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下老子笹川遺跡発掘調査報告書

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下老子笹川遺跡発掘調査報告書
福岡町埋蔵文化財報告書
富 山県
福 岡町
下 老 子笹 川遺跡発掘調 査 報告書
1998とF3月
福 岡町教 育 委 員 会
第 7冊
平成 9年 度
出土遺物
下老子笹川遺跡
調査地遠景 (東 か ら)
天王 山式系統 の上 器 と櫛描文土器
福岡町 は、北東 に流下す る小矢部川を境界 にす ると、 古代以来 の街道筋 で
ある山麓地区 と右岸 の平野部 に分 ける ことがで きます。 左岸 の丘 陵 には多 く
の古墳 が存在 してお り、古墳群 を形成 して い ます 。 この 中 に は県 指定史跡 で
ある城 ケ平横穴古墳群 があ ります。 また、 右岸 の平野部 には、 1586年 の天正
地震で崩壊 した県指定史跡 の木舟城跡 があ ります。 こ う した多 くの遺跡 は、
この地域が古 くか ら交通 の要所 として栄 えていた ことを物語 るものです。
このたび、個人住宅建築 に先立 ち発掘調査 を行 った下 老子笹川遺跡 は能越
自動車建設 に伴 う調査 によ り発見 された ものです。 今 回 の調査 で は、 東北地
方 との文化交流 を示す土器 が 出上 してお ります。
このよ うに、遺跡 は地域 の歴史 の解明 に極 めて重要 な役割 を果 た しますが、
その一方 には、一度発掘 して しまうと三 度 と元 に戻 らな い とい う事実 があ る
こと も考えなければな りません。 この報告書 が、 地域 の歴史 の解 明 に役立 つ
事 は勿論 の こと、埋蔵文化財 に対す る保護意識 の浸透 に少 しで も役立 つ こと
が 出来 れば幸 いです。
終わ りに、 この調査 を行 うにあた り、 ご協力 を頂 きま した地 元 の方 々及 び、
富山県埋蔵文化財 セ ンターをは じめとす る関係諸機 関 の方 々 に厚 く御礼 申 し
上げます。
平成 10年 3月
福岡町教育委員会
教育長 谷
崎
嘉
悦
例
1
2
ロ
本書 は富山県西砺波郡福岡町下老子地内に所在す る下老子笹川遺跡 の発掘調査報告書である。
調査 は個人住宅建築 に先立 ち、福岡町教育委員会 が実施 した。調査 の実施 にあたっては、富山県埋蔵文化財 セ ン
ターの指導・ 協力 を得 た。 また、調査費用 は福岡町教育委員会 が国庫補助金・ 県費補助金 の交付 を受 けた。
3
調査事務所 は福岡町教育委員会生涯学習課 にお き、文化財保護主事栗山雅夫が調査事務を担当 し教育次長吉国修
―が総括 した。 また、調査 にあたって硼福岡町 シルバ ー人材 セ ンターの協力 を得 た。
4
調査期間 。調査面積 は次 の とお りである。
5
試掘調査・ 発掘調査担当者 は次 のとお りである。
試掘調査
平 成 9年 度
本 調査
6
7
平成 8年 度
担当者
担 当者
調査期間 平成 9年 5月 15日 ∼ 6月 10日
福岡町教育委員会
調査面積 200∬
文化財保護主事
栗 山雅夫
富山県埋蔵文化財 セ ンター 文化財保護主事
越前慶祐
福 岡町教育委員会
栗 山雅夫
文化財保護主事
資料 の整理、 本書 の編集 と執筆 は、富 山県埋蔵文化 財 セ ン タ ー職員 の協 力 を得 て調査担 当者 が行 った。
調 査 期 間 中 お よび資料 整理 期 間 中、次 の方 々か ら援 助 を頂 い た。記 して謝意 を表 したい。
赤澤徳 明・ 上野 章・ 越前慶祐・ 大平奈央子・ 岡本淳 一 郎 。久 々忠義・ 斎藤 隆・ 酒井重洋・ 島田修 一 。高 梨清 志・
根 津 明義 。宮 崎順 一郎 (五 十 音順・ 敬称 略)
また、 附章 で は出土土器 につ いて石川 日出志氏 に玉 稿 を頂 いた。深 く感 謝 の意 を表 した い。
8
9
本書 の土 色 の色調 は、 小 山正忠・ 竹原秀雄編著 1994版 『 新 版標準土色 帖』 に準拠 して い る。
本書 の挿 図 。写 真 図版 の表示 は次 の とお りで あ る。
(1)方 位 は真北、 水平基 準 は海抜 高 で あ る。
(2)基 準杭 は調 査 区南側 に隣接 す る建物 との境界 に沿 って 任 意 に基 準点 を設定 した。 なお、基準杭 の X軸 は磁 北 か
ら 8°
14′
7″ 東 へ偏 る。
(3)遺 構 の表記 は次 の記号 を用 いた。溝 :SD
ピ ッ ト・ 柱 穴
:SP
牲)出 土 遺 物 の縮 尺 は、 図版 下 に示 した。写真 図版 の縮尺 は、 原則 と して土 器 が 1/2、 石器 が 2/3と した。
10
出土 品及 び記録 資料 は、福 岡町教育委員会 が保管 して い る。
挿図・ 図版 目次
本 文 目次
I
文
第 1図
地形 と周辺 の遺跡
例
言
第 2図
試掘調査位 置図
目
次
第 3図
本調査 区割図
第 4図
遺構 断面 図
第 5図
遺構配 置図 ・…………… … …… … … … … 5
……・
遺 跡 の位 置 と環 境 ・…………………… Ⅲ
工 調 査 の経 緯 と経 過
Ⅲ
……… … … … … … …
…………… … … …・… … 2
。
…………… … … … … … … 3
………… Ⅲ
…… …… … … … … 4
1.調 査 に至 る経緯 …… ……・………………
2.調 査 の経 過 ・…… Ⅲ…………・……………
第 6図
出土遺物実測 図
… …………… … … … … 7
第 7図
出土遺物実測図
… …………… … … … … 8
… …… …………………… ………
第 8図
出土遺物実測図
… ……… …… … … … …… 9
第 9図
出土遺物実測図
… ………… … … …… … 10
第 10図
大正 10年 作成地籍 図 ・…… …… … …… …13
調 査 の結 果
1.地 形 と層 序 ・………………………………
2.遺 構 ……… ……… … … … … … ……
3.遺 物
4。
附章
。
………… … … … … … 1
序
ま とめ
下老子 笹川遺 跡 の天 王 山式土器
写真 図版
I
遺跡 の位置 と環境 彿 1図
)
本書 で報告 す る下 老子笹川遺跡 は富 山県西砺波郡福 岡町下 老 子 地 内 と同県 高 岡市笹川地 内 に またが って所 在 して い
る。
富 山県 は県 中央 部 にあ る呉羽丘 陵 を境 に東西 に三 分 され、 それ ぞれ「 呉東」「 呉 西」 と呼 ばれて い る。 福 岡 町 は後
者 に属 し、 県 の西端 部 に位 置す る。 町域 は東 の平野部 と西 の丘 陵部 に大別 され る。 この うち、平野部 は小 矢 部川 と庄
川 によ って形 成 され た複合扇状地 の扇端部 で砺波平野 の北 西 端部 に位 置す る。 丘 陵部 は、宝達 山 を主 峰 と して能登半
島 に連 な り、 石 川 県 と接 してお り、 町 の総面積 の 4分 の 3を 占 め る。
町 内 の遺跡 を おお まか にわ け る と、 町西側 の丘 陵部 に旧石 器 ∼ 縄文 時代後期 の遺跡 が点在 し、平野部 に は縄文 時代
晩期 か ら近 世 に至 る遺 跡 が広 が って い る。特記 す る点 と して 、 平 野 に面 す る丘 陵部 には古墳 時代後 期 を主 体 とす る古
墳群 や、 中世 の 山城 が あ る。 また、古 代 の北 陸道 は、 この丘 陵 の 山裾 を通 って、高 岡市伏木 にあ った国府 に通 じて い
た とされて い る。 丘 陵部 の主 な遺 跡 に は、上野 A遺 跡 (縄 文 時代 前期、 中期・ 古墳時代 )、 城 ケ平 横 穴 墓 群 (古 墳 時
代後期 )、 鴨城 跡 (中 世 )な どが あ る。 また、平野部 の主 な遺跡 に は、石名 田木舟遺跡 (弥 生 時代 。古代 ∼ 近世 )、 江
尻遺跡 (古 墳 時代 。中世 ∼近 世 )が あ る。
下老子笹 川 遺 跡 は小矢部川右岸 の平野部 に位 置 し、 弥生 時代 後 期 を主 体 とす る縄文 時代 晩期 ∼近世 の複 合遺跡 で、
平成 3年 に含ヒ越 自動 車道 の建設 に伴 う調査 によ り発見 され た もので あ る。平成 8年 度 に行 われ た発 掘調 査 で は、 今 回
の調査対 象地 の約 200m東 で県 内最古 とな る弥生 時代 終末期 か ら古 墳 時代 中期 の水 田や、弥生 時代 終 末 期 の 周 溝 を も
つ建物跡 が検 出 されて い ると また、平成 9年 度 の調査 で は、 国 内最古 とな る弥生 時代後 期 の「 水盛 り」 が 出土 して い
る。
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第 1図
地形 と周辺の遺跡 (1/25′ 000)
下老子笹川遺跡 2 下老子北遺跡
矢部北遺跡 8 高 田新西後遺跡 9
12 上開発遺跡 13.油 屋寺 田遺跡
1
7
-1-―
―
3
宝性寺塚 4 大滝遺跡 5 蓑 島遺跡 6 江尻遺跡
高田新芽道遺跡 lα 立野地頭田遺跡 11 助方遺跡
Ⅱ 調査 の経緯 と経過
1
調査 に至る経緯 (第 2図 )
平成 8年 11月 、個人住宅建設 に伴 い農地転用 の 申請 が提出された。 申請地 が周知 の埋蔵文化財包蔵地である下老 子
笹川遺跡内 に位置す ることか ら、福岡町教育委員会 は事前調査が必要である旨を通知 し、申請者 と協議 を行 い土地所
有者 の承諾を得 て造成工事前 に試掘調査を行 うこととな った。
試掘調査 は同年 12月 に行 い、調査 の結果、柱穴・ 土杭等 の遺構 と弥生土器・ 瀬戸美濃等 が 出上 した。申請地 に遺跡
の遺存が確認 された ことか ら申請者 と協議 を行 い、住宅建築部分である200nfを 対象 として本調査 を行 う こととな っ
た。
本調査 は福岡町教育委員会 が国庫補助金 の交付を得て平成 9年 5月 に実施す ることとなった。
/
│
│
鬱
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患豊筆方道本
第 2図
試掘調査位置図 (1/5,000)
-2-
2
調査 の経過 (第 3図 )
現地調査 の前 に、事前準備 と して近 くの水準点 を利 用 して仮 BM(19.0)を 調査地 内 に設定 した。
このあ と前年度 に実施 した試 掘調査 を結果 を もとに、調査対象面積 で あ る200だ の表土 除去 を重 機 でお こな った。
次 に調査地 の地形 に合 わせ て任意 に基 準杭 を設 け、
2m× 2mを 一 区画 と した。基 準杭 は隣接 す る住宅 との境界 に
沿 って任意 に起点 を設定 し、座標軸 は南北 を X軸 、東西 を Y軸 と した。 なお、 X軸 の方 向 は磁北 か ら 8°
14′
07〃
東
へ偏 る。
その後、入力 によ る遺物包含層 の掘削、遺構精査、遺構掘削 を行 い、続 いて 図化・ 記録作業 を行 った。 また、 出土
遺物 は現地 で水洗 い し、現地調査終了後、整 理 室 で注記等 を行 った。
それぞれの遺 構 につ いて は調査員 が写真撮影 を行 ったが、調査地 の全景写真 は ラジ コ ン・ ヘ リコプ ター によ り撮影
した。
調査期 間 は平成 9年 5月 15日 か ら平成 9年 6月 10日 (実 働 日数 14日 )ま でで あ る。
平成 9年 5月 15日
表土 除去、基準杭設定
5月 16日 ∼21日
遺物包含層掘削
5月 22日 ∼26日
遺構精査
5月 28日 ∼ 6月 2日
遺構半裁、遺構断面図作成
6月 4日
遺構完掘
6月 5日
調査地全景写真撮影
6月 9日 ∼ 10日
遺構平面 図作成
X→ ︱ 町道 一歩 ・笹
川線
第 3図
本調査 区割 図
(1/500)
-3-
Ⅲ 調査 の結果
1
地形 と層序
下老子笹川遺跡 は、庄川 と小矢部川 によって形成 された複合扇状地 の扇端部 に位置 し、 約 1,9鮎 の面積 を有 してい
る。標高 は17∼ 19mを 測 り、北東 に向か ってゆるやかに傾斜 している。 この うち福岡町域 の下老子地内では、微高地
上に現在 の集落 が立 ち並んで いて、西側 は荒又川が流れ、東側 の後背湿地 には水田が広 が ってい る。荒又川 が現在 の
姿 となったのは昭和26年 に完成 した河川 改修以後 で、以前 は第 10図
(13P)に あるように蛇行 して流れていた。また、
集落 の東側 に広 がる平坦 な水田地形 は昭和38年 に行われ た耕地整理 によるもので、 それ以前 は所 々に谷部 があって氾
濫が繰 り返 されていたことが判明 して いると 今回 の調査対象地 は、現在 の集落内 =微 高地上 に位置 している。
基本層序 は①層 :オ リーブ黒色 シル ト、① ―Ⅱ層 :に ぶい黄褐色 シル ト質砂上、②層 :黒 色 シル ト、② ―Ⅱ層 :黒
褐色 シル ト、③層 :灰 オ リー ブ色砂質 シル トの順 に堆積す る。 この うち①・ ① ―Ⅱ層 は耕作土、② o② ―Ⅱ層 は弥生
時代後期 の遺物包含層、③層上面が遺構検出面 (地 山)で ある。 また、噴砂が X2Y7付 近で検出されたが、上面が
存在 しないため所属時期 は不明である。
調査地付近 は耕地整理 の際 に削平 を受 けてお り、弥生時代以降 の遺物包含層 は遺存 しない。 また、②層 と② ―Ⅱ層
か ら出土 した土器 が接合す ることか ら、 この 2層 は同時期 の もので時期差 はない ものと考 え られる。中近世 の陶磁器
については、①層 か ら②層上面 にかけて出土 してお り混入 によるものと考 え られる。 またて遺構 は②層か ら掘 り込 ま
れて いる。
2
遺構
調査 によって検出 した遺構 は溝 2条 、 ピッ トである。
(1)溝
S D01は 南東 か ら北西方向 に流れ るもので①層下面 か ら掘 り込 まれて い る。弥生土器 が出土す るものの、流 れ込み
であり、耕地整理前 に存在 して いた もので ある。
S D02は 所属時期 は不明であるが、溝 の底部 を検出 した もので あることか ら、比較的新 しいものと思われる。
(2)ピ ッ ト
削平 によ り、大半 の ピットは深 さが20cm前 後 と浅 く、建物 を構成す る柱穴 は検出されなか った。 また、遺構内か ら
の出上 がほとんど無 いことか ら、 それぞれの ピットの時期 について は不明である。 しか しなが ら、覆土 か らは、砂質
分 が多 く灰色 もしくは褐色 を呈す るものと、粘性 が強 く黒褐色 の ものが あり、 3種 類 の ピッ トが確認で きた。分布傾
向 としては、 X3Y5付 近 に古 い ものが集中 し、調査地北東 に比較的新 しい もの (近 世以降)が 集 まっている。また、
Y3.5付 近で南北方向に 1間 おきに並ぶ杭列 は、 ハ サの跡 で新 しいものである。
_③
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舟イ0
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SP 55
1に ぶい黄色粘質 ンル ト(25Y6/3)
2黒 掲色 シル ト賞砂上 (25γ 3/2)
3黄 掲ヨ ンル ト質砂土 (25Y5/3)
第 4図 遺構断面図 (1/40)
-4-
1に 本い黄色 シル ト質砂土 (25Y6/3)
2黄 灰色砂質 ンル ト(25Y4/2)
3黄 褐色 ンル ト(25Y5/3)
\ナ
1
1責 灰色ンル ト質粘土
(25V4/1)
1黄 褐 色 シル ト質 粘 土 (25Y5/3)
2黒 掲 色 ンル ト質 粘 土 (2.5Y3/1)
3黄 褐 色 シル ト質 粘 土 (25Y5/3)
l
糾 枷図 陣 蔀 円 剛 図 ︵一\ 8 ︶
︱ 伽︱
亀
O
p
鮨銑
i黄 灰 色 シル ト(25Y4/1)
i暗 灰 色 ンル ト(25Y4/2)
k暗 灰 黄 色 粘 質 シル ト(25Y4/2)
1黄 褐 色 シル ト(25Y5/3)
5Y9
③
°
0
6
+38
4m
_ギ【5Y7
O
SP80
O
O°
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基本層序
① オリーブ黒色ンル ト(5Y3/1)
①―Ⅱにぶい黄掲色ンル ト質砂土(10YR73)
② 黒色ンル ト(5Y71)
②―I黒 褐色ンル ト(25Y3/2)
③ 灰オリーブ色砂質ンル ト(5Y5/2)
0
S
f黒 色 粘 土 (25Y2/1)
○
lY9
― 【3Y9
十
8
90
P
g暗 灰 黄 色 シル ト質 粘 土 (25Y4/2)
h黒 褐 色 ンル ト(25Y3/21
⑥
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鳩慧
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③
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θ
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〇
O
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③
⑮。
a黄 褐 色 ンル ト質砂 土 (25Y5/3)
b黄 灰 色 粘 質 ンル ト(25Y71)
c黄 灰 色 シル ト(25Y71)
dに ぶ い黄 色 粘 質 シル ト(25Y6/4)
e灰 黄 褐 色 粘 ± 00YR5/3)
⑬
○
0
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さ3 Yll
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○
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lⅥ
②―Ⅱ
ギ
ギ
lY3
5Y3
3Y3
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Z︶
叫 笥 7マ Y ︼
3
遺物
出土 した遺物 は弥生土器、石鏃、剥片、瀬戸・ 美濃、越中瀬戸、伊万里 である。弥生時代 の遺物は厚さ20cm程 の②・
② ―Ⅱ層 か ら出土 して いる。弥生土器 はX4Y5か らX2Y10に かけて帯状 に分布 し、特 にX3Y7と
X4Y5付 近
でまとまって出土す る。土器片 は、隣接す るグ リッ ドどうしで接合す るものが多 い。 また、土器 の大半が天王山式系
統 の上器で占め られて いることと、当遺跡内 の発掘調査成果 か ら② o② ―Ⅱ層 は弥生時代後期 の遺物包含層 と判断 し
ている。器種 の識別 については、小破片 が多 く明確 にで きない ものが多 い。図化 した遺物 は、石器 5点 、土器45点 で
ある。
1は 弥生時代 の小型甕 で櫛描文 をもつ。 日径 は18clllを 測 り、 日縁 は「 く」 の字形 に外反す る。文様 は、胴部上端 に
6条 の簾状文 を左 回 りに、 その下 に 5条 の波状文 を 2帯 右回 りに施す。波状文 は、 1山 単位 で施文 して い る部分 がみ
られ、鋸歯文 に近 い形態 を して い る。調整 は日縁部 と内面 に ヨコナデを施す。煤・ 炭化物 は日縁部内面 と頸部下 に多
く付着す る。時期的 には、弥生中期 に帰属す るもので ある。
2∼ 45は 天王山式系統 の土器である。 2∼ 4は 同一個体 で甕 の頸部 ∼胴部分 である。文様 は、 日頸部界 に 2条 の平
行沈線、 その下 に 2条 、 3条 、 2条 の波状文、頸胴部界 に 2条 の平行沈線 を施す。内面調整 は、頸胴部界 の平行沈線
を境 に、上部が ヨヨナデ、下部 がナナメ方向 にナデている。煤・ 炭化物 はすべて外面 に付着 している。 5は 大型 の甕
で日径 は38clllを 測 る。 日縁 が外反 し、胴上部 がふ くらむ器形で、 日頸部界 に 2条 の平行沈線、頸胴部界 に 2条 の平行
沈線 と 2条 の波状文 を描 く。 また、頸部 と胴部 は下か ら上 に向いてハ ケメ調整 がされている。 ハ ケの 1単位 の幅 は1.5
cm程 である。煤・ 炭化物 は外面 にのみ付着す る。破片 はX3Y8・
X4Y8を
中心 にX3Y6の ものと接合す る。 6
∼ 9は 幅広 の沈線 (3∼ 4 mm)で 重菱形文を描 くもので、内面 を ヨヨナデ し、煤・ 炭化物 は外面 に付着す る。 6・
7、
8。 9は 、 それぞれ同一個体 の甕 である。 6・ 7は 口縁 ∼胴部 で、文様 は頸部 の重菱形文か ら頸胴部界 の波状文 を経
て胴部 の縄文へ と変化す る。 8・ 9は 甕 の頸部 にあたる部分 である。
11・
17∼ 19・ 21・ 22・ 23・ 27は 交互刺突文 が施 される。交互刺突文 には、浅 く大 きい もの (11・ 18・ 22)、 深 く小
さい もの
(17・ 19・ 21・ 23・
27)が あり、太 くて先端が丸 い タイプと、細 くて先が尖が るタイプの 2種 類 の工具 が使
用 されて いる。胴部 に交互刺突 を施す のは27で 、 これ以外 は口縁か ら頸部 にかけて施 される。 17∼ 20が 壺である。21
∼25は 幅狭 の沈線 (1∼
2 mlll)で
重菱形文を描 くもので ある。23・ 25の 重菱形文 は工字文状 を呈す る。 11∼ 16・
19。
32は 口縁部 に刻み目をいれる。 日唇 に対 して横 か ら刻み を入 れるのが11∼ 16。 19で 、32は 日唇 に対 して真上か ら刻み
目を入れる。 このうち、 11・
13・
14は 日縁内外面 に縦 の刻 み 目をいれる。 12は 日唇中央寄 りに斜 めの刻み目を入れる。
胎土 は石英 を多 く含 み焼成 は悪 い。 15は 口縁外面 に丸みをもつ刻 み 目をいれ、 日唇 に縄文 を施す。 16・ 19は 日縁内外
面 に斜 めの刻 み目をいれ、内面 の刻 み目の下 に 1条 の沈線 を巡 らす。 19。 32は 日唇 に小突起 をもつ。20は 19と 同一個
体 で赤彩 されて い る。21は 1条 の沈線 を日唇 に巡 らす。平行沈線 と交互刺突 に挟 まれた縄文部 には、直径 7 1nlllの 穿孔
が外面 か ら開け られて いる。33∼ 35は 底部 である。33は ミニチュア土器 で丸底 の もので ある。34・ 35は 外面 に縦走す
る縄文 を施す。煤 。炭化物 が付着 して いるのは、 11∼ 16・ 21∼ 27・
36・ 38・
30・ 32・
34で ある。
39は 日唇 に縄文 を施す。36は 回縁内面 に「 ハ」 の字形 を連続 させた刻み目をもつ。37は 口唇 にナナメ方向
の刻 み 目を もつ。 日縁部 は一度外反 したあと内傾す る。 日縁 の最大径部分 には、左手 による爪形文 が l cmお きに施 さ
れ、 これを境 に上部 に斜走す る縄文、下部 に縦走す る縄文 を施す。40は 沈線で囲まれた眼鏡状 の文様を 3条 の山形文
の一番上 にもつ。41は 甕 で口縁部 に 3条 の山形文を施す。縄文 は日縁全面 に施すが、頸部 は平行沈線を横断す る沈線
を境 に施文部 と無文部 にわかれる。煤・ 炭化物 は36∼ 39・
42・ 44・
45に 付着す る。
46∼ 50は 石器 である。46は 凹基有茎 の石鏃 で逆刺 をもつ。石質 はチャー トで濃緑色を呈 し、 重量 は8.5gで ある。
47は 石鏃未製品である。石質 はチャー トで重量 は10,7gで ある。48∼ 50は 剥片である。石質 は49が 安山岩、50が 頁岩
である。重量 は48が 10,4g、 49が 22.8g、 50が 47.4gで ある。
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出土遺 物実測図
第 6図
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出土遺物実測図
第 7図
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第 8図
出土遺物実測図
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第 9図
1 :2
出土遺物実測図
10cm
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45(1/3)、 46(実 大
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47∼ 50(1/2)
-10-
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ま とめ
ここで は、 出土 遺物 に関 して判 明 した点 と、 これ まで に 当遺跡 内で行 われ た他 の発掘調査事例 な ど も参 考 と して ま
とめて み た い。
(1)出 土遺 物 につ いて
出土 遺物 の うち、 弥生 時代 に属 す る遺 物 は、石鏃 1点 を含 む石器数 点、在地 の櫛描文 を施 す小形甕 の 1点 、天王 山
式系統 の上 器 37個 体 分 で あ る。 (た だ し、個体数 につ いて は、 接合 しな い底部 は除外 し、小破片 で あ って も文 様 、 胎
土等 で 区別 され る もの はカ ウ ン ト対象 と した。)
今 回調 査 を お こな った約 200笛 の調査 区 の なかで、 遺 物 はあ る程度 ま とま りを も って 出土 して い る。 しか しなが ら、
遺物 はす べ て包 含 層 か らの 出土 で あ り、遺構 との 関連 性 につ いて は明確 で はな い。 この包含層 か ら櫛 描 文 を施 す在地
の弥生 中期 の小 形 甕 が 出土 して い るが、近世以 降 の溝 S D01近 くで 出土 して い る点 を考慮 す る と、 混 入 の可 能性 も考
え られ る。 また、 周辺 で行 われ た能越 自動車道 関連 の発 掘 調査 で は、天王 山式系統 の上器 が弥生 時代 後 期 ∼ 終末期 の
包含層 か ら少 量 出土 して い る ことが報告 されて い る。
当調 査 区 出上 の天 王 山式土器 につ いて石川 日出志氏 は、 典型 的 な天王 山式土器 を中心 と して前 後 に 1段 階 づつ、計
3段 階 にわ た る型式学 的 な相違 が あ る可能性 を指摘 され て い る。 (詳 細 は附章 を参照 して い ただ きた い。)
(2)下 老子 笹 川 遺跡 の範 囲 につ いて ―ム ラの境界 と遺跡 の立地 一
これ まで調 査 の概要 を記述 して きたが、 こ こで は周 辺 で 行 われ た能越 自動 車道 関連 の発掘調 査成果 と大正 10年 に作
成 され た地 籍 図 を資料 と して、 ム ラの境界 と下老 子笹 川遺 跡 の範 囲 につ いて考 えてみ る ことにす る。
遺跡 の現地 形 は水 田が大部分 を 占め、 圃場整備 を受 けて い ることもあ り、 平坦 な地形 が広 が って い る。標 高 は北 に
向 か って ゆ るや か な傾斜 をた ど るが、荒又川 の周辺 は他 に比 べ て 1段 低 くな って い る。 一 方、 圃場整 備 以前 の地形 を
表 す地 籍 図 (第 10図 )を みてみ ると、等高線 は北 へ 向 か って ゆ るやか な傾斜 をた ど り、 西 には きつ い傾 斜 を伴 う谷部
が あ る。 旧荒 又 川 は この谷地形 に沿 って、 蛇行 しなが ら流 れて い る。 旧荒又川 は改修 を受 けて直線 的 な川 に姿 を変 え
こむ けて ゆ るやか に傾斜 す る地 形 は、現況 と大 き く変化 した もので はな いよ うで あ る。
たが、 北 と
次 に字 名 に着 日 してみ る。調査地付近 よ り東 は上 田 (ア ゲ タ)と 記 されて お り、西 へ行 くにつ れ て土 倉、川原 島 と
変化 す る。 この うち土倉 。川原 島 に は、 島や川原 とい った小 字名 を もつ場所 が記入 で きな い ほど密集 して い る。 こ う
した河ヽ
字 名 の分 布 は、土地 に対 す る意 識 を反 映 して お り、 上 田 に築 か れ た集 落住民 の空 間認識 が 荒又 川 周辺 に向 け ら
れて い た ことが 分 か る。 島 とい う字名 は微高地 を指 して い る場合 が多 く、 自然流路 に中洲 が点在 す る地 形 で あ った こ
とを想 定 させ る。 こ う した等高線 の在 り方 や字名 の分 布 に加 え、集落 の境界 を示 す寺社・ 火葬場 。墓 地 の位 置 と発掘
調査 に よ り判 明 した溝 の位 置 か ら集落 の範 囲 を想定 して み る。
まず 、 本 遺 跡 の主体 を成 す弥生 時代後期 か ら終末 期 の集 落 跡 の位 置 を、能越道 の調査結果 を もとに地 籍 図上 に落 と
してみ た。 調 査 地 の東約 150m程 の ところで は、 弥生 時代 終 末期 にあた る集 落 中心部 が検 出 され て い る七 この 集 落 は
幅 1∼ 3.5mの 溝 S D301と S D202に よ って南北 が 区画 され て い る。地 籍 図 か らは、 S D 301・ S D 202と 完 全 に一 致
す る水 路 は確 認 で きな い。 しか し、 それぞれ の 区画溝 が存 在 す る場所 には、 A・
B水 路 が あ り何 らか のつ なが りが あ
るのか も しれ な い。 この能越道 の延長上 で は、弥生 時代後 期 の大規模 な集 落跡 も検 出 されて い ると 集 落 跡 は幅 5∼ 7
mの 溝 を挟 ん で 2つ の群 に分 かれ るとされて い るが、 地籍 図上 で は確認 で きな い。 また、 この集 落 の 東 で は、 幅30m
の 自然 流 路 も検 出 されて い る。 この 自然流路 は地 籍 図上 で確 認 す る ことが で き、現在、 中川 と呼 ばれ て い る流路 で あ
る と思 われ る。 南 側住居群 の西 で は、溝 S D 122が 検 出 され て い る。 この S D1221ま 地籍 図上 で は E水 路 と して確認 で
きる。 集 落 と時期 的 に リンクす る、弥生 時代後期 か ら古 墳 時代 中期 の水 田跡 も検 出 されて い る。 水 田 中央 に は南北 に
自然流 路 が 流 れ てお り、 この流路 を基 幹水 路 と した水 田 に伴 う水路 と考 え られ る溝 もい くつか検 出 され て い る。基幹
―-11-
水路 と考え られ る自然流路 はD水 路 に、 また溝 S D 101は
C水 路 として地籍図上で確認で きる。以上 の点 か ら、 地籍
図 が比較的古 い地形を止 めている可能性 の高 いことが予想 され る。
一 方、弥生時代 の集落 が検 出 された場所 の西 に位置す る調査区 では、近世 ∼近代 の集落 がみつかっている。 また、
本考察 において、境界川 として位置付 けて いる、諏訪社東脇 を流れる流路 の上流部分 も近世 の川跡 として検出 されて
いる。調査 の結果、
ilを 境 に西側 の低地部分 では遺構 の密度 が希薄 で、遺構 にも焼骨 の入 った土坑が含 まれるなど、
「チ
東側 の居住区 とは異 な った空間 として利用 してお り、火葬場 とも捉 え られ る集石 を伴 う土坑 1基 と、 これに付属す る
と考 え られ る小規模 な建物 1棟 を検出 した」 と報告 されて い る。 こうした類例 は中世 の集落遺跡 である富山県福光町
の梅原安丸遺跡 にあ り、村境 (集 落境)と して川が境界 の役割 を もち、 それが現在 も変わ らず機能 して い ること。河
原 で検出され た土坑 が、火葬場 に関連す る施設 と考 え られることが報告 されていると 集落境界 の川、火葬場 の可能性
がある河原 の土坑 など本遺跡 との共通性 が指摘 できよう。地籍図上 で は、字川原島 に火葬場 が記 されて いる。現在、
この火葬場 は墓地 となって い るが、境界意識 が薄 れた現在 で も、当時 の境界意識 が残 っている例 として とらえること
がで きる。 ところで、集落 とは、 まとまりを もって生活 して い る基礎的 な集団 であ り、民俗学 でいう『 ム ラ』 に相当
す ると考 え られ る。 こ うした ム ラは、地図上 の村 の境界 の内側 に、 ム ラ人が考えるム ラ境 を もってい る。福田 アジオ
はム ラの領域 について、 ム ラ (集 落)一 ノラ (耕 地)一 ヤマ (林 野)か ら成 る 3重 同心 円構造 の村落空間 モデル を示
して い る。 そ して、 ム ラ境 は集落 のす ぐ外側 にあ り、 ム ラ境 の外側 は田畑 が広がるとして いる。坪井洋文 は、 こ うし
た ム ラ境 に川・ 海・ 山・ 坂 とい った地形が存在する点 を指摘 して い ると このよ うな場所 は、虫送 りの送 り場や神仏 が
祠 られ るなど霊 的要素 の強 い場所 となることが多 い。
下老子 ム ラの境界川 は荒又川 と合流 して い るが、合流地点 の八幡宮付近 には、墓地 が存在 してお り、 ここが北 の ム
ラ境 であったと考え られ る。地元 の人 によれば、下老子集落 の虫送 りは この八幡宮で行わ れて いたそうである。一方、
調査地 が属す る下老子地区 と南 に位置す る一歩二歩地区 との字境 は、法筵寺 の北側を東西 に横切 ってお り、諏訪社 が
下老子地内、法筵寺 は一歩 二 歩地内 となる。 この字境上 には墓地が点在 してお り、 ム ラ境 と字境 が一致 して い るもの
と考 え られる。 一歩二歩集落 は、近世初 めには一歩村 と二歩村 の二つ に分 かれていた。両村 の境界付近 には、五社祠
と清光庵 (1954年 清光寺 となる)が ある。近世末期 に創建 された清光庵 の伝承 によると、 この地 は元来沼地では化物
の他 の ごと くみ られて いた ことか ら、 これを清争 た らしめんがために倉J建 したと伝 えている。地図上ではこの付近 が
2本 の流路 の湧水地 とな って お り、 この伝承 の様子 が読み取れる。 また、 こ うした ム ラ境 が化 け物 の他、す なわち異
界 と認 識 されて いた点 は興味深 い。 そ して、 この場所 は下老 子笹川遺跡 の南端部 にあたる。 こうした ム ラ境 か ら、本
遺跡 の範囲 を考 えると、諏訪社東脇 の流路を西限 とし、八幡宮 あた りが北限 と考 え られる。 しか し、南限 について は
旧二歩村地内 まで広 が っている可能性 が高 い ものと思われる。
また、下老子笹川遺跡内 で時代別 に集落位置 を並 べてみると、時代 が下 るにつ れて西 へ むか って移動す る様子 が読
み とれ る。 こ うした動 きは、等高線 の上では微高地か ら低地 へ移動 して いる ことになる。 このよ うな集落 の移動 に伴
う要因 と して、水利や交通 の便 といった地理 的要因が考 え られる。水利 では、水 が南 か ら北 に向か って流れる こと、
荒又川 の存在 などが指摘 で き、水 田域 の拡大 を行 うためには、集落 は西 か東 へ移 るほかに場所 がないとい う地形的制
約 を受 けて いるといえる。 この結果、西 に移動 してきたのが現在 の下老子集落 であると思われる。一方、交通 につい
ては地 籍図上 で読み取 れ る範囲内 として、五社祠脇を東西 に走 る道 路 と調査地 の西 を南北 に走 る道路 の存在 が大 きい
と考 え られるが、 この道路が いつ か ら存在 していたのか定 かでないため、集落 と道路 の関係 については推定 の域 をで
ない。
以上、 ム ラの境界 の形態的特 徴 をつ かむ ことは、各時代 における集落 の位置 を特定す るのみでな く、遺跡 の範囲を
仮定す る際 に大 きな力を発揮す るのではないだろうか。遺跡 の立地 は、地理的要因に左右 される場合 が多 いと考 える
な ら、地形的 な特徴 に視点 を置 いた研究 は不可欠 な ものと思われ る。
-12-
社
火葬 場
墓
地
調 査地
匿 正 コ 弥生後 期 ―古 墳時代 の水 田
国重∃ 近世一近代の集落
地
道
―
―――
―用
――
生 時代 終末 期 の 集 落
路
水
捌 を 悠
能越 自動 車道
キ
第 10図
1弥 生 時代 後 期 の 集 落
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大正 10年 作成地籍図 (1/5′ 000)
牛
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囲Ⅷ‰幽E國
寺
引用文献
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は)富 山県文化振興財団
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参考文献
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石川 日出志
石川 日出志
石川 日出志
市田半太郎
伊藤信雄
伊藤信雄
上野
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大木直枝 。中村五郎
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関 雅之
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『 考古学論叢
縄文文化検討会 シンポジウム』
I』
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『 滝 ノ前遺跡』新潟県村上市教育委員会
『 布 目沢北遺跡発掘調査概要』
「 東北北部 の弥生式土器文化 (上 )(下)一 岡本論文 へ の批判 を含 めて一」
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古学 ジャーナル』 106、 107
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21 富山県教育委員会
22 豊島 昂
23
中村五郎
24
中村五郎
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『富山県小杉 町 。大門町小杉流通業務団地内遺跡群第 7次 緊急発掘調査概要』
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「東北地方南部 の弥生式土器編年」
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『 三世紀 の考古学』下巻
「東北中 。南部 と新潟」
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109、
111
―-14-
4」『 月刊考古学 ジ ャーナル』 106、 107、
附章
下 老子笹川遺跡 の天 王 山式上器
石川
日出志
本遺跡 では、調査区東南部 の包含層約 15× 10m程 の範囲 か ら、東北地方 を主 たる分布圏 とす る天王山式系統 の土器
が 出上 してお り、北陸 でのまとま った出土例 として注 目される。45点 の拓本 と写真 を拝見 した範囲内で読み取れた特
徴 と、 その ことが示す問題 の一端 に触れ よう。
天王山式土器 は、福島県 白河市天王山遺跡出土土器 を標式 として設定 された土器形式で、東北地方一円か ら新潟県
北部 にかけて分布す る。壷・ 甕 。高杯・ 浅鉢・ 鉢・ 注 目付 。片 日付 などの器種 があ り、 いずれ も縄文を地文 として細
めの沈線 で各種構図 を描 く。特 に縄文 はRLが 主で条が縦走する例 が多 いことや、文様帯 の境界部分 に交互刺突文 を
施す、 といった特徴 がある。東北地方 では弥生土器形式編年上 の位置 は確定済 みだが、北陸と対比 した場合 に弥生中
期後半、後期前半 のいずれ と考 えるか、意見が分かれて い る (石 川 1990)。 筆者 は後期前半 に中心 があると考 えるが、
異 なる見解 が並立す る主 たる原因 は、北陸で出土す る天王山式が北陸在地土器 のいずれ と共伴す るのか決定的 な証拠
を欠 いて い るところにある。 したが って、同 じ遺跡で天王山式 と北陸在地土器 の両者 が 出土 したとして も、 はた して
当時集落内で同時 に共存 して いたのかさえ不確定 である。 このことはまた、天王山式 という東北系統 の土器をもちい
た人々の南下 がどのような背景 に基 づ くのか という問題 とも直結す る。
下老子笹川遺跡 で出土 した天王山式系統 の土器をみて気付 くことの第一 は、甕 の頸部文様帯 に重菱形文 が明瞭 な点
(6∼
9・ 21∼ 26)が ある。 これは中期後半 の宇津 ノ台式土器 の伝統 で、天王山式土器 で も東北地方 の 日本海側 に特
徴的 な構図 である。 また北陸 の弥生土器 とは異 なる細 かなハ ケメ調整 も日本海側 ない し新潟県北部 にみ られる手法で
ある。 ところで、 この重菱形文 には、描線 が太 くやや間隔があく一群 と、描線 が細 く浅 い密 な一群 とがあり、前者 は
秋田県 はりま館遺跡など天王山式直前形式 に、後者 は典型天王山式 に特徴的 である
(1990)。
そ して、 描線 が太 い 6
∼ 9で は、典型天王山式で多用 され る頸部文様帯上下区画部 の交互刺突 がな く、 7で は頸部文様帯 の下段 には、天王
山式特有 の下開 き連弧文ではな く、波状 もしくは鋸歯状文が描かれて いる。 5も 、頸部 は無文 だが、頸部文様帯 の区
画線・ 下段 は 6∼ 9と 同様 で、 2∼ 4も その延長線上 で理解 できる。 つ ま り、天王山式直前 に遡 る可能性 がある一群
を含 んでいることになる。胴部文様 が明確 なのは壷形土器 の17∼ 20だ けである。 17は 横長 の鼓形 を重ねた構図どうし
が接す る部分 を縦長 の レンズ形 とし、 その中央 に波状文 を充填す る。 18・ 20が 重弧文 。平行線文 の間 に背中合 せの弧
線一対 を配す ことも、胴部文様帯上区画部 に交互刺突 を施文す る点 とともに、典型天王山式 の特徴 である。
次 に日縁部 をみると、文様帯区画部 の交互刺突や 日端 の密 な刻 み、文様帯 内 の連弧文や波状文 といった典型天王山
式 に合致す る一群 (11∼ 16・
19。
21)と 、交互刺突や 回端外面 の刻みがな く、 日縁 部文様 も粗大 ない し簡略化 した一
群 (37∼ 43)の 2群 があることに気付 く。後者 は新潟市大地山遺跡 など典型天王山式上器 に後続す る一群 に近 い。 し
たが って本遺跡出土 の天王山式系統 の土器 は、形式学的 には 3段 階 にわたるものを含む可能性が高 い。
天王山式系統 の土器 は北 陸 で も点 々 と確認 されて い る。北陸南部 の石川県加賀市大野山遺跡 や、未発表 なが ら最近
では福井県 で も検出 されてお り、 さ らに大阪府高槻市芝生遺跡では天王山式土器 に特徴的なアメ リカ式石鏃 にアスファ
ル トが付着 した実例 がある。大野山遺跡 は破片 が 1点 のみ採集 されて いるが、 その頸部 には本遺跡21と 同種 の文様 が
描 かれて い るように、北陸出土例 はいずれ も重菱形文が明瞭 な東北 日本海側 の天王山式 と共通す る要素 が明瞭である。
また、石川県内出土例 の多 くは 1遺 跡 で土器片 が 1∼ 数点出土す るのみなのに対 して、富山県内 では、本遺跡 の北約
5 kmに
ある高岡市頭川遺跡 (上 野 1974)や 上市町飯坂遺跡、江上A・
B遺 跡
(岸 本 ほか1982)、 魚津市佐伯遺跡 (上
野 ほか1985)な ど各所 で十数 ∼十数点 出土 して い る違 いが あると この うち頭川遺跡 の天王山式土器 は東北方面 と共通
す る例 がほとんどである点で本遺跡 と共通 し、一方他 の遺跡 は器形 と装飾 に変容 が認め られる例 を含 んでいる。 ただ
し、飯坂遺跡 や江上 B遺 跡 といった後者資料 の多 くは、 日縁部文様帯下端 に交互刺突 の替 わ りに押圧 を加え、文様帯
に簡略化 された文様を描 くか縄文 のみ の一群 であって、 い まだ六地山遺跡以外 日本海側では実態が明 らかでない踏瀬
-15-
大山段階 (天 王山式 に後続)と 関係す る可能性 もあ り、ただちに存地化 と判断 して しまう訳 に もいかない。 また、佐
伯遺跡では、天王山式直前 と思われる例 を含み、本遺跡が特異 な事例で ないことがゎか る。
本遺跡 の特徴 として、天王山式系統 の土器が北 陸在地土器 を伴わず ほば単純 な形 で存在す ることが明 らかな点 も重
要 である。唯一甕 の 1の みが櫛描 き文 を もつ土器であ るが、位置付 けは容易ではな い。櫛描 き文であることか ら小松
式 と見て しまいがちであるが、頸部が「 く」 の字形 に折れ、 口縁 が直線的 に外傾する器形 と、 さ らに櫛描 き文 も胴部
上端 に簾状文 を 1帯 巡 らし、 その下 に波状文 を 2帯 置 き、その波状文 も鋸歯状を呈 してお り、小松式 の範中 を逸 脱 し
ているよ うに思われる。小松式 の簾状文 は直線文 と併用 される率 が圧 倒的 に高 く、 もちろん波状文や短斜線文や扇状
文 とも併用 され るが、 その場合 は直線文 も組合わせ、交互 に配置す るのが一般的である。簾状文 の下 に波状文 を重ね
る構図 が も っとも多用 され るのは中部高地北部 の中期後半 の栗林式で∼後期 の箱清水式で、 日唇部 に縄文や刻みが な
いこと と口縁部 が短 い点 は後期初頭 の吉田式 ∼箱清水式 の古 い部分 あた りに近 い。 しか し鋸歯状 の波状文 は中部高地
にはみ られず、 新潟北部 の山草荷式 の甕 に似た例があるものの、 それでは今後 は簾状文を小松式要素 の取 り込み と見
なければな らな くなる。難 しい土器 である。 しか し、 この一点以外すべ て天王山式系統 の上器である。北陸中部 で天
王山式 系統 の上器が主体を 占める例 として本遺跡が特異な例であるようにみえる。 しか しそれは、従来先験的 に北陸
在地上器 に伴 うであろうと見ていたがための ことで あ って、典型天王山式を後期初 めと考 え る立 場 か ら資料 をみると、
頭川遺跡 。飯坂遺跡 なども天王山式系土器単純 の段階 があると考 えることもで きる。
ゴヒ陸 の上器 とは形式学的にま った く繋 りのない これ ら東北系土器が出土する背景 には、 これを もちいた人 々の彼地
か らの移動 が考 え られる。北陸地方 に広 く検出例があ り、土器が数段階にわたる可能性が高 い ことは、天王山系集団
の移動が偶発的なのではな くて、恒常的・ 継続的であ ったことを示 している。 しか し上器 の出土量 が少 ないか らそれ
は小規模 であって、集団移住 といった性格 の ものよ りもむ しろ交易 といった経済活動 の一 環 と考 え るべ きであろ う。
天王山式上 器 が中期後半、後期前半 のいずれであろうと、東 日本 の広 い範囲 を含 めて鉄製品が急速 に普及 し、物資 の
広域流通機 構 が整備 されてい く段階 にあた ってい る。 中期後半 には北陸産 の碧玉質凝灰岩・ 鉄石英製管玉 が東北地方
か ら北海道 の石狩低地 まで広 く普及 して い る し、小松式土器 の要素 も東北の日本海側を中心 に取 り込 まれて い る。 こ
うした北 陸側 の働 きかけに対する対応 の ひとつ として天王山式土器 の南下現象を理解す ることがで きると考 える。
で は、ゴヒ陸在来 の集団 とはどのような関係 だ ったのであろうか。頭川遺跡 と本遺跡では天王山式がほぼ単純 に出土
してお り、北陸在来集 団 の村落内の一 角 に外来 の交易者が住 まう状況 とは異 なるよ うに思える。 ただ、 この問題 を解
くには、北陸在来土器 との編年対比 の確定 はもちろん、天王山式系統 の土器が各遺跡 でどのよ うな存在 の仕方 をす る
のか、天王山併行期 の在地集団 の集落景観 の把握 などを入念 に進めてい く必要があろう。
天王山式系統 の上器 の北陸地方 へ の進出は、弥生 時代後半期 における 日本海沿 いを舞台 とした広域 にわたる活動 の
ひとこまと して、興味ある問題である。
[注
1]た だ し破片数でな く、個体識別 した うえで比較 して も、有為 の差異があるかは今後 の検討課題である。
[参 考文献 ]
石川 日出志
1990
「 天王山式土器編 年研究 の問題点」
『 北越考古学』 3、 pp.1-20.
上野
1974
「高岡市頭川遺跡」
『 大境』
1985
『 富山県小杉町 。大門町小杉流通業務 団地内遺跡群第 7次 緊急発掘調査概要』富山県教育委員会
章
上 野章 ほか
岸本雅敏・ 久 々忠義・ 橋本正春 ほか
1982
5、
pp.56-68.
『 北陸 自動車道遺跡調査報告 :上 市町土器・ 石器編』富山県教育委員会
-16-
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図版 1
1 調査区全景 (上 か ら)
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図版 2
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図版 4
出土遺物 ※数字は実測番号
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図版 6
出土遺物 ※下段、左側 は甕頸部ハケメ、右側は交互刺突文
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図版 7
出土遺物
報
広ゝくおかまち
告
書
しもおいごささがわいせ き はっくつ ち ょうさほうこくしょ
ふ りが な
とやまけん
童
富 山県福 岡 町下老 子 笹 川遺 跡 発 掘調 査報 告 書
名
シ リー ズ名
番
号
福 岡町埋 蔵 文 化 財調 査 報告 書
7
編集者名
栗 山雅 夫
編 集 機 関
福 岡町教 育 委 員会
所
在
地
録
抄
〒 939-0132 富 山 県 西 砺 波 郡 福 岡 町 大 滝 44番 地
発行年 月 日
西暦
ふ りが な
ふ
1998年
り が
3月
TEL 0766-64-5333
31日
コ
な
ー
ド
ヒ 糸
】
尊
東
調査面積
経
調査期 間
市 町村
遺跡番号
豊苗貿譜続綾離
緒甜苛ギ老手
16224
422072
主 な時代
主
所収 遺 跡
所
在
地
6
所収遺跡名
種
丹」
下老子笹川
集
落
弥生 時代後期
42′
19974F
遺
構
溝・ ピ ッ ト
主
な
遺
福岡町教育委員会
発
行
福岡町教育委員会
日興印刷株式会社
物
特 記 事 項
美濃、越 中瀬戸、伊 万里
出土
富山県西砺波郡福岡町大滝44番 地
印 刷
前調査
天王 山式土器 が
富 山県 福 岡 町
下老子笹川遺跡発掘調 査報告書
集
築 に係 る事
弥生土器、石鏃、剥片、 瀬 戸・
平成 10年 3月 31日 発行
編
200∬
6月 10日
30〃
な
個人住宅建
5月 15日 ∼
0
下老子笹川
36°
7
しもおい ご ささがわ
調査原 因
言
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