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南海トラフ巨大地震 - 東京大学地震研究所

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南海トラフ巨大地震 - 東京大学地震研究所
南海トラフ巨大地震
‐その破壊の様態とシリーズについての新たな考え‐
東京大学地震研究所1
瀬野徹三
Great Earthquakes along the Nankai Trough -A New Idea for Their Rupture
Mode and Time SeriesTetsuzo SENO
Earthquake Research Institute, University of Tokyo, Bunkyo-ku, Tokyo 113-0032, Japan
(2010 年 9 月 8 日「地震」投稿,2011 年 7 月 15 日受理)
Abstract
Great earthquakes have historically occurred along the Nankai Trough. It has been said that they ruptured part
or whole of characteristic fault planes A, B, C, D, and E repeatedly. However, there are a number of enigmas for
their occurrence. Major ones are as follows. The 1944 Showa-Tonankai earthquake occurred only 90 years after
the 1854 Ansei earthquakes. The 90-year period seems short compared with other time intervals of the historical
earthquakes. The Tonankai earthquake did not rupture fault plane E west of the Suruga Trough, by some
unknown reasons. The Tokai earthquake anticipated at fault plane E has not occurred yet since the Ansei-Tokai
event even if a slow slip event occurred recently near the downdip end of its rupture zone. In this study, I propose
a model to solve these enigmas. I characterize a fault plane of a great earthquake into a seismic-b.eq, a
tsunami-b.eq, and a geodetic-b.eq, in which seismic waves, tsunamis, and crustal deformations are dominantly
generated, respectively. I compare these different bands of rupture zones between the 1944 Showa-Tonankai and
1854 Ansei-Tokai earthquakes, the 1946 Showa-Nankai and 1854 Ansei-Nankai earthquakes, and the 1707 Hoei
and other earthquakes, using seismic intensity data and previous studies on asperities, tsunamis, and crustal
deformations. It is found that the Ansei-Tokai and Showa-Tonankai earthquakes scarcely shared their
seismic-b.eqs. The tsunami- and geodetic-b.eqs of the Ansei-Tokai earthquake extended to the west of its
seismic-b.eq, and was shared by, but did not cover the seismic-, tsunami- and geodetic-b.eqs of the
Showa-Tonankai earthquake. It cannot thus be said that the Ansei-Tokai earthquake ruptured fault planes C+D+E
1
or that fault plane E was left unbroken after the Showa-Tonankai earthquake. The occurrence of these two
earthquakes is rather complementary from a viewpoint of the seismic-b.eq. The seismic-b.eq of the Ansei-Nankai
earthquake also seems to have been different from and was located further north than that of the Showa-Nankai
earthquake. On the other hand, the Hoei earthquake had a seismic-b.eq similar to those of the Showa earthquakes.
I group historical great earthquakes into the Ansei-type or the Hoei-type, which has a seismic-b.eq similar to
either of the Ansei or Hoei earthquake. It is likely that the Ansei-type earthquakes are the 684 Hakuho, 1096
Eicho-1099 Kowa, 1498 Meio, and 1854 Ansei earthquakes and recurred with a ~400-year period, and that the
Hoei-type earthquakes are the 887 Ninna, 1361 Shohei, 1707 Hoei, and 1944 Tonankai-1946 Nankai earthquakes
and recurred with a ~350-year period. Since the Showa-Tonankai earthquake was complementary to the
Ansei-Tokai earthquake, the 90-year period between the two events is not a recurrence time and it is natural that
the Showa-Tonankai did not rupture fault plane E. It is also natural that the next Tokai earthquake did not occur
even if the slow slip event occurred at its downdip end, because it is expected to occur at least ~200 years after
present, because the earthquake precedent the Ansei-Tokai event would be the 1498 Meio earthquake.
Key words: Nankai Trough, Great earthquake, Seismic intensity, Tsunami, Characteristic fault plane
1.
はじめに−解決されていない疑問−
M8 クラスの南海トラフ巨大地震の発生については,大森(1913),Imamura(1930)など日本の地震学初
期に活躍した学者による古典的仕事から始まって,Mogi (1970), Kanamori (1972),Utsu (1974), 宇
佐美(2003)など現代の地震学者の仕事に引き継がれてきた.南海トラフ全体にわたる震源断層面の破壊
の様態については,Ando (1975b)による 1944 年東南海・1946 年南海地震の断層運動としての解釈と,
断層面 A, B, C, D(Fig.1)へのそれ以前の歴史地震の割り振り,Ishibashi (1981)による駿河湾から西
に傾き下がる断層面 E の導入と 1854 年安政東海地震の解釈,石橋・佐竹(1998)による歴史地震の断層
面への割り振りの改訂(Fig.1,太実線と点線),などが比較的最近の主な仕事であり,多くの地震学者
はこれらの仕事に準拠してきたと思われる[例えば,Utsu (1977), Mogi (1981)].これらは,地震は剪
断破壊による断層面の生成であるという現代地震学が確立した考えと,南海トラフ巨大地震は,沈み込
み帯スラストにおけるプレート同士の弾性反撥であるというプレートテクトニクス的解釈にもとづい
て, 固有地震断層面 A, B, C, D, E の全部または一部が巨大地震として破壊を繰り返す
という通説
として受け入れられている.
この考えでは,1707 年宝永地震あるいは 1854 年安政南海・東海地震によって断層面 A+B+C+D が破壊
され,1946 年南海地震・1944 年東南海地震によって A+B+C が破壊されたが D が未破壊で残った[Mogi
(1970), Ando (1975a, b)],あるいは宝永地震や安政南海・東海地震によって A+B+C+D+E が破壊され,
南海地震・東南海地震によって A+B+C+D が破壊されたが E(正確には D の東部分も含む)が未破壊で残っ
2
た[Ishibashi (1981)]とされている.しかし,これが指摘されて以来地震は起こらずおよそ 30 年が経
ち,つまりは安政東海地震から約 160 年経ったことになる.これは,一般に言われている過去数百年間
の南海トラフ巨大地震の繰り返し間隔 100
150 年[平均 122 年,Utsu (1977), 石橋・佐竹 (1998)]を
も超えることになった.
石橋・佐竹(1998)も指摘しているように,上に述べた巨大歴史地震の発生や断層面への割り振りに関
する考えには,いくつかの重要で,かつ理解できない疑問が残る.大きなものとして以下のものが挙げ
られる.以下では簡単のために,安政東海地震と安政南海地震を合わせたものを安政地震,また昭和東
南海地震と昭和南海地震を合わせたものを昭和地震と略称する.
(1) 昭和地震が安政地震からわずか 90 年後に起こったのはなぜなのか?これは,最近の南海トラフ
巨大地震が 100
150 年で繰り返すと言われることから不思議でないようにも思えるが,1605 年慶長地
震はいわゆる津波地震であって[石橋(1983)],プレート境界のまともな脆性剪断破壊ではない可能性が
大きいから,この地震を巨大地震の一つとして含めることはできない.この地震を一連の巨大歴史地震
のシリーズからはずしてしまうと,1361 年正平地震以来安政地震までの繰り返し間隔は 137, 209, 147
年となり(Fig.1),上の 90 年はいかにも短いという印象を与える.それ以前 684 年白鳳地震から正平地
震までの繰り返し間隔はさらに長く,203, 209, 262 年であり(Fig.1),90 年の倍以上となる.
石橋・佐竹(1998)は,正平地震以前の古い歴史地震が 200 年以上の繰り返し周期を与えるのは歴史史
料の欠落で,最近の地震考古学の発展によって見かけのものであることが示されつつあるとしている.
石橋・佐竹(1998)の Fig.3 には,地震考古学の資料[寒川(1997)]が,887 年仁和地震と 1099 年康和地
震の間に 1 点,1099 年康和地震と正平地震の間に 2 点記入されている.Fig.1 には石橋・佐竹(1998)
が用いた寒川(1997)でなく,より新しい寒川(2007)のデータを載せている(縦の棒線,長さは資料の年
代の推定範囲を示す).この場合,資料があるのは,康和地震と正平地震の間 2 点,1096 年永長地震と
正平地震の間 1 点で,南海地震と東海地震ペアで一つと数えると,地震考古学の観点から巨大地震とし
て追加の可能性のある地震は現在のところ一つだけとなる.さらに,もしそのような地震が仮に存在し
ていたとしても,康和・永長地震と正平地震の間隔は 262
265 年なので,90 年が特別短いことに変わ
りはない.歴史記録の欠落から,実際に発生した巨大地震が史料上に残されていない可能性に注意を払
う必要はあるが[小山 (1999)],他の地震と同規模の巨大地震が正平地震以前にも 100 年程度の間隔で
繰り返していたならば,それらに対して全く歴史史料が残されていないのは不思議である.
さらに付け加えるならば,90 年の間隔は time predictable model [Shimazaki and Nakata (1980)]
の立場に立つと不自然である.もし time predictable model が正しいならば,昭和地震は安政地震よ
りも小さいことは明らかなので,昭和地震の次の地震は,この地震の後 90 年よりもさらに短い期間で
起こることになる.これが今世紀前半には南海トラフ巨大地震が起こるとされている理由であると思わ
れるが,90 年より短い間隔は,上で考察したような歴史地震の繰り返し間隔からみてあまりにも短す
ぎる.後に触れるように Kumagai (1996)は,
南海巨大地震の全シリーズに対して time predictable model
3
があてはまるとしているが,宝永地震 M8.4,安政南海地震 M8.4 というマグニチュードの値[Kawasumi
(1951),宇佐美(2003)]を採用しているので,宝永-安政の間隔 147 年,安政-昭和の間隔 90 年の違い
を説明するモデルではない.一方 slip predictable model の立場に立つとしても,147 年が 90 年の約
1.5 倍になっているので,安政南海地震の M8.4,昭和南海地震 M8.0 というマグニチュード[宇佐美
(2003)]から計算される地震モーメントの差 4 倍と調和しない.
(2) 安政東海地震が駿河湾奥までプレート境界を破壊したにもかかわらず,昭和東南海地震が破壊し
なかったのはなぜなのか?
これに関しては,青木(1977)は,安政地震時には C(+D の一部)の歪みは解放されておらず,昭和東南
海地震は安政地震の空白域を埋めるように起こった,また天竜海底谷が構造的境界をなしていたため,
と考えた.前者は東南海地震時の地殻水平変動パターンから推察されているが,単に断層面 C が弾性反
撥したとしても説明できる.
1891 年濃尾地震の断層運動が東海地震断層領域を unloading し,一方東南海地震断層領域を loading
したために,東海地震の発生を遅らせたという説[Mogi (1981), Pollitz and Sacks (1995)]がある.
これに対しては,Pollitz and Sacks (1995)が計算した濃尾地震時の応力変化は,この地震の断層運動
に対して仮定された大きなスラストによっており,現実的なものとは思われないという石橋・佐竹
(1998)の指摘がある.
また,銭州海嶺-伊豆地塊がフィリピン海プレートから独立したブロックをなし,本州に対する相対
速度が 2 cm/yr と小さいため[例えば Mazzotti et al. (2001)],発生が遅れたとする説がある[松村
(2009)参照].このようなブロックを導入した GPS データの解析結果には 1 cm/yr 程度の誤差があるこ
とに加えて,GPS によって求められた地表での地殻の動きが,地下深部までつながったリソスフェアと
しての運動を表すとは限らないことにも注意すべきである.プレート上部がそれより下とデカップルし
て,フィリピン海プレート本体とは別の運動を行っているかもしれない.さらにこのブロックの仮定で
問題なのは,その東の境界の伊豆大島と伊豆半島の間で,2 cm/yr という大きな相対速度の左横ずれ運
動が生じることである.このような相対運動を表すテクトニックな兆候は,この地域では見つかってい
ない.
最近 Hori (2006)は,プレート収束速度の変化に加えて,プレート形状や構造の不均質性を考慮して
速度状態依存摩擦則におけるパラメーターを与えると,断層面 E が破壊したりしなかったりすることを
示した.これは地震による断層破壊にともなってプレート境界深部で応力分布に不均質が起こるせいだ
とされている.これは,なぜ E の破壊が起こらなかったのかという疑問にまともに答えていると言える
が,駿河湾から東海にかけて上述のような小さな収束速度が与えられていること,摩擦パラメーターの
与え方に恣意性があることに加えて,6 サイクルごとに同じ結果を与えてしまうことなど,未だ問題が
残されている.
このように,この疑問に対しては,構造的なブロックの存在,応力の相互作用,相対運動の違いから
4
始まって,最近では,より巧妙な速度状態依存摩擦則による説明が与えられているものの,釈然としな
いものが残る.本総合報告では,より単純で明解な答えを与えることを試みる.
(3) ゆっくりすべり(スロースリップイベント)が浜名湖付近の地下のプレート境界で 2001 年ころか
ら始まり,最近終わったと言われている[Ozawa et al. (2002), Miyazaki et al. (2006)].このすべ
り領域は,中央防災会議(2001)が予測している東海地震の震源断層領域の下端付近の西側深部に位置す
る.このようなゆっくりすべりは,脆性破壊領域における断層の不安定すべり,すなわち地震を誘発す
るはずであり[Kato and Hirasawa (1999), Shibazaki and Iio (2003)],そのようなプレスリップが将
来の東海地震の予知に対する手がかりを与えることが期待されている.それにもかかわらず,このスロ
ースリップイベントの際には全く東海地震が起こる気配がなかった.スロースリップイベントは計算上
何度か繰り返して後,本震に至る場合もある[Kuroki et al. (2004), 弘瀬・他 (2009)] らしいし,実
際過去数回 10 年程度の周期でスロースリップイベントが繰り返した [例えば木俣 (2001)] と言われ
ているから,過去や今回のスロースリップイベントが東海地震を引き起こさなくてもいいのかもしれな
い.しかし,断層面における応力が限界近くに達し,いつ起こってもおかしくないと言われている東海
地震に対してそのような状況であるのは不思議である.
(4) 石橋・佐竹(1998)が歴史地震を固有断層面 A, B, C, D, E に割り振った表(Fig.1 の原図)は,歴
史史料や寒川(1997)の地震考古学資料の,その時点での集大成というべきものである(その後の改訂[石
橋 (1999, 2000, 2002)]については後に触れる).この表で不思議な点は,すでに(1)で述べたように
1361 年正平地震より過去においては地震の間隔が 200 余年と長いこと,887 年仁和地震と正平地震に対
しては,東海地方以東の断層面 D, E が破壊したことを示す史料を欠くことである(Fig.1).もし正平地
震以降繰り返し間隔が半分近くにまで減ってしまったことが本当ならば奇妙である.プレート境界の剪
断応力の限界値や静止摩擦応力は,時間的なばらつきはあるとは言え,数百年の歴史の中のある時点で,
ある一定の値から別の値に突然変わってしまうとは思えないからである.後者に関しては,仁和地震と
正平地震に対して地震考古学資料がそれぞれ愛知県稲沢市と一宮市にあり,寒川(2007)は東海地震の痕
跡かもしれないと述べている.しかし後述するように,遺跡の位置からは,これらの痕跡は断層面 C の
破壊によるものである可能性があり,断層面 D, E が破壊したことを示す史・資料は依然として欠けて
いる.
2.
モデル
この総合報告では上に述べたような疑問を解決するモデルを提案する.最初にモデルの要点を述べる.
最近の地震学の研究成果は,プレート境界巨大地震の震源断層面は,ある周波数範囲の地震すべりが卓
越する領域に分けることができることを示している.10 秒以下の時定数のすべりが生成する地震波に
含まれる周期 1 秒程度以下の成分は,強震動や被害をもたらす.これより長い数分以下の時定数のすべ
りは津波を励起する.さらに津波も励起しない,より長い時定数のすべりはゆっくりすべりと呼ばれ,
5
地殻変動をもたらし得る.震源領域において,それぞれの現象を励起するすべりが分布する領域を,
seismic-b.eq,tsunami-b.eq, geodetic-b.eq と呼ぶことにしよう.b はバンドの意味である.短周期
地震波を出すすべりは津波と地殻変動をももたらし,津波を起こすすべりは地殻変動をももたらすので,
seismic-b.eq⊆tsunami-b.eq⊆geodetic-b.eq の包含関係がある(Fig.2).二つの地震に対し,これら
各々の領域がすべて一致した場合,同じ地震ということができる.これでは同じ地震は皆無になってし
まうかもしれないので,ここでは周期 10 秒以下の地震波を出す領域すなわち seismic-b.eq がほぼ一致
した場合,同じ地震と見なすことにする.
ここで呼んだ seismic-b.eq はアスペリティ(速度弱化 = 不安定すべり領域,あるいは地震波の解析
で,大きなすべりを持つ領域[Yamanaka and Kikuchi (2004)])とほぼ同義であるが,震度を反映する周
期 1 秒以下の地震波の生成中心は,このアスペリティの縁に位置する傾向がある[武村・神田 (2007)].
ここではアスペリティを seismic-b.eq の領域として用いる.一方 tsunami-b.eq と geodetic-b.eq はゆ
っくりすべりの特徴を持つので,わずかな速度弱化あるいは条件付き安定すべりなどの摩擦則のマージ
ナルな領域に対応すると思われる[松澤 (2009)参照].ここでいう geodetic-b.eq はその定義から,地
震後のポスト・サイスミックなすべり領域[Heki et al. (1997), Kawasaki et al.(2001), 八木・菊地
(2003)]も含む.ポスト・サイスミックなすべりは,アスペリティとは時間空間的に棲み分けることが
はっきりしたが[例えば,八木・菊地(2003)],ここで定義した geodetic-b.eq は seismic-b.eq や
tsunami-b.eq を含むことに注意する(Fig.2).いずれにしても seismic-, tsunami-, geodetic-b.eqs
の各々がデータを用いて推定できることが重要である.
この総合報告では,宝永,安政,昭和地震が seismic-, tsunami-, geodetic-b.eqs それぞれのバンド領域
において どの ように 異なっ ていた かを検 討す る. その結果 ,安 政東海 地震と 昭和東 南海地 震の
seismic-b.eq はほとんど重ならず,相補的であったこと,安政地震が A+B+C+D+E を破壊したが,その
一部 A+B+C+D を昭和地震が破壊したということはできないこと,宝永地震は昭和地震と類似の
seismic-b.eq を持っていたことを示す.また,ある地震の seismic-b.eq や tsunami-b.eq は,別の地震の
tsunami-b.eq や seismic-b.eq として使用され,バンド領域間の時間的遷移が起こっている.これは固有地
震の概念の変革の必要性を意味する.このような観点から 第 1 章で述べた疑問を解決することを試み
る.
3.
震度分布による宝永地震,安政地震,昭和地震の seismic-b.eq の推定
Fig.3 に,宝永地震と安政地震に対する震度 VI 以上の分布[宇佐美 (1983, 2003)],昭和地震の震度
V 以上の分布[気象庁, 宇佐美 (2003)から引用]を示す(赤で塗った領域).昭和地震で示した震度分布
が V 以上と,他の二つの地震よりも小さいのは,この地震が小さいため,V 以上の分布が他の地震の VI
以上の分布と同程度となるからである.神田・他(2004)は,これらの地震の震度分布をデータとしてイ
ンヴァージョンによって短周期波生成領域を求めているが,ここでは震度分布の特徴を比較して,定性
6
的に seismic-b.eq 領域の違いを議論する.
まず宝永地震と安政地震の震度 VI 以上の分布(Fig.3a, b)を比較する.注目すべきは,いくつかの点
で異なった分布パターンが見られることである.宝永地震では四国南岸にそって狭く分布するが,安政
南海地震では瀬戸内海にまで北上する.また紀伊半島では,宝永地震では西岸
南部
東岸にかけて分
布するが,安政南海地震では西岸のみに沿って狭く帯状に分布し,安政東海地震では VI 以上の分布は
ない.
伊勢湾から伊豆半島にかけては両者はよく似ていて,震度 VI 以上の領域は駿河湾奥からその北の地
域にまで伸びている.ここで,宝永地震の seismic-b.eq が駿河湾まで延びていたか否かを知ることは,
東海地震の発生予測にきわめて重要であるのみならず[石橋(1977a, b)],安政地震と宝永地震の
seismic-b.eq が違うか否かを明らかにするためにも重要であるから,震度分布を慎重に検討する必要
がある.石橋(1977b)は,当時得られていた震度,津波,地変のデータを詳細に検討しているが,そこ
で用いられたのは宇佐美(1977)による宝永地震の震度分布であるから,ここでは宇佐美(1983)がそれを
改訂増補した震度分布図(Fig.3b に用いたものと同じもの)を用いて再検討を行う.
Fig.4 は,東海から駿河湾にかけての領域において,これら二つの地震に対して実際に推定された地
点での震度を示したものである[安政地震は Fig.3a と同じく宇佐美(2003)による].どちらも巨大地震
であるから,震度 VI 以上の分布が似てくるのは当然であるが,震度 VI
VII,VII の地点(橙丸と赤丸)
に注目する.安政地震では,これらの震度が東海地方から東に駿河湾西岸,湾奥,西伊豆北部まで連続
する(Fig.4a)のに対して,宝永地震では,東海から御前崎の手前まで続いてきた同震度が,駿河湾西岸
に入って美保まで震度 VI(白丸)に低下し,それより北の駿河湾奥にかけて震度 VII が再び現れる
(Fig.4b).石橋(1977b)は,両地震の震度分布に基本的な差異はないとし,宝永地震の震源域も駿河湾
に入っていた可能性を示唆したが,「やはり東海地方の震害は安政の時の方が宝永の時より全域的に激
しかったように感じられる.もしこれが事実であれば,宝永(東海)地震は安政東海地震に比べて
dislocation がやや小さいとか,
rise time がやや長いということがあったのかもしれない」
[石橋(1977b,
p. 73)]とも述べている.事実は宝永地震の震害は駿河湾西岸で顕著に小さかったのである.
そうすると,もし石橋(1977b)が言うように宝永地震の震源断層が駿河湾にまで延びていたならば,
dislocation や rise time がそこで小さかったり長かったりしたことになるが,それよりも自然な解釈
は,宝永地震の seismic-b.eq が駿河湾にまでは延びていなかったとすることである.石橋(1977b)は,
羽鳥(1977)が宝永地震の津波波源域が駿河湾にまで延びていないと推定した際に用いた美保や清水の
数 m の沈降が,地殻変動を表しているとは限らず,むしろ津波によって砂丘がえぐられたのであろうと
した.しかし宝永地震の震源断層が駿河湾まで延びていなかった場合,期待される地殻変動はほぼ 0 で
あり,延びていた場合は数 m 程度の隆起である[Ishibashi (1981)].観測された清水・美保の地変は,
地殻変動が 0 で,津波で砂丘がさらわれて見かけ上数 m 沈降したことに調和的で,数 m 隆起しながらそ
れを倍以上も上回る見かけ上の沈降を津波によって起こしたとすることは不自然である.さらに石橋
7
(1977b, p.76)は,清水港に注ぎ込む巴川河口周辺の低地帯の地盤がある程度以上沈下したのであれば,
かなり広範囲にわたって 地震後長期間潮が引かなくて困る という現象が起ったはずだが,実際には
そのような事実はなかったらしいことから,「清水・美保地域での地殻変動としての沈下がなければ,
羽鳥(1977)の説は根拠を失うから, 宝永地震の津波波源域は駿河湾内に入っていない
と言うことは
できない」と述べている.しかし羽鳥(1977)の説からは,上に述べたとおり地殻変動としての沈降がな
かったことが期待されるから,巴川付近の沈降がなかったことは羽鳥(1977)の説の根拠を失わせるもの
ではなく,上に述べた清水と美保の見かけ上の数 m の沈降と駿河湾西岸の隆起を示す史料がみつからな
いこと[羽鳥(1977)]は,宝永地震の震源域は駿河湾内に入っていなかったことを強く示唆している.
中西・矢野(2005)は,西伊豆町八幡宮棟札銘文に安政東海地震に対する記載があるが,宝永地震に対
してはないことから,宝永地震時に,西伊豆で地震動および津波による被害がなかったか,あったとし
ても大きくなかったとしている.これも宝永地震の seismic-b.eq が安政地震と異なり,駿河湾に入っ
ていなかったことを示唆している.
相田(1981a)は津波の数値実験から,駿河湾奥まで達している石橋(1976, 1977a)の安政東海地震の断
層モデルがもっともよく東海地方の宝永津波を説明できることを確かめた.しかし相田(1981a)によっ
て下田と内浦の津波波高の比が観測値と合わないとされている断層モデルのうち,石橋による安政東海
地震の北東側の断層面を取り除いた断層面が浜名湖付近までしか伸びていないものや,伊豆半島の南部
にまで断層が延びるものは,駿河湾内の津波は説明できなかったとしても当然で,これは断層面が駿河
湾まで延びていた証拠とはならない.宝永地震の断層面が駿河湾に入っていたことを示すためには,多
様な断層形態に対してより多くの地点における観測値と計算値の比較が必要である.
宝永地震の seismic-b.eq が駿河湾にまで入り込んでいなかったならば,震度 VII が駿河湾奥で再び
現れる原因は,富士川河口付近の沖積低地による震度増幅,翌日の甲斐地方で起こった強い余震[(宇佐
美(2003))]の影響,甲斐に至る地震道による震度増幅,などがその原因として考えられる.以上まとめ
ると,駿河湾西岸での震度と地殻変動,西伊豆の震害の違いから,宝永地震の seismic-b.eq は駿河湾
にまで入り込んでいなかった可能性が大きいこと,四国-瀬戸内と紀伊半島での震度分布の違いから,
安政南海地震の seismic-b.eq は四国下では宝永地震のそれよりも北に位置していたこと,安政東海地
震の seismic-b.eq は熊野灘では顕著には存在してはいなかったこと,などが結論される.
次に宝永地震と昭和地震の震度分布を比較する.宝永地震の震度 VI 以上の分布 (Fig.3b,赤で塗られ
た領域)は,そのうち駿河湾より北および東の部分を,上述したようないくつかの効果で震度が増幅さ
れたためだとして除外すると,全体として昭和地震の震度 V 以上のパターン(Fig.3c)に似ている.昭和
地震では宝永地震のように,強震域が紀伊半島南部全体をカバーし,四国では南岸に沿って狭い範囲に
分布する.また東海地域では,昭和地震の震度 V とそれ以下との境界は御前崎付近に位置し,宝永地
震の震度 VI
VII(橙丸)とそれ以下(白丸)との境界(Fig.4b)に一致する.これらは,宝永地震と昭和地震
の seismic-b.eq がほぼ同じであることを示している.震度から短周期地震波発生域を求めた神田・他
8
(2004)では,安政東海地震に対しては断層面 C で短周期地震波発生域がなく,宝永地震に対してはある
こと,安政南海地震の短周期地震波発生域が昭和南海地震のそれよりも北に偏っていることなど,ここ
での推定とほぼ調和的な結果が得られている.
4.
各バンド領域の推定
前章では,宝永,安政,昭和の地震に対してそれらの seismic-b.eq の違いや類似性を定性的に考察し
た.本章では,現代の地震学の成果にもとづいて,最近の南海トラフ巨大地震である安政地震と昭和地
震が,seismic-,tsunami-,geodetic-b.eqs の各バンド領域においてどのように違っていたかを具体的に考
察する.安政地震に対しては,震度分布データを用いた seismic-b.eq の推定, 津波到達時間・遡上高を
用いた tsunami-b.eq の推定,わずかに残されている地殻変動データを用いた geodetic-b.eq の推定,を使
用する.また昭和地震に対しては,近地あるいは遠地地震波を用いた seismic-b.eq の推定,潮位計記録・
津波到達時間・遡上高を用いた tsunami-b.eq の推定,測量による地殻変動を用いた geodetic-b.eq の推定,
を使用する.宝永地震に対しても津波遡上高と地殻変動から tsunami-b.eq と geodetic-b.eq を議論する.
4.1
昭和東南海地震と安政東海地震
昭和東南海地震に対して推定された seismic-,
tsunami-, geodetic-b.eqs の各領域を Fig.5 に示す.
seismic-b.eq は Ichinose et al. (2003)と山中(2006)それぞれによるもの,
tsunami-b.eq は Tanioka and
Satake (2001b)によるもの, geodetic-b.eq は Sagiya and Thatcher (1999)によるものを用いた.
geodetic-b.eq は昭和南海地震のそれと一体として求まっているので,余震域を参照して区分した.
Ichinose et al.(2003)の seismic-b.eq は,近地・遠地両方の地震波を用いて得られたもので,その最
大すべりのほぼ半値(1 m)以上の領域を示している.山中(2006)のものは,近地強震計記録を用いて得
られたもので,最大すべりの半値(1.5 m)以上の領域である.最大すべりの半値以上を取ることに物理
的な意味があるわけではないが,すべりの大きな領域 = アスペリティとして慣習的に用いられている
値[Yamanaka and Kikuchi (2004)]として採用した.山中(2006)のものは,東に向かって御前崎近くに
まで張り出すのが特徴だが,伊勢湾南東沖に大きなアスペリティがあるという点では Ichinose et al.
(2003)のものと大局的に変わらない.
tsunami-b.eq,geodetic-b.eq はそれぞれ 1 m 以上のすべりがあった領域をプロットしている.
tsunami-b.eq に関しては Kato and Ando (1997)のものがあるが,断層面の北東端に異常に大きなすべ
りが求まっており,採用しなかった.geodetic-b.eq の東端は浜名湖付近で,Inouchi and Sato (1975)
や Ishibashi (1981) の 矩 形 断 層 モ デ ル の 東 端 と 大 差 は な い . 山 中 (2006) の seismic-b.eq は
geodetic-b.eq からさらに南東方向に数 10 km 張り出しているので,包含関係(Fig. 2)と矛盾してい
るが,この程度の差は seismic-b.eq や geodetic-b.eq の推定誤差かもしれない.
この図には,安政東海地震の seismic-b.eq と tsunami-b.eq も示している.予想される東海地震の震
度分布[中央防災会議(2001)]が安政東海地震の震度分布[Fig.3a,宇佐美(2003)]とほぼ同じであること
9
を用いて,seismic-b.eq は東海地震の想定震源領域[中央防災会議(2001),図 2]と同じとした.中央防
災会議(2001)による東海地震の予想震度分布は,アスペリティを仮定した強震波形計算によるものと距
離減衰を用いた経験的手法によるものの二つがあるが,いずれも同様の震度分布を与えている.
tsunami-b.eq は,津波到達時間・遡上高を用いた羽鳥(1976)によるものを用いた.geodetic-b.eq は,
観 測 さ れ た 地 殻 変 動 を tsunami-b.eq が 説 明 し て い る [Ishibashi (1981) の Figure 11b] の で ,
tsunami-b.eq で代用した.Ishibashi (1981)の矩形断層モデルを用いた場合,さらに 20 km 程度南西
に延びる.
Fig.5 は,昭和東南海地震の seismic-b.eq と安政東海地震のそれがほとんどオーバーラップしないこと
を示している(もちろん各バンド領域において,すべりのより小さい領域まで取ればオーバーラップす
る領域は増えてくるが,ここでの議論で扱うのは 1 m 程度以上のすべり領域であり,用いた文献で示さ
れている解は,ここでの議論に耐えうる程度の解像度を持つ).山中(2006)の seismic-b.eq の場合,オー
バーラップするが,それでも面積としては広くない Ichinose et al. (2003)の場合はオーバーラップはない.
これら二つの地震の seismic-b.eq が一致していないことは重要である.これらの地震は seismic-b.eq
においてむしろ相補的であったことを意味するからである.安政東海地震の tsunami-b.eq や geodetic-b.eq
は seismic-b.eq よりさらに西に延びるので,昭和東南海地震の seismic-,tsunami-,geodetic-b.eqs とオー
バーラップしてくる.
しかし安政東海地震の geodetic-b.eq の西端はせいぜい 136.5°E あたりまでなので,
どのようなバンドで見ても昭和東南海地震を包含してしまうことはない.言い換えると安政東海地震は,
かつて Ando (1975b)によって提案された断層面 C を包含していない.これらのことから 安政東海地震
で C+D+E が破壊された一方,昭和東南海地震で C+D が破壊されたために E が残っている
と言うこ
とはできない.また,安政東海地震の tsunami-b.eq あるいは geodetic-b.eq だったもののある部分が,昭
和東南海地震で seismic-b.eq として破壊されていることを考えると,異なるバンド領域間で時間的遷移
が起こっている(その原因については後に議論する).このような時間的遷移が起こっていることは,固
有地震という概念の変革が必要であることを示している.
4.2
昭和南海地震と安政南海地震
つぎに,昭和南海地震に対して推定された seismic-,tsunami-,geodetic-b.eqs を Fig.6 に示す.
seismic-b.eq は Murotani (2007)によるもの,tsunami-b.eq は Tanioka and Satake (2001a)によるも
の,geodetic-b.eq は Sagiya and Thatcher (1999)によるものを用いた.seismic-b.eq は遠地・近地
両方の地震波を用いて求められたもので,すべりの最大値の半値(2.5 m)以上の領域を示している.ま
た tsunami-b.eq と geodetic-b.eq はすべりが 1 m 以上の領域を示している.tsunami-b.eq は Baba and
Cummins (2005)や Kato and Ando (1997)が求めた結果を用いても同様である.
この図には,安政南海地震の seismic-b.eq と tsunami-b.eq も示した.seismic-b.eq は第 3 章で述
べたように,安政南海地震の震度 VI 以上が紀伊半島の西岸に狭く分布し,南部全体には延びないこと,
瀬戸内が強震であること,など昭和南海地震との違いを用いて推定したものである.ここで推定された
10
安政南海地震の seismic-b.eq はいかなる意味においても定量的なものということは出来ないが,重要
なことは,それが昭和南海地震のものと違うということである.
安政南海地震は,大阪で津波による死者を多数出したこと,徳島で津波が大きかったこと,など昭和
南海地震との違いはよく知られている.
Fig. 6 には相田 (1981b)が遡上高を用いて求めた tsunami-b.eq
を示す.紀伊水道にも張り出していること,南海トラフよりの波源域が幅数 10 km 程度欠けて狭くなっ
ていることなど,北に偏った seismic-b.eq と調和的である.geodetic-b.eq については,高知の沈降
と室戸・串本の隆起,和歌山付近の沈降[いずれも 1m 程度,宇佐美(2003)]は,tsunami-b.eq を覆う
geodetic-b.eq があったとすれば説明できる.
紀伊半島南部の地震時隆起は,安政南海と安政東海地震,あるいは昭和南海と東南海地震の寄与が重
なってくる[Ando (1975b), Sagiya and Thatcher (1999)]が,安政地震と昭和地震の geodetic-b.eq の違いに関
して一つの情報を与える.宍倉・他 (2008)がまとめた図によると,安政地震で,西岸の雨島 1 m,潮岬
1.5 m,東岸の新宮 0 m の隆起が,昭和地震では,同地点で 0.3 m, 0.7 m, 0.1 m となっており,安政地震
の際,昭和地震と比較して西岸の隆起が東岸の隆起と比べて相対的に大きかったことがわかる.これは,
これまでに述べた,安政東海地震の seismic-b.eq 他が熊野灘まで延びていなかったこと,安政南海地震
の seismic-b.eq が昭和南海地震のそれよりも北に偏っていたこと,などの seismic-b.eq の分布の違いと調
和的な geodetic-b.eq の違いが存在していたことを示している.
安政南海地震の seismic-, tsunami-, geodetic-b.eqs が昭和南海地震のそれと異なっているならば,この二
つの地震間で tsunami-b.eq や geodetic-b.eq の seismic-b.eq への遷移やその逆の遷移が起こったことになり,
ここでも固有地震 (この場合 A+B)という概念の変革が必要である.
4.3
宝永地震
宝永地震に対してはデータがさらに少なくなるので,ここで行ったような安政と昭和のような比較は
できない. tsunami-b.eq に関しては,津波遡上高のデータを用いた羽鳥(1974),相田(1981b)それぞ
れの波源域,断層モデルがある.前者は安政南海地震のそれとほぼ同じで,後者は足摺岬南方にもう一
枚の断層面を置いている.これはこの付近の津波の高さが安政地震時の 1.5 倍であったことによってい
る.日向灘に面した大分県龍神池付近においても宝永地震時の津波は安政南海地震時の津波よりも大き
く,岡村・他(2006)は,その津波堆積物は宝永地震などの連動型地震に伴う大津波によるものと推定し
た. Furumura et al.(2011)は,相田(1981b)の断層面よりもさらに日向灘よりに断層面を置いてシミュ
レーションによって津波波形を計算し,宝永地震による九州東岸-四国西岸における大津波を説明する
ことを試みた.原田・石橋(2010)は,断層面の西端の位置と断層すべり量にはトレードオフがあり,宝
永地震の断層面の西端の位置に関して確定的なことは言えないこと,龍神池の津波堆積物は原田・石橋
(2010)が考える他の宝永型の歴史地震とは対応しない可能性があることを指摘した.堆積物が残るか否
かはその時の海岸の地形や水路などの状況にもよる.そのような不確実性があるとしても,宝永地震の
tsunami-b.eq は,安政南海,昭和南海地震のそれらよりもさらに西へ延びていたらしい.
11
geodetic-b.eq は,歴史南海地震に伴うことが多い室戸岬,串本の隆起に加えて,御前崎の隆起が伴っ
た [今村(1943)]ならば,東へは少なくとも遠州灘程度まで,西へは日向灘近くにまで延び,昭和地震の
それを上回るものであっただろう.
4.4
安政東海地震と昭和東南海地震の seismic-b.eq の相補性
上で行った現代地震学の成果も用いた安政地震と昭和地震の seismic-b.eq その他のバンド領域の比較
の結果は,第 3 章で行った震度分布を用いた定性的な seismic-b.eq の違いを支持している.この結果を
用いて, 宝永地震の seismic-b.eq は 昭和地震のそれとほぼ同じである一方,それらと安政地震の
seismic-b.eq とは大きく異なる という仮説を提出する.第 1 章で述べたように青木(1977)は安政東海地
震と昭和東南海地震の相補性の可能性に触れ,その根拠は薄いがこの説に近い.最近松浦・他(2010)は
宝永地震の震源断層運動が安政地震と異なることを強調している.また石橋(1977a), Ishibashi (1981)は,
「1854 年に主に遠州灘から駿河湾奥までの応力が解放され,その時応力解放が不十分だった熊野灘が
1944 年に破壊した,という可能性もある.この場合は,駿河湾を含む大地震の発生は必ずしも近いと
は言えない」(石橋(1977a, p.127))と述べている.石橋がその後,E が残されたという説を強調すること
になった原因の一つは,東海地震(駿河湾地震)の危険性を周知させることの切迫性であっただろうが,
Ando(1975b)と同様に,巨大地震が,それが引き起こす地殻変動までをセットにした固有断層面のずれ
破壊であるという概念,すなわち geodetic-b.eq にもとづいた巨大地震の固有断層面像にとらわれていた
ためでもあるのではないかと思われる.
また,各バンドのすべり領域が違うことから,地震波と津波,地殻変動,あるいは津波と地殻変動の
同時インヴァージョン[例えば,Satake (1993), Murotani (2007)]を行うことは,異なるバンド間のすべり
を平滑化してしまうために,巨大地震の破壊の様相を明らかにするという目的にとっては,逆の方向を
指向することになるだろう.
5.
過去の歴史地震の類別
石橋・佐竹(1998)による南海トラフ巨大地震の震源領域の推定(Fig. 1)を見ると,いくつかの地震に
対しては震源領域が E まで延びるとされ,別の地震に対しては A+B でとどまっている.これに関しては,
東海道沖を破壊した歴史史料が残っていない場合,往々にして歴史史料の発掘の不備や,時代が古いせ
いで発掘が困難であるため, A, B, C, D, E すべてを破壊した可能性があるとされてきた[例えば,石
橋・佐竹(1998)].実際石橋(1999, 2000, 2002)は,新しい史料の発掘と解読によって巨大歴史地震の
震源領域を再検討し,いくつかの地震に対しては E まで延びる可能性を示唆している.
前章までに,同じ震源領域を持つとされて来た南海トラフ巨大地震でも seismic-b.eq などが違う地震
があることを見た.そのような観点からは,震源領域の断層面を A+B と C+D+E に区分すること,ある
いは E まで延びるか否か調べることを超えて,新たな視点で巨大歴史地震の割り振りを行うことが求
められている.ここでは,そのような類別の一つの例として,巨大地震の seismic-b.eq が安政地震に類
12
似するものと宝永地震に類似するものに大別できると仮定し,それぞれを安政型地震,宝永型地震と呼
ぶ.昭和地震は第 3 章で述べたように宝永地震との類似が多く見られるから,宝永型地震に分類される.
以下では,前章までに得られたこれらの地震の特徴に照らしながら,現在までの歴史史料・地震考古
学資料を参照して巨大歴史地震発生の描像を描けるか否かを検討する.
石橋・佐竹(1998)の割り振りでは,地震考古学資料すなわち遺跡における液状化・噴砂・地割れなど
の痕跡 [寒川(1997)]も参考にされている.同様に,ここでは歴史史料とともに考古学資料(Fig.1, 縦棒)
も使用する.過去の地震に対しては,当然現代地震学の解析結果は手に入らないし,歴史史料や地震考
古学資料の不備・発掘の不完全さもある[小山(1999)参照].また,巨大歴史地震が二つの型に分類され
るという仮定は現実を単純化しすぎているかもしれない.したがってこのような試みは,現時点では十
分満足できるものではあり得ないとしても,本総合報告の考えと矛盾するか否かの検討は意味があるし,
本章の最後に述べるように,安政地震より一つ前の安政型地震が同定されれば,将来の東海地震の発生
時期に対する一つの予測を与えるだろう.
5.1
安政型地震
Fig.1 で,E 領域にまで震源(黒実線と点線)が延びていたとされていることを手がかりに安政型地震
を選択する.宝永地震は E まで震源が延びているように描かれているが,そうでない可能性が大きいこ
とをすでに示した.そうすると安政地震の一つ前の安政型地震としては 1498 年明応地震が挙げられる.
この地震は明応 7 年 8 月 25 日(ユリウス歴)に起こったが,相模湾から東海沖にかけての地震であると
考えられていた[例えば,大森(1913)].安房小湊誕生寺(外房),鎌倉大仏殿,八丈島に相当の津波被害
を与えたとされていることから,羽鳥(1975)と相田(1981a)は,東海沖に加えて伊豆半島の南方にも津
波波源域をおいた.しかし石橋(1980)は,これらの史料には信憑性がないことを示した.さらに都司
(1980)によると,八丈島で無被害であったこと,新島でも大きな被害はなかったことがわかり,伊豆南
方の震源域は不可能となった.駿河湾の北部沿岸から西岸,御前崎から伊勢湾沿岸に至る震度 VI 以上
の分布[宇佐美(1987)]や,遠州灘から駿河湾沿岸の津波被害は安政東海地震によく似ていて,石橋
(1980)の言うように,震源域は駿河湾に入り込んでいた可能性があるが,その真否は確実には判定でき
ない.
都司(1999)は,この地震に先だって同年 6 月 30 日(ユリウス歴)明応南海地震が起こったことを,熊
野峰の湯の湧出停止・九州・和歌山市・志摩半島の津波被害・上海市の水面異常などにもとづいて,そ
の他の史料[宇佐美(1998)]と考古学資料[寒川(1992)]も併用して提案した.石橋(2002)は,中国の水面
異常は地震によるとは限らないとし,都司が用いた史料の内容も批判して,同年 6 月 30 日の南海地震
は否定し,明応南海地震が東海地震と同時に起こった可能性を示唆した.これらの明応東海・南海地震
の考古学資料と歴史史料は,震度 VI が四国北部にまで及ぶこと,また紀伊半島南部で被害が小さいこ
とを示し[都司(1999)の Fig. 2],これらは安政地震の被害・震度分布の特徴とよく似ている.
明応地震以前では,Fig.1 で E 近くまで震源領域が伸びたとされる地震として,1096 年永長地震と
13
684 年白鳳地震がある.石橋(2002)は,永長地震は畿内,琵琶湖,揖斐川付近の強震動と津市や駿河の
大きな津波被害から,断層面 C+D を震源領域とする地震であることは確実とし,断層面 E も震源域であ
った可能性が高いとしている.この場合断層面 C が破壊したとすると安政型地震とは異なることになる
が,安政東海地震による被害を参照すると,断層面 D+E の破壊だけでも震動と津波被害は説明可能であ
る.永長東海地震の 3 年後 1099 年(康和元年)に地震が起こり,奈良と大阪で小被害があった.この康
和元年の地震の 2 年後土佐国関係の史料に
地震があり,高知平野の沈降があった
との記述がある.
これを康和元年のこととして,永長地震とペアとなる南海地震と見なす考えもあるが,石橋(2002)は,
康和元年の地震には津波の記録が全くないこと,山陽道や阿波国で被害があまりなかったことから,南
海地震であったとは現段階では言い難いとしている.ここでは永長地震とペアとなる南海地震としてお
く.
684 年白鳳地震は,日本書紀に土佐の田畑 12 平方 km が沈降し海没したという記述が出てくることか
ら南海地震の特徴をそなえている.東海から駿河湾(静岡市)にかけて考古学資料があり(Fig.1),断層
面 E を含む東海地震でもあった可能性が高いが,結論的には不明とされている[石橋(1999, 2002)].
以上まとめると,安政型地震として可能性のある地震は,684 年白鳳地震,1096 永長地震(+1099 年
康和地震),1498 年明応地震,1854 年安政地震となり,それらの間隔は 412, 402, 356 年で,ほぼ 400
年と規則的である.
5.2
宝永型地震
Fig.1 で,南海・紀伊半島沖を破壊したが,東は断層面 C あるいは D の領域までしか強震域あるいは
考古学資料が存在しないとされている地震が宝永型地震としての可能性がある.そのような地震として,
1361 年正平地震と 887 年仁和地震が挙げられる.
正平地震は京都-奈良が震度 V,大阪が震度 VI と推定されているが,紀伊半島の熊野地方で被害が
大きかった[石橋(2002)]こと,近畿・四国に大きな振動と津波による被害をもたらしたことから,南海
地震であると考えられる.石橋(2002)は,その数日前に東海地震も起こった可能性を京都の公家の日記
にもとづいて示唆した.これを支持する考古学資料もあり,寒川(2007, p.67)は「愛知県葉栗群木曽川
町(現・一宮市)門間沼遺跡を調査した服部敏之が,十四世紀に入ってすぐ掘られた壙を引き裂いて,そ
の底に広がる噴砂を発見し,正平南海地震に対応する東海地震の痕跡と考えている」と述べている.石
橋(2002)も寒川(2007)も,南海トラフの東部で起こる地震を東海地震と呼んでいるが,この総合報告の
立場からは安政型東海地震と宝永型東海地震とを区別しなければならない.この考古学資料の位置を
Fig.7 に破線の縦棒で示した.この地点よりも東で歴史史料や考古学資料が存在しないことは,正平地
震が宝永型地震であったことと矛盾しない.さらに熊野で被害が大きかったことは宝永型地震の特徴で
ある.
宍倉・他(2008)は,紀伊半島南部沿岸に残されたヤッコカンザシの遺骸とその年代測定から,その
隆起パターンが昭和南海地震と同じで,年代が宝永地震と正平地震に対比されるレベルを見いだした.
14
明応地震と安政地震に対応する明らかな群集は見いだされていない.これも正平地震が宝永型地震であ
り,明応地震が安政型地震であったことを支持する証拠となり得るだろう.
仁和地震は,五畿内七道諸国で振動・津波による被害大きく,南海地震とされている.石橋(1999)
は,信頼できる資料にもとづいて,被害を受けた国が 30 余より多かったことを指摘し,東海地震を含
む可能性を示した.また北八ヶ岳がこの地震のために大崩壊して堰止め湖を作り,翌年の洪水を引き起
こしたという仮説を提出した[石橋 (2000)].正平地震と同様な考古学資料があり,寒川(2007, p.52)
は,愛知県埋蔵文化財センターが調査した稲沢市の地蔵越遺跡で,九世紀後半頃の噴砂が見つかり,東
海地震も発生した可能性があると述べている.この考古学資料の位置を Fig.7 に破線の縦棒で示した.
正平地震の場合と同様に,この地点よりも東で歴史史料や考古学資料が存在しないことは,仁和地震が
宝永型地震であったとしても矛盾しない.なお青木(1977)は,この地震が宝永地震と同様に相模トラフ
巨大地震や富士山の噴火を伴ったことから,宝永地震との類似性を指摘している.
以上まとめると,宝永型地震として可能性のある地震は,887 年仁和地震,1361 年正平地震,1707
年宝永地震,1944 年東南海地震+1946 年南海地震となり,それらの間隔は 474, 346, 237 年で,平均
350 年となる.これらの間隔のばらつきは安政型地震のそれよりも大きいが,それでも平均値の
120
年以内である.
5.3
まとめ
藤原・他(2007)は駿河湾奥の浮島ヶ原においてボーリング調査を行い,泥炭層から泥層への層相の急
変を地震による湿地の沈降を表すと解釈した.それによると 684, 1096, 1361 年に相当する時期に沈降が
あり,887 年,1498 年にはなかったとしている.この沈降を安政型地震による沈降と解釈すると,1361
年頃の沈降, 1498 年頃の無沈降が上の類別と矛盾する.しかし藤原・他(2007)に示された沈降の開始時
期と地震との対応はかならずしも明瞭ではないから,安政型地震による隆起・沈降のパターンが藤原・
他(2007)の想定とは異なることも考えられる.
ここで安政型に分類された地震,宝永型に分類された地震の震源領域を Fig.7 に示す.宝永,安政,
昭和地震に対しては seismic-,tsunami-,geodetic-b.eq 領域それぞれを赤,緑,黄色線で示す(色の
違いは Figs. 2, 5, 6 に対応している).それより古い地震に対しては分解能がないため geodetic-b.eq
領域を青色の太線で示す.同じ図には,石橋(2002)によって同定された巨大歴史地震断層面の改訂版も
実線や破線(破線と細破線の違いは不確定度の違い)で示している.これは,ここで提案された安政型,
宝永型地震の震源領域とは重ならないところが出てくるが,石橋(2002)が推定した震源領域は,断層面
A, B, C, D, E をなるべく連続的に東まで延長するという先入観にもとづいているし,不確定性もある
から,ここで提案した領域が,石橋(2002)で用いられた歴史史料と矛盾しているというわけではない.
また,考古学的資料(縦棒と番号は寒川(2007)の図 2-1 による,A1-2 は前節で触れた一宮市と稲沢市
の位置)も同時に示しているが,色をつけて示した推定震源領域と矛盾していない.
以上のように現在までの歴史史料と地震考古学資料に大きく矛盾しないように,巨大歴史地震を安政
15
型地震,宝永型地震に分類することが可能である.特に,明応地震は安政地震とよく似た震度・被害分
布を示し,正平地震は宝永地震とよく似た被害分布・地殻変動を示す.他の地震に関してはまだ不明な
点も多く,ここで示したような新たな目で今後歴史史料・地震考古学資料を発掘・検討することが望ま
れる.
6.
6.1
議論
繰り返し周期,プレート相対運動とスリップ量および歪蓄積量
地震時のすべり量とポストサイスミックスリップ量などの非地震性すべり量の和(全スリップ量)は,
プレートテクトニクスの立場からは,地震の繰り返し周期とプレート相対運動速度の積と等しくなる.
前章の安政型と宝永型地震の区分を認めると,安政型地震が平均 400 年,宝永型地震が平均 350 年で繰
り返し,プレート相対運動速度は 4
4.6 cm/yr [Seno et al.(1993)]なので,全スリップ量は 14
18 m
と推定される.
この全スリップ量や繰り返し周期は,断層面 A+B において二つの型が重なる部分においては半分程度
に減小する.それでも従来考えられてきた 4
6 m 程度のスリップ量[Ando (1975b)]あるいは 100 年余
りの繰り返し周期と比べて大きい.しかし Sagiya and Thatcher (1999)が,昭和南海地震に対して室
戸沖で最大 11 m という大きなすべり量を推定していることと,ポスト・サイスミックなすべりがかな
りあること[Heki et al.(1997), Kawasaki et al.(2001), 八木・菊地(2003)]を考え合わせると,14
18 m のスリップ量は決して大きすぎる値ではない.従来推定されていた 4
6 m のスリップ量の方が,
非地震性すべり量を考慮すると小さすぎる.また,安政型地震の繰り返し周期 400 年は,Kuroki et al.
(2004)や弘瀬・他(2009)が,すべり速度状態依存摩擦則を用いてシミュレーションで求めた東海地震の
繰り返し周期 400
500 年ともほぼ一致する.Ishibashi (1981)は,明治以来の測地・測量結果から,
駿河湾周辺でかなりの量の歪が蓄積して来たことを示しているが,その歪速度は 10-7/yr のオーダーで
あるから,限界歪の値を 5x10-5 程度とすると,これも 400 年程度の繰り返し周期と矛盾しているわけで
はない.
6.2
各バンド領域の時間的遷移
本総合報告で得られた重要な結論の一つは安政東海地震と昭和東南海地震の相補性であるが,これが
これまでなかなか認識されなかった理由は,固有地震概念が常識としてはびこっていたためであろう.
言い換えると,本総合報告で提案されたモデルの本質は,固有地震概念の改変,もしくは否定であると
言ってもよい.ある南海トラフ巨大地震の seismic-b.eq は,次の地震では seismic-b.eq であることを
止め tsunami-b.eq として使用されたりする.あるいは前の地震の tsunami-b.eq(の一部)は次の地震の
seismic-b.eq として使用される.例えば,安政東海地震の tsunami-b.eq の西半分は,昭和東南海地震
の seismic-b.eq に転化した(Fig.5).山中(2006)の結果を採用するならば,安政東海地震と昭和東南海
地震は seismic-b.eq の一部を共有していたことになるが,その共有面積は小さい.また安政南海地震
16
の seismic-b.eq は,昭和南海地震の seismic-b.eq の北部に位置し,領域を一部共有していたかもしれ
ないが,異なるものであった(Fig. 6).この場合も,安政南海地震の tsunami-b.eq のかなりの部分は
昭和南海地震の seismic-b.eq に転化したことになる.このような遷移が起こるならば,巨大地震が固
有の断層面を繰り返し破壊するという従来の考えは成り立たなくなる.これを無視して,安政東海地震
の際に断層面 C+D[Ando (1975b)],あるいは C+D+E[Ishibashi (1981)]が破壊したと見なしたために,
言い換えると,安政東海地震の震源領域が熊野灘の断層面Cにまで延びていたと見なしたために,昭和
東南海地震で D あるいは E が未破壊で残ったという考え[Ando (1975a), Ishibashi (1981)]に結びつい
たのであろう.
seismic-b.eq や tsunami-b.eq のバンド間の時間的遷移がなかなか認識されなかったのは,一般のア
スペリティや摩擦すべりの概念ではその理解が容易でないからでもある.これに関しては,フラクタル
アスペリティ/バリア−侵食モデル[Seno (2003)]にもとづく解釈が理解を容易にする一つの方法かも
しれない.このモデルでは,一番小さいアスペリティ(unit asperity)とその集合がフラクタル分布を
し,階層的なアスペリティ構造をつくっている.アスペリティ以外の安定すべり摩擦特性を持つ部分は
バリア−と呼ばれる.ある領域でバリア−中の間隙流体圧が静岩石圧に近くなることを,バリア−が侵食
されると呼び,そのような侵食が起こったところに内包されるアスペリティが破壊して地震が起こると
考える.これはバリア−侵食が起こらないと,断層面の法線応力が大きく,破壊に必要な剪断応力がテ
クトニック応力を上回り,地震を起こせないためである.
このモデルは,一般に流布しているアスペリティモデルとは異なる.アスペリティモデルでは,アス
ペリティは不安定すべり領域で,そのまわりを安定すべり領域が取り巻いている[それらの間には中間
領域もある.松澤(2009)参照].このようなモデルではアスペリティから中間領域やゆっくりすべり領
域への遷移のような現象は起こらない.バリア−侵食モデルでは,不安定すべり領域から中間領域への
遷移,あるいはその逆の変化などが起こることが以下のように説明できる.例えば安政東海地震の
seismic-b.eq 領域でバリア−侵食が起こったが,その西に隣接する地域ではバリア−中の間隙流体圧は
完全に上がっておらず,tsunami-b.eq あるいは geodetic-b.eq 領域になっていたとする.安政東海地
震が起こった後,
seismic-b.eq 領域内の侵食されたバリア−中の水は断層面の破壊に伴って掃き出され,
隣接した tsunami-b.eq 領域へ移動し,その間隙流体圧が上がることによってその領域が昭和東南海地
震 の 際 に seismic-b.eq とな っ て 地 震 を 引 き 起 こ し た の か も し れ な い . 同 様 に 安 政 南 海 地 震 の
tsunami-b.eq であった領域の間隙流体圧が地震後上昇し,昭和南海地震の際には seismic-b.eq となっ
たかのかもしれない.今後,南海トラフ巨大地震の発生をバンド間の時間的遷移を通して理解するため
には,フィリピン海スラブからの脱水と断層面への流体の輸送・分配を水理学の観点から追究していく
必要があるだろう.
6.3
巨大地震の連動性について
近年速度状態依存摩擦則にもとづいて,プレート境界の形状や沈み込むプレートの構造の非一様性に
17
よる摩擦の空間的変化をも取り入れて,複数の南海トラフ巨大地震の連続発生のシミュレーションが行
われている[例えば,Hori (2006)].Hori (2006)は,このような摩擦の変化が与えられた時に,東南海
地震から南海地震への移行や,東海地震が,ある場合には東南海地震や南海地震とともに発生し,別の
機会には取り残されたりすることが起こりうることを示しており,第 1 章でも述べたように,これは昭
和東南海地震の際に断層面 E がなぜ破壊しなかったかという疑問に対して一つの答えを与えている.し
かし,このシミュレーションでは,各断層面の摩擦パラメーターは,基本的には南海トラフのプレート
境界に沿って連続で,深さによっては変化するが,一部形状や構造によって不規則性が与えられている
に過ぎない.また,間隙流体圧は静水圧が仮定され,Seno (2009)が求めたような静岩石圧の 98 %に達
する高間隙流体圧ではないし,断層面中で変化するとはされていない.したがって与えられたパラメー
ターがどの程度現実的なものであるか疑問があり,シミュレーションによって連動性が示されたとして
も,その真否の判断は難しい.
この総合報告での,断層面 E が取り残されたのはなぜなのかという疑問に対する答えはもっと単純な
ものである.Fig.5 で示したように,安政東海地震と昭和東南海地震の seismic-b.eq が相補的であっ
たならば,安政東海地震は昭和東南海地震の震源断層面の大部分を破壊していなかったわけで, E が
取り残された ということはできない.同様に,昭和東南海地震の発生は東海地震の発生が迫っている
ことを意味しない.石橋(1977a)や Ishibashi (1981)が,相補的であれば将来の東海地震の発生は遠く
なると述べたのも,同じ意味であったであろう.相補性に関しては青木(1977) の考えも上に近い.上
のような疑問が起きたのは, C+D+E の破壊が基本的にはいつも起こるはずだという考えが研究者の間
で常識となっていたからだろう.
東海地震が歴史上単独で起こったことがないから将来も起こらない,あるいは,次の東海地震が起こ
る場合は南海・東南海地震と連動したものになるだろうという議論も同様に旧来の常識にとらわれた見
方であろう.本総合報告の考えに従えば,次に東海地震が起こる時には,永長地震のようにほとんど単
独に近い場合も可能だが,熊野灘の空白域を挟んで南海地震も伴うというケースが一番もっともらしい.
この場合,地震がない領域を挟むために,東海地震と南海地震の連動性を説明することがむしろ難しく
なってくる.しかし現実に安政地震の際,そのような連動が起こったし,明応地震の場合もその被害・
地変の分布を見る限りかなり確からしい.トリガーのメカニズムに関しては,直接的な応力変化の影響
に加えて,前節で述べたような時間的に前に起こった隣接する地震,この場合は宝永型地震からの流体
の流入による間隙流体圧の変化による水理学的なトリガーも考慮する必要があるだろう.
6.4
巨大地震のサイズの変化について
Shimazaki and Nakata (1980)は,プレート境界地震の生起に関して,time predictable model と slip
predictable model の二つのモデルを提案し,宝永,安政,昭和の南海地震の生起が time predictable
model に従うことを室戸岬の隆起量を用いて示した.Kumagai (1996)は,684 年白鳳地震以来すべての
南海地震の系列を用いて time predictable model の方が積算モーメントと発生時期をよく説明すると
18
した.Kumagai (1996)の解析では,寒川(1992)の地震考古学資料から 1230 年付近に地震一つと,さら
に 1498 年明応南海地震を追加し,一方 1605 年慶長地震を取り除いた.しかしその結論は,明応南海地
震のマグニチュードを明応東海地震と同じ 8.6 としたことと,1230 年付近の地震(マグニチュードは平
均的なものと仮定)の挿入に大きく依存しており,信頼性は薄い.また第 1 章で述べたように,宝永南
海地震と安政南海地震には同じマグニチュードが採用されているため,Shimazaki and Nakata (1980)
の結論とも関係していない.
しかしより深刻な問題は,これらの解析は,A+B などの固有地震断層面で巨大地震が繰り返すという
暗黙の前提にもとづいていることである.南海地震に関しても,異なる seismic-b.eq を持つ地震があ
るという立場に立てば,宝永,安政,昭和という系列,あるいはもっと古い地震の系列に対して,time
predictable model や slip predictable model のいずれが成り立つかという検討は単純にはできない.
第 5 章では巨大歴史地震を安政型,宝永型地震の二つの型に分類したが,各型の系列自体において
tsunami-b.eq や geodetic-b.eq が変わるということも起こるかもしれない.安政型,宝永型地震の二
つの系列別々に,Kumagai (1996)の case A と case B の積算モーメントと発生時期を用いて time
predictable model あるいは slip predictable model による fitting を行ってみたが,どちらかが優
れているという結果は出なかった.
同じ領域で断層面のある部分を共有しながら大小の地震が起こることが着目されたのは,1906 年
Mw8.8, 1942 年 Ms7.9, 1958 年 Ms7.8, 1979 年 Ms7.7 の一連のコロンビア沖地震においてであり,
Kanamori
and McNally (1982)は,複数のアスペリティの異なる組み合わせが壊れることでこれを説明した.Hori
et al. (2009)は,大きな断層領域の中に小さなアスペリティのパッチが存在するとし,サイズと限界
すべり量(Dc)の違うパッチの壊れ方が time predictable model に従う可能性があることをシミュレー
ションで 示し た.こ れは, 一定破 壊強度 から 地震 毎に応力 降下 が変化 すると いう従 来のモ デル
[Shimazaki and Nakata (1980)]よりも,異なる seismic-b.eq が壊れたり,seismic-b.eq が遷移する
という本総合報告の考えに近いモデルであると言える.今後はこのような seismic-b.eq の変化を含む
ようなモデル化が必要であろう.
本総合報告が提案したように,宝永・昭和地震と安政地震が違った seismic-b.eq を持つ地震である
ならば,宝永,安政,昭和地震の系列に対して単純に time predictable model をあてはめて, 南海ト
ラフで南海・東南海巨大地震が今世紀前半には発生し,その際には東海地震も連動するだろう と予測
をすることに,どのような意味があるのか疑わしい.
7.
まとめと結論
沈み込みプレート境界巨大地震の震源断層面において,10
数秒以下の短周期地震波を出すすべりの
領域,津波を励起するすべりの領域,地殻変動をもたらすすべりの領域を,それぞれ seismic-b.eq,
tsunami-b.eq,geodetic-b.eq と定義した.南海トラフの巨大地震である宝永,安政東海・南海,昭和
19
東南海・南海の各地震の seismic-b.eq の違いを震度分布を用いて推察した.宝永地震の seismic-b.eq
は安政東海地震と違い,駿河湾に入り込んでいなかった,安政南海地震の seismic-b.eq は宝永地震の
それの北部に位置していた,安政東海地震の seismic-b.eq は熊野灘では顕著には存在しなかった,と
考えられる.昭和地震の seismic-b.eq は宝永地震のそれとほぼ同じである.
また,安政東海と昭和東南海地震,安政南海と昭和南海地震の seismic-,tsunami-,geodetic-b.eqs
を,震度分布・地震波,津波到達時間・遡上高・潮位計記録,地殻変動にもとづいて推定されたすべり
領域を用いて比較した.安政東海地震の seismic-b.eq は,昭和東南海地震のそれからほとんど分離し
ている.またその tsunami-b.eq と geodetic-b.eq は seismic-b.eq の西方に延び,昭和東南海地震の
seismic-,tsunami-,geodetic-b.eqs とオーバーラップしているが,熊野灘の領域をカバーしていな
い.したがって,安政東海地震が,南海トラフ東部に存在する固有断層面 C+D+E を破壊し,その後昭和
東南海地震がその一部 C+D を破壊したため,断層面 E(+D の東部)が未破壊で残っていると見なすことは
できない.安政東海地震と昭和東南海地震は,seismic-b.eq においてむしろ相補的であったと言える.
歴史史料,地震考古学資料の研究にもとづいて,白鳳地震以来明応地震までの南海トラフ巨大地震を,
その seismic-b.eq が安政地震の特徴を持つか,あるいは宝永地震の特徴を持つかで,安政型地震ある
いは宝永型地震に,大きな矛盾なく分類できることを示した.巨大歴史地震のうち,安政型地震の可能
性がある地震は,684 年白鳳地震,1096 永長地震(+1099 年康和地震),1498 年明応地震,1854 年安政
地震で,それらの間隔は平均すると約 400 年である.宝永型地震の可能性がある地震は,887 年仁和地
震,1361 年正平地震,1707 年宝永地震,1944・1946 年昭和地震で,それらの間隔は平均すると約 350
年である.
このような二つの型に単純化された類型化が必ずしも成り立つとは限らないし,歴史史料・考古学資
料も完全なものではないから,将来のさらなる検討が必要である.しかし従来の,南海地震なのか東海
地震なのかという類型化,東海地震ならば断層面 C, D, E のどこまでが破壊したかとは異なる見方で,
すなわち seismic-b.eq などの各バンド領域がオーバーラップしたり,時間変化することがあり得ると
いう目で,歴史史料・地震考古学資料や,津波,地殻変動の痕跡を見なおすべき時期に来ているだろう.
この総合報告で述べた考えにもとづけば,南海トラフ巨大地震の破壊の様態に関して残されて来た多
くの疑問が解決できる.昭和地震と安政地震の間隔 90 年は,互いに seismic-b.eq を共有する地震の間
隔ではないから地震間隔ではない.同様に,昭和東南海地震が安政東海地震の断層面 E を破壊しなかっ
たことは,安政東海地震と seismic-b.eq を共有する地震ではないから不思議ではない.安政東海地震
から約 160 年経っているが,この地震と類似の seismic-b.eq を持つ一つ前の地震はおそらく 1498 年明
応地震にさかのぼると考えられるから,最近スロースリップイベントが浜名湖付近で起こったにもかか
わらず東海地震が起こらなかったのは不思議ではない.明応地震と安政地震との間隔 356 年を参照する
と,将来の東海地震が起こるのは 200 年以上先であると予測される.
安政東海地震の tsunami-b.eq と geodetic-b.eq が昭和東南海地震の seismic-b.eq に共有されたとい
20
うことは,これらのバンドのすべりをもたらす断層面のすべり特性は時間的に変化したことを示してお
り,巨大地震はそのように,摩擦の性質が時間変化する性質を持つ断層面を使用しながら起こっている
と考えられる.これは固有地震断層面あるいは固有地震という概念の変革を必要とすることを意味する.
バンド間の時間的遷移には断層面における間隙流体圧の時間変化が関係している可能性があり,プレー
ト境界巨大地震の発生メカニズムの解明には,断層面の水理学的観点に立った追究が将来重要になるだ
ろう.
追記
2011 年 3 月 11 日 M9.0 の東北地方太平洋沖地震が起こった.この地震は宮城沖から茨城沖近くまでに
達する巨大な断層面を持った.しかし福島沖や茨城沖は従来大きなアスペリティを持つ地震が繰り返し
てはいなかったので,今回の地震は単なるアスペリティが連動した破壊としては理解出来ない.理解す
る一つの方法は,ゆっくりすべりの特性を持つ侵食されていないバリア−領域が,侵食を受け始めて不
安定すべりの特性に地震前に変化していたとすることである.これは本総合報告で南海トラフ巨大地震
に対して主張したのと同じようなすべり特性の遷移と言える.
謝辞
藤原治,吾妻崇,匿名査読者,堀高峰,石橋克彦,松澤暢,山中佳子,松村正三の各氏からは改
善のための有益な意見を得ましたので感謝します.
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26
Figure Captions
Fig. 1 Spatio-temporal distribution of historical great earthquakes along the Nankai-Suruga trough after Ishibashi
and Satake (1998). The solid and broken lines indicate the spatial extents of great earthquakes, certain and less
certain, respectively. The roman and italic numerals indicate earthquake occurrence years and time intervals
between two successive events, respectively. Earthquakes are named after Japanese eras. Vertical bars indicate
seismo-archeological data suggesting the occurrence of large earthquakes [Sangawa (2007)]. The length of each
bar represents the uncertainty of the age determination.
Fig. 2 Schematic illustration showing an earthquake rupture area having faulting with different frequency bands.
A seismic-band area (abbreviated as seismic-b.eq) is the rupture area that generates high frequency (higher than
0.1 Hz) seismic waves, contributing to generate seismic intensities and damages. A tsunami-band area
(abbreviated as a tsunami-b.eq) is the rupture area with faulting having a characteristic time less than a few
minutes, which generates tsunamis. Because a seismic-b.eq also generates tsunamis, a seismic-b.eq is contained
in a tsunami-b.eq. A geodetic-band area (abbreviated as a geodetic-b.eq) is the rupture area that generates crustal
deformations. Because a seismic-b.eq and a tsunami-b.eq also generate crustal deformations, they are contained
in a geodetic-b.eq. We regard seismic-b.eq as coinciding with an asperity [Yamanaka and Kikuchi (2004)].
Fig. 3 Seismic intensity distribution for (a) the 1854 Ansei-Nankai and 1854 Ansei-Tokai earthquakes [red color
>= VI, after Usami (2003)], (b) the 1707 Hoei earthquake [red color >= VI, after Usami (1983)], and (c) the 1946
Showa-Nankai and 1944 Showa-Tonankai earthquakes [red color >= V, after JMA, taken from Usami (2003)].
The intensity in Kii Peninsula is small, but large in the Seto inland sea and northern Shikoku for the Ansei
earthquakes, of which features are different from those of the Hoei and Showa earthquakes, for which the pattern
of the intensity is similar to each other.
Fig. 4 Detailed seismic intensity distribution for (a) the 1854 Ansei-Tokai earthquake [Usami (2003)] and (b) the
1707 Hoei earthquake [Usami (1983)]. The red, orange, and open circles indicate intensities VII, VI
VII, and VI,
respectively. Intensity for the Hoei earthquake becomes small (open circles) in the Suruga Bay area, but VII
appears again in the mouth of the Fuji River and to the north. This strongly suggests that intensity VII of the Hoei
earthquake in the mouth of the Fuji River and to the north may be due to amplification of shaking in the
Quaternary sedimentary basin and/or the effect of a large aftershock to the north, around the Kai area. This and
the other pieces of evidence (See text) strongly suggest that the seismic-b.eq of the Hoei earthquake may not have
been within the Suruga Bay.
27
Fig. 5 Comparison of slip areas of different frequency bands for the 1944 Showa-Tonankai and 1894 Ansei-Tokai
earthquakes. Seismic-, tsunami-, and geodetic-b.eqs for the 1944 Showa-Tonankai earthquake are from Ichinose
et al. (2003) or Yamanaka (2006), Tanioka and Satake (2001b) and Sagiya and Thatcher (1999), respectively.
Seismic- and tsunami- b.eqs for the Ansei-Tokai earthquake are adapted from that of the expected Tokai
earthquake [Central Disaster Management Council (2001), See text] and from Hatori (1976), respectively. The
geodetic-b.eq for this earthquake is assumed to be the same as the tsunami-b.eq (See text), and is not shown in
this figure.
Fig. 6 Comparison of slip areas of different frequency bands for the 1946 Showa-Nankai and 1894 Ansei-Nankai
earthquakes. Seismic-, tsunami-, and geodetic-b.eqs for the 1946 Showa-Nankai earthquake are from Murotani
(2007), Tanioka and Satake (2001a) and Sagiya and Thatcher (1999), respectively. The seismic-b.eq for the
Ansei-Nankai earthquake is estimated in this study and the tsunami-b.eq is from Aida (1981b).
Fig. 7 Spatio-temporal distribution of rupture zones of historical great earthquakes along the
Nankai-Suruga trough, (a) for the Ansei-type earthquakes and (b) for the Hoei-type earthquakes,
grouped in this study. The spatial extents of rupture zones estimated by Ishibashi (2002) are shown by
the solid, thick broken and thin broken lines, representing estimation certain, probable, and possible,
respectively. The vertical bars indicate the seismo-archeological data suggesting the occurrence of
large earthquakes [Sangawa (2007)]. The locations of the data are shown in the upper figure with
numbers corresponding to the ones in the lower figure.
28
0
200 km
Kinki
Shikoku
Honshu
Tokai
Kii Pen.
A
203
D
C
B
E
Hakuho (684)
Ninna (887)
209
Kowa (1099)
Eicho (1096)
262
137
Shohei (1361)
Meio-Nankai (1498)
Meio-Tokai (1498)
209
147
90
Hoei (1707)
Ansei-Nankai (1854)
Nankai (1946)
Ansei-Tokai (1854)
Tonankai (1944)
Fig. 1
seismic-b.eq
tsunami-b.eq
geodetic-b.eq
Fig. 2
(a) 1854 Ansei-Nankai
1854 Ansei-Tokai
(b) 1707 Hoei
NE Japan
SW Japan
Kyushu
Tokai
Shikoku
(c)
1946 Showa-Nankai
Kii Pen.
0
200 km
1944 Showa-Tonankai
Fig. 3
(b) 1707 Hoei
(a) 1854 Ansei-Tokai
Fuji River
Kai
VII
VI~VII
VI
Tokai
Suruga Bay
Omaezaki
0
50 km
Fig. 4
1944 Showa-Tonankai
seismic-b.eq
Yamanaka (2006)
1854 Ansei-Tokai
Ichinose et al. (2003)
seismic-b.eq
tsunami-b.eq
geodetic-b.eq
tsunami-b.eq
geodetic-b.eq
36°
N
SW Japan
Surug
a Tro
ugh
Kinki
Kii
Pen.
34°
1944
gh
a
nk
Na
0
Philippine Sea plate
100 km
32°
135°E
rou
iT
137°
139°
Fig. 5
1946 Showa-Nankai
1854 Ansei-Nankai
seismic-b.eq
seismic-b.eq
tsunami-b.eq
tsunami-b.eq
geodetic-b.eq
36°
N
SW Japan
Kinki
Kii
Pen.
Shikoku
34°
Kyushu
1946
gh
32°
a
nk
0
132°E
100 km
Na
rou
iT
Philippine Sea plate
134°
136°
Fig. 6
(b) Hoei-type
(a) Ansei-type
200 km
0
3-6
1 2
A
13
23 -26
16
C
B
13 16
200 km
0
19 -22
9
D
E
22
26
A1-2
3 -7
29
A
14
C
B
D
E
29
Hakuho(684)
A2 21
412
Ninna(887)
Kowa(1099)
474
Eicho(1096)
6 7
402
1
2
3 5 6
19
Meio-Nankai(1498)
356
18 -21
12
25
14
A1 20
Shohei(1361)
Meio-Tokai(1498)
346
12
4
9
23 24
Hoei(1707)
237
Ansei-Nankai(1854)
3
18
Ansei-Tokai(1854)
Nankai(1946)
seismic-b.eq
tsunami-b.eq
geodetic-b.eq
not specified
Tonankai(1944)
Fig. 7
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