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1 デキウス迫害における供儀執行証明書発行の意図

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1 デキウス迫害における供儀執行証明書発行の意図
第 64 回日本西洋史学会大会
ポスターセッション(古代1)追加資料
2014 年 6 月 1 日
デキウス迫害における供儀執行証明書発行の意図
-執行証明書パピルス史料の分析から―
大谷哲
(学振PD)
【はじめに】
紀元後 249 年ローマ皇帝となったデキウスは、帝国市民を対象として帝国の安寧のため神々に供儀を
捧げることを要求する布告を発した。この出来事は当時のカルタゴ司教キプリアヌスの書簡および神
学的著作、アレクサンドリア司教ディオニュシオスの書簡、複数の殉教録史料に伝えられる。これら
の史料からは、この勅令に伴い各地で供儀執行委員会が設置され、委員の面前で供儀を行った者には
執行証明書が発行されたことが判明する。 この布告はキリスト教徒迫害研究史上、「上からの」迫害
が開始された画期ともみなされ注目を集めてきた。 しかしながらこの布告ならびに供儀執行証明書発
行の意図については、研究者たちの解釈が一致していない。 そこで本報告はエジプトから出土した供
儀執行証明書パピルス史料を分析し、証明書の発行とその利用は実態としてどのように行われたのか
を検証することで、発行者と発行申請者双方の意図の解明を試みる。
【研究史:デキウスによる供儀執行命令と供儀執行証明書の意図を巡って】
20 世紀前半まで
・
「
“国家の中の国家”と言える危険勢力となったキリスト教を弾圧し根絶するため」説
Allard (1886); Schwartz (19131); Caspar (1930); Ehrhard (1932);
Alföldi (1938); Oborn (1933); Liesering (1933); Zeiller (1941) *20 世紀後半にも多少残る:Jones (1964)
・ほぼ同様の文脈で、キリスト教徒を棄教させ異教世界に復帰するよう迫ることを意図した説
Bludau (1931); Vogt (1962); Heuss (19713); Freudenberger (1974)
∵古代教父たちがそのように述べているから
(エウセビオス『教会史』6. 39. 1;キプリアヌス『書簡集』43.3;
『シュンフォリアヌス殉教伝』1
ニュッサのグレゴリウス『グレゴリオス・タウマトゥルゴス伝』PG 46.944D)
・それ以前の民衆のリンチに乗る形での迫害ではなく「上からの」
「組織的」迫害開始という画期説
Liesemayer (1905); Stade (1926); De Ste Croix (1963)
・最終的な目的は全地域の全住民に帝国への忠誠を集めること(そして帝国へ神々の加護を求めること)説
Lietzmann 1932-1944;弓削(1964); Freudenberger (1969); Latte (1970); Molthagen (1970); Pohlsander (1986);
Selinger (2002); Brent 2010
1
・上記の説を全て否定:デキウス布告は民衆迫害への介入・供儀執行証明書は迫害防止のため説
保坂高殿(2008)←報告者、概ね同意
【保坂説の検討】
先行研究の多くはキリスト教側証言を鵜呑みにしてデキウス帝の意図を想定してきた
⇔しかし、実際には迫害はデキウス帝が布告を発するより前に民衆によって発生していた
250 年 1 月 20 日首都ローマでの迫害発生→司教ファビウス死去
(
『殉教者埋葬暦』
Depositio Martyrum XIII kar. Feb.)
同時代証言は彼を殉教者と呼ばない:殉教者称号を成立させる公式法廷で裁かれていない=民衆リンチ
(
『ローマ司教表リベリウス・カタログ』
;キプリアヌス『書簡集』9.1
カルタゴでも民衆により迫害開始(キプリアヌス『書簡集』6.4, 20.1)
司教キプリアヌスは危険を避け、異教徒民衆を刺激しないように隠遁(
『書簡集』7.1, 20.1)
アレクサンドリアでは前帝フィリップス・アラブス治世下から民衆迫害が続いていた
アンティオキア司教ファビオス宛ディオニュシオス書簡(エウセビオス『教会史』6.41.1 所収)
「私たちへの迫害は、皇帝の勅令によってはじまったのではありません。
それはすでに丸一年も続いていました」
(秦訳)
これらの証言からデキウスは民衆が各地で起こしたキリスト教への暴力的迫害に介入したと想定
介入方法→布告:各地に委員会を設置 市民は各地の伝統的な神々に供儀を捧げる
供儀を執行した上で申請者には執行の証明書を委員会が付与
証明書を携帯することで民衆の暴行を避けることが出来たと想定
(
『使徒行伝』でパウロが市民権証を提示し市当局の暴行を避けたように)
現在までに出土した 45 枚の証明書は携帯に適した 21×6cm のパピルス
つまりキリスト教徒にとっては「棄教」だがデキウスにとっては一度の「忠誠行為」で
その後は暴行を受けたり再度神々への供儀を強いられることが無くなる機会を提供した
∵執拗な民衆のリンチが存在
キプリアヌス書簡集 24.1「供儀を実行した後、再度試練を受け、追放された人々」
大谷の疑問点:供儀証明書は個々人が携帯していたか?
(ささいなことだが)証明書は一家に一枚で家々に保管されていたのではないか
→迫害の実態についての理解が少々変わるのでは
2
【供儀証明書は携帯されたか?】
供儀証明書が携帯されたとは考えづらい要素
① 現存する供儀証明書パピルス 45 枚のうち、家族構成員複数が記されるものが多数
各自が携帯するものならば他の家族構成員の供儀執行状況が記される必要はないのでは
→後継史料「供儀証明書パピルス一覧」参照
No.1 を除いて基本的には家族の個人名が全て記された痕跡:1 枚で全員分なのでは
②キプリアヌスが証言する供儀証明書入手者たち(賄賂により供儀をせずに得た者も含む)
家族を代表して 1 枚の証明書だけを獲得しているかに思われる
キプリアヌス書簡(CSEL: 55.13-14)
「…また、自分と自分の家族をすべて滅びに導いてしまった人と、他の人の身代りとして
危険を犯し、自分が危険にあうことによって妻子や家族のすべてを罪から守った人とは、
同一視されてはなりません…事実、証明書を買った人 is cui libellus acceptus は次のように
述べるのです、
『私は前に本で読んだり司教の話で聞いたりして、神のしもべは偶像に生贄を捧げたり
偶像を礼拝してはならないと知っていました。それで、私はもし機会がなければ
それを得ようとはしなかったのですが、証明書が与えられる機会があったとき cum occasio
libelli fuisset oblata、許されないことをしないために、役人のところに来て
(あるいは他の者をつかわして)次のように言いました、
「私はキリスト教徒です。
偶像に生贄をささげることは出来ません。悪魔の祭壇のもとに行くことはできません。
許されないことをしないために、賄賂を差し上げます」と。しかし、この証明書を買うための
賄賂で汚された人も nunc tamen etiam iste qui libello maculatus est、我々の忠告を聞いて
このこともしてはならないことであったと知り…」
(熊谷訳、原文挿入箇所対訳は報告者が逐語的に改めた)
家長が代表して供儀を行い(あるいは賄賂を送り)家族分の、しかも 1 枚の証明書を手にしている
∴家族に 1 枚しかない証明書ならば、一家のうち一名だけ(例えば家長)が携帯するというのも奇妙
∵子供であっても迫害の対象とされる
e.g. ディオニュシオス書簡(エウセビオス『教会史』6.41.19)
「15 歳くらいの少年だったディオスコルスも[当局に]引き渡されました。
[裁判官は]最初、少年が簡単に話に乗ると考えて言葉で欺こうとし、
ついで、すぐに屈するだろうと考えて拷問を加えました」
。
キプリアヌス『背教者について』25
「ある両親が避難の途中、たまたま恐怖に駆られて前後を顧みることなく、
一人の幼い娘を乳母の手に任せて逃げ去ってしまったのである。乳母は
捨てられたその子を役所へ連れて行ったところ、彼らはその子に、群衆の集まっていた
偶像の前で、パンと葡萄酒を混ぜたものを与えたのである」
(吉田聖訳)
3
③パピルス証明書は携帯に適しているか?
21×6cm のパピルス証明書は携帯に適しておりパウロが用いた市民権証明書(登録書)と同じ(保坂 181,551)
しかし『使徒行伝』でパウロは市民権者と名乗る際に証明書を提示したという記述はない
市民権証明書 diploma は常に携帯されたかについては謎(Schulz (1942-3); Cadbury (1955),は根拠なく肯定)
Sherwin-White (1963)は一般大衆には木製証明書、兵士には丈夫な金属製登録証が与えられたことから
移動の少ない一般大衆の証明書は「通常の場合家庭内に保管されていたと考えた方が良い」
市民権証明書はその写しが首都カピトリウム神殿(トリブス原籍)とおそらく所属地方都市名簿に記録
供儀証明書も同様に地方文書館に写しが保管されたことが推定されている
(
「供儀証明書パピルス一覧」No. 11, No.26 を参照。同様の内容、片方には文書館で付された整理番号 433)
市民権証明書、供儀執行証明書、いずれも家に保管し、必要があれば文書館にて写しを閲覧・複写可能か
【供儀執行証明書の家庭内保管と迫害の実態】
供儀執行証明書は申請者個々人が携帯するのではなく家庭に保管すると想定する背景
→デキウス期迫害のキリスト教徒をとりまく環境とは
民衆迫害が発生するまでキリスト教徒であることは既に異教徒市民に対する秘密ではない時代?
3 世紀初頭にはキリスト教徒であることを隠す傾向が(Cf. テルトゥリアヌス『妻へ』2.4.2, 5.1)
テルトゥリアヌス『護教論』3.1
「
『ガイウス=セイウスはいい奴だ。だが彼はキリスト教徒だ。
』また、別の男は
『利口な男だと思っていたルキウス=ティティウスが最近キリスト教徒になったというので
あきれている』などという。
」
3 世紀初頭からカルタゴ市のキリスト教徒の集会場所は異教徒に知られていた
テルトゥリアヌス『護教論』7.4「毎日我々は包囲攻撃に耐えている。毎日我々は密告されている。
中でも我々の集会と集いにおいて我々は奇襲を受けている」Cf. 『異教徒へ』1.7.19;『迫害下の逃亡』3.4
昼間は異教徒に攻撃されるが夜であれば集会が可能であった(
『迫害下の逃亡』14.2)
デキウス期、迫害を行う異教徒民衆・公職者は明らかにキリスト教徒の家を認識している場合多数
アレクサンドリア:ディオニュシオス書簡(エウセビオス『教会史』6.41.5, 8 所収)
「次に彼ら〔異教徒〕全員は、神を恐れる人たちの家に急ぎ、それぞれが知っていた隣家の者たちを襲い…
彼らはセラピオンをその自宅で捕らえ、荒っぽい拷問を加えました…」
デキウス布告が発布され供儀が命じられた後でも
「少しでも名の知れた人達の多くはすぐに、ある人はおののきながら、ある人は公職についていたために
やむなく進み出ました。周囲の暴徒に引きずり出された日ともいました。彼らは名前を呼ばれると、
汚れた聖ならざる犠牲に近づきました」
(同 6.41.11)
「その時はデキウスが迫害を宣言し、それと同時にサビヌスが私を捜し出すための特別の
兵士を送り出しました。その時、私〔ディオニュシオス〕は四日間家におり、
その兵士が来るのを待っていました。彼は私が隠れたり出歩いたりしたと思われる道や、
川、野原などすべての場所を探し回りましたが、家は見落として捜索しませんでした。
彼は、追われている私が家にいるとは夢にも考えなかったのです」
(同 6.40.2)
4
スミュルナ:
『聖なるピオニオスとその仲間の殉教』2.3-3.1
「ピオニオスはサビナとアスクレピアデスの二人と共に断食をしていたのだが、彼らが翌日に
捕らえられることを悟ると、鎖を編んだものを三つ取り上げて、自分自身とサビナとアスクレピアデスの
首にかけ、こうしてその家で待ち構えた…安息日に、彼らが祈りを終えて、聖なるパンと水とを
摂った時、堂守ポレモンが彼らの前に現れた。彼はキリスト教徒を探索して連行し、犠牲を捧げて
汚れた食物を食べることを強制するよう指示を受けた、配下の者たちを引き連れていた」
(土岐健治訳)
3c 中頃のローマ帝国各地でキリスト教徒は基本的には平穏に暮らしていた
:キリスト教徒であることを隠さずに生活できていた場合が多数
→時に発生する迫害によって急遽逃亡・隠遁が必要になる
デキウスによる供儀執行命令に対し、
(少なくともカルタゴで)多くのキリスト教徒は供儀を行い証明書を獲得
大多数の教徒が背教したと研究史上の意見も一致(Sage (1975); Saumagne (1975);Bruns 2002; Brent 2010
キプリアヌス『背教者について』7
「兄弟の多くは敵の脅迫の一声だけでたちまち信仰に背き、倒れてしまった。
彼らは迫害によって責めたてられたからではなく、自らの意志で背教者となってしまったのである」
(Cf. キプリアヌス『書簡集』11. 1.2, 13.1, 14.1.1)
多くの教徒は背教行為と認識しないか、あるいは正当性な事情であると考え供儀証明書獲得
←告白者推薦状を盾に即座の教会復帰を司教に求めたことから明らか
キプリアヌス『書簡集』27.3
「そしてついには反乱が発生します。事実我々の管区(属州)では幾多の都市で教会指導者(=司教)に対
し民衆(=供儀を実行した背教者)からの攻撃が生じているのです。彼らは、殉教者と告白者から皆にひ
とたび与えられたと大声で言い立てている平和(=教会復帰)を直ぐに認知するよう、威嚇して強制的に
指導者たちを屈服させたのです。指導者たちはこれに抗するだけの精神の徳性も信仰の堅固さも持ち合わ
せていなかったのです。
」
また迫害は供儀執行命令の発布(250 年 1-2 月)から収束に向かう
250 年秋にはカルタゴで「迫害が止んだ」
(キプリアヌス『書簡集』55.6, 43.4)
251 年復活祭前には迫害中は延期されていたローマ司教叙階が完了(キプリアヌス『書簡集』44)
多くの都市では供儀執行をきっかけとし迫害は終結
キリスト教徒が共同体への「忠誠」を一度示せば迫害要因が無くなったということ
(迫害の目的はキリスト教の根絶ではなかった)
その結果:キリスト教徒と異教徒はまた「隣人」に戻る
←圧倒的に小規模共同体の体面社会を基礎とした古代都市(Brown (1978))においては
供儀執行証明書は一家に 1 枚あればその用を成していた
5
【文献一覧】
Allard, P.
Histoire des persécutions pendant la première moitiè du troisième siècles
(Septime, Sévère, Maximin, Dèce) d'apres les documents archéologiques, Paris
1886.
Alföldi, A.
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Archäologischen Instituts, Röm. Abt. 50 (1935) , 1-171.
Bludau, A.
Die Ägyptischen Libelli und die Christenverfolgung des Kaisers Decius,
RQChA Suppl. 27, 1931.
Brent, A.
Cyprian and Roman Carthage, Camgridge, 2010.
Burns, J. P.
Cyprian the Bishop. Routledge Early Church Monographs. London, 2002.
Cadbury, K. S.
The Book of Acts in History, New York 1955.
Caspar, E.
Geschichte des Papstums. Von den Anfängen bis zur Höhe der Weltherrschaft,
Bd. I: Römische Kirche und Imperium romanum, Tübingen, 1930.
de Ste Croix, G. E. M.
Why were the early Christians persecuted? Past and Present 26 (1963) 6-38.
Ehrhard, A. A. T.
Die Kirche der Märtyrer, München 1932.
Freudenberger, R.
Das Verhalten der römischen Behörden gegen die Christen im 2. Jahrhundert,
dargestellt am Brief des Plinius an Trajan und den Reskripten Trajans und
Hadrians (Münchener Beiträge zur Papyrusforschung und Antiken
Rechtsgeschichte 52. Heft), 1969.
―
Die Auswirkungen kaiserlicher Politik auf die Ausbreitungsgeschichte des
Christentums bis zu Diokletian in Frohnes/ Knorr, U. W. Kiechengeschichte
als Missionsgeschichte. Band I: Die alte Kirche, München, 1974.
Heuss, A.
Römoische Geschichte, Braunschweig, 1971(3)
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The Libelli of the Decian Persecution, HTR 16 (1923) 345-90.
Latte, K.
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Untersuchungen zur Christenverfolgung des Kaisers Decius, Diss. Würzburg
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Greeings in the Load: Early Christians in the Oxyrhynchus Papyri, (Harvard
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Why Did Decius and Valerian Proscribe Christianity? CH 2 (1933), 67-77.
Pohlsander, H. A.
The religious policy of Decius, ANRW II/ 16-3 (1986), 1826-42.
6
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Cyprian. Patristic Monograph Series 1. Cambridge, MA: Philadelphia Patristic
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Saint Cyprien, évêque de Carthage, "Pape" d'Afrique, 248-258: Contribution à
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Kaiser Constantin und die christliche Kirche, 1913, 1936
Schwartz, J.
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Selinger, R.
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The Mid-Third Century Persecutions of Decius and Valerian, Frankfurt, 2002.
Der Politiker Diokletian und die letzte grosse Christenverfolgung, Wiesbaden
1926 (Diss. Frankfurt a. M. 1926).
Vogt, J.
Zur Religiosität der Christenverfolger im Römischen Reich, Sb der
Heideelbelger Akademie, Phil.-hist.Klasse Abh. I 1962, 7-30.
Zeiller, J.
L'Eglise primitive (Histoire de l'Eglise depuis les origines jusqu'à nos jours
Tom.2), Paris 1941.
エウセビオス著
エウセビオス『教会史』 講談社学術文庫 2010 年
秦剛平訳
キュプリアヌス著
「背教者について」『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』 上智大学中世
吉田聖訳
思想研究所 1999 年 211-247
シャーウィンホワイト著 『新約聖書とローマ法・ローマ社会』日本基督教団出版局 1987 年
保坂高殿訳
ブラウン著
『古代末期の形成』慶應義塾大学出版会 2006 年
足立広明訳
ボウマン著
「ローマ帝国における官僚制と文書」浦野聡・深津行徳編『古代文字資料の
後藤篤子訳
中心性と周縁性』春風社 2006 年 69-92 頁
高橋亮介
「テプテュニスのグラフェイオン:属州エジプト農村部における文書行政の一
断面」豊田浩志編『神は細部に宿り給う: 上智大学西洋古代史の 20 年』南窓
社 2008 年
―
89-106 頁
「属州エジプトにおける地方文書館と文書の利用」『西洋史研究 』新輯 42 号
2013 年 220-232 頁
土岐正策・土岐健治
『キリスト教教父著作集22 殉教者行伝』教文館 1990 年
保坂高殿
『ローマ帝政中期の国家と教会 キリスト教迫害史研究 193-311 年』教文館
2008 年
弓削達
『ローマ帝国の国家と社会』岩波書店 1964 年
7
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