Comments
Description
Transcript
ニーチェの美学批判について:『道徳の系譜学』 から
Kobe University Repository : Kernel Title ニーチェの美学批判について : 『道徳の系譜学』から Author(s) 林, 湛秀 Citation DA,4:13-24 Issue date 1997 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002023 Create Date: 2017-03-31 林 湛秀 研 究 ノー ト ニーチ ェの美 学批 判 につ い て - 『道徳 の系譜学』 か ら一一 林 湛秀 序 ニー チ ェの時代批 判 、科 学批 判 、文化 批 判 、時 には憂 さを晴 らす よ うな 、 時 には うさん臭 く鼻持 ちな らない過 激 な毒 舌 の数 々 は 一体何 故 な のだ ろ 批判 ( Kr i t i k) とはニ ヒ リズ ム に対 す るニー チ エの対抗 運動 の本 うか O 「 質的 要素で あ る」 〔 359〕 か らか。 ニー チ ェの系譜学 、これ は、道徳 の系譜 学 とい う著作 にだ けで な く、そ の思 索全体 を彩 る もの とい えよ う。初 期 の遺稿 には後期 思想 の 萌芽が驚 く ほ ど隠 され てい るのは実際指 摘 され て い る と ころで あ る。 〔 358〕そ の思 索 は ギ リシ ャにお いて一体 とな って い た 真 善 美 の歴 史 的過 程 を追跡 す る。 善悪 、真偽 に対す る系譜学 は今後 の課題 と して、ここでは ニー チ ェの後期 思想 にお け る美学批 判 の観 点 を 『道徳 の系 譜 学』の 中に あ る一つ の ア フォ リズム を手がか りに考 えてみ る こ とにす る。 I ゲオル ク ・ピヒ トはその論 文 「ニー チ ェにお け る 『道徳 の系譜 学』の問 題 」の 中でニーチ ェの思索時期 を三 つ に分 けて それ ぞれ に哲 学 の歴 史 を対 応 させ てい る。つ ま り、明 らか に プ ラ トンの洞窟 の比喉 が背 後 にあ り、無 371へ 意識 で あ るにせ よ、その模倣 は見 落 と しよ うが ない と指摘 した。 〔 372〕す なわ ち、第-・ 期 には プ ラ トンか らカ ン トに至 る までの形 而 上学 の 時代 が対応 し、第二期 には懐 疑 主義 と実証 主義 が あては まる。そ して第 三 期 で初 めて ニー チ ェ哲学全体 の肯 定 的 な意 味 が示 され る転 回 が行 われ る とされ るoプ ラ トンの比喉 にお け る洞 窟 の奥 で縛 られ てい る人 間 は ニー チ ェにお け る囚われ た精神 で あ り、それ が第 一期 を特徴 づ けてい る。そ して 1 3 ニー チ ェの美 学 批 判 に つ い て その束縛 か ら解 放 され た 「自由精神 」の時期 がや って くる。シ ョーペ ンハ ウア-や ワー グナ ー の影 響力 か ら逃れ て、それ らの人 々に対す る崇拝心 を 打 ち破 り、ア フォ リズ ム に よって 自由な思 索が始 め られ るのである。これ はモ ンテー ニ ュや フ ランスのモ ラ リス トらに始 ま り、フランシス ・ベー コ ンか らエ ラス ム ス ま で 辿 り得 る ヨー ロ ッパ 思想 の伝 統 に結 びつ くもので あ る。そ して 、最 後 に真昼 に南 中 した太陽 に 目を旺 ませ る囚人は、ニー チ ェのいわ ゆ る 「大 い な る正 午 」に居合 わせ てい る こ とにな る。キ リス ト教 Not ) を転 回 ( wende n) 的 な世 界 解 釈 が もた ら した ニ ヒ リズ ム とい う困難 ( させ る必 然 的 出来事 ( Not we ndi gkei t ) が生 じた ので あ る。 「 ニーチ ェの形 而上学 か らの離 反 は プ ラ トンの洞 者 の比喉 を歴 史へ 投射 してい る」〔 428〕 ことにな り、 「 歴 史 が厳 密 な意 味 にお いて ニー チ ェ哲学 の普遍的な思惟領 428〕 ので あ る。歴 史を問題 にす る 域 と して と らえ られ ね ば な らない 」 〔 限 り、それ は 「系 譜学 」が根 底 にあ る方法 で あ り、その系譜学 の担い手は t ver s uc he n● ● には 「 試み る」 と同 誘 惑者 とい うタイ プ で あ る。 ドイ ツ語 の 時に 「 誘 惑す る」の意 味合 い が あ るが 、ピ ヒ トに よ る と、その双方の意味 合 いが ニー チ ェ哲 学 の本質 を形成 す る ものだ と され る。 〔 序文 XXI〕 つ ま り実験 的 で あ る と同時 に挑発 的 で あ るOしか もニー チ ェにおいて系譜学 は過去 に向か って遡及 的 に働 くだ けで な く、 未 来 に向 け られ てい るのであ って 、究極 的 に は新 た な価 値 を創 造 す る こ とにな るで あろ う。創 造す る p s c hafe n■ は芸術 家 の仕 事 で あ り、ニー チ ェは 自 らの哲学 を芸術 と誓 え る ので あ る。そ して哲 学者 は価値設 定 を行 う立法者 で もある。ピヒ トはニー チ ェの思 索 に現 れ る この三 つの タイ プ ( 誘 惑者 、芸術家 、立法者)の うち、 誘 惑者 を道徳 の系 譜 学 の担 い手 と してい るO 〔 368〕 実際 、 『道徳 の系譜 学』 とい う著 作 の精神 を支 えるの は、副題 が 「 闘争 の書 」 とあるよ うに、 あ る ときは攻 撃 的 で もあれ ば、あ る ときは挑発 的 で もあ る。闘争 の手段 は 相 手 に応 じて 自在 に変化 しな けれ ば な らな い で あ ろ う。 そ こで しば しば 「 わ ざ と ら しさ」を感 じさせ ざるを得 ない よ うな調 子 が現れ る。力が あ ま って勇 み足 、とい うと ころで読 み 手 はニヤ ッとさせ られ ることもあ る 内 O 容 の真 偽 よ りも文 体 の迫 力 ゆ えに嫌 悪 と陶酔 の狭 間 に押 し込 め られ る こ ともあ るO それ は哲 学 的 なのか ア ジテー シ ョンか と勘 ぐることに もな る o 以 下 に引用す るの は カ ン トとシ ョーペ ンハ ウア- を批判 した 、ニーチ ェの 美 学批 判 を考 え る上 で は看 過 しえない箇所 で あ るが こ こに もそ うした批 1 4 林 湛秀 判 のパ トスは大 い に看取 され るので あ る。 シ ョーペ ンハ ウア-はカン トの美的 問題 に関す る見解 を利 用 したOもっ とも彼 は確 か にカ ン ト的 な 目では そ の 間題 を見 る こ とはなか った の で あ るが。 カ ン トは芸術 に尊厳 を与 えよ うと した。 美 とい う肩 書 きをつ けて 、 認識 の誉 れ を成 す 二つの事柄 を優 先 して 、前 面 に持 ち出す ことに よって で ある。そ の事柄 とはす なわ ち、没 個性 と普遍性 で あ る。この ことが 主 た る 事柄 にお い て誤 った概 念 であるか ど うか につ い て は 、ここは扱 う場 で は な い。 私 が ここで強調 したいのは、あ らゆ る哲 学者 と同 じよ うにカ ン トは 、 鑑 芸術家 ( 創 造者 )の様 々な経験 か ら美 の 問題 を視 覚化 す るのではな く、【 賞者 ( Zus c hauer ) 」の側 か らのみ 芸術 と美 を考 察 し、その際 に気 付 か ぬ ま まに 「 鑑 賞者 」自体 を 「 美 」の概 念 に取 り込 ん で しま った とい うこ とで あ る。ああ、も し少 な くとも美 を哲 学す る人 々が この 「 鑑 賞者 」さえ詳 しく 知 って い さえすれ ば. ..。 つ ま り、美 の領 域 にお け る大 きな個 人 的 な be r s bnl i c h) 事 実 と して、その人 に極 めて 固有 の もの で あ る諸々の強 力 な 体験 、欲 望 、驚情 、枕惚 とい った もの と して で あ る。 しか し私 が恐 れ て い るよ うに、必ず 逆 になってい る。そ こで我 々が彼 らか ら手 に入れ る もの と 言 えば初 手 か ら定義 ばか りであって 、カ ン トの か の有名 な美 の定義 もそ う だが 、これ ら一連 の定義 の中には、よ り繊 細 な 自己 自身 の経験 の欠如 が根 本的誤 謬 とい う名 の太 った虫の姿 にな って デ ン と座 ってい るので あ る0 《346-347》 カ ン トは美 にお いて創 造 と鑑 賞 とい う行 為 を混 同 して い るの で は な い か、定義 ばか りで あって 、実際 に創 造す る立場 に あ る人間が没個性 や 普 遍 性 を最優 先す る事 は あ り得 ない のでは ない か 、とい うのが疑 問点 と して提 示 され てい る。 ここで批 判 され てい る 「 普遍性 」とは主観 的普 遍性 なのか 、客観 的普 遍 性 なのだ ろ うか。その規定は ど うも唆 味 な よ うで あ る。カ ン トはそ もそ も 「 主観 的 」普 遍性 のみ あ りとの判 断 で あ る l。 す な わ ち 『判断 力批 判』 に おい てカ ン トは美 に関 して 「 無 関心性 」 「 概 念 な き普遍性 」 「目的 な き合 概 念 な き必然性 」とい う四つ の結 論 を得 たが 、美 は 、関心 、概 目的性 」 「 快 念 、目的か ら自由であ り、美 固有 の 自由性 を強 調 した。実践的行 為 (「 1 5 ニー チ ェの美 学 批 判 に つ い て 適 」da sAnge nehme) には 関心が必ず 介入す る。 理論 的判 断 にお いては 必ず概 念 が介入 す る。 しか し美 そ の ものは別 だ とい うわ けで あ る。カン ト の美 の普遍性 は客観 的 普 遍性 で はな く、見 え方 ( 表象 方式)に よる 「 主観 的」普 遍性 で しか ない. この 「 主観 的」 とは、悉意的 、個 人的 とい う意味 でな く、主観 に先験 的 にそ なわ った認識 -向 けて の共通 の構 え と して、証 明は しえない が 、想 定せ ざるを えない とい う意 味 で の主観 で ある。ニーチ ェ 自身 そ の あた りの事 情 につ い て は こ こでは立 ち入 らない と述 べ てお り、 む しろ強調 され てい るの は 、あ くまで芸術 家 の創 造 の立場 か ら美 を判断す べ きで あって 、 そ の行 為 を反勿 す る こ とが最重 要課題 だ とい うことである。 さて次 に同 じア フォ リズ ムの続 く箇所 は美的 「関心 」をテーマ に した も ので有名 で あ る。 「 美 とは関心 な し ( ohnel nt e r e s s e) に人の気 に入 る ( ge f al l e n)何 か で あ る」 とカ ン トは言 っ た。 この定義 を、本 当の 「 鑑 賞者 」であ りかつ芸 術家 で あ る人 が な した 定義 と比較 して頂 きたい。 つ ま りス タンダール は、 美 は幸福 を約 束 す る もの と呼 ん だ ので あ る。ここではいずれ にせ よ、カン トが美 的状 態 にお い て浮 き彫 りに した ことが ま さに拒絶 され 、消 し去 られ てい るので あ る。つ ま りそれ は無 関心 ( l ed6 s l nt 6 r e s s e nment )で あるG 果 た してカ ン トが 正 しい のか ス タンダール か。もっ とも我 らの美学者諸氏 がカ ン トを点 眉 目に こん な事 を量 りに掛 けて見た らど うだ ろ う。美 とい う 魔 法 を掛 け られ て 、いや それ どころか一糸纏 わぬ女性 の銅像 を 「 関心な し に」載 る こ とが で き るか ど うか とい うことをで あ る。お そ らく彼 らの無駄 な努力 に人 は い さ さか 笑 い を禁 じ得 ない だ ろ う。芸術家 の諸 々の経験 は こ のデ リケー トな点 に関 して 「よ り関心 を引 く」もので あ り、また ピグマ リ unas t het i s c h)人間」で あ った とい うのはいずれ オ ンが 「 審美 的 で ない ( にせ よ当を得 て い ない の で あ る。 《 347 》 絵 を画 き、あ るい は像 を彫 る時 に、またその作 品 を鑑 賞す る時 にその対 象 に対 してい か な る関心 もない とい うこ とが あ り うるのか。ピグマ リオ ン とは ギ リシ ャ神 話 にお け るキ ュブ ロスの王 であ り、自分 の手 で作 った象牙 の美女 に恋 し、女神 ア フ ロデ ィテ に懇願 して、これ に生命 を付 与 して もら い 自分 の妻 に した とい う人物 で あ るが 、ニー チ ェの解釈 では ビグマ リオ ン 1 6 林 湛秀 は芸術家 で あ る と同時 に、立派 に 「 関心 」も働 い て い る とはい え、彼 が美 を理解 しない 人 間で あ った とは限 らない と され て い る。 カ ン トの 「 関心 」 は極 めて 日常的 な語 集 に近 づ けて、とい うよ り、生 理 学 的 に解 釈 され てい る とい え よ う。 さて、ニー チ ェは ドイ ツ近代 にお いて成 立 した 学 問 と して の美 学- - バ ウムガル テ ン、ヴインケル マ ン、カ ン トか ら- - ゲル 、そ して その跡継 ぎ のポス ト・- - ゲル 美 学等 な ど、これ らの人 々 を片 っ端 か ら撫 で切 りに し てい くが 、ここで引用 した ア フォ リズムでは十 八世 紀 の美 学 が槍 玉 にあげ 芸術鑑 賞者 の立場 か らも創 造す る芸術 家 の 立場 か ら考 えて られ てい る。 「 も無 関心 とい うのは そ もそ も襲 ったみせ か け ( Schei n) で あ り、そ のみ せ か けは ギ リシ ャ的統 一や 静寂 とい うフ ィク シ ョンに しが み つ く美 的 内 在性や それ 自身 で存在 す る調和 とい うみせ か け と対 応 して い る 」 2とニー チ ェは考 えた。つ ま り、カ ン トのい う 「 関心 な き適 意 」は 、ギ リシ ャに範 を求 め、 調 和 的世界 のみ を読 み取 る ことに よって成 立 した作 品群 と同類項 だ と してい る。ニー チ ェに とってはギ リシ ャは あ くまでデ ィオ ニ ュ ソス的 な もの を抜 きに して は考 え られ ないの で あ り、十 八世 紀 の美 的現象 は フラ 厳 格 」 とい う要 素 を持 って い な ンス古典 主義 にお け る 「 冷徹 」 「明 噺 」 「 い、誤解 され た古典 主義 だ と考 えていた ら しい3 0 こ こに はル ソー の 自然 崇拝 も絡 ん でい るが 、これ こそ ま さにカ ン トの悪影 響 だ とで もいわん ばか りであ るO 間越 なのは 「 関心 」とい う語 の とらえか た で あ る.ハ イデ ッガー に よれ ば 、シ ョーペ ンハ ウア- は もとよ り、ニー チ ェ もカ ン トの 「関心 」の語 を 正確 には と らえてい なか った4 。 それ どころか 、誤 解 して い た の であ り、 デ ィル タイ に至 って は シ ョーペ ンハ ウア- の誤 解 をそ の ま ま評価 して 「 カ ン トのテーゼ は見事 に叙述 され てい る」と して しま った。そ して哲 学 の歴 史 には こ うい った誤解 に よ る積 み重ね は珍 しくな い と指 摘 し、シ ョーペ ン ハ ウア一 に対峠す る形 で美 学批 判 を展 開す るニー チ ェにつ い て は 当然 、 込 み入 った話 にな らざるをえない と述 べ てい る。シ ョーペ ン- ウア- は内容 的 には、 「自分 が罵倒 した シェ リング と-- ゲル に依 存 してい るO彼 が罵 倒 を浴びせ ない のは 、カ ン トだ けで あ るが 、そ のか わ りにカ ン トを根 底 か ら誤解 してい る。 」 ハイデ ッガー に よれ ば 「 関心 を抱 くとはそれ を 自分 で ( 所 有 し、使 用 し、 1 7 ニ ー チ ェの美 学 批 判 に つ い て 支配す るた めに)持 と うと意 志 す る こ とで あ る。 」カ ン トは人 が 「 美 しい と思 う」た めの規 定根 拠 の地位 に この関心 が で しゃば ってはな らない と言 った ので あ る。 「これ は美 しい とい う我 々 の判 断 は、関心 に よって強 制 さ れ た判断 で あ ってはな らな い 」わ け で、そ の物 事 を 「 その物事 自身 と して 」 「 心 む な しく」 して 「あ るが ま ま の姿 」で迎 え入れ なけれ ば な らないの で ある。 こ うした美 しい もの- の関係 、す なわ ち 「 適 意 」を、シ ョーペ ンハ ウア- の よ うに 「 無 関心 」な 関係 と して規 定す る と、 「 意志 を停 止 させ る こ と、あ らゆ る努力 を沈静 させ る こ と、純然 た る休 息 、もはや 何 ごとも意 志 しな くな って漂 ってい る こ と」と理解 され て しま うO-イデ ッガ- は 「 関 心 な き適 意 」とい うカ ン トの説 の誤 解 は二重 の誤 謬か ら成 り立 ってい る と い う。一つ には 、言語 表 現 か らみ て も消極 的 な規定 にす ぎないの に、それ をあたか も正 当な唯一 の積 極 的発 言 と見 な され て きた こと。 そ して内容 的 に も、B gJ L l を除去す れ ばい か な る対 象 - の本 質的 なかかわ りあい も消 えて しま うとい う誤解 で あ る。ハ イ デ ッガー に従 えば、その逆が 真 実 で あって、 対象 その もの- の本 質 的 な か か わ りあい は 、関心 な き ところに 初 めて働 き 出す ので あ る。 ニー チ ェは先 の ア フォ リズ ム の続 き に シ ョーペ ン- ウア-批 判 を さら に繰 り返す が 、そ こで は シ ョーペ ン- ウア- のカ ン ト誤解 が あった ことを 偶然 に も別 の側 面か ら照射 す る こ とにな ってい るO 例 え ば カ ン トは 田舎 の牧 師 の よ うなナ イ ー ヴさで触 覚 の特徴 につ い て教授 す る こ とを心得 て い るの だが 、それ をカ ン トの名 誉 だ と評価 す る な らば、我 々はそ うした論 拠 に反 映 してい る我 らの美学者 の無邪 気 さを よ り一層 考 えてみ られ よ うOこ こでは我 々は ともか くシ ョーペ ン- ウア 一 に戻 ってみ よ う。彼 は全 くカ ン トとは異 な る基準 で芸術 に接 近 したが 、 カ ン トの定義 の呪縛 か ら逃 れ る こ とは なか った。何 故 で あろ うか。事 情 は驚嘆 に値 す る。 「 無 関 心 」とい う言葉 を彼 は極 めて個人 的 な方法で解 釈 した ので あ る。彼 に とって最 も規則 的 に生 じたに ちが いない あ る経験 か らで あ る。シ ョーペ ンハ ウア- は美 的隈想 の効果 につ いて ほ ど確信 を 持 っ て 語 っ た こ と は 殆 ど な い 。 そ の 効 果 た るや 性 的 な 「関 心 ( Ⅰ nt e r es s i r t he i t )」 を な くす よ うに作用 す る と言 った ので あ る。それ はル プ リンや カ ンフル が 作 用す る よ うな ものであ る。彼 は 「 意志 」を こ 1 8 林 湛秀 の よ うに断 つ こ とを美 的状 態 の大 い に優 れ た利 点 で あ る と して 賛 美 す る ことに倦 む ことが なか った。いや 、それ どころか シ ョー ペ ンハ ウアの 「 意志 と表象 」の根 本概念 とは 、 「 意志 」か らの救 済 は 「 表象 」に よ ってのみ 与 え られ 得 る とい う思想 で あ るが、そ の概 念 は か の性 的経験 の 一般 化 か らそ の源 を得 て い るのか ど うか と尋 ね た くな る誘 惑 にか られ る。 《347-348》 ハ イデ ッガーが指摘 す るよ うに、カ ン トの原 文 に 当た らず に、シ ョーペ ンハ ウア- の原 文 に 当た っただ けだ った とすれ ば、ニー チ ェ もまた 「 関心 」 を極 めて不正確 に理解 してい たのか も しれ ない。往 々 に して 直観 的 で総括 的 な把握 を得意 とす る思 考か らは撤密 な思索 の嚢 は読み 取れ ない のか 、あ るいはそれ がア フォ リズ ムの斎す 正 と負 の側 面 で あ ろ うか。ニー チ ェの系 譜学 はハ イデ ッガー に よれ ば誤解 に基 づ く美 学史 を見抜 け なか っ た の で あ り、 何 か系統的 な見解 を始 り起 こそ うと して も不 可能 だ とい うハ イデ ッ ガー の説 は 当た ってい るのか も しれ ない。 実際 の ところ問短 は拙 著者 の力 量 を造か に越 えてい るの だが 、カ ン トの い う美へ のかかわ りは 、- イデ ッガ一 に よる とこ うな るO 「 われ われ はそ こに出会 うもの を、その あ るが ままの姿でそ の通 りに解 放 し、それ に固有 の もの、それ がわれ われ に もた らす もの を、その通 りの姿 で湛 え させ る好 意 を もた な くては な らない」。カ ン トの適 意 の解 説 と して は この うえな く 適 切 な表現 で あろ う。 しか し、気 にな るのは この 「あ るが ま まの姿 」 J 【 そ の ままの姿」とい う表現 は何 か カ ン トのア プ リオ リの ご と く 「 想 定せ ざる をえない もの」と して 、ニー チ ェが も し- イデ ッガ- を知 る こ とが で きた と した ら、 お そ らくは批 判 の対象 にな ったのではないか とい うこ とで あ る。 そ もそ も美 の 自由性 な どは担 造 され た ものに過 ぎない の で は ない か 、こ う考 え ざるを得 な くな る後 期 のニー チ ェに とって は、ここか ら美 の優 位 を 宣言 し、あ るい は芸術 のた めの芸術 にお け るよ うに道徳 か らの解 放 を説 く な どとい うことも、ど うも眉 唾 だ とい うこ とにな る。確 か に同時代 の純粋 芸術 、 「 芸術 のた めの芸術 」につ い てのニーチ ェの批 判 は 、プ フォー テ ン ハ ウア- の言 うよ うに極 めて概 括 的 で、しか も高圧 的 で あ り、わ ざ と ら し さを禁 じ得 ない.プ フォーテ ン- ウアー はニー チ ェの文学批 判 の あ り方 を 「 力- の意志 」の現れ とみ て批 判 的 に とらえてい るが 、ニー チ ェの文学枇 1 9 ニー チ ェ の美 学 批 判 に つ い て 判 の切 り口をい くつ か検 証 してい く と ど うや ら 「 力-の意志 」とい う共通 項 が 出 て くる とい うわ けで あ るB o しか しニー チ ェが え ぐ りだ そ うとす る の は、神 の死 とい う事 態 に対 して新 た な神 を造 り、一方 で 旧来 の神 を捨 て きれ ない とい うア ン ビヴァ レン トな側 面 で あ ろ うOフローベール が批判 さ れ るの もま さにそ の点 で あって 、パ ス カル の新 訂版 だ と酷評 され る6。 パ スカル に対 してニー チ ェは愛憎 半 ば で あ ったが 、 冷 静 な哲学者パ スカル が 晩年 にキ リス ト教信 仰 に向か って い った こ とに、 知性 の堕落だな どと罵 声 を浴 びせ る。 「 人 間 は無 、作 品がす べ て 」と言 った に も拘 わ らず 、フ ロー ベ ール には 「 一種 の神 の力 」が有 効性 を もってい る とい うわ けで批判 され るの で あ る。 そ して これ らの 一 連 の 審 美 主 義 に対 す る批 判 に は 「 生」 ( Le be n) が絶 えず その試 金 石 とな り、 ときには実体 不明の伝 家 の宝刀 と し て持 ち出 され る こ とにな る。そ して この 「 生」を代表す る ものが、ピ ヒ ト に よれ ば正義 ( Ger e c ht i gke i t ) で あ り、 これ が ま さに 『道徳 の系譜学』 にお け る闘争 的批判 を行 わせ る もので あ る。 〔 356〕 近代 に成 立 した美 学 は 「 人 間 が 自分 の こ とは 自分 で決着 をつ け るべ Lと い う近代 人 の 自覚 に よって促 され た 」 7の で あ る とすれ ば 、神 の死 とい う 事態 におい て 自 らの 内部 の精 神構 造 を分析 せ ざるを えな くな ってい くと い う精神 史 の動 き と、 超越 か ら内在 - とそ の美 の根拠 が移 って行 った課程 とは ま さにパ ラ レル だ と言 え るの で は ないだ ろ うか。 Ⅰ Ⅰ 次 に先 に引用 した ア フォ リズ ム の 中 で括 弧 に入 れ られ た部分 を取 り出 してみ よ う。 ( つ い で に言 ってお くと、シ ョー ペ ン- ウア- の哲学 について質 問す る ときはいっ も決 して度 外 視 して は な らない こ とは、その哲学が 二十 六 才 の若 者 の概 念 で あ る とい うこ とで あ る。つ ま りそれ は シ ョーペ ンハ ウ ア一 に独 特 の もの だ けで な く、そ の若 い年代 に固有 の もの も現れ てい る ので あ る。 ) 《348》 『道徳 の系譜学』を執筆 した のが 1 887年 で あ るか らニー チ ェは このア フ ォ リズ ム を書い た ときす で に四十 三 才 で あった。二十六 才の若造 の厭 世思 20 林 湛秀 想 な ど受 け入 れ られ ないのは 当然 か も しれ ない。とい うよ りこ う した物 言 い はニー チ ェの一つ の方法 で あ って 、 人間 の 円熟 とい うものの ない思想 は 眉 唾 で あ る とい うことで あろ う。 吉沢伝 三郎 氏 は 『パ スカル とニー チ ェ』 のなかで ニー チ ェには 「あ くまで醒 め切 った方法論 的 な まな ざ し」、 「 解 釈 を混入 す る ことな しに内的体験 の原 文 を原 文 と して読 み 取 る」姿勢 が 貫 かれ てい た とい うが 、はた して ど うで あろ うか。キ リス トも若 者 で あ って 、 も しそ ん な に早 く死 ぬ ことが な けれ ば彼 はお そ らく 自分 の説 を取 り下 げ たで あろ う、 とニーチ ェは考 え る8。 ニー チ ェは 『反 キ リス ト者』にお い て学 問の 一切 の方法 、自然 科 学や 生 理学 な どの方法 が 「 一個 の冗 談」だ と言 う。なぜ な ら仏 陀 の よ うに最 も精 神 的 な関心 も個 人 の事柄 - と厳 格 に還 元 し、 それ によ って客観性 の うちに 現れ てい る精神 的疲 労 と戦 うか らで あ る。実際 の ところ、いか に高遠 な客 観 的 な妥 当性 を もった法則 が あった と して も、 個 人 の内的体験 に とって は 何 の意 味 も持 たない とい うことが あ る。ニー チ ェが仏教 を 「 歴 史 が私 達 に 示す 唯 一 の本来 的 に実証主義 的 な宗教 」だ とい うの もキ リス ト教 の よ うに 「 罪 」 に対す る戦 いではな く、 「 苦悩 」 に対す る戦 い を言 うか らで あ る。 「 苦悩 の実体 をいか に読み取 り対処す るか とい う点 」が重 要 で あ って 、仏 教 はそ の苦悩 を解釈 す る道徳概 念 の 自己欺輔 は片 づ けて しまってい る、と ニー チ ェは言 う。しか し、こ こで仏教 は一種 の批 判 のた めの対 立項 目に過 ぎない.なん となれ ば、ニー チ ェに とって仏 教 が正 しいか キ リス ト教 が正 しいか な ど とい う問題 は ど うで もよい 、それ は 己 自身 の本来 あ る と ころの もの に至 るた めの方便 に過 ぎないか らだ。もっ とも、ニー チ ェの こ う した 方法 が 一歩 踏 み 間違 え る と とん で もない危 険 と隣合 わせ に な って い る と い うこ とは言 うまで もない。 - イデ ッガ- がい うよ うに、カ ン トの原 文 に 当た らず シ ョーペ ンハ ウア - の原 文 に あた って、それ とだ け対決 しよ うと した結 果 で あった のか 、ニ ー チ ェ もまた 「 関心 」につい て シ ョーペ ンハ ウアー的誤解 を犯す こ とにな った のか も しれ ない。そ して 、ア フォ リズムの結 論部 分 を見 る と、美 学 の 問題 が ま さに禁欲 的理想 の-つ に過 ぎなか った こと、克服 すべ き問題 と し て喚起 させ るた めだ ったかの よ うに思 われ て くる。力- の意志 - と収 赦 さ れ てい く準備 段 階 にお ける批 判 の対象 の一つ だ ったのかOア フォ リズ ム の 最後 には こ う書かれ てい る。 21 ニー チ ェの 美 学 批 判 に つ い て さて我 々 の最初 の問い 、 「 哲 学 者 が禁 欲 的理想 を崇 め る ことには ど う い う意 味が あ るのか 」に戻 ってみ る と、我 々は ここで少 な くとも初 めて 示唆 を得 る ことにな ろ う。この哲 学者 は あ る拷 問か ら逃れ よ うと してい 349》 る とい うことだ。 《 この拷 問 とはい うまで もな く生 の カオ ス で あ り、生 の否 定や抑圧 と しての 美 的理想 主義 はそ こか らの逃 避 にす ぎない のだ とい うことを強調 して終 わ るので あ る。 Ⅰ Ⅰ Ⅰ Ⅰで述 べ た事柄 に戻 る。哲 学 史 が個 人 史 にお いて繰 り返 され る、とい う ことは、ニー チ ェの近 代美 学- の批 判 が 、自己 自身 の過 去 の思想 、シ ラー の美 的救 済 の思想 に感 化 され て成 立 した彼 自身 の著作 『悲劇 の誕 生』を批 判す る こ とにはか な らない。 『悲劇 の誕 生』にお い て是認 され ていた美的 現象 に よ る存在 と世界 の正 当化 は 、克服 され るべ きペ シ ミズムで あ る とい 886年 に増補 され た 「自己批判 の試 う予感 が既 にあ った とい うこ とが 、1 み 」に記 され てい る。 『道徳 の系 譜 学』で は美 の優位 は消 え去 り、禁欲 的 理想 のカテ ゴ リー に編入 され て い く。ニー チ ェの生 きた時代 は既 に美 が確 実 に倫理 的 な もの とは離反 して しまい 、もはや美 に よる救 いな どは信 じが たい もの とな っていた。義務 と情熱 がお のず と一致す るのが美 であ り、快 楽 で ある とい う時代 は遠 き彼 方 に消 え失せ てい る。それ どころかそ うした 時代 の精神 は道徳 の名 の も とにな され る美 の正 当化 で あ り、人間の弱 きペ シ ミズムの隠蔽 にす ぎない とされ て しま うこ とにな る。ニー チ ェは一方で シ ラー 、 カ ン トの時代 に まだ 可能 で あ った道徳 的 な要求 を全 く退 け9 、他 方 で同時 代 にお け る芸術 の た めの 芸 術 の よ うに 自律 的 な芸術 を声 高 に唱 える こ とも、 「 生 」( e ben) L を蔑 ろ にす る もの と して攻 撃 の対象 とす るL-, す なわ ち道徳 に も美 に も加 担 す る こ とな く、それ らを越 えゆ く新 たな価値 を求 め る とい う綱渡 り的性 格 を保 持 す る。それ ゆえにカ ン ト誤解 に見 られ るよ うな矛盾 と錯誤 を抱 え込 ん で い くので あろ う。 以 上 、こ こでは何 しろ事 が 大 きす ぎ るた め雑 多な要素 を寄せ集 めた研 究 ノー トの程度 で終 わ る しか ない。 美 と倫理 、芸術 と道徳 の問題 を含 めて、 22 林 湛秀 稿 を 改 め て 書 き た い と思 う。 注 Fr i edr i chNi et zsche:Kri t i s cheSt udi enausgabe Hrsg.YonG1 0rg1 0Col l iundMazzi noMont i nari( KSA 5) か らの 引 用 箇 所 は 《 》 に 、 GeorgPi cht Ni et 2 ; S Che St ut t gart1 988 か らの 引 用 箇 所 は 〔 〕 に 数 字 で ペ ー ジ 数 を 示 した O l 当津武 彦編 『美 の変 貌 一 西洋 美術 史- の展 望- 』 世 界 思想 社 1 988年 1 67ペ ー ジ 2He l mut , Pl ot , enhauerLl t , er at , ur kr l t i kal sWi l l e2 1 urMac htodordi e l br A ec htSc hone( Hr s g. ) : Kuns tj ens el t SVOm Gut enundSc h6nen I n・ Kont r o ver s en,al t eundneue Bd 8 Ti l bl ngen( MaxNl eme yer Ver l ag)S・ 80. 3i bi d, 4 以 下 のハ イデ ッガー に関す る議論 は次 の本 を参 考 に したQ 79 マル テ ィン ・ハ イ デ ッガー著 『ニー チ ェ I 平 凡 ライ ブ ラ リー 1 美 と永劫 回帰』 細 谷 貞雄 監訳 杉 田泰一 ・輪 田稔 訳 ) 1 997年 151-1 61 ペ ー ジ 5P r o t enhauer :aa0 S. 85 6 KS A6( Nl et Z S C hec ont r aWagner )S.426 7 8 1に同 じ 1 63ペ ー ジ 吉沢伝 三郎 「 パ スカル とニー チ ェ一一 『反 キ リス ト者 の 問題性 』 」 (田辺保編 著 『パ ス カル 著 作集 別 巻 Ⅰ』 教 文館 1 983年 289-304ペ ー ジ 9 もっ と もシラー とほぼ 同時 代 に既 に美 の道 徳 か らの 自律 を説 いた人 物 が l くar lPhl l l l PMor l t Z )で あ るが、彼 に よる と芸 術 作 品 い たO モ ー リッツ( はそれ 自休 で完結 した もの ( l nS I C hs e l bs tVol l ende t es ) で あ り、芸術 作 品 の 自律 的構 造 - の洞 察 のみ が、 そ の作 品 の全体 と部 分 の必 然性 を詳細 に 9世紀 に入 って も しば らく忘れ 去 られ て い た この人 明 かす もの で あ る。 1 Pet erSz ond ユ ) な 物 は美学 史 の 中でパ イ オ ニア的 な現象 だ とシ ョンデ ィ( ども評 価 して い るが 、 ニーチ ェは全 く知 らなか った ら しい。 プ フォー テ 2 3 ニーチェの美学批判について ンハ ウア- は先 の論 文 中で このモー リッツ を引用 している。 モー リッツ はニーチ ェの同時代の芸術 の ための芸術 にお ける美的 自律性 を先取 り し て いるのは確 かだが、 この理論 に よって世界 を呪 って、内面化 したユー トピア を作 るのではないo モー リッツには告 白′ J 、 説 『ア ン トン ・ライザ ー』 を書か ざるを得 ない、存在 の欠如感 や 生 の内 と外-の分裂 とい う抜 き差 しな らぬ体験 を背後に した内的必然性 が あ り、あ くまで啓蒙的 な告 発 的要 求 を もって、同時代の悪 しき現 実 に対抗す るための理論 であ る こ とを想 起す るな らば、芸術の ための芸術 とは明 らかに一線 を画す るので あ って、む しろモー リッツの理論 はニー チ ェに とっては生の哲学に貫か れ た美 とい う自 らの主張 に与 した はず だ とプ フォーテ ンハ ウア-は推測 して いる。 【 付記 】 本 稿 は 姫 路 濁 協 大 学 特 別 研 究 助 成 費 に よ る もの で あ る。 24