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詳細書感
天 地 明 察 /沖 方 丁 (角 川 書 店 本 体 1800 円 )
本 書 のオビに「江 戸 時 代 、前 代 未 聞 のベンチャー事 業 に生 涯 を賭 けた男 がいた。ミッションは『日
本 独 自 の暦 』を作 る こと。碁 打 ちにして数 学 者 ・渋 川 春 海 の二 十 年 にわ た る奮 闘 ・挫 折 ・喜 び 、そ し
て恋 !! 」とある。その江 戸 時 代 とは、徳 川 三 代 将 軍 家 光 、四 代 家 綱 、五 代 綱 吉 の時 代 である。ベン
チ ャー事 業 の「日 本 独 自 の暦 」は 、 そ れまで の中 国 渡 来 の「暦 」に代 わる 独 創 的 な暦 である。 そ れを
成 し遂 げたのが渋 川 春 海 である。
春 海 は、将 軍 様 の前 で〝お城 碁 〟を打 てる碁 打 ち衆 として登 城 を許 された安 井 、本 因 坊 、林 、井
上 のうち安 井 の実 子 、安 井 算 哲 と して後 継 者 の立 場 ではあったが、実 際 は養 子 の義 兄 算 知 が家 を
継 いだかたちになっていた。碁 の安 井 算 哲 は、外 の世 界 では渋 川 春 海 と名 乗 っていた。春 海 は碁 打
ち で あ る と 同 時 に 幼 い 頃 か ら 学 ん だ 算 術 家 で あ る 。 そ し て恋 と は 、 良 き 妻 に 死 別 し た 後 、 同 じ く 夫 を
亡 くしていた初 恋 の女 性 と結 ばれる。
春 海 は 12 歳 で、同 年 代 の四 代 将 軍 家 綱 の御 前 で碁 を打 つ公 務 を務 めた。父 の算 哲 (春 海 は二
代 目 算 哲 )は、 11 歳 の時 〝囲 碁 の達 者 な子 〟として徳 川 家 康 に見 いだされ、碁 をもって駿 府 に仕 え、
江 戸 に幕 府 が開 かれてからは、実 家 の京 都 と江 戸 を往 復 する生 活 になった。
義 兄 の算 知 は 三 代 将 軍 家 光 が見 出 した碁 打 ちの達 者 で、将 軍 や幕 閣 に絶 大 な信 頼 を得 ている
会 津 肥 後 守 こと 保 科 正 之 の、碁 の相 手 としても 召 し抱 え られてい る。そ の縁 で 春 海 も江 戸 では会 津
藩 邸 に寄 寓 している。
小 説 は、春 海 が渋 谷 の金 王 八 幡 宮 に飾 られた算 術 の “勝 負 絵 馬 ”を見 に行 く場 面 から始 まる。後
に判 明 するのだが、この時 点 では何 故 か分 からぬままに碁 打 ちには例 のない帯 刀 を命 ぜられて迷 惑
な官 給 品 の刀 二 本 を腰 に差 している。
この時 代 、神 社 の絵 馬 と並 んで算 術 の問 題 や解 答 を記 した “算 額 奉 納 ”が流 行 した。札 の一 群 に
は、数 多 の図 形 、多 角 形 の中 に内 接 円 や接 線 が引 かれた図 形 などが示 され、辺 の長 さ、円 の面 積 、
升 の体 積 を問 い、方 陣 に円 陣 、複 雑 な加 減 乗 除 、開 平 方 などの難 題 が並 び、回 答 が書 き加 えられ、
そ れぞれ出 題 者 、回 答 者 の名 が記 され、さらに正 解 には“明 察 ”などと追 認 の文 字 が書 き込 まれたり
している。
算 術 のための道 具 はそろばんと算 盤 (さんばん)である。算 盤 は算 木 と呼 ぶ棒 の組 み合 わせ で 1 か
ら 9 の数 字 を示 し、それを各 桁 に並 べて加 減 乗 除 、開 平 方 、平 方 根 など複 雑 な計 算 ができる。
春 海 は、渋 谷 の金 王 八 幡 宮 で勝 負 絵 馬 に感 嘆 し、難 解 な設 問 に苦 もなく回 答 して去 った関 という
名 に瞠 目 した 。関 とは「和 算 」の完 成 で 歴 史 に名 を残 す算 術 家 、関 孝 和 である。以 来 、関 孝 和 へ の
憧 憬 と 共 に、風 に揺 れて絵 馬 同 士 がぶつ か って鳴 ってい た 「か らん 、ころん 」と いう澄 ん だ音 が、折 り
にふれて春 海 の頭 中 に鳴 り渡 ることになる。
算 術 の 次 に 春 海 を 熱 中 さ せ た の は 天 体 観 測 だ った 。 春 海 は 、 江 戸 の 会 津 藩 邸 の 庭 に 日 時 計 を
造 り 、影 の長 さを測 って日 の運 行 を記 録 した。そ れを古 来 の 歴 術 に照 らし 合 わせ 、 新 しい観 測 技 術
や歴 術 も参 照 し、独 自 に暦 の誤 差 修 正 を行 ったりしていた。
金 王 八 幡 宮 の絵 馬 にあった 難 題 をみて尋 ねた磯 村 吉 憲 算 学 塾 の責 任 者 で ある村 瀬 吉 益 と も昵
懇 になり、長 い付 き合 いになる。関 孝 和 も時 折 この塾 に立 ち寄 り、玄 関 横 に張 り出 された算 学 勝 負 に
参 加 していた。春 海 は村 瀬 から教 えられて関 孝 和 の「規 巨 要 明 算 法 」に出 会 う。
やがて春 海 は、老 中 (後 に大 老 )の酒 井 雅 楽 頭 忠 清 に引 き立 てられ、碁 の相 手 をさせられる。ある
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時 、碁 の合 間 に何 気 ない感 じで「お城 碁 は退 屈 か」などと問 われ、「塵 劫 記 」「竪 亥 録 」など著 名 な算
術 書 を読 んでいるかなどと問 われる。ある時 は「おぬし色 々な芸 をもっているな」といわれる。お城 で管
理 されている春 海 の履 歴 書 には、一 に碁 、二 に神 道 、三 に朱 子 学 、四 に算 術 、五 に測 地 、六 に暦
術 とあった。「神 道 は誰 に学 んだ」と酒 井 に聞 かれた春 海 は「山 崎 闇 斎 様 でございます」と答 える。酒
井 が「風 雲 児 だな」とコメントした闇 斎 はかつて僧 侶 であり、朱 子 学 を学 ぶ儒 者 であり、神 道 家 であり、
保 科 正 之 に遇 されている。春 海 はそれぞれの学 問 において一 流 の師 や友 人 に恵 まれている。
酒 井 に、歴 術 、日 食 月 食 、地 ・日 ・月 の距 離 など聞 かれた後 、「お主 、北 極 出 地 は知 っているな」と
問 われ、「測 地 の術 の一 つと存 じます。南 北 の経 (たて)糸 、東 西 の緯 (よこ)糸 をもって地 理 を定 める
とき、おのおのの土 地 の緯 度 は、その土 地 にて見 える北 極 星 の高 さに等 しいのです。ゆえに緯 度 とそ
の計 測 を北 極 出 地 と称 します。距 離 算 出 、方 角 確 定 の術 となります」と細 説 する。
「星 は好 みか?」「日 、月 と同 じく好 んでおります」となり、にわかに「北 極 星 を見 て参 れ」と下 命 され
る。全 国 各 地 の緯 度 を計 測 し、地 図 の根 拠 となる数 値 を出 してこいというわけである。「御 城 碁 を終 え
たら行 け。南 と西 から始 めよ。雪 が消 え次 第 、北 へ行 け」
観 測 隊 の隊 長 は建 部 昌 明 。将 軍 家 右 筆 の旗 本 で齢 はなんと 62 。算 術 と天 文 暦 学 に通 じていた。
副 隊 長 は伊 藤 重 孝 。将 軍 様 のおそば近 くに使 える御 殿 医 で齢 57 。算 術 と占 術 に優 れ、自 ら観 測 隊
に志 願 したらしい。春 海 は若 干 21 歳 。上 司 2 人 の補 佐 役 でなんでも記 録 するのが役 目 である。この
チ ーム に参 加 させ る ため に士 分 の形 にしよ うと いうこと で、あらか じめ碁 打 ちの春 海 に帯 刀 させ た らし
い。このほ か下 役 や観 測 道 具 を運 ぶ従 者 など総 勢 14 名 の観 測 隊 であった。後 に判 明 するのだが、
北 極 出 地 事 業 の裏 に保 科 正 之 がいた。
寛 文 元 年 12 月 朔 日 に出 立 してよ り 487 日 間 、南 は九 州 から北 端 は奥 州 津 軽 ま で 1,270 里 の旅 で、
そ の間 152 回 の天 測 を行 った。天 測 の様 子 も活 写 されるが、用 具 だけ並 べ ても、間 縄 、一 尺 鎖 、羅
針 盤 、象 限 儀 、割 円 対 数 表 ,子 午 線 儀 などの測 定 用 具 があり、子 午 線 儀 や、両 手 を伸 ばしても足 り
な い 大 き さ の大 象 限 儀 な どが 、 背 丈 の 三 倍 も あ る よ う な柱 など 家 で も 建 てる か の よ う な材 木 と 組 み 合
わせて観 測 地 に設 置 される。
旅 の途 中 、熱 田 の宿 で “4 分 半 ”の月 食 に出 会 う。建 部 は、手 持 ちの多 くの暦 を照 合 して、この食 を
予 想 した暦 が皆 無 であることを確 認 し、暦 のづれは 「二 日 に及 ぶやもしれん 」と見 る。そ の原 因 は “宣
明 暦 ”にあ ると 断 定 する 。春 海 はただ驚 く が、これが生 涯 か けて春 海 の背 負 う “ベ ン チ ャー事 業 ”『日
本 独 自 の暦 』づくりのきっかけとなる。
当 時 の暦 は天 皇 家 の息 のかかる “京 暦 ”が権 威 の筆 頭 だが、伊 勢 神 宮 の “伊 勢 暦 ”、三 島 神 社 の
“三 島 暦 ”に人 気 があり、その他 各 地 に様 々な暦 が出 回 っている。建 部 は「現 今 、世 にある暦 法 は全
て、宣 明 歴 に端 を発 している」と断 じ、その暦 法 が続 くこと「 800 年 だ」と言 えば、「まことに長 うございま
す」と伊 藤 が応 じる。建 部 は「 1 つの暦 法 の寿 命 は、どれほど優 れていようと、もって 100 年 、800 年 も
続 けて用 いること自 体 がたわけておるわ」と激 しい言 葉 を吐 く。
宣 明 暦 は天 安 元 年 、ときの暦 博 士 たる大 春 日 朝 臣 真 野 麻 呂 が唐 国 の〝長 慶 宣 明 暦 経 〟の優
秀 さを知 り、と きの清 和 天 皇 に採 用 を上 奏 した 。先 の文 徳 天 皇 の崩 御 で即 位 したば か りだった 清 和
天 皇 は代 替 わりを世 に “宣 明 ”するために宣 明 暦 に改 暦 した。以 来 、国 の暦 として連 綿 と採 用 され続
け、800 年 の間 に大 きな誤 差 を生 ずることとなった。その間 、何 度 か改 暦 の試 みがなされたが、「民 間
の手 による由 緒 悪 しき法 」などとして朝 廷 に拒 否 された。
寛 文 7 年 、春 海 28 歳 の秋 。春 海 は会 津 藩 主 の保 科 正 之 に呼 ばれて江 戸 より会 津 に向 かう。保 科
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正 之 は二 代 将 軍 徳 川 秀 忠 の御 落 胤 で、三 代 将 軍 家 光 の異 母 弟 として家 光 の信 頼 を受 け、事 実 上
の副 将 軍 として遇 されていた。
会 津 の城 中 で春 海 は保 科 に謁 見 し、恐 懼 しながら碁 盤 を囲 んだ。碁 を打 ちながらしばし雑 談 の後 、
保 科 より宣 明 歴 と授 時 歴 について下 問 を受 けた。春 海 は、宣 明 歴 については採 用 されてよ り 80 年 余
の歳 月 によって術 理 の根 本 にズレが生 じていること、 1 日 の長 さが 365.2446 日 とされているが、実 際
にはこれが長 すぎて、 800 年 の誤 差 の集 積 で、冬 至 の日 も実 際 に は 2 日 前 に過 ぎているという誤 差 が
生 じていること、いずれは日 月 蝕 の算 出 にも支 障 をきたすことになると説 明 する。
授 時 歴 については、フビライ皇 帝 の時 代 に、 3 人 の才 人 に託 してそれまでの大 明 歴 の改 暦 を図 り、
精 巧 きわまる観 測 機 器 の開 発 と 5 年 の歳 月 を費 やした天 測 によって一 太 陽 年 を 365.2425 日 と定 め
た 中 国 暦 法 の最 高 傑 作 だ と 説 明 し た。 そ こ で、保 科 よ り 春 海 に落 雷 の ごと く 「改 暦 の 儀 」が申 し渡 さ
れ る 。 「 この 国 の 老 い た 暦 を、 衰 え し 天 の 理 を 、 天 下 の 御 政 道 の 名 の も と 、 斬 っ て く れ ぬ か 」。 か つ て
下 命 された、そのための帯 刀 、そのための北 極 出 地 だったのだ。
どなたの下 で働 けばいいのかと問 う春 海 に保 科 は「そなたが総 大 将 だ」と告 げ、皆 がそなたを推 挙
したと言 って、水 戸 光 圀 、山 崎 闇 斎 、建 部 昌 明 、伊 藤 重 孝 、酒 井 雅 楽 頭 などの名 前 を挙 げた。
江 戸 の武 家 屋 敷 が並 ぶ一 角 の空 き家 を与 えられて改 暦 事 業 が始 まった。中 核 の顔 ぶれは春 海 を
幼 名 の 「 六 藏 」で 呼 ぶ 山 崎 闇 斎 、 そ れ に 会 津 藩 き っ て の 算 術 家 安 藤 有 益 、 そ の 師 で あ る 著 明 な 算
術 家 島 田 貞 継 である。さらに若 くて優 秀 な藩 士 六 名 が助 手 として働 く。総 大 将 の春 海 が群 を抜 いて
若 い。
改 暦 の大 きな問 題 は、幕 府 すなわち武 家 が改 暦 を断 行 すれば、天 皇 の “観 象 授 時 ”の権 限 を奪 う
ことになることだ。天 意 を読 み解 くことは古 来 、王 の職 務 である。それによる天 皇 の宗 教 的 権 威 を奪 い
儀 礼 や時 節 を幕 府 が支 配 することになる。さらに幕 府 が、宗 教 、政 治 、経 済 全 てにおいて君 臨 し、頒
暦 販 売 の莫 大 な利 益 を手 にすることになる。
寛 文 13 年 、春 海 34 歳 の時 、宣 明 歴 を廃 し授 時 歴 への改 暦 を行 う誓 願 を、朝 廷 と幕 府 に提 出 し
た 。 『 欽 請 改 歴 表 』 ― 謹 ん で 改 暦 を願 う と い う朝 廷 へ の 文 書 に は 「臣 算 哲 言 」 と 記 し て 安 井 算 哲 こと
春 海 が全 責 任 を負 うものであるとしながら、改 暦 は朝 廷 と幕 府 の共 同 事 業 であることを明 記 していた。
すでに前 年 、最 大 の庇 護 者 、保 科 正 之 はこの世 を去 っていた。
改 暦 への方 策 をまとめた『蝕 考 』を幕 府 と将 軍 家 綱 に献 上 した。その中 で、向 こう 3 年 間 での宣 明
歴 によ る日 月 食 の予 想 は 6 回 あるが、これに対 する授 時 歴 の予 想 と、大 統 歴 という明 国 の暦 を入 れ
て、どの暦 法 が正 しいか “三 歴 勝 負 ”を試 みることを提 案 した。
結 果 は 3 回 まで、宣 明 歴 が “誤 謬 ”をおかし、授 時 歴 と大 統 歴 の “無 食 ”すなわち日 月 蝕 なしが “明
察 ”すなわち正 解 となった。 4 回 目 は 3 歴 ともに部 分 月 蝕 を予 測 したが、授 時 歴 が極 めて狭 い時 刻 範
囲 の正 確 な予 測 で“明 察 ”となった。5 回 目 は 3 歴 ともに皆 既 月 食 を予 測 したが、この時 も授 時 歴 が
極 めて狭 い時 刻 範 囲 の正 確 な予 測 で “明 察 ”となった。しかし、 6 回 目 で悪 夢 が起 こった。宣 明 歴 は
3 分 弱 の日 食 を予 測 。授 時 歴 と大 統 歴 は無 食 と断 定 。ところが予 測 より半 刻 遅 れてかすかながら、わ
ずか 1 分 にも満 たない食 が生 じた。
江 戸 城 に呼 び出 され、黒 書 院 で平 伏 。大 老 酒 井 、稲 葉 ら老 中 、上 座 に水 戸 光 圀 、上 段 に将 軍
家 綱 。「面 を上 げよ安 井 算 哲 」といつもと変 わらぬ淡 々とした大 老 酒 井 の声 にも顔 を上 げられぬ春 海
に、「顔 を見 せよ算 哲 」と猛 獣 の唸 るような光 圀 の声 。魂 魄 が砕 けた思 いでしどろもどろに詫 びる春 海 。
光 圀 の低 い 唸 りは哀 れみ の嘆 息 だった。酒 井 老 中 の「算 哲 の言 、また 合 うも あり、合 わざ るも あり」の
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一 言 があり、この一 瞬 で改 易 の機 運 が消 滅 した。
春 海 は、幽 霊 のように会 津 藩 邸 で無 為 に過 ごしていたが、8 ヶ月 経 ったころ、春 海 が“誤 謬 ”を出 し
た翌 日 、磯 村 吉 憲 算 学 塾 を訪 れた関 孝 和 が、算 学 勝 負 の壁 に春 海 宛 の設 問 を貼 っていったことを
知 った。春 海 は畏 敬 す る関 の出 題 に驚 愕 し、戸 惑 いながら、問 題 見 たさにふらふらと磯 村 塾 に出 向
いた。
「渋 川 春 海 殿 」に宛 てた「関 孝 和 」の問 題 は、面 積 の異 な る 2 つの円 、月 円 と日 円 が一 部 で重 なる
図 を示 して、「日 月 の円 が互 いに触 交 している。日 円 の面 積 で月 円 の面 積 を割 ると四 寸 五 分 になる。
日 月 の触 交 している幅 の長 さを問 う」というもの。日 と月 、その触 ーあきらかに春 海 が敗 れた三 歴 勝 負
にちなんだ設 問 だった。
「分 からない。なぜだ」。春 海 は苦 悩 する。この問 題 は答 えようのない “病 題 ”ではないか。回 答 があ
る と す れ ば 、回 答 不 能 を 意 味 す る “無 術 ” の 二 語 の み で は な い か 。以 前 、 春 海 が こ の磯 村 塾 の算 学
勝 負 に自 信 をもって出 題 した設 問 を、関 が“無 術 ”と切 り捨 てたことがある。その “無 術 ”の“病 題 ”をな
ぜ自 分 に示 すのか。
春 海 は手 紙 で承 諾 を得 て、勇 を鼓 して関 の邸 を訪 問 する。会 うなり春 海 は、「この盗 人 がッ!」と関
の 怒 声 を浴 び 、 世 の算 術 家 の 数 理 を勝 手 に利 用 す る 盗 人 と して罵 られ 、部 屋 に あった 紙 の 束 や 筆
や筆 箱 や硯 を投 げつけられる。そして、あれほど数 理 を理 解 したお主 が、授 時 歴 そのものが誤 ってい
るとは思 わなかったのかと怒 鳴 られる。やがて、怒 りを収 めた関 が大 量 の紙 の束 を持 ち出 して「持 って
いけ」と春 海 に託 す。それは授 時 歴 に関 する膨 大 な考 察 だった。
「天 理 は数 理 と天 測 のどちらが欠 けても成 り立 たぬ。わしに解 けたのは数 理 と天 測 の狭 間 のどこぞ
に誤 りがあるはずだということだけだ。あとを頼 めるのはお主 だけだ。授 時 歴 を斬 れ、渋 川 春 海 」と諭 さ
れる。
それから 1 年 余 、延 宝 5 年 。春 海 38 歳 。改 暦 事 業 関 係 者 に再 起 を伝 え、協 力 を呼 び掛 けたが、
幕 府 の支 援 のないままの改 暦 に大 半 の者 が懐 疑 的 だった。さらに「授 時 歴 自 体 に誤 謬 がある」とする
春 海 の説 に、授 時 歴 の精 密 さを知 っている、数 理 と歴 術 に精 通 している者 ほど懐 疑 的 で、春 海 の正
気 さえ疑 った。「精 密 なら触 を外 すかいな」と春 海 の説 を受 け入 れたのは山 崎 闇 斎 だけだった。
そこで春 海 に天 啓 のよ うに閃 いたのは 、天 を眺 めよ うとする前 に、足 下 の大 地 を再 設 定 すべきだと
い うこと だ。そ れこそ 、か つて北 極 出 地 で伊 藤 重 孝 か ら託 された一 事 だった 。中 国 か ら伝 え られた星
の相 と地 の相 、そのつながりを全 て日 本 独 自 のものに置 き換 えるべきだということだ。
北 極 出 地 か ら 16 年 、培 った知 識 と 技 術 を総 合 して、各 地 の緯 度 、詳 細 な星 図 、天 測 と数 理 、神
道 の奥 秘 、それらを丹 念 に矛 盾 なく結 び合 わせ、その上 で中 国 占 星 術 の “分 野 ”という技 術 を適 合 さ
せ てい く 。足 か け 2 年 をか けて「天 文 分 野 之 図 」が 完 成 し、出 版 した。 星 図 が全 国 各 地 の大 地 に照
応 されている。星 々の位 地 や触 などから各 地 の “吉 凶 ”も一 目 瞭 然 であり、江 戸 の天 文 家 、京 の陰 陽
師 、各 地 の僧 侶 が唸 り、無 縁 の人 々の間 にまで “天 文 図 ”がひとつの図 形 の美 として取 り入 れられた。
次 いで「日 本 長 歴 」を発 表 してまた世 間 の注 目 を浴 びた。これは闇 斎 の提 言 によ る “歴 註 の検 証 ”を
春 海 が神 代 の過 去 まで遡 って当 てはめたものだ。
この「偉 業 」の裏 には 水 戸 光 圀 の支 えがあった。「水 戸 が助 ける。必 要 なものはあるか」と 威 圧 する
か の よ う に 激 励 し 、 春 海 の 願 い を入 れ て 、 当 時 、 禁 書 と さ れ て い た 西 洋 の 関 係 文 書 な ども 密 か に 入
手 して春 海 に与 えていた。
四 代 将 軍 家 綱 が 40 歳 の若 さで急 逝 した。老 中 堀 田 正 敏 が電 光 石 火 の動 き で 3 ヶ月 後 には家 綱
4
の異 母 弟 で ある綱 吉 を五 代 将 軍 に擁 立 し、幕 府 の権 力 を握 った 。この動 きを淡 々 と眺 め ていた、春
海 の後 ろ盾 だった酒 井 が大 老 職 を罷 免 され、家 督 を息 子 に渡 して隠 居 した。
間 もなく春 海 は酒 井 邸 に呼 び出 されて碁 の相 手 をする。酒 井 が「まだ、天 に手 を伸 ばし続 けている
ようだな」とつぶやき、人 を呼 んで持 ってこさせたのは春 海 が見 慣 れたあの二 刀 である。 22 歳 でいきな
り与 えられ、しくじって 37 歳 で返 納 させられたあの二 刀 が、 41 歳 のいま、再 び春 海 の前 に置 かれた。
「もとは保 科 公 が用 意 させた刀 だ。今 度 は給 金 から天 引 きされることはない。わしが買 ったものだ」。
さらに、か なりの金 子 が詰 め られた重 そ うな袋 が刀 の脇 にお か れた。「金 は使 い たい よ うに使 え。だが
改 暦 の儀 を成 すときは、刀 を差 しておれ。保 科 公 が望 んだことだ」。武 家 の手 で文 化 を創 出 し、もって
幕 府 と朝 廷 の安 泰 をなすというのが保 科 正 之 の願 いだった。
3 年 後 。春 海 は最 終 的 な検 証 をひとりで続 けた結 果 、大 地 を見 て、天 を見 て、どちらにも誤 謬 があ
ることが分 かり、その正 しい姿 がにわかに出 現 した。一 つは大 地 。授 時 暦 が作 られた中 国 の緯 度 と日
本 の緯 度 、その差 が術 理 に誤 差 をもたらしていたことが判 明 した。すなわち中 国 と日 本 で、観 測 地 の
緯 度 が変 わることで “里 差 ”が生 じ、中 国 で “明 察 ”の授 時 暦 も日 本 では “誤 謬 ”となる。それを、北 極
出 地 以 来 、天 元 たる北 極 星 が早 くから教 えてくれていたことに、ようやく春 海 は気 づいた。
いま一 つは天 体 の運 行 。春 海 が集 めた太 陽 と月 に関 する膨 大 な天 測 数 値 の検 証 から地 球 そのも
のの動 き 、太 陽 の周 りを公 転 する 地 球 の動 きが一 定 で ないこと が判 明 した。す なわ ち地 球 は近 日 点
通 過 の時 もっとも早 く動 き、遠 日 点 通 過 のとき最 も遅 く動 き、その通 過 点 も徐 々に移 動 していくことで
地 球 の軌 道 は太 陽 を巡 る楕 円 となる、ということが判 明 した。
大 地 たる緯 度 の差 。天 における近 日 点 の誤 差 。この 2 つが『算 哲 の言 、また合 うもあり、合 わざるも
あり』と、酒 井 に厳 しく断 じられたあの言 葉 を招 いたのである。春 海 44 歳 、実 に北 極 出 地 か ら 22 年 の
歳 月 を経 て天 に触 れた瞬 間 、春 海 の頬 が涙 に濡 れた。天 と地 の誤 謬 を見 出 してのち、正 しい数 値 と
数 理 をもって整 えた春 海 の暦 法 に、関 孝 和 が「大 和 暦 」と名 付 けてくれた。
春 海 は 老 中 で あ り 京 都 所 司 代 を つ と め る 稲 葉 正 通 の つ て を頼 り 、 大 不 況 と 緊 縮 財 政 に あ え ぐ 大
老 堀 田 正 敏 を頒 暦 が 幕 府 に 財 を も た らす と 利 で 説 き 、 「 二 刀 を差 す こ と をお 許 し 下 さい 」 と 、 武 家 の
代 表 として改 暦 事 業 を進 めることの求 めに、堀 田 は「そなたが朝 廷 を出 し抜 ければな」としぶしぶ応 え
る。
このころ 、宣 明 暦 の誤 謬 が広 く知 られて朝 廷 が改 暦 に乗 り出 してお り、ついに時 の霊 元 天 皇 の勅
により、陰 陽 頭 たる土 御 門 家 が改 暦 事 業 を行 うことになった。天 皇 による改 暦 の勅 で公 家 が行 う改 暦
事 業 に武 家 の割 り込 む余 地 はない。幕 府 は落 胆 し、嘆 息 した。
と ころ が 京 都 所 司 代 を通 して、幕 府 に書 状 が届 けられ た。 『暦 法 家 と して、また 神 道 家 と して名 高
い安 井 算 哲 様 に、改 暦 の儀 に参 加 してもらいたい-』。土 御 門 家 からの要 請 だった。
土 御 門 家 の当 主 、泰 幅 は好 奇 心 旺 盛 な 29 歳 。自 分 に改 暦 を担 えるだけの力 がないことも公 家 層
に 暦 法 を 解 き 明 か せ る 人 材 が い な い こ と も 知 っ て い る 。 そ の 泰 幅 に 春 海 は「 私 が 弟 子 で 、 泰 幅 様 が
師 。それが一 番 、うまく行 きます」と言 う。泰 福 は感 激 し、恐 縮 する。
この時 、朝 廷 は三 者 分 裂 を起 こした。ひとつは “民 暦 反 対 派 ”で、春 海 の大 和 暦 より中 国 の官 暦 で
ある大 統 暦 を採 用 すべきだとして強 力 な工 作 を始 めていた。いま一 つ は、授 時 暦 の採 用 を願 う一 派
である。かつて春 海 が改 暦 に失 敗 して以 来 、むしろ授 時 暦 の優 秀 さが世 に伝 わり、これを用 いる者 が
増 えていた。
内 実 は、暦 博 士 の賀 茂 家 など大 統 暦 を推 す一 派 が、授 時 暦 を推 す一 派 を背 後 で操 って大 和 暦
5
を支 持 する人 々を分 裂 させ、春 海 を京 に招 いた安 倍 家 ごと蹴 落 とそうとするなど、それぞれの思 惑 で
策 を巡 らし、三 者 がそれぞれの暦 の採 用 を上 奏 した。
貞 享 元 年 3 月 、霊 元 天 皇 は改 暦 の詔 を発 布 した。主 立 った面 々が一 堂 に会 して決 定 を待 った。
結 果 は 大 統 暦 採 用 となった。この時 、春 海 45 歳 。大 統 暦 改 暦 の詔 が発 布 されたこの日 、春 海 はか
ねてより書 きためて用 意 していた 280 通 にも及 ぶ手 紙 を出 した。費 用 は全 て酒 井 が出 してくれた金 で
賄 った。加 えて、堀 田 に対 して詳 細 な手 紙 をしたため、早 急 に届 けさせた。
膨 大 な手 紙 が一 斉 に出 されるのに唖 然 となっている泰 幅 を誘 って、しっかりと二 刀 を腰 に差 した春
海 は 梅 小 路 に向 か った 。そ こには 、巨 大 な天 測 器 具 が大 勢 の者 たちによ って組 み 立 てられていた 。
か つて北 極 出 地 に同 行 した中 間 たちが働 いていた。子 午 線 儀 を組 み立 てている。一 尺 鎖 をじゃらじ
ゃら鳴 らしながら器 具 設 置 の場 所 を決 め、手 に手 に特 異 な形 状 をした道 具 を持 ち、往 来 のど真 ん中
に家 屋 でも建 てるような柱 を次 々に立 ててゆく。異 様 な光 景 に人 々が足 を止 め、人 だかりができる。
「春 海 様 、なんですかこれは」と棒 立 ちになる泰 幅 に「大 和 暦 の確 かさを、世 の民 衆 に分 かってもら
うためです」と春 海 が答 える。
や がて巨 大 な子 午 線 儀 が組 み上 げ られ、京 市 民 が驚 きの声 を上 げ る 。さらに大 象 限 儀 の組 み立
てが進 むのを横 にみながら、春 海 は泰 幅 を促 して子 午 線 儀 の下 に敷 かれた非 毛 氈 に坐 る。そろばん
を取 り出 してぱ ちぱ ちと 珠 を打 つ。そ れ から、さらさらと紙 片 に数 値 を書 き 込 ん でいく 。「何 をしている
のです」と問 う泰 幅 に「北 極 出 地 の予 測 です」と答 え、いま出 した現 在 地 の予 測 「三 十 四 度 八 十 七 分
十 二 秒 」という数 値 を見 せ、「一 緒 にやりませんか」とそろばんをわたす。泰 福 が、おずおずと受 け取 り、
眉 間 に皺 を寄 せて算 出 する。
「 三 十 四 度 九 十 八 分 六 十 七 秒 」。 さ す が に 地 元 で 天 測 を 行 う 陰 陽 師 の 末 裔 だ け あ っ て す ぐ 数 値 を
算 出 し た 。 そ の 時 、空 にき ら め き がみ え た 。 「 星 だ ! 天 測 を 開 始 せ よ 」。 春 海 の 大 声 で 、 中 間 達 が大
象 限 儀 を操 作 する。手 順 を踏 んで出 た数 値 を紙 に記 して春 海 に手 渡 した。
「三 十 四 度 九 十 八 分 六 十 七 秒 」
泰 幅 もぽ かんとなっている。秒 までぴたりと合 うとは思 っていなかったのだろう。「明 察 なり!土 御 門
家 当 主 、見 事 、北 極 出 地 にて明 察 なり」。春 海 が声 を限 りに叫 んだ。なんだか分 からないままに見 物
人 がや ん や と 喝 采 した。 この日 以 来 、連 日 観 測 が行 われ た。北 極 出 地 だけでなく、 恒 星 を片 っ端 か
ら観 測 し、春 海 と泰 幅 の予 測 勝 負 が行 なわれた。
刀 を差 し た春 海 と 陰 陽 師 の出 で 立 ちの 泰 幅 の “ 勝 負 ”が 衆 目 を集 め 、 江 戸 が 勝 つ か 京 都 が 勝 つ
かと銭 が賭 けられ、 “大 和 暦 ”の評 判 が高 まった。一 方 、春 海 から手 紙 を受 け取 った神 道 家 、朱 子 学
者 、僧 、陰 陽 師 、算 術 家 などがやって来 た。自 然 にこの小 路 で、今 回 の詔 と代 々の暦 法 について議
論 が沸 いた。梅 小 路 は民 衆 をひっくるめた公 開 討 論 の場 となり、多 くの専 門 家 達 が大 和 暦 を賞 賛 し
た。
そ の間 にも、春 海 の打 ったさまざまな布 石 が効 果 を発 揮 した。すでに、大 老 堀 田 および 将 軍 綱 吉
が 、春 海 の要 請 に同 意 し、土 御 門 泰 幅 を「諸 国 陰 陽 師 主 管 」と し、朱 印 状 を下 してい た。 全 国 の陰
陽 師 を配 下 と する実 益 は莫 大 なものと なる。さらに先 の詔 による改 暦 事 業 の折 りに、改 暦 手 当 と して
土 御 門 家 に千 石 の現 米 支 給 を取 りはからっていた。
さらに朝 廷 と幕 府 の間 で起 こるであろう頒 暦 を司 る上 での両 者 間 の取 り決 め、さまざまな権 利 交 渉
を進 めさせていた。それは、改 暦 に際 し、損 を受 ける者 には別 の形 で得 をさせる。その繰 り返 しであっ
た。
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事 は布 石 通 りに進 んだが、春 海 の予 想 外 の出 来 事 といえば、公 家 の者 たちの心 変 わりの早 さだっ
た。そ れまで官 暦 に固 執 していた公 家 たちが、揃 って土 御 門 家 になびき、春 海 と大 和 暦 に賞 賛 を送
るようになった。
さらに勝 負 の一 手 を打 った。かつて北 極 出 地 の折 りに春 海 たちを城 に招 いてくれた加 賀 藩 主 前 田
綱 紀 が春 海 の要 請 によ って動 いた。綱 紀 の娘 の嫁 ぎ先 である西 三 条 家 が仲 介 し、霊 元 天 皇 に最 も
近 い関 白 一 条 兼 輝 に働 きかけた。兼 輝 は大 和 暦 支 持 を確 約 し朝 廷 内 で公 言 した。
この直 後 、春 海 は 以 前 か ら目 を付 けてい た 大 経 師 意 春 と会 った 。大 和 暦 の作 成 と販 売 を一 任 す
る ことで 、京 都 所 司 代 たる老 中 稲 葉 によ る 認 可 を与 えよ うと いうのである。大 経 師 はそ の巨 利 に飛 び
つき、大 和 暦 以 外 は作 成 ・流 通 させないという予 想 外 の申 し出 までした。
路 上 での公 開 討 論 、世 論 形 成 、土 御 門 家 への朱 印 状 、関 白 の確 約 、販 売 網 の掌 握 。とてつもな
い手 の数 々によって、ついに大 統 暦 支 持 派 は壊 滅 状 態 になった。
貞 享 元 年 10 月 29 日 。霊 元 天 皇 は、大 和 暦 改 暦 の詔 を発 布 した。 3 月 に大 統 暦 改 暦 を発 布 して
から僅 か 7 ヶ月 だった。大 和 暦 は改 めて年 号 を冠 し、「貞 享 暦 」の勅 名 を賜 った。
本 書 はこの後 、最 後 の 6 頁 ほどで、春 海 の幕 府 天 文 方 初 代 任 命 から 77 歳 で没 するまで 30 年 間
の春 海 を巡 る毀 誉 褒 貶 、恩 を受 けた人 々や懐 かしい人 々との死 別 、陰 に日 向 に支 えてくれ た 2 度 目
の妻 えんとのより添 いなどを、足 早 に余 韻 深 く記 している。
春 海 は正 徳 5 年 10 月 6 日 、77 歳 で眠 るように没 した。えんも同 じ日 に目 を閉 じた。本 書 は、しなや
か に 強 く 生 きた男 と 時 代 を、 文 献 を踏 まえ て活 写 し た前 代 未 聞 の エン タ テイ メン トで あ る。 2010 年 の
「本 屋 大 賞 」を受 賞 した。
(山 勘 2012 年 3 月 )
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