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戦後開拓農地として解放され全国より入植者が集まった。
(旧)陸軍の演習場だった平原は、戦後開拓農地として解放され全国より入植者が集まった。 しかし、風が吹けば砂嵐と化し、雨がふれば歩くことも困難な泥土となり、 真冬の寒さ ではカチンカチンに凍り付く土地は農地として適さず、過酷な労働が待ち受けていた。 砂埃が凄かった演習場 農業経験もない入植者達は、農作物は種を蒔き こまめに水さえ与えていれば作物が出来るもの と信じていた。しかし、痩せている土地では作物 は実らなかった・・。 ←号砲台 「 なぜ・・?作物が出来ないんだ!」 原因すら分からない日々が続き、生活は極貧 だった。 しようしや 最初の共同作業のため、入植者が泊まった 廠 舎 (昭和20年) *実籾にあった廠舎(演習に来た兵士の宿泊所) みんなが貧乏だったので助け合わないと生きられない時代、入植仲間の絆も強くなって 喜びも悲しみもみんなで分かち合った。子ども達も親の労働を一生懸命手伝っていた。 『茅葺きの我が家』 昭和21年(1946)春:撮影 それでも入植者達は、蒔き等を売って得る僅か な収入でも、蒔きの買取り業者にカメラを所有 する人物がいたことから、自分たちの生活を写 した写真を代金の代わりに譲り受けていた。 このことは、後生の者へ開拓の歴史を語る上で 大変貴重な財産(資料)となった。 周辺の農家で勉強しながら、やっと農地らしくなってきたのは、入植から5~6年が 経った頃であった。掘っ建て小屋だった我が家も、やがて国から現物支給のされた 7坪の家に住めるようになった。しかし、建付は悪 く、隙間風もあちらこちらから入り込み、雪が吹雪 く時などは家の中まで雪が積もった。