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2016年11月 「人は皆、神によって生きる」

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2016年11月 「人は皆、神によって生きる」
2016 年 11 月 6 日主日礼拝説教
人は皆、神によって生きる
ヨナ書 19:23-27b
ルカによる福音書 20:27-38
藤井 和弘 牧師
世々のキリスト者は、その信仰を言い表す中で、「復活」ということ
に言及してまいりました。復活はキリスト教信仰の根幹にかかわるもの
です。パウロも、コリントの教会に宛てた手紙で、「キリストが復活し
なかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい」とさえ書いています。
とは言いましても、私たちは復活についていったい何を信じているでし
ょうか。そして、復活を信じるということは、私たちの今にとってどの
ような意味があるでしょうか。
そのことを考えるにあたり、ルカによる福音書に登場しますサドカイ
派の人々の問いが、さしあたり一つのヒントになるのではないかと思い
ます。その問いは、後継ぎをもうけるために 7 人の兄弟と結婚した女性
をめぐるものです。それは、普通ならありそうにないケースです。それ
も、問いそのものにどこか異常さを感じざるを得ないものです。しかし、
そこで目を向けたいのは、問いそのものの異常さよりも、そうした問い
を作り上げている“もとにある考え方”のことです。
「すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともそ
の女を妻にしたのです」。
この言葉によれば、この世での結婚やそれに基づく夫婦の関係は、復活
の後も、そのまま延長して考えられています。つまり、この世のありさ
まは、復活後も変わることがないという考えがそこにはあると言えるで
しょう。
これに対して、主イエスは次のように答えておられます。
「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中
から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこと
もない」。
おそらく主イエスのこの言葉は、今の世でのことが、復活の後もそのま
ま続くという考えに、「そうではない」と異議を唱えるものです。サド
カイ派の人々にとって、復活はこの世の事柄の延長に過ぎないものでし
た。しかし、主イエスはそのことに異議を唱えられます。そして、復活
においては、めとったり嫁いだりといったこの世での結婚はもはや無い
ものとしておっしゃるのです。
“復活はこの世の延長ではない”。このこ
とは、復活の信仰を言い表している私たちにとって忘れてはならない大
事なことです。
けれども、そのことをよく理解した上で、十分に理解した上で、なお
そこに何かわだかまりのような思いがあるのは私だけでしょうか。主イ
エスは、この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世ではめとる
ことも嫁ぐこともないとおっしゃいます。であるならば、私たちが夫婦
のみならず、この世で紡いできた親子や家族の絆、志を同じくしてきた
仲間の絆といったものは復活においてどうなってしまうのでしょうか。
次の世ではめとることも嫁ぐこともないとおっしゃる主イエスの言葉
に、永遠の命においてはそうしたこの世での人と人とのつながりが断ち
切られてしまう、そのような印象を抱くからです。
どのような人も、この世に生まれ出たときから、人と人とのかかわり
の中で生きていきます。人との関係を築き、時に破れや痛みに悩みなが
らでも、それを維持していこうとします。なぜなら、そこにこそ人とし
ての最も大切な営みがあるからではないでしょうか。そして、だからこ
そ、親しい者との別れである死は痛く悲しいものなのです。日本の国で
は、人を“人と人との間”、すなわち、人間(にんげん、じんかん)と呼ん
で言い表してきました。そのようなところにも、人と人とのかかわりの
大切さが示されていると言えるのかもしれません。
また、最近とみに感じることですが、キリスト教とは無関係な日本人
の方々でもごく普通に「天国」という言い方をするようになりました。
家族が亡くなればそのまま天国に行って、そこから自分たちを見守って
くれているといったことがごく当たり前のように言われるのを耳にし
ます。そのことに違和感をおぼえつつも、たぶんそのような言い方には、
死を越えてなお人と人とのつながりが深い意味を持っているというこ
とが示されているのではないでしょうか。そして、事実、そこには大切
な家族の絆が紡がれてきたのだろうと思うのです。
復活を信じるということは、この世で生きてきたことのすべてを後ろ
に置いて新しい命を生きることではありません。このことも、復活につ
いて私たちが忘れてはならない大切なことです。あのサドカイ派の人々
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のように、復活の前も後も変わらないと考えるのも正しいことではあり
ません。けれどもまた、この世で大切にしてきた人と人との関係をすべ
て解消して新たな命を生きるということも、どこか違うように思うので
す。復活にあずかる者とされた人々を、主イエスは「天使に等しい者」
「神の子」とおっしゃっておられます。しかし、そのことは、復活にお
いてこの世におけるつながりを何一つ持たないまったく新しい者にな
るということではないのです。
主イエスの復活の記事を収めている福音書は、復活の主に出会った女
性たちや弟子たちが、それが主であると分かったと伝えています。つま
り、主が彼らを導き、彼らも主に従う中で与えられてきた交わりは、復
活においても断ち切られることはなかったのです。確かに復活された主
イエスの体について、福音書がそれ以前とは異なるものとして描いてい
ることは間違いのないことです。主イエスは、マグダラのマリアに「わ
たしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだか
ら」という不思議な意味の言葉をお語りになりました。また、弟子たち
がいた戸に鍵のかかった家の中に入ってこられたり、エマオの弟子たち
の前でパンを裂いてくださったところで姿が見えなくなったと語られ
ています。しかし、たとえそうであるとしても、復活の主は、彼らに御
自身をお示しになられたのです。いいえ、御自身がお招きになり、御自
身に従う者とされた彼らだけにこそ、主イエスは御自身の復活を知らせ
てくださったのです。それは、主イエスが復活の後においても、御自身
に従う者たちとの交わりを大切にされたということにほかなりません。
御自分おひとりだけで新しい命を歩み始めるようなことをせず、この世
に残され困難な信仰の戦いをする者たちのことを、主は心にかけておら
れたのです。
その復活の主イエスの体に、十字架の傷跡が残っていたと言われます。
その傷跡は、父なる神の御心に最後まで身をささげて生きられた主イエ
スの苦悩のしるしでした。そして、その傷跡は、同時に私たち人間に対
する愛の具体的なしるしでありました。
その主イエスを、神は復活させられました。そこにあって復活の主の
体になお残ることとなった十字架の傷跡は、神の苦難の僕として生きた
者を、神は御自身の命へと引き上げられたということのしるしとなった
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のです。
神が主イエスを復活させられたのは、主イエスがもともと神の子であ
ったからという理由ではありません。そうではなく、神が主イエスを復
活させられたのは、主イエスがこの世にあって神の御心を生きられたか
らです。この世を愛された神の御心に、主イエスが十字架に至るまで御
自身をささげ尽くされたからです。
その意味で、主イエスにおいて復活はこの世における御自身の歩みと
深く結び合うところとなっています。すなわち、主イエスの復活は、私
たち人間が本当にたどるべき生き方とは何なのか、そのことを示すもの
になっています。神がその命を惜しみなくお与えになる本当の勝利は、
どのような生き方にもたらされるのか、主イエスの復活をとおして神は
そのことを示しておられるのです。
ですから、復活について大切な最後のことを申し上げます。それは、
復活は私たちが死んだ後とか、遠い将来にかかわるだけのものではなく、
今の私たちの生き方に深くかかわるものであるということです。そして、
復活の主の体に残る十字架の傷跡がこの世を歩まれた主の苦しみと愛
のしるしであるように、この世で私たちが紡ぐ愛と信頼のかかわりもま
た永遠に残るということです。すなわち、私たちが復活を信じるという
ことと、自分のすべてをかかげて主イエスに従うということは、深く結
び合わされているのです。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」と、主イエスは言
われます。神は、主イエスに従おうとする心からの思いも、それに向け
ての真摯な取り組みも、何一つ見過ごしにされたり、無意味に終わらせ
ることはなさいません。そして、そのところに死者を立ち上がらせるほ
どの命の恵みを惜しみなく注いでくださるでしょう。
「すべての人は皆、神によって生きる」。
それは、私たちが生きることの最も根本的な意味を示す言葉です。そ
の言葉を、神が愛されたこの世をみずからも愛し抜き、すべてを神にさ
さげてこの世を歩まれた、復活のキリストが語ってくださっています。
このキリストにこそ、私たちの生きる喜びと希望があるのです。
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