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可能を表す「見える」「見られる」の研究

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可能を表す「見える」「見られる」の研究
可能を表す「見える」「見られる」の研究
―コーパスに見る母語話者と非母語話者の使用の異なり―
奈良教育大学 大学院 教育学研究科 修士課程
教科教育専攻 国語教育・日本語日本文化教育専修
学生番号 123109
森
敦子
可能を表す「見える」「見られる」の研究
―コーパスに見る母語話者と非母語話者の使用の異なり―
目次
1
はじめに
2
日本語学における「自発」と「可能」
3
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
・・・・・・・・・・・・・・・5
2.1
意味的特徴
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
2.2
形態的特徴
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
2.3
統語的特徴
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
「見える」「見られる」に関する先行研究 ・・・・・・・・・・・・・・11
3.1
寺村(1982)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
3.2
飯田(1997)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
3.3
山内・清水(2001)
3.4
下岡(2005)
3.5
日本語学から日本語教育へ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
・・・・・・・・・・・・・・・ 18
4
日本語教育における「見える」
「見られる」の扱い
5
「見える」「見られる」の用法の分類 ・・・・・・・・・・・・・・・・27
6
書き言葉における「見える」「見られる」の使用の実態
7
・・・・・・・・・21
・・・・・・・33
6.1
書き言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の正用
・・35
6.2
書き言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の誤用 ・・・37
話し言葉における「見える」「見られる」の使用の実態 ・・・・・・・・39
8
話し言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の正用
7.2
OPI のレベル別に見る「見える」「見られる」の使用の実態 ・・42
7.3
話し言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の誤用
「見える」「見られる」の使い分けに関するアンケート調査
9
注
・・44
・・・・・49
全体の正答率
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50
8.2
用法別正答率
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51
8.3
状況可能の「見える」「見られる」
8.4
「見える」「見られる」どちらも使用可能なもの(用法⑥) ・・53
・・・・・・・・・・・・52
・・・・・・55
9.1
日本語教科書における「見える」「見られる」の出現頻度
9.2
日本語教科書とコーパスとの比較
日本語教育への応用
・・56
・・・・・・・・・・・・59
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61
10.1
「見える」「見られる」産出用フローチャート
・・・・・・62
10.2
コーパスにおけるフローチャートのカバー率
・・・・・・66
おわりに
参考文献
資料
・・40
8.1
日本語教科書における「見える」「見られる」の扱われ方
10
11
7.1
―今後の課題―
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 69
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・76
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77
1 はじめに
1
はじめに
「見える」は自発動詞であり、
「新宿に行けばいろいろな映画が見られる」という場合の
「見られる」は、
「見る」という動詞の可能形である。どちらも<対象物を視覚でとらえる
ことができる>という意味を表すが、使われ方は異なる。
(1)ほら、あそこに絵が見えます。
(飯田(1997:44))1
(2)今日はお母さんが許してくれないから、テレビが見られない。(山内・清水(2001:
107))
(3)東京タワーに上れば、富士山が見えるだろう。(飯田(1997:45))
(1)の「見える」を「見られる」に置き換えることはできない。同様に(2)の「見ら
れる」を「見える」に置き換えることはできない。
(1)の「見える」を「見られる」に置
き換えた(1)’と、
(2)の「見られる」を「見える」に置き換えた(2)’はどちらも非文
である。
(1)’*ほら、あそこに絵が見られます。
(2)’*今日はお母さんが許してくれないから、テレビが見えない。
一方で、(3)の「見える」は(3)’のように、「見られる」に置き換えることが可能で
ある。
(3)’東京タワーに上れば、富士山が見られるだろう。(飯田(1997:45))
(1)~(3)’を識別している以上、「見える」「見られる」の使い分けには何らかの規
則性があるはずである。しかし、その規則は複雑かつ曖昧である。日本語母語話者(以下、
母語話者と表記)は「見える」と「(可能形の)見られる」
(以下、
「見られる」と表記)を
....
無意識に使い分けているが、日本語非母語話者(以下、非母語話者と表記)にとって、両
者の使い分けを習得するのは容易なことではない。事実、日本語上級レベルの非母語話者
においても、
「見える」
「見られる」の使い分けに関する誤用は数多く見られる2。このよう
な状況にあるのは、「見える」「見られる」を非母語話者に明示的に提示するための文法記
述が、未だ確立されていないからであると考えられる。
「見える」
「見られる」に限らず、文法規則について非母語話者にわかりやすく提示する
....
ためには、まず、母語話者が無意識に理解している部分を意識化しなければならない。そ
のためには、日本語を詳細に分析し、体系化する必要がある。これは、日本語学のこれま
での研究成果を整理することで実現する。しかしながら、日本語学における研究成果を、
そのままの形で非母語話者対象の日本語教育に応用するのは、適切であるとは言えない。
2
何故なら、日本語学と日本語教育とは、同じ日本語という言語を扱っているものの、それ
ぞれ目指しているものが異なるからである。
庵(2011a)の以下の記述が、日本語学と日本語教育の方向性の違いを端的に表している。
なお、ここで言う「日本語記述文法」とは従来の日本語学のことであり、
「教育文法」とは
日本語教育に直接役立つ文法(記述)を意味している。
日本語記述文法(日本語学)は基本的に理解レベルの文法である。なぜなら、上で述
べたように3、日本語記述文法では母語話者がもつ文法能力が前提とされているからで
ある。あるいは、日本語記述文法では母語話者がもつ文法能力が前提とされるため、
理解レベルと産出レベルの区別が問題にならないと言ってもよいかもしれない。
一方、教育文法が対象とするのはそうした文法能力をもたない(少なくともそれを
持つことを前提とはできない)学習者である。そのため、理解はできていても産出で
きないということは十分にありうる。その意味で、理解レベルと産出レベルの区別は
必要である。また、学習者の学習レベルに合わせて理解レベルと産出レベルを区別す
るということも必要である。(庵(2011a:5-6))
つまり、日本語学が、「前提とされる文法能力」(いわゆる母語直観)をもつ母語話者を
対象にしているのに対し、日本語教育は、日本語に対する母語直観のない非母語話者を対
象にしているのである。このことが、日本語学の研究成果をそのまま日本語教育に応用す
ることができない所以である。日本語学における規則・体系を理解したうえで、それを非
母語話者にいかにして提示するかを考えなければならないのである。
本論文は、日本語学の知見を日本語教育の立場から考察し直し、日本語教育現場への一
提言を試みるものである。まず、第2章で、日本語学における「自発」と「可能」に関す
る記述について観察し、第3章で「見える」
「見られる」に関する先行研究を参照する。続
く第4章で、日本語教育における「見える「見られる」の扱いについて述べる。第4章ま
での内容をふまえて、第5章では「見える」「見られる」を 9 つの用法に分類する。その
分類にしたがって、第6章で書き言葉コーパス、第7章で話し言葉コーパスにおける言語
使用を調査し、「見える」「見られる」の使用実態を明らかにする。第8章では「見える」
「見られる」の使い分けに関して行ったアンケート調査について述べ、第9章で日本語教
材と実際の言語使用実態とを比較検討する。さらに第10章で、日本語学の成果を日本語
教育に応用する一案として、「見える」「見られる」の使い分けに関する規則を明示的に示
した、
「「見える」
「見られる」の使い分けフローチャート」を提示する。最後に第11章で、
「見える」「見られる」に関する考察が、他の言語形式(「聞こえる」「聞ける」)にも応用
可能であるか否かについて検討し、その上で、今後の課題について確認する。
なお、「見える」「見られる」と語根を同じくする動詞「見る」には様々な意味・用法が
ある。
『広辞苑 第六版』
((2008)岩波書店)の「みる」の項には、最上位項目だけでも、①
3
目によって認識する
切る
②判断する
③物事を調べ行う
④(僧の忌詞)仏前に供える花を
という 4 つの意味・用法が記載されている。さらに、①は 10、②は 4 つ、③は 3
つの下位項目を擁している。このように、
「見る」は非常に多義的な語であるが、本論文で
は、
「視覚で対象物をとらえる」という意味の「見る」に限定して調査・考察を行うことに
した。そのほかの意味・用法については今後の課題としたい。
4
2 日本語学における「自発」と「可能」
2
日本語学における「自発」と「可能」
「見える」
「見られる」について考えるに前に、まず、「可能」及び「自発」がそれぞれ
どのような性質をもつのか、整理しておく必要があるだろう。そこで本章では、日本語学
において、
「自発」と「可能」がどのようにとらえられているかについて、意味、形態、統
語という 3 つの側面から整理する。
2.1
意味的特徴
「可能」及び「自発」は、どのような意味・用法をもつのだろうか。『日本文法大辞典』
(松村明編(1971)明治書院)には、「可能」の意味について、次のように記述されている。
可能態によって表される意味を分類すれば次のごとくである。①有情物の恒常的な動
...
..
作の能力。例彼は英語が話せる/昔は僕も泳げたのだが/いつかはこの子も親の気持
.....
ちが理解できるようになるだろう ②有情物の臨時的な、動作の可能性。例今日は監
....
....
督がいないから練習をサボれる/昨日だったら貸してあげられたのですが/期限内
....
...
でしたらいつでも変更できます/涙のこぼるゝに、目も見えず、物もいはれず〔伊勢
...
物語・62〕/使はるゝ人々も、……恋しからむことの耐へがたく、湯水飲まれず、同
じ心になげかしがりけり〔竹取物語〕 ③有情物の希望がかなえられて、あるいは努
....
...
力がみのって、動作が実現すること。例去年は三万票獲得できた。来年は何票とれる
....
だろうか/やっと机をうごかせた ④ある事物に関して、有情物が動作をする可能性
、、、、
.....
をもつこと(恒常的の場合も臨時的の場合もある)。例この部屋は窓があけられる/
、、、
...
、、、、、、、、
...
あなたは今手伝ってもらえますか/あんなせまい場所でも、野球ができるんだね/大
、、
.......
方は、家居こそ、ことざまはおしはからるれ〔徒然草・10〕
(『日本文法大辞典』
(松村明編(1997:125)明治書院)項目「可能」/執筆者:藤井正)
また、同じく『日本文法大辞典』には、
「可能動詞」の意味・用法について、次のように
記述されている。
意味・用法の上では、①ある動作が、その主体において実現すること、またその能力
のあることをさす。例1キロぐらいは泳げる/英文が読める
とを示す。例あと三百字は書ける/三日までは待てる
②動作の許容されるこ
③自発の意味を示す。例そう
としか思えない/そういう悲しい話を聞くと、泣けてくる
(『日本文法大辞典』(松村明編(1997:125)明治書院)項目「可能動詞」/執筆者:吉
田金彦)
『日本文法大辞典』における「可能動詞」の 3 つの意味・用法のうち、①(ある動作が、
6
その主体において実現すること、またその能力のあることをさす)は、『日本文法大辞典』
の「可能」の意味記述に合致するが、②(動作の許容されることを示す)と③(自発の意
味を示す)は、
「可能」の 4 つの意味・用法のいずれにも該当しない。つまり、
「可能動詞」
には、「可能」の他に、「許容」や「自発」の意味・用法もあるということである。
『日本文法大辞典』では、
「可能動詞」を、五段活用動詞(以下Ⅰグループと表記)から
派生したもの(「話す」→「話せる」、「書く」→「書ける」など)であると定義している。
このように、日本語学においては形態面を重視し、Ⅰグループの動詞が一段化したものの
みを「可能動詞」と定義しているのである。しかしながら、「見られる」「食べられる」の
ように一段活用動詞(以下、Ⅱグループと表記)に可能の助動詞「られる」がついたもの
も、意味・用法の点では「可能動詞」と同等である。寺村(1982)では、Ⅰグループの動詞
が一段化したもの(「可能動詞」)と、Ⅱグループの動詞に可能の助動詞がついたものとを、
一括りにして「可能形」と呼んでいる。日本語教育では、寺村(1982)の考え方にならって、
両者をまとめて「可能形」とするのが一般的である。
(日本語教育を念頭においた本論文で
も、その立場で論を進める。)以上のことから、非母語話者が日本語教育において学習する
「可能形」には、
「可能」の他に「許容」や「自発」の意味・用法も含まれているのだと言
える。
次に、「自発」について見てみたい。『日本文法大辞典』では、動詞に自発の助動詞を付
けたもの及び可能動詞の一部(「泣ける」
「思える」等)を「自発」と定義している。
『日本
文法大辞典』の「自発」についての項(『日本文法大辞典』(1971:301))を整理すると、
「自
発」の意味・用法は次の 4 つに分類できる。
①「感情がある事物に志向する」という意味特徴をもった動詞からつくられ、
「その感情の
志向が動詞の表す動作の主体の意志とは関係なく自然に行われる」という意味を表す。
......
....
例故郷の母の顔が思い出される/前回の失敗が悔やまれてならない
②「知る」
「想像する」
「推定する」等、
「ある事物についての認識を得る」という意味特徴
をもつ動詞からつくられ、「その認識が、動詞の表す動作の主体の能力や努力によって
可能になるのではなく、ある客観的な事柄があって、それを認めるとその当然の帰結と
して可能になる」という意味を表す。
.....
例この写真からでも、彼女が美人であることは十分想像される/これらの状況から、犯
.....
人は A であると推定される
③「思う」
「考える」等、
「思考・判断」を表す動詞からつくられ、
「動作主の主観的な「思
考・判断」を断定的に表現することを避けて、それをやわらげるために婉曲に表現する」
場合に用いられる。
....
例今後は徐々に人口が減少していくものと思われる/事件発生直後に通報があったも
7
.....
のと考えられる
④「外的な動作」(「心理的な動作」でないもの)を表す動詞からつくられる。動作が自然
に行われることを表すという点では①と似ているが、①が時間に関して不定であるのに
対し、④はある条件が整ったときに、その自然の帰結として動詞の表す動作が行われる
ことを表すという点が違っている
..
例彼の純情さにはほとほと泣けてくる
上記のことから、
「自発」とは「動作主体の意志とは関係なく自然と行われるもの」、
「動
作の能力や努力に関わらず、当然の帰結として可能になるもの」及び「思考・判断につい
ての婉曲表現」と定義することができる。前述した『日本文法大辞典』における「可能動
詞」と同様、
「自発」にも様々な意味・用法が存在するのである。さらに、
「自発」の意味・
用法の②を見ると、
「自発」にも「可能」の意味を含むものがあるということがわかる。つ
まり、
「可能動詞」と「自発」はどちらも、
「自発」
「可能」両方の意味を兼ね備えているの
である。
2.2
形態的特徴
次に、
「可能」と「自発」
(及び「受身」)を、動詞の変化という形態的な側面から見てみ
たい。Ⅰグループの動詞(例として「読む」)は、受身文では「読まれる」、可能文では「読
める」、自発文では「読める」という形をとり、可能文と自発文には同じ形態が用いられる。
一方、Ⅱグループの動詞(例として「食べる」)は、受身文・可能文ともに「食べられる」
という同じ形態が用いられる。なお、Ⅱグループの動詞は基本的に自発形にはならない(例
外として「見る→見える」「煮る→煮える」がある)。動詞の形態変化からも、「受身」「可
能」「自発」の連続性が見て取れる。寺村(1982)は、「受身」
「可能」
「自発」の形態的特徴
とその連続性を、次の表1のようにまとめている。なお、表中の VⅠ・VⅡはそれぞれ、動
詞のⅠグル―プ・Ⅱグループを表している。
表1
「受身」「可能」
「自発」の形態的連続性(寺村(1982:257))
受身
可能
VⅠ-are-(ru)
自発
VⅠ-e-(ru)
VⅡ-rare-(ru)
思 w-are-(ru)
表1を参考に、具体的な動詞の例を用いて表2を作成した。さらに、本論文の主題であ
り、特殊な自発形をもつ「見る」
「聞く」という二つの動詞についても、表2に示した。Ⅰ
グループの動詞は通常、「読む」のように「可能」と「自発」が同形態であるが、「聞く」
8
だけは「受身」「可能」
「自発」のすべてにおいて形態が異なっている。また、Ⅱグループ
の動詞は、「食べる」のように自発形をもたないのが基本であるが、「見る」は「見える」
という自発形をもっている。動詞の形態面からも、「見える」「聞こえる」の特殊性が伺え
る。
表2
具体的な動詞の変化とその連続性
受身
Ⅰグループ
Ⅱグループ
2.3
読む
読まれる
聞く
聞かれる
可能
自発
読める
聞ける
食べる
食べられる
見る
見られる
聞こえる
見える
統語的特徴
寺村(1982:255)は、「可能」の統語的特徴を、(4)(5)の例を用いて説明している。
(4)彼ニ
中国語ガ
話セル(コト)(寺村(1982:255))
………
可能文
(5)彼ガ
中国語ヲ
話ス(コト)
(寺村(1982:255))
………
基本文
(5)の基本文と(4)の可能文とでは、「格の移動」と「動詞の規則的な変化」が認め
られる。このことから、寺村(1982)は、「可能」をヴォイスの一種だとしている4。
一方、村木(1991:185)は、
「可能」と「自発」はヴォイス性に欠けるため、ヴォイスのサ
ブカテゴリーであるとし、以下の(6)~(9)の例を用いて説明している。
(6)太郎に(は)
(7)太郎ガ
英語ヲ
(8)太郎に(は)
(9)太郎ガ
英語が
故郷ヲ
よめる(村木(1991:185))
ヨム(村木(1991:185))
故郷が
しのばれる(村木(1991:185))
シノブ(村木(1991:185))
………
可能文
………
基本文
………
自発文
………
基本文
(7)の基本文と(6)の可能文、
(9)の基本文と(8)の自発文とをそれぞれ比べると、
「格の移動」と「動詞の規則的な変化」が認められる。この点においては、ヴォイスとし
ての特徴をもっている。村木(1991)が問題としているのは、視点の移動の有無である。
(7)
の基本文と(6)の可能文とでは、格形式は変化するものの、どちらも主語は動作主(=
太郎)であり、この動作主を中心に述べた文である。二つの文の間で、視点の移動は起こ
っていないのである。(9)の基本文と(8)の自発文との間でも同様に、視点の移動はな
い。つまり、「可能」と「自発」は、「格の移動」と「動詞の規則的な変化」は認められる
9
ものの、「視点の移動」はなく、「主語の交換」が行われていないのである。以上のことか
ら村木(1991)は、
「可能」及び「自発」はヴォイス性に欠けるとし、ヴォイスである「受動
態」とは明確に区別している。このような観点で見ると、形態的に連続している「受身」
「可能」
「自発」の中でも、特に「可能」と「自発」は近しい関係にあり、したがって「可
能」と「自発」は相互に区別がつきにくいものであると言えるだろう。
また、寺村(1982)は、
「可能」を「能動的可能」と「受動的可能」という 2 種類に分類し、
「能動的可能」、
「受動的可能」、
「自発」の統語的特徴を、以下の(10)~(13)のような
例(全て寺村(1982:275)より引用)をあげて説明している。寺村の示している例を用いて
筆者が整理して示すと、次のようになる。
(10)彼ニ/ガ
コノ瓦ガ割レル(コト)
Y ニ/ガ X ガ
V-e-(ru)
………
V-e(ru)
V-e(ru)
(X:
受動的可能
V‐の表す動作を受けるもの)
(13)コノ瓦ハ(ヨク)売レルカ?(売れ行きはよいか?)
Xガ
能動的可能
(自動詞)
(12)コノ瓦ハ売レルカ?(売ることができるか?商品か?) ………
Xガ
能動的可能
(他動詞)
(11)彼ガ泳ゲル(コト)
Yガ
………
………
自発
V(他動)-e-(ru)
寺村(1982)は、
(10)
(11)のような、能力をもつ(または可能な状態にある)主体 Y を
構成要素としてもつ可能表現を、「能動的可能」と定義している。また、主体 Y が不特定
の人であったり一般的な基準を表す場合には Y は姿を消す(省略ではない)と述べ、その
ような可能表現を「受動的可能」と定義している((12))
。
「能動的可能」は、構文的にも
意味的にも、自発表現との違いは明白である。一方、
「受動的可能」は、
(13)の自発表現
と、構文的に一致するのである(寺村(1982:275))。
このように、
「自発」と「可能」は、意味的にも(2.1)、形態的にも(2.2)、統語
的にも(2.3)、複雑に交差しているのである。
10
3 「見える」「見られる」に関する先行研究
3
「見える」「見られる」に関する先行研究
「見える」と「見られる」についての先行研究は数多くあるが5、ここでは、本論文執筆
にあたって多くの示唆を得たいくつかの先行研究について、その内容を概観する。
3.1
寺村(1982)
「見える」と「聞こえる」は、動詞「見る」
「聞く」の自発形でありながら、他の動詞で
あれば可能形で表現する意味・用法をも表現しうる、特殊な語である。寺村(1982)は、
「見
える」「見られる」(及び(「聞こえる」「聞ける」
)について、以下のように述べている。
見エルも見ラレルも、また聞コエルも聞ケルも、共に「可能」の意味をもつが、自
発態を使っての可能表現と、可能態を使っての可能表現には、一般に次のような違い
があると思われる。すなわち、前者の可能というのは、その発話の場、時点で、具体
的にあるものが視覚・聴覚によってとらえることが可能か否か、ということであり、
...
後者の可能というのは、一般にかくかくの可能な状態が―発話の場を離れて―存在す
る、ということである。
(寺村(1982:277))
つまり、寺村(1982)によると、「見える」は本来の意味である「自発」の特性上、「発話
の場・時点で具体的に見ることができるか否か」を述べるものであり、
「見られる」は「一
般的に(発話の場を離れて)可能か否か」を述べるものなのである。
3.2
飯田(1997)
飯田(1997:46)は、「見る」という一連の動作を、対象に視線を送る第一過程と、それを
、
脳で意識し、その対象の形や色を認める第二過程とに分け、第一過程に相当する部分を「見
、
、、
る」と表している。また、
「見える」は第二過程に相当し、第一過程の「見る」を前提にし
て成立するとしている。このことを式で表すと、
、、
[ 「見る」=「見る」+「見える」
]
、、
となるだろう。そして、前提となる「見る」が意志的なのか無意志的なのかという観点か
ら、「見える」「見られる」の性質を整理し、記述している。
、、
まず、<前提となる「見る」が意志的な場合の「見える」>の性質について、次のよう
に記述している。
(a)対象と対峙した状況で、対象を意志的に見た結果、それが目に入ることを「見える」
で表す。結果が成立するかどうかという点が問題になるため、その点から可能の意
味が生じると考えられる。(飯田(1997:48))
12
(b)「見える」対象は、見ようとした対象なら何でもよく、特に制限がない。(飯田
(1997:48))
飯田自身も冒頭部分(飯田(1997:43))で指摘しているように、日本語教育では総じて「意
志性があれば「見られる」、なければ「見える」を使う」と説明しがちである。しかしなが
ら飯田(1997)は、
「自発」である「見える」にも意志性が存在する場合があることを示して
いるのである。さらに、上記(b)も重要な指摘であると思われる。「見られる」の場合、見
る対象に何らかの制限があるが、「見える」にはそれがないのである。このことについて、
(14)~(17)の例で考えてみたい。
(14)私の部屋から海が見える。(作例)
(15)私の部屋からポストが見える。(作例)
(16)私の部屋から海が見られる。
(作例)
(17)?私の部屋からポストが見られる。(作例)
見る対象が「ポスト」という一般的に鑑賞の対象ではない物の場合、
「見える」は問題な
く使える((15))が、
「見られる」を使うと不自然である((17))。この点は、
「見える」
「見
られる」を使い分ける際の、1つの重要なポイントとなるだろう。
、、
次の(18)(19)は、<前提となる「見る」が無意志的な場合の「見える」>の例であ
る。
(18)真珠のような実もちらっと見えたのでした。(銀河鉄道の夜/飯田(1997:50))
(19)みあげると一機の敵機が甲山の中腹をぬって、灰色の空を急スピードでとんでい
くのが見えました。(黄色い人/飯田(1997:50))
、、
<前提となる「見る」が無意志的な場合の「見える」>の性質について、飯田(1997)は
次のように記述している。
(a)無意志的に視線を送った時、普段は目にするものではないもの、特に目立つような
ものが偶然視野に入ってきた場合に使われる。
(飯田(1997:50))
(b)特に目立つものではなくても、無意志的に視線を送りながら、対象を確認するとい
う文脈の中で目に入った何かを叙述する場合に使われる。風景描写などでよく現れ
ることからも頷ける。(飯田(1997:50))
、、
「見られる」に関しても同じように、前提となる「見る」が意志的なものと無意志的な
、、
ものとに分けて記述している。次の(20)は、<前提となる「見る」が意志的な場合の「見
13
られる」>の例である。
(20)渓谷に沿ってトレイルが整備され、全部で 6 つの橋がかけられており、さまざま
に変化する川の流れが見られる。('96~'97 るるぶカナダ/飯田(1997:52))
、、
<前提となる「見る」が意志的な場合の「見られる」>の性質については、次のように
記述している。
(a)ある設定された状況の中で意志的に視線を送り、その対象をとらえることができる
ことを「見られる」で表す。<現場性>がなく、その状況で「見ること」が可能な
ことを一般的に述べる傾向がある。
(飯田(1997:53))
(b)視覚対象は見る価値のあるものであり、精神的な活動と結びついている。(飯田
(1997:53))
ここで言う「現場性」とは、下岡(2005)が「見える」の特徴であると指摘する「眼前性」
と、同等の意味で用いられているもの思われる。これについては、3.4で詳しく見る。
、、
次の(21)は、<前提となる「見る」が無意志的な場合の「見られる」>の例である。
(21)町のあちこちに、ドライバーに事故防止をよびかける交通標語が見られるように
なりました。(日本語表現文型中級Ⅰ/飯田(1997:53))
、、
<前提となる「見る」が無意志的な場合の「見られる」>の性質については、次のよう
に記述している。
(a)対象への関心があり、対象を目にすることからそれを問題意識でとらえて提示する
場合に使われる。また、問題意識からとらえる点では、一回性の出来事を取り上げ
るよりも、一般に何度も起きていること、何度も確認していることを述べる場合が
多い。(飯田(1997:56))
(b)対象としては抽象的な内容になる傾向がある。具体的な対象の場合でも、実はその
対象が目に入るかどうかという視覚の問題から離れ、むしろそういったもの、そう
いった現象が存在することに焦点が向けられている。(飯田(1997:56))
、、
なお、<前提となる「見る」が無意志的な場合の「見られる」>に「可能」の意味はな
、、
く、<前提となる「見る」が無意志的な場合の「見える」>と類似した意味をもつとして
いる(飯田(1997:51))。
以上、飯田(1997)を概観した。ここで明らかになったように、
「意志性の有無」という観
14
点は、「見える」「見られる」を使い分ける際に、必ずしも万能ではないのである。
3.3
山内・清水(2001)
山内・清水(2001)は、「見える」は「見る」の自発形、「見られる」は「見る」の可能形
であり、それぞれの基本的な意味は全く異なるとしている。しかしながら、他の動詞(「走
る」
「食べる」
「飲む」など)と比較して、
「見る」は「自発」
(=「見える」)と「可能」
(=
「見られる」)の区別が曖昧であり、それは、「見る」という動詞の特性によるものである
と述べている(山内・清水(2001:注 3)6。
「見える」と「見られる」について考察するにあたり、山内・清水(2001)は、
「日本語に
おいては、可能表現よりも自発表現の方が好まれる(山内・清水(2001:109)」という仮説
を立てている。つまり、「見える」と「見られる」が意味的に重なる部分においては、「自
発」である「見える」が優先的に現れるという仮説である。そして、そのような仮説のも
と、
「「見える」が「見られる」の領域をどこまで浸食できるか。
(山内・清水(2001:109))」
という観点から、「見える」「見られる」を分析している。山内・清水(2001)が結論として
提示した図を、下記の図1に引用する。
図1
「見える」「見られる」の領域(山内・清水(2001:116))
②
④
能力可能
③
⑤
状況可能
①
⑥
心情可能
見える
見られる
図1の太枠で囲んだ①②③が「見える」を使うもの、④⑤⑥が「見られる」を使うもの
である。①は本来の「見える」の領域、②と③は「見える」と「見られる」が重なり合っ
た結果、
「見える」が「見られる」を浸食してしまった領域、④⑤⑥は「見える」に浸食さ
れずに「見られる」が生き残っている領域である(山内・清水(2001:110))。図1の①は、
典型的な自発表現で、可能の意味をもたないものである。(22)~(24)のようなものを
例としてあげている。(22)は、ただ「視野内のものが目に飛び込んで来る」ということ
のみを表現した自発の表現で、
(23)はその比喩的な用法、
(24)は何かが「目に飛び込ん
で来る」時に、それが「どのように目に飛び込んで来るのか」
(=見え方)を表現する用法
である(山内・清水(2001:110-111))。
(22)どんどん歩いていくと、目の前に大きな滝が(○見え/×見られ)てきた。
(山内・
15
清水(2001:110))
(23)解決の糸口がまったく(○見え/×見られ)てこない。(山内・清水(2001:110))
(24) 彼は、あまり行きたくなさそうに(○見え/×見られ)る。
(山内・清水(2001:111))
図1の②と④は能力可能である。能力可能は明らかに「可能」の意味を含んでいるにも
かかわらず、
(25)のように基本的に「見える」が使われる((25)は図1の②の領域に含
まれる)。
(25)北極星のとなりにある、あの小さな星が(○見え/×見られ)ますか。
(山内・清
水(2001:115))
つまり、②は「見える」が完全に「見られる」の領域を浸食したものだと言える。ただ
し、能力可能でも(26)のような例では「見える」による浸食が行われておらず、「見ら
れる」が生き残っている。これは、
「見る」に「理解・判断・鑑賞」といった意味が含まれ
ているため、
「視野内のものが自然に目に飛び込んで来る」というわけではないからである
(山内・清水(2001:115))((26)は④の領域に含まれる)。
(26)彼は、人の手相が(×見え/○見られ)る。(山内・清水(2001:115))
図1の③と⑤は状況可能である。状況可能のうち、
「視野内のものが自然に目に飛び込ん
で来る」という自発の意味に解釈しうるものには(27)のように「見える」を使う((27)
は図1の③の領域に含まれる)。
(27)コピーの字が薄くて(○見え/×見られ)ない。(山内・清水(2001:112))
図1の⑤は状況可能のうち、
「視野内のものが自然に目に飛び込んで来る」という意味に
「自然に目に飛び
解釈することができないものである。山内・清水(2001)は、⑤をさらに、
込んで来る」という条件を満たさないものと、
「視野内のものが」という条件を満たさない
ものとの 2 つに分けて説明している。「自然に目に飛び込んで来る」という条件を満たさ
ないものとは、
(28)のように、
「見る」が「理解する・判断する・鑑賞する」という意味
まで含んでいる場合である(山内・清水(2001:112))。
(28)今日は、映画が(×見え/○見られ)る。(山内・清水(2001:113))
「視野内のものが」という条件を満たさないものの例としては、
(29)
(30)のようなも
のをあげている。
16
(29)フランスへ行けばエッフェル塔が(×見え/○見られ)る。
(山内・清水(2001:114))
(30)最近はどこのキャンパスでも留学生の姿が(×見え/○見られ)る。
(山内・清水
(2001:114))
(29)の場合、フランスに行ったからといってエッフェル塔が視野に入ってくるとは限
らない(パリの空港に降り立ったとしても、エッフェル塔は視野内に存在しない)ため、
「視野内のものが」という条件を満たしておらず、
(30)の場合、
「留学生」は 1 か所にか
たまっているのではなく散在しており、そのすべてが視野内に入っているわけではないた
め、同じく「視野内のものが」という条件を満たしていないとしている(山内・清水
(2001:114))。
また、(31)のような心情可能の場合、必然的に「鑑賞する」というような意味をもつ
ことになるため、「見える」による浸食は行われず、「見られる」が用いられる(山内・清
水(2001:113))((31)は⑥の領域に含まれる)。
(31)ようやく、どうにか(×見え/○見られ)る字が書けるようになった。
(山内・清
水(2001:113))
以上のように、山内・清水(2001)は、「「見える」による「見られる」の浸食」という観
点から、本来なら可能形(「見られる」)が使われるはずの領域のうち、どの部分を「見え
る」で代用しているのかという点にについて、わかりやすく提示している。日本語教育に
おいて、非常に有用な記述であると思われる。
3.4
下岡(2005)
下岡(2005)は、
「見える」と「見られる」はどちらも動詞「見る」の可能形態であると定
義して、論を進めている。これは、本来の可能動詞である「見られる」との比較によって
「見える」の性質を考察するためである(下岡(2005:注 4))。下岡(2005)は、「見える」を
様々な角度から詳細に分析しているが、ここではその分析を踏まえた結論の部分を紹介す
る。下岡(2005)は、次のように述べている。
「見える」には眼前性の有無という他の可能表現にはない性質があるということが
指摘できる。ここでいう眼前性とは、
「見る」という行為の対象であるモノやコトが認
知主体の目の前に存在することを示した性質のことである。
「見える」は「対象を見る
ことができる」といった事態成立の可能性があることを示している形態であると解釈
できる一方で、
「対象を見る」という事態が既に成立していることを示した形態である
とも解釈できる。
「対象を見る」という事態を成立させるためには、その対象は認知主
体の目の前になければならない。なぜなら認知主体の目の前に対象がなければ、認知
17
主体はその対象を視覚で捉えることができないからである。このように他の可能形態
には見られない「見える」の特殊な意味をこの眼前性という性質が支えているといえ
る。(下岡(2005:18))
「見える」には<「対象を見ることができる」といった事態成立の可能性があることを
示している>ものと、<「対象を見る」という事態が既に成立していることを示した>も
のと、2種類あるという指摘である。ここで言う<「対象を見ることができる」といった
事態成立の可能性があることを示している>形態とは、(32)のように「見られる」との
置き換えが可能なものであると考えられる。
(32)ここから富士山が見える。(下岡(2005:8)
(32)’ここから富士山が見られる。
(下岡(2005:9)
そして、<「対象を見る」という事態が既に成立していることを示した>形態とは、
(33)
のようなものであろう。
(33)は「眼前性」があるため、
「見える」を「見られる」に置き
換えることはできない((33)’)。
(33)目の前に虹が見える。(下岡(2005:9))
(33)’*目の前に虹が見られる。(下岡(2005:9)
つまり、
(33)のように「見る」対象物を既に視覚でとらえている場合には、
「見られる」
は使えないということである。下岡(2005)は、
「見える」と「見られる」の最大の相違点は、
この「眼前性(もしくは「現在性」7)の有無」であると結論付けている(下岡(2005:19))。
なお、3.1で確認した飯田(1997)の言う「現場性」も、下岡(2005)が指摘する「眼前性」
と、同等の内容を指しているものと思われる。
このような下岡(2005)の指摘は、日本語教育において「見える」と「見られる」の使い
分けを扱う際に、非常に有用であると思われる。
3.5
日本語学から日本語教育へ
本章で見たように、日本語学の分野において、様々な切り口で「見える」
「見られる」に
関する研究が行われ、成果をあげてきた。母語話者なら、これらの先行研究に触れること
....
で、それまで無意識に使い分けていた「見える」
「見られる」の違いについて、理解を深め
ることができるだろう。しかしながら、これらの先行研究は、
「日本語学的な研究成果」で
あり、日本語を学ぶ非母語話者にとっては、必ずしも有用であるとは言えない。何故なら、
第 1 章でも述べたとおり、日本語学と日本語教育とは、同じ日本語という言語を扱ってい
るものの、目指しているものが異なるからである。野田(2005)は、日本語学と日本語教育
18
とがかけ離れたものになっている現状を、次のように述べている。
これまでの日本語教育文法は、日本語研究の成果としての文法を応用するという意
識が強く、日本語教育には必要でない部分も取り込んできた。(中略)
日本語教育のためという目的から出発した寺村の文法は、
「日本語学」の分野で、現
代日本語の記述的な文法を大きく発展させた。それは、寺村の文法が体系性を持って
いたからである。体系性は、体系的でない部分を意図的に排除しなければ得られない
ものである。寺村の文法でも、体系的にまとめにくい「機能」より、体系的にまとめ
やすい「形式」を中心に記述するなどの工夫が行われている。
寺村の文法は体系性を重視することにより日本語学で重要なものになったが、その
反面、日本語教育に必要な文法という性格は薄れていく。寺村より後の世代では、そ
の傾向はさらに強くなり、日本語学の文法は大きく発展したが、日本語教育に必要な
文法を考え直すことはほとんどなくなっていく。現在の日本語教育文法は、日本語学
の文法がすでに日本語教育の目的とは合わないものになっていることに気づかないま
ま、日本語学に依存しているように見える。(野田(2005:5))
ここで、日本語教育の対象が「日本語に対する母語直観のない非母語話者」であること
を再認識する必要があるだろう。日本語学における研究成果(文法記述)は、日本語教師
自身が文法に関する理解を深めるために利用するには有用である。しかし、日本語教育の
対象である非母語話者にとって、直接役に立つものではないのである。日本語学の研究成
果を、いかにして非母語話者に役立つものに変えていくか。それが、日本語教育のこれか
らの課題であると言えるだろう。
19
20
4 日本語教育における「見える」「見られる」の扱い
4
日本語教育における「見える」
「見られる」の扱い
非母語話者を対象にした日本語教育では、
「見える」と「見られる」はどちらも初級の文
法項目として扱われている。初級の段階では、複雑な文法体系より基本的な文型を習得す
ることのほうが重要であり、また、直説法では使用できる文型や語彙にも限りがあるため、
詳細な文法解説は行わないのが一般的である8。「見える」と「見られる」に関しても、典
型的な例を提示するにとどまり、使い分けについてはあまり詳しく触れられていない。代
表的な日本語初級教材『みんなの日本語初級Ⅱ』の教師用指導書である『みんなの日本語
初級Ⅱ教え方の手引き』には、
「見える」と「見られる」について以下のように記述されて
いる。
<留意点> 「見える」「聞こえる」と「見られる」「聞ける」の違いについて質問
が出たら、前者は話し手が何もしなくても、対象が自然と目や耳に入ってくる状態
にあること、後者は時間、労力、手段などを使って何かを見たり、聞いたりできる
ことを例を挙げて説明する。
例:
暗いですから、何も見えません。
毎日忙しいですから、テレビが見られません。
静かですから、隣のうちから声が聞こえます。
テープレコーダーがあったら、このテープが聞けます。
(『みんなの日本語初級Ⅱ教え方の手引き』(スリーエーネットワーク編(2001:31)))
特に意識せず視界に入ってくるものには「見える」、意志を持って見ようとするものには
「見られる」を使うという説明である。初めて可能形を学ぶ初級の学習者向けの教材であ
ることを考慮に入れると、妥当な解説であろう。しかし、「見える」「見られる」には様々
な意味・用法があることは、第3章までに確認したとおりである。そのため、日本語のレ
ベルが中級、上級と上がるにしたがって、上記の記述では説明がつかないものも出てくる。
日本語教育で使用されている文法解説書には、初級では使われない意味・用法についても
記載されているのだろうか。『初級日本語文法と教え方のポイント』(市川(2005:275))に
は、次のように記述されている。
可能形と同時に提出される項目に、「見える・聞こえる」があります。厳密には自
発動詞と呼ばれるものですが、可能表現と重なる部分もあるので、日本語の教科書で
は、可能形のところで提出されているようです。
「見える・聞こえる」に関しては、「見られる・聞ける」という可能形の意味用法
との違いが重要になります。
<14> a.ここから富士山が見える。
b.上野美術館へ行くと、ルノワールの全作品が見られる。
22
<15> a.波の音が聞こえる。
b.1,000 円も出せば、一流の噺家の落語が聞ける。
「見える・聞こえる」は自発動詞なので<14><15>のaのように「自然と目の中に
入ってくる」
「自然と耳に入ってくる」という意味になります。一方、
「わざわざ行く」
とか「お金を出す」などの人間の意志と手間が入ると、<14><15>bのように「見ら
れる」「聞ける」が使われます。
(『初級日本語文法と教え方のポイント』(市川(2005:275)))
意志性の有無によって「見える」と「見られる」を使い分けるという内容で、これは前
述の『みんなの日本語初級Ⅱ教え方の手引き』における記述内容とほぼ同様である。しか
し、これでは説明のつかない以下のような例も存在する。
(34)(望遠鏡で富士山を探していて)あ、富士山、見えた!!(作例)
(35)最近はどこのキャンパスでも留学生の姿が見られる。
((30)を再掲)
(山内・清水
(2001:114))
(34)は富士山を目の前にしての発言であり、下岡(2005)の言う「眼前性」があるため、
可能性の有無を表す「見られる」ではなく、
「自発」の「見える」を使う。また、
(35)は、
「視野内にあるものが自然と目に入る」という自発の条件(山内・清水(2001:109))を満
たしていないため、
「見える」ではなく「見られる」を使う。しかし、前述の『みんなの日
本語初級Ⅱ』や『初級日本語文法と教え方のポイント』のような説明で、非母語話者が、
(34)
(35)のような文を正しく使えるようになるだろうか。
(34)は発話者に富士山を見
るという明らかな意志があるため「見られる」を使用し、(35)は特に意識していなくて
も視野に入ってくるものなので「見える」を使用すると解釈する非母語話者がいても不思
議ではない。
以下のように、意志性の有無だけでなく眼前性の有無についても述べている文法解説書
もある。
【見える・聞こえる(自発)】
自発は「自然とそうなる」という意味を持ち、目の前に現れた出来事をそのまま伝
える場合などに使います。この場合可能形は使えません。
<4>あ、富士山が{○見える/×見られる}
。
<5>おや、虫の声が{○聞こえる/聞ける}
。もう秋だなあ。
テレビ番組や試合・演奏などに意識的に注意を向ける場合には、可能形を用い、自
発形は使えません。
<6>電車に間に合えば、9 時のドラマが{×見える/○見られる}。
23
<7>やっとコンサートのチケットを手に入れた。これであの歌手の歌が{×聞こえ
る/○聞ける}。
<8>このボタンで選べば、好きな曲が{×聞こえます/○聞けます}。
次のような場合、意識的に注意を向ける意味の他、「そのような状況になれば、そ
こでは自然と~」という意味にもとれますので、基本的には両方使うことができます。
<9>東京タワーに登れば、富士山が{○見える/○見られる}。
(『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』(庵他(2000:84)))
目の前に現れた出来事をそのまま伝える場合には「見える」を使うと明記されており、
(34)のような例には対応していると言える。しかしここでも、非母語話者が(35)の例
を正しく判断できるような記述は見られない。
『新版日本語教育事典』(日本語教育学会編(2005))の<2-M教育のための文法分析>
の「見える・聞こえる」の項では、次のように解説されている。
■見える・聞こえる
可能と自発の両方の意味をもつ動詞で、学習の困難点は、①可能形「見られる・聞け
る」との違い、②格助詞「に・から」にある。
○可能形との違い
「見える」
「聞こえる」は自発の意味を担っているので、主体の
意志の有無と関係なく、単に対象のほうから視覚や聴覚に入ってくる、あるいは入っ
てこないことを表す(用例<1><2>)。可能かどうかの原因が主体側になく、対象の側
にあるとする言い方である。一方、原因が主体の側にある場合は、可能形を使う(用
例<4>)。また、原因が主体以外にある場合であっても、「見る、聞く」という行為が
主体の意志と関係がある場合には、可能形を使うのが基本である(用法<3>)。
<1>「もしもし聞こえますか。」
「すみません、よく聞こえません。もう一度お願いします。」
<2>福岡では韓国のラジオが聞こえるんです。
<3>福岡では韓国のラジオが聞けるんです。
<4>私は臆病なのでホラー映画は見られません。
(『新版日本語教育事典』
(日本語教育学会編(2005:204)))
可能かどうかの原因が主体にあるか否かが判断の基準として示されている。しかし、第
1章の冒頭であげた(1)~(3)や、本章であげた(34)
(35)のどの例をとってみても、
可能かどうかの原因が主体にあるか否か、容易には判断がつかないのではないだろうか。
例えば(1)は、
「主体が視覚能力を有しており、周りを見渡し、絵を見つけたからこそ絵
を見ることができた」と考えれば、可能かどうかの原因は主体の側にあるとも言えるだろ
う。逆に(35)は、留学生を目にするかどうかは留学生がいるか否かによって決まるので、
24
可能かどうかの原因は対象側にあるとも考えられる。
他にも、以下の(36)~(38)のように、既存の文法解説書の記述だけでは説明しきれ
ない例は多い。
(36)いかのすみが入っているすみ袋は、内臓を取り出すとすぐに見えるので…(略)
(BCCWJ コア: PM51_00338)
(37)志津は動かなかったが、表情が平七郎の次の言葉を待っているように見えた。
(BCCWJ コア:PB49_00005)
(38)みんなが見えるような大きな字で書く。
(BCCWJ コア: PB43_00001)
....
日本語に対する母語直観をもち、「見える」「見られる」を無意識に使い分けている母語
話者であれば、これまで見てきた文法記述によって、「見える」「見られる」の違いを理解
....
することができるかもしれない。しかし、母語話者が無意識にできている「見える」
「見ら
....
れる」の使い分けを、多くの非母語話者は意識的に習得していかなければならないのであ
る。母語話者を対象にした文法記述では、カバーしきれない部分があるのは当然であろう。
実際、本論文の冒頭でも述べたとおり、「見える」「見られる」は初級の文法項目であるに
もかかわらず、日本語上級レベルの非母語話者においても誤用が多い表現なのである。
「見
える」
「見られる」の使い分けに関する規則を、日本語に対する母語直観のない非母語話者
の立場に立って整理し直す必要があるだろう。そのためにはまず、母語話者及び非母語話
者がそれぞれ「見える」
「見られる」をどのように使用しているのかを知らなければならな
い。
25
26
5 「見える」「見られる」の用法の分類
5
「見える」「見られる」の用法の分類
「見える」
「見られる」の実際の使用について調査・考察するにあたり、まず、
「見える」
「見られる」の意味・用法の分類基準を設定する必要があるだろう。そこで本章では、第
2章~第4章において得られた日本語学的知見をふまえて、「見える」「見られる」の用法
の分類を行う。
山内・清水(2001)は、「見える」「見られる」を自発・能力可能・状況可能・心情可能の
4 つに分類して考察を行っている。本論文では、この山内・清水(2001)による分類をベー
スに、さらに詳しく 9 つの用法に分類した。
まず、能力可能と心情可能に関しては、
「見える」と「見られる」の境界線がはっきりし
ており、「見える」「見られる」の使い分けについて議論の余地はないものと思われる。そ
のため、<基本的に能力可能には「見える」、心情可能には「見られる」を使用する9>と
した山内・清水(2001)の分類をそのまま踏襲し、本論文では能力可能を用法①、心情可能
を用法⑨とした。
次に、自発について考える。
「自発」には様々な意味・用法があることは、第2章で既に
確認したとおりである。そこで、山内・清水(2001)が自発としてまとめているものを、本
論文ではさらに 3 つの用法に分けて考えたい。山内・清水(2001)は「典型的な自発表現」
として次の(39)~(42)のような例をあげている。
(39)ママ、見て。お星さまが見えるよ。(山内・清水(2001:110))
(40)ひざが見えるような短いスカートは禁止です。(山内・清水(2001:110))
(41)君のりんごの方がおいしそうに見える。
(山内・清水(2001:111))
(42)私には、彼が犯人であるように見える。
(山内・清水(2001:111))
下岡(2005)は、自発「見える」には眼前性10があり、それが「見られる」との最大の相
違点であると述べている。しかし、
(39)には眼前性があるが、
(40)には必ずしも眼前性
があるとは言えない。つまり、眼前性の有無という点から見ると、(39)と(40)は異な
る用法であると言えるだろう。また、飯田(1997:50)は、「無意志的に視線を送った時、普
段は目にするものではないもの、特に目立つようなものが偶然視界に入ってきた場合」に
「見える」を使うとしている。そこで、本論文では(39)のように眼前性のある自発表現
を用法②、(40)のように眼前性の有無を問題とせず「特出すべき物11(飯田(1997:49))」
が目に飛び込んでくることを表すものを用法③として区別することにする。また、(43)
のように、それまで視野内になかったものが突然視野内に飛び込んで来るという場合も、
用法③に含める。
(43)信号が変わり、タクシーがスピードをあげた。瞬間、店が見えたが、記憶の場所
から1つずれている。(BCCWJ コア: PB39_00024)
28
次に、
(41)と(42)について考えたい。
(41)は目の前にある「りんご」がどのように
目に映ったのかという「見え方」を問題にしている文であり、
(42)は目の前にいる「彼」
を見て犯人であるように感じられると判断している文である。(41)と(42)は、対象物
を視覚でとらえていることを前提とし、その上で、対象物がどのように目に(あるいは心
に)映るのかということを問題にするという共通点がある。そこで、これらをまとめて用
法④として扱うことにした。また、(44)のように見え方の程度について述べる場合も、
用法④に含める。
(44)銀河系の星がたくさん集まる「天の川」が、鮮明に見える季節でもある。
(BCCWJ
コア: PN2g_00004)
次に、状況可能について考えたい。山内・清水(2001:109)は、
「日本語においては、可能
表現よりも自発表現の方が好まれる」という仮説のもと、状況可能の中で「視野内のもの
が自然に目に飛び込んで来る」という自発の条件を満たすものには「見える」を使用し、
自発の条件を満たさないものには「見られる」を使用するとしている。本論文でもこの考
え方を踏襲し、状況可能の中で山内・清水(2001)の言う自発の条件を満たすものを用法⑤、
自発の条件の「自然に目に飛び込んで来る」という部分を満たさないものを用法⑦、自発
の条件の「視野内のものが」という部分を満たさないものを用法⑧とする。また、文脈に
よって自発の条件を満たすとも満たさないとも解釈しうるものは用法⑥とする。用法⑦は
鑑賞・評価などの精神活動を伴う場合や、
「見る」という動作が実現する可能性について述
べる場合に用いられる。用法⑧は「存在する」という意味で用いられることが多く、また、
いわゆる「ら抜き」は使われにくいことから、受身の性質も併せ持っていると考えられる。
以上、「見える」「見られる」の意味・用法について、先行研究をふまえて考察した。本
章で考察した内容を整理すると、以下のようになる。以後、本論文における調査・分析は、
すべてこの分類にしたがって行う。
用法①
能力可能:「見える」を使用
視覚能力の有無、視力の良し悪しなど、対象物を視覚でとらえる能力を有しているか
どうかを問題にする場合
(45)(視力検査で)この字が見えますか。(山内・清水(2001:107))
用法②
自発 1 典型的な自発:「見える」を使用
眼前性あり/特に可能の意味はない
(46)ほら、あそこに、鹿の赤ちゃんが見えるよ!かわいいね。(作例)
29
用法③
自発 2 特筆すべきもの:「見える」を使用
特筆すべきものが目に飛び込んでくる(目につく)場合/何かが視野内に飛び込んで
くる(出現・発見)場合/眼前性はなくても可
(47)必要なら、蛍光管が直接見える器具を避けて…(略)
(BCCWJ コア: OC12_02182)
用法④
自発 3 見え方を問題にするもの:「見える」を使用
既に視覚でとらえているものが、どのように目に映るのかを問題にする場合/「きれ
いに見える」などの外見、
「はっきり見える」などの程度、
「彼はうそをついているよ
うに見える」などの判断・評価など
(48)今日の彼女は、いつもよりきれいに見える。(山内・清水(2001:111))
(49)星がはっきりと見えるかどうかで、大気汚染のバロメーターになる。
(BCCWJ コ
ア: PN2g_00004)
(50)彼は、あまり行きたくなさそうに見える。(山内・清水(2001:111))
用法⑤
状況可能 1:「見える」を使用
状況可能の中で、自発の条件を満たし自発と解釈しうるもの/可能の意味を含む
(51)コピーの自が薄くて見えない。((27)を再掲)(山内・清水(2001:112))
用法⑥
状況可能 2:「見える」「見られる」どちらも使用可
状況可能の中で、
「自発の条件を満たす」
「自発の条件を満たさない」どちらとも解釈
しうるもの
(52)あの山の山頂に登れば、摩周湖の全景が見える/見られる。
(山内・清水(2001:113))
用法⑦
状況可能 3:「見られる」を使用
状況可能の中で、「自然に目に飛び込んで来る」という自発の条件を満たさないもの
/鑑賞・評価など、精神活動を伴うもの/「見る」という動作が実現する可能性につ
いて述べるもの
(53)18 時の電車に乗れば、私は 19 時からの『忠臣蔵』が見られる。(下岡(2005:5))
用法⑧
状況可能 4:「見られる」を使用
状況可能の中で、「視野内のものが」という自発の条件を満たさないもの/「存在す
る」という意味で用いられることが多い
(54)南の島々では 1 年中色とりどりの花が見られる。(山内・清水(2001:114))
用法⑨
心情可能:「見られる」を使用
心理的側面に着目したもの
30
(55)あいつの顔は、とても見られたもんじゃない。(山内・清水(2001:113))
第2章~第4章で、日本語学における「見える」
「見られる」について観察した。そこで
得られた知見をふまえて、本章では上記のように「見える」「見られる」を 9 つの用法に
分類した12。次章以降では、この①~⑨の用法の分類を基準にして「見える」「見られる」
の実際の使用について調査・分析し、その実態を明らかにしていく。まず、次の第6章で
書き言葉について、第7章で話し言葉について、コーパスを用いて調査・分析する。続く
第8章ではアンケート調査を通じて非母語話者の「見える」
「見られる」
の使用傾向を探り、
第9章では日本語教科書における「見える」
「見られる」の扱いを観察する。そして第10
章で、これらの調査・分析を日本語教育に応用する方法について考える。
31
32
6 書き言葉における「見える」
「見られる」の使用の実態
6
書き言葉における「見える」
「見られる」の使用の実態
第5章の用法の分類を基準に、第6章と第7章では、「見える」「見られる」の実際の使
用についてコーパスを用いて調査し、その実態を明らかにする。調査結果の分析は、
「書き
言葉コーパス」
(第6章)と「話し言葉コーパス」
(第7章)に分けて行ない、
「書き言葉コ
ーパス」
「話し言葉コーパス」それぞれについて、母語話者と非母語話者の言語使用を比較
した。本論文で行うコーパス調査の全体像を示すと、以下の図2のようになる。なお、母
語話者コーパスにおいては、誤用は極めて少ないと考えられるため、コーパスにおける誤
用分析は非母語話者コーパスのみを対象にした。
図2
母語話者
コーパス調査の全体像
現代日本語書き言葉均衡コー
パス(コアデータ)
書き言葉
正用○
誤用―
コーパス
非母語話者
日本語学習者による日本語作
文と、その母語訳との対訳デ
ータベース
オンライン版
正用○
誤用○
正用○
母語話者
名大会話コーパス
誤用―
話し言葉
コーパス
非母語話者
日本語学習者会話データ
ベース
正用○
誤用○
まず本章では、書き言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の使用の実態について
見ていく。母語話者に関しては、国立国語研究所による「現代日本語書き言葉均衡コーパ
ス(BCCWJ)13」のコアデータを使用した。非母語話者に関しては、同じく国立国語研究
所による「日本語学習者による日本語作文と、その母語訳との対訳データベース
イン版(作文対訳
DB)14」を使用し、その中で学習歴が
オンラ
3 年以上のもの(文字化けによ
り判読不能である 2 件を除いた全 327 件)を調査対象とした。作文対訳 DB は、様々な日
本語学習機関に依頼して収集した作文をもとに作られたデータベースであり、学習歴や添
削の有無などのデータは、本人もしくは各学習機関の担当者による自己申告によるもので
ある。そのため、BCCWJ に比べてコーパス自体の信頼性は低いと言わざるを得ない。し
34
かし、現状15では他に信頼性の高い非母語話者書き言葉コーパスは確立されていないため、
母語話者との比較対象として、作文対訳 DB を用いることにした。以下、本論文では便宜
上、
「現代日本語書き言葉均衡コーパス」のコアデータを「BCCWJ コア」、
「日本語学習者
による日本語作文と、その母語訳との対訳データベース
オンライン版」で学習歴が 3 年
以上のデータを「作文対訳 DB」と表記する。
調査を始めるにあたり、まず、BCCWJ コア及び作文対訳 DB 内の「見える」
「見られる」
を使った例をすべて抽出し、
「自発」もしくは「可能」以外の意味で用いられているもの(受
「自発と思われる表現でも、否定
身、敬語、慣用表現等)を目視により排除した16。また、
になったときは、可能と区別しがたいことがよくある(寺村(1982:276))」ため、正用に関
しては肯定の文のみを分析対象とした。ただし、誤用に関しては、否定の文も含むすべて
を分析対象とした。なお、本論文では語彙の面で「見える」
「見られる」が正しく選択され
ているか否かに着目し、語彙選択が正しく行われていれば、前接する助詞や動詞の活用に
誤りがあっても正用として扱った17。
6.1
書き言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の正用
まず、正用について見てみたい。BCCWJ コアでは、「見える」「見られる」合わせて全
部で 353 件の正用が確認され、そのうち「見える」が 256 件(全体の 72.52%)、
「見られ
る」が 97 件(全体の 27.48%)であった。一方、作文対訳 DB では、
「見える」
「見られる」
合わせて全部で 24 件の正用が確認され、そのうち「見える」が 14 件(58.33%)、「見ら
れる」が 10 件(41.67%)であった。母語話者、非母語話者ともに「見える」が「見られ
る」より多く使用されていることがわかる。
用法別の出現数(実数)と出現比率は、以下の表3のとおりである。なお、国立国語研
究所のホームページによると、現代日本語書き言葉均衡コーパスの総語彙数(延べ語数)
は 104,911,464 語、コアデータは 1,098,511 語である。また、作文対訳 DB の抽出済デー
タ(学習歴 3 年以上)からタイトルやデータ入力者による補足説明の部分などを除いて
MeCab0.98(UniDic1.3.12)で形態素解析したところ、総語彙数(延べ語数)は 118,435
語であった。これらの語数をもとに【出現数÷総語彙数(延べ語数)×100 万】で 100 万語
あたりの出現確率を算出し、表3に示した。
出現確率の合計は、母語話者が 321.34、非母語話者が 202.64 であり、非母語話者は母
語話者に比べて「見える」
「見られる」の使用率が低いことがわかる。
「見える」
「見られる」
を語別に見た場合、「見られる」(用法⑦~⑨)の出現確率の小計は、母語話者が 88.30、
非母語話者が 84.43 であり、両者に大きな差はない。一方、「見える」(用法①~⑥)18の
出現確率の小計は、母語話者が 233.04、非母語話者が 118.21 と 2 倍近くも差がある。特
に、用法①と用法③に関しては、母語話者ではそれなりに高い出現確率(用法①で 12.74、
用法③で 23.67)であるにもかかわらず、非母語話者は1件も使用していない。つまり、
これら 2 つの用法は、非母語話者にとって、書き言葉としては習得しにくい用法であると
35
言えるだろう。
表3
用法
書き言葉における「見える」
「見られる」の出現頻度
非母語話者(作文対訳 DB)
母語話者(BCCWJ コア)
出現数
出現比率
出現確率
出現数
出現比率
出現確率
①
14
3.97%
12.74
0
0.00%
0.00
②
60
17.00%
54.62
2
8.33%
16.89
③
26
7.37%
23.67
0
0.00%
0.00
④
144
40.79%
131.09
8
33.33%
67.55
⑤
4
1.13%
3.64
1
4.17%
8.44
⑥
8
2.27%
7.28
3
12.50%
25.33
①~⑥小計
256
72.53%
233.04
14
58.33%
118.21
⑦
12
3.40%
10.92
4
16.67%
33.77
⑧
85
24.08%
77.38
6
25.00%
50.66
⑨
0
0.00%
0
0
0.00%
0.00
⑦~⑨小計
97
27.48%
88.30
10
41.67%
84.43
合計
353
100.00%
321.34
24
100.00%
202.64
また、用法⑤⑥⑦では、母語話者より非母語話者の出現確率の方が高くなっている。特
に、⑥と⑦はその傾向が顕著である。用法⑤⑥⑦は、いずれも状況可能を表す用法である。
非母語話者は書き言葉において、状況可能の「見える」
「見られる」を多用する傾向がある
ようである。なお、表3では用法⑨は母語話者、非母語話者ともに 0 件となっているが、
否定では母語話者で 1 件確認されており、書き言葉において全く使用されていないという
わけではない。しかしながら、使用頻度は極めて低く、かなり特殊な用法であるため、日
本語教育でとりたてて取り扱う必要はないだろう。
次に、用法別の出現比率を見てみたい。母語話者、非母語話者ともに最も出現比率が高
いのは、用法④(母語話者 40.79%、非母語話者 33.33%)、2 番目に高いのは用法⑧(母語
話者 24.08%、非母語話者 25.00%)であった。用法④と用法⑧とで、母語話者は全体の
64.87%、非母語話者は全体の 58.33%を占めている。つまり、
「見える」
「見られる」の使
用の、約 3 分の 2 が用法④もしくは用法⑧なのである。書き言葉に関しては、これら 2 つ
の用法に重点をおいた指導が望ましいと言えるだろう。
「見られる」を使用するもの(用法⑦~⑨)の中で最も出現比率が高いのは用法⑧であ
るが、これは書き言葉に限った現象のようである。話し言葉コーパスにおいては、用法⑧
より用法⑦の出現比率のほうが高くなっているのである。書き言葉と話し言葉の使用傾向
の違いについては、第7章で詳しく述べる。
36
6.2
書き言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の誤用
次に、書き言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の誤用について見てみたい。母
語話者コーパスには誤用は存在しない(もしくは極めて少ない)と考えられるため、書き
言葉コーパスの誤用に関しては、非母語話者コーパスである作文対訳 DB をその調査対象
とした。
作文対訳 DB では「見える」
「見られる」を使った誤用が 15 件確認できた。以下の表4
は、作文対訳 DB における誤用パターンを示したものである。なお、表4の「その他」と
は、正用が「見える」でも「見られる」でもないもの(例えば「見る」「見つかる」など)
を指している19。
表4 作文対訳 DB における誤用パターン
誤用
見える
見られる
正用
件数
比率
見られる
9
その他
5
見える
1
その他
0
93.33%
6.67%
正用が「見られる」で実際には「見える」が使用されているものが 9 件、正用が「その
他」で実際には「見える」が使用されているものが 5 件あった。両者を合わせると、「見
える」を使った誤用は 14 件確認された。一方、
「見られる」を使った誤用は、正用が「見
える」のもの 1 件のみであった。正用では「見える」が全体の 58.33%であるのに対し、
誤用では「見える」が全体の 93.33%を占めているのである。本来「見える」を使うべき
ではないところに「見える」を使う誤用が多いということがわかる。誤用パターンをさら
に詳しく見てみたい。
(56)~(70)は作文対訳 DB における「見える」
「見られる」を使
った誤用である。
(56)*私は多様な結婚式が見えて、本当によかったと思う。(作文対訳 DB:data258)
(57)*また日本に行ったら、日本という名の恋人の笑顔が見えることを期待している。
(作文対訳 DB:data260)
(58)*ワープロソフトを使うことで、本や交通標識などに見える漢字再認することが少
しずつできる。(作文対訳 DB:data078)
(59)*それはたぶんスリランカで来年に見えることができると思います。(作文対訳
DB:data225)
(60)*どこでもそのような言葉が見えます。(作文対訳 DB:data233)
(61)*タバコを広告した看板が、最近、よく見えるようになった。(作文対訳 DB:
data242)
37
(62)*だから、最近、アメリカでたばこに対しての損害賠償があちこちよく見えると思
う。(作文対訳 DB:data248)
(63)*このごろでは電車やバスやタクシーなどの中でたばこを吸う人は見えないです
が、むしろ運転手が…(略)(作文対訳 DB:data194)
(64)*大勢の従業員が舗装道路に起立で昼ご飯を食べます。ここはその状況が見えませ
ん。(作文対訳 DB:data268)
(65)*ところが、新しい世代なので今その行事が重要に見えない人もいます。(作文対
訳 DB:data296)
(66)*漢字を手で書くことができるというのも日本語学習の分野と見えるから、勉強の
た め に ワ ー プ ロ ソ フ ト を 使 う の に 漢 字 を 手 で 練 習 し 続 け ま す 。( 作 文 対 訳
DB:data009)
(67)*その間にほかの十年ぶりに会いません友達を見えました。(作文対訳 DB:
data053)
(68)*IMEの場合には、異なる書き方(例えば、「聞く」と「聴く」の違い等)の説
明もあると見える。(作文対訳 DB:data004)
(69)*コンピューターの技術もだんだん進歩した。これは色々な専門に使えられるコン
ピューターをそうぞうされることが見えた。(作文対訳 DB:data108)
(70)*広告の特性のために、たばこの長点だけが見られる。(作文対訳 DB:data177)
正用が「見られる」で実際には「見える」が使用されたもの 9 件((56)~(64))のう
ち、用法⑦の意味で使用されていると思われるものが(56)(57)の 2 件、用法⑧の意味
で使用されていると思われるものが(58)~(64)の 7 件あった。また、正用が「その他」
で実際には「見える」が使用されたもの 5 件((65)~(69))のうち、(65)(66)は正
用が「思う、考える」、
(67)は正用が「会う」または「見る」、
(68)は正用が「~ようで
ある」だと思われる。
(69)の正用は不明である。
(70)に関しては、前後の文脈から「CM
ではたばこのいいところしか見えない」という意味であると推測されるため、正用は「見
える」であると判断した。6.1で正用では用法⑧が最も多く使用されていることを確認
したが、誤用に関しても、用法⑧を表現しようとしたものが多いということがわかる。こ
のことから、書き言葉においては用法⑧が正しく使えるようになることが重要であり、日
本語教育において書き言葉における「見える」
「見られる」を扱う際にも、用法⑧に重点を
置いた指導が必要であるということがわかる。
38
7 話し言葉における「見える」
「見られる」の使用の実態
7
話し言葉における「見える」
「見られる」の使用の実態
本章では、話し言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の使用の実態について見て
いく。母語話者コーパスとしては名大会話コーパス(以下、
「名大会話 C」と表記)20、非
母語話者コーパスとしては国立国語研究所の日本語学習者会話データベース(以下、
「学習
者会話 DB」と表記)21を使用した。書き言葉コーパス同様、それぞれのコーパスから「見
える」「見られる」を使った例をすべて抽出し、「自発」もしくは「可能」以外の意味で用
いられているものを目視により排除した22。また、語彙選択が正しく行われていれば、前
接する助詞や動詞の活用に誤りがあっても正用として扱い、正用、誤用ともに否定を除い
た肯定の文のみを分析対象とした。
7.1
話し言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の正用
名大会話 C では「見える」「見られる」合わせて全部で 182 件の正用が確認され、その
うち「見える」が 149 件(全体の 81.87%)、「見られる」が 33 件(全体の 18.13%)であ
った。一方、学習者会話 DB では、
「見える」
「見られる」合わせて全部で 118 件の正用が
確認され、そのうち「見える」が 98 件(全体の 83.05%)、
「見られる」が 20 件(全体の
16.95%)であった23。6.1で見た書き言葉コーパス同様、母語話者、非母語話者ともに
「見える」が「見られる」より多く使用されている。
「見える」
「見られる」全体の中で「見
える」が占める割合は、書き言葉コーパスより話し言葉コーパスの方がより高くなってい
る。
表5
用法
話し言葉における「見える」
「見られる」の出現頻度
母語話者(名大会話 C)
出現数
出現比率
①
10
5.49%
②
29
③
出現確率
非母語話者(学習者会話 DB)
出現数
出現比率
6.65
0
0.00%
0.00
15.93%
19.28
22
18.64%
22.90
20
10.99%
13.30
13
11.02%
13.53
④
78
42.86%
51.86
46
38.98%
47.88
⑤
7
3.85%
4.65
4
3.39%
4.16
⑥
5
2.75%
3.32
14
11.86%
14.57
①~⑥小計
149
81.87%
99.06
99
83.89%
103.04
⑦
32
17.58%
21.28
14
11.86%
14.57
⑧
1
0.55%
0.66
5
4.24%
5.20
⑨
0
0.00%
0.00
0
0.00%
0.00
⑦~⑨小計
33
18.13%
21.94
19
16.10%
19.77
合計
182
100.00%
121.01
118
100.00%
122.83
40
出現確率
用法別の出現数(実数)と出現比率は、表5のとおりである。なお、名大会話 C の<笑い
>や、学習者会話 DB の{笑}と文字化する際に書き足した部分(例:〈ちぼう[厨房]〉
の[厨房]の部分)などを削除して、作文対訳 DB と同様に MeCab0.98(UniDic1.3.12)
で形態素解析したところ、総語彙数(延べ語数)は名大会話 C が 1,503,983 語、学習者会
話 DB が 960,652 語であった。これらの語数をもとに 100 万語あたりの出現確率を算出し、
表5に示した。
用法別に見ると、母語話者、非母語話者ともに最も出現比率が高いのは、用法④(母語
話者 42.86%、非母語話者 38.98%)である。これは書き言葉についての調査結果とも一致
する。実際の言語使用においては、書き言葉でも話し言葉でも、
「既に視覚でとらえている
ものの、見え方について述べる」場合に「見える」を使用することが多いということがわ
かる。コーパスにおける用法④の例としては、以下の(71)~(74)のようなものがある。
(71)今場所からコンタクトレンズを着けており、相手の動きもよく見えるという。
(BCCWJ コア: PN1e_00004)
(72)だからわにがいつも泣いているように見えます。(作文対訳 DB:data124)
(73)黒って引き締まって見えるよね。(名大会話 C:data077)
(74)1番上の子供が私と同じ、年です、でも、すっごく若く見えます。(学習者会話
DB:data0081)
「見られる」を使用するもの(用法⑦~⑨)に限定すると、話し言葉では、母語話者・
非母語話者ともに用法⑦の出現比率が最も高い(母語話者で約 97%、非母語話者で約 74%)。
一方、6.1で確認したとおり、書き言葉では、
「見られる」を使用するものの中で最も出
現比率が高いのは用法⑧(母語話者約 88%、非母語話者約 60%)である。用法別に見た場
合、話し言葉と書き言葉とでは、
「見られる」の使われ方が大きく異なっていることがわか
る。同じ「見える」
「見られる」という項目でも、話し言葉を教える場合と書き言葉を教え
る場合とでは、異なった指導が必要だと言えるだろう24。
次に、用法⑥について見てみたい。書き言葉では、用法⑤⑥⑦の 3 つの用法で母語話者
より非母語話者の方が出現確率が高くなっていたが、話し言葉において非母語話者の出現
確率が母語話者の出現確率を大きく上回っているものは、用法⑥のみである。用法⑥の 100
万語あたりの出現確率は、書き言葉コーパスで母語話者が 7.28、非母語話者が 25.33(表
3参照)、話し言葉コーパスで母語話者が 3.32、非母語話者が 14.57(表5参照)であり、
書き言葉においても話し言葉においても、非母語話者には用法⑥に過剰使用の傾向が見ら
れる。コーパスにおける用法⑥の例としては、以下の(75)~(78)のようなものがある。
(75)三輪山の横顔、その向こうには龍王山、天候に恵まれると若草山までも見えると
いう。(BCCWJ コア: PM41_00093)
41
(76)家から花火を見えますから、とてもうれしいです。
(作文対訳 DB:data254)
(77)もっとすごくきれいな景色が見えるよ。
(名大会話 C:data013)
(78)海の近くに、だからあー、毎日、あのゆうび[夕日]、と、あの朝日、が、見えま
す。(学習者会話 DB:data0304)
用法⑥は「見える」「見られる」どちらも使用可能であるが、話し言葉コーパで見ると、
母語話者で 5 件すべて(100%)、非母語話者でも 14 件中 13 件(92.86%)が「見える」
を使用している(書き言葉コーパスでは、母語話者(8 件)非母語話者(3 件)ともにす
べて「見える」が使用されている)
。山内・清水(2001:110)は、状況可能で「見える」を使
用するもの(本論文の分類では用法⑤)を、「「見える」が「見られる」を浸食してしまっ
た領域」と表現しているが、用法⑥に関しても「見える」による「見られる」の浸食が進
んでいるようである25。
また、表5において、用法①は母語話者の出現確率が 6.65 あるにもかかわらず、非母語
話者では 1 度も出現していない。母語話者の出現確率が 6.65 より低い用法⑤(4.65)、用法
⑥(3.32)、用法⑧(0.66)において、非母語話者の出現確率がそれぞれ 4.16、14.57、5.20 あ
ることを考えると、用法①は非母語話者にとって習得が困難な用法であると言えるのでは
ないだろうか。表3で確認したとおり、書き言葉においても非母語話者は用法①を使用し
ていない。書き言葉においても話し言葉においても使用されていないということは、用法
①は非母語話者にとって習得が難しく、少なくとも使用語彙にはなっていないと考えられ
る。なお、用法⑨は、表5では母語話者・非母語話者ともに 0 件となっているが、否定の
形ではそれぞれ 2 件ずつ出現している。用法⑨が実際の会話の場面で全く使用されていな
いというわけではないことを、指摘しておきたい。
7.2
OPI26のレベル別に見る「見える」「見られる」の使用の実態
学習者会話 DB は OPI のインタビューを文字化したコーパスであり、OPI 被験者(非母
語話者)の日本語レベルが初級、中級、上級、超級の 4 段階で示されている27。そこで本
節では、OPI のレベル別に、「見える」「見られる」の使用の実態を見ていく。まず、「見
える」と「見られる」の使用比率の異なりについて見てみたい。学習者会話 DB の範囲内
においては、OPI で初級と判定された非母語話者には「見える」「見られる」の正用は見
られなかった(誤用は数件あり)。そのため、中級・上級・超級の 3 レベルについて比較
を行い28、表6にまとめた。どのレベルにおいても「見える」の方が「見られる」よりも
多く使用されているが、その比率はレベルによって異なっている。なお、表6の「出現確
率」は、表3・表5同様、100 万語あたりの出現確率のことを指す。
「見える」と「見られる」を合算した 100 万語あたりの出現確率を見ると、上級(137.84)
と超級(134.52)に比べて中級(128.24)がやや低くなっているが、大きくは変わらない。
超級はデータが少ないため、上級と中級の 2 つについて、語別に出現確率を比較してみる
42
と、
「見える」に関しては、中級(116.21)より上級(104.09)の方がやや下がるものの、
大きな差はない。一方で「見られる」に関しては、中級の出現確率(12.02)は上級(33.76)
の 3 分の 1 近くにとどまっている。中級においては「見られる」の非用傾向が顕著である
と言える。
表6
OPI のレベル別「見える」「見られる」の使用状況
中級
上級
超級
出現数
出現確率
出現数
出現確率
出現数
出現確率
見える
58
116.21
37
104.09
3
80.71
見られる
6
12.02
12
33.76
2
53.81
計
64
128.24
49
137.84
5
134.52
次に、使用比率について見てみたい。中級で「見られる」が使用されているものは用法
⑥のうち 1 件と用法⑦の 5 件、合わせて 6 件(9.36%)のみである。一方、上級では「見
られる」を使った表現は 12 件(24.49%)、超級では
「見られる」を使った表現は 2 件(40.00%)
であった。超級のデータは絶対数が少ないため、超級については参考値にとどまるものの、
図3のように、レベルが上がるにつれて「見られる」を使う比率も上がっていることがわ
かった。
図3
OPI のレベル別「見える」「見られる」の使用比率
100%
80%
60%
見える
40%
見られる
20%
0%
中級
上級
超級
OPI のレベル別に、
「見える」
「見られる」の用法別使用状況をまとめたものが、以下の
表7である。
43
表7
OPI のレベル別にみた用法分布
中級
上級
超級
出現数
出現確率
出現数
出現確率
出現数
出現確率
①
0
0.00
0
0.00
0
0.00
②
13
26.05
6
16.88
3
80.71
③
9
18.03
4
11.25
0
0.00
④
24
48.09
22
61.89
0
0.00
⑤
0
0.00
4
11.25
0
0.00
⑥
13
26.05
1
2.81
0
0.00
⑦
5
10.02
7
19.69
2
53.81
⑧
0
0.00
5
14.07
0
0.00
⑨
0
0.00
0
0.00
0
0.00
計
64
128.24
49
137.84
5
134.52
表7に示した非母語話者の用法別分布について、表5で見た母語話者の用法別分布と
Pearson の積率相関係数で検討してみたところ、母語話者-中級間で 0.822、母語話者-
上級間で 0.940 であった。中級より上級の方が母語話者の使用バランスに近づいているこ
とがわかる29。
用法⑥は、全 14 件のうち 13 件が中級レベルに集中している。用法⑥の出現確率は中級
レベルで 26.05、上級レベルで 2.81 であり、上級レベルでは母語話者の出現確率(3.32)
に近い数値となっている。つまり、表5(及び表3)で確認した用法⑥の過剰使用は、中
級レベルに限定した特徴であると言える。用法⑥の過剰使用が抑えられることが、母語話
者の言語使用に近づく要因の 1 つであると言えるのではないだろうか30。
7.3
話し言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の誤用
次に、話し言葉コーパスにおける「見える」
「見られる」の誤用について見てみたい。書
き言葉コーパスと同様に、母語話者コーパスには誤用は存在しない(もしくは極めて少な
い)と考えられるため、非母語話者コーパスである学習者会話 DB のみを調査対象とした。
「見られる」よりも「見える」の使用頻度が高いという傾向は、誤用パターンにも影響
を与えている。学習者会話 DB では、否定を除く「見える」
「見られる」の誤用が 16 件見
られた。以下の表8は、学習者の誤用パターンを示したものである。なお、表4同様、
「そ
の他」とは、正用が「見える」でも「見られる」でもないもの(例えば「見る」
「見かける」
など)を指している。
正用が「見られる」で実際には「見える」が使用されているものが 10 件、正用が「見
える」で実際には「見られる」が使用されているものが 1 件あった。正用が「その他」の
44
ものを含めると、「見える」を使った誤用が 12 件、「見られる」を使った誤用が 4 件であ
る。誤用に関しても「見える」の方が「見られる」よりも多く使用されていることがわか
る。また、初級・中級レベルでは「見られる」を使った誤用が 1 例もないことからも、下
位レベルでの「見える」の過剰使用の傾向及び「見られる」の非用傾向がうかがえる。
表8 学習者会話 DB における誤用パターン
レベル別内訳
誤用
正用
件数
初級
見える
見られる
中級
上級
超級
見られる
10
1
5
4
0
その他
231
0
1
1
0
見える
1
0
0
1
0
その他
3
0
0
2
1
表8にあげた誤用数を表6の正用数と突き合わせ、[誤用÷(正用+誤用)]で誤用率を
算出すると、表9のようになる。
表9
OPI のレベル別誤用率
中級
正用
誤用
見える
58
6
見られる
6
0
上級
誤用率
正用
誤用
9.38%
37
5
0.00%
12
3
超級
誤用率
正用
誤用
誤用率
11.90%
2
0
0.00%
20.00%
3
1
25.00%
「見える」の誤用率については、上級でやや上昇しており、上級でも十分に「見える」
が習得されていないことがわかる。超級になると「見える」の誤用率は 0.00%になるが、
これはデータが少ないため、本当に習得されたと判断するのは早計であろう。
一方で、
「見られる」については、一見すると上級と超級で飛躍的に誤用が増えるように
思われる。しかし、表6でも述べたとおり、中級では「見られる」の出現比率が上級の 3
分の 1 近くと非用傾向が顕著であるため、中級の誤用率 0.00%は非用の結果であると見る
のが妥当であると思われる。もちろん、上級と超級の誤用率も無視できないものである。
日本語能力が上級レベルの非母語話者でも、
「見える」と「見られる」の使い分けに関する
誤用は多いということを裏付けるデータであると言えるだろう。
誤用パターンをさらに詳しく見てみたい。(79)~(94)は作文対訳 DB における「見
える」「見られる」を使った誤用である。
(79)*例えば韓国はその刺身、寿司みせ、あー刺身店に行ったら、生きている魚が見え
45
るんですよ、水族館、なんかね、でも…(略)
(学習者会話 DB:data0051)
(80)*いろんなプログラムがたくさん見えました。韓国では、あ、そんなにおそく、遅
く時間に、しません。(学習者会話 DB:data0096)
(81)*日本で生活して日本人は、全体的に、見えるから…(略)(学習者会話 DB:data
0198)
(82)*悪い人をおこったの顔が、まるで、みえますよね、テレビで…(略)(学習者会
話 DB:data0205)
(83)*日本の場合はおもしろい、あの、2 か月に、話は全部みえますから…(略)(学
習者会話 DB:data0247)
(84)*日本人のファッションは、あーたぶん、台湾のテレビ、だけ、見えます(学習者
会話 DB:data0271)
(85)*京都は、んーちょっと伝統的なことを、見えました。例えば…(略)(学習者会
話 DB:data0304)
(86)*あるビルを作って、その中で魚もかいしあー見えるし、あとわからないの人を案
内ちょうみたいの人も…(略)(学習者会話 DB:data0321)
(87)*(多摩市は落ち着いた感じの町だ、という文脈で)たまに畑も見えますし…(略)
(学習者会話 DB:data0127)
(88)*町を歩いた時、なんかけっこう見えますね、日本人の人。
(学習者会話 DB:data0341)
(89)*(「鏡」という言葉が出てこなくて、説明している)化粧するとき、見える…
(学習者会話 DB:data0067)
(90)*村上さんの小説は、しんみり的な話、見えていますから…(略)
(学習者会話 DB:data0298)
(91)*エコに対して質問したんですけど、ちょっとずるめに見れちゃったんですね。
(学習者会話 DB:data0092)
(92)*北朝鮮関係のニュースを見ると…見れるとしたら、見ることができると思うんで
すよ。(学習者会話 DB:data0076)
(93)*日本の、救急車よく見られます。(学習者会話 DB:data0322)
(94)*日本に来て、なんか、救急車よく見られるから…(学習者会話 DB:data0322)
正用が「見られる」で実際には「見える」が使用されたもの 10 件((79)~(88))の
うち、用法⑦の意味で使用されていると思われるものが(79)から(86)の 8 件、用法⑧
の意味で使用されていると思われるものが(87)(88)の 2 件である。話し言葉では、用
法⑦に「見える」を使う誤用が多いようである。また、正用が「その他」で実際には「見
える」が使用されたものは(89)と(90)の 2 件で、(89)は正用が「見る」、(90)は正
用が不明である。一方、正用が「見える」で実際には「見られる」が使用されたと思われ
46
るものは(91)1 件である。
(91)は、前後の文脈から、
「質問に対する市長の応答が、ち
ょっとずるく感じられた」という意味であると思われるため、用法④の意味で使用されて
いると判断した。正用が「その他」で実際には「見られる」が使用されたものは(92)~
(94)の 3 件で、(92)の正用は「見ようとしたら」という意向形、(93)と(94)の正
用は「見る」もしくは「見かける」であると思われる。
作文対訳 DB も学習者会話 DB も、
「見られる」を使うべき場面で「見える」を使用する
誤用が多いという点では共通している。しかしながら、誤用内容を詳しく分析すると、作
文対訳 DB では用法⑧に「見える」を使う誤用が多く、学習者会話 DB では用法⑦に「見
える」を使う誤用が多いことがわかった。書き言葉と話し言葉とでは、誤用パターンが異
なるということである。誤用パターンが異なるということは、言い換えれば、必要となる
文法知識は同じではないということである。「見える」「見られる」の指導に際して、書き
言葉を教える場合と話し言葉を教える場合とでは、焦点を当てるべき項目を変える必要が
あると言える。とはいえ、書き言葉と話し言葉とを完全に切り離して別々に扱うというの
は、教師側にも学習者側にも負担が大きく、現実的ではない。書き言葉教育と話し言葉教
育との関係について検討する必要があるだろう。このことも、日本語教育の課題の 1 つで
あると言えるのではないだろうか。
47
48
8
「見える」「見られる」の使い分けに関するアンケート調査
8
「見える」「見られる」の使い分けに関するアンケート調査
非母語話者が「見える」
「見られる」の使い分けをどのように理解しているのかを探るた
めに、日本語上級話者を対象に、「見える」「見られる」の使い分けに関するアンケート調
査を行った。奈良教育大学に在籍32する非母語話者の中で、日本語能力試験 2 級(N2)以
上を取得した者(及び同等の日本語能力を有する者)を日本語上級話者と仮定し、調査対
象とした。また、比較対象として母語話者にも同じ内容のアンケート調査を行い、非母語
話者 26 名33、母語話者 22 名から回答を得た。
(質問例)なんばに行けば、いろいろな映画が(
1.見える
)。
2.見られる
3.わからない
アンケートの質問は全て単文の穴埋め形式で、それぞれの文において適切だと思う語を
選ぶ選択問題とした。
「見える」
「見られる」どちらも使用可能であると判断した場合には、
1と2の両方を選択するよう指示した。また、
「わからない」という選択肢を設定すること
で、山勘による回答を避けた。実際の調査では全部で 41 の質問を設けたが、集計の結果
母語話者の正答率が高かったものを各用法 2 例ずつ抽出し、分析対象とした34。
8.1
全体の正答率
第5章の用法の分類をもとに作成した模範解答を「正答」とし、以下の二通りの方法で
正答率を算出した。
正答率 A =
正答選択肢を選択したすべての人数
÷
正答率 B =
正答選択肢のみを選択した人数
全被験者数
÷
全被験者数
正答率 A は、例えば正答が1の場合、1のみを選択した者も、1と2の両方を選択した
者も、どちらも「正答者」としてカウントし、計算した。被験者が「正答」を適切な使い
方であると認識しているか否かを測る目安となる。一方、正答率 B は、例えば正答が1の
場合、1 と 2 の両方を選択した者(=誤答である 2 も選択した者)は「正答者」としてカ
「見える」
ウントせず、1 のみを選択した者だけを「正答者」としてカウントし、計算した。
「見られる」の使い分けの習得度を測る目安となる。全体の正答率は、以下の表10のと
おりである。
表10
アンケート全体の正答率
正答率 A
正答率 B
母語話者
非母語話者
母語話者
非母語話者
97.17%
66.03%
82.28%
61.97%
50
日本語上級話者を対象に行った調査であるにもかかわらず、非母語話者の正答率は高く
ない。「見える」「見られる」の使い分けを習得することの難しさを端的に示していると言
えるだろう。ここではまず、正答率 A に注目したい。母語話者の正答率 A は 97.17%と高
く、大多数の母語話者が「正答」は適切な使い方であると認識していると言える。一方、
非母語話者の正答率 A は 66.03%であり、残り 33.97%の非母語話者は、複数回答が可能で
あるにもかかわらず、あえて「正答」を選択していないのである。つまり、33.97%の非母
語話者が、「
「正答」は適切な使い方ではない」と認識していると言える。一方、正答率 B
は、母語話者でも 82.28%と決して高いとは言えない結果が出た。誤答に対する許容範囲
には、母語話者の中でも個人差があるということがわかる。また、正答率 A と正答率 B の
差を見てみると、母語話者が 14.89 ポイント、非母語話者が 4.06 ポイントである。非母語
話者の方が正答率 A と正答率 B の差が小さいことがわかる。非母語話者は日本語に対する
母語直観がなく、
「正答」が適切であるかどうか判断できない場合が多い一方で、習得した
項目に関しては、
「見える」と「見られる」の違いを規則どおり正確に理解していると考え
られるのではないだろうか。
次に、「正答」が「見える」のものと「正答」が「見られる」のものとを比較してみる。
「見える」
「見られる」どちらも使用可能である用法⑥を除いた 8 つの用法を、
「正答」が
「見える」のもの(用法①~⑤)と「正答」が「見られる」のもの(用法⑦~⑨)に二分
し、それぞれの正答率を求めた。
表11
「正答」
「正答」別の正答率
正答率A
正答率B
母語話者
非母語話者
母語話者
非母語話者
「見える」
99.55%
72.31%
80.45%
67.31%
「見られる」
98.48%
68.59%
85.61%
64.74%
非母語話者に関して、正答率 A、B ともに「見える」の正答率の方が若干高くなってい
るものの、それほど大きな差は見られない。「見える」「見られる」のどちらか一方の理解
度に問題があるというわけではなさそうである。
8.2
用法別正答率
表12は、用法別の正答率をまとめたものである。用法⑥は「見える」
「見られる」両方
を選択した人のみを「正答者」として扱っているため、他の用法と比べ正答率が極端に低
くなっている。用法⑥に関しては、8.4で詳しく見ることとし、ここではそれ以外の用
法について分析する。
51
表12
用法
用法別の正答率
正答率 A
正答率 B
母語話者
非母語話者
母語話者
非母語話者
①
100.00%
69.23%
84.09%
63.46%
②
100.00%
82.69%
88.64%
75.00%
③
100.00%
59.62%
90.91%
55.77%
④
100.00%
65.38%
97.73%
65.38%
⑤
97.73%
84.62%
40.91%
76.92%
⑥
81.39%
26.92%
81.39%
26.92%
⑦
100.00%
84.62%
93.18%
82.69%
⑧
100.00%
65.38%
84.09%
57.69%
⑨
95.45%
55.77%
79.55%
53.85%
平均値
97.17%
66.03%
82.28%
61.97%
母語話者においては、用法⑥を除いた 8 つの用法の正答率 A は全て 95%以上であり、用
法によって目立った差は見られない。一方、非母語話者においては、用法によって正答率
A にばらつきが見られる。用法⑥を除いた 8 の用法の中で、非母語話者の正答率 A が 60%
を下回っているのは、用法③(59.62%)と用法⑨(55.77%)の 2 つである。用法⑨は、
「対
象物を視覚でとらえることができる」という本来の意味から少し離れた、派生的な用法で
あり、そのことが正答率の低さに影響しているものと思われる。アンケート調査終了後に
被験者から「用法⑨はどう判断したらいいのかわからなかった」
「用法⑨は習った記憶がな
い」という意見も出た。用法⑨は、母語話者並みに日本語を理解する、超級レベルの非母
語話者でなければ、理解が難しい用法だと言えるだろう。母語話者においても用法⑨の正
答率は若干低くなっており、また、コーパスにおける出現率も極めて低かったことなどを
考えると、日本語教育において用法⑨をとりたてて扱う必要性は低いと言えるだろう。
一方、用法③に関しては、母語話者の正答率 A は 100%である。母語話者と非母語話者
とでは、用法③の理解度に大きな差があるようである。第6章及び第7章のコーパス調査
でも確認したとおり、母語話者が書き言葉、話し言葉ともに一定頻度で用法③を使用して
いるにもかかわらず、非母語話者は書き言葉では用法③を1件も使用していない。つまり、
用法③は、非母語話者にとって習得が困難な自発表現であると言える。日本語教育におい
て自発の「見える」を扱う際には、用法③の使い方にも慣れさせる工夫が必要だと思われ
る。
8.3
状況可能の「見える」「見られる」
「見る」(及び「聞く」)以外の動詞の場合、可能形を用いて能力可能・状況可能・心情
可能のすべてを表現することができる。しかし動詞「見る」の場合、文脈によって「見え
52
る」「見られる」を使い分けなければならない。中でも状況可能は、「見える」を使用する
もの(用法⑤)、
「見られる」を使用するもの(用法⑦⑧)
、どちらも使用可能なもの(用法
⑥)と 3 パターンあり、複雑である。そのため、アンケート調査を行う前は、
「見える」
「見
られる」の混同は、状況可能の使い分けの困難さに起因するのではないかと考えていた。
特に用法⑤は、状況可能であるにもかかわらず、可能形の「見られる」ではなく「見える」
を使用するという例外的なものであるため、非母語話者にとっては習得が難しく、アンケ
ートでの正答率も低くなるであろうと予想していた。ところが、実際には、状況可能の正
答率が他の用法の正答率と比較して特別低いということはなく、それどころか、用法⑤と
用法⑦に関しては、他の用法よりむしろ正答率が高いという結果になった。日本語上級レ
ベルの非母語話者にとって、状況可能の「見える」
「見られる」を使い分けることは、それ
ほど困難なことではないようである。
しかしながら、用法⑤の正答率には特筆すべき点がある。用法⑤の正答率 B は、母語話
者が 40.91%、非母語話者が 76.92%で、非母語話者の正答率が母語話者の正答率を大幅に
上回っているのである。母語話者と非母語話者の正答率が逆転しているこのような現象は、
9 つの用法の中で用法⑤だけである。日本語に対する母語直観があるはずの母語話者の正
答率 B が低いということは、用法⑤は「見える」「見られる」どちらの性質も持ち合わせ
ており、判断の難しい用法であると言える。これは、調査前の予想通りである。それにも
かかわらず、非母語話者の正答率が他の用法と変わらないのは何故だろうか。その要因の
一つとして、日本語教育における「見える」
「見られる」の扱われ方が挙げられるのではな
いだろうか。非母語話者には日本語に対する母語直観がないため、学習した知識や文法規
則が実際の言語使用に大きく影響する。日本語教育現場で使用されている主な初級教材を
調べると、状況可能の例としては圧倒的に「見える」を使用するものが多く採用されてい
るのである。日本語教材における「見える」
「見られる」の扱われ方については、第9章で
詳しく分析する。
8.4
「見える」「見られる」どちらも使用可能なもの(用法⑥)
本論文におけるアンケート調査では、各用法 2 例ずつを分析対象としている。非母語話
者の被験者は 26 名なので、各用法延べ 52 の回答を得たことになる(母語話者は延べ 44)。
用法⑥について、
「見える」及び「見られる」が選択された総数を延べ回答数で割り、それ
ぞれの選択率を計算し、表13にまとめた。
表13
用法⑥における「見える」
「見られる」選択率
母語話者
非母語話者
「見える」選択率
93.18%
80.77%
「見られる」選択率
84.09%
46.15%
53
母語話者、非母語話者ともに「見える」を選択している割合が高い。この結果は、
「日本
語においては、可能表現よりも自発表現の方が好まれる」という山内・清水(2001:109)の
仮説とも合致している。7.1で、山内・清水(2001)の言う「「見える」が「見られる」を
浸食してしまった領域」が用法⑥にまで広がっていると指摘したが、アンケート調査の結
果もそれを裏付けている。また、非母語話者の「見られる」の選択率は、50%を下回って
いる。半数以上の非母語話者が、用法⑥に関して「見られる」を使うのは誤用であると認
識していると言える。この結果もまた、日本語教材における「見える」
「見られる」の扱わ
れ方が影響したものであると考えらえるのではないだろうか。
54
9 日本語教科書における「見える」「見られる」の扱われ方
9
日本語教科書における「見える」「見られる」の扱われ方
当然のことであるが、非母語話者には日本語に対する母語直観はない。非母語話者は、
母語話者の発話やテレビなどのメディア、書籍、インターネットなどを通して、日本語を
習得していく。中でも、日本語を「学習」している非母語話者にとって、日本語教科書が
言語使用に与える影響は少なくないだろう。そこで本章では、日本語教育の現場で実際に
使用されている教科書において「見える」
「見られる」がどのように提示されているのかを
調査し、その傾向や問題点を明らかにしたい。調査対象は「書く」「読む」「話す」「聞く」
の 4 技能すべてを扱う総合教科書に限定し、森・庵(2011)の巻末にある「使用教科書一覧」
から初級 5 冊、中上級 5 冊の計 10 冊を選び、使用した。調査した日本語教科書は以下の
とおりである。
【初級日本語教科書】
『みんなの日本語初級Ⅱ本冊(第 2 版)』(2013)スリーエーネットワーク
『初級日本語げんきⅡ(第 2 版)』(2011) The Japan Times
『文化初級日本語ⅠⅡ(テキスト改訂版)』(2013)凡人社
『日本語初級大地②』(2009)スリーエーネットワーク
『初級日本語下』(2010)凡人社
【中上級日本語教科書】
『テーマ別中級から学ぶ日本語(改訂版)』(2003)研究社
『テーマ別上級で学ぶ日本語(改訂版)』(2008)研究社
『中級日本語』(1994)凡人社
『上級日本語』(1994)凡人社
『生きた素材で学ぶ新中級から上級への日本語』(2012)The Japan Times
9.1
日本語教科書における「見える」「見られる」の出現頻度
日本語教育では、
「見える」も「見られる」
(文法項目としては「可能形」)も、どちらも
初級の文法項目として扱われている。そこでまず、初級の教科書で「見える」「見られる」
が初めて導入される課と、その課における「見える」
「見られる」の例文数を調べ、以下の
表14にまとめた。
「見える」を 1 つの文法項目として扱っているものと、新出語彙の 1 つとして扱ってい
るものとがある。「見える」を文法項目として扱っている『みんなの日本語初級Ⅱ』『初級
「見える」
「見られる」が同じ課もしくは前後の課で扱われており、
日本語下』の 2 冊では、
可能形が導入される同時期に「見える」も導入されていることがわかる。一方、「見える」
を新出語彙として扱っている 3 冊のうち、『文化初級日本語Ⅱ』『日本語初級大地②』の 2
冊に関しては、可能形と「見える」は全く違う時期に導入されている。
56
表14
初級教科書における導入課と例文数
「見える」
教科書
「見られる」
導入課
例文数
導入課
例文数
みんなの日本語初級Ⅱ
27 課
10
27 課
1
初級日本語げんきⅡ
15 課※1
2
13 課
0※2
文化初級日本語Ⅱ
31 課※3
1
17 課※4
0
日本語初級大地②
19 課
1
24 課
1
8
16 課
0
※5
17 課
初級日本語下
※1・3・5「見える」は語彙扱い
※2
可能形の活用表では「見られる」が使用されている
※4
17 課は『文化初級日本語Ⅰ』
「見られる」を使った例文は、
『みんなの日本語初級Ⅱ』と『日本語初級大地②』にそれ
ぞれ 1 件ずつ提示されているのみである。一方、
「見える」を使った例文は、5 つの教科書
で合計 22 件使用されている。「見える」を使った例文数が特に多いのは、『みんなの日本
語初級Ⅱ』と『初級日本語下』の 2 冊である。どちらも「見える」と「見られる」(項目
としては「可能形」)を同時期に扱うことで体系的に指導しようとしているにもかかわらず、
「見える」の例文ばかりが提示されているのである。このような教科書を使って日本語を
学んだ非母語話者が、
「見る」の可能は全て「見える」を使って表現すればいいのだと考え
ても不思議ではない。
表15
日本語教科書における「見える」「見られる」の出現頻度
初級
用法
出現数
中上級
出現比率
出現数
日本語教科書全体
出現比率
出現数
出現比率
①
1
1.72%
1
2.86%
2
2.15%
②
9
15.52%
4
11.43%
13
13.98%
③
2
3.45%
1
2.86%
3
3.23%
④
11
18.97%
20
57.14%
31
33.33%
⑤
6
10.34%
0
0.00%
6
6.45%
⑥
18
31.03%
2
5.71%
20
21.51%
⑦
11
18.97%
3
8.57%
14
15.05%
⑧
0
0.00%
4
11.43%
4
4.30%
⑨
0
0.00%
0
0.00%
0
0.00%
合計
58
100.00%
35
100.00%
93
100.00%
次に、日本語教科書ではどの用法がよく使われているのかを見てみたい。表15はそれ
57
ぞれの日本語教科書における、用法別の出現数(実数)と出現比率を示したものである。
初級においては用法⑥の出現比率が極めて高いことがわかる。日本語教科書が用法⑥の過
剰使用を促進しているかのようである。これは、日本語教科書の改善すべき点の1つだと
言えるだろう。また、日本語教科書では、用法⑥の例にはすべて「見える」が使用されて
いる。母語話者も基本的に用法⑥には「見える」を使用していることがコーパス調査で明
らかになった。しかしながら、用法⑥において「見られる」が間違いであるというわけで
はない。用法⑥を「見える」を使う典型的な例として提示するのは、不要な混乱を招く一
因になるのではないだろうか。
(95)天気がいい日には富士山が見えるんです。(『みんなの日本語初級Ⅱ(第 2 版)』
(2013:11))
本論文の分類によると(95)は用法⑥であり、「見える」を「見られる」に置き換える
ことが可能である。日本語の教科書には、(95)のように、見る対象が自然物である例文
が「見える」の例として多く使用されているが、自然物は「鑑賞の対象」ととらえられる
ことも多い。
「鑑賞の対象」ととらえた場合、
「見られる」を使用しても問題はない。
「見え
る」を使うか「見られる」を使うかは、文脈や発話者の意図の微妙な差異によって決まる
ため、初級の段階でその使い分けについて説明するのは困難である。
(96)私の部屋から学校の屋根が見える。(作例)
例えば(96)の「学校の屋根」のように、見る対象が一般的に「鑑賞の対象」にはなら
ないものでは、
「見える」を「見られる」に置き換えることはできない。特に初級の段階で
は、まずは(96)のように「見える」しか使えない例文を提示した方が、
「見える」
「見ら
れる」の違いが理解しやすいのではないだろうか。
また、初級では用法⑥も含め状況可能(用法⑤~⑧)が多く使用されているが、第6章・
第7章のコーパス調査で確認したとおり、実際の言語使用において最も使用頻度が高いの
は、用法④である。初級レベルでは、文法体系より「いますぐ使える日本語」を学ぶこと
の方が重要であるため、もっと積極的に用法④を提示するべきであろう。
「見られる」に関しては、第6章・第7章のコーパス調査で、書き言葉では用法⑧、話
し言葉では用法⑦が多く使用されていることを確認した。日本語教科書においては、初級
では用法⑦のみを扱い、中級以降で用法⑧を導入している。初級では話し言葉を中心に扱
い、中級以降で徐々に書き言葉に移行するという、現在の日本語教育の流れに即したもの
であると言える。
58
9.2
日本語教科書とコーパスとの比較
表15の用法別分布と、第6章・第7章で確認した各コーパスにおける用法別分布との
相関係数を、表16に示した。初級教科書と母語話者コーパスとの相関係数は 0.239 と極
めて低く、中上級でようやく母語話者の使用バランスに近づいている。初級教科書は、実
際の言語使用を反映しているとは言い難いだろう。一方、初級教科書と非母語話者コーパ
スとの相関係数は、0.469 で、初級教科書と母語話者コーパスとの相関係数より高い数値
となっている。表16からも、日本語教科書が非母語話者の言語使用に大きく影響してい
ることがわかる。
表16
日本語教科書とコーパスとの相関係数
初級教科書
中上級教科書
全教科書
BCCWJ コア
0.088
0.901
0.606
名大会話
0.389
0.903
0.792
母語話者コーパス平均
0.239
0.902
0.699
作文対訳 DB
0.384
0.814
0.735
学習者会話 DB
0.554
0.909
0.897
非母語話者コーパス平均
0.469
0.862
0.816
初級の段階ですべての用法を扱うことはできない。一方、上級レベルの学習者には、さ
まざまな用法を正しく理解・使用できるような指導が必要である。学習者のレベルに応じ
て、適切な例文を提示しなければならない。学習者が「見える」
「見られる」の使い分けを
無理なく習得できるような指導を心掛けたいものである。
59
60
10 日本語教育への応用
10
日本語教育への応用
これまで、
「見える」
「見られる」を 9 つの用法に分類し、使用状況を調査してきた。し
かしながら、本論文における調査結果がそのまま日本語教育に応用できるわけではない。
なぜなら、用法を細かく分類し体系化するという行為は、日本語学的試みだからである。
日本語学と日本語教育は、どちらも日本語という言語を対象にしているものの、その目的
は異なる。庵(2011b)が述べているとおり、日本語記述文法(日本語学)は基本的に理解を
目的とした文法であり、日本語教育文法は産出を目的とした文法である。
日本語記述文法は基本的に理解レベルの文法である。理解レベルということは規則
のカバー率ということから言えば、「(規則のカバー率)100%を目指す文法」という
ことである。こうした文法では「体系」や「隙間のない記述」が重視される。
(中略)
しかし、一般の非母語話者を対象に、産出レベルの記述を目指すとなると、こうし
た記述のあり方は通用しない。この場合の規則は学習者にとって操作可能なものであ
る必要がある。つまり「(規則のカバー率)100%を目指さない文法」が必要となって
くるのである。(庵(2011b:81))
庵(2011b)は、上記の考え方にしたがい、
「は」と「が」の使い分けに関する、産出を
目的としたフローチャートを作成している。その際、有標・無標35という観点を導入する
ことが有効であると述べている。ただし、有標・無標という観点からの文法記述は、規則
のカバー率 100%を目指すものではなく、例外が存在するため、規則のカバー率をコーパ
スなどで検証する必要があるとしている。
本章では、庵(2011b)を参考に、日本語学の成果を日本語教育に応用する 1 つの案として、
「見える」「見られる」の使い分けに関するフローチャートを提案したい。
10.1 「見える」
「見られる」産出用フローチャート
有標・無標と言う観点を取り入れて産出用のフローチャートを作成するという庵(2011b)
の試みは、「見える」「見られる」の使い分けにも応用できるものと思われる。そこで、次
のページの図4のようなフローチャートを作成した。
62
図4
1
「見える」「見られる」使い分けフローチャート
2 「存在する」
「いる」
目では見る
ことのできな
Yes
「ある」という意味で
No
見える
Yes
見える
No
見られる
ある
い、抽象的なモ
ノである
Yes
(例)傾向、改
善、不満、兆候
3 「気づく」
「わかる」
という意味である
No
4
見ているモノが、どのように見えるかに
Yes
ついて言う(外見、程度、評価、判断)
見える
No
5
6
「存在する」
「い
る」「ある」という意
Yes
るモノ」
が目の前
味である
にある
No
7
「見
Yes
見える
No
見られる
「目で見て、モノが
確認できるかどうか」に
Yes
見える
ついてだけを言う
8 「見る
(鑑賞する/恐れる/楽
モノ」が自
しむなどの気持ちがある
然物また
場合は、No へ)
No
は風景で
ある
63
Yes
見える
No
見られる
まず、見る対象が具体物の場合と抽象物の場合とでは、「見える」「見られる」のとらえ
方が異なるため、最初に抽象物かどうかを問う項目を設けた(1)。抽象物の場合に用い
られるのは、用法②(「見える」を使用)か用法⑧(「見られる」を使用)である。用法②
は本来「そこにあるモノが自然と目に入る」という意味の自発表現であるが、抽象物に用
いられた場合には、
「抽象的事象に気づく/抽象的事象が明らかになる」という意味になる
((97))。一方、用法⑧は、抽象物に用いられた場合、
「抽象的事象が存在する」という意
味を表す((98))。この場合の「見られる」は(98)’のように、「ある」という言葉に置
き換えることが可能である。
(97)業界の変化は商品に注目すれば見えてくる(BCCWJ コア:PN4g_00005)
(98)この膜は、ダニやウドン粉病、菌核病にも効果が見られました。(BCCWJ コ
ア:PM21_00167)
(98)’この膜は、ダニやウドン粉病、菌核病にも効果がありました。
ただし、用法②の中にも「ある」に置き換えられる例がある((99)(99)’)。
(99)もしそんな兆候が見えたときは、市民が声を上げ我々が預けた権力を返して貰う。
(BCCWJ:OY06_00060)
(99)’もしそんな兆候があったときは、市民が声を上げ我々が預けた権力を返して貰う。
つまり、抽象物に関して、用法②と用法⑧を正しく使い分けるためには、
(98)と(99)
を識別できるようにしなければならない。そこで、まず項目2で(97)を排除し、さらに
項目3で(98)と(99)を識別できるようにした。
次に、具体物について考えたい。コーパス調査から明らかになったとおり、
「見える」と
「見られる」では、圧倒的に「見える」を使った表現が多い。
「見られる」を使う場面さえ
限定できれば、残りは全て「見える」を使うとして(産出レベルにおいては)問題ないだ
ろう。つまり、
「見られる」を使う用法⑦⑧⑨を識別できるような項目を設定すればいいと
言える。用法⑨はコーパスにおける出現確率が極めて低く、非母語話者にとって重要な用
法であるとは考えにくいため、ここでは考慮に入れないこととし、用法⑦の「鑑賞・評価
など精神活動を伴うもの」と用法⑧の「存在するという意味を表すもの」の 2 点に焦点を
絞る。
まず、用法⑧について考えたい。
(100)青アザのなかで皆さんが一番良くご存知なものは、乳幼児のお尻に見られる蒙古
斑でしょう。
(BCCWJ コア:PB54_00015)
(100)’青アザのなかで皆さんが一番良くご存知なものは、乳幼児のお尻にある蒙古斑
64
でしょう。
(100)は用法⑧であり、抽象物の場合と同様、
(100)’のように「見られる」を「ある」
という言葉で言い換えることが可能である。一方、
(101)は用法②(眼前性のある典型的
な自発)であるが、こちらも(101)’のように「見える」を「ある」という言葉で置き換
えることができる。
(101)
「あの小山の麓に見えるのが倭館でございますよ」喜三郎が指さした。
(BCCWJ
コア: PB39_00013)
(101)’「あの小山の麓にあるのが倭館でございますよ」喜三郎が指差した。
つまり、具体物の場合においても、用法②と用法⑧を正しく使い分けるためには、
「存在
するという意味を表すもの」という項目だけでは不十分だと言える。用法②は眼前性のあ
る自発表現である。そこで、眼前性のある自発表現か否かを判断する下位項目6を設け、
用法②((101))と用法⑧((100))を識別できるようにした。
次に、用法⑦について考えたい。
(名大会話 C:data023)
(102)ゲームの、機械でも、DVDが見れる36、らしいですよね。
(103)「乱れ髪」全盛の今、きちんとロールで巻いたようなヘアスタイルが新鮮に見え
る。(BCCWJ コア: PM21_00306)
(102)は「見る」という行為に「鑑賞する」という意味が含まれており、用法⑦の典
型的な例である。一方、(103)は用法④(見え方を問題にするもの/「見える」を使用)
であるが、
「きちんとロールで巻いたようなヘアスタイル」は鑑賞・評価の対象ととらえる
こともできる。つまり、
「鑑賞・評価などの精神活動を伴うもの」という定義だけでは、用
法④と用法⑦を正確に使い分けることはできないと言える。用法⑦を正しく産出するため
には、あらかじめ用法④を識別しておく必要があるだろう。そこで、
「見ているモノが、ど
のように見えるかについて言う」という項目4を設け、用法④をあらかじめ排除できるよ
うにした。
また、
「見るモノ」が自然物(海や山等)や風景(窓から眺める花火や東京タワー等)の
場合には、
「鑑賞の対象」ととらえられる一方で、自発の条件も満たしていると考えられる
ため、「見える」「見られる」のどちらも使用可能である。そして、本論文のこれまでの調
査で明らかになったように、
「見える」と「見られる」が重なる部分にはついては、実際の
言語使用においては「見える」を使用する傾向がある。そこで、項目7の後に「「見るモ
ノ」が自然物または風景である」という下位項目8を設け、実際の言語使用に即したフロ
ーチャートになるよう配慮した。
さらに、用法⑧の中にも、
(104)のように「見る対象物が自然物もしくは風景」の例が
65
ある。
(104)「新明館」の前を流れる渓流には、夏の時期、蛍の姿が見られることもある。
(BCCWJ コア:PM11_00207)
そこで、用法⑧を識別するための項目5を、用法⑦を識別するための項目7より先に設
定し、(100)のような例にも対応できるようにした。
10.2 コーパスにおけるフローチャートのカバー率
母語話者コーパス(BCCWJ コア及び名大会話 C)内の「見える」
「見られる」を使った
例文が、10.1で作成したフローチャートを用いて産出可能かどうか検証した。
6.1で述べたとおり、BCCWJ コアでは「見える」が 256 件、
「見られる」が 97 件出
現している(正用/肯定のみ)。このうち、フローチャートでカバーできないものが、「見
える」で 7 件、「見られる」で 9 件あった。また、4.1で述べたとおり、名大会話 C で
は「見える」が 149 件、
「見られる」が 33 件出現しており、そのうちフローチャートでカ
バーできないものは「見える」が 5 件、「見られる」が 7 件であった(正用/肯定のみ)。
フローチャートのカバー率は、表17のとおりである。
表17
母語話者コーパスにおけるフローチャートのカバー率
フローチャートのカバー率
「見える」
「見られる」
全体
①BCCWJ コア
97.27%
90.72%
95.47%
②名大会話 C
96.64%
93.94%
96.15%
①+②
97.04%
91.54%
95.70%
BCCWJ コアの「見られる」のカバー率が 90.72%とやや低めであり、書き言葉におけ
る「見られる」のカバー率にやや不安が残るものの、コーパス全体のカバー率は 95.70%
あり、まずまずの結果となった。母語話者コーパスには非母語話者が習得する必要性の低
い表現も含まれていること、特に BCCWJ コアは母語話者による書き言葉コーパスであり、
非母語話者にとって重要度の低い表現も多く含まれていることなどを考えると、95.70%の
カバー率は低くない数値だと言えるだろう。
「見える」
「見られる」の様々な用法を一通り学び理解している日本語上級レベルの非母
語話者であれば、図4のフローチャートを活用することで、既習の知識を整理し直したり、
自ら産出した文の正誤を検討したりできるものと思われる。一方、中級以下レベルの非母
語話者にとっては、自らの力でフローチャートを使いこなすのは容易ではないだろう。し
かし、教師側がフローチャートを活用することで、より効率の良い指導が行えるようにな
66
ると考えている。中級以下レベルの非母語話者の場合、誤用について、自分自身でも「何
がわらないのか」がわかっていないことが多い。だからといって、教師が誤用を訂正する
際に、「見える」「見られる」の違いを全て説明するというのは、無駄が多く、現実的では
ない。教師は、非母語話者の発話を聞いて(もしくは作文を読んで)
、誤用の要因を瞬時に
判断し、対応しなければならない。教師側がフローチャートを活用することで、
「どの項目
についての理解が不足しているのか」が明確になり、効率の良い適切な指導が行えるよう
になるだろう。
67
68
11 おわりに ―今後の課題―
11
おわりに
―今後の課題―
本論文では、
「見える」
「見られる」を 9 つの用法に分類し、その分類をもとに、コーパ
スを用いて母語話者、非母語話者の言語使用を調査した。すべてのコーパスにおいて、
「見
える」の出現数は「見られる」の出現数を上回っており、
「見える」と「見られる」の比率
だけを見ると、母語話者と非母語話者の言語使用は一致しているかのようである。しかし、
用法別に見ると、母語話者と非母語話者との間には、「見える」「見られる」の使用に大き
な差異があることがわかった。特に、日本語レベルの低い非母語話者において、用法⑥の
過剰使用の傾向及び「見られる」の非用傾向が確認された。
「見える」と「見られる」を言
語形式だけに着目して、2 項対立で使用頻度を比較することではなく、用法ごとに母語話
者と非母語話者の言語使用を比較検討することが重要だと言えるだろう。母語話者コーパ
スと非母語話者コーパスの比較に基づいた用法ごとの使用頻度の比較という考え方は、
「見
える」
「見られる」だけではなく、他の言語形式の研究にも有効なのではないだろうか。さ
らにはこれらの検討は、日本語の授業や教材開発にも具体的に貢献できるものだと考えて
いる。
コーパス調査をとおして、書き言葉と話し言葉とでは、「見える」「見られる」の使用に
違いがあることも確認された。野田(2005)が述べているように、
「書く」
「読む」
「話す」
「聞
く」の 4 技能それぞれの目的に応じた文法というものを考える必要があると言える。また、
庵(2011b:81)は、理解を目的とした従来の日本語記述文法(いわゆる日本語文法)とは違
い、日本語教育文法は産出を目的にしており、
(規則のカバー率)100%を目指す必要はな
いとしている。日本語教育において最も重要なのは、日本語の文法体系について詳細に伝
えることではなく、日本語で安全にコミュニケーションができるよう指導することである。
そのために、本論文で提示したようなフローチャートが役に立つものと考えている。
本論文では、
「自発」と「可能」の関係を、
「見える」
「見られる」に限定して調査・考察
してきたが、本論文で明らかになったことが、他の言語形式にも応用可能かどうか検討す
ることも、今後の課題の 1 つであると考えている。そこで、簡単にではあるが、ここで、
「見える」
「見られる」の使い分けに関する規則が、
「聞こえる」
「聞ける」という別の言語
形式に応用可能かどうか、検討してみたい。
70
図5
1
「聞こえる」「聞ける」使い分けフローチャート
2 「存在する」
「(音・
耳では聞く
ことのできな
Yes
声が)する」という意
No
聞こえる
Yes
聞こえる
No
聞ける
味である
い、抽象的なモ
ノである
Yes
(例)傾向、改
善、不満、兆候
3 「気づく」
「わかる」
という意味である
No
4
聞いているモノが、どのように聞こえる
Yes
聞こえる
かについて言う(外見、程度、評価、判断)
No
5
6
「存在する」
「(音・声が)する」
Yes
がその場
で耳に入
という意味である
る
No
7
オト
Yes
聞こえる
No
聞ける
「耳で聞いて、オト
が確認できるかどうか」
Yes
聞こえる
No
聞ける
についてだけを言う
(鑑賞する/恐れる/楽
しむなどの気持ちがある
場合は、No へ)
71
「聞く」は「見る」と同じく感覚を表す動詞である。形態面での特殊性(2.3参照)
や、「可能」を表すのに「聞こえる」「聞ける」という二つの形態を使い分けるという点に
おいて、「見る」と類似している。そこで、第10章で提示した<「見える」「見られる」
使い分けフローチャート>を、基本的な考え方はそのままに、「聞こえる」「聞ける」版に
書き換えたものを作成し(前ページの図5)、コーパスにおけるカバー率を検証してみた。
図4の項目1の「目では見ることができない」という部分を図5では「耳では聞くこと
ができない」に換え、項目2の「「存在する」
「ある」
「いる」」という文を「「存在する」
「(音・
声が)する」」に換え、項目4の「見ているモノが、どのように見えるか」という部分を
「聞いているモノが、どのように聞こえるか」に換えた。また、項目5の「「存在する」
「あ
る」「いる」」という部分を「「存在する」「(音・声が)する」」に換え、項目6の「「見る
モノ」が目の前にある」という部分を「オトがその場で耳に入る」に換え、項目7の「目
で見て、モノが確認できるかどうか」という部分を「耳で聞いて、オトが確認できるかど
うか」に換えた。項目8は、視覚に限った情報であるため、図5からは省いた。このよう
にして作成した図5のフローチャートが、「聞こえる」「聞ける」の使い分けの判断に有効
かどうか、BCCWJ のコアデータを用いて検討した。
BCCWJ のコアデータから、「可能」の意味で用いられている「聞こえる」「聞ける」を
抜き出したところ、「聞こえる」が 74 件、「聞ける」が 10 件あった37。「聞こえる」「聞け
る」を合わせた全部で 84 件のデータを、図5のフローチャーで検証してみたところ、
「聞
ける」の 10 件に関しては、全てカバーすることができた。すなわち、
「聞ける」に関して
は、フローチャートのカバー率は 100%である。なお、
「聞ける」10 件のうち、2 件が心情
可能(本論文の「見える」「見られる」の用法分類と照らし合わせると、用法⑨に相当)、
残り 8 件が「聞く機会がある」ことを表すもの(用法⑦に相当)であった。「見られる」
と比較して、
「聞ける」は心情可能の意味で使用される割合が高いようである。
「聞こえる」の 74 件については、フローチャートでは判断できないものが 4 件あった。
すなわち、「聞こえる」に関しては、フローチャートのカバー率は 94.59%である。
「聞こ
える」と「聞ける」を合わせた全体のカバー率は 95.24%である。これは、「見える」「見
られる」についてのフローチャートの BCCWJ コアにおけるカバー率(95.70%)と、遜
色ない数値である。つまり、「見える」「見られる」に関する本論文の考察は、「聞こえる」
「聞ける」という別の言語形式にも転用可能であると言える。
以上のように、
「見える」
「見られる」の使い分けに関する規則は、
「聞こえる」
「聞ける」
という別の言語形式にも応用可能であることがわかった。しかしながら、ここで行ったの
はごく簡単な検証のみで、十分な分析であるとは言い難い。今後、「聞こえる」「聞ける」
について、より詳細な調査・分析を行っていきたい。
本論文で分析した「見える」
「見られる」の意味・用法の違いについて、日本語教育の現
場ですべて伝えることは不可能であるし、またそうする必要もない。我々日本語教師は、
日本語を体系的に理解したうえで、その体系の中のどの部分を非母語話者が必要としてい
72
るのかを判断し、指導していかなければならないのである。今後、日本語教育の実践をと
おして、本論文で明らかになった「見える」
「見られる」の使い分けに関する問題点の解決
策及びその指導方法を模索していきたい。
73
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「~が見られる」」
『日本文化学報』10: 107-119、
韓国日本文化学会
山本幸枝(2003)「可能の意味を持つ「見える」と「見られる」について」
『日本言語文化研
究』5:1-8、日本言語文化研究会
李金蓮(1994)「「見える」
「見られる」
「見ることができる」について」
『世界の日本語教育』
4:185-191、国際交流基金日本語国際センター
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<調査に使用した日本語教科書>
『みんなの日本語初級Ⅱ本冊(第 2 版)』(2013)スリーエーネットワーク
『初級日本語げんきⅡ(第 2 版)』(2011)The Japan Times
『文化初級日本語ⅠⅡ(テキスト改訂版)』(2013)凡人社
『日本語初級大地②』(2009)スリーエーネットワーク
『初級日本語下』(2010)凡人社
『テーマ別中級から学ぶ日本語(改訂版)』(2003)研究社
『テーマ別上級で学ぶ日本語(改訂版)』(2008)研究社
『中級日本語』(1994)凡人社
『上級日本語』(1994)凡人社
『生きた素材で学ぶ新中級から上級への日本語』(2012)The Japan Times
<使用したコーパス>
現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)中納言
https://chunagon.ninjal.ac.jp/search
名大会話コーパス
https://dbms.ninjal.ac.jp/nuc/index.php
日本語学習者による日本語作文と、その母語訳との対訳データベースオンライン版
http://jpforlife.jp/cert/taiyakudb/sakubuns/
日本語学習者会話データベース
https://dbms.ninjal.ac.jp/kaiwa/
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<資料>
―アンケートに使用した例文―
用法①
オオカミは夜でも目が見える。
北極星の隣にある、あの小さな星が見えますか?
用法②
ママ、見て!虹が見えるよ!
窓からぼんやり外を眺めると、雨に濡れて光っている道路が見えた。
用法③
ひざが見えるような短いスカートは禁止です。
犯人の手に何か光るものが見えた。
用法④
君のりんごのほうがおいしそうに見える。
私には、彼が犯人であるように見える。
用法⑤
コピーの字が薄くて見えない。
ビルの屋上から富士山の方を見たが、霧が深くて見えなかった。
用法⑥
そのビルの屋上に登れば、大都会の夜景が見える/見られる。
そのレストランからは、海に沈む夕日が見えます/見られます。
用法⑦
今日はお母さんが許してくれないから、テレビが見られません。
ピカソの絵とモネの絵が同時に見られる、またとないチャンスです。
用法⑧
たんぽぽは、日本中どこでもごく普通に見られる花です。
奈良に来れば、シカが見られるよ!
用法⑨
涙でぐちゃぐちゃで、とても見られた顔じゃない。
恥ずかしくて、彼女の顔がまともに見られない。
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<注>
「飯田(1997:45)」は、参考文献の飯田透(1997)の 45 ページに記載されている、との意
である。以降、本論文では参考文献をこのように明記する。
1
2
山本(2003:1)は、
「「見える」
「見られる」は初級で学ぶ語彙であるが、中級以降になって
も、外国人学習者の書いた作文には「見える」
「見られる」の誤用が多い」と述べている。
また、阿刀田(1975:52)の<質問箱>には、「「見える」「見られる」の誤用は、生徒がかな
り上級になっても改まらない問題の一つ」としたうえで、
「見える」「見られる」の相違に
ついて尋ねる日本語教師からの質問が掲載されている。
庵(2011:2)は、「日本語学は母語話者の文法知識(文法能力(grammatical competence))
の釈明を目指すものとされている」と述べている。
3
寺村(1982:211)は、
「受動態」
「可能態」
「自発態」
「使役態」の 4 つを「文法的「態」
」と
位置付けている。これに「語彙的「態」」を加えた 5 項目を、態(=ヴォイス)として扱
っている。
4
5
第3章で取り上げたものの他にも、阿刀田稔子(1975)、李金蓮(1994)、田中衛子(1999)、
山本幸枝(2003)などの論文がある。
6
山内・清水(2001)は「見る」という動詞の特殊性について、[注]3)において次のように述
べている。
:
「見る」における「自発」と「可能」の意味の近似は、
「見る」という動作の特
殊性からくるものであるように思われる。
「見る」の特殊性とは、動詞であるにもかかわら
ず、あまりにも動的でないということである。ごく普通の動詞、たとえば「走る」の場合
には、自然に「走る」ことができてしまうというようなことはなく、たとえば「走る」た
めには、それ相応の努力・労力が必要である。
「食べる」や「飲む」などについても同様で
ある。しかし、
「見る」の場合には、通常、全く努力・労力を必要とすることなく、自然に
「見る」ことができてしまう。したがって、「見る」という動作の場合には、自然に(「自
発」的に)それを行うことが「可能」になってしまうのであり、そのため「自発」と「可
能」の区別が、すなわち、
「見える」と「見られる」の意味の区別があいまいになってしま
うのではないだろうか。
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下岡(2005:18)は、「現在性とは、事態や思考が発話された段階で既に行われていること
をいう」と述べている。
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日本国内の多くの日本語教育機関において、日本語を日本語だけで教える、いわゆる「直
接法」が採用されている。入門の段階から日本語のみで授業を行うことで、日本語におけ
る聴解力やコミュニケーション能力の向上がはかれるというメリットがある一方で、初級
の段階では複雑な概念や文法の説明は困難であるという問題点もある。
9
山内・清水(2001)は、能力可能でも「彼は手相が見られる」のように例外的に「見られ
る」が使用されるものもあるとしている。この場合の「見る」は「評価する・占う」とい
う意味であり、
「視覚で対象物をとらえる」という意味ではないため、本論文では扱わない
こととする。
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本論文では「眼前性」を「見る対象となるモノが、発話の場・視点においてまさに目の
前にある状態」という意味に解釈し、用いている。
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飯田(1997)の「特出すべきもの」という表現を、筆者は「何か特別なもの、目立つもの
(=特筆すべきもの)」という意味で用いていると解釈した。そこで、以後本論文では「特
筆すべきもの」という表現を使用する。
森(2013)では、
「見える」
「見られる」を、本論文の 9 用法に「風景描写」及び「判断を
表すモダリティー表現」を加えた全 11 用法に分類している。本論文では、
「風景描写」は
用法②または③、
「判断を表すモダリティー表現」は用法④に統合し、よりコンパクトで仕
分けのしやすい分類表になるよう心がけた。
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「現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)」は、総語彙数約 1 億 490 万語(2013
年 9 月現在)の書き言葉コーパスである。書籍全般、雑誌全般、新聞、白書、ブログ、ネ
ット掲示板、教科書、法律などさまざまなジャンルの書き言葉を格納している。データ作
成は自動形態素解析によって行われているが、それにさらに人手による修正を加えたもの
がコアデータである。コアデータは約 110 万語(2013 年 9 月現在)である。
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「日本語学習者による日本語作文と、その母語訳との対訳データベース オンライン版
(作文対訳 DB)」は「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立国語研究所」の共
同研究プロジェクトである「社会における相互行為としての「評価」
」(リーダー:宇佐美
洋)の成果として国立国語研究所のホームページにて公開されている。非母語話者による
作文とその対訳 1777 件(2013 年 9 月現在)が収録されている。
本論文の調査・執筆を行った、2012 年 4 月~2013 年 12 月現在における現状である。
2014 年 1 月には、金澤裕之他による新たな書き言葉コーパス(母語話者・非母語話者対
象)が、ひつじ書房より公開される予定である。
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BCCWJ は中納言の短単位検索を利用し、コアデータに限定して、「見える」に関して
は<語彙素「見える」>で検索、「見られる」に関しては<語彙素「見る」:後方共起語彙
素「られる」>で検索した。その結果「見える」が 371 件、「見られる」が 230 件抽出さ
れた。抽出されたデータから目視にて自発及び可能以外の例を削除し、残った「見える」
256 件、
「見られる」97 件を調査対象とした。/作文対訳 DB は、
「日本語学習歴 3 年以上」
の条件で検索し、抽出されたデータをテキストファイルに移して「見」
「み」で検索をかけ、
目視により自発及び可能の「見える」
「見られる」を取り出した。/なお、排除したのは次
のようなデータである。
:<受身>泣くことなんてめったにないんだけど、やあねえ。あな
たにはもう二回もみられちゃった(PM11_00055)<敬語>じきに部長が見える。
(BCCWJ:
PB39_00010)<慣用表現>全社一斉にやったら下位生保に解約が殺到するのは目に見え
ており…(略)(BCCWJ: PM13_00014)
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例えば、「家から花火を見えますから、とてもうれしいです(作文対訳 DB:data253)」
のように前接する助詞に誤りがあるものや、
「広告などで禁煙のキャンペーンを時々見れる
(作文対訳 DB:data186)」のように動詞の活用に誤りがあるもの(この場合は、いわゆる
ら抜き言葉)などは、語彙選択は正しく行われているため、正用として扱った。
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用法⑥は「見える」「見られる」どちらも使用可であるが、BCCWJ コア及び作文対訳
DB ではすべて「見える」が使用されている
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正用が判別できないもの(「見える」を使ったもの 1 件)は、「その他」として扱った。
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「名大会話コーパス」は 20 代~80 代の母語話者 199 人(女性 162 人、男性 37 人)に
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よる約 100 時間分の雑談を文字化したコーパスである。
「日本語学習者会話データベース」は OPI のインタビュー339 人分を文字化したコー
パスである。母語別では韓国語 170 人、中国語 47 人、英語 28 人、インドネシア語 12 人、
その他 82 人である。
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作文対訳 DB 同様、抽出されたデータをテキストファイルに移し、「見」「み」で検索
をかけ、目視により自発及び可能の「見える」
「見られる」を取り出した。
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表5では便宜上①~⑥を「見える」
、⑦~⑨を「見られる」を使うものと考えて小計を
出しているが、実際には学習者会話 DB において 1 件だけ、用法⑥に「見られる」が使用
されているものがあった。そのため、学習者会話 DB における「見える」の出現数は①~
⑥の合計「99」から 1 を引いた「98」であり、
「見られる」の出現数は⑦~⑨の合計「19」
に 1 を足した「20」である。本文と表5の数値にずれがあるのはこのためである。
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野田尚史(2005:7)は、
「これからの日本語教育文法では、聞く、話す、読む、書くという
4 つのコミュニケーション活動の違いに応じて、聞くため、話すため、読むため、書くた
めという、それぞれの目的に応じた文法を作ったほうがよい」と述べている。
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「見える」による「見られる」の浸食に限らず、言語は常に変化し続けているが、「見
える」「見られる」は、現代日本語において、特に言語変化が大きい形式の 1 つであると
言えるだろう。言葉のゆれや言語形式の変化を、日本語教育の現場でどのように学習者に
提示するのかと言う点についても、今後検討していきたい。
OPI とは、ACTFL という団体が行っている、インタビュー形式による会話テストであ
る。学習者会話 DB は、OPI のインタビュー資料をもとに作られたコーパスであり、OPI
のテスト結果が情報として付加されている。
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実際には、さらにそれぞれの級を上中下の 3 レベルに下位分類している。
レベル別の人数及び語数は、中級 188 人(499,076 語)、上級 110 人(355,478 語)、超
級 9 人(37,170 語)である。
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超級は絶対数が少ないため、相関を出してもデータに信頼性がないと判断し、中級と上
級の 2 つで比較を行った。
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非母語話者が産出する日本語に「明らかな誤用がない」からといって、必ずしもその非
母語話者の日本語が上級レベルであるとは限らない。何故なら、限られた語彙・文法を駆
使して、文法的には正確な日本語を使う非母語話者もいるからである。しかし、そのよう
な言語使用は、母語話者の言語使用とは大きく異なっていると言わざるを得ない。したが
って、産出した日本語に誤用がない(少ない)ということに加え、言語使用のバランスが
母語話者と近いということも、上級日本語話者に必要な条件であると考える。
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正用が判別できないもの(「見える」を使ったもの 1 件)は、「その他」として扱った。
2012 年 10 月現在において奈良教育大学に在籍している留学生を対象にアンケートを行
った。
33 国別内訳は、中国 16 名、ベトナム 2 名、ポーランド 2 名、カンボジア 1 名、韓国 1 名、
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ロシア 1 名、チリ1名、オーストリア1名、ドイツ1名である。
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森(2013)では、アンケートに使用した全ての例文を対象にして調査・分析を行った。し
かし、設問の中には、母語話者の正答率が低く、アンケートに使用する例文としては不適
切だと思われるものもあった。そこで、本論文では、森(2013)のアンケート調査結果を、
母語話者の正答率が高い(=多くの母語話者が正しい日本語であると判断している)設問
に限定して、分析し直した。
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庵(2011:81-82)では、有標・無標という考え方について「2 つの類似形式にある言語
形式A、B があるとき、文脈Cにおいて、言語環境Xでは形式Bのみが扱われ、その他の
言語環境では形式Aが使われるとき、AとBのうち、Aは無標の形式であり、Bは有標の
形式である。
(中略)このように定義すると、有標の環境のみを指定すればいいことになる
ので、学習者の負担が軽減される」と述べている。
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いわゆる「ら抜き表現」である。本論文では語彙面で「見える」「見られる」が正しく
選択できるか否かを問題にしているため、ら抜き表現も「正用」としてカウントしている。
BCCWJ は短単位検索を利用し、コアデータに限定して、
「聞こえる」に関しては<語
彙素「聞こえる」>で検索、「聞ける」に関しては<語彙素「聞く」:語形「キケル」>で
検索した。
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<付記>
この研究は、国立国語研究所のプロジェクト『日本語教育データベースの構築-日本語学習者
会話データベース』を利用して行ったものである。データとして『現代日本語書き言葉均衡
コーパス』『名大会話コーパス』『日本語学習者による日本語作文と、その母語訳との対訳デ
ータベースオンライン版』及び『日本語学習者会話データベース』を利用させて頂いた。ま
た、データの形態素解析には、京都大学情報学研究科―日本電信電話株式会社コミュニケ
ーション科学基礎研究所共同研究ユニットプロジェクトによる『MeCab』0.98 と、国立
国語研究所による『UniDic』1.3.12 を使用させて頂いた。各位に感謝申し上げたい。
<謝辞>
本修士論文は、筆者が奈良教育大学 大学院 教育学研究科 修士課程 教科教育専攻 国語
教育・日本語日本文化教育専修在籍中にまとめたものです。副学長という重職に就かれ非
常にご多忙でいらっしゃるにもかかわらず、本研究に関して終始ご指導ご鞭撻頂きました
本学加藤久雄教授に、心より感謝致します。また、本研究に対し数々の有用なコメントを
頂きました本学和泉元千春准教授、並びに国語教育・日本語日本文化教育専修の諸先生方
に深謝いたします。
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