ゲーテの死後100年は文明の世紀であり,ナチスの台頭とドイツ帝国の崩壊をも って一つの時代が終ったと言えるかもしれません。今日,西ドイツの注目すべき政策に, Fδderalismus(連邦主義)があり,州と都市と地方に自治権が戻ったことを意昧するわ けですが,これ自体典型的にドイツ的なもの,すなわち領邦分立主義のある種の復活であ ります。ドイツを体験してみると,かつてドイツ統一を阻んだこのドイツ的なものが,今 日文明の病理と没個性にすぐれた薬効として働いていることが分かります。どんな小さな 町にも教会は無論,図書館.美術館,博物館があり,また音楽会が催されております。ド イツにいますと,まことに文化というものが地方に根ざすものだという実感がわいて来ま す。その点,余りにも文明化し,都市も地方も特色をなくしてしまった日本人としては, このドイツ的なものから何かを学び得るのではないでしょうか?