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疑問に囚われたものの - 釧路高専トップページ
より上のものの判断に任す外ないと云ふ念﹂がそれに他ならない。それは﹁自
疑問に囚われたものの、自分でそれを判断する力を持たないのである。﹁自分
あった、と言い直すこともできよう。
ラマのワンシーンであった。ただ、このドラマは庄兵衛だったからこそ可能で
味する。それまで喜助の話の聴き役に徹していた庄兵衛は、ここで語り手へと
分より上のもの﹂を絶対視する発想に基づいている。
そう言えば、鷗外は﹃最後の一句﹄︵大4︶の中でも、少女いちの﹁お 上
の事には間違はございますまいから﹂という言葉を通して、お上を絶対視する
内部転換する契機を見出した。受け手としての聴き手から送り手としての語り
庄兵衛は、﹁なんだかお奉行様に聞いて見たくてならな﹂いという願望を抱
く。これは彼の中に、お奉行様と﹁語りたい﹂という願望が芽生えたことを意
庶民の姿を描いていた。父親の助命を嘆願する白洲の席で発せられたこの言葉
手へ。ここには明らかにドラマがある。事実、﹁翁草﹂に収められた﹁流人の
の中には、それぞれ語られない言葉がうごめいていることは改めて確認するま
この作品は、﹁次第に更けて行く朧夜に沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒
い水の面をすべつて行つた。﹂の一文で締め括られる。﹁沈黙の人二人﹂の心
かを感じたのだ。
決して存在しえなかったのである。このとき、﹁守護の同心﹂は流人の話に何
話﹂は、流人の話を聞いて、それを誰かに語る﹁守護の同心﹂がいなければ、
は、無知ゆえの強さを持っており、それだけに役人たちを狼狽させる。
庄兵衛には、いちのような強さはない。しかし、二人はお上の判断を確かな
ものとして疑わない、という点で共通している。これは二人が新しい疑問に駆
られながらも、時代的限界ゆえにまだ十分目覚めきれなかった、ということな
のだろうか。
確かに時代的限界はあった。しかし、現代においてこの問題は払拭されてい
るのであろうか。そのような問いかけが語り手から発せられているように思わ
でもない。
︹注︺
・5・3
なものを排除しようとした姿勢と、いちや庄兵衛を通して権威者の判断力を盲
虚でしかないことを直視していたのが鷗外である。﹁遺言﹂であれほど権威的
作者鷗外は、その官僚生活において、明らかに﹁オオトリテエ﹂の側に属し
ていた。庶民の目からは絶対的なものに映じてしまいながらも、その本質が空
根拠が乏しいという撼みは残る。あくまでも一つの可能性を示唆した論
大きく異なってくることになる。確かに刺激的な論文だが、確証となる
な表情は、巧みに周囲を欺ききったがゆえのものとなり、作品の解釈は
喜助の弟殺害の可能性を読み取っている。そうなると、喜助の晴れやか
婆さんの登場はかえってノイズになってしまうとする立場から、むしろ
信する庶民の姿を描く態度とは、まさに表裏の関係にあったと言えるだろう。
層その感を強くする。
庄兵衛の限界は、喜助をいわば偶像化してしまったところにも見出すこと
ができる。彼が喜助に見出した﹁毫光﹂も、あくまで彼の内面で演じられたド
− 103 −
れる。語り手は﹁自分より上のものの判断に任す外ないと云ふ念﹂を﹁オオト
寛政期固有のものではなく、現代にも通じ得るものであることを暗示しようと
︵1︶﹁東京朝日新聞﹂、明
リテエに従ふ外ないと云ふ念﹂という表現に置き換えることによって、これが
したのではなかったか。
︵3︶田中実﹁﹃高瀬舟﹄私考﹂︵﹁日本文学﹂、昭
・
︵2︶はじめ﹁高瀬舟と寒山拾得﹂と題し、﹁心の花﹂︵大5・1︶に発表。
その前半部分を﹁高瀬舟﹂と合わせ﹃高瀬舟﹄︵大7・2︶に収録。
は得られないだろう。なぜなら、判決がすべてを語っているのであり、それ以
︵4︶出原隆俊は﹁﹁高瀬舟﹂異説﹂︵﹁森鷗外研究﹂8、和泉書院、平
・4︶
上のものが出てくる可能性は皆無に等しいからである。庄兵衛は、いわば堂々
︶の中で、﹃高瀬舟﹄が安楽死をテーマとする作品だった場合、この
54
文と見るべきだろう。
巡りを宿命づけられた疑問に囚われたのだ。
11
庄兵衛は、﹁腑に落ちぬものが残つてゐる﹂のでお奉行様に聞いてみたい、
と願う。しかし、たとえ尋ねてみたとしても、お奉行様からは納得のいく答え
40
臨終の際に鷗外が、﹁馬鹿馬鹿しい﹂と呟いた事実を思い合わせると、より一
11
(六)
釧路工業高等専門学校紀要第38号
(平成16年)
根拠が必要となる。喜助の右の言葉は、彼が白洲でお上から言明を要請された
と言うべきであろう。
は、法によって裁ききれない悪というものが確かに存在する。人々は、しばし
結果生まれたものと解釈すべきだろう。
剃刀を抜く時の手応は、喜助にとっては些細な事柄でしかない。だが、その
際に﹁今まで切れてゐなかつた所﹂を切ったかどうかは、裁く側にとっては重
ばこれを人道上の罪と称する。一方、法がある以上、それによって裁かざるを
なぜなら、庄兵衛は、この世には法によって裁ききれないものがあることに
気づき始めているからである。法そのものは本来矛盾を抱えている。世の中に
要な判断材料となる。おそらく、お上はそのことを執拗に問い質したに違いな
得ない罪というものもある。人々はそこに、しばしば同情の涙をぬぐうことも
法はあくまでも便宜的なものである。この世に多くの人々が存在する以上、
事件や争い事は避けて通れない。裁く者が必要となるのはこのためである。
い地平に立つことを意味していた。
た地平とは、そのようなものである。疑問を抱くということは、すなわち新し
あるだろう。いずれにせよ、法は決して全能のものではない。庄兵衛が発見し
いのだ。
方、剃刀を抜くときの後姿を目撃して、すぐさま逃げて行った婆さんがい
︵4一
︶
た。﹁翁草﹂の﹁流人の話﹂では、この婆さんは存在しない。その点で、これ
は明らかに作者鷗外の独創である。この婆さんは事態を詳細に眺めたわけでは
ない。しかし、彼女がそれを弟殺しの場面として証言することが、お上にとっ
ては好都合だったのである。
しかし、裁くとはそもそも白黒をはっきりさせるということだ。それが裁
判の宿命である。だが、こと人事に関する限り、世の中は実に灰色の部分が多
い。
庄兵衛は、喜助に下された弟殺しという裁きに納得しがたいものを感じる。
しかし、庄兵衛の抱いた疑問は、それ以上の展開を見せない。そこに庄兵衛の
限界もあった。
庄兵衛の心の中には、いろいろに考へて見た末に、自分より上のものの
判断に任す外ないと云ふ念、オオトリテエに従ふ外ないと云ふ念が生じ
− 104 −
五
庄兵衛は其場の様子を目のあたり見るやうな思ひをして聞いてゐたが、
これが果して弟殺しと云ふものだらうか、人殺しと云ふものだらうかと云
ふ疑が、話を半分聞いた時から起つて来て、聞いてしまつても、其疑を解
云はれる。しかし其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であ
た。庄兵衛はお奉行様の判断を、其儘自分の判断にしようと思つたのであ
くことが出来なかつた。弟は剃刀を抜いてくれたら死なれるだらうから、
つたらしい。それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに耐へなかつたか
る。さうは思つても、庄兵衛はまだどこやらに腑に落ちぬものが残つてゐ
抜いてくれと云つた。それを抜いて遣つて死なせたのだ。殺したのだとは
らである。喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと
るので、なんだかお奉行様に聞いて見たくてならなかつた。
確かに、語り手はここで庄兵衛の限界を浮き彫りにした。庄兵衛はいったん
使う必要があったのか。そのような疑問が湧いてくる。
る。しかし、この語り手はなぜわざわざ﹁オオトリテエ﹂という言葉をここで
の語り手そのものがこのフランス語を理解する近代人であることを意味してい
衛には知る由もない言葉である。この言葉が使用されているということは、こ
ここで登場してくる﹁オオトリテエ﹂とは、英語の﹁オーソリティー﹂︵権
威︶に当たるフランス語であり、もちろん寛政の時代に同心を勤めていた庄兵
思つて命を絶つた。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しか
しそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうして
も解けぬのである。
︵傍点・小田島︶
このとき、庄兵衛は本人が意識する以上に極めて重要な地点に立っていた、
な庶民であった。
庄兵衛は疑問に囚われる。喜助は世間的な意味での善悪の枠組みを逸脱して
いるのだが、庄兵衛はその枠組みの中で物事を捉えようとする、極めて一般的
疑問の行方−森鷗外『高瀬舟』論
(五)
弟の目が次第に険しくなり、それが喜助には﹁恐ろしい催促﹂﹁憎々しい
目﹂へと変わっていったことが分かる。この時点で弟はもう殆ど言葉を発せら
すべき答えを見出せたのだろうか。答えは否である。喜助は自分が弟殺しの罪
ますと、どうしてあんな事が出来たかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全
れない状況に陥っていた。もはや死から逃れられないなかで、弟は必死に目で
人となるに至った事件について語るが、それを語るに際して、﹁跡で思つて見
く夢中でいたしたのでございます。﹂︵傍点・小田島︶と言わざるを得なかっ
兄に訴えたのである。
である。
思議﹂がらせた、喜助の晴やかな表情にも受け継がれていると考えられるから
いるのは、このときの弟の目ではなかったか。これは明らかに、庄兵衛を﹁不
かに、さも嬉しさうに﹂変わったという事実である。今でも喜助の瞼に残って
ここで注目されるのは、耐えきれなくなった喜助がとうとう、﹁しかたがな
い、抜いて遣るぞ﹂と言ったとき、弟の目がそれまでと打って変わり、﹁晴や
た。つまり、庄兵衛の﹁不思議﹂は新たに喜助の﹁不思議﹂を導き出すことに
なったのである。事実の真相を当事者に問い質そうとする行為は、志賀直哉の
﹁范の犯罪﹂でも明らかなように、必ずしも明確な説明を得られるという保証
はない。
ただ、一つ確かなのは、喜助本人にとっても﹁不思議﹂としか言いようのな
い行為が弟の目に促されていたという事実である。むしろ自害を図りながらも
死にきれず、苦悶のなかで物を十分言えなかった弟が、兄である喜助に対して
田中実は、もともとこの兄弟が余人の分け入ることのできない、密着した人
間関係にあったことに注目し、喜助が弟の死によって逆に弟の心を自分の内に
− 105 −
目で訴えることしかできなかったというのが真相だろう。一方の喜助も、弟の
訴えをその目の動きからうかがうしかなかった。喜助がさかんにこのときの弟
甦らせたのだと指摘し、それと同質のものを﹃山椒大夫﹄︵大3︶における安
を輝かしていた。非常に示唆に富んだ発言と言えよう。
を逃がそうと決意したとき、﹁毫光のさすやうな喜﹂を額にたたえ、大きな目
︵3︶
の目について言及する所以がここにある。喜助の態度が弟の目によってどのよ
寿と厨子王との関係に見出した。確かに安寿は自分が犠牲となって弟の厨子王
弟
の 目
うに促されていったのか、それを次の表にまとめてみた。
喜助の態度
ただ、ここで確認しておきたいのは、弟が晴れやかで嬉しそうな表情を浮べ
て死んでいったこと、その姿が今でも喜助の中で確かな形で生き続けていると
いうのは、あくまでも純粋に喜助兄弟の心の中で演じられたドラマであって、
しかし、本人にとってはどちらでもいいことを認められない存在がいた。そ
れが彼を裁く側、すなわちお上である。裁く側からすれば、裁くに足るだけの
殺害したのかは、結果論にしかすぎないのである。
ことこそが大切なのであって、自分が弟の自殺を幇助したのか、それとも弟を
にとって大きな問題ではなかった。彼にとっては弟を苦悶から解放してあげる
た所を切つたやうに思はれました。﹂と述べているが、この事実の真相は喜助
喜助は、﹁わたくしは剃刀を抜く時、手早く抜かう、真直に抜かうと云ふだ
けの用心はいたしましたが、どうも抜いた時の手応は、今まで切れてゐなかつ
り、それらは互いに別個のものとしてある。
兵衛の内面で演じられたドラマと、喜助兄弟の心の中で演じられたドラマがあ
ここには他者の介入する余地はないということである。﹃高瀬舟﹄では、庄
兄を見る⋮物が言えない
目で兄が寄るのを留めるようにして口を利く
じっと兄の顔を見詰める
怨めしそうな目付き
弟の目が﹁早くしろ、
早くしろ﹂と言って、
さも
怨めしそうに兄を見る
弟の目は恐ろしい催促をやめない
段々険しくなる
敵の顔を睨むような、
憎々しい目
目の色がからりと変わる
晴れやか、
嬉しそう
弟の死⋮目を半分あいたまま
f
﹁どうしたどうした﹂と言う
弟の傍へ寄ろうとする
思案がつかず弟の顔を見る
﹁お医者を呼んでくるから﹂と言う
途方に暮れて弟の顔を見る
﹁しかたがない、
抜いて遣るぞ﹂
弟の喉から剃刀を抜く
f
f
f
f
f
f
f
f
f
f
f
f
f
(四)
釧路工業高等専門学校紀要第38号
(平成16年)
に喜助が欲のない人間に見えたことは、ある面で無理もなかった。その結果、
この作品は喜助の直接話法による語りが多く挿入されているものの、大枠と
しては庄兵衛を視点人物とした叙述によって構成されている。したがって、
当たりまえの事柄が庄兵衛というフィルターを通して増幅されたのであるが、
契機として純粋に庄兵衛の内面で展開されたドラマなのである。喜助にとって
庄兵衛は喜助の頭から毫光がさすように思うのだが、毫光を見出したのはあく
﹁不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知つてゐることである。﹂と
その際注目すべきなのは、その増幅が庄兵衛の反省によって促されていること
三
か、﹁人はどこまで往つて踏み止まることが出来るものやら分からない。それ
だ。
ら、庄兵衛は喜助を通して、自分を含め人間には欲というものがあり、これは
確かに、庄兵衛の側には喜助に対する過大評価があった。しかし、喜助を理
想化してしまう庄兵衛を一笑に付すというのも本質を見誤りかねない。なぜな
までも庄兵衛の側であって、喜助ではない。これは言ってみれば、喜助の話を
を今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だ﹂という人物評は、あく
までも庄兵衛の判断による。
庄兵衛がこのような感想を抱いたのは、喜助が遠島という刑罰や二百文の鳥
目を有難く受け止めていることに驚きを感じたがためである。
は、彼が自分の生活感覚に照らして喜助を眺めているからであり、喜助の発言
たん満たされれば更なる欲が湧いてくるだろう。しかし、庄兵衛は喜助を欲の
庄兵衛が喜助との間に感じた﹁大いなる懸隔﹂とは、まさにこのことだ。
喜助だって環境が変われば庄兵衛と同じ程度の欲を抱くだろうし、それがいっ
止まる所を知らない、ということを悟るに至ったからである。
を喜助の次元において捉えることができないという限界を抱えていたからであ
ない人間と思い込むことによって、その対極にあるわが身、更に言えば人間一
いたにもかかわらず、この喜助は﹁遊山船にでも乗つたやうな顔﹂をしてい
る。その違和感が、庄兵衛に﹁不思議﹂の念を抱かせたのである。
しかし、﹁不思議﹂の念を解消すべく発せられた庄兵衛の問いかけは、満足
− 106 −
しかし、喜助の側は、自分が﹁足ることを知つてゐる﹂とか、﹁踏み止まつ
て見せて﹂いる、などという意識は毛頭ない。庄兵衛の喜助に対する驚異の念
る。
般の本質に思い至ることができたのである。踏み止まることの必要性を痛感す
ることは、日々の生活に追われていた庄兵衛にとっては啓示的な意味を持ちえ
喜助に毫光を見出した庄兵衛は、思わず彼に﹁喜助さん﹂と呼びかける。喜
助から具体的な話を聞く前には、﹁喜助。お前何を思つてゐるのか。﹂と尋ね
た。
し、一般の庶民は違う。彼らにとって島での生活そのものが想像を絶した苦し
ていたことを思い合わせるならば、その差違は明瞭である。このとき、庄兵衛
四
みであり、島へ流されるということ自体が、それまでの日常生活を奪われてし
にとって目の前にいる人物は﹁罪人﹂という枠組みを逸脱し、まさに一人の人
思いがある喜助にしてみれば、島での生活は苦しみの軽減に他ならない。しか
まうことに他ならないからである。この場合、彼らにはその日常生活そのもの
間として現れている。
明なことなのであろうか。
二百文の鳥目についても、一般庶民である庄兵衛からすれば、これはさして
有難がるほどの額ではないのかもしれない。しかし、それまで貧窮に喘いでい
た喜助にしてみれば、手元に金が残るということ自体が恵みであった。
庄兵衛は一般庶民の感覚で喜助の話を聞いている。その点で、庄兵衛の 眼
もともと、庄兵衛が喜助に話しかけたきっかけは﹁不思議﹂の念だった。庄
兵衛が今まで目にしてきた罪人は皆、﹁目も当てられぬ気の毒な様子﹂をして
が﹁幸福な生活﹂として信じられている。しかし、それは果たしてそれほど自
浮き彫りになっている、ということだ。京都で最大の苦しみを経験したという
な土地﹂と捉える一般庶民と、そうは捉えられない喜助との差違が明瞭な形で
での生活は決して最悪のものとはならない。これは、京都という土地を﹁結構
参つたやうな苦みは、どこへ参つてもなかろう﹂と言い切る喜助にとって、島
世間一般の人々から見れば、罪を犯して島へ流されるというのは不幸な、
憐れむべき事柄に違いない。しかし、京都で﹁これまでわたくしのいたし て
疑問の行方−森鷗外『高瀬舟』論
(三)
も、あるいは統一的主題を模索する場合でも、いずれにせよ鷗外の提示した
くクローズアップされていることは注目に値する。私がこの論文のタイトルを
罪人喜助の、事件の経緯についての語りが具体的かつ詳細になっているのは
もちろんのことだが、この作品においてこの喜助以上に同心庄兵衛の存在が強
う小説を作り上げたのだが、後の論者たちがこの主題の分裂を指摘する場合で
﹁二つの大きな問題﹂という枠組みから逃れられなかった事実を裏書きしてい
﹁疑問の行方﹂とするのは、まさにこのためである。
あ
そして第三は、庄兵衛が聴き役に徹し、余計な嘴を挟まなかったことで
る。作品には描かれていないが、喜助が語っている間、庄兵衛はそれを全面的
く、自分の感覚に従ったのであった。
ある﹂という喜助の表情が解せない。その結果、彼は先入観に捉われることな
の、その視点で眺めようとすると、﹁其額は晴やかで目には微かなかがやきが
第二は第一とも関連するが、庄兵衛は﹁喜助=罪人﹂という見方に固執し
なかった。あらかじめ彼は喜助が弟殺しの罪人だとだけ聞かされていたも の
第一に、彼は相手の話を自分と照らし合わせる。喜助の抱えた問題を特殊な
ものとして排除するのではなく、むしろ受容しようとする姿勢があった。
ところで、なぜ庄兵衛は良き聴き手になりえたのか。これには幾つかの理由
が考えられる。
可能になったのである。
て導かれた。庄兵衛がよき聴き手であったからこそ、喜助のこのような語りが
らましが語られるという特徴がある。しかし、この喜助の語りは庄兵衛によっ
高瀬舟にたまたま同舟することになった喜助︵罪人︶と庄兵衛︵同心︶との
会話で構成されるこの作品だが、作品の後半はほぼ喜助の直接話法で事件のあ
ることになる。確かに鷗外は、﹃高瀬舟﹄を執筆するに際して、﹁流人の話﹂
を下敷きにした。しかし、﹃高瀬舟﹄=﹁流人の話﹂ということにはなら な
い。まず我々は、鷗外が﹁流人の話﹂ならぬ﹃高瀬舟﹄にいかなる独創性を加
えようとしたのかを、見極める必要がある。
二
﹁流人の話﹂そのものは原稿用紙にして二枚程度の短いものである。ここ
でも、ある流人の様子を見て﹁卑賤の者ながらよく覚悟せり﹂と﹁感心﹂した
﹁守護の同心﹂が出てくる。この同心の﹁称嘆﹂ぶりに続き、当の流人が語っ
た内容がこのあと叙述されていくのだが、そのあらましはほぼ﹃高瀬舟﹄と重
なる。そして、その結末はこのように締め括られている。
︵略︶其所行もとも悪心なく、下愚の者の弁へなき仕業なる事、吟味の
上にて、明白なりしまゝ死罪一等を宥められし物なりとぞ、彼守護の同心
の物語なり、
︵傍点・小田島︶
に受け入れる態度を体全体で示していたに違いない。そのことが喜助のいわば
語り手一人に限ったことではなく、﹁下愚の者の弁へなき仕業﹂であることが
理が立つて﹂おり、語り手が推測するように、喜助はこの半年間で何度も同じ
ただし、ここで喜助と庄兵衛との間で本当の意味での対話は成立していたの
であろうか、と問うことは許されよう。なぜなら、喜助の一人語りは﹁好く條
一人語りを保証したのである。
﹁死罪一等を宥められ﹂るうえでの大きな一因になっていることからしても、
ことを問われ、答えていく繰り返しの中で、いわば機械的に語っている面がな
流人の行為を﹁下愚の者の弁へなき仕業﹂と断定しているあたりに、この語
り手の一種見下ろした視線をうかがうことは可能である。しかし、それは何も
これが共通の認識であったと類推することは許されよう。﹁流人の話﹂におけ
いわけではないからである。
ただ、ここで大切なのは、たとえ喜助がほぼ機械的に語っていたにせよ、そ
れによって明らかに心を動かされていく庄兵衛がいたということだ。
る﹁守護の同心﹂は流人から話を導き出す役割を確かに担った。しかし、彼は
あくまでもその位置に止まっている。そのことを踏まえた場合、﹃高瀬舟﹄で
はこの同心に羽田庄兵衛という固有名詞が与えられたばかりか、罪人喜助の話
を聞くうちに我が身を照らし合わせ、更には深い昏迷の淵に沈んでいく彼の姿
を浮き彫りにしたのは、明らかに鷗外の独創であった。
− 107 −
(二)
釧路工業高等専門学校紀要第38号
(平成16年)
疑問の行方
森
鷗外﹃高瀬舟﹄論
Where the question will go to?
A study of Mori Ogai
“ Takase-bune
”
小田島本有
︵Motoari
一般教科ODAJIMA
・国語︶
しさを一番よく知り抜いていたのが鷗外ではなかったか。昇進を重ねてトップ
へ昇りつめていくということは、自分の意のままに組織を操れるようになるこ
中に搦め取られ、﹁動かす﹂自分ではなく、﹁動かされる﹂自分を見出してい
とを必ずしも意味しない。むしろ自分もその組織という得体の知れないものの
漱石が東京帝国大学と第一高等学校の職を辞し、東京朝日新1聞社に入社した
のは一九〇七年︵明治四十年︶四月のことである。﹁入社の辞﹂での、﹁新聞
鷗外が陸軍の現役を退いたのは一九一六年︵大正五年︶四月のこと。この年
は鷗外に大きな影響を及ぼしていた母峰子も亡くなっており、彼にとっては非
常に大きな意味があった。この年の一月、つまり彼が退官をする直前に発表さ
れたのが短編﹃高瀬舟﹄である。
︵2︶
﹃高瀬舟﹄は高校の教科書でもしばしば取り上げられる定番教材であり、よ
く知られた作品である。また、この作品には作者の自作注解とも言うべき﹁高
瀬舟縁起﹂という小文があり、それが読者の読みをある程度縛る結果になった
和が言うところの﹁闘う家長﹂としての宿命に忠実に生きてきた男の、人生最
彼に冠されていたあらゆる肩書きを削ぎ落としたのである。そこには、山崎正
いると述べた。鷗外はこの﹁流人の話﹂に脚色を加えることで﹃高瀬舟﹄とい
苦んでゐる人を、死なせて遣ると云ふ事﹂の﹁二つの大きな問題﹂が含まれて
鷗外はこの中で、池辺義象校訂の﹁翁草﹂に収録された﹁流人の話﹂を紹介
しつつ、ここには﹁財産と云ふものの観念﹂と﹁死に掛かつてゐて死なれずに
いけ べ よしたか
のは否めない事実だろう。
後の場面における究極の拒絶があった。権力の中枢にいながら、その組織の空
しかし、彼は遺言の中で、﹁余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス︵略︶
墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス﹂と述べた。彼は死に際して、それまで
よい存在であった。
で昇りつめたという華々しい経歴。周囲から見ればまさに羨望の的と言っても
むしろ、四十代の後半を迎えた私にとって親近感を覚えるのは鷗外の方であ
る。陸軍軍医総監、陸軍省医務局長を歴任するなど、官僚としてのトップにま
とを忘れるわけにはいかないだろう。
として、かなり詳細な懸案事項について確認を怠らなかった彼が一方でいたこ
までには漱石自身の逡巡があり、執拗なまでに手当や身分の保証問題をはじめ
ママ
く。その皮肉を捉え得たからこそ、鷗外の文学は今も命脈を保ち続けていると
一
*
釧路高専一般教科
*
− 108 −
−
屋が商売ならば、大学屋も商買である。︵略︶新聞が下卑た商売であれば大学
−
も言える。
−
−
も下卑た商売である。﹂との言葉はいかにも爽快だ。しかし、この決断を下す
釧路工業高等専門学校紀要第38号
(平成16年)
(一)
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