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(7)発掘された遺跡の金属量 pdf7
鱚腑燿 財趙隕 7。 発 掘 され た遺跡 の金 属 量 新井 宏 日本 金属 工業 (株 )常 務 取締役 が入 つていないのである。また甘粕健 氏編 の『 考古 資料 の見方 《遺物編》』 も 「資料 の収集 ・整理・集 はか りを忘れ た考古学 いては,極 めて不完 全なが ら,な ん とか推 定値 を得 成 の方法」 の項に,資 料 の撮影 。実測 ・拓本が必要 と記載 してい るが,そ の実際を述べ る項では実測 が ることができた 。 しか し,古 墳時代や弥 生時代 につ ただ資料 の寸法,形 態それに文様 を記録す るにとど いては,手 も足 も出ない .奈 良時代 に比較 して ,か まつてお り,重 さの計沢Jが 全 く無視 されて いる こ な り低 レベ ル であった ことは類推 できて も,そ の絶 れ らの事実 か ら,考 古学 関係 の諸論考 を見直 してみ 対水準については,文 献史料 によるわけにはゆかな ると,わ が 国 の考古学界 では,明 治初期以降の 100 い。 当然 ,考 古学的な発掘調 査が唯 一のた よ りで あ 余年 にわた る長 い歴 史 をもちなが ら,遺 物 の調 査 に る お いて,重 量を計測す ることを全 く忘却 していたの 奈 良時代 ・ 平安時代 まで の各種金属 の生産量につ , . まず普通 な ら,古 墳時代や弥 生時代 の遺跡 か ら掘 である り出 され た金 属 の量 の統計 を調 べ てみ よ うと思 うで 最近 では ,地 方行政機 関による発掘調 査 が多 い た しか し直 ぐにもそ の ことがむな しい努力 で めか ,学 者 の豪華 な報告書 を参考 に して ,や た らに あることに気 がつ く そんな統計 は,影 も形 もな い 精密 な寸法測定 が報告書 に添 えられて い る場合 が 多 ので ある.第 一 ,個 々の発掘報告 書に,発 掘物 の重 く,尺 度研究 には大変便利 に して い る。 しか し,寸 量 が記載 されて い るのが , ごくごく稀な ので ある 法源1定 に比 べ ,相 変わ らず重量沢J定 が無 視 されて い 『 金属』 葉賀 七三男氏が 「冶金考古学 のすす め」 「 の中で はか りを忘れた考古学」 と怒 つている.も る 簡単であ りなが ら,重 量沢1定 が ,い かに豊 富な あろ う 情報 を持 つてい るか ,そ れ を考 えた ことがないので ちろん私はもつと怒 つてい る 私は計量史 の研究者 にして,考 古学 の研究者なのである。怒 りの レベ ル あろ うか。 で言 えば,葉 賀氏をはるかに超えると思 つているが は精密で ある.三 角縁神獣鏡 の 「同箔鏡」 と誤称す 先輩 の怒 りを伝 えることで,状 況 を知 つて もらいた る同型鏡 の径 を,鋳縮 み との関係 で追かけて見た こ いと思 う。 とがあるが ,そ れ に して も重量 の記載 があれば,鏡 葉賀氏は言 う。文化庁文化財保護部編『 埋蔵文化 財発掘調査 の手びき』 の 中の 「発掘調査 の実施」に の平均的な厚 さが簡単 にモ ニ ター できるのに, と悔 まとめて記載 されてい る発掘調査用具資材 一覧 には 約 40項 目が挙げられてい るが,そ の中に 「はか り」 ろ うと思 つて も, どこに も出ていな い。 も し重量 さ た とえば銅鏡 を採 ってみ よ う。 さすがに径 の測 定 , , しく思った ことがある.銅 鐸 の厚 さが どの程度 か知 え併記 してお いて くれれ ば,何 の 問題 もな いので あ BOUNttY 19997 る 金属材料等 の場合 ,重 量か らそ の比重 を求める 張 つて も精度 の 良 い数値 には成 り得な い とい うこと ことがで きれ ば,材 質判定 さえ可能 にな る で ,か えつて調査 は楽で ある。今 まで発掘 された青 . もつ とも, この よ うな状況 は 日本だけではな い ら 銅器や鉄器 の数 を種類別 に調 べ て ,そ の数 か ら推定 中国 の考古学関係 の論 文はかな り目を通 して す る しかないか らである それ な ら自分で調 べ るま い るが, これ も五 十歩 百歩で ある.有 名 な湖北江陵 で もあるまい。おお よその数 さえ,間 違わなけれ ば 望山 1号 墓か ら出土 した 「越王勾践 の剣」 をは じめ それで も良い しい とし,各 地か ら出土 して い る 「呉 王夫差 の資1」 の重 ところが ,そ の概数 で さえ種類 によっては,簡 単 量をど うして も調 べ た くて ,か な り努力 したが ,わ には見つ か らな いので ある.銅 鏡 の数 で さえ,な か ず か 1本 につい て ,そ れ も約 1キ ロ とい う概数 を得 なか出て こない。以下 は極 めて簡単な ことであ りな ただ けで終 つて しまった。ただ し 1976年 に上野国 が ら,あ んがい苦労 して作成 した資料 である 立博物館 で 開催 され た中華人民共和国 「古代青銅器 展」では,展 示 され た青銅器 130点 のす べ てに重量 . 銅鐸 銅安1・ 銅矛 ・銅文類 500個 (45ト 850本 (05ト (10ト (05ト 450面 2,500本 (15ト 3,000点 (10ト 10,000本 (03ト 500′ 点 (10ト 1,200挺 (02ト ン ) ン) 銅鏡 (除 外 三 角縁神 獣鏡 )3,000面 ン 回世 田谷美術館 で開催 された 「三星堆展 」では,188 三 角縁神獣鏡 鉄剣 ・直刀 ・鉄槍 ン 点 の展示物 の うち,重 量 が付記 されて いたのは,解 鍬釜鋤斧等農機 具 が付 され て い て ,感 心 した記 憶 が ある それが,今 説記事中にや つ と 2件 を見 つ けた のみであつた 鉄鏃 三 短甲 星堆の鋳造技術 を評価す るのに,鋳 造器 の厚 さを知 鉄挺 ることが極 めて重要であるにもかかわ らず ,そ れ を 知 ることので きな い もどか しさ,ま さか展示物 に触 つて厚 さ確かめるわけに もゆかず ,フ ラス トレー シ ョンが溜 まるばか りであ る せ めて博物館 に収容 し たある金属器 だけで も,そ の重量 を公表 して もらえ 挺 ?? ン ) ン) ン) ン ) ン ) 大 き くは 間違 つて い な い と思 うが ,個 々 にはか な リラ フ な推 定で あ る。推 定 の根拠 を示す とな る と , だんだん 憂鬱 にな るので ,主 要な項 目の み コメ ン ト す る ことで 済 ませ た い。 まず銅鐸 で あ るが , この点 では ,私 の 前 に も重 量 推 定 を して い た方 が い た 。前 に もち ょつ と登場 した ないであろ うか。 もつ とも,最 近 では出雲 の荒神谷 の銅会1,加 茂岩 倉 の銅鐸 ,天 理市黒塚 の三 角縁神獣鏡 な どで,そ の 重量 の報告が付 け られ るよ うにな り,だ いぶ状況 は 改善 され ている ついでなが ら,お そ らく初めて青 銅鏡 の重量を実測 し報告書に載せ た方は原 田大 六氏 であ り,そ れ は昭和 冑 ) ) 33年 の沖 ノ島祭 祀遺跡 の調査 ことのあ る関西大 学 の亀 井 清教授 で ある。 氏は 「神 戸市桜ヶ丘出土銅鐸の冶金学的研究」 『 兵庫県文化 財調査報告第 1冊 』の中で, 自身の調査された銅鐸 の総高と重量関係の資料などをもとにして,360個 の総重 量 を 1,992∼ 4,372キ ロ (中 を採れ ば 程度 )と 推 定 して い る 45ト の時である.氏 は初 め,考 古学者 としては独 学 の九 し直 した のが 州大学 の 中山平次郎 医学博 士 に師事 した ,い わゆる セ ンチ程度 の も ので 独学 の考古学者 であ りなが ら, 日本 の考古学界 に極 めて大きな足跡 を残 した方である.筆 者 も原 田氏 の 昭和 41年 の著書『 実在 した神話』 を読んで,一 層 考古学への興味をかき立て られた経験を持 つてい る 32ト ン これ を 500個 の場合 に換算 ンで あ る 銅鐸 は ,総 高 が 45 5キ ロ,100セ ンチ を超 えるも ので 40∼ 50キ ロ の重 量 にな り,か な り重 く,出 土 した青銅器 の 中 では ,最 大 の重量 を 占めて い る 銅剣類 は ,最 大 の本数 を 占 め る出雲荒神 谷遺跡 の 銅会1を 1本 当 り 450グ ラム ど見 て計 算 した。銅鏡 は , 概 して考古学分野では,独 学 の学者 が重要な業績 を 比 較 的 に大型 な三角縁神 獣鏡 とその他 を分 けて計算 残 してい る。アマチ ュア としては嬉 しいことである。 三 角縁神 獣鏡 の 場合 ,平 均 的 な径 の 重量 を セ ンチが 中心 にな る ので , さて ,こ こでい く ら力 ん で も無 い ものは 仕 方が な 均 と考 えた。 い .自 分 で調 べ る しか な い .そ の 場合 , どんなに頑 BOU卜 Ш 22セ ンチの場合 11キ ロ とし,そ の他 の場合 は ,径 発掘 された金属量 はわず か 10ト ン , 10∼ 16 1面 当 り 300グ ラム を平 また,鉄 の関係資料は,奥 野正男氏の『鉄の古代 Y 19997 史』 2冊 に記載 された遺物 を数 えた もので ある 鉄 な場所か ら出土す るのが大部分で ある。それは,論 の場合 , ど うして も件数 が 多 く収録 に落 ちがある と 理的には ,未 だ発 見 され てない ものが最 も多 くある 思 うが, とりあえず奥野氏 の資料 が最 も網羅的 で あ とい うことを意味 してい る。 ところが ,銅 鐸 にも同 り,こ れ によつた .重 量 はす べ て主要器物 の寸法 と 箔的な ものや 同型枠的な ものが あ り,異 な つた場所 これ もつい でなが ら,奥 野正 か らほぼ同一の ものが発 見 され る例が数 多 くあるの 形 か らの推定である 男氏 も著名な独学 の考古学者 である である . 40ト , 65ト ン,鉄 鋳造技術 か ら見て ,法 量が極 めて近 い銅鐸 は同 じ型 ンで ある。 この量 を多 い と感 じるであ 枠 によ り鋳造 され た可能性 が高いが,そ れ ら同枠鐸 さて ,以 上 を合計す る と,銅 関係 で 関係 で 中 国裕氏 の『 改訂銅 の考古学』 に よれば ろ うか ,少 ない と感 じるであろ うか 較対象 になる良 い0 lが なかなか,比 は同一場所 か らばか りでな く,異 な った場所 か らも な いが , 日本では古銭が各地 発見 され てお り,10件 程度 の例 を見 る。 しか も同 か ら出土 してお り,そ の総枚数 が 300万 枚 (重 量で 枠鐸 に属す る銅鐸 の発 見数 が 4∼ 5個 の場合 が 12ト ン)を 越す ので はな いか と思 う それ は鈴木 もある 5件 公 雄 氏が 「出土備 蓄銭 と中世 後期 の銭 貨流通」 『史 ここで簡単な計算 を してみ よ う。す べ ての銅鐸 は 学』 の 中で,228万 枚 の銭貨 につ いて調査 して い る 同一の型枠で 10個 ず つ鋳造 され ,そ の 10個 の銅鐸 か らである 埋蔵銭貨 の発 見は,最 近で も時折新 聞 が平均 して 5カ 所 の異 な ったユーザ ー に納入 された に紹 介 され るが ,多 い時 には 20万 枚 を超 える単位 で出土 してお り,10万 枚 を超 え る出土例 だ けで も 現在 7件 はある.そ の他 に,「 新安沈船」 か ら出た 28ト ンの例 もあ る しか し,古 銭 の 出土 と青銅器 (出 土箇所 )を 調 べ た ところ,各 ユ ーザ ーの手持 ち平均 は 2個 で , 異 なつたユー ザ ー 間で同一枠 の銅鐸 を所有 してい る 例が 10件 あつた とい う.す べ てのユー ザ ー数 は何 件 あるか。答 えは 3,676件 であ り,鋳 造 された銅鐸 の出土では,背 景 があま りに も異 なる . 他 の比較 は,前 述 した中国戦国期 の一諸侯 に過 ぎ ない 曽侯 乙の墓か ら としよ う 今 ,250カ 所 のユ ー ザ ー 105ト ンの青銅器 が出土 した 数 で言 えば 7,350個 である。 このよ うに検討 してみ ると,す でに発 見 されて い る銅鐸 が全銅鐸 の約 7% 例である 銅鐸 を除けば , 日本では青鋼器 に しろ鉄 もあ り,か な りの発 見率 にあるよ うな ので ある 前 器 に しろ,墳 墓や古墳か らの発見 が大 半を 占めて い 提 が異なれ ば,結 論 が変わるが 目安にはなろ う る 曽侯 乙墓 も墳墓 とい う点 で共通性 があるが , こ たがって ,埋 蔵 されて い る銅鐸 の量 を,既 発見分 を れ も規模 が違 い過 ぎて ,直 接 の比 較 にはな らない 含 めて 60ト ン と推定 したい し . 曽侯 乙墓 の銅器 105ト ンだ けで も, 日本 の弥生時 一方 ,銅 貪1や 銅鏡 は,埋 設 され ている青銅器 の量 代 と古墳時代 の銅器発掘 量を超 えてお り,ま た ロー としては ,銅 鐸 ほ どの重要性 を持たない.ひ とつ に マ期 のイ ング ラ ン ド北部イ ン タッ トヒル城 塞跡 か ら は,重 量的に絶対量が少ない こと, しか も銅鐸 に比 出土 した 100万 本 の鉄釘 7ト ンだ けで も, 日本 の弥 較 してすでに発掘 されて い る比率が高 いか らである 生時代 と古墳時代 の鉄器 の発掘総 量 を超 えてい る 特 に銅鏡 は,銅 鐸 に比 して古墳 とい う特定な場所 が 日本 の弥生時代 ,古 墳時代 とはそんなイ メージな の 主対象 なだけに,既 発見率 が 高 い とす るのに異論 は であろ うか。ただ し,当 然 の ことではあるが,私 用 ないであろ う。銅鏡 の場合 ,盗 掘 による散 逸 も考慮 されて いた金属器 の大部分 はまだ地 中に眠つている して ,当 初 の埋 葬量 の 20%が 発 見 され て い る とす . . れ ば,元 の量は 7ト ンになる。銅鐸 に比較 し 10分 銅使用量 は弥生 時代 の方 が 多 い の 1の 重量であ り,圧 倒 的に少な い量な ので ある それでは , と言 うので ,出 土 した金属量か ら未発 す なわち,銅 鐸 が弥生時代 ,銅 鏡 が古墳時代 を代表 掘 の遺跡 の埋蔵金属量を推定 してみ ることに した 的す る銅器 であるか ら,弥 生時代 の銅使用量が古墳 こんな無謀 な ことを考 えるのが,ア マ チ ュアの良 さ 時代 を圧倒 して いた ことになる.は た して ,こ の よ であ り悪 さである うな ことを今までに指摘 した方が い るであろ うか。 . まず銅鐸 であるが ,周 知 のよ うに銅鐸 は全 く意外 寡 間に して知 らな い .定 量化が困難 な ことであつて BOUND_ARY 1999 7 も,定 量化 を試み るなか に新発 見 がある 古墳時代 慮すれ ば,明 治初期 の消費量 の 5分 の 1程 度であっ は完全 に鉄器時代 に入 つ てお り,銅 器 は祭 TE器 な ど た として も, さほ ど不 自然ではな いであろ う そ う として使 われただけで ,実 用的な意味をあま り持 た 考 えれ ば ,古 墳時代 に農 具 に費や された鉄 の量は なか ったので はなかろ うか 人 口を 300万 人 と見 て ,毎 年 40ト ンになる.こ の . 以上のよ うに,弥 生 ・ 古墳時代 の銅遺物 の総埋蔵 推定量を 60ト ン とし,そ の他 に埋 葬せ ず に使用 し た銅器 がその 2倍 あ り,計 200ト ンあった として も , , 他 に武器 へ の使用等 を加 える と,毎 年 60ト ンを総 需要 と考 えた い . ここまでの 2つ の方法 による検討 は,い ずれ も答 年 当 りの使用量は 600キ ロ とい うごくご くわずかな えが年 50∼ 60ト ンになるよ うに仕組んである。前 量にな って しま う.こ れ では,三 角縁神獣鏡 な ら毎 提 は明示 しておいたので ,納 得 の ゆかない方は数字 年 600枚 ,銅 倹1で も毎年 1000本 も造れ ば終 つて し を動か してみて ほ しい。 まあ大過 な い値 に納まって ま う量である い るので はないか と思っている . . さて ,銅 関係 につい ては ,お お よその 目安がつい たので,鉄 の 問題 に入 りた い 鉄 の場合 も,発 見 さ 以 上の結果 , 日本 にお ける鉄 の総需要 の推移 は おお よそ次 の よ うになる れた例 の 多 くは ,意 識的 に埋 葬 された古墳 か らで あ り,銅 の場合 と同 じく,そ の発 見率 は 20%程 度 と して も良 いであろ う.し か し鉄の場合 ,正 式 の発掘 調査 によ らな い と,遺 物 が 見過 ごされて しま う場合 が 多 いの で ,一 般的 には発 見率 が下が り,10%程 度 と評価 した方が良 い。 そ うす ると,古 墳 に埋 まって い る鉄 の総量 は ,50ト ン程度 になる しか し鉄 の 場合 は,銅 と異 な り,古 墳 に埋蔵 され るよ りも,農 具や武器,道 具用に消費 され て しまった場合 の方が はるかに多 かったで あろ う 古墳 を築 き得た のは , , ごく一部 の階級 であ り,そ の階級 が古墳埋葬に振 り 向け得た鉄 の量は,生 産量の何 %あ ったで あろ うか。 仮 に 3%と 見 るな ら,古 墳時代 に消費 され た鉄の総 量は,15,000ト ン と計 算 され ,年 当 りの消費 として は 50ト ン程度 になる . 他 に比較検証 し得 る方法がないので ,こ れ を明治 初期 の鉄 の消費状況 と比 較 してみ よ う 「明治 七 年 府県物産表」 によれ ば,鉄 を使用す る製 品関係 の年 生産 額 が次 の よ うにな って い る ( )内 は,私 が 推定 した鉄 消費 量で ある 鍬 ・鎌 ・鋤等 の農具 鋸 ・飽 ・斧 ・包丁等 の刃物 鍋 ・釜 等 釘 ・針 ・鋲等 人口 古墳時代 300万 鉄需要量 人 60ト ン 200ト ン 奈 良時代 と平安初期 800万 人 鎌倉時代 と室町時代 1,300万 人 1,000ト ン 戦国時代 江戸時代 中期 江戸時代 末期 1,800万 人 3,000ト ン 2,600万 人 9,000ト ン 3,400万 人 14,000ト ン うま く組 み 立て過 ぎた と言 うべ きか 1人 当た り 20グ ラム 25グ ラム 80グ ラム 200グ ラム 300グ ラム 400グ ラ ム いずれ にせ よ,鉄 につい ての議論 は,仮 定に仮定を重ね過 ぎて , さすがに無意味な点が多 くな つて きて い るかも知れ ない この辺で止 め るのが適 当で あろ うが ,も う一 点だけ述 べ た い。 日本 にお ける鉄製錬 の 開始時期 をいつ 頃 と見 るか で ,専 P5家 の 間で も見解 が割れて い る.大 方は 5世 紀以前 の鉄製錬遺跡 が未発 見 であることか ら, 6世 紀頃初頃 のス ター トと考 えて い る。 もちろん考古学 的 ,実 証的な研 究に待 つ べ きであるが,鉄 の使用量 の如何 に よつて も,各 地で原始的な方法により生産 されて い たのか ,輸 入 したのか ,問 題 をあぶ り出せ る た とえ吉代 にあって も,技 術 は経済 の上に成 り 立っている 作 るのが得 か ,運 んで くるのが得 かに 807,109円 (2,000ト ン ) 351,989円 ( 500ト 572,057円 1,537,267円 ン ) (2,000ト ン) (5,000ト ン ) すなわち明治初期 の人 口 1人 当 りの農具 の消費量 は , ついては,次 々回に取 り上げる いずれ にせ よ,計 量史 の研 究者 である筆者 に とつて は,い ずれ の 日に か発掘遺物 の総重量につい て ,よ り精度 を上げた研 究をお こなつてみたい と思つてい る 60グ ラムである 一方,古 墳 時代は,鉄 が貴重 品であっだったか ら,大 切 に使われたであ うし,鉄 以外 の材料 で補われたにちが いな い.そ の ことを考 BOUNDARY 1999 7 .