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Jara Bull. U. Educ, Vol. 19, No.2, (Nat.), 1970 ¥ itikomm (i) * ;n e * us (^&aW*«^g) (0Bfd45^ Problems 5 B l9 0 ^ffi) on the modernization with special reference of school mathematics. to Euclidean geometry Shdtaro (Department of Mathematics, Though of algebra, the modernization probability and the area of Euclidesn of the statistics (1). (2). (3). subjects Perry school Japan.) 1970) mathematics and so on, there has been promoted are left many problems in the area unsettled in problems, the author made a research, in this paper, on the movement and others. Outline of some typical of Greeks and Descartes) of "intuition The conclusion thinking (represented by Euclid), surveyed of geometry (of Euclid), not merely the concrete of improvement has of recent from teaching that been reported times the standpoint (represented of is connected in various closely "intuition with by Pascal and logic", the interrelation and logic". As for elemenents must appreciate programs and of to-day, because the improvement logical May 19, Nara, : country. Mathematics appreciated of Education, geometry. To solve some of these following OGAWA Nara University (Received ( I ) as "proof of this geometric plans idea of teaching and axiomatic the author of existence", paper can be stated rather will pointed briefly than geometry be shown in the thinking will out that the but also as "proof also with itself. next construction should be of consistency". the following The details paper, of this and there slogan, i.e. we conclusion the relation and of be discussed. i. mmtLzvmn&m >r*-l%2*fK*sft%* (1) V v ^tw^t'©i|g^t^i (I.C.M.I.) I \X, HO-oiLt, I'M 小 川 庄 太 郎 代数学のどんな科目が、また、どんな応用が中等学校(日本では,中学校および高等学校)での カリキュラムの構成に用いられうるか.」をえらんだ. ケメニー(J.G.Kemeny)は,各国に照会して21か国からの回答をえ,これを会議に報告したO その報告では各国のL,ポートの集約の結果として,次のようなものが新しく考えられる教材とし て,挙げられている. 1.初等的な集合の理論 2.論理学-の入門 3.現代代数学の若干のトピックス 4.確率・統計への入門 このレポートは,昭和44年の我が国における中学校数学の学習指導要領改訂の方針に,決定的 (2) な影響を与えたものという点で,特に注目する心要がある. 幾何についての各国の意見について,ケメニーは,次のように総括している. 「中等学校の幾何学が現代化されねばならないという点では,各国とも意見が一致している. しかし,その具体的なアイディアには乏しかった.」 ケメニ-は, 「2000年来の伝統的なコーク1)ッド流の論証幾何を採るか,あるいは,代数的な アイディァを導入することによって,幾何学の純潔(purity)を汚すかという二者の問での択一 をしなければならない.」と述べている. 各国における改造の案としてほ, ・クライン(F.Klein)の流れを汲む変換的な考え ・計量を導入しようとする傾向 ・ ベクトル空間の導入 などいろいろな試みがあるとともに,ユークリッド幾何を,純粋に論証的に,完全な公理体系と して教えるべきであるという意見も依然として一部の国から提出されていることも,この報告で は明らかにされている. (3) 数学教育現代化の動きの中で, 「幾何」はいまだに模索の段階であり,いわば混迷の域を脱し えないでいるといわざるをえない. もともと数学教育改革の動きは,ペリー(J. Perry)以来のものである.とりわけ,この際 その当時の改革の主眼とする点について回顧しておくことがたいせつではあるまいか. ペリー・ムーア・クライン等の改革運動 19世紀から20世紀初頭にかけての改革運動において,これらの人々によって代表される主張は, (4) およそ次のように集約できる. ペリーIl")主蝣M ① ユークリッド-レメンツ流幾何から脱却すること ② 実験・測定・近似計算などを重視する ③ 応用的な場面を重んずる ④ 微積分の概念を早くから導入すること ムーア(E. H. Moore)の主張 ① 三角法・解析幾何・微積分などを早くから導入する (診 純粋数学の研究精神と自然科学の実験的な研究方法との融合をはかる ③ 数学・物理を総合して教える(実験室法) 数学教育現代化の課題(I ) <ユークl)ッド幾何をめぐって> クラインの主張 ① 算術・代数と初等幾何学の両者を,関数的な考えを中心として,融合する (塾 微積分の初歩を導入する ③ 発生的方法にもとづいた教育を行なう たとえば,空間的直観とか,数学上の応用とかを重視する ④ 関数概念を重要視する 三者それぞれの主掛まあるが,基本的に次の点では一致している. 1.ユークリッド(-レメンツ流)幾何学一辺倒の幾何教育に対する批判 2.教育的な立場での教材の改編 3.微積分の早期導入 その根底にある基本線は, ・子どもがみずからの力で学び発見していくよろこびを知らせなければならない. ・ 数学者の養成のための数学であってはならない. ・不必要に厳密な理論を展開するのではなくて,能力に応じた展開を考える. ・数学の有用性を知らせる. と,このようにまとめることができよう. 当時の数学教育改革運動の端緒となったものは,たとえば, 「ユークリッドの命題の証明を書 く場合には,代数記号を用いてはならない.」とか, 「教授の際にも,試験の際にも,ユ-クリ ッド以外の公理を用いたり,ユークリッドの順序によれば後に出てくる命題を用いて証明しては ならない.」などの言葉に表われているかたくななユーク1)ッド一辺倒の形式主議的な幾何教育 や入試方法に対する改善の動きである. もちろん,その当時も,ユークT)ッド(-レメンツ洗)幾何に対してなお絶大な信頼を置き, 「その後継者たる資格のあるものはない」とする人々も多かったが,現在の我々にとって,次の クラインの言葉「くくユークリッドは子どものためにこの本を書いたのではなかった"と,幾何の lい 教科書の巻頭に書くべきだ.」や,筆者がかつて引用した-ヴィサイドの言葉, 「ユークリッド の支配がつづく限り,改良などは問題にならない.自分が必要と思う課題は,算術にはじまり次 にユ-クリッドでなくて代数だ.その次は--クリッドではなくて実用幾何,これは証明するの でなくて事柄に親しませるのだ.次にユ-クリッドでなくて初等のベクトルとその幾何への応 用,同時に初等の微分積分がくる.」は,印象的であり,教訓的ですらある. 当時の合言葉「微分積分」が,今日では「集合・論理」にとって代えられた観があるが,いず れにしても幾何教育の改造は依然として最大の課題であり,いまだに適切な回答はなされていな いといわざるを得ない.そして,その回答を試みるには,上記の改革運動の基本線を正当に評価 した上のことでなければならないことは明らかである. 2.ユークリ・tJド(工レメンツ)流幾何の批判と改造の試み アドラーによる総括 19世紀以来のこの課題に対して,もちろん各国において数学者・数学教育者の努力が無かった あけではない.それらのある程度歴史的な展望はここでは省き, (たとえば文献(6)参照)最近 における動きを概観してみよう. 小 川 庄 太 郎 ユークリッド幾何に対する批判と改造について簡潔にまとめたものに,アドラー(I.Adler) (7) の論文くくWhat shall we teach in high school geometry?"がある. 彼はその中で, 「ユークリッド(-レメンツ流)において何が悪かったか. 」の標題で,次の ように述べている. F. KleinやA. E. Mederなどが指摘するように,ユークリッドの欠点は, 1.アルキメデスのセソスに欠ける. (すなわち,数的な扱い,応用への関心,発見的なアプ ローチなどに欠ける.) 2.ギリシア人の算術や代数の不得意が,比例にみられるように面倒な幾何学的な代用を余儀 なくさせている. 3.原本(-レメンツ)における論理的な構造にある欠陥,たとえば, (a)無定義語の不可欠さを実際に示す点において拙いところがある. (ち)公理系における欠陥(例:順序の公理を完全に欠いている.) (C)重ね合わせによる証明における循環論法の使用 4. -レメンツ自身のもつ以上の欠点のほかに,以後の幾何学の進歩(例:射影幾何,双曲線 幾何など)があることも,ユークリッドが今日の幾何教育に不適合であることの理由として 付加することができよう. このようなユークリッド(-レメンツ流)幾何の不備に対する各国の改造の試みについて,ア ドラーは,次のように概括している. 1. -レメンツの欠点を補うためのヒルベルトの公理系をモディファイして用いる. 2.平面幾何と立体幾何を併行して展開する. 3.線分の長さ・角度・面積などの測度を早期に導入する. 4.メ-コフ(G. D. BIRKHOFF)のように,実数系の性質を利用する. 5.座標幾何の導入 6.ベクトルの利用 7.等長変換(isometry)の利用, (対称移動を主軸とする方法もこれに含まれる,) 8.非ユークリッド幾何を加える. 9.ディ-ドンネ(J.DIEUDONN丘)流にベクトルと内積によってユ-クリッド幾何を展開する. 10.アフィン座標平面としてユークリッド平面を展開する. 上記のような改造の動きのなかで代表的なものを採りあげて,その考えを検討しよう. (8) (なお,アドラーは彼の著書の中でこうしたアイディアについて詳しく述べている.) O.E.E.C. (欧州経済協力機構) 1958年 フラソス のRoyaumontで開催されたセミナーの報告書"New thinking in school =11 mathematics"に示されるように,有名な「ユークリッドよ,出て行け.」のスローガンのもと になされたディユドンネの提案は,セミナ-でも激しい反響・論議をまきおこした. 彼の提案は,ユークリッド空間を線形ベクトル空間の観点で構成しようとするものである. (A) x+ y-y+x x+ (y+z) - (x+y) + I'JC - .(蝣 (i+〟)3- Ax + (1耳 数学教育現代化の課題(I) <ユ-クリッド幾何をめぐって> A(x+3/) -加+Ay I (/*エ) - W/0ェ 一次独立なベクトルの数は高々2である. (B) ∬. Cy+z) -∫.y +・」. x,y - y,x (Å*) .y - *蝣(∬.y) 3- 0 以外の場合 ヱ.x>0 ただし, ∬, y, zはベクトル, 1, A, FLは実数を表わす. (実数についての性質は仮定 する.) 3:, yは,ベクトル∬, yのスカラー積を示す. こうしたディユドンネの提案の背景としては,現代数学における-レメソツを集大成しようと uサ しているブルバキ(BOURBAKI)達の動きを無視できないが,このことはいずれ「数学における 論理と公理」の観点から,別途に考察する予定である. ショケ ディユバンネほど極端ではないが,ベクトル的な立場を濃く惨み出させ,一万, -レメンツ流 の重ね合わせによる三角形の合同によるスタ-トに代わって,裏返し(線対称)の考えを基礎に 置いて,いわば, 「三角形の幾何学」に代わる「平行四辺形の幾何学」を主張するものとして, サぢ ショケ(G. Choqet)の試案がある. ショケは,その試案の前文で次のように述べている. 「ユークリッド・ヒルベルトの公理は,基礎概念として,長さ・角・三角形をもつ.それらは空 間のベクトル構成を大へんみごとに隠したので,人々は100年以上もベクトルの概念に気付なか った.」 「人々は三角形をみたが, (2000年以上も)平行四辺形はみなかった.」 ショケの公理系のうち主要なものを挙げよう. I.結合公理(Inzidenzaxiome) a) 7rのことなった点の対(ォ, V)に対して a. bを含む-つただ一つの直線が存在する. (読) 7tは平面を示す. b)任意の点aを通って,任意の直線Gに-つただ一つの平行線が存在する. (註)平行線:ガ上の二つの直線Gi, Giは, Gi = G2,または, Gl n Go =cのとき平行 であるとよばれる. Ⅱ.順序の公理(詳細は略する. ) Ⅲ.測度(距離)の公理(同上) Ⅳ.折り返し(対称)の公理 任意の直線Gについて少くとも一つのGに関する折り返しが存在する. もちろん,上記の公理群にまじって,各種の定義(たとえば, Isometrieなど)が与えられて いる.それらの理論の中で,特に注目しておく必要のあるのは次の点である. 距離の公理の中に, 0 7T上の任意の3点d x b において,次式が成り立つ. d(si)≦d(a,亘) +d(∬,b) 等号は, g e 〔a, b〕と同等である. を掲げることにより,垂線の一意性や,線分の垂直二等分線の性質などが導かれるという段取り 小 川 庄 太 郎 になっていることである. 角および角の測度は,上述のディユドンネと似通った考えで,ベクトルの内積の公理のもとに 展開される. 変換の考えを重視するもの(主にドイツ) ショケの考えでは,上記のように変換(折り返し-対称変換)が一つの柱になっている.この 変換の考えを初等幾何に導入しようとする試みは,特にクライ./の流れを汲んでドイツにおいて いろいろとくふうされている. (12) 次のその一例として, E. SPERNERの試案を概観しよう. 彼は,次のような公理群を提案する. I.結合公理(Axiome der Inzidenz) Ⅱ.直交公理(Axiome der Senkrechtstehens) Ⅲ.線分合同公理(Axiome der Streckenkongruenz) Ⅳ.鏡像公理対称公理(Spiegelungsaxiome) Ⅴ.中点公理(Mittelpunktsaxiome) このような公理群から,運動(Bewegung)を定義し,運動によってえられる図形の相互関係 として合同の概念を導く. ここで特に顕著なのは, Ⅴ.の中点公理群である.すなわち, V-l.任意の線分PQ {P≒Q)はただ一つの中点を持つ. Ⅴ-2. S虚p,Q,Rにおいて, P≒Q, PR-QR (Iで定められる合同のこと)で, MがP, Qの中点であれば, MキRのとき, s (PQ) ⊥g (RM). すなわち, -レメンツ流ユーク7)ッド幾何における二等辺三角形の基本性質(定理)が,ここ では公理として採択されていることである. (13) (14) このような事情は、彼と類似の方式を提案するH. Ehrhardt, O. Schmidtについても,す べて共通である.結局は,ヒルベルト(D.Hirbert)のように, S-A-Sの合同公理から出発す るか,上記のように, V-2公理から出発するかの択一である.なお,こうした変換(対称移 動)についての純粋に数学的な分析は, F. Bachmannによって, comprehensiveに行われて (15) ssa 上記の公理群で,線分や角の相等は measureに関係なく定められていることは,留意してお く必要があろう. パーコフとピートレイ iHil /ミ-コフ(G.D.BIRKHOFF)と ど-トレイ(R.Beatley)は, 1930年に,ユークリッド (-レメンツ流)幾何がmetricな見方を欠く点を補うことを主限として,ざん新な提案をした. 第一の特色は測度との直結であって,それは次のような原理(公理)であらわされる. I.どんな直線上の点も,目もりの差が点の距離を表わすように目もりづけられる. The points on any straight line can be numbered so that number differences measure distances. Ⅲ.共通な端点をもつすべての半直線は,目もりの差が角度を表わすように日もりづけられ る. All half lines having the same end point can be numbered so that number differences 数学教育現代化の課題(1) <ユ-クt)ッド幾何をめぐって> measure angles. もう一つの特色は, S-A-S合同,平行線の性質,相似の考えをまとめるものとして,次のよ うな原理を立てる. Ⅴ.一つの角が等しくて,それをはさむ辺が比例するような二つの三角形は,相似である. こうした5個の原理(公理)から,相似(合同を含む)定理の残りのケース,三角形の内角の 初,平行線の唯一性などの性質を導くのである. ・1了 1 後に二人は,この構想をもとにして,実際のテキストも作製した. 初等幾何の教育的なプラソにおいて,平行線による比例,相似条件の展開のくだりで,測度, もう少し厳密にいうならば,線分の長さの比の有無(有理的にはなくても無理的にはあるなど) が本質的にからんでくるのは,我々が承知しているところである. -レメンツでは,これを大小とその限界という立場で辛くも(あるいはみごとに)切り抜けた. ヒルベルトは, 「連続の公理」を設定した.このように幾何学と実数との関連を前面に押し出し, これを出発点とすることはたしかに注目に値する.それは数学的に巧妙であるという意味の外 に,教育的にも, 「公理」として受け容れられうるものだからである. このバーコフらの測度の考えは,次に述べるS.M.S.G.の実験教科書でも採用されている. S.MH S.G. 3il翌E S.M.S.G.の実験教科書Unit13, 14には,教科書としてほずいぶん厳密な形でユ-クT)ッド 幾何が展開されている. その基本的な立場は,メ-コフ流のmeasureとの関連,点の集合として図形を観るなどを重く 視ながら, S-A-S合同公理,平行線の公理から合同の理論を組み立てようとする。このように, いくつかの新しい観点をふまえながら 全体の構成としては, -レメンツ-ヒルベルト的な考え に忠実であるといえる. (たとえば, S-A-S合同公理から, A-S-A合同定理, s-s-s合同定理を 導くくだりなど)いうならば,ヒルベルトの公理体系の-イスクール版ともいえるものである. その実験教科書としてほリゴラスな性格は,次のようなBetweennessに関する表現でもうかが -1 定義 点Bは,次の場合に,点Aと点Cとの間にあるという. 1) A, B, Cは同一直線上のことなる点である. (2) AB+BC-ACが成り立つ. なお,集合という概念を表面にうたったことは,その後の教育数学にさまざまの波紋を投げか けた点で注目する必要がある. 以上,ユークリッド幾何の改造案として目立ったものを挙げたが,たとえばChoquetのいう 3il貰E ように,これらの試案は,教育数学としてのStamm,を示すものであって決して現場での指導が 試案そのままで行われることを期待しているものではないことは留意しておく必要がある.たと えば, S.M.S.G.のUnit13,14 (Geometry)は,モイズ(E. E. Moise)が主となって編集し しごLl- たものであるが,彼自身による教室用教科書はやはりかなりくだけたものになっている. 一例を挙げるならば,三角形の合同については, S-A-S, A-S-A. S-S-Sの三つのケースを観 察によって導入したあとで,三者ともこれをpostulate として認めることにしている. 我国においても S-S-S合同条件を,他の合同条件から導き出す(理論的にはこのほうが筋が 通る)方式が現場で容れられず,現在ではほとんどの教科書が上記と符合する流し方になってし る.このことは,数学的な「すじ」に対して,教育現場としての一つの「すじ」がいれば客観的 小 川 庄 太 郎 に存在することを示唆するかの如くである. さて,ディ-ドンネであれ,ペ1)-達であれ,意図するところは,ユークリッド幾何の教育的 な改造であって,ユークリッド幾何そのものの否定ではない.ディユドンネはそのはげしいスロ ーガンにもかかわらず, 「私の論争(攻撃)は,幾何を教える目的に対するものでなくて,幾何 31囲ilE を教える方法に対するものである.」ときっぱりといい切っている. L一二1 しかし,ここに遠LLlやケメニーの次のような思い切った提案もある. 遠山:いままでの幾何教育の目的は二重であった. ① 図形や空間の性質を知る. (参 論理的思考の訓練 このために成功しなかっ.もちろん幾何は必要ですが,論理的思考の訓練を幾何から はずしたらどうか.公理から展開していくやり方において,幾何は最も不適当ではない か.論理的思考を養うというのなら,記号論理を早くやったほうがよい. KEMENY :数学でたいせつな論理というものを教えるという目的のためにユークリッドを使 うというのは,最も悪い選択をしてしまったわけです. これらの議論は,少なくとも従来の考え方に立てば,幾何の教育目的の本質的な面を抹殺する ことであり, 「もちろん幾何は必要ですが」の言葉にもかかわらず,通念的には,ユーク7)ッド 幾何の実質的否定と受け取られる提案であろう. 以上の,ユ-クルッド(-i,メンツ流)幾何に対する批判・改造についての諸対策をあえて模 式的に示すならば,次のようになる. 。 根本的な批判 ・遠山,ケメニー 。 代数的(ベクトル的)改造 ・ディユドンネ,秋月器 o 測度(おいび集合)の重視問 ・シ n v 'ノミ-コフ 。 幾何空的な見方(変換の重視) 。 伝統的な手法の尊重 ・ドイツ(シュペルナーなど) ・モイズ (*秋月の提案については,後に述べるが,ベクトルを重視することを力説している.) ペリー以来の課題に対して,このような諸方策を参考としながら,なおあえて回答を与えよう とするた糾こは,まず第一に,幾何教育の目標,さらに「幾何学観」ともいうべきものの分析が 必要である. 3.幾何学朝の変遷(直観と論理をめぐって) 幾何学とは一体何なのか,幾何学を人々はどう捉えどう評価すべきなのか.この点について論 じようとすれば,ギリシア以来の幾何学に対する,場合によっては数学の本質そのものに対する 考え方とその変遷について触れないわけにはいくまい. ディユドンネは,中等学校における幾何教育の主な任務として,一つには空間の直観を養うこ とであり,もう一つにはその直観をあとで利用できるような論理的なわくに組み入れることであ 3Wg るという.この言葉に付加していえば,テーマの一つは「直観と論理」であり,もう一つは「論 理と公理」である.本稿では前者に焦点をあてて,概観ながら歴史的な展望を試みよう. 数学教育現代化の課題(I) <ユークリッド幾何をめぐって> ギリシア数学 ギリシア数学を象徴するものはいうまでもなく,ユークリッドの-レメンツ(幾何学原本)で ある. (もちろん,ギリシア数学において,ユークリッドとともに双壁ともいうべきアルキメデ スの存在は当然考察に加えられなければならないものである.ことに,アルキメデス,ケプラ-, カバ1)-1),パスカル,ウオリスとつながる系譜は,数学史的にたいせつな意味をもつものであ る.しかし,この点について直接論及することは,次の機会を得たざるをえない. まず,定義・公準(postulates)公理(共通概念) (common notions)などの基本原理を設定 し,それを証明によらずに要請として承認した上で,それらを出発点として以後の命題を論理的 に導いていくという,エレメンツに示された数学の「公理的方法」は,精疎の差こそあれ,現代 数学といえどもそれから一歩も踏み出しうるものではない.まさにモイズのいうように, 「人類 しごLl・ の最も印象深い知的偉業の一つ」である. エレメンツにおいて特徴的であるのは,作図への依存である.そしてこの「作図」の存在意義 (25) (26) は,ツオイテン(H.G.Zeuthen)やブートルー(P.BOuTROUX)のいうように,これを存在証 明(Existenzbeweis)とみるのが,これまでの定説になっている. 作図の公準 。 任意の点から任意の点へ一つの直線を引くこと 。 任意の中心と距離(半径)でもって一つの円をかくこと (27) は,たしかにヒ-ス(T.L.Heath)のいうように,先行する円,直径,正三角形などの定義が nominal definitionでなくて, real definitionであることの保証のためのものとみることができ よう.事実,命題1においてこの公準をもとにして正三角形が作れることを証明している.正三 角形とはnominalな存在でなくて, realな存在なのである. しかし,このように開巻当初のrigorousな構成も,たとえば第11巻以降の空間図形に関しては 当然のことながら, 「作図(構成の公法)」的なものは影をひそめている.五種の正多面体(プ ラトン図形ともいわれる)を作ることを述べて(第13巻) -レメソツの全巻を閉じることは,お そらくユークl)ッドが第1巻を書き始めるときに既に予定されていたと思われるが,この正多面 体の構成などは,まさに理念的,念頭的のものである.そこには、存在に対する不安のかけらも ない. ギリシアの数学者達も,もちろんこの「作図」の限界は自覚していたに違いない.もし, 「単 純なるもの,美しきもの,調和あるもの」の極致としての正面多体に対するギリシア的な憧煤が なければ,あるいは第11巻以降は書かれなかったかもしれないという大胆な想像も,許されるか もしれない. 「幾何学とは或は生成し,或は消滅するものの認識ではなくて,恒常的に存在しているものの (28) 認識のためのものである.」という,プラトンの言葉のように,幾何学が感覚的な不安定さから 脱却して,ゆるぎない理論であるためには,公理的な体系に仕上げること以外に方法はなかった. しかし,そこになお作図的な構成の保証を必要としたのほ,単に「存在証明」の必要のためのみ であろうか. エレア学派のツェノン(ゼノン) (Zennon(B,C,450頃))などが提出した/くラドックスは, Bl革互E アリストテレスなどの批判にもかかわらず,いわば数学上の認識論(特に「無限」に対する)に かかわる深刻な問題提起である. 10 小 川 庄 太 郎 連理も「理」である以上,一面で理と直観に訴えるものを持っている.むしろ,直観に基づく 点があるからこそ,我々を惑わすものなのである.あの優れた数学者達が, -レメンツ或は,そ のもとになる数学を建設するのに際して,これらの道理を意識しなかったとは,とても考えられ (30) (3D (32) ない.まして,下村や,白石,三宅などが指摘するように,もともとギリシアの哲学者達が悪し きものとして敬遠し,数学者達がその対策に苦慮した「無限」 (むしろ無限定(アペイロン))に かかわる連理であるからは. とすれば,このような悪しき直観に基づく悪しき論理を拒絶するためには,正しい恒常的な直 観を確立するより外はない.幾何学において,ぎりぎりの単純なものとして,直線と円をえらん だわけである. 幾何学の論理が連理などの入る余地のない恒常的な真理であることを主張するために,単に 「存在」の保障だけではなく,それを正しい方法によって「矛盾のない」世界として構成されう るものであることを保障するものが作図であるとすれば,その存在意義は, ・存在の保障 ・無矛盾の保障 の二つの面をもつというべきではなかろうか.筆者は,この後者の面についても十分な考慮を払 う必要のあることを,新しく提案するものである. ギリシア数学はこのように,直観と論理のカテゴリーについて,すばらしい感覚を持ってはい たが,また一面,ユレメンツの「定義2」や「命題4」の合同に関する証明(これがアドラーの 指摘する循環論法である)などの図形についての不用意な扱いに見られるように,直観と論理の 素朴な密着を無意識に許している点のあることは明らかである.そこには,方法論としてすぐれ たアイディアを発揮しながら,本質論として,たとえば「直観の限界」などに対する積極的な反 省はなく,両者の予定調和的なものに安んじている. 近世の数学(パスカル・デカルトにおける数学) し3S) パスカルは,パンセの断章6-ど, 「知性がそこなわれるように直観もそこなわれる.」と述べ, IS-】1 デカルトもまた, 「感覚はしばしば我々を欺くものである.」とその著書の中で述でている.そ れならば,幾何学の根拠となるべき直感はどこに求められるのだろうか.パスカルは, 「幾何学的 精神について」において, 「幾何学の秩序は自然の光明(lalumiとre naturelle)に照らして明確で恒 常的なものだけを前提とする.それ故,それは完全に妥当し自然(自然の光明)が論述にかあっ し35) て,それを支えるのである.」と述べている. 3苧3jE このスコラ哲学の言葉「自然の光明」に関しては,他の場所で彼はより詳しく次のようにいう. 「当のことがらを感覚的であるか理性的であるかに応じて,それぞれ我々の感覚または理性には っきりと現われてきて,もはやどうしてもその確かさを精神が疑いえないというようになるまで は,決定的判断をさしひかえるべきである.そして,このようにその確かさのもはや疑いえなく (37 なったことがらを名づけて,我々は原理もしくは公理とよぶ.」 直観と論理の関係は,パスカルにおいてはいわゆる幾何学的精神(1′esprit de geotnetrie)と, (ニ1呂I 繊細の精神(I/esprit de finesse)の対比において,鮮かに示されている.ここでいう幾何学的精 神は, 「(原理から)順序を追って論証する」能力のことであり,繊細の精神とは, 「微妙でかつ 多数のことがらを正しく感じ,その感じに基づいて正しく公平に判断するた捌こ要する極めて微 妙な清澄な感覚」のことをいう.これらを保証するものは「自然の光明」である. 数学教育劉七化の課題(I) <ユ-クリッド幾何をめぐって> Ill しIl!1\ 中村も指摘するように,パスカルは定義をその本質上公理と同格においた.たとえば, 「定義が 作られるのは命名される事物を指示するためであって,その本性を示すためではない」のであっ て, 「すべてこれらの用語は,自然の光明によってか幾何学が与える定義かによって,完全に理 解されるのである.」このようにして,幾何学の提起するすべての命題は自然の光明か証明かに よって完全に論証される.ここでは,定義されたものに対するギリシア的な存在および無矛盾の 保証の要求は問題にならない.なぜならそれは公理と同格であるから. さらに, 「ある命題の否定を吟味して,これが虚偽であるなら,その命題は我々の理解を超え るものであっても大胆にこれを肯定することができる.」という言葉からもうかがえるように, 無矛盾ということについての意識もはっきりと打ち出されている. デカルトは,哲学の根拠および方法についてはともかくとして,幾何学の根拠そのものについて は,パスカルほどの精密な考察を加えなかったが,いわゆる「解析幾何学」という具体的な分野 で幾何学に新しい展開を与えた. 「デカルトの幾何学」は,幾何学と代数とを総合する端緒として大きい意義をもつ.彼の言葉 「a2あるいはb3などで表わされるものによって,代数学で使いなれている名前を用いるために, りLll 私はこれらを平方とか立方とかの名称で呼ぶが,私はやはり通常全く単純な線しか考えない.」 からも知られるように,そこにはギリシア数学に対する意識的な訣別がある. -レメンツでのい 3引ilE わゆる「幾何的代数」では, dimensionが厳格に守られていた.従って,たとえばa-62に相当 する式は考えられず, a x e-b2の考えでしか表現されなかったのである. ある意味では,ギ7)シアの幾何学は量の質的な意味に忠実であり,デカルトの幾何学は量の質 的な意味を離脱して数的な形に移ったともいえる.ギリシアの幾何学・デカルトの尭何学の対比 紘,単にそれぞれ量の考えの欠如・量の考えの確立というような一面的な標語の対比では片付け 得ないものがある. パスカル・デカルトに代表される近世の数学は,確率・無限小幾何・解析幾何などの分野も開 拓されて豊かになり,方法論についての鋭い考察も哲学的な思索を背景に展開された反面,上述 の「自然の光明」という言葉に象徴されるように,あのギリシアにおける素朴ながらもrigorous な精神は,この時代においては本質的にはいまだ凌駕されることはなかった. ただ,直観と論理のかかわり合いや,論理的に無矛盾であることについての意識はかなり進ん できたとみることができよう. 19世紀以降の幾何学 もし人が「自然の光明」に照らされた正しい直観,あるいは先験的な悟性にたまる限り,何人 も疑うことのできない真理であるとされてきた公理が,いわば自由な思惟の形成であると見られ るようになったのは,いうまでもなく1830年前後における非ユ-クリッド幾何学の発見にもとづ くものである. 集合論の創始者カソトール(G. Cantor)は, 「数字の本質はまさにそれの自由にある.」と いった.直観の通訳にすぎなかった論理は,いまや直観に対して論理自身の存在理由(raison d/etre)を持つに到った. ヒルベルトの幾何学基礎論はこのような背景のもとに, 1899年発表された.ここにギリシア以 来の幾何学がようやく完全な公理体系として組み立てられたのである. たとえば,そこには点・直線・平面などについての定義と結合公理がある. 小 川 庄 太 郎 I1 2点A, Bに対し,これらの2点の各々と結合する少なくとも一つの直線が存在する. I4.同一直線上にない任意の3点A, B, Cに対しその各点と結合する1平面αが存在す る. (以下略) ここで,本質的には点とは何か直線とは何かは問わない.まさに歴史的挿話のように,テーブ りごl ル,いす,コップであってもさしつかえないわけである 最も本質的なことは,公理系に矛盾の ないことの保証である.ヒルベルトは,実数体系が無矛盾であれば,この幾何学体系も無矛盾で あることを示した. 彼の基礎論では,ギリシアの数学者が作図を限拠とした線分・角・三角形の合同に関する基本 性質などのうちで,理論の出発点となるものはすべて公理として掲げられる. 完成された数学の最もオーソドックスな形式すなわち公理化された数学の性格はかくの如きも のである.すなわち,公理体系の条件の一つとして最も大切なことは無矛盾であって形式的には, 各用語の実体は問われないことになる.ここに到って,ギリシア的数学観ははじめて止揚された といえる. それならば,数学ことに幾何学における直観の本質的な役割りは終ってしまったのだろうか. ここに注目しなければならないのは,集合論に端を発し無限集合に関するラヅセル(B. Russel) の連理などをめぐって展開された数学の基礎にかかわる論争である. 43) (44) 下村や末綱に従えば,次の三つの対立する立場に分けられる. (左端は代表者) ラッセル・-・・・論理主義:数学を論理に包摂する.数学は形式論理の一部であるとする. ブラウアー-・直観主義:ラッセルの連理にみられるような矛盾を避けるた釧こ,具体的直 (L. E. I. Brouwer) 観の範囲に数学を限定しようとする. かくして直観と論理は幾何学にとどまらず数学自体の成立の根拠にかかわるものとして,しか もアンチテーゼとして表面化されたのである.これに対する第三の立場は,ヒルベルトによって 代表される. ヒルベルト -形式主義:数学を論理学から導くことは断念し,両者を同時的に共同的に展 (公理主義)関する. (45) ヒルベルトは,その著書「直観幾何学」の序文に次のように述べている. 「すべての科学的探求におけるのと同様に,数学の研究においてもまた二つの反対の債向が見 られる.その一つは『抽象化』の傾向で,これは幾重にも重なり合った数学的事実から論理的な 立場を作り出し,これらの事実をまとまりを持った一つの統一体に仕上げようとするものである. これに対してもう一つは『具体化』の傾向で,これは対象をむしろそのままの生きた姿でとらえ, その内面的な関係をさぐろうとするものである. --・現在では,幾何学を直観的にとらえるやり 方が非常に重要な役割りを演ずるようになってきている.」 し」い ベッツ(W.Betz)は, 「幾何学は,定義されない諸要素,それらの関係,証明されない命題 (公理)などから論理的に演障されるという意味においてのみ科学でありうるが,その記述に関 する究極の真実性(ultimate tくtruth" )を我々が問うとき,たちまち経験的直観の領域に我々は 戻ってしまう.」という. ト1Il また,秋月は, 「数学における論証とは,決して論理と同義語ではない.数学における論証は 論理と直観のInteractionである.」と断じている. ツェノンの連理は連続に関するものであるが,それは無限点集合の概念を抜きにしてほ道理と しての意味を失うものである.ラッセルの連理もまた,無限集合に関するものである.有限なも 数学教育現代化の課題(I) <ユークl)ッド幾何をめぐって> 13 のに対しては直観は比較的容易にこれを処理しうるが,無限に対しては我々は論理によって処理 するしかないのが真実である.とはいうものの,無限(無限大,無限小も含めて)に対して迫る には,やはり有限を足場とするより外はない. (たとえば,自然数に関するペアノの公理でもこ の点が明瞭に現われている.) このように直観と論理のデリケートな問題には常に無限が何らかの形で介在する.この点に関 しての深い考察はこの稿の目的ではないが,少なくとも,数学から無限の概念を除くことは不可 能である以上,論理がそれ自身としてのレゾンデートルを持つことが不可避であることはいえよ ラ.と同時に,論理にとっては,直観がその唯一の母胎であることも明らかである.ヒルベル ト・ベッツ・秋月などの主張は当然肯定すべきものであろう. 現代数学における幾何学的思考の意義 この直観の意義に関する問題は,幾何学だけではなく,現代数学の性格の把握にもつながる. (48) たとえば弥永は, 「現代の数学は著しく代数化されつつあるようである.しかし,それはアラビ ア式の単に算法を主にした「algorithmicな」代数ではなく,ギリシア的な直観と結びついた代 数である.数学の根底にある普遍的な思想を捉えて,これを抽象し,公理化・形式化・代数化し て,しかもそれを幾何学的・直観的に処理する.これが現代数学の方法である.」と述べ,また り!11 山崎は, 「いろいろな推論の直観的な支えとなる概念や手法に対してくく幾何学的"とよぷことが 多い.数学が抽象化するにしたがって,古来の意味での幾何学はその領域を相対的に縮少したが, 反面幾何学的な考え方は拡大する傾向である.」と述べている. 以上,断片的ながら代表的にとりあげた諸氏の主張によって,現代数学における幾何学の意義, 正確にいうならば幾何学的思考の意義ほほゞ了解されよう.秋月もいうように, 「幾何学的なも 、sol のは現代数学をリ-ドする」ものであり,また「ユ-クリッドの精神は現代もはなはなしく生き し:>p て活動しているtoo modernな存在である.」といえよう. 4.本 稿 の 結 び 以上,数学教育現代化の動きの中での幾何教育のあるべき方向を模索するため,第一に数学教 育改革の由来,第二に各種の改造の提案,第三にギリシア以来の幾何学観(とくに「直観と論理」 の視点から)をごく概略ながら展望してきた. このような考察によって,課題に対する解答についてはある程度焦点がしぼられてくる.それ を象徴的に一言にしていえば, 「geometryそのものよりもgeometricな考えを」と表現するこ とができよう.これは,たとえば仔unctionそのものよりもfunctionalな考えを」といったとし た場合とは違ったニュアンスを持つものである.詳細は次稿に譲るとして,殊に教育的な場面に おいては,直観と論理の機微な関係がくくgeometric'な考え方をという方向づけの,最も重要な momentであることが明らかにされよう. 一方論理の問題は,公理的な方法につながることは当然である.ベッツの上記の言葉のように, 数学が精密な理論科学であるためには,その公理的建設が最後のそして最も強力な手段である. 教育的立場においても, 「論理的な考え方を養なう」ことは,大きい目標の一つである.論理的 思考と,公理的理論展開とはほとんどanalogue と考えられようが,はたしてこのことを安易に 受容してよいものであるのだろうか. 現代化に呼応するものとしての幾何教育についての具体的な方策を提案するためには,まずこ LEI 小 川 庄 太 郎 の点についての分析が必須となる.従って次稿においては第-に論理的思考と公理論的方法につ いて触れることになるであろう. K^^^^^^Kiu 1 J. G. Kemeny : Report to the international congress of mathematicians., Math. Teacher, 56 (1963), No. 2. 2 小川庄太郎:中学校新学習指導要領をめぐって(主としてその現代化の姿勢について), 算数と数学, No. 204 (1965). 3 阿部浩一:幾何教育の混迷,大阪教育大学紀要,第16巻, V, 1, (1967). 4 小倉金之助,鍋島信太郎:現代数学教育史,大日本図書. 5 小川庄太郎: 6 横地 清: 数学科の目標と数学観,算数と数学, No. 171 (1966). 7 I.Adler What shall we teach in high school geometry., Math. Teacher, 61 (1968), No. 3. 8 I.Adler A new look at geometry., Dobson. 9 0.E.E.C. : New血inking in school ma血ematics. 10 阿部浩一: 数学教育現代化の発想と理論,大阪学芸大学紀要,教育4号(1937),同第2報,同5号 世界の算数数学教育,国土社. (1938). ll G.Choqet : Recherche d'une axiomatique commode sour la premier enseignement de la ge0metric, Les brochures de A. P. M. Nr. 3. Paris. (C. E.Stellerによる独訳が, Math. Unter. Jg. 13 (1967), Heft lに載っている.) 12 E. Sperner : Kongruenz und Bewegung., Math. Unter. Jg. 5 (1959) ,Heft3. 13 H. Ehrhardt : Der Spiegelungsbegriff in elementaren Geometrie-Unterricht der Gymnasien., Math. Unter. Jg. 5 (1959), Heft3. 14 O. SCHMIDT : Erfahrung mit Axiomatik in Geometrie-Unterricht der Mittelstufe., Math. Unter. Jg. 5 (1959), Heft3. 15 F. Bachmann : Aufbau der Geometrie aus dem Spiegelungsbegriff., Springer. 16 G. 17 G. D. B王RKI王OFF, D. Birkhoff, R. R. BeatlEY Beatley "蝣 A : new Basic approach to elementary geometry., N- C. T. M. 5(1930) geometryりChelsea. 18 S. M. S. G. : Geometry 1, 1., Yalle Univ. Press. 19 11参照 20 E. E. Moise, F. L. Downs : Geometry., Addison-Wesley. 21 9 参照 22 ケメニー,遠m.矢野,座談会「新しい数学を教えよう」,数学セミナー(1965,7月) 23 9 参照 24 E. E. Mo王SE : Thephilosophyof theS.M.S.G.,日本数学教育会誌S.M. S. G研究セミナー 報告集(1964). 25 H. G. Zeuthen : Die geometrische Construction als t'Existenzbeweis" in der antiken Math. Ann. 47 (1896). 26 ピエール,ブ-トウル- :数学思想史(河野訳),岩波 27 T. L. Heath : The thirteen books of Euclids elements. Vol. 1. (P. 143,) Dover. 28 プラトン:国家編, 7.527. Geometrieリ 数学教育現代化の課題(I) <ユークリッド幾何をめぐって> 15 29 アリストテレス : フイジカ, 230-240.a. H M 30 下村寅太郎:無限論の形成と構造,弘文堂. 白石早出雄:数と連続の哲学,共立出版. 三宅剛- :数理哲学思想史,弘文堂. N M ^ LO CO t^ OO O^ O co co co co n n co パスカル:パンセ(Pens色es et opuscules, Hachette. P.322) デカルト : 自然の光明による真理の探研(森沢),創元社. パスカル:幾何学的精神について, (Hachette版P.168) 34の森訳註(P. 89) パスカル: ノエル神父への書簡, (パスカル書簡集), (由木訳), (白水社). パスカル:パンセ,断章1. (Hachette版, P.318) 中村幸四郎:数学史,基礎数学講座,共立出版. i-t C^ CO m ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^・4 5 5 デカルト :幾何学(デカルトの幾何学,河野訳,自林社). Dover版あり. 27Vol. 1. P. 372 ヒルベルト 30 参照 来朝S'.!ヒルベルト, W. Betz 秋月庸夫 弥永昌一 山崎圭次郎 秋月庸夫 47参照 :幾何学基礎論, (中村訳, P.244),弘文堂. :数学と数学史,弘文堂. フォッセソ:直観幾何学(芹沢訳),みすず書房. The teaehing of intuitive geometry, N. C. T. M. 8 (1933) :数学教育今後の方向について,数学教育, No. 50 (1964) :純粋数学の世界,弘文堂. :大学数学教育の現代化,数理科学, (1956年1月) :幾何と代数,数学セミナー, (1963年8月) 以上の文献のうち, 若干のものほ,本学竹村弘教授,大阪教育大学阿部浩一教授,東京小松川高校和田古 左衛門教諭のご好意によって参照しえた.ここに厚く謝意を表する.