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備北の古墳をめぐる

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備北の古墳をめぐる
颯靡蜀褻鰤颯拶 鯰
講師 古墳研究部 織 鴨 ‖年1:日 14日 旧
│
本 日のスケ ジ ュール
福 山駅 北 口
8:00
南 山古 墳
9:15
上下
9:45
庄原
10:30
西城
11:00
昼食
東城
13:30
大迫山古 墳
15:00
辰 ノロ古墳
16:30
福 山駅 北 口
17:30
ス ケ ジ ュ ー ル 変 更 な どに よ り時 間変 更 が あ りま・
す:
バ スを降 りるときは集合時間を確か めて くだ さぃ。
。大塚第一号古墳 (東 城町大字新免字神 田谷大塚山)広 島県史跡
…径約 1lm。 高さ約 3mの 円墳
内部主体 ―南南西に開 目する片袖式横穴 式石室
1.9m、
(全 長 3.7m、
玄室長 2.3m、 幅
高 さ 1.5m)
」
石室規模は全体的にノ
振 りだが正方形に近い平面の玄室、大 きく張 り
出した片袖部や狭 く短 い羨道、一部に小 日積みをなし持ち送 りの著 し
い壁面→ 古式の横穴式石室 の特徴
出土遺物 一玉類
(勾 玉、管玉 、切子玉、小玉)、
金銅製品 (耳 環、指輪)
鏃、刀子、留金具、や りがんな等)、 須恵器類
鉄製品 倹
副1葬 品の出土状況 か ら約 4回 にわたる埋葬が推定される
1、
⇒備後北部で最初に築造 された横穴式石室墳、六世紀前半か ら中葉
ュくL=墓 壺堕式_
/FL
」
0
2m
犬奪第 1号 古lEl■ 丘瀾量ロ
。その他の磁
円墳
太室古墳 錬嚇詢汰字久代字趨
…全長 24m、 後円部径 13m、 高 さ 3m
埋葬施設は不明。葺石有 り
平野から見える面は丁寧、反対側はほとん ど整形せず
牛川古墳 (東城町大字戸宇字牛川)
…全長 21m、 後円部径 14m、 高 さ 2.5m
埋葬施設 (後 円部・横穴式石室、前方部・箱式石棺か)
葺石は観察できない
ml
□比婆郡西城町
…中国山地 とはいえ、醐 │1及 びその支流には相当の平野や盆地が広がってお り、また、
西城川流域 の平野は庄原、二次地方 と直結 しているので山地 といった感 じは うす く、以前
は人鳥 の谷か ら山陰に抜けていた とい う。
☆横穴墓
・…「横穴墓の大半は、 これ ら
と時期を同 じくして形成 されたもので、一般的には墳
―
丘を有 さない ものであり、丘陵の斜面ない し1漸崖に嘉室 を掘削す るもので、群集を常
とする。
」(池上悟「横穴墓の被葬者と性格論」
『 論争学説日本の考古学5古墳時状』)
・
メ
J書
話
¥│
・…「穴居人島 ′
ヽ
土蜘蛛.… …」
…坪井正五郎 「穴居説 ―吉見百穴
…明治三十年代 一墳墓 として掘削 されたものであることが明確になる
。全国で三∼四万基 といわれ、「北九州 ・山陰・ 北陸 。
東海 。関東 。東北地方を主要な分布地
域 として掘削された群集形態を とる墳墓であ り、横穴墓の研究を抜きに しては後期古墳時
代 の理解はできず、高塚古墳 と同様にその価値を正当に評価する必要 があ る。」 (同 ■l
・
○広島県の横穴墓
。比婆郡を中心に、およそ六十基あまり礼
。西城町には十七∼二十基 (現 存は半ω
。人鳥塚谷の六基並列は知られていない
/°
八 島塚 谷憤 穴
=・
t・
O/鴫髪 漱 た 群
´‐/―・
ノ`‐
\
■浜ij'1:り tiド
(2嚇 鬱 Gノ ヽ
i)
J需 デ
11考 省
…東 か ら西に延びる丘陵先端部 の南斜面に、東西 40mの 範囲に六基の横穴墓が南
に開 日しほぼ並行 して分布 している。
一九五二
;ざ
(昭 和 二七)年 に豊元国氏が西城町の古墳調査を行 い、 この時本横穴群も一部実
測調査を行 う
「土師器破片 (杯若干、高杯の脚卜 部)と 客時酬跛片
玄
1号
横断面形
天丼頂部
正方形
長 円弧
尖
〃
奥
幅
奥
高
現
長
玄室側幅
備
考
壁面加工
寧
弧
丁
寧
丁
寧
弧
4号
〃
尖頭状
″
さ
道
を採集
丁
長 方形
6号
長
羨
頭
3号
5号
N02
室
平面形
2号
(蓋 四 ヶ以上、増二 ヶ以上)」
2 94-3.06
荒削 り
ノ ミ痕
尖
頭
丁 事
ノ ミ痕
尖
頭
丁
八 島塚谷横穴基群―■ (11位 は m)
寧
県北の古蹟 T東 城町 と西城町一
□上ヒ
婆郡東城町
…広島県東北部の中国山地帯に位置するが、四周への交通は至便で
古くから陰陽交
通の要衝の地 として、又、生活や文化の中心 として栄えてきた
鏃
嗽
・ 戸宇大仙山遺跡 …二十七基 の土壌墓群
土壌基の周辺か らは吉備を中心に
共同祭祀 に用 い られた とされる
スタンプによる連続渦文 のついた
脚台付鉢形土器が出土
・牛川遺跡…弥生後期のT基 の土崚墓を検出
中央部の四号土壌では鼓形器台
五号土墳では上東式器台、特殊壺
牛川選跡 (1・ 2)と 戸宇大仙山遺跡(3)出 土の土器
○古墳時代
。大迫山第一号古墳 (東城町大字川東字大
迫山、後円部標高 397m)
・全長 45.5m。 後円部径 25m。 高さ
…
om、 前方部長 20m・ 幅 17m。
高さ2m
後円部三段、前方部二段の前方後円墳 (主軸は北43・ D
外表施設一墳裾に列石、墳丘斜面に葺石
内部構造―幅 1.18m・ 深さ1.lm前後 。長さ5.14mの 竪穴式石室
ゝ\
床面は粘土床、石材は持ち送 り構造、頭位は北西側
・
・銅鏡 (獣 首鏡、後漢鏡k径 14.2cm)
―
遺物 棺内・
硬玉製勾玉 1、 碧玉製管玉 7、 ガラス製小玉 21
…
棺外 鉄槍、筒形銅器、矢筒、銅鏃、鉄や りがんな、鉄手斧、鉄刀、鉄剣
墳丘…土師器壺、器台、土師器増
→→吉備国西北部に出現 した最初の首長墓
四世紀中葉前後
●●口 大rll● 古ln● ●〔コロロ
奎穴式石宣実瀾□ (ア ミロは結土
泄4
)
四つの特徴 一
。平面が長方形で、天丼がアーチ状をなす もの (第 3.4号勤
・ 平面が長方形で、天丼が尖るもの (第 6号勤
・平面が正方形にちかく、天丼がアーチ状をなす もの (第 2号墓)
。平面が正方形で、天丼の尖るもの (第 1.5号勤
/
/
0
20m
八鳥塚谷横穴群地形測量図
出上の須恵器片から六世紀の後半か ら七世紀初め頃
(六略
末頃)の 時期 と推定 され、個々の横穴の
前後関係はあきらかではない
→ 「山陰との嘘接な関係」力坊竣 される
《
参考文醐
『大迫山第1号 古墳発掘調査概報』 広島県東城町教育委員会・広島大学文学部考古学研究室 1989
『広島県文(臨 査報告』第 16集 広島県教育委員会 1990
『芸備』第14集 芸備友の会 1984
『論争学説日本の考古学』 5古 墳時代 雄山閣 1988
26広 島 保育社 1986
『 日本の古剛
古
散
代
策
国
中
新聞
社 1991
』
『
飽5
名所
称地
西城■1の 横 大基 一 覧
OFS.Xl号 横六募
火† ′
ヽrt字
天′
卜形
lf竪 2号
長
不饉 方形
●
室
玄
11面 影
l■
長 さ●
幡
l
備
m
考
晨 遭 埋 1■
面 加 工は やや糧 い
l形
.
`卜
4
全壊
ヽ 字lrヽ
夫字′
`ヽ
″
黒 岩 l号
夫字八■字下
正 方 形
長 円
形
入 日 狭 い .面 加 工 は 粗 い
1 9
`″
黒 岩 2号
ヽ■字下●
大字 ′
不詳
内堀迫 ・
ヽ■宰内職迫
去字 ′
入口 を立本 がふ さぐ
`
韻思寺山 1号
大 宰 女 性 字 餞 t寺 山
長
15
尖 頭 形
方 形
″
額思寺山 2号
大宰 大佐 宰 領 世 奪山
下段 ・
長 円 形
大字 大佐 字 下腋
1,負 迫 1号
20以 上
1_24
″
玄室 颯 没 .崚 il石 列 残 存
大 手 大佐 字 T段
勝負迫 2号 ・
長 方 形
大字 大性 宰 下段
珈
長 円 形
半壇
八面 ・
大宰入江宰山崎
全壇
″
大字 大屋 字 大 手 ケ九山
長 方 形
大手 ケ九 2号 ″
★車★理宰女平ケた山
八島塚谷 1号
″
夫字 八二 宰 女 a
正 方形
八鳥塚谷 2号
大字 八島 事 大 a
八島塚谷 3号
″
長 方 形
5額 思 寺山 僣 穴墓 群
9檀 谷天神古 In
堀追 横 穴 墓
段綺穴墓
八島塚谷 5号
4燿
8軒
岩措 穴 墓 群
壼 火塚古 墳
女字 八島 事 大菫
八島塚谷 6号
屋 根 形
全崚 .聞 き取 りに よ る
尖 藪 形
薇遺埋没.面 加工は丁亨
長 円 形
面卸工は丁事
2.94-
306
1:76
面 3D工 は 丁事
196
面 卸 工 は組 t
ノ ミ富 明燎
面卸工は丁事
ノ ミ1に 明日
r
夫 頭 形
)
3中 F竪 枯穴 墓 群
7勝 負迫 横穴 墓 群
全颯 .聞 き取 りに よ る
尖 薇 形状
■ウ 人■ 幸 夫 菫
2内
6下
長 円 形
長 円 形
八鳥塚谷 4号
周辺 の 古墳 分布 図 (25,lXXl分 の 1,小 奴 可
1.85
・
大平 ケ九 1号
1八 ■塚 谷僣 穴墓 群
面 卸 工 は颯 い
″
1.55
尖 頭 形
士 幸 八■ 幸 夫 豊
,
羨菫入口に石材存在
け
︲
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唱
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中
‐
====』
出土須恵器実測図
〆 ⋮
Lρ
\
口躍
Cm
L=自
4
八 ■ 糠 谷 11穴 群損 穴 墓 賞 lH□
地6
性山
魯
南
指定年 月日 平成元 (1989)年 3月 20日
所
在
地
(広
島県 史跡
上ロ
潮
見
)
甲奴郡上下町水永字南 山123番 ,125番 1,125番 5の 一部
(指 定地 )
面
所
積
有
内
約 1,720ボ
者 岡田 郁丸
(甲
奴郡上下町字 水氷382番 地 の 1)外 1名
容
本古墳 は,県 道福山上下線 の上下町か ら府 中市 にい たる境 界あた りに位置 し,小 高原状 の 平
地 を東 にの ぞ む比 高約 20mの 丘陵端 に きず かれ た帆立 貝式 の前方後円墳 で あ る。付近 は標 高
400mの 中国山地特有の樹 木状 にい りくん だ河谷平 地 と小台地か らな り,水 系 と して は瀬戸 内
・
海 にそそ ぐ声田川 の最上流域 の ひとつ にな って い る。
墳丘 は主軸 を東南か ら西北 にむけ,丘 陵 の 傾斜 面 に平行 してお り,東 側 の 低 平地 か らみ る
と,実 際 よ りも大 きくせ まってみ える。 全 長 は約 24mで ,後 円部 の 直径約 16m,高 さ約 3-
5mで ,後 円部 の東南 に長 さ約 8m,幅 約 10m,高 さ約 1.5mの 前方部が と りつ いて い る。 前
‐
方部 は,長 さ 。高 さの いず れ も前円部 の 2分 の 1前 後 の規模 であ り,前 方部両端 の張 出 しもつ
よ くない。円墳 に低平 な方形 の造出部 を もつ 帆立 貝式古墳 といわれる もの よ りは本古墳 の前方
部は しっか りして い るので ,雌 貝姉
蕩
繁 (膨 ハ.師
方後円墳 としてお きた い。 後円部 の西北
麟
ti
[
端付近には,丘 陵上手 をけず って周溝状
の弧状 をなす窪みがみ とめ られ る。 一 部
に周溝が存 在す るので あろ うか。葺石 ・
埴輸などの外 表施設 は,現 状 の ところで
はみ とめ られない。
内部主体は,後 円部 の 中央あた りか ら
主軸にたい して直交 し,東 北 の墳 裾 に入
口 を もうけた横 穴式 石 室 で あ る。 石 室
は,全 長8.35mで ,奥 壁 部 の 幅 が 最 大
で,入 口にむかって しだ い に狭 くな り
,
第37図
南山古墳位置図
(木 野山・ 高蓋
1:25,000)
羽 子板状 のか わ った平面 形 をな して い
る。奥壁 か ら5.6mの 北側 の 壁面 の 内 ,1
NQ7
には,長 さl.45m。 幅48cmの 柱状 の 1枚 の石をたてて玄室 と羨道の区別をしてお り,片 袖の横
穴式石室 となっている。天丼石 も羨道部 は一段 l_Aく しつ らえている。玄室 は長 さ5.6m,奥 壁
部の幅2.5mi羨 道部寄 りの幅 1.53m,高 さ2mで ある。床面 には側壁の転落 とは考 えられな
い50cm大 前後の石が散乱 してお り.敷 石あるいは障壁様の ものが存在 した可能性 もある。 羨道
部 は,長 さ2,75m,入 口部 の幅0.9m,高 さ1.3mで ,入 口部分の狭 いのが特徴 とい える。石室
の構築にあたっては,床 面から 2段 目あた りまでは比較的大形の石 を横長に積み,上 半分 には
偏平な割石 をまぜて横積みに し,迫 持 はわずかである。天丼石 は玄室 に 4枚 .羨 道 に 3枚 がか
けられて完存する。石材 はすべ て花商岩 を使用する。副葬の遺物 は不明である。
本古墳 の年代 は,こ れ まで出土遺物力fな いのでこまかな検討がで きない。内部主体 力
'横
穴式
石室であるところからすると,広 島県で は 6世 紀の中葉以前にはさかのは りえない。横穴式石
室 は柱状 の石 をおいて玄室 と羨道の区別 をしてお り=側 壁部 に一部割石などを使用 してお り
,
古 い様相 ともいえる。 しか し!そ の平面形 は羽子板状の特異な形態で あ り, この地域 でこのよ
うな平面形の横穴式石室が成立 したとす るならば,横 穴式石室のなかで古い時期 に位置づ ける
ことはむつか しい。 ここでは大つかみなが ら, 6世 紀後半期 に推定 しておきた い。
横穴式石室 を内部主体 とする前方後円墳 は, 6世 紀後半 になると全国的にその数力 少す る
'減
傾向にある。広島県で も現段階では10数 基 をかぞえるにす ぎない。福山市駅家町所在 の二子塚
古墳 (県 史跡 )は .全 長66mに およぶ最大の ものであるが:そ のほかは全長20m前 後で,帆 立
貝形 をとるものが中心で,二 次市・ 庄原市・比婆郡西城町ならびに本側のよ うに,の ちの備後
北部の中国山地一帝に分布する。そのなかで も本古墳 は全長24mで 最 も大きく,横 穴式石室の
規模 も全長8.35m,玄 室 の長 さ5.6mで ,県 内で も比較的大規模な部類 である。横穴式石室 の
羽子板状 をなす平面形は,こ の地域独 自の もののようであ り,こ んご同様な形態 もつ横穴式石
室墳 の分布範囲をあきらかにする必要力'あ る。いずれにせよ本古墳 は墳丘・ 内部主体 ともその
保存状態 は良好であ り,広 島県の後期古墳 の代表的な一つ として重要であ り,県 史跡 としての
価値がある。
文
献
脇坂光彦「広 島県の主要古墳補遺
抱8
(南
山 1号 古墳)」 r芸 備」第10集
昭和55(1980)年
′`
′
κ
′\
ヽ
ヽ
0`
ア
亨
辞
0
i
1c
コ
南 山古墳 墳 丘測 量図
N09
辰 の日T甘 墳 は広 島 県神 石都 神 石町嵩晃 の雑 木林 中 に ある。神 石田]は 広 島 県 の 東北部 、中
国山地の山間 に あ って 、集 落 は標 高400∼ 500nlの 高原地形 の谷平地 を縫 うよ うに点 在 して
い る。高光地 区 は神 石町 の ほ ぼ 中央 に位置 し、隣接 す る福 永地 区 と合せ て 、比 較 的 ノ、│コ の
集中す る交通 の 要衝 で あ る。高 光地 区の東 には標 高692mの 竜王 山 が あ り、こ こか ら高光 の
谷平野 にい くつ もの細 い尾根 筋 が延 びて きて い る。 辰の回古墳 は これ らの細 尾 根 筋 の一 つ
の 、平地 に面 した末端部 に築 か れ て い る。古墳 の標 高は518.41■ で、下 方 の平 地 か らは30nl
の高 さにあ る。
神石町 は帝釈 石灰 岩台地 の一 角 を占め、帝釈 川流域 を中心 に石灰岩 洞 窟 や岩 陰 が み られ
る。町内 には こ うした 自然地 形 を住居 に利用 した 、全国的 に著名 な観音 堂 洞窟遺 跡 な ど先
史時代遺 跡 が あ り、神石 町 で は何 千年 も前の縄 文時代あ る い はそれ以 前 か ら、人 が 住 み始
めた ようだ。稲 作農業 の 始 まる弥生 時代 にな る と、平地 に も集落 がで き、 人 口 も増加 した
はずで あ るが 、町内 で は集落 跡 な どの道跡 はあ ま り発見 されて い な い。 人 が 住 んで い な か
ったので はな く、 かつて の集 落 跡 が現在 で も住宅地や耕地 として土 地 利 用 され て い るか ら
で あ ろ う。
古墳 時代 に な る と、神 石 町 内各所 に
100基 ほ どの 古墳 が 作 られ る。この 地 に
住 んだ 人間の活 発 な生 活 活動 が うかが
い知れ るが 、弥生 時 代 と同様 、集 落跡
はほ とん ど明 らか で な い。 町 内 に残 る
ほ とん どの 古墳 は直 径 10m前 後 の半球
形の円墳 で 、内部 に大 石 を積 み上 げて
築 いた横穴式石 室 を もつ。 これ らは古
墳時代 も後半期 の
6L紀 代 に属 す る も
ので、有力 な農民 家族 の 家長 とその近
親者 が埋 葬 され た。 町 内 で は これ まで
辰 の□古墳 と周 j」 の 古墳 (福 永 1:25,000を 使用1)
].辰 の LI占 墳
3.本 郷 古墳
2.神 石 小学校 束 占墳
4
塚 原 占墳 僻
5 編光南古墳 辟 6 八 つ塚 占墳 併
地10
‐
に 占墳 │1寺 代 前半期 の古墳 や首長 の墓 と
きれ る前方後円墳 は全 く知 られ て い な
か っただ けに 、今 回 発 見 され た辰 の 日
古墳 の存在 は実 に 興味 深 い。
ま
と
辰 の 回古墳 は古墳時代前期 、 4世 紀 後半頃 (今 か ら1620∼ 30年 前 )に 築造 され た古墳 で
あ る。墳 形 が 「 しゃ もじ」 の形 に似 た前 方後円墳 で 、 しか も全長77nlと い う、備後地 方 で
は最大 の規模 を誇 る。前期 古墳 に限 れ ば、広島 県 内最 大 となる。前方後円墳 は地域 の首 長
のみが築造 を許 され た墓 の形 式 で、 した が って、 辰 の 口古墳 に埋 葬 された人物 も、 この 地
域 を統率す る首長 で あ ったに違 い な い。 た だ し、辰 の 口古墳 は単 な る前方後 円墳 で はな く、
備 後地 方 で最大 の古墳 で あ る。 神石町 周辺 とい う狭 い領域 でな く、 もっと広範 な地域 、 少
な くとも備北地 方全体 を支配 して い た人物 とい った 方 が適切 で あ ろう。
辰 の口古墳 の墳 丘 をよ く観察 す る と、限 られ た空 間 を最大限 に利用 して、実 に効果 的 に
築造工事 がな された ことがわか る。 高 くて大 き い後 円部 に、低 くて長 い前方部 が付設 され
て い る墳丘 は、横 方向 か ら見 た形 が特 に美 しい。 これ は、前 方後円墳 の古 い形態 を示 して
い て 、後 にな るほ ど前方部 が大 き く発達 して くる。 後 円部 には一人 の人間 を葬 るには長 大
す ぎる、全長 6.7mに も及 ぶ 竪穴 式石室 を構築 して い る。 これ も前期古墳 の特徴 の一 つ で 、
首長 の権威 を示 す もの にほか な らな い。 さらに、墳 丘 には拳大 か ら人頭大 の真 っ白 い石灰
岩 をび っ しりと貼 りめ ぐらせ、葺 石 として い る。 墳 丘頂部 には、広島県内 で は他 に確 認 さ
れて い な い最古型 式の埴輪 が立 て並 べ られ て い た 。 残 念 なが ら石室 内 には、備北 の大 首 長
の権威 、権 力 を示 す副葬品 は何 も残 されて い な か った が 、墳 丘、石室 の大 きさ、丁寧 な作
り方 な どをみただ けで 、 ここに葬 られ た首長 の絶 大 な る力 の大 きさを知 るに十分 だ。
神 石町内 には前期古墳 は他 に確認 され て い な い し、前 方後 円墳 さえ他 に存在 して い な い。
古墳 時代 の主要産業 は もちろん稲作農業 で あ る。 しか し、 辰 の口古墳 を生 み出す経 済 的基
盤 となるほ どの肥 沃 な平野部 はみあた らな い。 また 、他 に有力 な産業が あ ったか とい えば、
それ も思 いつか な い。中 国山地 とい えば、製鉄 が 思 い うかぶが、現在 の ところ、 その開始
は古墳時代の後半 まで しか さかの ぼ りえな い。 それ な らば、 この 山間地域 に これ ほ どの大
古墳 を生 み出す背景 は一体 どこに求 め られ るの だ ろ うか 。 誰 しも抱 く疑間 の一 つで あ る。
古墳時代 は当初 、西 日本地 方 の首長達 が一 致 して 、斉 一 的 な前方後 円形 の墳墓 を築造 す
るこ とで始 まった。最近 で は関 東地 方 まで含 まれ る よ うで あ るが、近畿地 方の大首長 グ ル
ー プ (大 和王権 )を 中心 に、全国 の首長間 で政 治 的 な連 合体 が組織 され 、彼 ら首長達 の死
後 、大小 の差 はあれ政治的記念碑 、前 方後 円墳 が 作 られ た と考 えられ て い る。 そ して、近
畿地 方の大首長 グループ と地 方首長 との政治的 力 関 係 が古 墳 の大 きさに反映 され た と考 え
れ ば、 辰の 日古墳 に葬 られ た首 長 の政 治的実力 は非 常 に大 きい もの で あ った とい え る。
飽11
これ ほ どに実 力 を もった、辰 の日古 墳 の被葬者 は どうい う歴史的 環境 に生 きたノ
、物 で あ
ったの だ ろ うか。 これ は神 石地域 の地理的 特性 に関 係す る と考 え られ る。 神 石地域 は室 町
時代後期 に は 、北 か ら南 下 す る日本海 侵1の 領 国大名 の尼 子氏 、 それ をギIIし とどめ よ う とす
る備後地 方の在地 領 主 の 宮氏 、 その両者がせめ ぎあ った南 北間の重 要 な要衝 で あ った。 こ
の地 理的特性 は古 墳 時 代 に も共通 す る ものであ ったに違 い な い。
古墳 時 代 を創設 したの は、近 畿地 方の大首長 グルー プ (大 和王権 )と い くつかの 他地 方
の有力首長 グルー プで あ ったが 、地 方勢力 の 中′
心的存在 は後 に吉備 と総称 され る岡 山県南
部地 方の大 勢 力や 、弥生 時 代以 来、強 力 な地域 勢力 を保持 した、 出雲地 方 を中心 とす る日
本海地 方の 勢力 で あ った。近 畿地 方の大首長 グルー プ (大 和王権 )が 、次第 に地 方 に勢力
を伸張 して い く過 程 で 、前述 の地 方勢 力 はあな どりがた い存在 で あ った とい える。
こ うした地 方勢 力間 の間 隙 を うめ る地域 には、天領 や譜代大名 、親 藩 を意 図的 に配置 す
る、後 の幕 藩体制 にみ られ るよ うに、時 の為政者 に よって特別 の政 治的配慮 が な され た に
違 い な い。 まさに、広 島 県北部 、特 に備北地 方 は こ うした地政学 的 に重要 な地域 で あ った。
このため、前 方後 円墳 築造 の許認可権 を もつ近畿地方 の大 首長 グル ー プ (大 和王権 )は
神 石の地 を中心 に備北 地 方 に勢 力 を もつ首長 に特別 の配 慮 を示 し、大型 古墳 の築造 権 を与
えるほ どの優 遇策 を講 じた 。 その 見返 りは、 この重要 な南北 の接 点 とな りうる地域 を管理
し、吉備 や出雲 とい った南 北 の 有 力地 方勢力の連 合 を監 視 、阻止 す る こ とにあ った。
辰 の 口古墳 の約 10km北 には大 迫 山第 1号 古墳 (比 婆郡 東城 町 )が あ る。 この 古墳 は辰 の
口古墳 よ り 1世 代 ほ ど古 い時期 、 4世 紀 中頃 に築造 され た全長 45.5mの 前 方後 円墳 で 、 中
国製獣 首鏡 な ど首 長 の 権威 を象 徴 す る副葬品が 数 多 く出土 して い る。 この 古墳 も東城 盆地
域 だけ を経 済基盤 とす る に は規模 、内容 ともに理 解 しが た い。 辰 の 口古墳 とその出 現背景
を共 通 に す る もの と考 え られ る。 大迫 山第 1号 古墳 、辰 の 口古墳 の両被 葬者 は共 に共通 す
る政 治的 役割 を果 し、 永遠 の眠 りにつ くが、 まさにその 頃、 4世 紀 後半 に は大 和王権 は全
国のか な りの地域 に優位 な立場 で勢力 を拡 大す る こ とに成 功 す る。 つ ま り、吉備 や出雲の
大 勢力 もうま く懐 柔 す る こ とに成功 したので あ ろ う。 この 後、神 石 、 東城 とい った備北地
方に大 型前 方後 円墳 が 築造 され る ことはな くな る。 辰 の 日古墳 出現 の背景 と もな った 、古
墳時代 にお け る、 この 地域 の地理的 特性 が その役割 を終 えたので あ る。
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集 団行 動 で す。時間 を守 りま しょ う。
家 に帰 る までは きちん と交通 ル ール を守 りま しょ う。
それで は皆 さん楽 しい ひ とときを
疑 間 に感 じた ことは講師 に聞 いてみ ま しょう。
講 師 の 知 らな い こ│は 家 に帰 ってか ら調 べ ま しょ う。
自分 で 調 べ て答えが分 かれ ば 、
必 ず身 につ きま す よ。
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