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Title Le Diable et Le Bon DieuのDosiaについて
Title Author Publisher Jtitle Abstract Genre URL Powered by TCPDF (www.tcpdf.org) Le Diable et Le Bon DieuのDosiaについて : Sartreにおけるcomplexe d'Œdipeの問題 永井, 旦(Nagai, Akira) 慶應義塾大学藝文学会 藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.45, (1983. 12) ,p.227(116)- 244(99) Journal Article http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00450001 -0244 Le£ t i α b l ee tLeBonD i e uの D o s i aについて 一 一 S a r t r e における c o m p l e x ed’ αdipe の問題一一 永井 慶慮義塾大学図書館所蔵の 旦 J ・ P .S a r t r e:Le D i a b l ee t LeBonDieu の草稿2 2葉は,大別すると次のように分類される。第一幕第二場第一景に 関するもの 2葉(A 1 2),同第二景に関するもの 1葉(B 1),同幕第三場第一 1 ふ同第二景に関するもの 2葉(D 1 2),同第三景 景に関するもの 8葉(C に関するもの 8葉( E 1 s),そしていずれに係わるとも判別し難し、もの 1葉 ( F 1)である。このうち草稿 C群および E群については,それぞれ最少限二 種の異稿が混在する。草稿にはいずれも頁数は付されておらず,草稿各頁 間の関連は内容の解読を通じてのみ推定し得る。したがって欠落部分の存 在はもとより,異種草稿混入の可能性も否定できない。 本稿では,上記第一幕第三場第一景(草稿群 C)に的をしぼり,登場人 o s i a の提起した問題について,若干の分析を試みる。 物 D 本 草稿群 Cに,少なくとも 2種の異稿が交さ っていることは, ° 3 t a b l e a u , e 0 rと記された書き出し部分が 2葉(C i .C s)存在することからも明 Scenel らかである。この二種の異稿は 7葉( C 1ー 7)対 1葉(C s)のグループに分割 し得るが, その根拠は主として登場人物の異同, とりわけ D o s i a なる女 性登場人物の存否に係わっている。(C 1 1 のグループも, 原稿用紙の質を 手掛かりに分類すると,さらに C i 5 ,C 6ー7 の 2グループに細分される。) D o s i aは C1-1 には登場するが, C s には姿を見せなし、。むろん初出誌 Les Temps Modernes ( Ju i n1 9 5 1)にも, Gallimard 版の決定稿にも (99) -244- 現われていなし、。つまり D o s i aは 推 般 の 過 程 に お い て 抹 消 さ れ た わ け だが, .d eB e a u v o i r の回想録に次のように触れられてい その経緯は S る。「貴族階級はドージアなる女性によって表現されていたのだが, サル トルはこの女に手こずり,カトリーヌとヒルダのために彼女を追い出し o s i aは B e a u v o i r の述べるようにたんなる貴族階級の象 た。」しかし, D 徴に留まってはいない。「コンラッドの奥さんのドージアね。あなたの噂 2 における C a t h e r i n e のせり はゲッツから聞いているわ」という草稿 C o s i aは G配 t zの裏切りにあって死んだ兄 C o n ふからも明らかなように, D r a d の妻であり, この場面では,復讐のために彼女は G o e t z のテントに o s iaは草稿 C s 以降, 忍び込んでいるのである。前述のごとく D したが, 姿を消 z をつけ狙うため刺客がテント 彼女のせりふの一部および Gぽ t o s iaの役は奇妙な に潜むという状況設定は,そのまま決定稿まで残り, D ことに士官 Hermann によって引きつがれることになる。 いっぽう Hermannは,草稿段階においては Hermann という固有名 詞では現われていない。決定稿で Hermannが登場するのは,一幕二場一 , C群では士官たちは 1 e ro f 景と三場一景および同四景だが,草稿 A, B f i c i e r ,° 3o f f i c i e r(もしくは l ’ o伍 c i e r3 ) ,4 。o f f i c i e r とのみ記され, 回有 名詞を持っていない口これらの士官のうち 3 "o f f i c i e r がほぼ Hermann に移行すると考えられるが,その過程は三幕一場の卜書を比較することで 跡づけられる。草稿 C i では,「D o s i a ,l e° 3o f f i c i e rp u i sC a t h e r i n e Jと s では, I l e3 eO自c i e re n t r ee tt e n t e 簡単に登場人物名だけが列記され, C d es ec a c h e rd e r r i e r el el i tdecamp.」となり,決定稿では,この l e3 ° o f f i c i e r の部分が Hermann に置きかえられる。つまり草稿 C,の段階で o s ia と ° 3 0伍 c i e rの両者が登場し,二人で共謀して Gぽ t zの暗殺を は D 謀る。(共謀というより, ° 3o f f i c i e r が手引きして D o s i aの計画を助ける, o s i a の消滅により 3 eo 伍c i e r と云った方が正確で、あろうか。)それが, D が主犯(単独犯)の位置に格上げされ, Hermann という固有名詞を与え られることになった。だが,暗殺実行者が変われば,とうぜ、ん暗殺の動機 eo伍 c i e rと も変質せざるを得ない。ところが Hermannは,そもそも 3 24:3- ( 1 0 0 ) いう符せで l 呼ばれていた見で, j J i j有名詞化されるほどの脳性も, G c e t . zと の深い係わりも持つてはいない。したがって, D o s i a の消滅と共に G田 t z 暗殺の必然、性も希薄になり,戯曲全体の中で占める一幕三場の比重ははな a l l i m a r d版のせ はだしく軽減されてし、く。一幕三場一景に限定しでも, G りふの総量は 42行で、あるのに対し,草稿 C 1 1 では斜線抹消の部分を含め ると 8 7行に及ぶ。そのうち,草稿 C i -7 からほぼそのままの形で決定稿に 1行にすぎない。また,草稿 C群中の白眉ともいう 残った部分は,およそ 2 べき D o s ia と C a t h e r i n e の対決の場面も,当然のことながら草稿 C s以 降,全面的に削除されてしまう。これらの原稿推敵の作業は,かなり慌た 3o f だしくおこなわれたらしく,決定稿においても,一幕三場一景では ° f i c i e r を Hermann と同一人物としておきながら, 二場ー景ではこの二 人は別個の人物として登場する。 このような混乱は, o s iaを 劇中より D z暗殺の役割を士官の一人に引きつがせたところから 抹消する際に, Gぽ t 生じたものであろう。しかもこの作業は二段階にわたっておこなわれ,ま eo f f i c i e rに D o s iaの役を負わせ,ついで彼を Hermann ず名前を持たぬ 3 として岡有名詞化しつつ次第にその役を拡大する。草稿 C s では,まだ Hermann の名は見えず, L e sT e 1 η 1 う sl ¥ 1 o d e r n e s版の一幕二場一呆にお いても, Hermannは登場するものの 3 eo伍c i e rは姿を見せず,両者によ る矛盾混乱は避けられている。充分な推敵を経たはずの決定稿に,政末な z の暗殺と D o s i a ものとはいえ構成の岐綻が見られるのは,やはり Gぽ t とを切り離すことの不自然さに起因すると思われる。 D o s ia には他の誰れ にも増して, G田 t z を殺す明らかな動機があった。 D o s iaは Gぽ t z の兄 Conradの妻であると同時に,死んだ Conradの生れかわりであり, D o s i a のG c e t z殺しは,そのまま兄弟相殺のテーマに結びつくのである。したが って, o s i a)を追い出した」とする 「カトリーヌとヒルダのために彼女( D Beauvoir の記述は, D o s iaの存在と抹消の謂れを正確には伝えていない。 D o s iaは階級的に他の二女性(C a t h e r i n e ,H i l d a)と異なるばかりでなく, Gぽ t zとの関係においてまったく異質の性格を持っている。 S a r t r e自身の a t h e r i n e には Gぽ t z における悪 ( l eMal)の側面が, 言葉によれば, C 4 − EI 唱 山 つ 、 〆 tt 、 、 , , ノ ー ー ハ υ H i l d aには善 ( l eB i e n)の側面が投影されているわけだが, D o s i aはこの ような善悪の対立ばかりでなく,女性を対象とした肉体と精神の二尤論か sに見られ らも遠く離れ,むしろ男性原理によって装われている。草稿 C る次のようなせりふ, D o s i a「私は男のように強いのよ」, C a t h e r i n e「私は kらしく柔らかし、わ」に,その証左の一端が窺えるし,また Gぽ t z暗殺の 役割が男性 Hermannに委ねられたことからも,このことは明らかであろ o s i aは女性でありながら男性の影を負い,夫 Conradの亡霊となり う 。 D 復讐劇を演ずるわけである。かくして D o s iaのエピソードは, とりも直 eidenstamm家の正統な継承者 Conrad と私生児 G c e t zの確執の さず H 物語として読むことができる。 S a r t r eにおける私生児(b a t a r d)の主題は,すでに古典となった観のあ .J e a n s o nの S a r t r e論に詳述されているが, J e a n s o nによれば私生 る F z ,K e e n ,Genetのみならず, 児とは戸籍上の問題ではない。たんに G田 t R o q u e n t i n ,O r e s t e ,M a t h i e u ,Hugoも私生児であり,また b a t a r d c o m ふ d ien としての B a u d e l a i r e もこれに加わる。 さらにこの評論の書かれた 1 9 5 5年以降に視野を拡げれば, 当然、のことながら F r a n zや F l a u b e r tに もb a t a r d i s eが見出され, 時は前後するが B a r i o n a も例外とはされない だろう。 J e a n s o nは,私生児と知識人( i n t e l l e c t u e l),役者(c o m e d i e n ) , 裏切り者(t r a i t r e)の同一性を説き, S a r t r e 的登場人物にとどまらず, 「誰れでもが孤独であり,各人が余計者なのだ。私たちすべてが私生児な のである」と云う。その理由は, F .Georgeの言葉を借りるなら,「神の 死が, ei n c e r t a i n)のもとに生ま われわれの時代を, 定かならぬ父(Pをr しめた」から,ということになろうか。しかし,これではあまりにも状況 を一般化しすぎるきらいがある。たとえば,私生児性の問題が戸籍にのみ 依拠しないとはいえ, 娼婦の捨子 G enetの私生児性と暖衣飽食の家庭で 育った Hugoのそれとを同一水準で語ることはできなし、。普遍化された 状況に個別性を見出すこと,そのためには鮮を持たぬ私生児の自由ではあ るが引き裂かれた心情の裏側に潜む求心的欲望と, 「定かならぬ父」 との 一体化を願うパラノイア的執念を,還元不可能とも思える家族の構造の中 -241- ( 1 0 2 ) に探る必要がある。 S a r t r eの作品では,しばしば兄弟あるいは兄妹(姉弟)の関係が描かれ るが,同じ血縁でもこの二種類の組み合わせは,かなり趣を異にする。後 r e s t eと E l e c t r e ,B o r i sと I v i c h , 者の場合は単なる近親相姦的親密さ(O e n i等)の表現となり,この関係の背後には S a r t r eと母 AnF r a n t zと L n e M a r i e の姿があることはよく知られている。 これに反して前者の場合 は,兄(じつは彼の後楯としての家長)と弟との関係が,近親憎悪的反援 を生む。そしてこの憎悪の正体は,父に対する弟息子の同性愛的憧僚が反 転したものであると解釈される。心理学的には,この向性の親に対する倒 o m p l e x ed’田d i p e)の陰性 錯した感情は,エディプス・コンプレックス(c orme向 a t i v e)と呼ばれてい立 の形態(f S a r t r e の作品を理解する横軸として私生児性の問題があるとすれば, 縦軸としては,自由であるべき私生児が抱く父権への憧れ,この「エディ o s ia の提起した問題を闘明するため プス」の陰性の形態がある。次に, D a r t r eのいくつかの代表作を閲読し,エディプス・コンプレックスの に , S 有様を検証してみよう。 牢 L e sMouches− 一この戯曲における O r e s t eの E g i s t e殺し, C l y t e m - n e s t r e殺しは, 父 Agamemnonへの愛と母 C l y t e m n e s t r e に対する憎 しみの証しとして行われるが,同時に偽の父親 E g i s t eを家長とする擬制 的「家族の三角形ー(t r i a n g l ef a m i l i a l)の破壊をも意味し,支配ー秩序の 象徴である E g i s t eからの権力の奪取が当面の目的とされる。 「私がクリテムネストルを誘惑したのも,王を殺したのも,秩序のため だった。私は秩序が支配することを,私の手によって秩序が支配すること を望んでいたのだ」と E g i s t e は云い, O r e s t eは「王権を失墜させ,正 義を打ち立てるために」 E g i s t eを刺す。かくして O r e s t eは「正義」を 背に負い, 放浪の旅に出ることになる。「ぼくは自分のなすべき行為をし たのだ,エレクトル,そしてその行為は正しかった。ぼくはちょうど渡し r e s t e 守が旅人たちを運ぶように,この行為を肩にのせて行くだろう」と O ( 1 0 3 ) -240- は云う。肩に[正義」を背負った O r e s t e の姿は, S a r t r e の常套的イメ ージである父 Anchise を背負ってトロイアを逃れる Ern~e の姿と重なる。 O r e s t eはアルゴスの民衆の前で,「ぼくはオレストだ,君たちの王,アガ メムノンの息子だ。そして今日は,ぼくの戴冠の日だ」と叫び,正統な王 位の継承を確認しながらも,主座につくことは辞退して「土地も,臣下も r e s t e の肩にある ない王」となるべくアルゴスの街を立ち去る。その時 O のは,父の仇を討って奪回した王権で、あり,「正しき」秩序である。官頭, O r e s t eと E g i s t e の関係は, 見えたが, 終極においては, 自由と秩序の対立としてとらえられるかに 「正しき」秩序と「思しき」秩序の対立に置 きかわり,「隠、れた神」である絶対者 Agamemnonは , O r e s t e の上に君 臨することになる。たとえ O r e s t eが,定着を拒否するアナーキーな姿勢 をとるにしても,である。 LesMainss a l e s−一一この芝居では, H ugo, H田 d e r e r ,J e s s i c aが 「 家 族の三角形」を作る。 Hugoは自分と瓜二つの父に反擁して家出をし,過 去を葬るために入党するが, Hugoが党に求めたものは,新たな父性にほ かならない。彼は,「ぼくは服従する必要があります。服従すること, れがすべてです。食べて, 寝て,服従すること」 i s c i p l i n e)の必要性を強調する。 るための「規律」(d と語り, そ さらに服従す この「規律」が超自 u r m o i)と結びつく経路は,平手易に想像されるだろう。党の命令に従 我(s い , H白 d e r e rに接近した後は, 今度は Hぽ d e r e rが Hugo(および J e s - e r e rの s i c a)にとっての父親の役割をはたすことになる。はじめて H田 d 執務室に入った J e s s i c aは , 「ここは私が小さかった頃の父の書斎みたい に,冷えた煙草の匂いがするわ」と怯く。この J e s s i c a は Hugo の妻で e s s i c aを抱 あるばかりでなく,姉でもあり,母でもある。したがって,「J e r e rを撃つ Hugo」という構図は,典型的なエディプス・コ 擁する H田 d ンプレックスのドラマとして解読することができる。しかしこのエディプ ス・コンプレックスは, ormep o s i t i v e)をとるが, 外観は陽性の形(f 内 実は陰性の性格を持っている。なぜ、なら, Hugo と J e s s i c aは「愛し合っ ていなかった J 故に,そこには嫉妬の介在する余地はなく,また Hugoに -239- ( 1 0 4 ) H f 町l e r e 1 ’は競争者であるよりも, 愛の対象そのものであったの とって, だから。 Hugoは、,「ぼくはエドレールを愛していたんだ,オルガ。誰れ よりも彼を愛していた。彼の姿を見,声を聞くのが好きだった。あの子と 顔が好きだった。あの人といっしょにいると,どんな苛立ちも鎮まるん だ」と告白する。 I I 白 d e r e r も「 f tを助けてあげよう o ' . P t "を大人にしてあ げよう」 e r e rを と Hugo に父親らしい子を差しのべる。 Hugoが H田 d 撃ったのは,その Hぽ d e r e rの愛を失ったと思ったからである。終幕にお αdererの死に樫史的意義を与えるために,党の粛清を いて, Hugoが H 1 i -受するのも,父を負って歴史の流れを渡る Enee的行為と取ることがで きる。 これはいわば父と息子の心中行であろう。「ぼくはまだエドレール を殺さなかった,オルガ‘。まだだった。今,これから彼を殺すのだ,ぼく といっしょに J と Hugoは幕切れで叫ぶのである。 L e sS e q u e s t r e sd’ A l t o n a一一一父と息子の心中のテーマは, この作品にお e r l a c h家の人び いてさらに明瞭に描かれる。ここに登場する作中人物, G renom)を持たず, とのうちで,父親のみが名前(p a t e r n i t e)の象徴となっている点, 般的な父性(p f 間的な存在を超えて一 および家庭のなかに母親 の姿がし、っさい見えぬ点は, きわめて特徴的である。子供たちはこの父親 l _ t界,庵史と係わるわけだが, M.C o n t a tも指摘するご を通して,他者, f t r u c t u r e田 d i p i e n n e)が垣間 とく, ここには明らかにエディブ}ス的構造(s 見られる。 f l t !のように父親は,「思い通りに」息子を作り, む。「フランツを白分のイメージ通りに作り上げるためには, 服従を教えこ お父さんは 何も惜しまなかった。ぼくがあなたから受身の服従しか教わらなかったと しでも,それがぼくのせいでしょうか?」と, Wernerは云う。父と息子 は,支配 服従の鮮で結ばれ,家督相続の手続きを経て息子は父と合体す る。息子の「未来」は父の「過去」にすぎず,父の「会社」は明日は息子 のもの,父の「身体,血,権力,力」は息子の「未来」にほかならない。 F r a n t zは父に向って,「あなたは,ぽくなのです」,「あなたが密告者だか ら,ぼくは拷問の実行者なのです」と云う。父が「原因」であり,息子が 「結果」であるとしたら,結果は原因にいかなる力を及ぼすことができる ワ 臼 。δ ( 1 0 5 ) のか。エディプス・コンプレッグスの構造ーは, ここで去勢コンプレッグス ( c o m p l e x ed ec a s t r a t i o n)の問題につながり,さらに性的倒錯(p e r v e r s i o n ) を生む。 |・・・・・・そうです。 ぼくは無力を知りました 0 ・・・・・・ぼくに何ができ たで、しょう。小指一本も立てられなかった。・・・・・・あのれ事件H のあとで, 権力がぼくの使命になりました 0 ・ー・ーしかし支配者が二人いた場合,たが いに殺し合うか,一方が他方の女にならなければなりません。ぼくはヒッ f l lを流していました。ぼく トラーの女になりました。ユ夕、\ヤ人のラビは, l は自分の無力さの奥に,一悼の同,意のようなものを見ていたのです 0 •• ぼくには最高の権力がある。ヒットラーはぼくを,似借ない,侵すべから ざる日他者に 彼自身にしたのだ。ぼくはヒットラーだ。ぼくは自分を乗 り越えるだろう」という F r a n t zのせりふには,家庭内の権力者である父 親を窓口として社会の権力者と合体する心理的過程が,きわめて倫理的自 覚をこめて語られている。権力者になり代わることで,みずからを他者と し,自己超克する行為が演劇的構造を持っていることは云うまでもない f !:界に還元した作品としては, が,この構造を性的倒錯の l J .Genetの Les Bonnesが思い浮かぶ。 S a i n tG e n e t− ここではとりあえず, S a r t r e の『ジュネ論』に付録と e sBonnesの解釈に焦点をしぼり,倒錯したエディ して収められている L プスの構凶を採ることにする。 おi e n n e のように,舞 この戯山は,ラシーヌ劇のように,あるいは Art 台には一度も姿を見せぬ不在の絶対者を中心に展開する。この不在の絶対 onsieurと 者とは,いわばメタ・レベルの父性の象徴であり,劇中では M 呼ばれている。 Madameは,この M onsieurにとっては女役の同性愛者 ( t a n t e f i l l e)であるが,二人の 9 :中 た ち に 対 し て は 男 役 の そ れ (t a n t e homme)としてふるまう。 Madame の持つこの両義性は,重層構造をな す支配一被支配の関係が,性的に色どられて一人の人物の上に顕在化した ものにほかならない。しかしもっとも疎外された階級に属する女中たち は,支配 被支配の関係の底辺にあって, 「絶対的相対性」(a b s o l u er e l a - t i v i t e)を保ちつづける。 もし彼女たちが絶対者に惰れ, 相対者の地位か A 円 ﹄ り 、、,,/ −a AU , / 、 ‘ 月 i 臼 つ らの脱出を望むならば,その絶対者の役を「演ずる j ほかはない。女−中た ちは Madameの自守中に,「奥さまと女中」ごっこを二人して演じ,想像 界の中で Madameに近づくが,この時 Madameは,みかけは立であって も,女中たちとの関係で,君臨する男,つまり家長の役をつとめている O S a r t r e の分析によれば,「彼 k ーたちは奥さまを愛している。そのことはジ ュネの用 I出に従うと,彼 kたちが二人とも奥さまになりたいと望んでいる こと,日lj の百葉でいえば, fl~ K ーたちを\\くず、げとして扱っている社会の秩 序と一体化したいと願っていることを意味する。また彼 t ぐたちは奥さまを ,、うことは, ジュネヵ:白分を如何した社会を嫌い,その 憎んでもいる o CI 社会を空無化したいと願っていることにもなる」のだ。いうまでもなく愛 と憎しみは,表裏一体となった感情で、ある。 Madameを演じる k中 C l a i r e は,「奥さまを愛しているが故に,奥さまになり代わる。ジュネにとって, 愛するとは,その人になり代わりたいと願うことなのだ。奥さまの中にク レールは消え,彼女は自分の外に逃げ出す。しかしまた彼女は,奥さまを 憎むが故に,奥さまになり代わる。」恨みは対象を非現実化 L, Madame は受動的な亡霊にすぎなくなるのである。 . m 自分を生み出しながら同時に自分を :否する社会(父)に向けての愛と 憎しみ,合体の欲望と空無化の志~, b;は,さらに「フローベール論』におい て詳論されることになる。 l プI d i o td el af m n i l l e GustaveF l a u b e r t の「ぷ質構成」( c o n s t i t u - t i o n)にとって,家紋(父母兄妹)の及ぼす影響の大きさは,第一部の主要 なテーマとなっているが,ことに父一兄−弟の三角形が,この|祭,重要で a r t r eは F l a u b e r t の「異常な」( ext r a o r d i n a i r e)初期作品 La ある。 S P e s t ea F l o r e n c eの弟による「兄殺し」(f r a t r i c i d e)のドラマに, F l a u b e r t 家の三角形を透視する。 M edicis 家の父, 兄 , 弟 , Cosme, F r a r n ; o i s , G a r c i aは,そのまま F l a u b e r t家の A c h i l l e C l e o p h a s ,A c h i l l e ,Gustave の代置と見なされ,ベスト流行期のフィレンツェの貴族の家庭は,家長専 制,長子権の存在(制度としてではないにしても)によって, 1 9佐紀のプ ルジョワ家庭と結びつくのである。 S a r t r e によれば次男の条件は,「家庭 ( 1 0 7 ) -2:)6- 的細胞とその構造」(c e l l u l ef a m i l i a l ee ts e ss t r u c t u r e s)によって定ま る。「構造 J が制度として失効している場合は, 社会的習俗がそれにとっ て代わり,最終的には「家長」(p a t e rf a m i l i a s)の自由な決断, 主観的な 「意志」(f i a t)が,劣等の地位を与える目的で次男をつくり出す。したが u t r e)として,父,兄および って次男であることは,自分の存在を他者(a 他の家族とは呉った一人の他者として,感じることにほかならなし、。この ような地位に置かれた次男のとるべき態度は二つある。すなわち, 「恨み に満ちた服従を極限にまで押しすすめ,失神もしくは自殺によって,自分 を無として実現すること。あるいは悠りをこめた反抗を,殺人にまで押し すすめること」である。いずれも,客体化され,疎外された「他者」の, a r t r eは前者の例を, F l a u b e r tの 不可能な主体性回復の試みといえる。 S a r c i a ポン・レヴェ、ソクにおける「発作」の中に,後者の願望の表出を, G の行為に見出す。 G a r c i aの兄殺しの矛先は, たんに F r a m ; ; o i s に対して のみならず, 自己懲罰(a u t o p u n i t i o n)として G a r c i a 自身に,さらに陰険 な同路を通じて最終的に父 Cosme に向けられる。 もし F a n c ; ; o i s がペス トで死んだならば,父はたとえ次男とはいえもう一人の相続人をとってお e r l a c h家の Werner のように。) けた。( G て , しかし処罰の不可避性によっ 「裁判官」であった父は兄殺しの犯人の「死刑執行人」にならざるを 得ない。家族の中の他者(忠)として弟息子を生んだ不明の父は,直接的, 間接的にみずからの息子を二人ながら抹殺するはめになる。己れの死を間 e n i t e u r)には, 近かに搾えた父( g 家系の断絶という最悪の結果が待ち受 a r t r e はこれら一連のからくりを, けている。 S Gustave によって仕掛け られた毘とみなす。 G ustave の 父 A c h i l l e C l e o p h a sには二つの顔があっ た。第ーは, F reud の Moise 以上に権力のある象徴的な,子種を授ける e r e g e n i t e u r)の顔であり,彼は法 ( l o i)や十戒(d e c a l o g u e)を子供 父( p に与えるにとどまらず, e s t i n)を,すでに 死ぬまで芦しみ続ける宿命(d 次男の誕生以前に用意した。第二は,前者のこの世における代理人の顔で ustave少年に抱かせ, あり,父に対する盲目的な愛を G ついで裏切り, 狂おしき怨恨の情に満ちた一家皆殺しの夢を少年の心に生じさせる。ここ 2:35- ( 1 0 8 ) でし、ぅ一家全員( t o u t el af a m i l l e)とは, 父親と二人の息子を指す, と S a r t r eは言及してし、る。またしても,母親(および妹)の影はここに落ち ていない。 牢 以上の考察でも明らかなように, S a r t r eの作中人物(批評の対象も含め て)には,陰性のエディプス・コンプレックスが妄執のようにつきまとっ ている。その原因を S a r t r e 自身の「素質構成」に求めるのも,たしかに 一つの方法であろう。 S a r t r eは , 「潮時よく」父が死んだために「超自我」を持たず, 「はな i p e》 f o r ti n c o m p l e t)」を与えられた,と はだ不完全なエディプス(《田d いう。また,あるレストランの幼い息子が「お父さんのいない時は,ぼく が主人だぞ」 とレジ係の女に叫んでし、る光景を見て, 「私は誰の主人でも なかったし,在、のものはひとつもなかった。……私は父の仕事の未来の後 継者ではなかったし鋼鉄の生産に必要でもなかった。つまり私には魂が なかったのだ」 と述べている。たしかに彼が「書くこと」を決意するの は,「生きている事物を文章の毘でとらえ J,それを「私のもの」とするた めだったが,それと同時に,祖父 C h a r l e sS c h w e i t z e rの関心を引くため 機嫌の悪い時には今日でもなお私は, でもあった。 I こうやって幾日も幾 夜も費やし,やたらに紙をインクで覆い,誰も待ち望んでいない多くの本 を売りにだすのは,ただ祖父の気に入られたし、という馬鹿げた望みのため ではないか, と店、うほどである」 という S a r t r e の告白は, 父 A c h i l l e - l o i r e)を望む GustaveF l a u b e r tの C l e o p h a sを喜ばせるために「栄光」(g 心理に通じるであろう。むろん G ustave の場合は,栄光と自殺と父殺し a r t r e にとっても,天 が一体となっている所に大きな特色があるのだが, S 逝した父の座に祖父が座って「不完全なエディプス」を十郎、, l 戒律をし北、 渡すモーゼ J の役をつとめる点では,同前である。祖父 C h a r l e sが S a r t r e の父 J e a n B a t i s t eになり代わる瞬間は,次の一文にはっきりと見られる。 h a r l e s)の声に 「なぜその Hは,あれほど見えすいた嘘をついている彼(C 耳を貸したりしたのだろう? なにをどう間違って私は,その声が私に教 4EEA 、 、 巴 巴 ﹄ v p ’ ノ Qd AU ︵ -234- えこもうとしているのとは正反対のことを,その戸に語らせたのだろう 7 それは, r 1 1が変わっていたからである。乾いて凶くなったその戸を,在、 止に生みだした今は亡き父の戸だと思ったのだ。」 は,自分をこの i このように,作品に表われた「エディプス」の源泉を作家の個人史に採 ることも可能にはちがし、ないが, リピド ( l i b i d o )を「投資されている ( i n v e s t i)」社会とは無関係に,すべての欲望を家庭的決定に押しこめるこ とには無理がある。伝統的精神分析に対する D e l e u z e G u a t t a r i の批判に も明らかなように, 「エディプスの関係は, 三角形を形成してはおらず, 社会領域のすみずみに分散して存在している」のである。父(または母) は,伝達もしくは実行の末端的作動因(a gents u b a l t e r n e)としての役割し a r t r e における「エディプス」の問題を解 か持っていない。したがって, S 読する際に,父権の概念を,超越的高み(「父なる神」のごとき)から引き ずりおろすことはもとより,国家と家庭の間に介在する大小さまざまな共 同体(政党,企業,教会,学校,町内会,等々)へ,さらにそれらの共同 体を貫通する文化,規範の「エディプス」へとつなげる必要がある。また 一方において,抽象化され,拡散した父権の構造を「遡行的」( r e g r e回 i f ) に収数し, l 1 f視の水準にまで具体化することも重要であろう。 .Ve r s t r a e t e n のように, LeD i a b l ee tl eBonDieu の たとえば, P 背宗となった中世封建社会と現代資本主義社会との歴史的対比をおこなう こと,あるいは J .Pacalyのように,その封建社会という言葉が喚起する 父(領主)と子(従臣)の同性愛的イメージに剖日することも,共に有効 である。 したがって, o s ia のエピソードが削除された原 この作品から D 因は,エディプス・コンブレ、ソクスのー形態とみなされる「兄殺し」の主 9 5 1年の世界状況(価値の相対化)の中に占める位 題の,冷戦たけなわな 1 置に求めることができるだろう。 牢 「共同的個人 J( i n d i v i d ucommun)として生きざるを得ないわれわれは, 「エディプス」の呪縛を逃れることが可能なのか? (ロビンソンでさえフ ライデーを伴っていた。)権力への合体を最後まで拒みつづける道は, ai EA 、、,,ノ ハV 〆 r4 ’ ’ 、 、 、 -233 は たして残されてし、るのか Y これらは, Sartre が 後 世 代 に 与 え た 課 題 で ある。 註 (1) 分類番号( l?OX-81 )。とくに本稿で取りあげた 4葉を,慶臆義塾大学凶書 館の許可を得て,稿末に掲載した。整理記号は,便宜的に筆者(永井)が付 こもので、ある。 しT (2) Simonede B e a u v o i r ,Laf o r c ed e sc h o s e s(G叫l i m a r d ,1 9 6 3 ) ,p .2 5 6 . (3) Catherine( l aregardantt o u j o u r s)《 D o s i a ,l afemmedeConrad,G田 t z m’ ap a r l edev o u s .》 (4) C f .S .deB e a u v o i r ,o p .c i t . ,p .2 5 9 . e a n P a u lS a r t r e , Unt h e a t r ed es i t u a t i o n s( G a l l i m a r d ,1 9 7 3 )p .2 7 1 . (5) J f . RobertL o r r i s ,S a r t r edramaturge( N i z e t ,1 9 7 5 ) ,p .2 1 2 . (6) C (7) Dosia 《J es u i sf o r t e commeunhomme...一一》,じa t h e r i n e 《J es u i s d o u i l l e t t ecommeunefemme. . . . . . . 》 (8) F rancisJ e a n s o n ,S a r t r eραrl u i・mcme( S e ui ! ,1 9 5 5 )p .5 6 . (9) i b i d . ,p .8 7 . ( 1 0 ) F r a n ( : o i sG E ・ o r g e ,SurSar tr e( じh r i s t i a nB o u r g o i s ,1 9 7 6 )J 】 . 1 I : { . ( 1 1) じf .JeanPaulS a r t r e ,L e sMots( G a l l i m a r d ,1 9 6 ' 1 ) ,p p .4 1∼4 2 . 司 < . e d i p eの陽性の形(formep o s i t i v e)は,周知のように「エデ ( 1 2 ) complexe d’ イプ η ス E」の物語と同形であり,競争者としての向性の親に対する殺意と異 性の親への性的欲望によって去わされるが,陰性の形(fonnenegative)で は,それが逆転する。じf .JeanLaplanchee tJ . B .P o n t a l i s ,V o c a b u l a i r c うs y c h a n a l y s e( P . U. F .1 9 6 7 ) ,p .7 9 . d el al ( 1 3 ) J e a n P a u lS a r t r e ,T h e a t r e( G a l l i m a r d ,1 9 ' 1 7 ) ,p .7 8 . ( 1 4 ) i b i d . ,p .8 0 . ( 1 5 ) i b i d . ,p .8 1 . ( 1 6 ) C f .L e sM o t s ,p .1 1 . h e a t r e ,p .1 0 7 . ( 1 7 ) T e a n P a u lS a r t r e ,L e s Mainss a t e s( G a l l i m a r d ,1 9 4 8 ) ,p .1 1 2 . ( 1 8 ) J ( 1 9 ) i b i d . ,p .1 1 1 . b i d . ,p .1 2 3 . ( 2 0 ) i ( 2 1 ) i b i d . ,p .1 3 5 . b i d . ,p .1 9 4 . ( 2 2 ) i ( 2 3 ) i b i d . ,p .2 4 8 . i ノ \3, 11 , . ︵i ’ ’ 2:{2- ( 2 4 ) i b i d . ,p .2 4 2 . ( 2 5 ) i b i d . ,p .2 5 9 . ( 2 6 ) Michelじo n t a t ,E . ゆl i c a t i o nd e sS e q u e s t r e sd’ A l t o n a( A .L .M.89/Minard, 1 9 6 8 )p .2 3 . ( 2 7 ) Jean-PaulS a r t r e ,L e sS e q u e s t r e sd’ A l t o n a(Gallimard, 1 9 6 0 ) ,p .2 2 . .5 0 . ( 2 8 ) i b i d . ,p ( 2 9 ) i b i d . ,p .5 1 . ( 3 0 ) i b i d . ,p .2 0 4 . .2 0 6 . ( 3 1 ) i b i d . ,p f . JeanPaulS a r t r e ,S a i n tG e n e t(Gallimard, 1 9 5 2 ) ,p .5 6 5 . ( 3 2 ) C 司 ( 3 3 ) i b i d . ,p .5 6 6 . ( 3 4 ) i b i d . ,p .5 7 0 . ( 3 5 ) Jean-Paul S a r t r e , L’ I d i o td el af a m i l l e ,I(Gallimard, 1 9 7 1 ) ,p .3 1 7 . ( 3 6 ) i b i d . ,p .4 0 1 . ( 3 7 ) i b i d . ,p .2 0 7 . e sM o t s ,pp. 1 1 ,1 7 . ( 3 8 ) L ( 3 9 ) i b i d . ,p p .7 0∼7 1 . ( 1 0 ) i b i d . ,p .1 3 5 . I d i o td el af a m i l l e ,I ,p .7 9 9 . (H) C f . L’ ( 4 2 ) L e sM o t s ,p .1 3 0 . (4 :~) G i l l e sD e l e u z e ,F e l i xG u a t t a r i , L’ A n t iイEdi ρe(Minuit, 1972),p .7 : 3 . ( 4 4) じf .P i e r r eV e r s t r a e t e n , Violencee tethique( G a l l i m a r d ,1 9 7 2 ) ,p p .1 1 8∼ 1 1 9 . ( ! 5) じf .J o s e t t eP a c a l y ,S a r t r eaum i r o i r(Klincksieck, 1 9 8 0 ) ,p .5 8 . ( 4 6 ) C f . Jean-Paul S a r t r e, 乙 ‘r i t i q u ed el ar a i s o nd i a l e c t i q u e (Gallimard, 1 9 6 0 ) ,p p .6 4 2∼ 6 4 3 . ( 1 1 2 )