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中世におけるウッドストックとその近辺

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中世におけるウッドストックとその近辺
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中世におけるウッドストックとその近辺
小川, 晃一
北大法学論集 = THE HOKKAIDO LAW REVIEW, 21(1): 167
1970-08
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/27890
Right
Type
bulletin
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Information
21(1)_P1-67.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
中世におけるウッドストックとその近辺
中世に、おける
ドストッ ク と そ の 近 辺
'EEノ
ローマ街道(エイグマン街道)が南西から東北に走っていた。この
ード近辺及びド l チェスタ l近 辺 と と も に 、 当 時 最 も 人 口 が 密 な 地 帯 の 一 つ で あ っ た と 思 わ れ る 。
ー ウ ェ ル 川 以 西 の 州 内 の 部 分 に は 、 かなり多くのロ l マ ン ・ ヴ ィ ラ が 存 在 し 、 こ の 部 分 は 、 州 内 で は 、 オ ッ ク ス フ ォ
街道は東方ではピスタ!の地点に達し、ここで南北にはしるロlマ街道と交錯していた。この街道をはさんで、チャ
現在の町の位置から約北に一マイルの位置に、
ドームズデイ・サーベイ以前のウッドストック近辺の状態はそれほど明らかではない。
ウ
オ
︽ア γグ ロ ・ サ ク ソ ン 年 代 記 ︾ 及 び ウ ェ セ ッ ク ス の 征 服 に 関 す る 伝 説 を 信 頼 す る と す れ ば 、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 近 辺
北法2
1
(
1・
1)1
晃
i説
i j
i
は 、 メ ル シ ア 王 国 の 興 隆 ま で 、 西 サ ク ソ シ 王 国 の 一 地 方 を な し て い た 。 アングロ・サグソン人は侵入にあたり、
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論"
説
論
クスフォード北方でもながく極めて激しい戦闘をなし、五五六年にはパンベリイの近くで土着のプリトン人に彼られ
もする。しかし、七世紀始め(六一四年)バンプトンの近くと思われるところで、 シネジルス及びクウイケルムはブ
リトン人を破り、二千人ほどを殺害したのである。その後、 メルシア王国が勢力をいつ拡大し、 オックスフォード近
辺 が 酉 サ ク ソ ン 王 国 の 安 定 し た 勢 力 圏 か ら い つ 離 れ て い っ た か は 正 確 に は わ か ら な い 。 六 二 八 年 に は 、 メルシアの偉
大なる王ベンダは、南下し、 サ イ レ ン シ ス タ ー の 近 辺 で シ ネ ジ ル ス と ク ウ イ ケ ル ム と 戦 っ た 。 彼 は 、 ﹁ の ち 条 約 を 結
び﹂、これによって西サクソン領はかなり削減されたはづであった。テ l ムズ河は両王国の国境となったであろうか、
そ し て オ ッ ク ス フ ォ ー ド の 近 辺 は こ れ に よ っ て メ ル シ ヤ 領 に な っ た で あ ろ う か 。 し か し 、 ベ lダ に よ れ ば 、 六 三 四 │
五年、 ピ リ ヌ ス は 宜 教 の た め 、 西 サ ク ソ ン 領 の ド l チェスターに僧院を聞いた、 と さ れ て い る の で あ る 。 が 、 と も か
くもこの近辺は両王国の国境地帯にあたり、紛争は近辺でたえず起こっていたにちがいない。もっとも、 七世紀の第
四・四半世紀の始め頃には、現在の州の大部分は、確実に、西サグソンの北部辺境の範囲外にあった。以来、メルシ
ヤの支配がいつまでつづいたか明らかではないが、八世紀半ば(七五二年)パフォードと思われるところで西サクソ
ン王クスレドはメルシア王エセルベルト王を敗退せしめ、ウィッチウッドの森とテ I ム ズ 河 に は さ ま れ た 部 分 は 再
び、戦争の結果いかんによって所属がきまる不安定な地帯となった。メルシアの大王オファが出現するに及び、ベン
シントンの戦いでの勝利によって、この地方は, Aルシア領となったであろう。しかし、八O 三年に即位した西サクソ
ン王エグパ l トはこの地を最終的に西サクソン領とする。というより彼は英国全体の支配を目ざしていたのである。
彼によって、決定的にこの地方は西サクソン王の下にあるメルシア王の領地の一部とされたのである。 アルフレッド
大王がデlン人に対し西サクソンを防衛している聞の七年間は、この地は、他のメルシヤの領地とともに、数度デl
ン人の劫略をうけ、あるときは、デ l ン人は英国人の小王ケオウルフを屈服せしめ彼をしてメルシアを統治せしめも
北法2
1(
1・
2)2
中世におけるウッドストックとその近辺
した。しかし、 アルフレッドはやがてデ l ン 人 を 破 り エ ト モ ア の 条 約 ( 八 七 八 年 ) を 締 結 し た 。 こ の な か で 彼 は デ l
エセルレッド(義息)をメルシアの︽エルダ
ンロ!の地域を認めたが、彼は将来のオックスフォードシャ!の地域をこのなかに含ましめなかった。彼はまた、
グパ l トの先例に従ってこの地帯を小王の支配の下におくことをせず、
ーマン︾とし、彼にこの地を与えたのである。
ロンドン、 オックス
一
O 世紀以前にはオックスフォードには城は存在しなかったであろう。しかしそれまでにはすでに辺境の町として
かなりの重要性をもち、近辺一帯の中心となっていたであろう。九一一一年に﹁エドワード王は、
フ ォ ー ド 及 び オ ッ ク ス フ ォ ー ド に 属 し て い る 地 方 を 取 っ た ﹂ と ︽ 年 代 記 ︾ に し る さ れ て い る 。 彼 は デ l ン人と戦い彼
エドワードとエセルフレ lドの寡婦(大王の娘﹀の業績にきしうるであろう。
らを鎮圧したのである。ウェセックス内の︽州︾は九世紀にまでさかのぼりうるが、 メルシアの︽州︾はほぼ一 O 世
紀以後形成されたといえるのであり、
この一一人は、現存する町を城塞化し、 そ の 周 囲 に あ る 地 方 を も 保 護 す る と い う 政 策 を と っ た 。 オ ッ ク ス フ ォ ー ド に 属
する範囲は、北方では、九一一一一年に城塞化されたウォリックの範囲と九一四年に城塞化されたノサンプトンの範囲、
一
O 世紀につくら
東方では、九一五年に城塞化されたバッキンガムの範囲、西方ではグロ l スターの範囲と、境を接したのである。州
はおそらくオックスフォードの町や城を中心とする領域としてこうして形成されたにちがいない。
E-E円佐官︾は、 オックスフォードの町に属する地方として二四O Oハイドがあるとされてい
れたと思われる︽回目的
一一世紀から始まると思われる︽。。ロロミ田正巳唱︾においても州に二四O Oハ イ ド が あ る と さ れ て い る 。 ま
北法2
1
(
1・
3)3
るし、
た、この数字は、パラーを除いたド i ムズデイ・サーベイの数字とほぼ一致もするのである。こうしたことは、州が
一つはデ l ン人の再侵冠の問題と、
町の周囲に形成されたということ、 またその範囲が後の州の範囲とほぼ一致することを示しているといってよい。
州の形成からノlマン・コンケストまでのオックスフォードシャlの歴史は、
ニ乙
一つは大伯領の問題とに関聯する。 エドワードの併合(九一一
ll
二年)の後、
オックスフォードは、バッキンガムと
ともにウェセックス領に編入されたのであるが、どの伯領に属せしめられたかは明らかではない。おそらく、 エセッ
一
O O九年には、彼らがこの
ハロルドの時代には彼の弟のグウイル
ヘリフォード、 グロ l スタ l、パ l クシャ l、 サマセット諸州ととも
ク ス 伯 領 の な か で あ っ た ろ う が 。 以 来 、 州 は 様 々 の 伯 領 の な か に 編 入 せ し め ら れ た で あ ろ う 。 カ ヌ l トのときにはメ
ルシアの伯領のなかに、ゴドウインの下では、
に彼の息子のスウェイン伯の下に、 またレオフリヅクの下に再びメルシアに、
スの下にイースト・アングリヤのなかに、 である。デ i ン人の再侵入についていえば、
一O一O年、
州にまできたことは明らかである。彼らはオックスフォードまでき、﹁町を焼いた﹂とされている。
一
O 一三年にはスウェイ V白から、 オックスフォードに来た。この時には﹁町のものは直ちに
一
O 一六年にはカヌ lトは全王国を支配し、 オックスフォードは彼が最も好む場所
﹀
エセルレッド二世(九七八!
O 一六年)は、ここ︽メルシヤの地ウッドストックで、英国法に従って全王国︾の平和を維持するであろうという勅
説によれば、八六六年ウッドストックで賢人会議の一つを聞いたといわれているし、
学の慰め︾をここウッドストックのあたりに住んでいるときにほんやくしたのである。またエセルレッド一世は、伝
伝説によれば、 アルフレッド大王は、 ウッドストックの近辺にも関係をもっている。大王は、 ボ エ テ イ ウ ス の ︽ 哲
南には、テ l ムズ河をへだててアピンドンには大僧院があった。
る。ウッドストックの南には、一一世紀前半(一 O 二 五 年 ) に 創 立 さ れ た エ イ ン シ ャ ム の 僧 院 が あ っ た し 、 更 に そ の
ハ
3
あ っ た し 、 商 業 も 発 達 し て い た で あ ろ う 。 ド ー ム ズ デ イ ・ サ ー ベ イ に は 、 七 二O戸 ほ ど の 家 が あ る 、 と 記 さ れ て い
(2u
ウッドストックの近辺は、 サ ク ソ ン 時 代 に か な り 開 け て い た 。 オ ッ ク ス フ ォ ー ド に は 大 学 は ま だ な か っ た が 、 城 が
の一つになった。 一
O 一八年ここで彼は集会を聞き、すべてのものがエドガ l の法に服するよう命じたのである。
降服し彼を歓待した﹂のである。
一一年にも、更には、
O
説
論
北 法2
1
(
1・4)4
中世におけるウッドストックとその近辺
(4)
令を、 カ ウ ン ス ル の な か で 発 し た 、 と さ れ て い る 。 エ ド ワ ー ド ・ コ ン フ ェ ッ サ l は 、 近 辺 の イ ズ リ ッ プ に 生 ま れ た 。
オックスフォードのすぐ東のへデイントンは、王の直領地の一部であり、ここには王のなんらかの住居があった。ぉ
そ ら く そ れ は 王 の ︽ ハ ン テ ィ ン グ ・ ロ ッ ジ ︾ で あ っ た ろ う が 、 征 服 後 、 へ ン リ l 一世によってウッドストックにハン
一一一世紀始めには、製革業者や縮紙業者のギルドがあった。
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参照。後述一八頁以下参照。
zzgmmt円。弘司ぽ開口問}自弘司
ドームズディの時期には、四0ポンド九シルの収入をもっていたとされている。関口 Ddig- 吋
エインシヤイムの南方一 0 マイルのアビンドンには、有名なアピンドン僧院があった。この僧院は一 O世紀後半の僧院復活の
王有林は、 た て よ こ と も 長 さ 二 七 マ イ ル ほ ど で あ っ た 。 サ ー ベ イ に は こ れ 以 外 に は ウ ッ ド ス ト ッ ク と い う 名 称 の も
サーベイには、︽ウッドストッグ︾という名称は、州内の五つの王有林の一つの名称としてでてくる。この五つの
ドームズデイの時代になると、 ウ ッ ド ス ト ッ ク な い し そ の 近 辺 及 び 州 の 状 態 は か な り は っ き り す る 。
(4)raaBEF020定。︽同氏﹀口問。}EnHHおpr 司-M-m(5) ︿・。・出二︿c--︿・出E仏
吉
岡
件
。
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・
三大拠点の一つであった。
同
第一節は、おもに︿・。・出・のオックスフォードシャ lの第一巻、政治史の部分を参考にした。
ティング・ロッジがつくられるにおよび、使用されなくなったと思われる。
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のはでてこない。四ハイド半に相当する耕作地がこの王有林に属しており、六人の︽ヴイレイン︾と八人の︽ボディ
北法2
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(
1・
5)5
/戸、〆白、〆ー、
説
論
ア︾が三カルケイトの耕作をなしていた。 レ イ ナ ル ド な る も の が こ れ を 保 有 し 、 そ の た め に 、 及 び 王 有 林 め 利 用 の た
めに、年々王に一 0 ポンドをおさめていた。しかし、 レ イ ナ ル ド な る も の が 保 有 す る 耕 作 地 が 王 有 林 の ど こ に あ っ た
十 l ベイに現われている場合にのみ限って単に一つの王有林の名称と考えるべきか、
かは明らかではない。これが、 ウッドストックないしそれに関係する叙述のすべてである。
ウッドストックなる名称を、
それとも、 サ ー ベ イ に は 現 わ れ て い な い が 、 他 の な ん ら か の も の な い し 場 所 の 名 称 と 考 え る べ き で あ ろ う か 。 既 に の
べたように、 サ ク ソ ン 王 た ち は し ば し ば ︽ ウ ッ ド ス ト ッ ク ︾ に 滞 在 し 、 会 議 を 聞 い て い る の で あ り 、 ︽ ウ ッ ド ス ト ッ
ク︾なる名称を単に森林の名前に限ってしまうことにはなお疑問が残ろう。サーベイは、 な ん ら か の 理 由 で 、 こ れ を
落してしまったのであろうか。サーベイの記述からおちている村は、この州に限ってみても、少なくとも二、三はあ
一一世紀の始めには、 オックスフォ
る﹀。近辺の部落については、サーベイは比較的よく叙述しているのであるが。あるいは、かつては存在したが、サー
ベイ当時は消滅してしまった部落あるいは居住地と考えられるべきであろうか。
ード始め近辺の部落はデ l ン人によって荒されたとされているし、 また、︽北部の叛乱︾(一 O 六五年)においては
(2v
近辺は叛乱部隊が通過した経路に当っており、このために近辺の部落は多かれ少なかれ損害を蒙ったと推測されるの
である c しかし、これらのうちいづれかの可能性を十分に確かめうる資料は存在しないように思われる。
ともかく確かなことは、現在のウッドストックの近辺一帯には森林がつづいていたということである。その北西部
ア﹂今ふ、
tt ウィッチウッド、 コl ンベリ l の森、あるいはウッドストックの森が││おそらくコッツウォルド丘陵地帯ま
エベンロ lド川と
でーー拡がっていたし、北東部には、パ i ン ウ ッ ド の 森 が バ ッ キ ン ガ ム シ ャ ー か ら こ の 州 に か な り 深 く く い こ ん で い
(3)
たにちがいない。州北部においては、平地は少なく、州の北西部と北東部にはさまれた狭い部分、
チャ l ウ ェ ル 川 に は さ ま れ た 部 分 、 及 び そ の 近 辺 に あ る に す ぎ な か っ た で あ ろ う 。 ウ ッ ド ス ト ッ ク は こ の 部 分 に あ っ
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(
1・
6)6
中世におけるウッドストックとその近辺
た。オ
yグスフォードシャ
(4v
lは古くから英国で最も森林が多いところであったのであり、
一二世紀ないし一三世紀ま
で、州は主に森林地帯であったとみられる。すぐまえにあげた州北部の森以外に、州の中部、オックスフォードの東
方には、 ショト iパ l及びストウッドの森が、 ま た 南 東 部 に は チ ル タ ン の 深 い 森 が 州 に く い こ ん で い た 。 市 の 西 方 に
は、テ 1 ムズ洞を隔ててすぐ、パークシャ 1 の カ ム ノ ア 及 び ベ グ リ イ の 森 も あ っ た 。 こ れ ら の 森 に は 、 赤 鹿 、 淡 褐 色
の鹿、 いのしし、 お お か み 、 き つ ね 、 野 う さ ぎ 、 山 ね こ が お り 、 動 物 た ち は 王 や 領 主 た ち の 狩 猟 の 恰 好 の 対 象 と な っ
た。狩猟は王や領主たちが最も好むスポーツの一つであって、森や動物の保存には、特別の官職が設けられ、極めて
厳重な監督と、 とりしまりがなされる。これらの森はすべて王有林であり、王の独自の官吏によって管理された。
ンリ l二世によって、森林や動物の保存・保護のため極めて厳格な法律、﹁悪名高き﹂森林法がつくられ、ここウッド
ストックの地でそれは発布されたのである。首都から比較的近いこれらの森は、王たちの狩猟の場としてとくに愛さ
ハン一アィン
れたのであろう。動物を保護するために、狼退治には報酬も与えられたし、そのためには特別の官職もつくられたの
である。ヘンリ l三世の時代に、ノサンプト γ シャーのある家臣は、領地を与えられて、ノサンプトン、
ドン、 オックスフォード、バッキンガム諸州の狼狩りの義務を負った。
ノ!?ン王たちは、狩猟が極めて好きで、 ウ ッ ド ス ト ッ ク 近 辺 の 森 も 彼 ら が 最 も 好 む 場 所 と な っ た 。 三 代 目 の ノ l
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ヘンリ l二世は、 ク-フレン v
北法2
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(
1・
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マン王であるへンリ i 一世は、森の一角に︽ハンティング・ロッジ︾をつくったし、
やモ l ルボロ等英国の他の二、三の狩猟場でのように、このためにノ l ルウェイから輸入した松材を使用しMr
﹀
サ 1ジ ャ ン テ ィ と し て 、 こ れ ら の 動 物 の 世 話 を す る 役 を 負 う の で あ る 。 ︽ ス テ ィ ー ブ ン の 事 膿 ︾ の 著 者 に よ れ ば 、 ウ
(8
ラ イ オ ン 、 ひ ょ う 、 山 猫 、 ラ ク ダ 、 や ま あ ら し を 放 っ た と い わ れ る 。 近 辺 の ス タ ン ト ン ・ ハ l コ!トの領主は、後に
(7v
リ l 一世はウッドストックに、英国で最初の︽自然動物園︾をもつくり、周囲一 0 キロほどを石壁で囲い、なかに、
J¥
説
論
ッドストックは︽へンリ l の最も私的な居住地︾となったのである。 ヘンリ l 一世以来、 ジェ i ムズ一世まで、ここ
は狩猟好きの王たちがよく訪れる恰好の場所となる。スティーブンの争乱の時期には、 マチルダはここに﹁城﹂を築
きもした。
一六世紀の図面から推量すると、オックスフォードシャ l の最
サーベイによると、現在の範囲でのオックスフォードシャーには、二五一の定住地ないし村落があった。中世にお
けるこの州の村落の図面は見当らないようであるが、
も普通の定住形態は、街路に沿って家がかたまっている集落的な部落であゥた。集落的ではないものもあり、ウッド
ストックの西方の、 ウ ィ ッ チ ウ ッ ド の 森 の な か の 村 の 多 く は 集 落 を な し て お ら ず 、 人 家 は 散 在 し て い た と い わ れ て い
る。州南東部のチルタン丘陵地帯でもそうであったろう。しかし、近辺の州と比較してさえも、散在する形態は、ベ
ッドフォードシャーやハ l ト フ ォ ー ド シ ャ ー ほ ど 一 般 的 で は な か っ た で あ ろ う 。 ウ ッ ド ス ト ッ ク 近 辺 の 村 落 も 多 く は
集落的な形態をなしたものであったろう。
一二世紀始めにも、デ!ンゲルドの徴集は二四O Oハイドという評価にもとづいてなされて
一一世紀の始め、 さらにそれ以前のほぼ百年の問、 王の財務官は、 オックスフォードシャーが正確に二四O O ハイ
ドを含んでいるとみた。
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、
。 一一三O 年の︽パイプ・ロ l ル︾において、 シエリフはニコ一九ポンド九シル一一一ペンスを徴集していることがわ
'V ふれ
一つには、州に属するとみて計算
かるからである(デ i ンゲルドは当時一ハイドにつき二シル)。しかし、 サ ー ベ イ に も と づ い て 、 州 内 に あ っ た と み ら
れ る 各 村 落 の ハ イ ド 数 を 計 算 す る と 、 二 五O九ハイドとなる。このくいちがいは、
した村が、現にそう扱かわれていたかどうかはっきりしないということであり、そのうち他の州の部分に記載されて
いるものをかりに除いて計算すると、州全体の評価二四O Oハイドに著るしく接近する。例えば、現在。フラウリ l ・
ハンドレッドに属しているが、 サーベイのなかではノサンプトンシャ l の部分に記載されている村には、 チャ l ルト
北法2
1
(
1・
8)8
中世におけるウッドストックとその近辺
、 シェルズウェルの五村があり、この五村の総ハイド数回二ハイド
コティスフォード、 フィンミア l、 ヒl ス
を、このハンドレッド内の村のハイド数の総計二九三%ハイドから除くと、二五一%ハイドとなる。これは二死ドー
ム ズ デ イ ・ ハ ン ド レ ッ ド に 極 め て 近 い ル こ の 州 の ︽ プ ラ ウ ・ チ 1 ム ︾ 数 は 二 六 四 八 労 、 直 領 地 で の チ l ム数八五一二、
他のチ l ム数一四八八であった。 チーム数からみると、この州は英国で中位よりはやや上にこよう。
サーベイによって州の︽人口︾を推測してみると、農民についていえば、計七六四五人ほどである。このうち、︽自
由 人 ︾ は 二 三 人 、 ︽ ヴ イ レ l ン︾は三六八二人、︽ボディア︾は二九三コ一人、︽サ l フ︾は一 O O七人である。従っ
て、この州では、農民のなかの自白人の割合は極めて小さい。リンカーンシャーでは、自由なソクマンの数は、
のである。
オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ ! の マ ナ l の価値を総計してみると、
一九八三ポンド一八シルであった。
一五0 ポンド、 プラス、二五︿重量﹀ポンド、 ほかに市から二O (重 量 ) ポ ン ド 、 ミ ン ト か ら 二0 ポ ン ド 、 金
納 化 さ れ た 額 、 約 四0 ポンド、等である。このほかに、 王は、 サクソン伯エドウインの領地から、オックスフォード、
額は、
の時代には非常に価値が多くなっているが、この理由も正確にはわからない。シェリフが王に収めるべきファームの
も っ と も 州 に 属 す る 村 落 の 数 は 正 確 に は わ か ら な い か ら 、 こ れ は 大 略 に す ぎ な い 。 ま た 、 こ の 州 で は 、 ド l ムズデイ
一
O 六六年には、
ある。 ス カ ン ジ ナ ビ ア の 影 響 を う け た 州 ほ ど 自 由 人 の 割 合 は 大 き く 、 西 に 向 え ば 向 う ほ ど 自 由 人 の 割 合 は 小 さ く な る
レーンその他の非自白人と同じであったし、自由人の数が非自由人の数より多いウォベンテイクはかなりあったので
ヴ
ハンドレッドに割当てられ、人びとはハンドレッド・コ 1 トで王の役人に会った。ドームズデイ・
ウォリック両州からの分一 0 0ポンドと一 O Oシルを徴集した。
こうした税は、
北法 2
1
(
1・9)9
、
サーベイにでてくるオックスフォードシャ l のハンドレッドの数は一九である。このほかにリンカーン司教のハンド
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ハンドレッドのグループとその中心(第 I表
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ハンドレッドそのものの名前はで
レッド三つがあったことも確実である。しかしこれらのも
ののうち三つを除けば、
てこず、 ただ七つの王領地の名があげられ、そのおのおの
にいくつかのハンドレッドが結びつけられているだけであ
る。ウッドストックの位置は、現在のウットン村であるア
プトン(王領地)に結びつけられた三つのハンドレッド内
一九三年までのパイプ・ロールにすべてでてきてお川
にある。州内のハンドレッドの名前は、一一八八年から一
︽ウットンの一二つのハンドレッド︾という名前も一一七二
年のパイプ・ロ l ルにでてきている。現在のウットン・ハ
ンドレッドがアプトンの三つのハンドレッドにあたること
は確実である。
ウットンの三つのハンドレッドは、 チャドリントンその
他の州内のハンドレッドと同じように、行政上一つの単位
として扱かわれてきたようであ一ヤウットン王領地の王の
役人が三つのハンドレッドの行政を担当していたにちがい
、O
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J山hhuv
ハンドレッドは、 し ば し ば 特 定 の マ ナ ー に 結 び つ け ら れ
北法2
1
(
1・
1
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1
0
中世におけるウッドストックとその近辺
(別)
る。そのうちエンシェント・ドミlンに結びつけられているものはかなり多い。オックスフォードシャーでは、
フロ
ド レ ッ ド は 王 領 に 結 び つ け ら れ て い た の で あ る が 、 こ れ ら の 王 領 も 恐 ら く エ ン シ ェ ン ト ・ ド ミ l ンであったろう。
ドワ!ド俄悔王の時代に、 七 つ の 王 領 が ど の よ う に 保 有 さ れ て い た か は 、 殆 ど わ か ら ず 、 サーベイのなかでは、
一O 六六年メルシヤの伯エドウインにより保有されていた、とされているだけである。しかし、征服以前、
カi ト リ ン ト ン は 、 確 実 に エ ド ワ ー ド が 保 有 し て い た し 、
ハンド
ハンドレッドの行政(あるいは課税、裁判等)がそこの王領を中心になさ
ハンドレッドの中心であったが、このハンドレ
yド
の 中 心 は や が て す ぐ と な り の ウ ッ ド ス ト ッ ク に 移 さ れ る 。 そ も そ も 、 サーベイの時期にはすでに、 ウ ッ ト ン は そ れ ほ
にちがいないのである。こうして、アプトンないしウットンは、
い え そ う で あ る 。 お そ ら く 、 課 税 は 、 こ の 行 政 単 位 を 基 礎 に │ │ こ の 行 政 単 位 を 創 出 し た の で は な くl!な さ れ た の
いたにちがいない。実際、行政単位としてのハンドレッドは、特定の王領地を中心に百ハイドの単位でつくられたと
ト ン は こ の ハ シ ド レ ッ ド の 中 心 で あ っ た ろ う し 、 そ こ の 役 人 ( リ 1プ ) は 、 王 領 及 び ハ ン ド レ ッ ド の 行 政 を 担 当 し て
れ て い た こ と を 示 唆 す る も の と い っ て よ い 。 こ の こ と は 、 ウ ッ ト ン ・ ハ ン ド レ ッ ド に つ い て も い え る で あ ろ う 。 アプ
﹂のマナーがハンドレッドの中心をなし
結びつけられているということ、及び、それがそのマナ!の援与とともにしばしば援与されるということ、これは、
レッドは王領地とともに私人の手に移るのであるが。 ハ ン ド レ ッ ド が 特 定 の マ ナ ! と く に エ ン シ ェ ン ト ・ ド ミ i ンに
ント・ドミlンに結びつけられていた典型的な州であったといわれる。やがて、二つのハンドレッドを除き、
ト ン 、 シ ッ プ ト ン も 王 の 手 に あ っ た と 推 測 さ れ る ﹂ の で あ る 。 オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ i は、ハンドレッドがエンシェ
ディントンについても同様なことが推測できる。﹁サーベイ全体の語調からみて、ベンシントン、ウットン、パンプ
他の王領が誰かに与えられたことを示す資料はないし、
クサムは、
ノ、
ど大きな村ではなくなっていた。 ハンドレッドの行政の中心であった七つの王領地は、 そ れ ぞ れ 王 に 年 々 貨 幣 で 地 代
北法2
1
(
1・
1
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説
論
をおさめており、 ベンシントン・マナーが最も多額で、 八五ポンドであったが、 ウットン・マナーは最も少なく、
八ポンドにすぎない。王に納める額のうちでは一般に地代の額は最も重要なのであるが、金納化された地代がここで
は非常に少ないのである。
各ハンドレッドのなかにどの村が属していたかは、直接にはわからない。それがわかるのは、早くとも一二七九年
のハンドレッド・ロ l ル以後である。しかし、 いまウットン・ハンドレッドに属していた村落を、 のちのハンドレッ
ド の 範 囲 か ら 類 推 し て み る と 、 第E表 に 示 さ れ た ご と く で あ っ て 、 そ の 数 は 四O (プ ラ ス 四 ) 前 後 と み ら れ る 。 た だ
エインシャムと、 ヨ1 ントンの一部は、 リンカーン司教の所領で
し、このうち、 グリンプトン、 ウットンの一部、 オーバーないしネザ l ・ウォ 1 トン、 シプトンはノサンプトンシャ
ーの部分に記載されている。またサーベイ当時は、
あり、このハンドレッドには含まれていなかったと思われるし、ラドフォードはこの州に属していたかどうかは明ら
かではない。これらの七つの村ないしその一部を除いて、各村のハイド数を総計すると、 ほぼ三一 O ハイドとなる。
これはサーベイで評価されている一一一つのハンドレッド分よりも一 O ハイドだけ多い。表中に一不された村のなかには、
このハンドレッドに属しない村がて二あるにちがいない。なお、この州の村のハイド数の単位、が五ハイドであった
エインシャムとヨ l ントンの一部を除いてみると1 1
ことはほぼ確実であり、ここであらためて述べるまでもないし、また表からもかなりよく示唆されるであろう。
﹂のハンドレッドの︽人口︾は││リンカーン司教の領地、
九 六 二 人 で あ り 、 こ れ か ら ラ ド フ ォ ー ドil所属不明ーーを除けば、九四八名となる。となりの。フラウリ l ・ハンド
レッドは七二九名である。うちわけは、︽ヴイレ l ン︾五四二人、︽ボディア︾二七O 人、︽サ l フ︾一五五人であ
る。プラウリ l ・ハンドレッドでは、これに対応する人数は、四二四人、二二五人、八O 人 で あ り 、 割 合 は ほ ぼ 同 じ
である。サ!フの割合が、ウットン・ハンドレッドでは、若干大きいといえるかもしれないが、これは直領地の割合
北 法2
1
(
1・
1
2
)
1
2
ウットン・ハンドレッドのサーベイ(第 E表〕
村
善
事
直
領
主
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ソールズベリのエドワード
M. アストン
玉
中 間 領 主
1 1
1
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小作地
直領
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十サ
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ポンド
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前│ 後:
9
2
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サリック
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2
2
スタフォードのロパート
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パイヨーの司教
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パイヨーの司教
ウォダード
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2
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6
2
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パイヨーの司教
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3
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1
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2
5
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4
パイヨーの司教
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6
6
2
一
コグズ
パイヨーの司教
ウォダード
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パイヨーの司教
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パイヨーの司教
3
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ギファード
ラノレプ
1
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1
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9
1
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5
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パイヨーの司教
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パイヨーの司教
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パイヨーの司教
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2
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周王直属の家臣(第国表)
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農民︽人口︾のほかに、家族数は別として、国王直属の家臣及び彼らから領地を与えられている家臣、また、僧侶
ゃ、オックスフォードの自由人等、自由人もいるわけである。この州に領地をもっ国王直属の家臣は八九名前後であ
るが、 いうまでもなく彼らはこの州に住んでいるとは限らないのであり、この州に住んでいた家臣の数を数えること
は不可能である。僧侶の数も正確にはわからないし、またオックスフォードに住む自由人の数も、サーベイはもうら
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リンカーン司教
ある。さらにこのうち六七は、 オッグスフォ I
ドの市民といわれるものが所有しているもので
あり、残り一一一七は、 かなり身分の'丙い州の家
臣たちが所有しているものである。
オックスフォードシャ l内に領地をもっ国王
直属の家臣の数は、八九名前後であり、その名
一応重要なものとされているの
前は第困表に示すごとくである。このうち、俗
人の家臣で、
は、四三名もいる。大きさでは中ぐらいである
この州にしては、この人数は﹁多すぎる﹂と言
北法2
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的ではなく、正確にはわからないといってよい。かりに、サーベイにあげられている資料から類推してみると一 O 一
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ハンドレッドの所有者(第 W表
〉
わざるをえない。つまり、州内に大きな領地をもっ家臣が少ないのである。しかも、全国的な大領主がかなり多くこ
w ・ギファ lド、
R ・ベブレル、 G ・ド・レイン
こに領地をもっているということからすれば、この州の領地には、全国的な大領主の領地の一片をなすにすぎないも
、
のが多いということになるであろう。事実、 H ・ド・フエラ lズ
w ・ド・ウォ i レンも他の州に大きな領地をもっ権円である。オックスフォード
プドカス、 R ・ド・モータイマー、 H ・ムザ lドのオックスフォードシャ l内 の 領 地 は そ う し た も の で あ る 。 ベ レ ン
ガ l ・ド・トドニ、 G ・ド・ガン、
シ ャ ー に は 、 伯 ク ラ ス の 人 物 は 定 住 し て い な か っ た で あ ろ う 。 ︽ ア ナ ー キ ー ︾ の 時 代 に 、 オックスフォード伯がモ l
ドによって設けられ、 オ lブ リ ・ ド ・ ヴ ィ ア l に 与 え ら れ た が 、 彼 は こ の 州 内 に 殆 ど 領 地 を も っ て い な か っ た 。 こ れ
は ︽ 伯 は タ イ ト ル の 州 に 領 地 を も っ 権 円 で あ る べ き だ と い う 観 念 が 無 視 さ れ た ︾ ケ l スの一つであった。彼女も、
ティ lヴンとともに、重要なパロンの支持が余りにもほしかったのである。
一
O 八二年以来投獄されており、
P11
彼の領地は解体してしまった。解体した領地は、
一部は、
所領の解体によって形成されたパロニ 1
)o
のこの州内の領地(タイスロープ、 フリングフォード、 ウイルコ l ト、プライタンプトン、 カシントン、 サウス・ニ
のうち、この州で最も重要なものは、 ウォダ lド の そ れ で あ る 。 彼 は 司 教 の 領 地 の う ち 一 八 メ の 領 地 を 授 与 さ れ 、 彼
されたものもある(たとえば、 ウヅドストックのとなりの村、プレイドン
新たにパロニーを形成するようになったし、他のものは、他の国王直属の家臣の所領に加えられた。また王領に編入
九 七 年 彼 の 死 亡 と 同 時 にllそ れ 以 前 で は な か っ た が
また司教の所領は、 リジウ、 クl タンスの司教たちの所領と同じく、 王からの︽パーソナルな︾援与であって、
に 対 し モ ル タ ン 伯 は こ の 州 に は 殆 ど 領 地 を も っ て い な い 。 オ ド l は叛乱のかどで、
は三O 一であり、事実オド l の領地(チ l ム数二OOO以上)は、 ケ ン ト ( 九 一 九 メ ) に つ い で こ の 州 に あ る 。 こ れ
州 内 に 最 も 多 く の 領 地 を も つ も の は 、 バ イ ヨ l の 司 教 オ ド ー で あ っ た 。 バ ラ ー ド に よ れ ば 、 司 教 の 領 地 の チ l ム数
ス
O
説
論
北法2
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(
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1
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)
1
4
中世におけるウッドストッ F とその近辺
、 リトル・チウ、ラドウェル、コグズ。傍線はウットン・ハンドレッ
ー イ ン ト ン 、 パ 1 トン・イ lド、ボルズコ l ト
ド 内 の 村 落 ) は 、 他 の 諸 州 の 領 地 と と も に 、 ア1 シ ッ ク の パ ロ ニ ー を 形 成 す る 。 こ の パ ロ ニ l の 中 心 が ウ ッ ト ン ・ ハ
ンドレッド内のコグズになるのである。
他の州におけるように、この州でも、 サーベイの編者は、俗人のバロンのなかでは、 フ ラ ン ス で の ︽ コ ン ト ︾ 、 英
国 で の ︽ ア 1 ル ︾ の 称 号 を も つ も の に 対 し 優 位 し た 位 置 を 与 え て い る 。 そ の う ち 最 も 重 要 な 人 物 は 、 チェスタ l のア
l ル ・ ヒ ュ ー で あ っ た 。 し か も 、 彼 か ら 所 領 を 与 え ら れ て い る も の の う ち 、 少 な く と も 三 名 の も の 、 ウォルタ l、
ロパ l トはすぐ
寺、│、}
、
ウ ィ リ ア ム は 極 め て 重 要 な 人 物 で あ る 。 ウ ォ ル タ ! は 、 チェシャ I における伯からの受領者であり、 チェス
111
ノ
タl伯 の バ ロ ン た ち の 一 人 で あ っ た 。 ウ ィ リ ア ム は 、 チ ェ ス タ ー の ︽ コ ン ス タ ブ ル ︾ で も あ っ た し 、
)0
の ち に 述 べ る オ イ リ l のロパ l トと思われる。 オイリ l家 の 受 領 の 関 係 は 一 三 世 紀 ま で つ づ い て い た ( サ ウ ス ・ ウ ェ
ストンとア 1ドリ l村
オックスフォードシャ l の 政 治 に 深 く 関 係 し 、 州 で 実 力 を も っ て い た 人 物 は 、 伯 の 下 に 位 す る よ う な パ ロ ン た ち で
あ っ た と い っ て よ い だ ろ う 。 そ う し た パ ロ ン と し て 、 オイリ l のロパ l ト、ミロ・クリスピン、 イ ブ リ の ロ ジ ャ ー を
ロパ l ト は オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ l及、ひウォリツクシャ l のシエリプであった。彼は、 オックス
RU を も っ て い た 国 王 直 属 の 家 臣 で あ
あ げ る こ と が で き る 。 彼 ら は 州 内 に パ ロ ニ ! な い し オ ナ ! の 中 心 E ℃E Y Cロ
る。サーベイ当時、
フォードの玉城の城代でもあったし、 ク リ ス ピ ン は 、 こ の 州 や 近 辺 で オ ッ ク ス フ ォ ー ド と と も に 最 も 重 要 な 町 で あ っ
た ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド に あ る 玉 城 の 城 代 で あ っ た 。 ロパ l トは、 ウ ィ リ ア ム 公 の 家 臣 ( ロ ー ヤ ル ・ コ ン ス タ ブ ル ) で
あり征服に従軍した。征服後ただちに(一 O 六六年)パロニ l の 中 心 を な す よ う に な る 州 北 部 の フ ッ ク ・ ノ ー ト ン を 与
えられ、やがて漸次、州北部を中心に広大な領地を与えられたのである。ロパ iトは、サクソン時代の最も重要なセ
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)
1
5
ロ
百
党
論
インであったサクソン人ウイゴットの娘をめとり、
一門の領地をふやしていった。ウイゴットは、征服の時期にウォ
ロンドンへの突入の失敗後、 ウィリアム公が、 ウォリングフ
リングフォードの領主であり、 と く に オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ ! と パ l ク シ ャ ! に 多 く の 領 地 を も っ て い た 。 征 服 に さ
いし彼は征服王に協力的であった, o センラックの戦い、
ォ1ド の 地 点 で テ l ム ズ 河 を 渡 ろ う と し た と き 、 彼 は 公 を 歓 待 し た の で あ る 。 彼 の 息 子 も ゲ ル ベ ロ イ の 戦 い に お い て
征服王に従軍し、 玉 の た め に 討 ち 死 し た の で あ り 、 彼 の 戦 死 に は 、 美 談 も の こ さ れ て い る 。 征 服 後 、 所 領 を 奪 わ れ た
サクソン人アリストクラシlは極めて多かったであろうが、そのなかにあってウイゴットはかなりよく領地を維持す
ることができたように思われる。 オイリ!のロパ l トはとくに、 サ ク ソ ン 人 ア リ ス ト ク ラ シ ! と 親 密 で あ っ た の で あ
ろ う か 。 サ ク ソ ン 人 ア リ ス ト ク ラ シ ー は こ の 州 で は 征 服 者 と と く に 親 密 で あ っ た の だ ろ う か 。 エドウイン伯は、ラル
フ・ドイリlに一セインを与えてもいる。﹁英国人の権門と征服王の従者が親密な関係、少なくとも平和的な関係にあ
った短い期間﹂が、少なくともこの州にはあったのである。オイリ!のロパlトは、征服後、王の許しをえて、ウイ
ゴットの娘をめとったのであり、 ウ イ ゴ ッ ト の 死 後 、 所 領 の 多 く は 彼 の 妻 の 手 に 移 り 、 さ ら に ド オ イ リ l家 の も の に
なった。 サ ー ベ イ の 時 期 に は 、 彼 は 州 内 に 二 四 の 所 領 を も っ て い た 。 も っ と も 、 彼 の 後 を つ い だ の はa│l息 子 が い な か
ったと思われる││彼の兄弟のナイジェルで、このナイジェルの子孫、がオイリl家をつぎ州の名門となるのである。
この一門も一二三三年に男系が絶えて解体するのであるが。なお、サーベイにでてくるギュイ・ドオイリlは、
た。また彼はウイゴットの領地の多くを与えられていたか、少なくともそlドとの結婚によって、 クリスピン家の領
クリスピンはノlマンデイの古いアリストクラシ!の出であり、征服後はウォリングフォード城の警備を任されてい
には娘モ lド が お り 、 ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド の パ ロ ニ l の 領 主 ク リ ス ピ ン は 、 こ の モ ! ド を 妻 と し て 迎 え た の で あ る 。
パ l ト の 弟 で あ り 、 州 で は 王 か ら 一 つ の マ ナ 1 (ウ イ ギ ン ト ン 村 ) を 受 領 し て い た 。 ロ パ 1 ト と ウ イ ゴ ッ ト の 娘 の 聞
ロ
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)
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6
中世におけるウッドストックとその近辺
地 、 ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド の オ ナ iは 巨 大 な も の に な っ た で あ ろ う 。 オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ ー に は 、 こ う し て 大 領 主 の
コ ネ ク シ ョ ン が 支 配 し て い た の で あ る 。 オ イ リ 1家 一 門 と ク リ ス ピ ン 家 の 連 合 は 更 に 、 こ の 州 に オ ナ l の本拠をもっ
ロジャーはここを英国内の領地の本拠としたのである。 ロ ジ ャ ー は 英 国 内 の 城 を 任 さ れ る こ と は
イ ブ リ の ロ ジ ャ ー に よ っ て も 強 化 さ れ て い た 。 ロバ l トは戦友であるロジャーに、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 東 方 の ベ ッ ク リ
イの領地をゆずり、
な か っ た と 思 わ れ る が 、 ノ 17γ の 城 塞 の う ち あ る い み で は 最 重 要 と も い え る ル l アンの警護を(一 O 七 八 年 ) ま か
されたほどの人物であった。伯クラスのものが定住していないこの州では、これら三家の連合勢力は圧倒的であった
にちがいない。これらの家門の領地は、 サ ー ベ イ に 記 載 さ れ た ス ペ ー ス の 五 分 の 一 以 上 を 占 め て も い る の で あ る 。 ク
リ ス ピ ン は 子 を 残 さ ず に 死 ん だ ( 一 一 O 七 年 ) が 、 妻 の モ lド は プ ル タ l ニュ公の庶子である守ブライアン・フィッツ
-コントと再婚した。彼はウォリングフォードのオナ!の所有者、 ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド 王 城 の 城 代 と も な っ た 。 孤 城
一
OOMの 旧 騎 士 領 と 、 七 % の 新 騎 士 領 か ら な っ て い た 。 ベ
一一六六年には、一一一一一乃の旧騎士領と、ーーー一一一一一五年以後受領した││一死の新騎士領の
をまもって、ながくスティーブンの軍隊と対峠したのは彼である。
ドイリ l家の領地は、
、
広 さ で あ っ た 。 同 じ 年 ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド の オ ナ lは
ックリ l のパロニ l は
、 やがてセント・パレリイ家のものとなり、この家門は、とくに州中央部から東北部にかけて
(パリンドンからプラウリ l の ハ ン ド レ ッ ド ) 所 領 と 勢 力 を も っ た 。 州 東 北 部 の ミ ク ス ベ リ に は 一 門 の 城 も 築 い た の
・
であり、 オナ l の本拠は、 ベ ッ ク リ イ か ら こ こ に 移 さ れ た か も し れ な い 。 全 所 領 は 一 一 六 一 年 に は 五O の 騎 士 領 に 相
当 し た 。 パ イ ヨ l の 司 教 の 所 領 の 解 体 後 こ の 州 を 中 心 に 形 成 さ れ た ウ ォ ダ ド な い し ア l シック家のパロニ l は 騎 士 領
二O 乃分に相当した(一一六六年)。
J
ド ー ム ズ デ イ 以 後 、 州 に 本 拠 を も っ パ ロ ニ ー が 一 、 二 形 成 さ れ て い る 。 へデイントンのパロニ l は
、 ドームズ アイ
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)1
7
説
論
時代には王領であったが、
一一四二年頃プラグネット家に与えられて形成され、 のち(一二O 三年﹀トマス・パセッ
トに与えられた。トマスは身分の低い国王直属の家臣であったが、有能な官吏であった彼は、娘をウォリック伯にと
一三世紀後半にプレセティス家に
つがせるまでにいったし、 まご娘は州の豪族ドイリ l家の後をついだプレセティス家にとついだ(一二四三年﹀。フ
ック・ノ l トンのバロユ lは
、 ウォリック伯の手に移った(ご二世紀前半) のち、
移っていたのである。さらに l l確実とは云えないが││ミドルトン・スト l ニlはキヤンヴイル家のパロニ l の本
拠 に な っ た よ う に 思 わ れ る 。 キ ャ ン ヴ イ ル 家 は 、 お そ ら く へ ン リ l 一世の時代に、この領地をえたであろう(一門は
スティiヴンの最も熱心な支持者であった)。州には一騎士分のこの領地しかもたなかったが二門はここをパロニ!
の本拠にしたようである。ここには一二世紀の城と思えるものの跡が残っているのである。この一門も極く軽い身分
二000マ ル ク を 支 払 っ て 領 地 を 回 復 し な け れ ば な ら な か っ た 一門であ
の国王直属の家臣であったが、 やがてリンカーン城の城代となり、これを世襲するようになった。リチャ lドの治世
に、ジョンの側につき王に叛乱して敗れ、
る。しかし、息子はジョン王に反抗し(=二五年﹀、滅はこのためにとりつぶされたようである。
オックスフォードシャ l の僧院その他は、財産、古さ、知的水準等で、それほどよいものであったとは云えない。
財産の点では、 となりのパ l クシャ l のレディング、 アビンドン僧院とは較べものにならなかったし、古さでもやは
り隣りのウ l スタ l シャ l の僧院に劣っている。僧院解体当時、年八0 0ポンドの収入をもつようなものはなかった
し、サクソン時代から断絶なく続いている僧院もなかったのである。とは云うものの、世俗領主と同じように、僧院
O O五年、
一
エルダ l マンのエセ
も州にかなりの所領、教会をもち、その他部落に対する種々の権利を保有した。ウッドストック近辺のものでは征服
前からあったエインシャム僧院(ベネディクト派)が比較的大きい。この僧院は、
ルマ I ルによって創設されたが、征服時に解体し、 のち再び一 O 九四年ないし一 O 九五年に最終的に建立されたので
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中世におけるウッドストックとその近辺
あ る 。 パ ト ロ ン は 、 │ │ 普 通 の ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン の 僧 院 と ち が っ て 、 王ではなく││司教である。
一一九六年、
チャ l ド 王 は 、 パ ト ロ ン で あ る こ と を 主 張 し た が 、 セ ン ト ・ ヒ ュ ー は こ れ に 反 対 し 、 王 は 主 張 を 通 す こ と が で き な か
った。ド l ム ズ デ イ ・ サ ー ベ イ の 時 代 に は 、 収 入 は 四0 ポ ン ド 九 シ ル で あ っ た 。 こ の 高 は 、 英 国 の 僧 院 中 で は 三 九 番
一 二 世 紀 末 ま で に 四 つ の マ ナ i (す べ て 州 北 部 ) 、 八 つ の 教 会 を
目にあたる。ちなみに、 アビンドン僧院は四六二ポンド三シルコ一ペンスである(八番目)。しかし、以後急速に大きく
なり、この僧院は、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ ー だ け で 、
一一一九一年には年三三五ポンドにあたる財産を有するようになった。また、僧院の一僧侶が経験し
一一九六年イースター前の木曜日に、若い僧がねむりにおち、土曜の晩に息を吹きかえした。
マ チ ウ ・ パ リ や ウ エ ン ド lパ ! の ロ ジ ャ ー に よ っ て も 取 り 上 げ ら れ 、 中 世 紀 に は か な り 重 視 さ れ た
は
もつようになり、
。)ン
レスタ l伯 、 司 教 た ち 、 近 辺 の ア ピ ン ド ン 僧 院
そ の 他 が 列 席 し た し 、 建 立 さ れ た 位 置 は 、 セント・ジョ 1 ン の ジ ョ ン の 土 地 で あ り 、 彼 が 尼 僧 院 の パ ト ロ ン に な っ た
た。奉納の儀式には、 王、王妃、 カンタベリー大司教、 リンカーン、 ソI ルスベリ、エクスタ l、 ウ l スタ l の司教、
僧院を建立したのである(一一一二三年以前)。ここに創設された僧院は︽最も高貴な婦人︾二四名が住むものとなっ
ようになったウインチェスターのあるダ l ムは、更にヴイジョンに導かれて︽天からさす光︾が指し示すところに尼
ここでもある貴夫人のヴイジョンがまつわっている。ヴイジョンに導びかれてオックスフォードの近辺に住む
一二世紀の前半に名門の子女たちが送られるゴドストウ尼僧院が、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド の す ぐ 近 辺 に 創 立 さ れ た 。 創 立
一二世紀には、この地の有力者の寄進によって、多くの僧院が建立されている。ウットン・ハンドレッド内には、
げられたのである。
その間彼は聖ニコラスとともに別界に行ったというのであり、彼はそこでみたことを物語り、これがマチウに取り上
そは
れ、
が 、 王 の ス テ ィ l ヴ ン 、 指 導 的 な パ ロ ン の グ ロ l スタ l のマイルズ、
北法2
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9
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こ
言ヴ
わイ
れジ
るG ヨ
l
i
説
論
長やウエストミンスタ i僧 院 長 が こ れ に 寄 進 し た 。 こ の 尼 僧 院 は ア リ ス ト ク ラ チ ッ ク で あ っ て 、 英 国 南 部 の 高 貴 な 婦
ヘンリ i二世が寵愛した︽フェア l ・ロザムンド︾がここに埋葬されるこ
人 た ち が こ こ の 尼 僧 に な っ た し 、 権 門 か ら の 寄 進 も 以 後 も 相 つ い で な さ れ た の で あ っ た 。 グ ロ l スタ l シャ l のクリ
フォード家もここに寄進した一門であり、
とになったのもこのためであったにちがいない。 一 二 世 紀 は こ の 尼 僧 院 の 絶 頂 期 で あ り 、 規 律 も よ く 保 た れ て い た と
一五世紀半ばには規律は弛緩の極に達したことがしられている。
一一二九年ド
一六世紀の僧院解
一回世紀始めには多くの借財を負ったとされているし、 オックスフォードの学僧や近辺の僧侶とのスキャン
されている。 一二九一年の年収は二0 0ポ ン ド も あ っ た 。 し か し 、 貴 族 的 な こ こ の 尼 僧 に は こ れ で は 不 十 分 で あ っ た
らしく、
ダルは既に一三世紀末からあり、
体の時期には規律はよく保たれているとされているのではあるが。
この時期にこの州の有力者によって創立された僧院はあまたあるが、そのなかで最も有名なものは、
ウットン・ハンドレッド内のコズクにも、
一二世紀末までには一二O ケ
イリ l家のロパ l トによって、 オックスフォード城の南側につくられたオズネイ僧院である。この僧院は、 ドイリ l
)o
家の多くの直領地からあがる十分の一税のうちその三分の二、及びその他を与えられ、
所 の 町 村 に 財 産 を も つ よ う に な っ た ( 一 五 二O 年に収入は七三0 ポンド
アi シック家の当主は一一 O 三 年 コ ズ ク 僧 院 を つ く っ た 。 し か し 規 模 は 小 さ く 、 収 入 は 一 二 九 一 年 に 一 六 ポ ン ド に す
ぎないほどのものであった。セント・ヴアレリイ家も一一七六年にスタッドリイ僧院(一六世紀始めに収入は一 OO
ポンドほど)を、 ビ ス タ ! と ス ト ラ ッ ト ン の 領 主 で あ っ た G ・パセットも一一八二年にビスタ!の僧院をつくった。
州の豪族たちはほとんどみな州内に僧院をつくったといってよい。ウォリングフォードの城主フィッツ・コントは、
マ チ ル ダ の 忠 誠 な バ ロ ン で あ り ア ナ ー キ ー の 時 代 に 孤 城 を 死 守 し た の で あ っ た が 、 彼 は1 1へンリ l二世が王位につ
く以前にl lアナーキーの時代に、妻とともに僧院に入ったのである。 スティ l ヴン王も積極的であった。 スティー
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)
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中世におけるウッドストックとその近辺
一一三九年にはオックスフォード近辺のカウリ 1 ・マナ l
ヴン、 というよりは妻のマチルダは、十字軍遠征に熱心であり(二人の叔父は最初の二人の統率者であった三一一一一一
七 年 、 騎 士 た ち に エ セ ッ ク ス の ク レ ッ シ γグ・マナーを、
を与えたのであった。テンプル騎士団は、英国ではこの二つのマナーを拠点に発展していったのである。
リ ン カ ー ン 司 教 も 州 に 多 く の 領 地 を も っ て い た 。 そ れ ら は 、 征 服 前 、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド の 南 方 に あ る ド 1 チェスタ
一連の領地がハンドレッドをなし
ーの司教領からうけ継がれたものであり、 主に、パンベリ 1、 テイム、 ド l チェスタ!のハンドレッド内にあった。
というよりは、これらのハンドレッド内の大部分の領地は司教の領地なのであり、
ていたといってよい。 ハンドレッドそれ自体司教により所有されていたのである。各ハンドレッドは、 サーベイの時
期には、パンベリ!とテイムは各一 O O ハイドであり、 ド l チ ェ ス タ ー は 九 五 ハ イ ド で あ る 。 ド l チェスターは九五
一つの集団をなしておらず、 はなれた
ハイドであるが、以前にはこれに五ハイドのある村落が属し、サーベイの時期までに他のハンドレッドに移されたと
想 定 し う る 十 分 の 根 拠 が あMr これらのハンドレッドは通常の場合と異なり、
グ ル ー プ か ら な っ て い る 。 た と え ば ド l チェスタ!のハンドレッドは三つのグループからなり、 と び と び に 存 在 し
た 。 ま た こ れ ら の ハ ン ド レ ッ ド は 大 部 分 司 教 の 領 地 で あ っ た が 、 必 ず し も 全 部 で は な い 。 た と え ば ド l チェスタ l の
場 合 、 九O ハイドは司教領であったが、他の五ハイドは王領であり、 ナイトにより保有されていた。司教領も、
北法2
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(
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)2
1
の領地と同じく、直領地とそれ以外の土地とに分れている。例えば、テイム・ハンドレッドにおいては、司教の領地
は六O ハ イ ド に 相 当 し た が 、 そ の う ち 三 七 ハ イ ド が 司 教 の 直 領 地 で あ っ て 、 他 は 彼 の ナ イ ト が 保 有 し て い た 。
司教は、ハンドレッドにおいて、種々の権利をもっている。そのうちで最も重要なものが︽令状差戻し︾であった。
彼はシェリフを排除し、自己の代官によって王の令状を執行せしめえたし、代官は、通常州法廷でシエリフによって
42wgggz︾ の 訴 訟 を 審 理 す る 権 利 を 有 し た の で あ る 。 司 教 は ま た フ ラ ン ク ブ リ ッ ジ の 検 問 、 パ ン
審 問 さ れ る ︽P
般
説
論
とエ l ル 裁 判 、 縞 盗 を 処 罰 す る 権 利 等 も 有 し た 。 一 二 四 七 年 の 巡 回 裁 判 で は 、 司 教 の ベ イ リ フ は 、 シ エ リ フ や シ ェ リ
プ の ベ イ リ フ を 排 斥 し て 、 ハ ン ド レ ッ ド 内 で 差 押 え を す る 権 利 を も っ て い る し 、 stgEB広 の 訴 訟 を 行 な う こ と が
できる、 と 主 張 し て い る 。 そ う し た 権 利 が 附 属 す る ハ ン ド レ ッ ド の 所 有 は 、 司 教 に と っ て 収 入 の 源 で あ っ た 。 た と え
一二八五年、パンベリイの代官が義務違
ば 、 テ イ ム ・ ハ ン ド レ ッ ド は 年 四O シ ル の 収 入 が あ っ た 。 し か し 、 こ う し た 権 利 も 国 王 に よ り 監 視 さ れ て い た の で あ
って、代官が義務を怠るなら、司教は特権を失うこともあった。たとえば、
反のために、 こ の 州 の 三 つ の 司 教 の ハ ン ド レ ッ ド で 令 状 差 戻 し 権 は 王 に と り あ げ ら れ て し ま っ た の で あ る 。
ソルダ lン村についての-記録もない。
(1) カラム村は、一 O世紀以来、アピンドン僧院の所有に属していたことがわかっているが、サーベイには記録されていないし、
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中世におけるウッドストッタとその近辺
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(FBaaFQf丘町何百ロチ司・ 8Cによると、オックスフォードシャ lのチ iム数は二一四六七であるが、
(川門)︿・のz
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-gw 宅
・ ω14・
この計算は正しくないであろう。が、かりに正しいとして、この州のチ lム数の││わかっている州のうちでの││順位をみる
︿日)メイトラ γド
と、一二番目であり、他の一八州よりも多い。
る。この理由は、一 O 六六年には不作であったということかもしれない。州全般にわたって評価額は多くなっており、一 O 六五
りZ
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ロ
巳ω
(日)
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ロSF 吋roHH
語"司匂・コ u・
ミ C四号。 ZCHFRロロω
(行)一 O 六六年の一評価額は一九八三ポンド一八シルであるからド l ムズディ・サーベイの時期には評価額はかなり多くなってい
ほどとは忠われないのである。前出
-N ・
(6)
照。
O参
参照。
年の入北部の叛乱者Vの通過経路とみられる村の額がそれほど多くなっているというわけではないから、彼らによる劫略はそれ
hOB--明・2F ℃恒二
(
問)(νEWEZE22ι(UO
ヨgSEE- ℃・二
(初)hEHfGHynw戸、M
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ハンドレッドがとくにマナーに結びつけられている州としては、ほかにランカシャ l、シュロップシャ
ー、コ1ンウォ1ル、デボンシャーがある。このうちランカシャ l、シュロップシャ l、コ lンウォ lルは比較的おそくウエル
同
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ズ人から奪ったところであり、マナ 1中心に行政が行なわれ、それがド 1 ムズディの時代までつづいていたのである。オックス
フォードシャ lの場合なぜ結合が強かったのかの理由はそれほど明らかではない。
(お﹀西サグソンのハンドレッドが、王の村 (Zロ﹀に附属する領域であり、村の代官によって治められるということは、チャドウ
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イクによって研究され︿﹀ロ包D
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) て以来一般にうけいれられているが、彼はこのことを
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さらにオックスフォードシャ!の場合にもたしかめたのである。
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北 法2
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ク リ ア ・ レ ギ ス が 中 央 行 政 の 中 心 で あ る の に 対 応 し 、 地 方 で は 、 シエリフが王のエイジェントとなって活動した。
エドワード・コンブェッサ!の治世においては、地方政治の高官は、 コントであり、 シエリフはその下にあったので
あって、これには通常は第一級の家臣はならなかった。 ノ17γ 王たちは、 このジエリフの地位を地方行政の中枢に
すえ、征服直後の時期(一 O 七O l一
一 O O頃まで)には、軍事的・政治的重大さの観点から、 シエリフには最も有
北法 2
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(
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)
2
5
説
論
力な一門がなった。彼らは地方での有力さにおいて、州の権門たちに十分に匹敵する人物であったのである。ドイリ
l家のロバ l ト は 征 服 後 最 初 の シ エ リ フ に な っ た が 、 有 カ さ に お い て 州 に 住 む ど の 豪 族 に も 十 分 に 匹 敵 し え た で あ ろ
う。オドーは、恐らく州にはあまりこなかったにちがいなレし、間もなく彼の領地は解体されてしまったのである。
しかし、すでにへンリ l 一世の時代には、 より低い家門のものもシエリフにとり立てられ、王の行政に手足となっ
て働くようになっ、た。クリントンのジュフロワはその典型的な例である。彼はウッドストックの近辺に密接な関係を
ヘンリ l 一世の﹁成り上り﹂の出納官であり、 シェリフにもなっ
もっていた。サーベイのなかのグリンプトン(サーベイではクリントン)のウィリアムは彼の父であったと思われる
(
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からである。ダクディルは、﹁彼は英国で始めてオックスフォードシャ i の ク リ ン ト ン に 住 居 を も ち 、 そ こ か ら 名 を と
(4 ﹀
ったのである﹂としている。息子のジュプレイは、
た(一一一一O年)。当時の歴史家ヴィタリスによれば、彼は﹁ヘンリ l 一世がちりのなかから取り立て、 アールやパロ
ンの上に昇進させた卑しい身分のものの一人﹂なのである。父はグリンプトンの領主ではあったが、昇進した権勢の
地位に較べれば、それは﹁ちり﹂にも等しかったのであろう。 一一三O 年には、 オックスフォードシャ l の豪族であ
るドイリ i家の一門の長ロパ l ト は 、 州 の シ エ リ フ に な っ て は い る 。 し か し 彼 が こ の 地 位 を う る た め に は 、 初 代 の ロ
バ l トとちがって四0 0マルクを拠出しなければならなかった。ジョプレイのクリントンは、一一一一一O 年、ロパ l ト
がシエリフになったと同じ年に反逆罪のかどで、 ウ ッ ド ス ト ッ ク の 法 廷 で 罪 を 問 わ れ た 。 州 の 豪 族 と ﹁ 成 り 上 り ﹂ と
の聞にまさつが起こったのであろうか。﹁アナーキー﹂の時代には、豪族たちは再び地方政治で勢力をのばすようにな
(8
﹀
り 、 シ エ リ フ の 地 位 も 彼 ら に よ っ て 占 め ら れ る よ う に な っ た 。 へ ン リ l二世の治世の最初のころまではそうであり、
上記のコグズのア l シック家の当主マナサ l は一一六一年にオックスフォードシャ l のシエリフになった。しかし、
ヘンリ l 一一世の勢力を確立したときには、 王 の 手 足 と な っ て 働 く 身 分 の 軽 い も の が 取 り 立 て ら れ 、 中 央 の 高 官 の み な
北法 2
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6
)
2
6
中世におけるウッドストックとその近辺
らず、 シェリフにもなり、
一 方 、 地 方 豪 族 は シ エ リ フ の 地 位 か ら し だ い に 敬 遠 さ れ る よ う に な っ た の で あ る 。 アl シ
(9)
llそれほどの名門ではない。一
ツ ク よ り 後 に シ エ リ ブ に な っ た パ セ ッ ト は 1 1ジ ャ ス テ ィ シ ア ! の 後 え い で あ る が
一七五l 九 年 に 、 タ 1 ヴィルのロパ l ト、がシェリフになったが、彼はレスタ l伯 の そ れ ほ ど の も の で は な い 家 臣 で あ
l の二つで、
一
0 0ポ ン ド 以 下 で よ か っ 切 ク リ ン ト ン 家 の 後 、 グ リ ン プ ト ン の 領 地 を つ い だ ブ リ ウ ェ ア
った。彼の後にはロパ l ト ・ ド ・ ラ ・ メ ー ル が な っ た が 、 そ の さ い に 彼 が 支 払 っ た 金 額 は オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ ! と
ハl クシャ
ー も 、 卑 賎 の 身 か ら 一 門 を お こ し た 官 吏 で あ っ た が 、 リチャ l ド、ジョン、へンリ l一二世に仕え、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ
ャーやパ l ク シ ャ ! の シ エ リ ア に ま で な っ た 人 物 で あ り 、 ﹁ 新 し い タ イ プ ﹂ の シ ェ リ フ の 典 型 で あ っ た 。 ミ ド ル ト ン
-スト l ニ イ に 本 拠 を も っ キ ャ ン ヴ ィ ル も 二 騎 分 の 騎 士 領 し か 国 王 か ら 受 領 し て い な い 家 臣 で あ っ た が 、 彼 は 、
カ l ンシャ l の シ エ リ フ 及 び リ ン カ ー ン 城 の コ ン ス テ ブ ル に な り 、 近 辺 で 絶 大 な 権 力 を 振 っ た の で あ る 。
一たび権勢の地位に昇った後には、比較的容易に上層社会に
ケユルワ I ス に 居 城 を も っ て 、 こ の 家 門 の 聯 合 は 数 州 に 一 旦 っ て 強 大 な 勢 力 を お よ ぼ す こ と に な っ た の で あ る 。 キ ャ ン
いたが、息子のジュフロワ二世はスティ lヴ ン の 時 代 に は 伯 の 娘 を め と っ た 。 こ う し て 二 つ の 家 門 は 、 ウ ォ リ ッ ク と
うけいれられたように思われる。既にウォリック伯の家臣となっており、伯に一七騎分のナイト・サービスを負って
た。彼はこの領地にも住んでいたかもしれない。彼は、
をなした。ウッドストックの近辺のカシントンの領地にも教会を建ててこれを近辺のエインシャム僧院に寄進もし
ように、 ケニルワ 1 ス に 僧 院 を 建 立 し 、 こ の 僧 院 に 王 か ら 受 領 し た 領 地 や グ リ ン プ ト ン の 教 会 を も 含 め て 多 大 の 寄 進
でついたクリントンのジュフロワは、 や が て ケ ニ ル ワ 1 ス に 城 を も っ 大 領 主 と な っ た 。 彼 は 、 当 時 の 豪 族 た ち と 同 じ
この時期の少なくとも上層の社会階層は、固定的ではなく、極めて流動的であったように思われる。高い官職にま
リ
ヴ イ ル は す で に ふ れ た よ う に 、 低 い 身 分 の 国 王 直 属 の 家 臣 で あ っ た が 、 リンカーンシャ 1 の ブ ラ ト ル ピ イ の パ ロ ニ │
北法2
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王の裁判官になった人物であるが、英国最大の領主であるチ
ェ ス タ i伯
っていたドイリ lは 彼 女 に 城 を 引 渡 し
ヘ ッ ド ク ォ l タ!となった。ここは、 フ ィ ッ ツ ・ コ ン ト が
の 勢 力 分 野 と な っ た の で あ る 。 ︽ ス テ ィ lヴ ン の 事 蹟 ︾
築いたとしてつぎのようにのべている。
しかし、 スティ l ヴンは、 や が て サ イ レ ン シ ス タ ー 、 バ ン プ
ト ン 、 ラ ド コ i トを攻め落し、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド に 迫
った。 マチルダはここにご一ヶ月の間包囲され、 ついに糧食っきて
、 しものおりるクリスマス前夜の真夜中、︽ロマン
マチルダは、あるものは王の勢力に対し効果的に巻きかえすために、
あるものは自分の勢力を防衛するために、有利な地点には到
るところ城を築いた。ウッドストック、ヘンリ l王の最も私的な別荘
地に、ラドコ lト、一例と沼にかこまれたこの地点に、サイレン
シスター、主の樫の前のダコンのような宗教家の聖なる教会のとなり
に、パンプトンの村、教会の塔に。
の著者は、この時期にマチルダが近辺にいくつかの﹁城﹂を
守るウォリングフォードとともに西方から突出したマチルダ
(一一四一年春)、オックスフォードはしばらくの間彼女の
勝利の後、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド に き た 。 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 城 の 警 備 の 任
にあた
﹁アナキl﹂の時代にはこの州も激戦地となり激しい攻防が
く り か え さ れ た 。 権 門 た ち ( ウ ォ リ ッ ク 、 レスタl、
ノ サ ン プ ト ン 各 伯 ) が 支 配 し 、 権 門 た ち ( チ ェ ス タ l伯 と レ ス
タ l伯 ) が 同 盟 し ﹁ 平 和 ﹂ を 維 持 し て い た 以 北 の 地 方
と く ら べ て 、 荒 廃 は よ り 甚 だ し か っ た に ち が い な い 。 マチルダの
勢力は主として英国西部にあったが、 リンカーンの
娘リ
を!
リック伯にめとらせることができた。こうしたことはこの
の騎
た分
、ン
時代には稀ではなかったのである。ジュフリイ・リデルも
を領しリンカーンシャ l の コ ン ス タ ブ ル で も あ り リ ン カ ー ン 城 の
コンスタブルでもあったへイ一門(一一六六年に二
のあとつぎの娘をめとったのである。彼がリンカーン城のコ
ンスタブルの地位を獲得したのは
ヘディントンの極く小さいバロニ l の 所 有 者 パ セ ッ ト も 比 較 的 高 い
官職についてのち、娘をウォ
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こ
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説
論
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1(
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2
8
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2
8
チックな逃亡︾をなし、 ア ピ ン ド ン を 通 っ て ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド 城 に 向 っ た の で あ る 。 ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド 城 は や が
ヘンリ l の治世の
ヘンリ iは 、 即 位 後 た だ ち に ウ ォ リ ン グ ブ
ヘンリ l 二世はマ l ム ズ ベ リ に お い て ス テ ィ l ヴンを破り、 ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド を つ い に 救 出 し
て攻囲された(一一四六年)が、 スティ l ヴ ン の 勢 力 の な か に 孤 城 と し て も ち こ た え 、 以 来 戦 争 は 穆 着 状 態 に 入 つ
一一五三年、
た。両勢力はやがてこのウォリングフォードで条約を締結、戦争は終る。
ォlド の 市 民 に そ の 忠 誠 を 報 い た の で あ る 。 し か し 、 城 代 の フ ィ ッ ツ ・ コ ン ト は 僧 院 生 活 に 入 り 、
初 期 に 城 及 び オ ナ l は へ ン リ l の手に帰することになった。
ヘンリ l 二 世 は 、 各 地 の 城 を 点 検 し 、 ︽ 公 認 さ れ て い な い 城 ︾ を と り つ ぶ し た 。 ア ン ジ ュ ヴ ァ ン 王 朝 の 時 代 こ の 州
及び近辺にあった城をみよう。まず、オックスフォード、ウォリングフォードには王の城があった。前者は、一一九
0
セント・ヴァレリイ家はミクスベリに城をもっていた。もっともそれはこの時期に放棄されており、そこの
世紀末頃までに補強修復された(一二三ポンド一五シル)のである。パロンの城も北オックスフォードシャーにも存
在した
マーダク家、
V'ゥ・
マ ナ ー は 二 二 三 年 オ ズ ネ イ 僧 院 に 寄 進 さ れ た 。 ウ ッ ド ス ト ッ ク の 比 較 的 近 辺 に は 、 ミ ド ル ト ン ・ ス ト l ニl にキヤ
ンヴイルの城があったし、デデイントンにはチェネイ家の城があった。チェネイ家の城は、後、
1 1 │シ プ ト ン ・ ア ン ダ ー ・ ウ ィ ヅ チ ウ ヅ ド に 城 が あ っ た 。 こ の う ち の 少 な く と も 一 つ 、
アスコ
ディヴァ家の城となった。ミルトンには所有者不明の城があったし、西部には、ミルトン・アンダー・ウィッチウッ
ド、及び││おそらく
ート・アン、タ l ・ ウ ィ ッ チ ウ ッ ド は ド イ リ l家 の も の で あ っ た 。 ド イ リ l家は、すでにのベたように、 玉 城 で あ る オ
ックスフォード城の城代であり、 そ の た め に こ の 城 は 放 棄 さ れ つ つ あ っ た に ち が い な い 。 ベ ッ ク リ イ に は 、 イ ブ リ 家
な い し セ ン ト ・ ヴ ァ レ リ イ 家 が 以 前 か ら の も の に 積 重 ね た 城 が あ っ た と 思 わ れ る し 、 コグズにもア l シック家が繁い
北法 2
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(
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2
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)
2
9
た。
O年から三、四年にわたり補強修復された(総工費一二O 四 ポ ン ド 一 六 シ ル 五 ペ ン ス ) し 、 後 者 は 主 に 一 一 七 二 年 か ら
中世におけるウッドストックとその近辺
説
論
た 城 が あ っ た ろ う 。 し か し こ の 二 つ の 城 は へ ン リ 1二 世 の 時 代 に は 放 棄 さ れ て し ま っ た よ う で あ る 。 近 辺 の 州 で は 、
一一七九年頃王の手に移り、 と く に つ 二 O 年 以 来 ジ ョ ン 王 に よ っ て 大 規 模
バ ッ キ ン ガ ム に パ ヅ キ ン ガ ム 伯 の 城 ( 一 一 五 四 │ 六 四 年 ) が あ り 、 ブ ラ ッ ク リ イ に は レ ス タ l伯 の 城 が あ っ た 。
述のクリントン家のケニルワ l ス城は、
な補強がなされた(一一一五ポンド三シル-一ペンス半)。かつてはウォリックの城と相連合してあたりを威圧したこ
の城は王の城となり、 かえってウォリックの城と相対的することになったのである。 アンジュヴァン王朝の政策は、
二二四年には、九三と一七九という配分になったのである。玉城を地理的観点から分類すれ
パロンの城を縮少し、 王城を強化することにあったといえる。 一一五四年には、 玉 城 の 数 は 四 九 で 、 パ ロ ン の 城 の 数
は二二五であったが、
ば、南部の海岸地帯、北部の辺境、 西部のウェ l ルズの辺境、 それに中央部の部類に分けることができる。 オックス
一
一
一O 九年から-一年間に一 0 0ポ ン ド を 下 ら な い 額 を 注 ぎ こ ん だ の で あ っ た 。 既 に の べ た よ う に マ チ
ぐ 後 に 容 易 に 取 り こ わ し う る よ う な も の で あ っ た に ち が い な い 。 居 城 は か つ て の ︽ モ l ト・アンド・ベイリ l︾のも
ルダはウッドストックや近辺の場所にいくつかの︽城︾を築いた。しかしこれらのものは城とはいえないような、す
ドストヅクに、
あったのである。王はこうした行在所にも巨額の金を注ぎこんでおり、 たとえば、 ジョン王は、彼の生地であるウッ
これらとは別に、城とはいえない好みの行在所をもっており、 そ の 代 表 的 な も の が ウ ッ ド ス ト ッ ク と ク レ ラ ン ド ン に
王 が 最 も 好 ん だ こ う し た 城 で あ っ た 。 オ ッ ク ス フ ォ ー ド に も 王 が し ば し ば 訪 れ る ボ l モン・パレスがあった。王は、
った。中央部の城はまた王の行在所になりつつあった。ウインザ l城 、 ウ イ ン チ ェ ス タ l城
、 ノッテインガム城は、
たのである。即ち、それは地方における王の財産保管所であり、牢獄であり、 シ エ リ フ や ベ イ リ フ の 公 的 居 住 地 で あ
格をもっていた。内乱における防衛の地点でもあったが、同時にそれは国の通常の行政や地方政治の中心地でもあっ
フォードの王城は、勿論中央部の部類に属し、外敵に対する防衛や攻撃の拠点であった他の地帯の城とは異なった性
上
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)
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中世におけるウッドストックとその近辺
のから、 石 づ く り の 頑 強 な 城 に 変 わ り つ つ あ る の で あ っ た 。
城についての王たちの政策は、武器携帯についての政策の方向にも現われている。
一一七三l 四 年 の 内 乱 直 後 に
は 、 パ ロ ン た ち の 多 く の 城 は と り つ ぶ さ れ た ( た と え ば 、 ブ ラ ッ ク リ ! の レ ス タ l伯 の 城 ) が 、 内 乱 の 翌 年 に は 、 武
器 を 携 帯 す る 権 利 を 制 限 す る 命 令 が 出 さ れ た 。 一 つ は 、 僧 侶 が 武 器 を 携 帯 す る こ と を 禁 じ た も の で あ り ( モ l のカウ
ンスルで)、もう一つは、 ウ ッ ド ス ト ッ ク の カ ウ ン ス ル で 決 定 さ れ た も の で あ っ て 、 セ パ l ン河以東の地において、弓、
矢、短剣の携帯を禁じたものであった。
武人たちは、狩猟をこよなく愛し、 王 か ら い か に そ の 特 権 を う る か に 腐 心 し た の で あ る 。 武 人 だ け で は な く 、 僧 侶
さえそうであったといわれている。 ア ビ ン ド ン の 僧 院 長 は 近 辺 の カ ム ノ ア や ベ グ リ イ の 森 で 狩 を し た と い わ れ る 。 と
り わ け 王 た ち は 狩 猟 に ふ け り 、 彼 ら は い か に し て 狩 猟 の た め の 森 を 保 存 し 拡 大 す る か に 腐 心 し た 。 ジ ョ γ王 は 、 ミ ド
せ
め
し
た
し
エドワード一世もウッドストック、 ベックリ l、 ウ ィ ッ チ ウ ッ ド の 森 の 鹿 三 六 頭 を 与 え た
へンリ l 二世は、
o
一二世紀末から一三世紀始めにかけて、 y
で あ る 。 法 王 は し ば し ば そ れ を 禁 じ た が 、 そ れ は ま す ま す さ か ん に な っ た よ う に 思 わ れ る 。 リ チ ャ lド 一 世 は 二 定 の
行なわれることもなかった。ゴールも境界線もない広大な空間で戦われ、 ときとして血なまぐさいものにもなったの
れはさかんに行なわれたが、その頃は、中世末の試合とちがって、形式ばったものではなく、 また廷人や貴人の前で
保護しようとしたのである。武人たちは、また、トーナメントを愛した。
一一八四年ウッドストックで、︽悪名高き森林法︾をつくり、これにより森や動物を
一一七六年違反に対して謀せられた罰金はオックスフォードシャーだけでごニ七六ポンドにのぼるほ
O~ 殖
ルトン・スト l ニl の領主キャンヴイルに、 ウ ッ ド ス ト ッ ク の パ l クでっかまえられた一 O 頭 の 牡 鹿 と 四O 頭 の 牝 鹿
っ(って
たぎたa
増
条件をふしてであったが、それを合法化した。条件の一つは、試合の場所の制限であり、場所は全国で五ケ所に限ら
-1
﹂
北法2
1
(
1・
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1
どのを
でで与
ああえ
れたのである。そのうちの一つは、ブラックリイからミックスベリとの問、
一つは、 ウ ォ リ ッ ク と ケ ニ ル ワ l スとの
間 で あ っ た 。 い ず れ に も オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ l のすぐ北方にある。こうした制限の目的は、 な に よ り も 治 安 を 乱 す
おそれをなくしたり、パロンたちの反乱の準備の場にならないようにするためであった。ちなみに、。フラックリ l は
、
一一七三i 四 年 の 内 乱 直 後 と り つ ぶ さ れ た レ ス タ l伯の城のあったところであり、 ケニルワ l ス も 内 乱 後 王 の 手 に 移
されたものである。
エドワード倣悔王はかなり多くの商人がここにいたことを示唆してい
サ ー ベ イ 当 時 、 州 の 中 心 地 オ ッ ク ス フ ォ ー ド に は 、 七二O ほ ど の 家 が あ っ た 。 征 服 前 に オ ッ ク ス フ ォ ー ド が 地 方 都
市以上の重要性をもっていたことは疑いなく、
る。当時は少なくとも七人の金貸業者が住んでいたとされている。ここには、商人たちが住んでいただけではなく、
一二世紀半ばには、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド は
州内に領地をもっ重要な国王の家臣も家をもっていたのである。これはパラ l のマーケットに接する便宜のためでも
あったろう。その数は二九人であり、彼らがもっ家の数は二一七であった。
ミッドランド全体で最も重要な町になったのである。しかも、大ていのミッドランド諸州では、州には一つのパラ l
、ッドランド西部、南部から比較的容易に
エクスタ l、
し か な か っ た が 、 こ の テ l ムズ河の中流近辺では、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド と ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド の 二 つ の パ ラ ー が 一 四 マ
イルへだてて存在し、人々をひきつけたのである。
ロンドン、
一二世紀半ば頃では、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド は ア カ デ ミ ッ ク な 研 究 で 別 に 有 名 で あ る と は い い が た く 、
サンプトン、 リ ン カ ー ン の 方 が む し ろ 有 名 で あ っ た 。 し か し 、
来やすいという場所的な有利さをもっていたし、政治的にも、 カウンスルがしばしばそこで開かれるという事情や、
王が市に居所をもち、 ま た 近 辺 の ウ ッ ド ス ト ッ ク に 王 が 好 み の 狩 猟 場 、 居 所 が あ り 王 が し ば し ば 訪 れ る と い う 有 利 さ
があった。こうして一二世紀半ば以後、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド は 、 多 く の 学 者 や 学 生 が 次 第 に 集 ま る と こ ろ と な っ た の で
ノ
説
論
北法2
1
(
1・
3
2
)
3
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中世におけるウッドストックとその近辺
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一世の治世にもすでにここはしばしば重要な宮廷とな
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ヘソリ l二 世 の 治 世 に お い て で あ っ た ろ う 。 ベ ケ ッ ト が │ │ シ エ リ フ の エ イ ド
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一一一 O 年 ‘ 三 名 の 司 教 が こ こ に 集 っ て 決 裁 が な さ れ た と さ れ て い る 。 し か し 、 ウ ッ ド ス ト ッ ク
のお気にいりのこの狩猟場もしばしば宮廷となった。 へンリ
っており、例えば、
が宮廷として最も重要であったのは、
1 ン河以東の地において一定の武器の携帯が禁ぜられたのもここで聞かれたカウンスル(一
に関して││ヘンリ!と最初に衝突したのは、︽ウッドストックのカウンスル︾においてであった(一一六三年)。
既にのべたように、 セパ
一七五年)においてであったし、︽悪名一両き森林法︾が制定されたのもウッドストックで聞かれた宮廷においてであ
(4)
った(一一八四年)。森林法は﹁二人の大司教、司教、バロン、伯、貴紳の評議乙同意によって、ウッドストックでし
制定された、と一六世紀のコピーに述べられている。スコットランド王マルコム及び弟ウィリアムが臣従を誓ったの
はウッドストックにおいてであった(一一六一一一年)し、 つ ぎ の ス コ ッ ト ラ ン ド 王 と な っ た ウ ィ リ ア ム の た め に へ ン リ
寵 愛 す る 女 ロ ザ ム ン ド を か こ っ た の も こ こ で あ り 、 伝 説 に よ れ ば 、 王 は マ ナ l ・ハウスの城壁の
・ロザムンド︾をかこってここをしばしば訪れた。妃のエレアノ l ルがかくれ家をつきとめ、毒殺し
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ーが大パロン、ボ l モ ン ト 子 爵 の 娘 を め と ら し め た と き 、 婚 礼 の 式 は こ こ ウ ッ ド ス ト ッ ク で 荘 大 に 行 な わ れ た の で あ
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ドが用いたといわれる︽ロザムンドの井戸︾が残っている。彼女が上述のゴドストウ尼僧院に埋葬されたということ
一一二五年バロンたちに屈服してのち、彼はここに退いて休養もした。 ヘンリ 1三 世 も ま た ウ ッ ド ス ト ッ ク を 愛
もほぼ確実である。 ヘンリ l の 息 子 ジ ョ ン は こ こ で 生 ま れ た の で あ る し 、 彼 は こ の 生 地 の パ レ ス を 拡 大 も し た の で あ
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した。北ウェ l ル ズ の 王 た ち と の 抗 争 を 終 隠 せ し め る た め 、 彼 が ( ウ ッ ド ス ト ッ ク の ) 条 約 を 王 と 結 ん だ ( 一 二 四 七
る
説
論
年)のはここであったし、 とりわけ、 ス コ ッ ト ラ ン ド 王 と 娘 で あ る 王 妃 を 盛 大 に 歓 待 し た の も こ こ で あ っ た 。 こ の 夫
妻をもてなしたさいには﹁王の命により数多くの貴族、貴族にともなわれた数千の従者が集り、無数の馬がつながれ
た
。 マナ!・ハウスは、尼大な数の人たちをうけいれることができず、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 市 も 周 辺 の 村 々 も 収 容 す る
マテイウ・パリは云っている。
ことができなかった。 ロ ン ド ン に 向 う 行 列 は 別 々 の 道 を ゆ か ね ば な ら な か っ た 。 途 中 の 町 や 村 は こ れ ほ ど の 人 数 の 用
達にはこたえることができなかったからである﹂と、
一二三四年当主の死とともに男系は絶え、 フック・ノ l トン及びそ
一二世紀後半から一一一一世紀半ば頃までに、かつて州に住んだ有力な家門は消滅してしまったか、それに近い状態に
あった。ドイリ l家は次第に勢力を失っており、
の他の領地はおいのウォリック伯の手に、 ついでプレセテイス家の手に移った。しかし、 プレセテイスがついだパロ
9}
ニーは非常に縮少されており二騎分のナイト・サービス(ないし四人分のサ lジャ γティ)しか負っていなかったので
︿
、 セント・ヴァレリ 1家に移っていたが、男系が断えてドル l伯 の 手 に 移 り 、 彼 の 他
あ る 。 ベ ッ ク リ ! の パ ロ ニ lは
の領地とともに一一一一一六年ヘンリ l三 世 に よ り 没 収 さ れ て し ま っ た 。 や が て こ の 領 地 は ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド の オ ナ l
のうちの多くの領地とともに、リチャ lド・コ i ンウォ l ルに与えられる。ウォリングフォードのオナ l は、フィッツ
一代限りでこれを与えられた(一二一一二年)のである。ウォリングフォードのオナ l及び城は、彼がほ
-コントが僧院に入つてのち、 王の手に帰していたのであり、 王の弟であるコ l ンウォ l ル伯は、 王に対する反抗と
和解ののち、
ぼ 同 じ 頃 与 え ら れ た パ カ ム ス テ ッ ド の オ ナ l及び城とともに、テ l ムズ河中流地帯及び南部ミッドランド地帯におけ
る彼の財産と勢力の拠点となった。へデイントンのパロニーも、パセット家の男系が絶えて一三世紀の前半に解体の
状態にあった。長女はウォリック伯に嫁したが、伯の死後王に反抗的であり王に嫌われているシウォドと再婚したの
北法2
1
(
1・
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)
3
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中世におけるウッドストックとその近辺
である。シウォドは、 コーンウォ 1 ルとも州内で激しく争った人物であった。 アlシッグ家は、
ヘンリ l三 世 の 治 世
なかばまで州で有力な一円であったが、男系がたえ、領地は州南部のグレイ家の手に移った。しかし以後グレイ家の
一部はへンリ l三世の末年にソ 1 ルスベリ伯の手に移り、や
領地も複雑な屈折をたどることになる。 キ ャ ン ヴ イ ル 家 の 領 地 も 一 三 世 紀 前 半 に 解 体 し 、 領 地 の 一 部 は 、 も と も と ド
イリ l家の家臣であったスタントン・ハ l コl ト家に、
がてさらにヲンカスタl家に移ってしまう。ウォリングフォードのオナlの一部(ピスタ!近辺の七つの領地)を受
領 し て い た 他 の パ セ ッ ト の 一 門 の 所 領 も 同 じ く ラ γカスタ 1家の大所領のなかに吸収されてしまう。こうして一一一一世
紀半ば頃には、この州に住んだ豪族の一門は殆んど解体していたのである。オックスフォードシャーにはもともと全
国的な大領主は住んでいなかったのであるが、州内の領地は、ますます、他の州に住む権門の大所領の一部をなすに
一回世紀には州内の大領地は王の手に帰する傾向があ
ilパリンドン・ハンドレッドを所有したプレセテス家を除
すぎないようになり、州に住んで州に大きな勢力を振う豪族がいなくなってしまったのである。のちに述べるよう
に、州内のハンドレッドを支配するものは、 ほとんど、
llこの州に住まず、国の政治で有力な権門や貴紳である。
き
った。 コーンウォ l ル伯家の所領は、男系が絶え(二ニO O年)、王の手に移っている。こうして、州内に住む豪族が
解体し、州に住まない権門や貴紳が州の︽上級︾勢力となるということは、他面からみれば、より小さい規模のナイ
ト級の地方有力者の発言が増すということに並行するかもしれない。例えば、一回世紀始めには、かつてはドイリ l
家の家臣であった(第皿表)サl・ダモリlは、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 玉 城 の 城 代 で あ り 、 州 の シ エ リ フ に な っ て い る 。
この二つの職は、 ドイリl一門がかつてはしばしば兼ねたものであった。
ハ ン ド レ ッ ド は 、 王 の 手 に あ る も の と 、 私 的 な 領 主 の 手 に あ る も の と が あ る 。 一三世紀末には、英国のハンドレッ
ドの総数六二八ほどのうち、私的なものは三五八であり、 王のハンドレッドは二七O である。王のハンドレッドは、
北法 2
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東部ミッドランドに多く、私的なハンドレッドは南部及び南西部に多いといわれている。近辺では、バッキンガムシャ
一二が私的なハンドレッドである。各ハンドレッドの領主をみると、第
w表のごとくである。王
ー 、 ウ ォ リ ツ ク シ ャ ー に は 私 的 な ハ ン ド レ ッ ド は 存 在 し な い 。 こ れ に 反 し 、 オックスフォードジャーでは、
ンドレッドのうち、
のハンドレッドは、 ウットン・ハ γドレッドと、 その東どなりにある。フラウリl・ハンドレッドの二つにすぎない。
ドームズデイの時代には、 リ ン カ ー ン 司 教 の も の を 除 き 、 他 は す べ て 王 の 手 に あ っ た と み ら れ る か ら 、 こ の 間 多 く の
ハンドレッドが王の手から離れたわけである。これらハンドレッドの所有者をみると、 フ ッ ク ・ ノ l ト ン に パ ロ ニ l
の本拠をもっプレセティスを除けば、 い づ れ も 国 の 政 治 で 重 要 な 役 割 を 果 し て い る 人 た ち で あ る 。 コ ー ン ウ ォ l ル 伯
は王の弟であり、この時期の王の、 ま た は バ ラ ン ス の ウ ィ リ ア ム の 勢 力 に 反 対 し た リ ー ダ ー で あ っ た し 、 ウィリアム
はへンリ l三 世 の 妃 の 叔 父 で あ っ て 、 サ ヴ ォ イ か ら 移 っ て き て 以 来 国 の 政 治 の 中 心 を 占 め た 人 物 、 セ ン ト ・ ア マ ン ド の
ア ル マ リ ッ ク は 、 彼 の 息 子 で あ っ て 、 抗 争 の 時 期 の 一 二 名 の カ ン ス ラ l の一人となった人物である。彼らはすべて、一
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三 世 紀 前 半 に ハ ン ド レ ッ ド を 与 え ら れ た の で あ る 。 国 の 政 治 で は 重 要 な 役 割 合 ﹂ 果 し て い た 彼 ら は 、 いづれもオックス
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ッドの額は中世中四O シルであったのである。 ハンドレッドによりその額には大きな違いがあることが注目される。
ー・ハンドレッドの、ハイデ iジ と 検 問 の 額 五 ポ ン ド 六 ペ ン ス は 二 六 五 二 年 ま で 変 わ ら な か っ た 。 テ イ ム ・ ハ ン ド レ
-ハンドレッドの額は、一二七九年から一三二七年││おそらくこれより後までも││変わらなかったし、 プラウリ
興 味 が あ る の は 、 こ れ ら の 額 は 極 め て 長 く 固 定 さ れ て お り 変 わ ら な い と い う こ と で あ る o 例えば、 チャドリントン
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O 九年の会計簿によるとつぎの通りである(村の数二四)。
ドモンド・コ l ンウォ 1 ルのハンドレッドであったが、彼の死後(ごニO O年以後)、王のハンドレッドになった。
四つ半のチルタン・ハンドレッドの額の内分けをみてみよう。このハンドレッドは、 エドワード)世のいとこのエ
その他
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ハンドレッド内のマナ!の領主がハンドレッドの裁判の下にないからである σ 。フラウリ l ・ハンドレッドの例
リ ン カ ー ン 司 教 の ハ ン ド レ ッ ド を 別 と し 、 例 え ば 、 パ リ ン ド ン 、 プ ラ ウ リ l のハンドレ γドの額は極めて小さい。こ
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五 九
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中世におけるウッドストックとその近辺
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ハンドレヅドの二大裁判におもむき、
一つの村落(ソウルダ i ン)は例外的な︽フリ l ・マナ l︾(ハンドレッド・ロール)であって、 ベイリ
フは王の令状がなければ、 入ることができない。その領主は、欲するなら、
︽領地の人々に対する彼の自由︾を求めることができたし、また欲すれば、││領民は罰せられずにそこに行くこと
フ一フ
ができるので!│裁判の利得を求めることもできたのである。また、このハンドレッドには、ウォリングフォードの
オナ l に属する領地が数多あり、これらのものは、種々ハンドレッドの行政の管轄の外にあった。二つの村は、
ングブリッジの検聞を、 オナ l のベイリフのもとでうける。一二つの村の訴訟は、年一回はオナ 1 の法廷で行なわれる
し、二つの村のオナlの中間領主(オズネイ僧院とルlリイ僧院)は、それぞれ検問、裁判を行なっている。また、
ウエストミンスタ l僧院もここに領地をもち、特権的地位を与えられており、僧院長は、 ィ。スリップに法廷を聞き、
二つの村の領民を裁き、うち一つの村で検聞を行なっている。また、ある二人の領主は、 みづから検聞を行なった。
もっとも、この二人の場合には、 シエリフと王のベイリフがいなくてはならないし、彼らに一 O シルを支払わねばな
らぬ。こうして、プラウリ l ・ハンドレ yドは、 王のハンドレッドであるにもかかわらず(?)、王の権限の巾は小さ
ハンドレッドの
ハンドレッドの行政に服しない多くの領地があったためである
いのである。パリンドン・ハンドレッドは、その額は一一層小さいのであったが、ここでも、それは、
所有者であるプレシ!ないしプレセテイス家以外に、
(ウォリングフォードのオナーやテ γプ ル 騎 士 団 の 領 地 ) 。 過 去 、 王 や ウ ォ リ ッ ク 伯 が ふ ん だ ん に 恩 恵 を 与 え て し ま
こ の ハ ン ド レ ッ ド に 多 く の 所 領 を も っ 直 属 の 家 臣 は 、 ウ ォ リ ン グ フ ォ ー ド の コ ン ウ ォ l ル伯(少な
一三世紀半ば頃の所領の状態をみて
ったのである。こうした農村のハンドレッドに比較すると、都市的なハンドレッドでは、その価値はより高い。例え
ば、ノ l ス・ゲイトのハンドレッドは、小さいにもかかわらず、高い。
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資 料 的 に 最 も 豊 富 な ハ ン ド レ ッ ド で あ る プ ラ ウ リ l ・ハンドレッドをとって、
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とくに自由人の数は増加した。国王
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中世におけるウッドストックとその近辺
数が目ざましく増加したのである。もっともこれには様々の留保を附さねばならない。
に よ る と 、 州 の 町 村 数 は 三 七 一 で あ る 。 こ れ を 各 ハ ン ド レ ッ ド 毎 に み て み る と 、 第W表のごとくであり、
FEi-一一一二六年に作成された文書ロ。B
町村の数もかなり増加しているといえそうである。 ハンドレッド・ロ l ルには、それは三O O以上になった。
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世紀始めには、州全体は公的に(徴税のため)地理的単位に分けられた。
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口
ハンドレッド・ロ l ルに最も良く叙述されている。フラウリ 1 ・ハンドレッドの人口をみてみ
ドストックが属するウットン・ハンドレッドの町村数が最も多く、五六である。
ハンドレッドのうち、
一二七九年のサーベイにおいては、
ー
一三七五(自由小作人二六回、ナティヴィ八二O 、
一二七九年のサーベイにおいては、︽人口︾は七二九(ヴイラニ、 四二回、 ボディア一一一一
ょう。もっとも、これもド l ムズデイ・サーベイよりもより正確であるとはいえないのであり、種々の不正確な点が
(MM ︺
推測されるのではあるが。
五、サ l フ八O) であったが、
コッタ l 一 八 八 ) で 、 こ の 間 に ︽ 人 口 ︾ は 二 倍 ほ ど に な っ た の で あ る 。 こ の ハ ン ド レ ッ ド の う ち で
てもないのである。
この州で自由人の数は増加したとはいえ、
シャ!と同じ部類に属している。この点、非自白人の割合が比較的小さい東やとなりのバッキンガムシャ!とは異なっ
らば、この時期においてもこの州では、他の州に比して非自由人の割合は依然として大きく、北どなりのウォリヅク
ハンドレッド・ロ l ル に 現 わ れ て い る 各 州 の 自 白 人 の 割 合 を 比 較 す る な
まだ及ばないが、人口の伸びは著るしいものがあったであろう。表には︽マーケットで暮している︾人びとは含まれ
ッド・ロ 1 ル に お い て も ( 七 八 ) 最 も 多 い が 、 人 口 の 伸 び は そ れ ほ ど で は な い 。 こ の 古 い ハ ン ド レ ッ ド の 中 心 地 に は
は 、 王 領 で あ り ハ ン ド レ ッ ド の ベ イ リ フ が い る カ l トリントンの人口は、 ドームズデイにおいても(七一)、ハンドレ
セルビ一 O 三
、
四
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ている。またオックスフォードシャーでも、各ハンドレッドによって、非自白人の割合はかなり異なっており、ピア
北法2
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論
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ユl エ ル ム 、 ラ ン グ ト リ l等 南 部 の ハ ン ド レ ッ ド で は 、 非 自 由 人 の 割 合 は 比 較 的 小 さ く 、 自 由 人 の 割 合 は 高
い(ただしチルタン丘陵地帯のピンフィ l ル ト ・ ハ ン ド レ ッ ド は そ れ ほ ど で も な い ) 。 非 自 由 人 の 割 合 は 州 北 部 で よ り
高い。上記の固フラウリ l ・ハンドレッドはーーーリンカーン司教の南部の小さいハンドレッド、 ド l チェスタ l ・ハン
ドレッドとともに││非自由人の割合が最も大きい。ウットン・ハンドレッドでも、パラ!となったウッドストック
を除いてみるならば、 か な り 高 い 割 合 と な る 。 地 代 形 態 を み る と 、 ウ ッ ド ス ト ッ ク の 属 す る ウ ッ ト ン ・ ハ ン ド レ ッ ド
や東どなりのプラウリ l ・ハンドレッドでは、非自由人の貨幣支払いと賦役とはおおよそ等しい。西どなりのチャド
ユl エ ル ム の ハ ン ド レ ッ ド で は 貨 幣 地 代 が か な り 多 い 。 農 奴 の 割 合 が 比 較 的 高 い こ の
リントン・ハンドレッドでは、非自白人の義務のなかで、貨幣地代に対して賦役がいちぢるしく超過している。これ
に対し、州南東部のピアトン、
州 に お い て │ │ そ れ に も か か わ ら ず │ │ 貨 幣 地 代 の 割 合 も 比 較 的 多 い 、 とみられている。
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(1) へγ リ l二世の治下に、最初に、ウエストミンスタ lに大蔵省が比較的固定的に位置するようになった。もっとも大蔵省が他
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経済上の中心地であったロンドンが政治の中心地ともなったのは一回世紀後半にすぎない。
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ドン僧院に関することがらであった。
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汁・ビスタ!で﹁マーケットで生活している﹂人びとはこの表には含まれていない。
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コスミンスキー︿秦訳﹀、A 二二世紀における賦役と貨弊地代V。
o﹁ニュ
l ・ウッドストック﹂の中心部はこうして││恐らく計画的に││つくられたにちがいない。
一部が既にあったことを推測せしめる。 へンリ l三 世 は 、 更 に 、 聖 マ チ ウ 祭 に 三 月 間 フ ェ ア ー を 聞 く こ と を 許 し た 。
会の南側の入口には、半円形のノ l マン式ドアーが今も残っており、このことは、この時期に、現存の教会の建物の
ではなく、 と な り の 村 プ レ イ ト ン の 教 会 の チ ャ ペ ル と し て で は あ っ た が 、 教 会 も こ の 時 期 に 建 て ら れ た で あ ろ う 。 教
そして王はまた毎週火曜日にマーケットを開く特権を町の人びとに与えたのである。また、町には、教区教会として
しめたのである
がいない。彼は王領地のなかから、 四O エ ー カ ー の 土 地 を さ い て 町 の 人 々 に 与 え 、 従 者 た ち が 宿 泊 で き る 宿 屋 を 建 て
が集まることによって︽形成︾されたのである。 へンリ l 二 世 の 治 世 に は と く に こ う し た 人 び と が 必 要 と な っ た に ち
マナ l ・ハウス、﹁宮廷﹂のまわりに、 まづ、王や王の従者や役人、 と き と し て は 王 の 客 に 、 必 需 品 を 供 給 す る 人 び と
ちのイニシアティブが十分にあったということ、このことは否定さるべくもない。町は、王のハンティング・ロッヂ、
されたかどうかはともかく、町が王のハンティング・ロッヂの近辺に発達したということ、 しかもこの発達には王た
がしばしばきて泊るようになったとき、町が発展する条件は十分にあったのである。町が王のイニシアティブで形成
き な い の で あ る が 、 近 辺 に は い く つ か の 部 落 が あ っ た の で あ り 、 こ こ に ハ ン テ ィ ン グ ・ ロ ッ ヂ が つ く ら れ 、 王や側近
ドームズデイ・サーベイによっても、現在のウッドストックの位置に人びとが住んでいたかどうかは知ることがで
五
説
論
北法2
1
(
1・
4
6
)
4
6
中世におけるウッドストックとその近辺
そ れ は ﹁ こ の 町 が 貧 し い の を 憐 れ ん で の こ と ﹂ ( ハ ン ド レ ッ ド ・ ロ ー ル ) で あ っ た と い う 。 彼 は ま た マ ナ l ・ハウス
を修理し拡大したし、 町の建物をいくつか建てたとも云われる。ウッドストック郊外には、当時聖十字架(瀬患者﹀
いづれも
ヘンリ l三世の顔とお守ほしき彫刻がきざま
へンリーによって種々の保護、便益を与えられている。 へンリ l三 世 の 時 期 に は 、 教 会 も 拡 大 さ れ
(2)
病院、 ウッドストック(婦人頗患者)病院等があった。これらは、 いつ創設されたか明らかではないが、
一二三0 年代に、
た。現在も残っているタワーはこの時期のものであり、内部の柱頭には、
れている。こうして、町はへンリ l二世の時期からへンリ l三 世 の 時 期 ま で に か な り 発 展 し 、 町 は 町 と し て の 体 裁 を
かなりよくととのえたにちがいない。
(3)
この時期には、近辺一帯も大いに様相を変えた。それは、産業の発展のためでもあったろう。近辺では、織物業は
既に起っていた。 オックスフォードには、 ジョン王の時代には既に、六O 軒 以 上 の は た お り が い た と さ れ て い る 。 ゥ
イットニイ││ウインチェスターの司教のパレスがあったーーでは、既に一一一一世紀前半の時期に毛織物の生産がな
されており、へンリ l一二世は二二二一年、﹁ピ l タ l ・デ・ロッシェを訪れたときに、衣裳を二0 ポンドも﹂買入れた
とされている。町の発達は、このように産業の発達による﹁自然の﹂発達でもあったろうが、ウッドストックのように
王によって、 ま た 大 領 主 に よ っ て 、 計 画 的 に つ く ら れ た か ら で も あ っ た 。 パ フ 場 lド の 例 は し ば し ば 引 用 さ れ る 。 州
西部のこの町は、 ド 1 ムズデイの時期には普通の村落にすぎなかったが、グロ l スタ l ・オナ l の大領主フイッツ・
ハモンがここの領地を手にいれるや、彼は村氏に自由な与え、村を一気にパラ l にしてしまったのである o ﹁ベンの
(6)
一二世紀末、 コグズにパ lゲッジを区画し、
一書きによって、農奴たちは自分の財産を処分できる自由な権利をもっ町人となった﹂のである。ウイットニ l の東
北 、 ウ ッ ト ン ・ ハ ン ド レ ッ ド 内 の コ グ ズ の 領 主 ( 前 述 ) ア l シッ夕、も、
マーケットを与えて、このパロニ l の本拠を村以上のものにしようとした。 一二世紀半ばごろには城をつくったミド
北 法2
1
(
1・
4
7
)4
7
説
論
一二O 一年にジョン王からマ
ルトン・スト l ニl の領主キャンヴィルも、 ア l シックにややおくれて同様の努力を払った。彼は、パ iゲッジ(一
二七九年のハンドレッド・ロールでは一四名のパ lゲッジの所有者がいた)を区画し、
一人一シリング(一 O名)またはその半額(四人)を支払っていたし、 マーケット法廷からは、
ーケットを開く権利をえた。バ iゲ ッ ジ は 領 主 に 収 入 を も た ら す 。 ミ ド ル ト ン ・ ス ト l ニl のパ lゲッジ所有者は、
一二七九年には、
マナ l ・ハウスやパ l クをととのえること、これは領主た
二九五│六年には三シル一 0 ペ ン ス の 利 益 を え て い た 。 し か し 領 主 が こ う し た 努 力 を す る の は 収 入 の た め ば か り で は
なかったであろう。彼の本拠を村以上のものにすること、
一二九四年である。これはウッドストック
l クから一 O 頭の牡鹿と四O 頭の牝鹿をゆずりうけたのである。
ちが従うモデルとなりつつあったにちがいない。キャンヴィルは、ジョン王からマーケットの権利をえてから二年後
ア﹂+﹄酢、
vt ウッドストック・パ
ミドルトン・スト l ニlが年一度のフェア i の特権を与えられたのは、
ロンジェスベの下に、 王からマーケットの特権を与えられたのは一二三九年であった。 フェア l の
よ り も か な り お そ い 。 近 辺 で こ の 時 期 に マ ー ケ ッ ト や フ ェ ア l の特権を与えられたものをあげると、 つぎの通りであ
る。ビスターが、
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町は、バ iゲッジで保有されてはいなかったが、それに近いものだったのであり、保有地は(聖
特 権 を 与 え ら れ た の は ミ ド ル ト ン ・ ス ト l ニーよりも早く一二五二年である︿一二二六年以後は、二つのマナ l の領
主は同一人物である
験者やユダヤ人にはときとして禁ぜられたが)自由に売買でき、年額のレント以外に払う必要もなかった。年額のレ
ントは一二ペンスであり、この時期に新たにつくられた町では普通の額であった。家も領主から与えられ、世襲するこ
一二世紀の八O
と が で き た の で あ る 。 テ イ ム も リ ン カ ー ン 司 教 に よ っ て 計 画 的 に つ く ら れ た 。 そ の 時 期 はli確実な資料によると、
一二世紀末であるが 111おそらく四0 年代であったとみられている。火曜日のマーケットの権利は、
年代に与えられたと思われるが、 王 の 特 許 状 を 最 初 に え た の は ご 二 五 年 で あ っ た 。 後 、 パ lゲッジがつくられ(一
北法2
1
(
1・
4
8
)
4
8
中世におけるウッドストックとその近辺
三世紀の第二・四半世紀)、各パ lゲ ッ ジ は 一 シ リ ン グ を 支 払 っ た 。 も っ と も 、 あ る 大 工 は 三 メ の パ lゲッジをもっ
一二七九年にも四五にしかな
一 三 世 紀 中 に 発 達 し た 。 も っ と も 、 ミ ド ル ト ン ・ ス ト l ニイにおけるキャンヴイ
ていた。ほかに三つ分をもつもの一人、半分のもの一人、他は一パ iゲッジであった。
これらのマーケット・タウンは、
ルの努力はどれほどみのったかは疑問である。ドームズデイの時代の︽人口︾三七は、
っ て い な い 。 こ の 近 辺 に 二 倍 以 上 に ふ く れ 上 っ た 村 が 数 多 く あ っ た │ │ ミ ド ル ト ン ・ ス ト l ニイの属する。フラウリ l
-ハンドレッドも︽人口︾は二倍になっているのであった││ことからすると、 キ ャ ン ヴ ィ ル の 町 づ く り は あ ま り 成
功 は し な か っ た よ う に 思 わ れ る 。 こ の 町 の パ lゲ ッ ジ 所 有 者 は 一 四 名 で あ り 、 他 に 自 由 人 が 四 名 で あ っ て 、 ド ー ム ズ
デイ時代の︽人口︾が三七、二一七九年の非自由人が二七、この差一 O であることからすると、恐らく村に住んでい
た多くの︽ヴィラニ i︾は、そのままパ lゲッジ所有者となり自由人となったのであろう。が、ここを除けば、
ケットをもっ村は、 ド ー ム ズ デ イ の 時 代 以 来 か な り 発 達 し た に ち が い な い 。 と り わ け ウ ッ ド ス ト ッ ク は そ う で あ っ た
Q
このサーベイによると、当時町には一三七軒の家があり、
一
O 八世帯が住んでいた。町の人びとは、 王から与え
われわれは、この時期のウッドストックの状態を︽ハンドレッド・ロールズ︾によってかなりよく知ることができ
にちがいない。
る
られた土地や建物に対し賃貸料を払った。 ハンドレッド・ロ l ルによれば、最も多く支払っているものの額は、
ペンスであり、最低の額は二ペンスであった。 い く 人 か の 人 た ち は 現 物 で 払 っ て お り 、 あ る も の は 毎 年 一 ポ ン ド 重 の
桂樹、 王のチャペルに一つの燈火を納める等、 であった。王に対して町の人々が払ったものはこれらの年々のレント
北法2
1
(
1・
4
9
)
4
9
ぺず
のみであったろう。これは 1 1新 ら し く で き た 町 で は 1 lめ づ ら し く な い し 、 額 も 特 別 の も の で あ る と は 云 い が た い
であろう。 サーベイによると町の人々にはつぎのような職業のものがいる。
八
説
論
金物商一名、染物屋一名、竪琴師一名、ナプキン作り一名、ひだつくり一名、紙屋一名、仕立屋一名、大工一名、なめし皮屋一
名、細工師一名、かち屋一名、機織り一名、陶器師一名、呼売商人一名、その他パ l pで働く庭師や接待人多数である。
これをみると、町にはまだ、 の ち に か な り 有 名 に な る 革 手 袋 製 造 も 金 物 製 造 も き ざ し は 殆 ど み ら れ ず 、 とくべつの
産業は全くなかったといってよい。しかし町は、毎週マーケットを開き年一度フェアーを聞く特権を有していたの
内
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チャ l ルベリ l、 パ ン ペ リ ー で も ひ ら か れ て
で、近辺の市場の中心としてかなり重要な地位を占めていたろう。 マーケットやフェアlは、この州では以上のベた
ものの外にパンプトン、ラドコlト、 スタンドレイク、
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、 ウイットニイとともに、パラーとして州裁判所に代表を送っている。これら
一三世紀には、この町はすでにパラ!とよばれており、パンベリ、チッピング
いたが、この町は、すでに特許状を授与されていたオックスフォードにつぎ、パフォードにおとらず重要な経済上の
ヘンレ
役割を果していたといってよかろう。
-ノlトン、 J7J
アィントン、
の町は、殆ど州北部にある町であることをここにつけ加えておこう。
この町は二二O 二 年 に は 議 会 に 代 表 を 送 り 始 め た 。 こ の 議 会 は 一 二 九 五 年 の ︽ モ デ ル ・ パ l ラ メ ン ト ︾ 以 来 七 年 目
の も の で あ る 。 一 三O 二 年 の 議 会 に は 英 国 全 体 で 七 四 の パ ラ ー が 代 表 を 送 っ た と 云 わ れ 、 ウ ッ ド ス ト ッ ク は そ の 一 つ
になったのである。同じ年に、この州からは、オックスフォード以外に、チッピング・ノ 1 ト ン 及 び デ デ ィ ン ト ン が 代
一議会で﹁八六を下らない﹂とし
表を送っている。とすれば、この年にはかなり小さいパラーも代表を送っていたことになるであろう。中世議会の研
究家は、エドワード一世の時期に議会に代表を送ったパラlの数は、平均すれば、
ている。どのような町が議会に代表を送るように求められたかは、それほど明らかではない。となりのバッキンガム
シャーでは、 シ エ リ フ が 通 常 そ れ を 決 め た の で あ っ た 。 こ の 時 期 は 議 会 制 の ︽ 試 行 錯 誤 ︾ の 時 期 で あ り 、 ど ん な 町 を
選ぶかの標準は定まっておらず、 シエリフによって、 ま た 同 じ シ エ リ フ で も 年 に よ っ て ち が っ た の で あ る 。 代 表 を 送
北法2
1
(
1・
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中世におけるウッドストックとその近辺
る よ う に な っ た 町 が な ん ら か の い み で 重 要 な 町 で あ っ た こ と は 否 定 で き な い で あ ろ う が 、 戸 数 一 O O前 後 の も の も そ
一
三O 六年
一三O 六年
のなかにはかなりあったのである。ちなみに、この州でエドワード一世の時代に議会に代表を送った町をみるとつぎ
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一三O 五年
のごとくである(オックスフォードを除く
一三O 二年
一三O 五年
一三O O年
一三O 二年
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ウッドストック
一
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一三O 二年
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三O 五年
ア アィントン
ウイットニ l
ハフォード
ハンドレッド・ロ l ルのなかで、 ウ ッ ド ス ト ッ ク は つ ぎ の よ う に 述 べ ら れ て い る 。
﹁ウッドストック
﹁現在王が所有しているマナ lの一つ。
ッ
﹁ウッドストックは王の手にあり、王位に属するエンシェント・デミ lンである。
エ ン シ ェ ン ト ・ デ ミ i ンであり、 し か も 以 来 王 の 手 に あ る 直 領 地 で あ る 。 ま た 、
1︾ と 呼 ば れ て い
ウ
更にウッドストックは、 い く つ か の 村 落 か ら な る 王 の 領 地 、 ウ ッ ド ス ト ッ ク ・ マ ナ ! の 中 心 で も あ っ た 。 こ の ウ ッ
北法 2
1
(
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1
﹂うしてウッドストックは、
ドストックは一三世紀には既にパラ!と呼ばれており、従って王のパラーとして︽ローヤル・パラ
。
る
ドストック・マナ lは
、 七 つ の 村 か ら な っ て い た と 思 わ れ る 。 た と え ば 、 そ の う ち の 一 つ で あ り パ ラ l の隣にあるブ
ホiドリイであった。
一五五一年、このマナーについて三名のコ
やがて王の直領地に編入されたのである。プレイドン以外にウッドストック・マナーに属する村は、
プレイドン・マナーは、前述したようにド l ムズデイ・ブックに記載されており、当時はパイヨ!の司教の所領で
であたえられた。地代は一五ポンド四ペンス半であり、イクスチェッカーに納められる。
ードの父王、へンリ l三世によって、一 O年前のチャーターにおいて、王の事務官であったロンドンのジョンに、一代限りの期限
﹁先王たちの手にあったし、現在も王の手にあるマナ lの一つ::・
﹁プレイドン・マナーは教会の僧職授与権とともに玉の直領地に属し、ウッドストッ F ・マナ!の一部をなす。このマナーはエドワ
﹁プレイドン
レ イ ド ン は 、 ︽ ハ ン ド レ ッ ド ・ ロ ー ル ︾ の な か で 、 つぎのように記載されている。
b
ハンパラ l、 ストーンフィールド、 ウットン、
めっ
こ:カ
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ホ iド リ イ 村 の も の は 王 が マ ナ ー に く る た び に マ ナ l ・ ハ ウ ス を 掃 除 す る 負
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(四月二日)の﹁調書﹂には、つぎのような記載がある。
インクイジテオ︹
ー ジ ャ ン テ イ ﹂ を 負 っ て い た 。 こ の サ ー ジ ャ ン テ イ の 負 担 は 中 世 紀 中 金 納 化 さ れ て は い な い 。 ヘンリ l一一一世の四二年
トのスタントン・ハ l コl ト 家 も 、 す で に へ ン リ i 一世時代の当主以来、代々、 ウ ッ ド ス ト ッ ク ・ パ l グで王に﹁サ
ウ ッ ド ス ト ッ ク ・ マ ナ ー に は 属 し な い が 、 同 じ く ウ ッ ト ン ・ ハ ン ド レ ザ ド の 王 領 地 に 属 す る ス タ ン ト ン ・ ハ l コl
いたかは確認することができない。
担、クム村のものはトイレの掃除をする負担を負っていた。ただ一三世紀にこれらの村人がどのような負担を負って
ラーの借地人はパ l クの芝をかる負担、
ミ ッ シ ョ ナ ー に よ っ て な さ れ た 調 書 に よ る と 、 各 部 落 は つ ぎ の よ う な 負 担 を 負 っ て い た 。 プ レ イ ド ン 、 クム、 、ノ 、 ザ、
ノ
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説
論
北法2
1
(
1・
5
2
)
5
2
中世におけるウッドストックとその近辺
-:四三ポンドの土地を王からうけて保有し、(三分の一の)::::ナイト・サービスと、スタントンで ji-年々:・・・:一六
ハlコlト家のある当主について、彼がスタントンの王
ロ(?)﹂と
ペンス半の::::を支払わねばならぬ。彼はまた、ウッドストックで王の牧草を運搬し、ウッドストック・パ l pの﹁05
濯木をかりとらねばならぬ。
エドワード一世の二一年(四月一一一日)の﹁調書﹂にも、
領 地 を 保 有 す る 代 償 と し て 一 人 分 の ナ イ ト ・ フ ィ l 以 外 に 、 ウッドストック・パ l ク で の 諸 負 担 を 負 っ て い る こ と が
記されている。上述の一五五一年のコミッショナーによる調書においては、彼の負担は、冬雪が降ったときに、二日
一ガロンのエイルを供しなければならないこと、 とされている。
お き に 鹿 に 草 を 与 え る た め に 四 人 の も の を 用 意 し な け れ ば な ら な い こ と 、 王の代官が彼のマナーにいったときには、
ハンとチlズ、
ハンドレッドのベイリフ以外の人物であったろう。同じ
同可。。含宮内 W が い て こ れ を 管 理 し て い た で あ ろ う 。
ウ ッ ド ス ト ッ ク ・ マ ナ ー に は 、 管 理 人 穴2 2
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少くともこのマナーが女王に与えられていたときには彼は、
くウットン・ハンドレッドに属してはいるが、王領ではないグリンプトンの領主は、グリンプトンの領地内の一ヴィ
︽凶凹
同
レl ン が 王 領 内 の ウ ッ ト ン に 逃 亡 し て い る の を 知 っ て 、 彼 の 返 還 を 求 め て 手 紙 を 書 い て あ て た の は 、 ウ ッ ド ス ト ッ ク
・マナlのキlパlに対してであった。
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口.
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彼はキlパーであるベイチにつぎのような手紙を送っている。
トマス・セント・ジョ lンズはつぎのことをお願いしたく存じます。トマスのヴィレ lンでグリンプトン領に属しておりますトマ
北法2
1
(
1・
5
3
)
5
3
言
見
論
ス・ホ lキンスなるもの、ウッドストック玉領地内のウットンに住んでおります。トマス・セント・ジヨ!ンズがこのヴィレ lンを
法と理性に従ってうけ取れるよう命じ下されば幸いと存じます。
神と慈悲とのために。
キ lパ l の 地 位 は 豪 族 ク ラ ス の も の で は な が っ た ろ う が 、 卑 し か ら ざ る も の で あ っ た に ち が い な い 。 ド ・ ラ ・ ヴ ェ
一三六O 年
イチは、 王 の ハ ウ ス ホ ル ド の 騎 士 の 一 人 で あ り ( 一 三 九 六 年 ベ ッ ク リ l の領地を王から与えられた)、また、へンリ l
であった。
四世治下では、女王の出納官として仕えた人物である。彼と同じ一門に属したと思われるリチャlドは、
m
z 。同岳山同吾氏
ウインザ 1城の警備長官に任ぜられており、彼も阿ハ巳
ggH(のちにはEロ官同)
1 パl、森林官明日
一三世紀には、森林官には近辺にすむド・ラングリl家のものが
ウィッチウッドの森は中央政府の独立の管轄下にあり、森のベイリフ、キ
が森を管理し、森林法違反者を裁判したであろう。
なった(父のトマスは森林官として︽悪名高い︾人物であった)。ウッドストックはウイッチウッドの森に隣接して
いたので、関係の役人はウッドストックに役所をもっていたにちがいない。
ウッドストック王領地は、 王のマナl・ハウス及びパlクの所在地であり、 ま た ウ ィ ッ チ ウ ッ ド の 森 に 隣 接 し そ の
管理官、警護官の居住地として、近辺の、 お そ ら く は 北 オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ l の 王 領 地 の 中 心 的 な 存 在 で あ っ た に
ちがいない。恐らくこれらの王領地からあがる収入はここに集められ、 そ の う ち の あ る 部 分 は こ こ か ら 国 庫 に 運 ば れ
一二世紀以来
州西部の王領地ラングトン(パンプトン・ハンドレッド)の自由
たであろう。パフォードに近いグロlスタシャlの一部落パリントン内にある王領地のレントさえも、
G
へンリ l 一 世 の 時 代 以 来 、 王 の 物 産 の 運 搬 を こ こ か ら サ ザ ン プ ト ン ま で 護 衛 す る 負 担 を 負 わ さ れ て い た 。 州 の
ウッドストックで支払われていたと記されている
人も、
ファーム、も、 し ば し ば こ こ で シ エ リ フ の 納 入 官 に よ っ て 集 め ら れ た に ち が い な い 。 ま た 町 に い る 王 の 役 人 は 、 王 の 必
北法2
1
(
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5
4
)
5
4
、 王の役人による食糧の強制買上げがしばしばまたときとしてかなり大量に行なわ
半 に 南 オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ lで
れた。部落にとってこの買いあげは迷惑であったと思われ、部落は自分の部落であまり多くの買上げがなされないよ
ll
うにと、 王 の 役 人 の と こ ろ に 代 表 を 送 っ て 交 渉 せ し め て い る 。 例 え ば 、 カ ク サ ム 村1 1 マ1トン・カレッヂ所領
一三四三年l 四 年 に 交 渉 の た め 代 表 を 送 っ た と 記 さ れ て い る 。 彼 ら が い っ た の は 、 ウ ッ ド ス ト ッ ク ( 及 び パ l カ
まで食料品やワインを運搬する負担をも負わされている。
ハγドレッドの位置は、
一般に、
一三世紀以来極めて重要なものとなった。ヴィレ l ン
ウ yドストックは-二世紀末頃には、 ウットン・ハンドレッドの中心、
であろう。
代には
ハンドレッドのハイ・コンスタブルが当
ハンドレッドの平和と防
yド ス ト ッ ク に 住 ん だ に ち が い な い 。 し か し 、 こ の ウ
ll 一二八五年のウインチェスタlの法例によって││、彼は、年二回この組織と武器を査察する義務を加え
衛 に 向 け ら れ る 人 び と の リ ス ト と 武 器 の リ ス ト を と と の え る 義 務 を 負 う よ う に な っ た の で あ る 。 エドワード一世の時
一般にハンドレッド・ベイリフはこれに関与しなかった。このハイ・コンスタブルは、
この任にあてられた。 ハンドレッドの段階において、警察や民兵組織には、
あったように思われる。各部落は、それぞれ警察や民兵組織(とくに前者)をもつようになり、村のコンスタブルが
も 、 決 定 的 に 、 自 由 人 と 同 様 に 州 の 警 察 や 民 兵 組 織 の 一 環 を 荷 う よ う に な っ た ヘ ン リ l一二世の時代にはとくにそうで
警察や民兵組織において、
ハンドレッド・ベイリフの所在地となった
ムステッド﹀の役人のもとにであった。この村は、 また、 王がウヅドス卜 γクにきたとき、近辺のへンレイからそこ
は
り
られたのである。こうした役に任ずるハイ・コンスタブルはウ
北法2
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(
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5
5
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5
5
要 の た め 、 少 く と も オ ッ ク ス フ ォ ー ド シ ャ l全体にわたり物品の(強制)買上げをとり仕切ってもいる。 一回世紀前
中世におけるウッドストックとその近辺
ットン・ハンドレッドでは、この役には、
ローヤル・マナ!のキlパーが当ったのかもしれない。
一一一四一年(へン
リl三世の二五年﹀には、 ウ ッ ト ン ・ ハ ン ド レ γド の 歩 兵 隊 は 、 燕 尾 旗 を 先 頭 に 立 て て 王 の 召 集 に 応 じ て い る 。 燕 尾
旗をもったのは│lサlジャンティによって土地を所有する││サージャントであった。もっとも一二七五年までに
は、このサージャンティは金納化されている。
(加)
ウッドストックにはローヤル・パラ!として王のベイリフがローヤル・パlク及びローヤル・マナ!として王のベ
ハンドレッドのハイ・コンスタブルもいたであろう。
ハンドレッド・コ
イリフないしキlパーがいたであろう。ゥットン・ハンドレッドの中心として、ここにはハンドレッドのベイリフが
ま た 、 パ ラ i のコンスタブルだけではなく、
ー ト の 事 務 官 も ほ か に い た に ち が い な い 。 ま た 、 ウ ィ ッ チ ウ ッ ド の 森 の ベ イ リ フ 、 キ l パ i、森林官﹃。お印片足のちには
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ル、
コンスタ フ
ハイ・コンスタブ
gロm巾 る が こ こ に 役 所 を も っ て い た で あ ろ う 。 こ れ ら の 官 職 は 、 理 論 的 に い え ば 、 明 確 に 区 別 さ れ る べ き も の で あ る 。
事実一、二の職を除けば、同一人物が兼職することはなかったであろう。森林官、
マナ!、
マナl、パークのベイリフ、
ル等はそれぞれ独立し、同一の人物が兼ねることはなかったろうし、彼らが、パラlのベイリフや、
のベイリフ、 キ l パ ー に な る こ と も な か っ た で あ ろ う 。 し か し 、 パ ラ l の ベ イ リ フ や 、
1パーはあるいは兼職があったかもしれない。しかし、そのことを明らかにする資料はみつからないので確かなこ
になったということは十分に考えられるのであるが。
ある。ウットン・ハンドレッドは、 王 の ハ ン ド レ ッ ド で あ り 、 パ ー ク や マ ナ ー の ベ イ リ プ が ハ ン ド レ ッ ド の ベ イ リ フ
ろう。彼がパラlのベイリフにもなかったかどうかは極めて疑問である。 ハンドレッド・ベイリフについても同様で
とは云えない。ただ、 マ ナ ! と パ l ク の キ i パ ! な い し ベ イ リ フ が 同 一 人 物 で あ る こ と が 多 か っ た こ と は い え る で あ
キ
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説
論
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ー二年までについては全く記載がなく、一三二Ol
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0年代後期にもっともひんぱんになった。ご二五O年以後は記載が全くなくなっている。買い上げられる量はしばしば極めて大
量であり、一一一一四四l 五年にかけては村から売られた穀物の四分の三ほど(八四唱・六﹃5・の小麦、七唱・のカラル、一 O
脅・五吉田・のからす麦)にもなっている。村落の人が強制買上げを嫌った理由は価格の点ではなくて、契符によって支払われ
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たからであり、村びとたちがこれを現金にかえるにはある場所ll権門領の役人ーーまでゆかなければならなかったからであ
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(お)一一二世紀半ばには、王領地の管理はシェリフの手から引はなされ、王領地自体の役人によってなされるようになった。
↓
問
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果してきたウッドストックの役割は、こうして次第に失なわれていった。しかしながら、国の政治とは切り離されつ
会もますますウエストミンスターで聞かれるようになった。巡回する王とともにあったコ l トの所在地の一つとして
ヘンリ l 二 世 の 治 世 以 来 官 庁 は 次 第 に ウ ェ ス ト ミ ン ス タ ー に 固 定 さ れ る よ う に な り ) 、 ま た 一 三 世 紀 以 来 発 達 し た 議
.
.
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説
論
北法 2
1
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一 人 は 、 義 兄 の エ ド ワ ー ド 二 世 が 殺 害 さ れ た 直 後 同 じ く モ l テイマーに
つあったウッドストックも、 王の狩猟場として、 ま た 王 族 の 居 所 ・ 別 荘 地 と し て 、 な お 愛 さ れ つ づ け た の で あ る 。
ドワ l ド 一 世 の 二 人 の 子 供 は こ こ で 生 れ た 。
ーのうち、ここのマナーが最も重要であった。
一回世紀、百年戦争がはじまったとき、この州からも数多くの軍隊が出征した。
︿
6
l ルが含まれている。
﹀
ヘンリ l
エスクワイヤー-一名がでかけた。騎士二二名
一回世紀末から一五世紀にかけては、ラヴェル家、 チョ l サ1家 さ ら に ド ・ ラ
-ポ l ル家が拾頭し、 地 方 的 人 物 以 上 の も の を 送 っ た 。 こ の 州 に お い て も 、 有 力 な 一 家 は 、 ラ ン カ ス タ l家とヨ l ク
R ・コーンウォ
、 セント・ジョ l ンズ、 T ・ ヴ ァ ! ノ ン 、
のうちには、 J ・ゴラファ l、 ウ ィ リ ア ム 及 び リ チ ャ l ド・ハ l コl ト
ンスロープのジョンと、コ l ンウォ 1 ルのエドモンド)、騎士二ニ名、
一三四六年には、 ク レ シ ! の 戦 い の た め に 、 二 名 の 旗 手 ( ハ
一三三九年には、重武装の軍人
ョウサ 1 ズ・コテ l ジ ︾ に 住 ん だ と い わ れ て い る 。 彼 は 王 妃 に 年 々 一 三0 ポ ン ド を 支 払 っ た が 、 王 妃 か ら 借 り た マ ナ
ーー
l これ以外にも彼女から領地をかりているーーを借りたのもこの王妃からであった。彼は、今も残っている︽チ
四 世 の 妃 も こ の マ ナ ー を 与 え ら れ た 。 州 南 部 の ユ l エルムに住むチョ l サ l家 一 門 の も の が 、 ウ ッ ド ス ト ッ ク ・ マ ナ
の別荘地として最も華やかな歴史をもったといえよう。 エドワード三世の妃はこのマナーを与えられたし
んだのである。 マ ナ ー が 王 妃 に 与 え ら れ る よ う に な っ た の は 、 こ の 時 期 か ら で あ り 、 ウ ッ ド ス ト ッ ク は 王 の 家 族 た ち
よって殺害されたウッドストックのエドモンドである。 エ ド ワ ー ド 三 世 の 妃 も こ の マ ナ ー を 愛 し 、 皇 太 子 を こ こ で 生
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家 に 分 れ た が 、 ラ ン カ ス タ l公領及びコ l ンウォ l ル 公 領 が 広 く 存 在 し て い る と い う こ と に よ っ て 、 ラ ン カ ス タ ! 派
が 優 勢 を 占 め た 。 ド ・ ヴ ェ l ァ、ラベル、 ド・ラ・ポ l ル い づ れ も ラ ン カ ス タ l派であった。
北法2
1
(
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中世におけるウッドストックとその近辺
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一回世紀の始めには、英国で最
も豊かな州の一つであるといわれていれる。しかし、黒死病はこ
一三五九年に報
の州をも激しく襲った。 エンシャム近辺のテイルガズリーでは
一三四九年以来一人もここに住んでいないと、
比目されている。 ハンドレッド・ロ l ルにはここに五O 人の小作
人がいたとされているにもかかわらずである。州の中部にある
ウッド・イ lトンには黒死病まんえんの直後には二人の小作人
しかいなくなったとされている凶戸州北東部のタズモアーでは
一三五四年と一三五八年に税金は完全に免除されていが)(この
一つの部落は以後消滅してしまった)。
人口の減少は勿論、黒死病のためばかりではなく(事実、
四世紀末にはグリンプトン・マナ!の農奴は!│前述のごとく
ー!隣村のウットンに逃げていた)、すでに黒死病以前に人口
は減少していたと思われる。英国全体の人口は一回世紀はじめ
にピ l クに達し、それ以後は減少し始めていると考えられるふ
しがある。ウッドスト yク西方のリ l フィールドのラングリ l
一二七九年には
村(チャドリントン・ハンドレッド内にあり、 ウィッチウッド
の森のなかに介在していたと思われる)には、
北法引 (
1・
6
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)
6
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中世におけるウッドストックとその近辺
一八人の小作人がいたが、
一一一二六年にはすでに四人の小作人しかいない。山林のなかのこの村はいちはやく人口の
減少をみているのである。ウットン・ハンドレッド内のへイスロープでも、二一二六年には小作人は三人となってし
まった。人口のこうした縮少は租税を払う人びとの減少によってもたしかめられる。
す で に こ の 時 期 に 舟 湾 立 え 邑F唱 が で て い る 。 一三五O 年から一四五O 年までの百年間に、放棄された村落は、
放棄されたと推量できるものを含めると、二五ないし三ムハと極めて多い。もっとも、それ以前にもすでに八つの村が
放棄されていると思われるのである。放棄までにいたらない村も、その人口は著るしく収縮しているであろう。少く
一回世紀半ばから一五世紀半ばまで村の放棄は極めて著るしいのであった。これは、黒死
とも、著るしく収縮した村は極めて広範にあったであろう。
第K表でわかるように、
病による村の人口の著るしい収縮が重大なきっかけになったにちがいない。しかし、黒死病によって促進されたにせ
一五世紀には、労働者条例の制限があったにもかかわらず、 また
ょ、領主経営における労働力の需要と供給のアンバランス、労働力不足、小作料やレント、賃銀の高騰等の要因によ
って、大きな人口の移動がおこったにちがいない。
一回世紀後半には、賃銀は疑いもなく上昇し
1 トンでは、二人の小作人しか残らなかったが、二人とも││新たに移住してきたものも加えてーーもし有利な
それ以前にも、人口移動は極めて激しくなっていたように思われる。黒死病ののち、ェインシャム僧院の上記領地ウッ
ド・イ
小作の条件が与えられなければ、去ってしまうと云ったとされている。
一三二七年には、週八ペンスから一シル二
一三七七年には、日に五ペンスとなった。こうしたことは、領地
ている。たとえば、 ビスタ l僧院で雇用されていた大工の賃銀をみると、
ペンス、 日に一ペニー半から二ペンスであったが、
経営が賃労働に頼らざるをえなくなっていること、 ま た 労 働 を 確 保 す る こ と の む づ か し さ を 示 し て い る と い っ て よ い
であろうが、 さ ら に ま た 人 口 移 動 が 激 し く な り 、 賃 銀 を 引 き あ げ な け れ ば 労 働 力 を 捕 捉 し え な く な っ て い る こ と を も
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一 回 世 紀 後 半 に も 、 こ の 州 の 領 主 た ち は 、 ︽ ダ イ ・ ハ lド ︾ で あ り 特 権 を な か な か 放 棄 し な か っ た よ う
示しているのである。
たしかに、
に思える。少くともエインシャム僧院やセント・フライズワイド僧院はそうであった。アストンでは、ある農奴は、
五シルのレント及びコ一シル九ペンスとしか評価できない賦役を、年一一一シルでコミュ i ト す る ほ か は な か っ た の で あ
ハンドレッド・ロ l ルに-記載されている賦
一七年後の一一一一九八年には、この州にも重大な
一三八一年の農民一援のリコードは、現在までの
る 。 僧 院 で は 、 古 く か ら の 賦 役 は あ ま り コ ミ ュ l トされずに残っており、
役を削りとるには僧院は非常に慎重な態度をとったにちがいない。
ところ、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド に つ い て し か み つ か っ て い な い 。 し か し 、
暴 動 が あ っ た 。 そ の 中 心 は 西 部 の パ ン プ ト ン で あ り 、 参 加 し た も の は 、 主 と し て 、 パ ン プ ト ン 、 ウ イ ッ ト ニ l、
イ
一三世紀にもあったが、
だったのである。ウッドストックの北どなりグリンプトンの農奴が逃亡したのもこの頃であった。
一四世紀の末から一五世紀にかけて、領主制は崩れつつあった。借地契約は、
たが、大僧院を除けば、賦役は消滅し、賃労働によって取ってかわられていた。
一三五O 年 か ら 一 四 五O 年までに、
は極めてひんぱんになった。黒死病ののち、領主たちは直領地経営を古くからのやり方で維持しようとしたのであっ
一四世紀に
ンシャム等、州西部に住む人たちであった。この地区の人たちはオックスフォードシャ!の歴史全体を通じて反抗的
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農奴制は、農奴が逃げ去ったのでなければ、賃労働者になったか、牧羊経営のために耕地が牧草地に変えられたかし
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オックスフォードシャ l の 羊 毛 は 、 英 国 で 最 も 良 質 の 部 類 に 属 す る と も さ
一五世紀にはコッツウォルド牧羊は最全盛期を迎えた。北部コッツウォルドの羊毛産地は、多くはグロ l
る潟事
。実
て、消え去ってしまったのである。古い領主制に、成功した農民やジエントリーの農地経営がかわりつつあったので
てる
スタ!シャ l に あ り 、 集 散 地 は キ ャ ム デ ン や ス ト ウ や ウ イ ン チ ク ム で あ っ た が 、 パ フ ォ ー ド や チ ッ ピ ン グ ・ ノ l トン
れあ
説
論
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中世におけるウッドストックとその近辺
も集散地としての機能を十分に果していた。
一四五一年以前に、 チッピング・ノ 1 ト ン に は 、 大 き な 羊 毛 商 が い た と
一五世紀前半には急速にもりかえしたように思われる。おそく
されており、またウイットニーでは、すでに一回世紀以来、有名となった毛布製造がはじめられていた。
、
黒 死 病 で 打 撃 を う け た ウ ッ ド ス ト ッ ク ・ バ ラ lも
とも一五世紀前半には、町は独立の都市としての組織をもっていたにちがいない。というのは、この町は、一四五三
年 に 、 自 治 体 と し て 正 式 に 認 め ら れ た が 、 そ の チ ャ ー タ ー の 前 文 に は 、 こ の チ ャ ー タ ー 以 前 に も ﹁ パ ラ lは種々の特
権、自由の慣習をもっていたが、パラ!の人びとはこのことによって、それらを安定して確保できるようになる﹂と
信 じ た か ら で あ る と さ れ て い る の で あ る 。 パ ラ lは 、 ﹁ リ バ テ ィ ﹂ と ﹁ 特 権 ﹂ を 既 に 以 前 か ら 与 え ら れ て も っ て い た
のであり、 それらはすでに慣習となっていたのである。
一般に、インコ iポ レ イ 卜 さ れ る 場 合 に は 、 つ ぎ の よ う な 事 項 が チ ャ ー タ ー に よ っ て 保 障 さ れ る 。 付 永 続 的 に 継
ウッドストックが﹁インコ lポ レ イ ト ﹂ さ れ た 時 期 は 、 英 国 に お け る ﹁ イ ン コ ー ポ レ l シ ョ ン ﹂ の 波 の 第 二 波 に あ
たる。
承されて行くものであること、。パラーが全体としてパラ!の名において訴訟をおこしたり、訴訟の被告になりうる
こと、同土地を保有することができること、帥印章をもつこと、同条例をつくりうること、この五つである。エドワ
ード一世の時代にはすでに、大きなパラ lは、こうした属性や権利をもっオソリテイとなっていた。従って、インコ
ーポレ l ションのチャーターも、事実上すでにそうなっているパラーを、 チ ャ ー タ ー に よ っ て 法 的 に 確 認 す る こ と で
あったと云ってもよいのである。さらに、 インコ lポレ l シ ョ ン に よ っ て 、 パ ラ ー は し ば し ば ︽ カ ウ ン テ ィ ︾ の 地 位
一三七三年のプリストルに始まり、
一四O九
を 与 え ら れ て い る 。 こ れ に よ っ て パ ラ iは州の官吏がパラ l に く る の を 排 斥 す る こ と が で き 、 パ ラ ー は 広 範 な 権 利 を
も つ こ と に な る の で あ る 。 こ う し た イ ン コ lポレ l ションの第一波は、
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年のリンカーンのそれで終り、第二波は
一四三九年のプリマスのインコ lポレ l シ ョ ン に 始 ま る ﹁ ウ ッ ド ス ト ッ ク
のインコ lポレ l シ ョ ン は 一 四 五 三 年 で あ る 。 こ の 小 さ な パ ラ l は
、 五つの一般的な条項以外に、︽カウンティ︾と
しての地位を認められ、 かっそのほかいくつかの特権を与えられたのである。これは、 おそらくこのバラーがロ i ヤ
ル・パラ!という伝統を背景にもち、 いまも王族が愛する別荘地であったという事情によるであろう。 チャーターに
は 、 パ ラ ー が ウ イ ン ザ ! と 同 じ よ う な ︽ リ バ テ ィ ︾ を も っ と 、 記 さ れ て い る の で あ る 。 ウ イ ン ザ ー は こ の パ ラ l のイ
ンコ lポレ l シ ョ ン の 前 例 と さ れ た の で あ っ て 、 二 つ の パ ラ i は 、 大 き さ も そ れ ほ ど ち が っ て い な か っ た し 、 二 っ と
も、王や王族がしばしば訪れる別荘地に隣接していたのである。
すでにのベた前文につづいて、 チャーターにはつぎのような趣旨の条項が記されている。
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Z巾名詞。。牛田吉井の名を与えられ、訴訟の原
パラ l に現に住むもの及びその子孫は自由な市民になるということ。
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ハラーは印章をもつことができるということ。
食料品、飲物等の質、価格などについての規則を定め、これを強制しえ、
ることができるということ。
町長及び ω mgE121冨同門巾はフリ l メンによって選ばれるということ。
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w ハラ l は独自の法廷をもちえ、 シエリフ、州裁判官、 王の官吏はパラ l の 自 由 な 行 政 に 介 入 す る こ と が で き な い
一年のうちのいく日かフェアーをたて
l ルを含めて、 王 が 所 有 し て い た も の は す べ て パ ラ l に与えられ、 王 の 家 屋 か ら あ が る レ ン ト は バ ラ l に収め
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られること。
告及び被告になりえること。
同 付
同
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説
論
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中世におけるウッドストックとその近辺
し、これまで王に収められていた罰金、没収品等々はすべてパラーが収納するということ。
マーチャント・ギルドをもちうること。
カウンティの地位を獲得した。そして、
永久に議会に代表を送る必要はなく、その﹁義務から免除される﹂ということ。
こうしてこの小さいパラ l は、コーポレ l ションの地位をえるとともに、
パ ラ ー は こ の ミ ク ロ の 社 会 の な か で 強 大 な 権 限 を も っ た の で あ る 。 チ ャ ー タ ー に よ っ て パ ラ l はギルド・マーチャン
マーケットの監督によって、適切な価格での食料の供給を確保することであり、第二に、生
トをもち、食料品、飲物等の質、価格などについての規則を定めこれを強制しうる権能を与えられている。この条項
の﹁目的﹂は、第一に、
産物の一定の質を強制し消費者の利益を保護すること、商人の聞での独占、賃銀労働者の聞での集団的取引を抑制す
ること、仲買の利得の率をコントロールすることである、 といわれている。しかし、こうした﹁目的﹂も、 ギルドや
コーポレ l ションのオリガ l キーが利己的な権力を振えば、 か え っ て 抑 圧 の カ モ フ ラ ー ジ と な ろ う 。 ま た 、 こ の 小 さ
いパラーでは、二名の下院議員をウエストミンスターまで送り出すことは、大変な負担となっていたであろう。この
時 期 に は 、 パ ラ ー で 選 ば れ る 議 員 は 、 す で に パ ラ i の人間ではなく、 ジ エ ン ト リ ー に な り つ つ あ っ た の で あ り 、 パ ラ
ーの人たちは、下院議員になろうという野心なとは余りもたなかったのである。このパラ lにとっては、議会に議員
を送り出す﹁義務﹂から解放されることは、特権と感じられたのであろう。王や州の官吏からの干渉をしりぞけ独立
国の政治からも﹁解
ミクロ・コスモスのなかに閉じこもることになってしまったのである。
を か ち と ろ う と し た こ の パ ラ lは 、 下 院 議 員 を 送 り 出 す ﹁ 義 務 ﹂ を 免 除 さ れ る こ と に よ っ て 、
放﹂され、切り離されてしまい
前注参照。
モlティマ lもエドワード二世の未亡人とともにここに住んだことがあるという。
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