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これまでの研究をふりかえって - SUCRA

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これまでの研究をふりかえって - SUCRA
埼 モ大 学紀要
教育学部 ,5
6(
1)-3
95-415 (
2
007)
これ までの研究 をふ りか えって
-
稚拙 なが ら楽 しく進めて きた40年の述懐
藤揮
弘介*
ごしたが、そ こは主 に分類 ・形態学が主流で、
は じめに
組織学、電気生理学、動物生態学 とい うような
埼玉大学教育学部に赴任 してはや27年余、い
構成で、 それぞれの内容が当時で もか な り古色
ざたって見るとあっとい う間であった。赴任す
蒼然 とした雰囲気の教室だった。それはそれで
る前、 まず安田啓祐先生 にお会 い したのだが、
私には意義 はあ り、お もしろ くもあった。今 に
彼が これか ら25年 間余一緒 にや って行 きましょ
して思 えば動物の系統分類学の素養 を身につけ
うと言われた時にはまだこれか ら随分先が長い
らhる貴重 な体験 を得 た.現在の 日本の大学で
は もうとて もかなえ られない と言 える。だが当
ものだ と思 った ものであった。
私 はこの期間、 ウニの発生 を題材 に、発生 に
時の私たち学生 には肝心の生化学の素養がその
対す る温度の影響 を調べて きて、卒研生たちと
ままでは まった く身につ きそ うになかった。そ
一緒に実験 を楽 しんで きた。 ウニの発生 は教育
して沈滞 した雰囲気 は学生たちに不満だった。
学部の理科教育講座 に進んで きた学生 にとって
生理学担当の松井喜三先生ががんばって生化学
は格好の課題にあった と思 う。 このテーマで学
に くわ しい先生 を非常勤講師や助教授 に採用 し
会発表にもなるような結果 も得 ることがで きた。
て きたが、オー ソ ドックス な もの とは言 い難
ここに来る前 は 8年間半、静 岡大学理学部生
かった。同僚や先輩、後輩には一気 に生化学の
物学教室 に肋手 として過 ご した。そこでは、そ
方面 に果敢 に進んでいった人 もいたが、動物学
れ以前の大学院生活 とは うって変わって、 さま
か ら離 れた くもな くかつ生化学的研究がで きる
ざまな分野、分子下か ら生態学 レベルの研究 に
所 に行 きたい と松井先生 に相談 した ら、東大の
タッチで きた。私 にとって本格的な研究はやは
動物学教室 にお られた秋 田康一先生 をすすめ ら
り大学院生活か ら始 まった。東京大学理学系大
れた。 そこで進学 して彼の もとにつ くことに し
学院で、放射線生物学講座 に入 り、秋 田康一先
た。 この先生 も動物学畑の人ではあったが大変
生について本格的な研究 を姶めたが、 これが私
な秀才で、その頃の私 には新鮮で、生化学の知
の研究生活のス ター トとなった。
識 を十分に身につけていた。少 な くともそ う見
えた。研究テーマを早 口で言われ、何 を言 って
放射 線生物学 講 座 の大学 院 生 で あ った時 代 :
リボ ヌク レア ーゼ ・イ ン ヒビ ター
いるのか とん とわか らず、 しか も語尾の
「
-
とい うようなことで もやってみ ますか」 との言
葉には正直、意気消沈 させ られた。 だが研究室
学部は東京教育大学理学部の動物学教室で過
の大学 院生たちが明 る く元気で、最新の情報や
技術 をどん どんこな して 日夜活発 に実験 してい
●埼玉大学教育学 部F
J揮卜
教 育講座
るの を見て、非常 に励 みになった。
- 395-
当初 さっぱ りわか らなかったテーマ というの
s
eとい うの は晒乳類 の
で問題 に しているRNAa
は、RNAを分解 す る酵 素 リボ ヌ ク レアー ゼ
組織 にいたる所多 くあ るRNAa
s
eAで、比 校 的
(
r
i
bo
l
l
uC
l
e
a
s
e
;
RNAa
s
e
)の 働 き を お さ え る
RNAa
s
eイ ンヒビターに注 目して、ネズ ミにX
低分子で丈夫 な酵素。 ア ミノ酸配列や立体構 造
線のような電離放射線 を照射 してあ らわれる影
は ヒスチ ジン。亜鉛 イオ ンが このア ミノ酸 とよ
響 を調べ よとい うものだった。秋田先生が考え
く結合す るので、 このイオ ンもまたこの酵素 を
まですでに知 られていた。 この酵素の活性 中心
ていた仕組み とい うのはつ ま りこうだった。 シ
失活 させる。 それ も活性 中心 に直接結合 して阻
ステインのスルフィ ドリル (
SH)基が大事な働
害する。いわゆる括抗的阻害である。 しか し問
きをす る よ うな蛋 白質、いわゆるSH蛋 白質は
題 に してい る蛋 白質 の イ ンヒビ ターは、キ ネ
電離放射線 によ り酸化 され働 きを失いやすいか
テ ィックを調べて亜鉛 とはまるで違 っていた。
ら、RNAa
s
eイ ンヒビターの ような蛋 白質 も敏
このキネテ ィック解析 に、放射線生物学で よ く
感 にX線 の影響 を受 けて失活 し、RNAa
s
e
がこ
使われていた ターゲ ッ ト理論 を利用 した。非括
れによる抑制 を解除 されて働 き出 し、RNAをど
抗的阻害で、かつ 1カ所ではな く 3カ所結合 し
ん どん分解するようにな り、それが放射線障害
て阻害す ることがわかった。 この成果で学位取
の一因 となるだろう。
得 した と思っている。 とて も当初の 目標、放射
そこで まず研究は、 この インヒビターを精製
す ることか ら始めた。材料 はネズ ミの肝臓。 こ
線の影響 を調べ るまでには手が とどかなかった。
なおこのインヒビターの立体構造 は何 とようや
れ をす りつぶ して超遠心 をかけ、得 られた上澄
9
9
5
年 に明 らか にされた。 ロイシンリッチ ・
く1
み液か ら、 2種類のカラムクロマ トグラフィー
リ ピ ー トの 特 徴 を も ち 馬 蹄 形 で、球 状 の
でそのインヒビターを分離精製 した。 カラムク
シアパ タイ トだが、当時は 自分でつ くらな くて
RNAa
s
eをは さみ こむ ような形 を している。お
そ らくこの酵素 に 4カ所 あるS
S橋 を 3カ所 開
S
H
基
と結合
させて、ほ ぐし
き、インヒビターの
はならず、難儀 した。 もう一つはイオン交換樹
て構造 を変えて働 きを抑 えるもの と思 われる。
脂 、DEAEセルロースで、 これは市販 されてい
当時同僚だった野間口隆氏が偶然 に もよい論文
ロマ トグラフィーの担体は、一つはハ イ ドロキ
たがいろいろ調整 しな くてはな らず、なかなか
を見つけ出 して教 えて くれた。化学的にこの酵
うまく使 えるようにはならなかった。 もう一つ
葉のS
S橋 を切 断 させ て失活 させ た とい う報告
大事 なことはインヒビターの検 出方法。 これ も
である。 これは非常 にあ りがたかった。 3 とい
模索 して 自分で うちたてな くではならなかった。
う数はその論文で報 じられていた数 と一致 して
リボヌク レアーゼを失活 させ る程度を測 る方法
いた (
図 1)(15・】6)0
である。生化学の素養が まった くない身でい き
この結果は、当時の教室の習わ しに従 って、
な りこの ようなことに着手す るのは非常 に厄介
紀要に英文で載せ た。主に 2人の教授 にさんざ
で、後か らふ りかえれば何で もなかったことで
校正 され検討 されたが、 この検討は大学院を終
も、当時の私 にはなかなかはか どらなかった。
えて数年後に自分で ようや くきれいに しあげ ら
分離精製す るよ りまず この検 出方法の確立が
れることに気づ いた。 しか しもはや タイ ミング
先だったので、精製前の段階、上澄み液 を直接
を逸 していた。 この蛋 白質 を精製 してこの結果
使 ってRNAa
s
e
活性 を抑 える性 質の定量化 をは
を示 し、後でわか ったよ り洗練 された解析 を行
か った。結局大学院 5年間はこの解析、つ まり
い、広 く流通 している雑誌 に載せ ていれば 日の
キネテ ックスに凝って しまった。そ してその結
目を見たのにと残念でな らない。
s
eを失活 させ る
果、 この イ ンヒビターのRNAa
なお碑臓の ような器官ではこの酵素の活性が
仕組みについてお もしろい解析 はで きた。 ここ
非常に高い。盛んにこの酵素が働いている。 こ
- 396-
肝鹿ホモジ=ネ- ト(
∼)
図 1 RNAa
s
eの阻害 :ターゲ ッ ト理論の応用
の ような ところで は この イ ンヒ ビター は どう
らいの大変な成果であった。 ところで妙な もの
なっているのかについて調べた。 そこか ら今度
で、 この教育学部での私の もとの卒研生お よび
はこのイ ンヒビターか ら酵素 を解 除す る物があ
大学院生 だった沼尻貴行君が江橋先生の近い親
ることに気づいた。透析 で きず、熱に弱いか ら
戚だった。 この先生のお名前 と成果は講義で紹
蛋白質に違いない (17)。ただ時間が もうな く話 は
介 し、彼 も聴いていたはずだが憶 えてお らず、
そこまでで終 えざるを得 なかった。 とうとう最
彼 自身、親戚で節 ちんな どと言われた くらい し
初の課題、放射線 の影響 について までは手が回
か関心が な く、 どれだけす ごい人なのか よくわ
らなか った。 これ だ けで 5年 間 を要 したが、
かっていない らしかった。それに して も世間は
まった く生化学の実験 をほ とん ど経験 して こな
実 に狭 い。
かった身には今一つ詰めることがで きなかった。
また途中の 1年間は東大闘争で学 園が大荒れに
静 岡 大 学 理 学 部 生 物 学 科 の助 手 で あ った時
な り、完全 に研究 はス トップ して しまった。そ
代 :鶏肱 の グ リコサ ミノグ リカン、プソイ
の間は実験 などをやっていると国賊扱 い。秋田
ドウリジンの トリチウムラベル化 、カ ミキ リ
ムシ、ア リ
先生 は一言嘆いたのを思い出す。 日本人は少 し
も変 わっていない。彼 は戦時中の 日本人の意識
を連想 していたに違 いなかった。
私が赴任 した当時の静 岡大学理学部は、当時
当時隣の棟 にお られた、医学部の江橋節郎先
の他の大学の例 に もれず誹座制 を敷いていて、
生は実験道具 を自宅 に遊 んで実験 していた とい
とりわけ私がついた講座 では、教授の研 究の手
う武勇伝 ももれ聞いた。筋収縮制御 にカルシウ
助 けばか りか、か な り私的な用のそれ こそ使い
ムイオ ンが働 くのだが、その システムの基本 を
走 りまで随分 とさせ られた。ただ卒業研究の指
ほ とん ど一人、 もちろんお弟子 さんたちが少な
導 は赴任 してす ぐ担当 させていただけたので、
くなかったが まさに単独 で実験 して明 らかに し
学生たちと起居 を共 に して研究 に明け暮 れるこ
た。 ノーベル賞 をとらなかったのがおか しい く
とがで きたのはあ りがたかった。 この ような学
- 397-
生が後 に大 きな宝 になるとは当時は まった く知
この技術 に関す る書や講演 をも精力 的 に行 って
るよ しもなかった。
た。講演 の手伝 い も初 めの頃 よ くさせ られて大
私は生理 ・生化学講座 に属 した。 この講座の
いに勉強 になった。それは ともか く、鶏肱 のヘ
教授、草 間慶一先生 は有機化学者で、 アメ リカ
パ リンを追 うとその ような物質 はな く、 む しろ
NAの微量成分、プ ソイ ドウ リジンが細
で運搬 R
硫酸基がそれ よ り少ないヘバ ラン硫酸が存在 し
胞 内でつ くられ る代謝過程 を学 びと り、 これが
ていることが わか った。 ただ成果 は学会発表 レ
癌細胞 で どの ようになっているか を追求 してい
ベ ル どま りで、論文に仕上 げ られ るほ どの確 た
た。そのため プソイ ドウリジ ンに放射性 アイソ
る結果が如何せ ん得 らない。藤井先生の依頼 は
トー プの トリチ ウム を標 識 しな くて は な らな
隣の組織学の講座 も一丸 となって共 にこのテー
か ったが、その ような物 は市販 されていない。
マ に と りくんだ。そち らは組織学 的 に追求、私
これを合成す るため、そ こで大 阪の南 にある、
の方 は もっぱ ら生化学 的方法、 アイソ トープ と
京都大学 の熊取原子炉実験所 にはるばる出向い
カラムクロマ トグラフ ィーない L波紙電気泳動
て、 リチ ウム 6に中性子 を低温照射す る と核分
法 で追求 した (
図 2)。 だが なか なか将 が あか
裂 し トリチ ウムをはねだす (
反跳)性 質 を利用
なかった。 これはその まま立 ち消 えになって し
して、 プ ソイ ドウリジンに トリチ ウム を標識 さ
まった。
せ る実験 をい くどとな く繰 り返 した。 こうして
自前 で用意 したのだが、そのための実験 を執掬
に手伝 わ された。純然たる化学実験 なので、動
物学畑 の身には慣 れ ない仕事 で相当牌易 した も
のだが、分子 レベ ル下の実J
験は よい体験 になっ
た。 また この しん どい実験 で大 いに根性 を鍛 え
られた。
ところでそこでの私の研究 テーマ は、就職 を
はかって くれた藤井隆先生が依頼 した ものだっ
た。ヘパ リンとい う物質、 グ リコサ ミノグリカ
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y
c
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mi
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o
g
l
y
c
a
n
こ
GAG)またはムコ多糖
ン (
の一種 で もっとも硫酸化 された糖 が、皮膚の傷
舶艶
の修復 に関係 しているらしい。その役割 をニ ワ
トリ艦 (
鶏肱)で確証 してみてほ しい とい うこ
慧c
c
s
s
A
C
,
HS 餅 HP
と。鶏膳 の角膜 は初めは傷 をつ けて修復す るこ
とがで きないが、ある時期 を過 ぎる と修復で き
るようになる。 まず はこの角膜 にあるヘパ リン
の有無 または量の変化 を迫 ってみ る とい うこと
」
だった。そ こでヘパ リンを初 めGAGについて ま
ず学ぶ ことか ら始めなければな らなか った。 こ
こで アイソ トープ技術 を草 間先生 か ら入念 に教
図 2 グリコサミノクリカンのセルロースアセテー ト
えて もらう機会 を得 た。彼 は当時 アイソ トープ
技術 として盛 んに使 われていた液体 シンチ レー
ションカウンターの 日本一の専 門家で もあって、
- 39
8-
膜電気泳動。HA:ヒアルロン酸、KS:ケラ ト硫
酸、Ds:テルマタン硫酸、CS
A:コンドロイチ
ン硫酸A、
C
S
C:
コンドロイチン硫酸C、HS:ヘ
バラン硫酸、HP:ヘパリン
その しば らく後 になってヘバ ラン硫酸は、脊
は しき りに採集に出かけていた。彼の採集に も
椎動物の細胞が遊走す る際、その床 となる組織
何 回か同行 した。彼の仲 間たちと 5月、和歌 山
部分に欠かせ ない多糖 であることがわかった。
県は有 田川上流の山奥 で 目的の珍品 ヨコヤマ ト
藤井先生の勘 は当たっていたわけである。ヘバ
ラカ ミキ リ採集 に出向いたことがあ る。その時
ラン硫酸 を認識 して細胞遊走の鍵 となる細胞表
私一人が しか も何 の装備 もな しで最初 に素手で
面の蛋 白質がわか り、それが フィブロネクチ ン
捕 まえて しまったことがあった。その時の連中
だが、埼玉大学理学部生体制御学科出身、お茶
の悔 しそ うな顔 は忘れ られない。それだけなら
の水大学の林正男氏が この物質 を研究 して成果
よいが 悔 しさのあ ま りやた ら不機嫌 になって八
をあげたのを知 り、因縁 を思 う。彼か ら学会の
つ当た りして くるのには閉口 したが、内心快哉
休憩室でそれは残念 と同情 されたのを思い出す。
だった。 だが二度 日に出向いた時には運転 して
私や同僚の追求が手ぬ るかった ことを後悔、期
いた車が 山道の崖か らもう少 しで まっさか さま
待 に添えなかったことを詫 びている。 なお、 こ
に落 ち る とこ ろ だ っ た。後 輪 が 2つ と も1
0
0
の頃卒業研究 を私の もとで行い、現在長岡技術
メー トルはゆ うにある崖緑か らつ き出 しなが ら、
大学教授の古川清氏が、糖鎖生物学の第一人者
か らくも落 ちず にすんだO-緒 に死ぬのならお
として活躍 し、私に とってよきア ドバイザー と
互い別の人であって欲 しかった。先生 もお前 な
なった
2
)
。彼が都老 人総合研究所の室長
んか と死ねるか と思ったに違いないが、私 とて
(2
5
・
2
72
83
であった時に、多 くの学生 に研 究所での研究体
同様。 こんな所で死ぬ な らもっ とロマ ンが欲 し
験 を面倒見て もらい、 また糖鎖研究の最近の事
い。共 に悪道だけは強かった。それはともか く、
情 など教 えて もらった。
彼の カ ミキ リム シの コレクシ ョンには大いに驚
鶏膳のGAGについては初め腫全体、ついで皮
か された。麹が閉 じて しまってモグラ、 という
膚 について調べ た。そ して皮膚 については確か
よ りオケラの ように変 わって しまった、ハ イポ
に肱の後期 にヘバ ラン流酸が増 えて きているこ
セ77ラとかい う地中生のカ ミキ リムシの姿は
とを確かめた。 またさらに皮膚が浸 る羊水につ
いまだに脳裏 に焼 きつ いている。
いて も調べてみた。す るとここ も後期 にある糖
静岡大学の生物学教室ではまた南 アルプスや
が増 えて くることがわかった(
1
R
)
。分析す るとこ
富士 山に行 き柏相 を調査研究 している人たちも
れはGAGではな く、シアル酸 を含む糖蛋 白質で
いた。彼 らにもよ くついて山に入 った。 もとも
あることがわか った。 これが一体 どこか ら来 る
と小 さい頃か らア リが好 きだったので、 このつ
のか不思議 だったが、卵 白のオボムチ ンにこれ
いでに盛 んにア リを採集 し、 これが きっかけで
が多量 に含 まれていて、羊水 に取 り込 まれて く
日本蟻類研究会 に入 り、 日本のア リの大家たち
るのだった。そ して卵 白は水分 を羊水 に抜 き取
と知己になった。富士 L
L
l
では 5合 目あた りで植
られる。 シアル酸がある と卵 白に水が保持 され
物 をコ ドラ- ト調査 を していた静岡大学の増沢
る。 この水分が羊水の もとになる。羊膜が卵 白
武弘氏の調査地点 を借 りて、ヤマクロヤマアリ
の シアル酸 をはず して、卵 白の水分の保持能力
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c
a/
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'
の分布 を調べ た。このアT
)の分
を低下 させて水 を羊膜腔 に とりこむ。 この よう
布 に沿 って、 ミヤマハ ンミョウの幼 虫が分布 し
なことに気づいたのだが、論文 に しあげるよう
ていた。そ こには また カラフ トクロオオア リ
な状況ではな くなった。
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Sも採集で きた。南 ア
草間先生はまた趣味が高 じて 日本産 カ ミキ リ
ルプスで は採集 され ていたが富士 山 には見つ
ム シの大家になっていた。 ご多分 にもれず ひま
かっていなかったそ うである。調査依楠で静 岡
さえあれば、いや教務委員長 な どの用があろ う
の浜岡近 くにある丘で採集 したア リには、 日本
とおかまいな しに 日本中、 とりわけ南西諸 島に
一のア リの大家、久保 田政雄氏 も同定で きない
-3
9
9-
合研究所で、 ウニの発生 を材料 に、 まず は種 ご
とに発生の適温が ことなることを始めていた。
自動車で静岡か ら三崎や東京 に学生 たちを同乗
させて連れ、楽 しみなが ら泊 まりが けの実験 を
した。 このウニが埼玉大学 に来てか ら今 にいた
るまでの研究テーマ となった。 また幸 い理学部
には石原勝敏氏や末光隆志氏がお られて、 ウニ
図 3 ウロコアリの一種、ヒラタウロコアリ。
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sより引用。
の発生 を生化学的に研究 されていたので大変 に
あ りがたかった。お二人にもずいぶん と便宜 を
はかっていただいたO石原氏はウニ肱の細胞数
変化のデータを知 りたが っていたので、 これ も
私の主なテーマに した。
ものがあ り、彼がアメリカのア リ学者 ブラウン
転任当初はあてがわれた部屋 には机、本棚、
(
w L.Br
own) に見て もらった ら、即刻新種発
電話機 だけ。最初の年 にはさすがに卒研学生が
見の論文の タネにされて しまった。 ウロコア リ
寄 りつかな くて気楽に過 ご していたが、次の年
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の仲 間、ペ ンタス トル-マの一種Pe
か らす ぐ4人の学生が卒研 に就いて きた。早速
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naとされた (
現在はPy1
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'
na(
Br
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卒研生にふ さわ しい題 目を考 えな くてはな らな
& Boi
sverL1979)に改名、和名 はヒラタウロコ
い。卒研生たちはウニの膝 を見たことがなかっ
ア リ) (
図 3)
。
た。そ こで実習がて ら、私の部屋の真 ん中にあ
この頃はまた卒研生たちと夏 にはよ く山登 り
を行 った。
る古い木造の机 に、近所のスーパーで もらった
発砲スチ ロールの箱 を置 き、その中の水 を入れ、
この植物生態の研 究者 と一緒 に静 岡県の湖
新規 に購入 した ヒー ターや クーラーで水温 を一
沼 ・海岸の生態調査 を県か ら依頼 されて静岡県
定に して、発生の時間を計 って もらうことに し
の主立った海岸や潮 を一体調べ 回 りもした。伊
た。 これがあ らたな研究の発端 となろ うとは思
豆、御前崎、そ して浜名湖 をずいぶん見て回っ
い もしなかった。 さすがに、温度 と発生時間だ
たo これ らの フィール ドワー クも私 には大変 よ
けではただのデー タに過 ぎないので、います こ
い経験 になった。 この教室 にいてこそ、分子下
しデー タ処理 を して考察 してみ ようと、温度 と
レベルか ら生態学の レベルまで幅広 く生物学の
発生速度 との関係 をグラフに しようとまとめて
3
4-3
6
) どまり
研 究 を体験で きた。成果は報告書 (
みた。そのグラフはきっとア レニ ウスの法則 に
だったが、私 には大変貸重 な体験であった。
のっとり指数関数的な ものになるに違 いない。
その通 りだった らそれで終わ り、最初の卒研発
埼 玉 大学教 育学部 に転任 して か らの テ ーマ :
表は実習程度の内容にす ぎなかったであろ う。
ところがその グラフがほぼ直線になったのは意
ウニ肱 の温 度感 受性
。
外、瓢箪か らコマだった (
表 1、図 4)
埼玉大学教育学部に転任 した、いやで きたの
ここでの最初の卒研段 階か らす ぐさま、東大
はその ような研究の頓挫 した頃だった。仕事か
理学部の動物学教室の図書館に出向いて、肱発
ら何か ら心機一転 させたかった折だったので好
生 と温度 とに関す る古 い文献を探 しまくり多 く
機だった。すでに仕事の転機 をはかるべ く、大
の過去の研究 を掘 り出 した。2
0世紀初頭 に多 く
学院時代の同僚二人の手助 けで、三浦市 にある
の研究者が似た ような結果 をいろいろな動物 の
東大附属三崎臨界実験所や、板橋 にある老人総
肱や成体で散発的に報告 していた. だがあ ま り
- 400-
表 1
バフンウニ歴の発生時間 (
令)と相対発生速度
o
c)
温度(
5
1
0
1
2
1
5
20
23
る。水温 は最大 12℃ も異 なっていた。またユ ウ
レイボヤは一世代が数 ヶ月 しか な く、春 と冬 で
は体験 温度がや は り10℃ 以上 も異 なる。この よ
うな場合 に共 に、適温温度域 は 3℃ くらい上限、
下限 ともシフ トす る。 しか し発生速度 はほ とん
ど変わ らない ことを確 かめた。
この ような研 究 は教育学部の学生 に とっては
好都合 と自負 している。磯 な どに出向いて ウニ
の生 きている様 を観察 した り、顕微税 の使 い方
に慣 れた り、動物の飼育 を経験 した り、定量 的
なデー タ解析 を経験 した り。 そればか りでな く、
0
5
1
0
1
5
20
25
温度 (
o
c)
これ らの実験 の結果 を総合 して、動物 の発生 と
温度 との関係 につ いて、以下の ような二つの原
則、温度 に関す る発生原則 を兄いだす ことがで
図 4 バフンウニ腔の相対発生速度と温度
きた。
まとまって結論 を得 ている人はいない ようだっ
た。 これで この結果 は格好 のテーマ になった。
1.発生 には、正常発生が保証 される適温温度
域が種 ご とにほぼ確 定 してい る。
その後長年、いろいろなウニで肱 の発生速度
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たとえばバフンウニHe
と温度 との関係 を確 かめた。 また同種 の ウニで
は三崎で冬場か ら早春 にかけて産卵す る。つ ま
も、生息場所や産卵期 の異 なる場合 について も
り放卵 ・放精す る。 この ウニの肱 はお よそ 5℃
やユ ウ レイホヤ (
‖)
か ら22℃ くらいの間で正常 に発生す る。 それ以
で特 に入念 に調べ た。バ フ ンウニは北海道か ら
外 の温度 では奇形 になって しまい まともな成体
九州 まで広 く分布 す るが、ほぼ 同 じ春 に産卵す
になるこ とはで きない。バ フ ンウニはこの温度
確 かめた。バ フ ンウニ
(
1
3)
-4
0
1-
が保証 され るような季節に繁殖す る。繁殖期の
た
仙 ‖)。
0-1
7℃で、 まさに好
侮水温度 は三崎でお よそ1
この実験 には温度制御の実験装置が決め手 と
都合 な時期 に腫発生 を進め るように しているわ
なる。初めは水槽 内の水 を冷やす クー ラー と、
けである。
精密 なヒー ター とを選んで組みあわせ て使 い、
逆 にムラサ キウニは三崎で夏場 に放卵 ・放精
ぎこちないセ ッ トを組み立 てて、私 の研 究室 内
5
℃
す る. この ウニの肱の適温温度域 はお よそ1
や、臨海実験所 や他大学や研 究所 な どにお邪魔
か ら2
9℃ くらいである。 この ウニの繁殖期 の海
して発生 を観察 して きた。 この実験 はすべ て徹
9-2
7℃で、 この ウニ独 自の肱
水温度 はお よそ1
夜 しなければな らなかった。 これが辛 くもあ り
の温度感受性 に合 わせ て繁殖期 を定めていると
楽 しくもあった。途中の待 ち時間は深夜数時 間
い うことがで きる。
もざ らで、気分紛 らしに飲 酒な どしてはな らな
なお、粧発生の適温温度域 が種 ご とにほぼ確
い. こゴ
1は若 くな くては もたない実験 なので学
定 してい る と述べ たのは、 ウニがすんでいる場
生が何 よ り頼 りだった。私 も学生や大学院生 の
所 の温度環境 によってい くらか肱 の適温温度域
頃は一人で よ く徹夜 した経験があったので、男
が シフ トしていたか らであ る。バ フ ンウニが よ
女別 な く情 け容赦 な く命 じた。
い例 で、 これは北海道か ら鹿児島 まで広 く分布
ぎこちな く組み立てた温度調節セ ッ トではな
している。 それでいて繁殖期があ ま り変わ らず
く、 コンパ ク トに まとま り、一台で 5点 もの湿
冬 か らせ いぜ い初夏 までの うちに放卵 ・放精 し
度設定がで きる 5連式水槽 をようや く手 に入れ
ている。 その時期の海水温度 は北海道 と鹿児島
9
88年 近 くに な ってか ら
る こ とが で きたの は1
2℃ほ ど も違 ってい た。 これ くらい も
とで は1
だった。 この ような水槽 を作製で きる会社 をふ
違 って いた らさすが に股発 生 の適温 温 度域 も
と森沢所長か らうかが った。彼 はアクア社 に大
3℃ くらいはシフ トしていた。
規模 な水槽飼育施設 を三 崎臨海実験所 につ くら
せていたが、 この会社がその ような水槽 も扱 っ
2.相対発生速度は艦 の時期 にはかかわ らない.
ていたのであった。初 め持 って きたのは とて も
腔の発生速度は温度が高いほ ど大 き くなる。
一人では持 ち運べ ない ような代物 だった。 そ こ
ただ し適温温度域 内でのこ とで、 この温度域上
でなるべ く手軽 に よそに持 ち運べ るような物 を
限で最大 となる。 それ以上温度 を高めて も発生
特注で造 って もらった。 これは大変 に重宝 し、
速度は高 まらずただ奇形 になるだけ。そ こで こ
その翌年、アメ リカ、 ワシン トン大学付属 の フ
の偉大の発生速度 を基準 に とって 1とす る. こ
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ライデイ・
ハーバー臨海実験所 (
れが相対発生速度で、それ以下の温度での発生
Lab
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) に出か けて、北極 圏にすむ ウニ、
速度は 1以下 とな り、温度 ごとにその値が決 ま
る。 この相対発生速度 をそれぞれの温度 ごとに、
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ホ ク ヨ ウ オ オ バ フ ン ウ ニSt
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図 5)の発生 を調べ た際 に役
雌 の時期、つ ま り第一卵割、第二卵割、第三卵
だった。以来 この水槽 で もっぱ ら実験 を続 けて
割、第凹卵割、卵'
f
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ヒ、間充織 陥入、原腸陥入 な
きている。
9
85
年 に 日本
この実験所 に行 くきっかけは、1
どにつ いて調べ てみ る。す る と相対発生速度の
値 はこの時期の違 いには関係 しない。つ まりあ
で開かれた国際棚胞生物学会の分科会 に参加 さ
る温度での第一卵割や第二卵割、第三卵割 な ど
せ て もらった時 に得 られた。名古屋大学の中埜
の相対発生速度は どれ もほぼ等 しい。
栄三氏が伊勢 の大王崎 で この分科会 を開 き、世
界の主立 った ウニ研究者、 日本、 アメ リカ とイ
以上の二つの、温度 に関す る発生原則 につい
タ リアの学 者 た ちが こ こに一 同 に会 した。 と
ては二つの論文 にまとめて共 に国際誌 に発表 し
いって も家族連 れが多 く、夏なので短パ ン姿 の
- 402-
図 6 ハイフリッド腫 :
周囲に存在 している細胞はカシ
パンの一種De
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sの色素細胞.
ア メ リ カ ム ラ サ キ ウ ニSt
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Sの精子 を受精 させ てつ くった。腔 の
図 5 ホクヨウオオバフンウニ
形 が精子のゲ ノムの影響 を受 けたこ とを示す。
いでたちで実 にラフな、 くだけた雰囲気で発表
きない。奇妙 な話ではある. この二種 の肢の温
を進 めていった。 この会- の参加 には雨宮氏 の
度感受性 は幸 いに も少 し違 っていた。 そ こで こ
力添 えがあった。 この会場 で、 ワシン トン大学
のハ イブ リッ ドの温度感受性 を調べ てみた ら、
Ar
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hurWhl
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y)
の アーサー ・ホワイ トレ- (
さすがに卵の方、つ ま りカシパ ンの膳 の温度感受
氏 と知 り合 いにな り、私の仕事 の話 をた どた ど
性 と同 じだった。肱 の温度感受性 は卵 の方で決
しく話 した ら、 フライデ イ ・ハーバーにいる リ
まる。この、ひ ょんなこ とか ら降ってわいたテー
Ri
char
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mann)
チ ャー ド・
ス トラスマ ン (
マ を調べ て、肱 の温度感受性 は卵 の細胞 質成分
氏 を紹 介 して くれ た。長研 の番 が幸 運 に もま
で決 まる とい う格 好の証拠 を得 ることがで きた。
わって きたので、即刻計画 をたて、あ らか じめ
ホ ワイ トレ-氏が気づ いて長年 あたためておい
彼 の もとを訪ねて施設の様子 な ど下検分 した。
た問題 はあっ さ り片づ けて しまった。長 らく温
彼 は同年齢 だったの も好都合 だった。 この大学
度感受性 を調べ て きていたか らわけはなか った
には医学部の方 に、岩 田氏が勤 めていたの も幸
(
図 6)(12)
。ア メ リカは競 争社 会 で は あ るが ま
運、 いろいろ便宜 をはか って もらえた。
た信 じられ ない くらいに人の よい、寛容 な社会、
この実験 所 に出 向 い たつ いで に、 ホ ワ イ ト
レ-氏か ら彼の懸案だ ったテーマ を もれ聞いて
あるいは隠蔽 は罪 とで も見 なす社会で もあるの
だろ うとはこの時 に実感 した。
即実験 した。彼 は偶然、ハ ス ノハ カシパ ンの一一
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XCent
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cusの卵 をアル カ リ処理
種 De
ウニ腫 細 胞 の膜 の流 動 性 と肱 の温 度 感 受性
1
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すると、アメリカムラサキウニSt
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Sの精子 で受精 し、ハ イブ リッ ドをつ
細胞の表面や細胞 内の仕切 り部分 には脂質で
くることを見つ けていた。 ただ さすが に種が違
で きた膜があ る。 この膜 の固 さ、柔 らか さ、す
いす ぎるので このハ イブ リッ ドは原腸肢 まで し
なわち流動性 あ るいは粘性 は、温度の影響 を敏
か発生が進 まない。 なお逆 のハ イブ リッ ドはで
感 に受 け る。 もちろん蛋 白質、特 に酵素 の活性
-4
03-
も大いに温度 に左右 されるが、 膜の流動性 はさ
光光度計ではか り、そこか ら膜の柔 らか さ ・固
らに鋭敏である。 この膜の流動性-の温度感受
さを偏 向解消度で示 される数値 をめやす に して
性 こそが、 ウニの艦 の温度感受性 と密接 に関
調べ るというものである。 この装置、蛍光分光
わっているだろうと推察 して きた。
光度計は高価 な物が都老人総合研究所 にそなえ
日本は南北 に長 く、北か ら蘭 までさまざまな
られていて、友人の野間口隆氏か らこの方法 を
温度環境 に適応 したウニが分布 している。北海
使 うことを奨め られた。 まず適温が違 う、 ネズ
道 に は 寒 い 海 に 適 応 した エ ゾ バ フ ン ウ ニ
ミの繊維芽細胞 とウニの膳 の解離細胞 とで比較
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sがいる。沖縄 に
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は暖 か い海 に適 応 したナ ガ ウニEc
してみて、 この方法が使 えるか試 し、明白な差
を得たので、以来 この方法 をいろいろなウニの
や クロウニSt
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S、ガンガゼ
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m が生息 している。ナガウニは
腔 について調べ て きた. この装置 は老人研究所
おそ らくもっとも高い温度 に適応 したウニだが、
で、1
9
8
5
年頃、 これを譲 り受けて私の研究室 に
0
年代 に入 って使 う必要性がな くなったの
では8
もっとも寒い温度に適応 したウニ としては北極
0
年間 くらい使 い続 けた。9
0
年代 には 日
置いて1
圏ではホクヨウオオバ フンウニ、南極 にはス ト
立か ら廉価で コンピュー タが内蔵 されずっと使
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が
レキヌス ・ニューメ リSt
いやすい装置が作 られたので、早速 これを入手
いる。エ ゾバフンウニはこれ ら 2種 のウニほ ど
し、温度調節 を行 えるように装置 を組んで、調
寒 さに適応 してはいないが、ホクヨウオオバ フ
べなお した。精度 もず っとよくな り、おかげで
ンウニには近い と思われる。
やっと、 ウニ肱の温度感受性 と旺細胞の膜流動
これ らの ウニの腔 の適温温度域 は種 により低
温あるいは高温 にずれてお り、たとえはエゾバ
性 との明白な対応 をつ けた結果 を得 ることがで
きた (
図 7)
(
2(
,
)。
8℃ くらいまで、ナガウ
フンウニでは 4℃か ら1
この結果、適温温度域の上限、つ ま りウニ肱
2
℃か ら3
2
℃前後 までである。ホ クヨウオ
ニは2
が正常 に発生で きる温度で高い方の限界での膜
オバ フンウニではさすがに北極 圏にいるウニだ
けあって、氷 につけた海水 中で も卵割 くらいま
では進んだ。 これの腔の適温温度域 は 2℃ くら
2℃ くらい まで と判断 した。南極 にいる
いか ら1
0
3
0
ウニ は さ らに低 温 に適応 して い る よ うで 、
-2℃か ら 8℃ くらいまで と報告 されている。
ろいろ手はず を考 えてみたが結局果たせず じま
0
会 うことがで きた。 このウニ も手がけた く、い
5
2
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)氏で、1
9
85
年夏、 ウッズ ・ホールで
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このことを報告 したのがステ ィーブ ンス (
いに終わった。
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y)は、
細胞の膜の流動性 (
ムラサキウニ
アカウニ
1
9
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年代 には方法が確立 され広 く計測 されるよ
うにな って いた。そ の方 法 とは要す るに、ジ
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フェニルヘキサ トリエ ン (
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3
0
35
温度 (
●
C)
DPH)とい う蛍光色素 を膜の リピ ド分子の間に
はさみ こませて、 この色素分子の運動 を蛍光分
5
図7
ウニの肱の細胞の膜流動性と温度との関係
の流動性がある値でほぼ共通 していることがわ
シウムのない人工海水 に移 し、 さらに浸透圧 を
か った。 このことはそれぞれの種 で、 この催以
海水 に等 しくした、つ ま り等張の庶糖 液、 この
下 に膜がやわ らか くなって しまうと正常 に発生
中には、 わずかのカルシウムをもとりのぞ くた
で きな くなることを意味す る。その ようなやわ
めの試薬 EDTAを含 ませ てあるが、この液に肱
らか さに達する温度が種 によって異 なっている
を入れてゆすってや る、つ ま り解離 させ ると、
わけである。
肱 は個 々の細胞 にバ ラバ ラになる。 この ように
ただこれにも例外があった。エ ゾバ フンウニ
した肝細胞、単離粧細胞 は再 び天然の海水 にも
肱では膜が適温温度城内では、 これ まで調べ た
どす と、再 び互いに接着 しあい、 さらにはもと
他の ウニに比べてはるかに固いのである。 タコ
の肱の ような形 にな り、 プルテウス幼生 もどき
ノマ クラ肱 もエ ゾバ フンウニ肱 ほ どではないが、
の ようになる (
図 8)0
同様の傾向を示 した。 この意味 はい まだにわか
この実験 こそ私 が ウニの発 生 に手 をつ けた
らない。温度以外 では水圧が膜 の流動性 に影響
きっかけ となった。ただ成果 は学会発表 とマイ
ナーな邦文誌 にM
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&せ た
す ると考 えられるが、確証 はない。
それはともか く、 ウニ肱 の細胞 の膜の流動性
(9・L
9 2
3)
までで、正規の
論文にまでは仕上げ られ なか ったが。
と雌 の温度感受性 との間に きれいな相 関関係 を
この実験 を している過程で、肱 を解離 させ る
兄いだせたので、次はこの膜 の流動性 と膜の脂
ことを定量化す ること、つ ま り解離率 を割 り出
質成分 との対応 を調べてみることに した。東京
す こと、 また鮮摘tさせた細胞の数 を数 えて、肱
学芸大学の三田雅俊氏が以前、 ウニな どの海産
の細胞数 をわ りだせ ることを思いついた。そ し
動物の リピ ド組成分析 を手がけていて、 この方
てこの方法で、腫発生過程 の細胞接着の強 さや、
法 に精通 しているので、彼 の協力 を得 て 目下 こ
細胞数 を調べ ることを始 めた。
れ を進めているところである。予想 としては、
ウニ肱 は亜鉛 イオンによって胞肱 にはなるが、
膜のやわ らか さは不飽和脂肪酸 の多 さによると
その先が 進 まな くな り、いわゆ る永 久胞肱 に
い うことを再確認す ることになろうが、具体的
なって しまう。外粧葉化 ともいえる. あるいは
にウニではどのような脂肪酸が多 いのか、種の
動物極化膳 ともいわれる。 また リチ ウムイオン
違いによって どの ようにその成分比が違 ってい
があると、腔全体が三部分 にわかれた、 プルテ
るのかはまだ調べ られていない。互いになかな
ウス幼生 の消化器の ようになって しまう(
図 9)。
かおちついて とりかか ることがで きず遅 々とし
これは内膳葉化 ともいえる。あるいは植物極化
て進め られなかったのが残念 だ った。
粧 ともいわれるO この両方の月
別 こついて、細胞
接着の強 さと、細胞数 とを調べてみた。動物極
ウニ肱 の細胞数
化粧では細胞接着が相対 的に弱 く、 また細胞数
は相対的に多かった。対 して植物極化肱では細
雨宮昭南氏は1
9
7
0
年代、 イタリアのジ ョバ ン
胞接着が強 く、 また細胞数は相対的に少なかっ
二 ・ジウデ イツツ ェ (
Gi
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)が調
た(
図1
0
)
。 この成果は短報誌 「
エ クスペ リエ ン
べ た現象、 ウニ肱 を解離 して再凝集 させ るとま
シア (
Expe
n'
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a)
」に発表 した (8)
. まった く
た肱 のようになる現象 に注 目し、 この様子 を走
独 自に書 き上げ一流外 国雑誌 に投稿 した論文で
査電子顕微鏡で丹念 に調べていた。 この実験 を
ある。 この成果 はジウデ イツツェ氏が知 って彼
していて彼 は、 この再凝集過程 には種特異的温
TheSe
at
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I
・
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hJ
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nEmb
J
・
yO」(
1
9
8
6
)
のモノグラフ 「
度依存性があるらしいことに気づいていた。 こ
に引用 して くれた。恥ずか しなが らようや くに
れを検討 して彼の気づいていた ことを確証 した。
ウニの肱 を天然海水か らカル シウム とマ グネ
して これが独 自に行い海外の一流誌 にのせた最
初の論文 だった。
- 405-
タコノマ クラ胞腔全体図 と表面
プルテ ウス様凝集体
図 8 ウニ腔分離細胞の再凝集
Zn処理肱
Li
処理肱
図 9 バ フンウニの亜鉛および リチウム処理腔
-4
0
6-
パフンウニ陸の細胞敢 (
12℃)
勤
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点
餐
繋
1
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受精後の時間 (
h)
図1
0 バ フンウニ腔の細胞数変化
一種頬 の ウニの肱 につ いて 、接 着 の 強 さの変
後 もう二 度 と行 わ なか っ た。 いや行 え なか った。
動 も調べ てみ た。 その ため材 料 の肱 は な るべ く
だが この実験 結 果 か ら、細 胞 数 の変化 が単調
ゆ っ く り発 生 を進 め るのが調 べ や す い。 た だそ
で ない こ と もわか った。 醇 化 まで は 1個 か ら 2
のか わ り徹 夜 を しな くて は な らな い。 これ は き
個 、 4個 、 8個 とい うよ うに分 裂が繰 り返 され
わめ て過酷 だ った。 二 泊三 日間 、 1- 2時 間お
て細 胞 数 が 増 えて い く。 い わば指 数 関数 的 に増
きに雌 を集 め、解 離 させ 、解 離 した割合 を顕微
加 す る。 ところが醇 化 してか ら原腸 陥入 開始 の
鏡 で観 察、数 人が調 べ た結 果 を統 計 処 理 してい
時 まで の 間 は うって変 わ って直線 的 に少 しずつ
か な くて は な らない。 か ろ う じて 食事 に行 くの
増 え るに と どまる。 原J
馴 侶人 が 始 まる と再 び増
と トイ レに行 く以外 の余 裕 の ない実験 で あ る。
加 は高 まる (
図1
0
)
。 この原腸 陥入 前 の細 胞 数増
1
9
8
0年代 中頃 に この実験 を敢 行 、 当時 の卒研 の
加 の割 合 の低 下 は もう一 つ の テーマ にな った。
学生 は この よ うな実 験 を遂 行 で きる根 性 が まだ
細 胞 数 は初 め面 倒 な方 法 、解 離 した細 胞 の一 定
あ った し、私 もまだ元気 が あ った。 この結 果、
体積 中の数 を血 球算 定鹿 で数 え、また肱 の 1ml
ウニ は卯
糾ヒして泳 ぎだ し、 間充織 細 胞 が 陥入 、
中の数 をル ーペ で数 えて、両 者 か ら)
佐一個 あ た
正確 には一層 となっ て い る細 胞 の 一部 が胞 腔 腔
りの細胞 数 を割 り出す とい う方 法 で調 べ て い た。
に落 ち こんで 間充織 細 胞 に な る とい う時期 に、
しか し、 落射 蛍光 顕微 鏡 を入 れ てか ら楽 に な っ
一時 的 に)
]
f全体 の接 着 が 弱 くな る こ とを見つ け
た。細 胞 の核 をD
NAと結 合 す る蛍 光 色 素 で染
出 した. お そ ら くか の陥入 に よって腫細 胞 の位
め、 ス ライ ドグ ラス上 で肱 をつ ぶ して広 げ、紫
置再編 を起 こ したた め だ ろ う。 この 実験 はその
外 線 を当て て核 の部分 を光 らせ 、 写真 に掘 って
- 40
7-
おいて、 この画像 をあ とでプロジェクタでホワ
を抑 えてみる実験 をした。 もし石原仮説が正 し
イ トボー ドに投射 し、サインペ ンで印 をつけな
いな らその結果原腸 はで きないはずである。ア
が ら手で数 えるO こうすると個 々の肱の細胞数
フイデイコリンを効かす タイミングが大切だが、
をより正確 に数え上げることがで きる。 この方
とにか く細胞数が増加で きな くなって も原腸 は
法でよ り正確 に豚の細胞数変化 を追えることが
できることがわかった。石原仮説 は否定 された。
で きた。 もちろん結果はほ とん ど同様 だった。
だが この仮説 は有益 な作業仮説だった。
解離方法 よ りずつ と楽 になったので、い くつか
惜 しいことにこの成果は、当時 アメ リカの若
の種の肱、あるいは温度条件 を変えた場合の肱
いウニ発生学者、 ウィスコンシン大の ジェフ ・
で も調べ上げた。細胞数増加のパ ター ンは変わ
ハ-デ イン (
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山n
)に してや られた。鼻
りなかったo どれ も卿糾ヒしてか ら原腸肱 に入 る
De
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先をかすめられて発生学の雑誌 「
までの期 間、つ ま り遊泳胞雌の期間は細胞数の
9
8
5
年に
Bi
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g
y」に先 に報告 されて しまった。1
増加は一時的になだ らかな直線のようになる。
ウッズ ・ホールで開かれたウニの シンポジウム
に、細胞数の変化 についてポス ター発表 したが、
ア フ イデ ィコ リン、アポ トー シス
これが彼 によい ヒン トを与 えて しまったに違 い
ない と推測 している。惜 しいことを して しまっ
アフイデ イコリンという抗生物質は、広島大
た と、いまだ悔やみ きれない。
学の池上晋氏が東大農学部にお られた時に兄い
アフイデ イコリンを使 う実験か らまた私 には
だ した、 きわめて有用な阻害剤である。彼 とは
思いがけない現象が見つかった。 アフイデ イコ
三崎の臨界実験所や ら学会で よく会 った。真核
リンを効かせ た肱 では細胞数の増加が停止す る
生物 にあ るDNA複製酵素 、DNAポ リメラーゼ
ばか りかむ しろ減ったのである。 しか も減 るの
Ⅱだけを特異的に阻害す る。 この酵素 をウニ肱
は決 まった時期 に限 られるようだった。 だか ら
に効かせ るとDNA合成がお さえられ、しいては
アーテ ィファク トではない。つ ま りこの薬の副
細胞数が増加で きな くなる。 この阻害剤 を使 っ
作用 とい うものではない。当初は実験が うまく
てウニ肱の原腸形成が どうなるか調べてみた.
なかったのでは とも思 ったが、再現 されるので
その動機 は理学部の石原勝敏氏の仮説 を確かめ
もともと減 る よ うになっていた こ とに違 い な
るためだった。彼 は膝の細胞数の増加が圧力に
かった。そ うくればアポ トーシス (
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p
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s
)
、
なって中に陥入 して原腸がで きるのだろうと考
つ ま りプログラム細胞死が起 こっていることに
えていた。彼は原腸形成に関心 をよせていて、
なる。即 これが遊泳胞腔期の細胞数の増加が な
胞朕腰 の中にある液 を濃縮 して他 の肱の外側か
だ らかになる原因か と思い至 る。
ら与 える と、原腸が陥入す るのではな く、外に
幸い、老人総合研究所 にいる知人、新海正氏
出べその ように突 き出す現象 (
図 12)(24)を追求
が、 アポ トー シスを直接 目で見てわかるように
していた。そのいきさつか ら原腸が ともか く中
す る技術 に熟達 していた。 しか も温厚、親切 な
であれ外であれで きるのは、一層の細胞層で細
ので私 には うってつけだった。彼 の もとに卒研
胞が増 えるのが じかの原因になっているのだろ
の学生 ともども、 ウニ肱 を固定 して持参 し、ア
うと考 えていた。原腸ので きる位置が植物極 に
ポ トーシスの検 出を して もらった。死 んだ細胞
決 まっている。それ も動物極側で細胞数がずっ
だけを褐色 に識別 させ る方法である(
図13)。そ
と増加す るか らと見ていた。その ことは、動物
してこのアポ トー シスを起 こ した細胞の数 を数
極化粧が植物極化粧 よ り細胞数がず っと多いと
えてみると、果た して遊泳胞肱の時期 に特 に多
いう、私か兄いだ した結果 (
図11) か ら推察 し
いことがわかった(
図1
3)
。いかんせん正椎 にそ
ていた。そこでアフイデ イコリンで細胞数増加
の数 を数 えるのは難 しい。 しか し明 らかにその
-4
0
8-
バフンウニ肱の細胞敦 ;亜鉛およびリチウムの影響 (
1
2
℃)
0
5
10
15
20
25
30
35
40
45
愛称後の時間 (
h)
図 11 バ フ ンウニ腔 の細胞数変化 :亜鉛 および リチ ウムの影響
図1
2 ムラサキ ウニの外 原腸 歴
(
e
xo
ga
s
t
r
u
l
a
)
図1
3 アポ トーシス を起 こ した細胞 :濃 く染 まっている
部分。バ フンウニ胞腔
-4
0
9-
顛 e襲 男 ;
j」〓磁
軸Y<・
IエQ*ト
0
∩
)
L
l
l
0
5
10
15
20
25
30
35
受精後の時間 (
h)
図1
4 バ フンウニ肱の細胞数の変化 とアポ トーシス
傾 向は見 ることがで きた。定性的には明確であ
る。 ウニ肢 は遊泳胞腔の時期 に盛んにアポ トー
シスを起 こ し、その後で原腸陥入 とい う形態形
成 に入ってい く (
図1
4)0
どの ような細胞が死なな くてはな らないのか
はわか らない。立正大学の溝 口元氏 と神奈川大
学の 日野昌也氏がやは りこの現象 に取 り組んで
いる。私 の印象ではその ような細胞の位置が特
定 されていない ように見 える。いずれにせ よこ
の実験 ももう少 し続けて確かめ、遊泳胞肱の細
胞分裂 とアポ 1
、一シス とをはっきりさせてお き
た い。 ちなみ にアポ トー シス はそ もそ も線 虫
図1
5 タコノマクラ腔の1
6細胞期の肱 :
下側に小 さい 4
Ca
e
no
/
a
b
dJ
'
t
J
se
l
e
b
O
・
a
nSの発生過程 を追求 して見
個の小割球 が見える。
いだされた現象である。 これは発生のみな らず
た とえば痛 の理解 に もきわめ て重要 な概念 と
なっている。 この小 さな動物 は成体 で細胞数が
小割球
わずか9
5
9
個。そ して丹念 な研究で細胞系譜が完
壁 に調べ尽 くされている。 このいわば線虫学 を
ウニ腔は、 プルテウス幼生をつ くる発生 を行
Sydne
y
つ くりあげた シ ドニー ・ブ レンナ - (
うものでは第 4卵割の ときに植物極側先端 に 4
Br
enne
r
)の執念にはつ くづ く敬服す る。
欄の小割球がで きる(
図15)。い きな り植物極側
の 4個の割球が不等分裂 して きわめて小 さな割
- 41
0-
球 をつ くるこ とが昔 か ら注 目されていたが 、
は確かめることがで きた (
図1
6)。 さらに彼 はこ
この部分 につ い て初 めて実験 を試 み て意義 を
の左側 の 5個の細胞が将来変態する ときに 5放
兄 い だ した の はヘ ル シュ タデ イ ウス (
Sven
射相称 の成体の原基 になるのだろうと推察 して
Ho
r
s
t
adi
L
I
S
) であ ると言 えよう。大割球 を除い
いた。 プルテ ウス幼生の左側か ら成体のウニの
てこの部分だけ残 しておいて も正常発生で きる
まず口器部分がで きて くる。 これは当然なが ら
ことを、彼 は明 らかに した。 この結果は、非常
5放射相称だが、そ もそ もその ような相称性が
に小 さいなが らもこの部分 には正常発生す るの
生 じるのはこの 5個の細胞 に由来す るのではな
に必要 な成分があることを示 している。友人の
かろうか とい うわけである。 これを証明す るこ
雨宮氏 は この小 割球 の役 割 を探 ろ うと、ヘ ル
とはまだ成功 していない。 この 5個の細胞だけ
シュタデ イウス以上の器用 さを発揮 していろい
をうま く除去あるいは死 なせて しまうと成体が
ろなウニで追求 した。その彼 の研究の一環 とし
で きないことを実験であかせればよいのだが、
て、 この部分だけをうま く染色 して追跡す るこ
う まい 手 段 が な い。彼 はBr
dUを と りこん だ
とを私は試みた。小割球 はさ らに もう一度分裂
DNAはあ る波長 の紫外線 にそ うで ない もの よ
してか ら、原腸 膳 の 中頃 まで細 胞 分裂 を一旦
り破壊 されやすいことに注 目し、蛍光分光光度
や め る。 この と きに小 割 球 は さ らに小小 割 球
計で試すアイデアを提案 した。巧妙 なアイデア
と大小 割球 とに分 かれ る。 そ こで この分裂 の
だが これには誰 もあ ま り執念 を抱かなかった。
時 期 を見計 らって、プ ロモデ オキ シウ リジ ン
単 にプルテウス幼生 を変態 にまでこ ぎつけさせ
(
br
omode
o
xyur
i
di
I
l
e
:
Br
dU) をDNAに取 り込
るの さえそ う簡単ではな く、い くらか名人芸が
ませ、この ようなDNAを識別す る蛍光抗体 を結
必要だった。 とて も片手間ではで きる実験では
合 させてこの細胞 を識別 してみ る方法 を使 って
なかった。
雨宮氏 は もっぱ らガラス針でわずか0
.
1
1
mmは
みた。雨宮氏 はこの小′
ト割球が、原腸の先で も
う一回分裂 して 8佃 にな り、左右両側 に原腸 か
どの径の ウニ肱 にある小小割球 をと りのぞ く手
ら体腔がで きる際に、左側 に 5個、右側 に 3個
作業で実験 を遂行 して きたが、あ ま り明確 な結
で きることを確 かめ ようとしていた。 これを私
果は得 られず じまいになって しまった。そ うこ
図1
6 小小割球のプリズム腔における位置:
右図、原腸の先の部分で左側に 5個、右側に 3個と別れているo左図、
レーザー共焦点罫
頁
微鏡による拡大図0
- 411-
うす る う ち に、デ ュ ー ク大 学 の マ ック レイ
活 させて再検討 しようとい う、現今の 日本の生
(
Davi
dMc
Cl
a
y)が、両生類膝 で一気 に解明が
物学教室では忘れ られかけている内容だった。
進んだ胚発生 にかかわる遺伝子の知見 をいち早
手前味噌だが この ような本 こそ翻訳す る甲斐が
くウニの発 生研 究 に導 入 して、小割球 にベー
あろうというものである。原著は読みづ らい。
タ ・カテニ ンが局所的に残存蓄積することを兄
それに今はや りの生物学ではな じみのない用語
い だ した。小 割球 が両生類膳 にお け るニ ュー
がふんだんに出て くる。それに比べれば分子生
コープ ・セ ンターの役割、つ ま り最初 に誘導 を
物学のテキス トなど翻訳す る必要 などないだろ
行 う細胞の役割 を担 うことをあばいたわけであ
う。 この翻訳本 「脊椎動物の起源」 はあま りに
る。 これ をきっかけに してウニ肱の小割球 につ
専門的す ぎて さすがに売れる本ではなかったが、
いて、発生 にかかわる遺伝子か ら解析が進め ら
培風館 は儲 けを度外視 して よ く出 して くれた。
れるようになった。雨宮氏か らそそのか されて
これには大変 に感心 した。幸 い臨海実験所 関係 、
私がわずかに とりかかったことは、 もはや古典
あるいは動物系統 に関心 をもつ研究者たちには
的にな り、形 に残 る成果は得 られなかったが、
知 られ、似たような形式の本や、触発 された と
まった く別の意味で、動物の系統進化 に関 して
思われる総説 な どが書かれて、今 に してこの労
非常 に重要 な考えをもつ きっかけを得 た。
は報 われたと喜 んでいる。
それは、 ウニなどの漸皮動物が、原 口が肛門
になるとい うばか りでな く、体制が祖先の本来
結 語
の体制か ら見て左側が発達 して新 たな相称性 を
共通 につ くりだ しているとい うことである。そ
本稿で主に大学院生の頃か ら今 に至 るまでの
してその ことが脊椎動物の祖先 とされているホ
研究 についてだけを番 き連ねてきた。その うち
ヤやナメクジウオで も共通 しているとい うこと
のい くつかを欧文誌 に発表 してきたが、学会発
である。 この ようなことを重視 した研 究が イギ
表 どま りの もの、あるいは卒業研究発表 どま り
6年 にサ
リス人研 究者 によって主に進め られ、9
にとどまった ものが多かった。 これ らはいずれ
ンフラ ンシス コで開かれた国際株皮動物学会で
も仕上げるまでに至 らなかったわけで、今思 う
そのことをつぶ さに見聞 した。 この ことに刺激
と惜 しくてな らない。今 ひとつふんばってや り
され90年 代 中 頃 に書 か れ た ヘ ン リー ・ジー
遂げることがで きなかった私の脆弱 なたちゆえ
(
He
nr
yGe
e)の本 を手に して即刻翻訳 に着手
した。当初雨宮氏 と共同で訳そ うともちかけた
の後悔点である。
が途中で頓挫、結局私一人で手がけざるを得 な
零細 な施設規模 でや りうる分野である。それは
かった。 まともな英語でな く、た とえが 日本人
それで私の ような立場 の者 にとっては好都合 な
ウニの発生 とい うような研究対象 は、個人で
にはな じみのないのが多 く、 え らく厄介だった
のだが、 ともす るとのんび りして しまい、情報
が とにか く電子メールで著者 に盛んに問いただ
が とだえがちにな り、非常 に活発 に研究 を進め
脊
して ようや く4年 もかけて完了 した。この本「
るアメリカの ような国の研究者 に遅れ をとって
の内容は、古い動物学、今や
しまう。 日本人 はその点でハ ンデ ィを背負 って
忘れかけている懐か しい動物学 を再 びほ りおこ
いる。個人の努力でそれは克服すべ きことなの
して くれていた。 とりわけわれわれの仲 間、脊
ではあろう。現 に生物学分野で見事 に成果 をあ
椎動物が、妹皮動物、 さらにそれ らの共通の祖
げて こられた 日本人は少 な くはない。その よう
先 に当たると思われる半索動物 との関連 を新 た
な人が同僚 に少 なか らずいたことが大変 な励 み
に古生物学 と遺伝子解析 とか ら、古 くて まさに
になった。
椎動物 の起源」
(5)
なおこのような研究 は卒業研究の学生 ととも
伝統的な動物学のにおいがす る分野 を改めて復
-
412 -
に一緒 に実験 して きて初 めてで きた こ とで は
機会が昔 と違い、今 は格段 に多 くなった。個 々
あった。先頃亡 くなった江橋節郎先生 は、筋 肉
人が得 た り体験で きる範囲はご く限 られるが、
の収縮制御 に関 して基本的なことを独 自に明 ら
その限 られた範 囲で、一つ の分野で も知の体系
かに してきた人で、 ノーベル賞 を受賞 して しか
と研究の体験 を大学で得 られれば、大学 に来た
るべ き成果を上げた ことで有名 だった。彼 は も
甲斐があろ うとい うものである。それ らは、大
ちろん東大 医学 部 にいて多 くのお弟子 さん を
学 を卒業 して社会 に出てす ぐじかに役 だつ こと
持ったが、彼の得た成果 は文字通 り彼 自身実験
はないであろう。 しか しそれは社会 を根本か ら
を行 った といわれる。東大紛争時 には実験道具
理解す る上 で不可欠な教養 となろう。その意味
を自宅 に運んで実験 を続 けた逸話 も聞いたこと
で大学 とい うのは予備校や教習所 とは異 なる。
がある。 こういう点で私は学生 と一緒でない と
あ くまで基本的な教養 を見 につ け、研究の体験
実験 しないのが習い性 になって しまい、 これが
をす るのが大学の使命であ ると考 えている。役
弱点 になった と反省 している。 5人兄弟姉妹の
所文化が強いせいで、 この ような本来の意義は
家族で育 ち、大勢 いる中で初めて一 人になる楽
ともす るとどこへや ら、受験 に始 ま り、やた ら
しさを覚 えるとい う癖がついて しまったせい も
成果主義 を性急 に求め、経費配分 などでかえっ
あるか もしれない。一人で徹夜敢行 をやる くら
て労力の膨大 な無駄 を生 じさせているのが非常
いの根性 は、研究者 には不可欠。 そ してこの根
に気 になる。今後 5
0
年でノーベル賞3
0な どと最
性 こそ感化すべ きことで、 この点ではなはだ も
高位の大 臣がのたまうくらいである。予算 もい
のた りない教員だった。せ めて、私の もとに卒
かに獲得す るかではもっ ともらしく形式 を整 え
研 についた学生たちが、 ウニの発生 をきっかけ
るのに最大 の精力 をつ ぎこむが、 とって しまえ
として研究の体験 を通 して、理科 にいっそ う興
ば結果に関 して、事務 的に整 った報告書 だけ。
味 ・関心 を持てるようになったな ら幸 いである。
私のウニの研究や教育では、い くつかの臨海
実験所 の施設 を利用 させていただいたO とりわ
そ もそ も大学進学 に関 して、入学 には最大の関
心 を注 ぐが、入 った後の成果はあ ま り問わない。
欧米では逆 の ようで、入学 に関 して 日本 のよう
け三崎 にある東京大学付属の臨海実験所の施設
に異常 に神経 をす りへ らす ことは していない。
は毎年の ように利用 させていただいた。 この実
私が立ち寄 ったワシン トン大学では、そ この教
験所が比較的近 くにあ り利用 しやすかったこと
授か ら学生 は定員、 これ も大雑把 に 2倍 くらい
が私の研究 ・教育 に決定的に重要であった。そ
とっていた と言 っていた。 ただ し卒業 までには
このス タッフ、東京大学の雨宮昭両氏や、森沢
途中で進路変更、中退、あるいは卒業不可 とな
正昭氏、現在の所長である赤坂 甲拍氏 には大変
り相当数減 って しまう。定員にはあ ま り考慮 さ
にお世話 になって きている。 ウニ肱 の温度感受
れていないか ら、講義 にはまるで ウナギの よう
性 を主 なテーマに していたので、沖縄 にも頻繁
にもぐりこんで、あるいは立 ちん坊で聴 きに く
にでかけた。琉球大学の上原剛氏 には長年 にわ
る。聴講か らして競争、そ して授業 も評価 され
た りナガウニ採集 に便宜 を図っていただいた。
淘汰 される。 日本の社会 は どち らか とい うと形
ここに謝辞 を述べ てお きたい。
式的にそろえることにこだわって、本末転倒 し
ているような気が してな らない。ただこの点は
ところで、大学 は小学校や中学校 の ような基
礎学力 を身につけるだけの場 ではな く、分野 を
自らをふ りかえって大 きな ことは とて も言 えな
いが。
問わずそれぞれの知の体系 を知 ること、そ して
幸 い 日本 も行政のあ り方が根本か ら間われだ
かつ また研究 とい う営みの経験 を得 る場で もあ
し、官僚支配 を脱 し、事前調整重視か ら結果重
ると思 っている。知識 を得 た り体験 した りす る
視へ と社会のあ り方 を変 えてい くよう努力す る
- 41
3-
ようになった。 これは大変 に喜ば しい。 日本的
の鍛錬になった。それ もかな りの知性 の向上 に
な、 きちんと整 ったことを尊ぶ とい う、 目的合
役立ったが、研究 とはかな り質のちが う知性で
理性 よ りも形式美、伝統美の感性がわざわい し
あるに違いない。今 は大学全入時代、人が少な
ていたか もしれない。 この ような官僚の とりし
く学校の方が多 く走貝割れが心配 になる時代 に
きる社会では、模索 を くりか え して成果を得て
変わった。 この ような時、かっての受験勉強の
い くとい う、 まさにそれこそが研究であるが、
ような鍛錬 は もはやあ ま り必要 はな くなった と
その ような営みが前提 となってこない。去年、
いえよう。 しか し基礎学力は状況はどうあれ不
お ととしと同 じ田植えの ような作業、あるいは
可欠である.低学年の うちに基本的な知識 は一
開墾 の ような仕事 を毎年そそ うな くきちん と続
通 り教 えておかなければならない。それに理系
けるとい うような営み、 まさに伝統主義的な営
(
理科の教員 も含めて) に進むか らには、高等
み しか思い浮かんでこない。研究 さえこの よう
学校 か ら大学の前半 までの期間で 自然科学全般、
な営み と見て しまうか ら、毎年決 まって何報 な
数学 も含 めて物理か ら化学、生物学、地学 まで
どとい うことになる。だか らノーベル賞で さえ
を学ぶ機会 を得 るようにしたい。 日本で これ ま
3
0などという目標 になって しまうのだろう。 も
で、理系 に進 んだ学生 に対 してこのような配慮
ちろんそのような研究 もあろうが、そのような
はほ とん どなされて きていない。私 自身 も学部
研究は どちらか といえば単純作業的、牛馬的、
の学生の頃は、つ とめて一般教育科 目をとる他
しらみつぶ し的、開墾的な性質の ものに違いな
に、なるべ く自然科学 に属す る講義は広 く聴 く
い。それ も大いに必要、それか らも発見は生 ま
ようにつ とめたが、今思 うに十分だった とはと
れて こようが、ただ何報 な どとい う叱嶋激励 は
て も言 えない。いわんや教室 の推奨す る カ リ
これ またあま りにネガテ ィブな発想 に思えてな
キュラムにのっ とっていたな ら、ただ動物学だ
らない。
け、それ も古典的な分野の狭 い専 門にのめ りこ
この点に関 してはたまたま目に した、経済学
んで しまっただろう。 自然科学全般 にわたる教
者ハイエ クの書は改めて、ア ングロサ クソン社
養 をもっ ことの必要性 を、今 に して痛切 に感 じ
会理念の したたか さを再認識 させて くれた。そ
る。その範囲は膨大で、生涯興味 をもって学 ん
れが生物学の基礎的な見方、考え方であるダー
でい くことも教養 を身につけてい くや り方だろ
ウィン進化論 と相通 じる発想であることで関心
うが、で きるだけ早い うち、高校生の頃 くらい
をいっそ う強めさせて くれた(
2
9
)
。あいに く私が
に経験 してお くとはるかに有益であろう。そ し
体験 した研究 には直接 むす びつ くような話では
て大学教育 は格段 に充実 した ものになるであろ
なか ったが、生物学の素養 として十分 にわ きま
う。 この意味では、 まず小 さな大学の理学部に
えておか な くてはならない理論ではある。学部
つ とめ、次に教育学部理科教育講座 に属 して、
の卒業研 究で、 カエルの眼球 を使 って視覚の電
これ らの点 を補完 して くれ る よい巡 り合 わせ
気生理の実験 を行 っていた頃、ある先輩がふ と
だった。大学院では動物学、それ も講座 の中の
語 って くれた ことを思 い出す。「
生物学 は究極
研究分野 に集中 したが、理学部では生物学全般、
的には進化論 にい きつ く」。 当時 は単 に言葉 だ
いや物理学や化学 にもな じみにな り、 さらに教
けで しかなかったが、今 に して思 えばけだ し名
育学部に籍 を置いてか らは文系 の分野 にも無縁
言だった と感心 している。
ではな くな り、かつ教育現場 にも触れ られるよ
ところで、戦後の団塊の世代の人たちは、希
うにな り、様 々な分野の人 と接す ることがで き
望の大学や会社、官庁 に入 るのに人が多 くて、
たことか ら、門前の小僧ではないが、深 く感化
入学や採用試験 に並々な らぬ競争 を余儀な くさ
を受けて きたように思 える。 これは単 に教養書
れた。そのための受験勉強が貴重 な時期の知性
を読んで得 られるようなことではない。全 くの
- 41
4-
偶然の巡 り合わせのおかげである。お よそ他人
うに楽 しく行 って きた。その ようなことが可能
と共有で きるす じあいの ことでは全 くな く、 自
だったの もひとえに、多 くの先達、同僚諸氏や、
分独 自の境遇の幸運で しかない。 ただそ う思 う
卒業研 究 に私 の もとで研 究 を体」
験 す るこ とに
と何 か寂 しい気 もす る。せめてその巡 り合 わせ
なった学生諸氏、 また事務職員の方々のご協力、
に よる幸運 を形 に残 してお くことが余生のつ と
ご支援の賜である。数 えていただいた ことは数
めか と思っている。
知れない。 と りわけ生物学教室でずっ と一緒に
していた だいた林正美 氏 には大変 にお世話 に
なった。 もともと昆虫は大好 きだったが、彼の
謝辞
隣にいたおかげで本格 的な昆虫学の研 究 を随時
大学 を卒業 して これ まで大学の中で3
6
年間を
垣 間見せ て もらえた恩恵 は絶大 だった。 ここに
過 ご して きたが、その うち、埼玉大学教育学部
感謝の言葉 を述べてお きたい。 さらに また、こ
で過 ごした期間は27年余 になる。 その間研究 は
の雑文 を紀要にのせ る機会 を与 えて下 さったこ
自由な気風の中にあって勝手気 まま、好 きなよ
とに深 く感謝す る次第である。
ー 415-
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