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20160702 コメント原稿

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20160702 コメント原稿
2016/07/02 「マティアス・シュロッスベルガー講演会」
(@一橋大学東キャンパス)
シュロッスベルガーの「尊厳の経験」と「羞恥」の分析について
宮村悠介
はじめに
ご講演について、私からは三つのことをお尋ねしたいと思います。そのうちのふたつは講
演前半の主題である「尊厳の経験」に、もうひとつは後半の「羞恥」に関わります。
「尊厳
の経験」に関するふたつはシンプルなものですが、
「羞恥」に関するものは前提の説明を必
要とします。なお私は、シェーラーよりはカントについて勉強していた期間のほうが長く、
最近では和辻哲郎など日本の倫理学者の研究に着手しています。
「尊厳の経験」についての
質問は、主にカントの一読者としての観点からのもの、
「羞恥」についての質問は、いわゆ
る「恥の文化(shame culture)
」に属する、日本人の倫理学者としての観点からのものです。
① カント倫理学に「尊厳の経験」はないか?
尊厳と尊敬(Würde und Achtung)
まず「尊厳の経験」についてです。講演では「いかにして私たちは尊厳の経験をなすのか」
という認識論的な問いが、
「尊厳の基礎づけ」という課題に先立たねばならないと論じられ
たうえで、尊厳の概念が重要な位置を占めながらも、「尊厳の経験」への問いが素通りされ
ている例として、カントの『基礎づけ』が取り上げられます。そして『基礎づけ』における
「尊厳」の位置づけが確認されたうえで、カントの倫理学説のある種の不明瞭さや、カント
に対する様々な批判が、上の認識論的な問いへの取り組みの不十分さのゆえに生じたこと
が指摘されます。私には、カントの部分の最後に位置する、
「目的それ自体として」と「尊
厳」のズレについての分析が、とくに興味深かったです。ひとを「目的それ自体として」扱
ってはいないが、
「尊厳を傷つける」わけではない事例として、行政システムでの番号制度
が挙げられていますが、日本でも最近、税や社会保障に関する国民の番号制度が導入されて、
大騒ぎになりました。そのためこの例は私個人にとっても身近に感じられるものでした。ま
たひとを「目的それ自体として」認めていながら、
「尊厳を傷つける」例としては、2004 年
のアブグレイブ刑務所における捕虜虐待事件が挙げられています。この事件は日本でも大
きく報道され、私も当時強く憤ったことを思いだしましたが、他者をまず「目的それ自体と
して」認め、そのうえで、あえてそういう者に尊厳を傷つけることをしたりさせたりするの
が虐待だという説明には、強い説得力を感じました。なおシュロッスベルガーの著書 Die
Erfahrung des Anderen でも強調されていたように(S. 194)、シェーラーは他者の感情の
理解
(Verstehen)
である追感得
(Nachfühlen)と、その理解された感情への関与(Teilnehmen)
である共同感情(Mitgefühl)を区別します。例えば他人の苦しみを「理解」しながらも、
それに「関与」せず、むしろその他人の苦しみに快楽を感じる「残忍さ(Grausamkeit)」
において、
「理解」と「関与」のズレは明白になります(M. Scheler, Wesen und Formen der
Sympathie, A. II. 2.)。他者をまず「目的それ自体として」認めながら、そのうえであえて
尊厳を奪う行為をするという、シュロッスベルガーの説得力に富む虐待の分析も、シェーラ
ーの他者経験の具体的分析に裏打ちされているように感じました。
ただカント倫理学にも「尊厳の経験」への考慮がまったくないわけではないと思います。
1
カントが唯一のアプリオリな感情だと言う「尊敬(Achtung)
」はどうでしょうか。善き行
為はそれをなす意志を「直接的な尊敬の対象として(als Gegenstand einer unmittelbaren
Achtung)
」示し、そうした評価は「くだんの思考様式の価値が尊厳であること(den Wert
einer solchen Denkungsart als Würde)
」を認識させるという、
『基礎づけ』の論述(I. Kant,
Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, Akademie-Ausgabe(=A.A.), Bd. IV, S. 435)か
らは、
「尊敬」と「尊厳」の密接な連関が読み取れます。また犬や馬は「愛(Liebe)」を、
猛獣や火山は「恐れ(Furcht)
」を、巨大な山岳や天体は「驚嘆(Bewunderung)
」を呼び
起こすが、
「尊敬」には無関係で、
「尊敬はいつでも人格にだけ関わる(Achtung geht jederzeit
nur auf Personen)
」という、
『実践理性批判』の論述(Kant, Kritik der praktischen Vernunft,
A. A., V, 76)は、人格の尊厳の経験をめぐるカントなりの現象学的な分析とも読めます。ハ
イデガー『現象学の根本問題』の現象学的なカント解釈も、尊敬の感情に注目していました。
そこで、①カントの尊敬の感情の議論は、
「尊厳の経験」の分析として、どのように評価
できるか。あるいは、尊厳の毀損(Entwürdigung)を媒介とせずに、直接的に尊厳という
価値を示す尊敬の感情、というカント的な発想は、実質的人間学の観点からどのように評
価できるか。そうしたことについてのお考えをお聞かせください。
② 自己と他者の「尊厳の経験」はどのように連関するか?
なお先に挙げたハイデガーのカント解釈では、尊敬の感情は「私を私自身にその尊厳にお
いてあらわにする(erschließt mich mir selbst in meiner Würde)」とされています(M.
Heidegger, Die Grundprobleme der Phänomenologie, §13, b, γ)。ただカントの尊敬は、他
者の尊厳に対する感情として論じられることも多く、前々段落の引用箇所もその一例です。
このようにカントにおける、自己に対する「尊敬の感情」と他者に対するそれの関係は不
明確ですが、解釈の余地はあるはずです。まずカント倫理学では、自己自身に対する義務が
他者に対する義務よりも根底的です。また代表的な道徳哲学の講義録で、カントは自己自身
に対する義務の違反である自殺をめぐり、こう述べています。「自分はいつでも自分の命の
支配者である、というところにすでに至った者は、あらゆる他者の命の支配者でもあり、そ
の者にはあらゆる悪徳への扉が開かれている(wer es schon so weit gebracht hat, daß er
jedesmal ein Meister über sein Leben ist, der ist auch Meister über jedes andern sein
Leben, dem stehet die Thüre zu allen Lastern offen)
」
(Kant, Moralphilosophie Collins,
A. A., XXVII, 372)
。つまり、鬱病や経済的困窮等の事情がある場合は別でしょうが、自分
の随意で自分の命を手放しうる者は、あらゆる他者の命も平気で絶ちうる、または、自分の
命を尊重できない者は他者の命も尊重できない、とカントは言っています。ドイツの事情は
分かりませんが、日本では以前から、自殺する代わりに死刑になることを望む人物による、
無差別の大量殺傷事件がたまに起こり、先週にも同様の事件で、犯人と無関係な女性の命が
奪われました。私はこういうニュースを聞くと、上のカントの文章を思い出し、根本の問題
は、犯人の自分の命に対する尊重の念の欠落ではないかと考えたりします。
同じことは「尊厳」にも当てはまるかもしれません。他者の尊厳を平気で踏みにじるよう
な所業をなす人物には、そもそも自分の「尊厳の経験」が何らか欠落していないでしょうか。
講演の主題は「他者が尊厳を持つこと」の経験ですから、自己の尊厳の問題は、主題から外
れるかもしれません。ただ、Die Erfahrung des Anderen では、リップスやディルタイらに
2
より他者経験をめぐる課題意識が先鋭化され、フッサールとシェーラーの他者論に至る過
程を辿るのに先立つ第一章で、
「自己の自我の経験」
(die Erfahrung des eigenen ich)と「他
者の自我の経験」
(die Erfahrung des andere ich)の関係が問題とされていました。同様の
関係は自己と他者の「尊厳の経験」でも問題になりうるかと思います。また自己の尊厳の経
験との関係から考えることで、私たちの講演内容の理解も深まるかもしれません。
そこで、②「自己が尊厳を持つこと」の経験と「他者が尊厳を持つこと」の経験のあいだ
には、どのような連関があると考えられるか。あるいは、
「自己の尊厳の経験」が、
「他者の
尊厳の経験」の前提であるという、カント的な(?)発想は、実質的人間学の観点からどの
ように評価できるか。こうした点について何かお考えをお持ちでしたらお聞かせください。
③「羞恥」の現象学・人間学の諸前提について――「間柄」の倫理学の観点から
講演の後半では、
「尊厳とは何か」の理解には、
「尊厳の毀損とは何か」の理解が先行する
という見通しのもと、プレスナーとシェーラーの実質的人間学の議論が参照されました。表
出(Ausdruck)において心的生活が他者に見えること、つまり「表出性(Expressivität)
」
が、講演後半の議論の軸をなす実質的人間学の洞察かと思います。ひとがそうした心的生活
を他者に見せ理解されるのを望む「親密圏(Sphäre der Intimität)
」と、見せずに隠そうと
する「公共圏(Sphäre der Öffentlichkeit)」の区別をめぐるプレスナーの議論が紹介され、
両領域の区別が揺るがせにされたときに生じる、羞恥の現象が取り上げられました。講演終
盤の画家とモデルの例にあるように、恋人同士や夫婦などの親密圏では適正な、個人的・人
格的な身体への注意が、公共圏において、人間一般のサンプルとして観察されるべきモデル
の身体に向けられるとき、モデルは羞恥を感じます。先ほどのアブグレイブの事件でも、身
体の「表出性」に関する捕虜の意向が、暴力的に踏みにじられたのでした。そして羞恥が保
護しようとする、
「私たちの身体魂に繋ぎとめられた尊厳(in unserer Leibseele verankerte
Würde)」の尊重が、人間の自律や自己決定の実質的な条件であることが主張されました。
講演の「羞恥」の分析については、1)親密圏と公共圏という社会哲学的な観点、2)精
神と身体の統一としての人間という人間学的な観点、3)身体への「注意(Aufmerksamkeit)
」
という志向的作用との関係で羞恥を分析する現象学的な観点、という三つの特色が認めら
れるかと思います。こうした多様な潮流の視点が見事に組み合わされた分析は興味深いも
のでした。ただ折角の日本での講演ですので、こうした議論の前提を考えるための別の視点
として、いわゆる「恥の文化」である日本を代表する倫理学者である、和辻哲郎の発想を紹
介させていただきたいと思います。
シュロッスベルガーは以前の論文「恥の哲学(Philosophie der Scham)
」
(in; Deutsche
Zeitschrift für Philosophie,48(2000)5, 807-829)で、日本文化を「恥の文化」と捉える、ル
ース・ベネディクト『菊と刀』の有名な議論に言及するとともに、ベネディクトに対する木
村敏(1931- )の批判をとりあげ、木村の「間(zwischen)
」の思考に関心を示していまし
た(S. 823f.)
。この木村の「間」をめぐる思考には、同じ「人と人の間」の立場から倫理学
体系を構築した先人である、和辻哲郎(1889-1960)からの強い影響が認められます。また
いわゆる「恥の文化」に関して言えば、和辻にも木村と同様、『菊と刀』を論じた文章があ
ります(
『埋もれた日本』に所収の「
『菊と刀』について」
)
。ただこれはベネディクトの資料
の扱い方を批判するだけの文章で、ここで報告するほどの内容はありません。また和辻は第
3
二次世界大戦中に、アメリカ文化の特性をその起源から明らかにせんとする、「アメリカの
国民性」という論文を書いています。三年前に亡くなった米国の宗教社会学者R・N・ベラ
ー(Robert Neelly Bellah, 1927-2013)は、この「アメリカの国民性」を、
『菊と刀』に対
応する日本人の作品だと評価していました(Bellah, R. N., Japan's Cultural Identity: Some
Reflections on the Work of Watsuji Tetsuro, in; The Journal of Asian Studies 24(1965)4,
579)
。ただ「アメリカの国民性」の和辻は、敵国への憎悪のためにその文化に対する公正な
判断を欠いていると私は感じます。例えばシェーラーが第一次世界大戦中に書いたイギリ
ス文化批判の文章を思い出していただくと、和辻の文章の調子が想像できるかと思います。
このように世界大戦中の言動の点で、和辻にはシェーラーに似ているところがあります
が、倫理学の構築にあたり、和辻はシェーラーから多くを学び、またその批判を通じて自説
を展開しています。和辻の主著『倫理学』においてシェーラーは、カントやヘーゲルらと並
びもっともよく言及される哲学者のひとりで、言及される作品も多様です。たださすがに遺
稿の「羞恥と羞恥心」は読んでいないはずですが、シェーラーの議論を踏まえたシュロッス
ベルガーの羞恥の分析に対する、和辻なら提起したであろう批判的議論は再構成できそう
です。本講演での羞恥の分析の特色として先に挙げた、1)~3)の観点のそれぞれをめぐ
って、和辻はシェーラーに対して批判を投げかけているからです。
まず3)の現象学の観点ですが、羞恥の現象学的分析としては、日本でもかつてサルトル
『存在と無』の「まなざし」論が広く受容されました。シェーラーとサルトルの議論に様々
な違いはあるかと思いますが、一者の他者に対する「注意(Aufmerksamkeit)
」や「まなざ
し(Regard)
」という作用の観点から羞恥を捉えている点は共通かと思います。日本で『存
在と無』が読まれはじめた頃、とくに「まなざし」論から感銘を受けた和辻の弟子が、和辻
にその議論を紹介したときの様子が伝わっています。和辻は一通り話しを聞くと、ただちに、
「見られると同時に、見返しているのじゃないか?」
と切り返したそうです。その弟子は、サルトルの「まなざし」論では成り立たない、見る
者と見返す者の主体としての存立の「同時性」に、和辻の人間図式のカギを指摘しています
(吉沢伝三郎『和辻哲郎の面目』平凡社ライブラリー、一四四~五頁)。
この「まなざし」論に対する和辻の反応は、より一般的な、現象学の志向性理論への批判
的認定に基づいています。和辻によれば、個人の意識の構造にすぎない、現象学の「志向性」
によっては、和辻倫理学の中心概念である「間柄(Verhältnis, betweenness)
」は捉えられ
ません。和辻は他の現象学者と同じくシェーラーも、「人と人との間柄が志向作用以上のも
のである(the betweenness of person and person is something beyond intentionality)
」
ことを洞察していない、と批判します。例えば見るという「志向作用」は一方向的なもので
すが、
「間柄」における見るという行為は、つねにすでに、それ以上の内実を含むからです。
しかし間柄において見るのは相手から逆に見られるということに規定されて見るのであ
る。互いに相手に規定せられつつ働き合うのである。相見る、見つめる、にらみつける、
ちらっと見る、おどおど見る、見ないふりして見る、見とれる、等々の「見方」は、すべ
て見る作用がすでに相手の見る作用によって限定せられていることを示している。……
志向作用といわるるものは行為から間柄的な契機を排除し、個人的意識の作用として抽
象化したものにすぎない。
(和辻哲郎『倫理学(一)
』岩波文庫、五四~五頁)
4
But in the betweenness, one’s activity of seeing, is a seeing determined, conversely, by
its being seen by the other. Oneself and the other act on each other while being
mutually determined by the partner. The various ways of seeing (such as seeing each
other, staring, looking angrily at, glimpsing, looking at nervously, seeing while
pretending not to see, gazing on in rapture, and so forth) show without exception that
the activity of seeing is already determined by other’s seeing. … What is called
intentional activity is nothing more than the product of an abstraction that first of all
excludes the relational elements from our acts and then posits the residue as an
activity of individual consciousness.
(Watsuji Tetsuro, Watsuji Tetsuro’s Rinrigaku. Ethics in Japan, Albany, 1996, p.33-4.)
先ほどの「まなざし」論に対する反応と同様の発想から、志向性の理論が批判されていま
す。私が人を見るときには、その作用はつねにすでに、相手の視線により規定されており、
逆も同様です。こうした相互的な連関が、和辻の言う「間柄」であり、志向作用は具体的か
つ根底的な「間柄」から、個人の意識として抽象化されたものにすぎないと批判します。
なお木村敏の「間」の思考にも、こうした志向性論への批判的認定は継承されています。
『人と人の間』の、和辻の風土論を継承しつつ日本文化論を展開する章の冒頭で木村は、
、、、
、、、
フッサールのいうような、こちらからあちらへと向かっている志向作用のようなも
、、、
、、、
のが根源的事実なのではない。こちらはむしろ、あちらの側から触発されることによっ
、、、 、、、
て、こちらとあちらとの間が分化してきたもの……である。
したがって、まずはじめに「出会い」があり、「かかわり」があり、「間」がある。
(木村敏『人と人の間』弘文堂、八六頁)
Die ursprüngliche Realität ist nicht ein intentionaler Akt von H i e r nach D o r t, wie
ihn Husserl beschreibt. Vielmehr ist das H i e r eine Ausdifferenzierung des Zwischen
von H i e r und D o r t in einem Affiziertsein von seiten des D o r t. …
Demzufolge ist am Anfang und zuerst die „Begegnung“, das „Verhältnis“, das
„Zwischen“.
(Bin Kimura, Zwischen Mensch und Mensch, Darmstadt, 1995, S. 63)
という、現象学批判を展開しています。木村にとってもやはり、「こちらからあちらへ」
という志向作用よりも、
「かかわり」
(間柄)や「間」が根源的なものでした。また木村とほ
ぼ同年生まれで、第二次世界大戦後の日本を代表する哲学者のひとりである廣松渉(19331994)も、独自の「間主観性(Intersubjektivität)」の立場から、
「まなさし」論に応答し
ていました。詳しくは立ち入れませんが、廣松も、サルトルの羞恥論を批判しつつ、相互的
に連関した役割の「協働(Zusammenwirken)
」が、一方向的な「まなざし」による相克よ
りも、根源的な自己-他者関係であると主張します(廣松渉『世界の共同主観的存在構造』
Ⅱ、一、第二節)
。こうした志向作用から出発する発想に対する批判と、自他の相互的な関
わりあいを根源的なものと見る立場は、日本の代表的な哲学者の発想の型なのかもしれま
せん。和辻、木村、廣松は、みなとくにドイツ哲学から強い影響を受けてはいるのですが。
5
和辻に戻りますと、1)の親密圏と公共圏という区別は、和辻も受容していますが、シェ
ーラーの論じ方には批判的です。個々の人格のうちに両者の区別を、つまり「秘奥/社会的
人格」の区別を求める発想が批判の対象です。和辻は intim(親密・秘奥的)なものの最た
るものを、個々の人格の奥底にではなく、男女の「二人共同体」に求めます。そしてここか
ら親族や地域共同体を経て民族と国家へ至る、より親密な共同体からより公共的な共同体
へという構図で、共同体論を展開します。親密圏も個人の事柄とは捉えず、人と人の「間柄」
の事象として考えるのです。2)の人間学の観点も、和辻は「間柄」の観点から批点的に論
じます。和辻が言及しているのはシェーラーの議論だけですが、哲学的人間学は人を「心身
の統一という視点から(from the standpoint of the unity of body and mind)
」見るにとど
まり、身体とは別の具体的なもの、間柄や社会性を見ていないと指摘します。
「人を社会的
団体から(the human being from social groups)
」抽象し、人間の本質を「個人においての
み(in the form of an individual alone)」捉えている、というのが和辻の哲学的人間学への
批判の論点です(
『倫理学(一)
』二四~五頁/Watsuji Tetsuro’s Rinrigaku, p.13)
。
以上のことを踏まえると、先ほどの画家とモデルの例について、和辻なら以下のように反
応するだろうと思います。まず画家の「注意」も、モデルの視線によってつねにすでに規定
されていることを指摘し、親密的か公共的か、個人的か一般的かという、画家の「注意」だ
けに焦点を合わせた議論の出発点が、抽象的だと説くでしょう。また intim なものを個人の
内部ではなく二人以上の「共同体」に求め、心身の統一より人と人の間柄に重要な人間の本
質を求める和辻なら、羞恥と尊厳の毀損の捉え方も異なるかと思います。つまり例の画家の
視線を、モデルの身体への、親密圏でだけ許される仕方での接近というよりも、そのモデル
と誰かが形成している親密な間柄への侵入として捉えるでしょう。例の画家の視線は、モデ
ル本人にだけ恥を与え、尊厳を毀損するものではないはずです。その恋人や配偶者にも屈辱
を感じさせるでしょうし、そういうパートナーがいなくても、父親や母親といった親密な関
係にある人に、同様の感情を生じさせるように思います。およそこのような「間柄」の問題
として、和辻なら「羞恥」と「尊厳の毀損」の現象も分析したのではないでしょうか。
Die Erfahrung des Anderen では、トイニッセンやハーバーマスによるフッサールの間
主観性論への批判が、志向的意識からの出発というフッサールとシェーラーに共通の議論
の前提に関わるものでないことが説かれていました(S. 121)
。フッサールの間主観性論の
難点は、志向的意識からの出発にではなく、シェーラーが共有しなかった「自我論的な自我
の理論(egologische Theorie des ich)」にあるというのが、その理由かと思います(S. 184)
。
またハーバーマスの間主観性論は、
「前言語的な(vorsprachlich)」意識や他者との関係へ
の視線を閉ざしている点が問題だとされていました。和辻といく人かの代表的な日本の哲
学者は、相互的な「間柄」や「協働」の立場から、まさに志向的意識からの出発という議論
の前提に批判を向けます。また和辻の言う「間柄」は、必ずしも言語を前提とせず、視線や
共感や生活の共同といった多層を含む、人間の相互存在(menschlich Miteinander)です。
そこで、③講演での「羞恥」や「尊厳の毀損」の分析に対する、
「間柄」の哲学者による
上の仮想的な反応に対して、シュロッスベルガーならどのように応答するでしょうか。あ
るいは、
「羞恥」や「尊厳の毀損」を分析するうえで、現象学もしくは実質的人間学には備
わっているが、
「間柄」もしくは「間主観性」の立場には欠落している観点があるとすれば、
それはどのようなものでしょうか。最後にこうしたことをお尋ねしたいと思います。
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