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春裁の英語稽古

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春裁の英語稽古
1
春裁の英語稽古
山
人への気持の上の接近が始まっていることで
ここで思うことは筆者がようやく春獄その
(寸第一部上﹂)といった工合にである。
てどう見てきたか。グリフィスはその時代の
つまり明治をその同時代に生きた外国人とし
である。これらの底に流れているのは日本人
歴史の変遷を系統的に書物で発表してきたの
ところに飛び込んでみようというのである。
ある。曲りくどい言い方をしたが、春闘獄のふ
しかしその力はない。そこで先ず垣間見るこ
の精神へのあくなき興味にあった。であるか
らグリフィスの関心はすぐれた人格と実行力
は春巌を直接に知るグリフィスのいることが
との出来ることから始めるしかない。それに
その一人が春巌であった。明治という大変
見ていたかについて、筆者は誤謬はあっても
大きな頼りになる。グリフィスが春闘獄をどう
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
を有する日本人に向けられていた。
した人が松平慶永すなわち春緑であった。春
いっても許せるといった不遜な態度よりは、
誤解はないと信じている。外国人だから何を
革にあたって生みの苦難の時に生涯の仕事を
てであった。われわれは三上一夫氏の著作を
援の活躍の場所はこの広い日本の江戸に於い
態度を望みたい。外国語または洋学について
とも知りたい。
春闘獄がどのような認識をしていたかというこ
とりわけ春巌には英語の出来る小姓がいた。
る。従って筆者の参考にした資料は主に福井析のお蔭をもって理解することができる。
に所蔵のものが多い、筆者はこれまでグリフ前﹄のなかで幕末維新の政情の背景にたびた
ラトガl ス 大 学 の グ リ フ ィ ス ・ コ レ ク シ ョ ン な 文 学 の な か で も 例 え ば 島 崎 藤 村 は ﹃ 夜 明 け
福井藩一雇一入の契約についてその日本語と英語
であった。また春闘獄は出浦からユニオン・リ
の文書作成に直接関与したのが通訳者の出浦
出浦(いでうら)力雄である。グリフィスの
イスの著した日本についての多くの書物を読春獄は、公式合体の成功もおぼつかないと断
のことで、明治三年、大学別当と侍読を免ぜ
ーダーの個人授業を受けていた。明治十四年
春闘獄の英語稽古
んで、明治の日本を知るにはグリフィスの考念してか、事多く志と違うというふうで、政
山下
え方が大いに役立つものであることを知った。事総裁の職を辞して帰国したといい、﹂
その生涯の歴史を調べてきた。とくにグリフ志士の意気を高め﹁当時、京都にあった松平
イスという人の人間としての魅力にひかれて、ぴ春巌を登場させている。生麦事件は討幕の
市立郷土歴史博物館の春巌公記念文庫と米国(﹃公武合体論の研究﹄他)また小説のよう
外国人ながらによく見ているといった謙譲な
40の 1
この小文は福井藩の藩校明新館教師グリフ読むことで、幕末維新の政局に越前藩が臨ん
英
イスの側から見た春厳について書くものであだ公武合体の議論の歴史的役割をその鋭い分
下
2
若越郷土研究
四十巻一号
られ、多年の勲功により、由実日関紙候の待遇
を受けて、文筆生活に入ってから十年の歳月
がたつている。しかし春獄の最初の英語稽古
はおそらく明治三年頃に福井藩士永見裕(ゆ
)3
﹂口出
HFo りのえ}回。同司巾ロ仏国-25(﹀
きた資料のおそらく一部が今日、記念文庫で
見ることの出来るグリフィスの福井在住の印
象を書いた原稿、明治初期の福井の写真、春
ゆえ。ロ件。ご同℃告が冨c号吋ロ呂田宮司
出獄や役人からグリフィスへの日本語の手紙の
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EDえ250己ー﹄同匂同ロョ
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2
3
nENgω}己口問同}
類であろう。
紙の中に書いた。そして手紙のところ戸¥で
井の事情を描写したものだとグリフィスは手
これらは一九一七年(大正六)、ニューヨー
津兵学校の福井藩員外生﹂参考)その頃、西 E
npz・円・)に住むグリフィスから春山獄の
周の新政府徴命による上京にともなって春巌 同
実子で東京麻布の松平慶民に送られていた。
グリフィスは春巌への尊敬の気持を伝えて惜
(﹁若越郷土研究﹂三十八巻一号。拙論﹁沼
と同時にグリフィスから慶民宛の五通の手紙
しまない。﹁たしかに、父上は日本国の偉大
たか)の教授によって始まったと思われる。
が出されていた。大正六年六月二日付、同年
先 に あ げ た タ イ プ 原 稿 の ﹁a﹂﹁b﹂
ク州イサカのグレン・プレース(色。ロ宝白n
o
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﹁C﹂は一八七O年 か ら 七 一 年 に か け て の 福
の命により六名の福井藩員外生を率いて沼津
七月二十六日付、同年七月三十日付、同年八
J
の懇請により西が聞いた学塾、育英舎の塾頭
兵学校から上京した永見は、これもまた春巌
大正六年というと第一次世界大戦が終盤に
どめるに値する人物です。﹂(六月二十一日
印
巾
巾EmBg) の 一 人 で し た 。 記 憶 に 永 く と
で 先 見 の 明 の あ る 人 物 ( 同d o mg
円 F E円
入って、米国、中国とあいついで対独宣戦を
月六日付、周年十月八日付である。
以上のようなことで今回の小文は春巌につ
付)﹁あなたの父上のごとき立派で偉大な人
格であった。
いてのグリフィスの評価と春巌の英学につい
物(由。君主自己mHBFESB三日貯同町立
の名誉と名声に役立っために提供できればこ
している年でもあった。慶民からの依頼を受
紙である。筆者にはまだ慶民からの手紙を見
んなにうれしいことはありません﹂(七月三
けてグリフィスがよろこんでそれに応じる手
る手掛りがないので、グリフィスの手紙でし
ての二つのことを書くことにしたい。
春闘砿公記念文庫にはグリフィスの未発表の
ω
って食事をした時のことを書いた第一頁が紛
失していたという。さいわいにそれを補うべ
住した一八七一年の福井の様子を知る資料と
w
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d司己]UB グリフィスの見た春巌といったような文章を
F
Eぽ 吋
宮口口阿国
くグリフィスの姉マギl宛の手紙がある(グ
OWMNO 田口色
タイプ原稿四篇がある。すなわち、
か判断できないが、慶民が福井藩の歴史を春 十日付)と書いている。その原稿﹁ aしだが
a R﹀ ロ ﹀ng己巳丘冨可百円件冨2 江口問 援の伝記から書こうとして、グリフィスが在 十月八日付の手紙によると、春闘獄と初めて会
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当
日
円}
巾門戸
懇請したと察せられる。その結果、送られて
EWES色 。 包 括 吾R0・
同
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山
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『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
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は踊りといったことが好きなところはなく、
その言訳に事欠かない。また福井では東京の
けたり、浮かれ騒ぎの昼一はお祭り、月の晩に
ように拳銃を持ち歩く必要はない。友人や学
ぃ。それは一八七一年二月十五日付の手紙で、さいことを別にして、全体として事がうまく
の別荘、筆者注)でアメリカから来た化学のをくれるよう望む。﹁一展、王﹂たちはグリフイ
午後十一時、寸越前春山獄公の屋敷(東京橋場運んだ。春森公はグリフィスにたび/¥手紙
である。まさかのときに客人のためなら生命
生といっしょならば外国人教師の生命は安全
リフィス・コレクション所蔵)ので紹介したは﹁臭いしといって敬遠された。こういう小
で始まっている。春巌公は小かった。このことがあってグリフィスにとっ
先生のために聞かれた盛大な夕食会から帰宅スの期待以上に歓待してくれて、申し分がな
本は万でなく、万人に適用される法律によっ
をよろこんで犠牲にするほどで、越前人が日
したところだ
姓(同
ZEmo) を フ ル ベ ツ キ と グ リ フ ィ ス の て 東 京 に い る 問 、 春 巌 は 歓 迎 し て く れ る 後 援
て治めるべしと決心した最初の人々であった
L
山田)であった。
ところへ使わして、四時に来るよう招待した。者(ヨ可君。85zmZ2
白 8
O五 年 は 、 日 露 戦 争 の 戦 後 処 理 で あ る 日 露 講 か ら だ 。 こ れ は 五 箇 条 の 御 誓 文 の 第 一 条 の 後
こ の 小 姓 と い う の が 出 浦 力 雄 で あ っ た と 思 わ こ の 原 稿 ﹁a﹂ が 書 か れ た と 思 わ れ る 一 九
れる。春獄公の外に五人のお歴々がいた。タ
は お そ ら く 水 仙 、 梅 と い っ た 早 春 の 花 で あ つ が 死 去 し 、 そ の 著 書 ﹃ 日 本l 一つの解明│﹄
いて、この誓文の起草者が越前藩士三岡八郎
食 は 洋 式 で 、 食 卓 を 飾 る 美 し く 大 き な 花 束 と 和 条 約 の 調 印 が あ り 、 ラ フ カ デ ィ オ ・ ハ l ン 半の部分﹁万機公論に決すべし﹂を意味して
(由利公正)であった。
たのは最初であった。役人たちはスlプ を 大 ( ﹃ 心 ﹄ 一 八 九 六 年 刊 の 随 想 集 ) を 献 呈 し た
慣れていたが、役人の二人は西洋料理を食しいているという。ハ l ンがその著書の一冊
ンパンが出た。春闘獄公は明らかに外国料理にに見ているが、ハ│ンなどは人伝に聞いて書
ビ│ル、シエリl、 赤 ぶ ど う 酒 、 そ れ に シ ャ で あ っ た 一 八 七 一 年 、 藩 政 時 代 の 福 井 を 実 際
あった。約十か十二口聞の料理が出た。注文では明新館という名称を使わない)の理化教師
とした。つづいて春闘獄の仕事は横井小楠が最
のサムライ、すなわちミカドの召使になろう
られた大君との間の調停の中心となって、真
た。従って、春山獄は新しい政府と辞職を強い
尊敬する熱烈な支持者の先頭に立つ人であっ
まず、将軍家の親類筋にあたる上にミカドを
ではグリフィスは春闘獄をどう見ていたか。
たろう。銀、クリスタルガラス、磁器の食器が出版されている。グリフィスは福井藩学校
きな音をたてて食べる。その一人はフィンガ相手の悶森信成などはグリフィスの生徒であ
えている、一八六六年)を米国へ急派したの
初に日本人学生(甥の二人をグリフィスは教
も 豪 華 で 、 ナ プ キ ン と ワ イ ン グ ラ ス も 完 壁 で ( 己58]ぽ 唱 え F
H
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o
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-、何故かグリフィス
│ボl ル の 水 を 飲 ん だ 。 け れ ど も ス プ ー ン 、 っ た が 、 福 井 城 の 濠 を 渡 っ て す ぐ の 屋 敷 に 住
に続いて助力と技能の交換を要求して、お一雇
ナイフ、フォークが初めてのわりには私や姉んでいたといいたかった。福井ほど住人がい
春出拡の英語稽古
さんが箸を使うよりは上手に使った。チlズ ろ い ろ ご 馳 走 を 作 っ て 食 べ た り 、 遊 山 に 出 か
山下
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
4
の町で経験するのは、陸軍士宮に船をエレキ魂をもって個性的に表現していったところに
ソウル
地雷でどう爆破するかと訊かれたり、兵学所最大の特色があり、その精神活動にあやまり
四十巻一号
い外国人を採用したことである。陽明学(プ
若越郷土研究
ラグマテイズム)派の横井平四郎は春巌が政
物を手に、もう片方の手に銭をにぎって新し一九一五年、念願の明治のミカドについて
の学生がオランダ語から訳した要塞構築の書は無いと思う。
い 土 塁 の 模 型 を 作 っ て い る の を 見 る こ と で あ の 著 書 の 出 版 が あ っ た 。 ( 吋 常 ﹄hsa
号
事総裁職の時の助言者(グリフィスのいう
同
ごgnZ円)であった。参勤交代制の
告EE
った。﹂﹃言及
て春巌の越前は道徳的にも社会的にも最も立
要視している。小楠の働きが大いにあずかつ
イスは横井小楠の改革的で倫理的な働きを重
という見方も粗であるがおもしろい。グリフ
照に、ミカドの京都が革命の中心地になった
とであろう。最後に強い印象として残ること宏司色。℃B巾口同)が働らいていてむしろ違和感
いる。これはグリフィス自身が故意にしたここにはグリフィスのいう自己開発(印色町ー
住む様子のところで切れていて残りが欠けてでのその実在を具現化することにあった。そ
してきた。原稿は十三葉から成るが、町民のテイ)を有する人物として新しい制度のなか
ら 春 巌 と 越 前 に つ い て 興 味 の あ る 部 分 を 紹 介 る ミ カ ド を 、 神 格 者 で な く 人 格 ( パ l ソナり
これまで筆者はグリフィスの原稿﹁a﹂ か 目 的 は 王 政 に 復 古 し た 明 治 国 家 の 支 配 者 で あ
SHN.03bsh同
派で進歩した、言論の自由な藩として有名に
は、まず第一に春獄の尊皇精神(これは決しがない。これはまたグリフィスの得意とする
この書物の大きな
破壊を達成したのもこの職にあった時で、大
33S)
名が消えて江戸が地方の町に変わったのと対
なったという。社会的に最下層の非人の人権
吾巾田口宮5吋 ) 。 次 に 横 井 小 楠 の 実 践 的 働 き 人 格 に た い す る 期 待 が 大 き い だ け に 、 外 国 人
て武士道と矛盾しない)、(、、月ZEROR 人物史でもあるが、とりわけ著者のミカドの
封建時代から培った日本人の約束を堅く守
を認めることを提案したのも小楠であった。
る習慣、すなわち互に義務を果す義理固い習
(任。叶え2 5え04 山
口
己 27片
山-zσ03 え の あ ら わ し た す ぐ れ た 明 治 天 皇 論 に な っ て い
ペowo日)が春山獄の思想形成に力のあったことる。この書物には﹁越前。将来を見通した改
込んで行く時の正当な理由にもなった。日本
ことが米国を離れ、また東京から越前に飛び
聞いて知っていた。この最高の保証があった
とをグリフィスは米国留学の日本人学生から
ドを工夫した英語文章を通して諸国の読者に施政にたずさわることを提案した。いわゆる
賛美した。グリフィスの書くものはエピソl
教師の招轄に自由と先見の明のあったことを政治改変については越前春巌は統一派(白
ある。そして春巌がその仕事のなかで外国人と題する一章がある。
を グ リ フ ィ ス は は っ き り 洞 察 し て い た こ と で 草 者 ﹂ (HWHEN
定包何色252)
巾口一任巾司何回訪日m
慣のあること、すでに政治の安定しているこ
のナショナリズムは胎動期でまだ理論の段階
日本のありうべき姿を単なる報告記事でなく、公武合体論である。一八六三年(文久三)、
d 巳 O口町丹)であり、ミカドと将軍が協力して
であった。軍隊といってもグリフィスが福井
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
5
軍制廃止などの協議をつづけた。春巌はすべ
スは書く、富山町包-02C は 日 夜 御 所 に い て 将
った。この偉大なミカド主義者(とグリフィ
と信頼を得て、朝廷の評議に参与する身とな
フィスの主観がとらえた春獄像であり、いわ
は伝記のようなものではなく、あくまでグリ
春巌の人格について述べたものである。それ
偉大な人物であったという大前提のムとで、
送られてきたようである。この論文は春巌は
ない。猪疑心をもって見る人にはこのグリフ
見の明をもつことのできる心でなければなら
の問題に出会った時に、事実を正視して、先
れない自由な心のことであるが、それが現実
が良心といっているのは、何ものにも束縛さ
3 る用意のある真の宗教人が春巌であり、だか
肘岳山間口 ω
タ イ プ 原 稿 ﹁d ﹂の E
FEm円}
白2
は資料原稿寸 a L J D L ﹁C﹂ よ り 一 年 後 に ら こ そ 偉 大 だ と い う こ と に な る 。 グ リ フ ィ ス
春巌は御所の勤番を命ぜられ、ミカドの好意
一された平和な国が、戦うことなくして実現
ての力が玉座に結集し、一天の君のもとに統
米国総領事タウンゼント・ハリスの通商談判
り同定することは筆者には出来なかったが、
れていて、それが実際にどの建白書かいきな
ここにはまた春獄の建白書の一つが採用さ
も春巌は真に宗教的であると感じたという。
かし、そういうグリフィスのような外国人に
った教えについてほとんど知っていない。し
信仰していて、日本の神道、仏教、儒教とい
グリフィスはキリスト教という一つの宗教を
山獄の宗教という文章である。いうまでもなく
ば文学描写に近い。なかでも興味あるのは春
には﹁良心﹂という根本的な命題が前提にあ
めて教えられる。﹁自由﹂という言葉の概念
己gno) の あ っ た こ と を 概 略 的 だ が あ ら た
m
の底にはこの良心の自由(昨巾
人の個性(宮内出4
EE 5、)も人格もすべてそ
りでなく、、キリスト教文明を基盤とする西洋
えるかも知れないが、これはグリフィスばか
イスの考え方が偏見でキリスト教一辺倒に見
されることを望んだ。
が始った安政四年頃の外交覚書であろう。こ
深く考える人は外形や仮面にとらわれずに眺
める。それが春山獄の内面生活にあらわれたの
ろを﹁魂﹂という東洋の言葉に置き代えてい
いのはグリフィスが﹁良心
ることを忘れてならないのである。おもしろ
a
o自 え g
D
a
スの英文からは春闘砿が身命をなげうって意見
れは春獄の積極的関国論であるが、グリフイ
を述べている様子が伝わってくる。建白書の
が宗教だというのだ。キリスト教に於ける
ることで、多少無理があってもよく考えてあ
というべきとこ
英文には部分の省略もあって、採用者の都合
ことであって、誰でも良心を持つ真の人間に
﹁悔い改め﹂というのは寸新しい心を持つ﹂
いて、近年になって誰が書いてきたか筆者は
るが、春畿の﹁魂と宗教
L
から見る者にとって、春山獄のなかにそれまで
次第も無きにしもあらずだが、要は日本を外
つでも開放して置く、新しい義務の呼び出し
はこの招きがやってくる。新思想に精神をい
寡聞にして知らない。歴史の勉強は、単に地面
といったことにつ
の﹁夷秋 L 、 ﹁ 邪 教 ﹂ 呼 ば わ り か ら 一 転 し て
に応えるのが魂の宗教(由。己ご・ 0]
ぽ目。ロ)であ
に測量の杭を打ち込むだけではなかろう。そ
L
西洋と友好関係をもって日本を富国強固にす
る発想の飛躍があったことが何よりも大きな
る。この偏見のない、新しい思想をとり入れ
春出砿の英語稽古
意味があった。
山下
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
6
若越郷土研究
四十巻一号
の土地から何が収穫され、何が不作であった分かっていることであった。これらをまとめなでもっとも、いや唯一の愛すべき少年であ
ることにあるのではなかろうか。気持、日本の安全と進歩を期待しただけでな開成学校にしばらく籍をおいたが、雨森は横
かを知ることで、そのための耕作者の心を知て次のように書く。ミカドにたいする尊敬のったと思われる。これら二人の少年はともに
そして今ここでは春巌その人が耕作者なのく、春巌はまた日本国中の庶民の向上を願い、浜の宣教師ブラウンの塾で、今立は米国留学
である。さらにグリフィスのとらえた春巌の外国人にたいして正当な取り扱いを望んだと。でともにグリフィスの経済援助を受けていた。
人格ということではどうであろう。三つの特福井藩に住む人々がグリフィスの訪ねた多その師弟愛はお互いに終生まで続いたのであ
この原稿﹁d﹂もまた未完の恨みがあるのは
色があげてある。一、ひるむことのない勇気。くのどの藩よりも幸福で病む人が少なく、快る。
二、疲れを知らない勤勉。三、ゆるぐことの適な生活を送っているように見えた。そして
ない不屈な精神。これらの能力の最高に発揮春援の英雄的指導力のおかげで、藩は静かに
から﹁或者は生まれながらにして偉大なり、
或者は努めてやがて偉大を得、而して或者は
残念だが、シェイクスピアの戯曲﹃十二夜﹄
てであったことは言うまでもない。しかしそがこれらの評言を裏付ける実例は確かにある
用して、春山獄はこれら三つの真理のすべてを
偶々偉大を授け与えらる。
されたのが、幕末維新の政局の大変動においしかし着実に改革の仕事を進めているという
れも、グリフィスのいう国家精神を有した、とみてよい。いつものことだが横井小楠の思
ドの国に何が必要かの分かる洞察カを備えたも書いてるが、春巌が最初から何を着るか何
グリフィスの綱眼というべきであろう。
満たす偉大な人であったと評したがこれこそ
L(
坪内池遥訳)を引
世界的視野を持った国際精神の持ち主、ミカ想の春巌に及ぼした力の大きいことをここで
政治家としてであった。友人のアメリカ公使、を話すかにかかわらず人間性(﹃己目白口広三の
に置いて
下回のハリスと江戸のプラインも越前春巌の真の価値を見分けていたという。福井藩が庶
人格についてはめちぎっていると書きそえて民教育を寸国学の安あがりの防衛
一八七O年(明治二一)の十二月二十九日、
L
いる。それは日本及び日本国民を高く評価すいたといわれるのももっともであった。原稿
アン号で横浜から越前福井への旅途に下った
のが、翌年の二月二十一日であり、上陸から
グリフィスは横浜に上陸した。客船オレゴニ
スはこのことに春巌の非凡なところを見つけ生徒であった今立吐酔に受持たせたと書く。
福井赴任の旅までの五十五日間を江戸、横浜
る 一 方 、 外 国 人 及 び 西 洋 文 明 に 正 当 な 価 値 を ﹁a﹂ に は 雨 森 信 成 が 登 場 し た 。 ﹁b﹂ の こ
ている。他方、春闘獄の取り柄は日本の名誉とついでにいうと、雨森信成と今立吐酔はおそ
で過ごした。その滞在の主な理由は福井藩と
置くことでも強力であったからで、グリフィの文章には藩校のフランス語の授業を優秀な
尊厳を解し、日本文明の真実、深さ、強きもらくグリフィスにとって福井で教えた生徒の
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
7
(文字のつづりは原文の
﹄出口己印円一可M印ポぐ巾己ロ巾印己白山、]{∞斗同
77
イ
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円印円。ロ円巾門口同門戸
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月
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HENODgg巾 件 。 吾 巾
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巾
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自
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m 口戸山刊
同吋吋田口問巾
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出印}己片山・
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回同げ目的
同口同町巾問5
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︼出口口出吋一可N由
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B 巾ロ片山門PHW己 主 ・
白門司田口関口同閃同戸何回一円
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同 5J円巾片的円
ロ R5
528m
N2・
ス
これで分ることは、グリフィスと福井藩の
契約に介在して直接にその仕事にあたった人
物はグリフィス側はフルベツキ(︿白一回円丘、
福井藩側は出浦
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井藩校雇い教師グリフィスの招轄に骨を折っ
たフルベツキは当時、南校の教頭をしていた。
他方、出浦は春闘拡の近侍で、小姓であった。
に買っていたと思われる。グリフィスの雇い
春獄のことだ。出浦力雄の英語の才能を大い
の条件はフルベッキから出浦に伝えられ、福
井藩からの条件は出浦の英語を通じてフルベ
ツキに渡ったのである。日記の一月二十九日
は、グリフィスはフルベッキと春巌をその屋
五分の短い訪問であった。明治三年庚午十二
敷に訪ね、春闘獄と役人に会っているが、四十
月十五日(陽暦明治四年二月五日)のグリフ
を訪ねてきて会ったことをよろこんでいた。
クション所蔵)ではグリフィスが春巌の屋敷
m
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m 向。ロユ一宮田 C片山口 イ ス 宛 の 春 獄 の 手 紙 図1 (グ リ フ ィ ス ・ コ レ
円)巾ロ片山 。口同同町叶
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『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
フ
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図1
) 英文は出浦力雄の訳であろう
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ド
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従ってグリフィスがゆっくり春巌と顔を合わ
向。ロ仏国 M N H
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ァ 命ケνf(~/N!<U を代
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自由己巾白円。宮、。片山片・
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山
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抜ま作
書ず成
春闘拡の英語稽古
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かこ約
山下
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記十そ契
8
若越郷土研究
四十巻一号
ンナリ、此地ニテ御面会候役人弁力雄出浦
ハンコトヲ、コレ余ノ深ク閣下ニ望ムユエ
あった。
命により選抜されて入学した秀才の集まりで
に供したりした。生徒は貢進生と呼ばれ、藩
教師の国の言葉で書かせた生徒の作文を天覧
明治四年辛未三月十三日(陽
へモ、関下ノ御伝言ヲ申シ入レタレハ深満
次に﹁東京
暦五月二日)
足セリ。
渡浸幾治郎、
次に大助教柳本直太郎自然地理学大意を
昭和十六年)によると、
﹃明治天皇の聖徳教育﹄
ウィリアムイ│グリフヒス閣下﹂の
春闘狐の手紙の一部を抜書きするが、そのなか
に出浦の名を見つけることが出来る。
(﹃松平春闘賦未公刊書簡集﹄以下、グリフィス宛春巌
の手紙はこの書から引用する)
ル、於余満足シテ且祝儀ヲ述ブ、初又我子リフィスの心境を察した春巌の心の広さがよ
述べたる後、教頭フルベツキ教官出浦力雄
閣下東京ヨリ無怠旅行シテ福井三着セラ異郷で不自由な生活を送っているだろうグ
ナル知事ノ管轄セル福井ノ官員ハ、閣下ニく表れた文面ではないか。面白いのは自署が
相並びて御前に進み、フルベツキ英語を以
イヨ
向フテ親切之待遇ヲナシ、又閣下誠二敵宜﹁慶永松平﹂と外国人にならっていて、しか
マツダヒ
し、出浦力雄之を和解して、天聴に達した。
て人民教育及び勧善学の大意を十分間演説
UW
J 。を発音したものだろう。他
円
ト及ビ確実ナル家来ヲ召抱エルト、及ヒ閣も﹁イヨ﹂とルビが打ってある。寸イヨ﹂は
gEロ晶一回の
下ノタメニ居住セラル、家屋ヲ授クルトノペ
EE 引わ
挨拶ヲ申越サレタル吹聴ハ、於余大ナル安にもペロ宮忠告
心ヲナシテ喜ビニ不堪、福井ハ東京ト違ヒラといった例がある。些細なことだが、こう出浦力雄の履歴については、今のところ出
シ、閣下折々故郷ヲ御思ヒ出シ、於本国平主であることが分かる。一且雄氏から電話でお聞きしたことに限られて
万事不自由ナルヲ以、大ナル不都合アルべいうことにも春巌が新奇な物事を喜ぶ心の持浦の孫(二男の子)にあたる東京在住の出浦
素御手馴ノ品物ガ、於福井ハコレナキユへ出浦力雄は南校の教官で、フルベッキの通いる。先祖の古い記録を戦災で無くされてい
ニ、コレヲ遥想ナサルトノコト、イカニモ訳にもなっていた。福井の藩校から東京の南て、わずかな記憶から話されたのは福井藩士
ア ル ベ シ 、 万 々 閣 下 ノ 御 胸 裡 ヲ 察 シ 入 ル ナ 校 へ 移 っ た グ リ フ ィ ス は 、 一 八 七 二 年 ( 明 治 出 浦 力 雄 は 一 八 五O年(嘉永三)の生れで、
リ
、 O福井ノ生徒至極勉強候ヨシ、此生徒五)五月七日、ミカドの南校行幸があって伊春闘獄のお小姓であったという。文部省役人、
ヲ教導アル器械アラサルヲ以テ御国却之旨、東少教授を助手に化学術実験を天覧に供した。藩費米国留学、長崎検事局検事、英語が出来
伏テ希クハ本国ヨリ注文之器械数口問来リ候グリフィスの外に米英仏独から成る外国人教たので横浜居留地の弁護士の経歴があり、一
ハ ¥ 別 テ 能 々 教 授 ヲ ナ サ レ カ ヲ ツ ク シ 玉 師 十 八 名 が 受 持 の 生 徒 を 率 い て 進 講 し た り 、 九 二O年(大正九)七月七日死去。亨年七十
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
9
行御武具奉行兼、役中銀五枚年々﹂という記
二成八月十三日御書院番其億霊岸嶋御屋敷奉
人物かどうか不明だが、この源八郎は寸文久
(三人扶持切米拾八石)が力雄に関係のある
にある(﹃福井市史資料編﹄)出浦源八郎
あったともいわれたが、明治二年旧藩制役成
洞宗天竜寺である。先祖は松平忠直の家来で
歳であったという。菩提寺は東京北品川の曹
の時、役人は通訳が見つからず、私がクラ
に行って役人と通訳の交渉をしました。そ
は英語が分らず、話せないので、いっしょ
へ行きました。屋敷の役人と勝(安一房︺氏
ら臨時の通訳を頼まれて、いっしょに屋敷
へ行きました。その時、私はクラl ク氏か
について交渉するために東京の静岡の屋敷
した。クラ│ク氏は静岡へ発つ前に、通訳
下さい。
田氏にお会いになられたら、手紙を渡して
ごめいわくをおかけしますが、学校で本
淵氏へ私からよろしくとお伝え下さい。
鈴氏からよろしくとのことです。どうぞ岩
に送って下さったら私から鈴氏に渡します。
ると聞きましたので、次の郵便でそれを私
氏から交換にあなたが肖像写真を送ってく
前春巌公も私も大へん元気です。鈴(すず)
敬具
されました。しかし私はそれを好みません
│ク氏の通訳になって静岡へ行くよう推挙
ともあまりよく出来ません。それに私の家
でした。私は英語を話すことも理解するこ
お元気で
たところから、あるいはと思ったりもする。
録を見ると、霊一岸嶋は春山獄の江戸屋敷であっ
そこでともかく出浦がグリフィスと仕事の
筆記体の英文から出浦力雄がきちょうめん
R ・出浦。
上で交際のあった頃にしぼって資料をもとに
な性格の人であったと思われる。その英文は
た。クラ│クについてはいずれこの誌上で精
用向を十分に伝えるだけの構成カを持ってい
フルベツキ氏が他の通訳を探しましたが、
いい人が見つからず、クラ│ク氏は良い通
族が最近、上京してきていました。そこで
訳なしで行かねばならず、仕方なく静岡生
らお雇い米人教師の依頼を受けてグリフィス
しく発表する機会があると思うが、勝安一房か
らグリフィス宛の英文手紙である。(グリフ
れの悪い通訳を伴いました。クラ│ク氏は
考えてみたいのだが、その一つが次の出浦か
一八七一年十二月七日付であるが、陽暦であ
イス・コレクション所蔵)発信は東京南校。
若くてやさしく、賢明で思いやりのある先
が推薦したラトガl ス・カレッジの親友で、
。
つ
、
つ
ヲ
出浦の手紙にもあるように一八七一年十一月、
た。ここで興味あるのは通訳(通弁、通詞)
静岡学問所の理化学教師として静岡に着任し
先生にすれば、科学が進むでしょう。
私は大学の大改革のため、南校を解雇さ
生だと思います。静岡の人がクラl ク氏を
れました。それ以来、私はフルベッキ氏の
良い機会を得たのでお便りします。あな
親愛なるW ・グリフィス。
たの友人で、先週の金曜日に駿河の静岡へ
家に居ります。フルベツキ氏とその家族、越
の交渉の話である。南校の日本人教官の多く
いた手紙をあなたに送ってくれと云われま
春山獄の英語稽古
行ったクラl ク氏に会ったが、行く前に書
山下
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
10
はフルベツキと出浦力雄のように外国人教師
と春巌の通訳出浦力雄、福井にグリフィスのの跳ねる獅子であったとグリフィスは記して
である。さいわい福井藩は東京にフルベツキ金をおおう黒い合金についている象徴は一匹
ちょうど質の悪い雇一い外国人のように居たのめ皮に褐色の絹の真田紐がかけであった。留
四十巻一号
の訳官でもあった。そもそも南校は歴史をさ
若越郷土研究
かのぼると、ペリーの浦賀来航から二年後、
岩 淵 に つ い て は 拙 著 ﹃ グ リ フ ィ ス と 福 井 ﹄ う と み な 英 語 を 話 し 、 書 き 、 パ l カ│教授の
この二人は大学南校の英語教師仲間であった。ぃ。グリフィスの生徒(南校)はどうかとい
の一七三│四頁に寸注﹂として入れたが、と化学を暗請している。もはや通訳は必要でな
通訳岩淵竜太郎というすぐれた通訳者がいた。いた。万を差すサムライは今はほとんどいな
である。その洋学所が蕃書調所こ八五六
一八五五年(安政一一)、幕府が設置した洋学
年)、洋書調所こ八六二年)、開成所(一
なかで岩淵を最良の協力者として感謝をこめ協力に感謝しつつ、﹁岩淵はグリフィスの口
くにグリフィスが同出向 hhE号、師同ミ品交おのくなった。そしてグリフィスは岩淵の友情と
所に端を発する。藩校明道館の創立もこの年
されてきて、一八七一年(明治四)、南校に
八六三年)、大学南校(一八六九年)と改称
この機会に岩淵がグリフィスに贈った腰の万た者にとって、その口は頼りになる手以上の
て書いてくれているのはありがたい。そこでになってくれた。はじめて知らない土地に来
いの友情のしるしとして、また日本のサムラであった文部省で、出浦力雄はそこの役人で
た。私にとってこれは魂も同様でした。お互大輔となって教育行政の実質的な最高責任者
寸私は小さい時からこの万を差してきまし田中不二麻呂が一八七四年(明治七)文部
と書いて通訳の仕事を評価して
大きく進展を始める。三十歳前半を謹慎を強
ら洋書への名称改変に見るように、開国へと
イがいつも刀をわきへ置いてきたという歴史あった。東京大学外人履歴書のグリフィスの
L
いられ、満を持していた春闘獄の大局をふまえ
月十一日のグリフィス日記から)いる。
のことを追記しておきたい二八七二年、五ものだった
月しかたっていないが、政情は﹁日米修好通
へ、そして
なった。洋学所設置からわずかに十六年の歳
L
た活動の開始もこの時であった。こういうな
て岩淵は腰の万をグリフィスに贈ったという。八月十六日迄六ヶ月間、東京開成学校化学教
上の記念品として受けてほしい。﹂こういっ記録のなかに、﹁同七年二月十七日より周年
寸桜田門外の変﹂を境に、いみじくも蕃書か
商条約調印﹂から﹁安政の大獄
メッカであった。これら洋学校で外国語をお
さやは磨いてあり、波形に彫りつけられたい続。﹂といった半年の契約更新の記録がある。
万は黒い漆塗りのきゃに入った見事なもので、授とし月俸日本貨幣三百一二十円を以て傭継
かで洋学を考えると、南校はたしかに洋学の
ぼえた洋学生が当時、最も必要とした通訳の
ぶし銀のかぶせ金具がついていて、その上にこの契約を英文でグリフィスに通達したのが
仕事に参加したのである。しかしこの事実の
研究はむしろ軽視いや無視されてきたと思わ
れる。出浦のいうあまり資格のない通訳者も、 は 皇 室 の 紋 章 の 桐 が 浮 い て い た 。 柄 は 白 い さ 出 浦 で あ り 、 こ こ に そ の 一 枚 の 文 書 が あ る 。
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
1
1
ヨツテ、キミガ、アラハセシ、アタラシキ、思い遣る気持が文のすみずみにまで染みとお
ト、ヤソ、シウシノ、フタツノ、ホンヲ、ミ﹂の使用は英語の語感の素養があることを
タマヒシハ、ワガ、フカク、ヨロコブ、トうかがわせる。それに寸ジャパン﹂のように
ジャパンノツピキノダイイチノ、リードル、っていることである。文中の六回に及ぶ﹁キ
コロナリ、コレヲ、キミニ、アツク、アヒ英語を使って文章に新しい感覚をもたらす。
(グリフィス・コレクション所蔵)発信は七四
とは別のところにあった。東京へ移って早速
サツ、モウシ、ノべ、ソロ、チカゴロ、ア偶然にしてもグリフィスの耶蘇宗己日の本にた
年二月三日開成学校となっていた。
始めたのがニュ l ジャパンシリーズと呼ばれ
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
東京時代のグリフィスの活動はむしろ教師
る英語教科書作りであった。その結果一八七
タラシク、ホリシ、コノ、ホンハ、ジャパいして春様の神代の本とは双方の文化の背景
ンノ、カミヨノ、トキヲ、ミルニ、ベンナもしのばれて面白といったら云い過ぎになる
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であった。これは一八七六年(明治九)、グ
ウィリヤムイlグリフヒス、 ノ 、 キ 、 、 ¥ 先 述 の 出 浦 の 履 歴 で 藩 費 米 国 留 学 と な っ て
いたのは事実と違っていて、実際は米国洋行
(花押)三年)であったかも知れない。
ワイヱンマツダヒラ神代の本が笠間益三の﹃日本略史﹄(一八七
へそキミニ、オクルナリ、アナ、カシコンの﹃新約聖書馬太伝﹄(一八七三年)であり、
ル、モノナリ、メヅラシキ、モノナル、ユだろうか。例えば耶蘇の本がヘボンとブラウ
二年から七三年にかけて次の四種の出版があ
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白 ︿町ぎに﹃も
民間可。
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った。①吋常見
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うち④のファースト・リーダーはグリフィス
から出浦力雄を通じて春巌の手に渡っていた。
寸アタラシキ、ジャパンノツゾキノダイイ
れる博覧会に派遣の文部大輔田中不二麻呂に
町、凡3H 勾
チノ、リードル﹂とは同 2P
h 出 向 可 。 ¥ リフィスに宛てた春巌の手紙図2 (グリフィ
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お MUミS の訳であるが、春巌の ス・コレクション所蔵)によって確認される。
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このリ1ド ル に ﹁ 亜 人 グ リ フ ィ ス 予 ニ 送 ル 所 す な わ ち 周 年 米 国 フ ィ ラ デ ル フ ィ ア で 開 催 さ
筆者注)の春巌の手紙によって明らかであ
﹁明治六年五月十七日、ハシパニテ﹂(東京橋場
随行して出浦力雄が米国へ行った時は親友の
。
る
グリフヒス、ノキミ
の白書があ
ノ比書籍ハ同氏ノ著スモノナリ、明治六年五
(読点は原文のまま)
コノ、アヒダハ、ワガ、スミ、夕、ガハノ、
月十二日正二位松平慶永記
﹁出浦ノ洋行スルハ這般ヲ以テ最始トスしと
よしみでよろしく頼むというのだ。そして
L
ヤシキ一一、キタリ、ヒサシブリニテ、キミ
った。(﹃若越新文化史﹄)この片仮名の手
わざるを得ない。それはまず何よりも相手を
あった。田中不二麻呂が帰朝報告として、
ニ、アヒツ¥キミノ、カハリナク、スコ
ノチ、キ、、¥ヨリ、リキヲ、イデウラ、
春巌の英語稽古
一
ヤカ一一、ヤスキヲ、ヨロコブ、ナリ、ソノ、 紙 を 読 む と 春 巌 が す ぐ れ た 文 章 家 で あ る と 思
山
下
1
2
若越郷土研究
四十巻一号
﹃米国百年期博覧会教育報告四巻﹄を一八七
七年に文部省から出版されているので、それ
を見れば出浦力雄の仕事も分かると思われる
が、筆者は未見である。出浦がフィラデルフ
ィアでグリフィスの世話になったかどうか。
苧司大手明
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親友L 刀梓主埼玉kf
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なって支えた南校教官、文部省役人の出浦力
雄の存在を明るみに出してみたかった。出浦
の仕事は一口でいうと通訳であるが、南校教
頭フルベッキが人選の中心となった明治初期
の外国人教師雇一傭の時代に、フルベツキと春
巌の通訳として出浦の果した仕事の重要なこ
とを知った。
昨年の秋、福井市立郷土歴史博物館で学芸
員の西村英之さんが磯川文藻(れきせんぶん
そう)という紙本墨書の春巌の日誌の一部を
筆者に見せられた。出浦力雄が春闘獄にリlド
ルを教、えた記録があるという。磯川文藻は全
部で一六三冊、明治八年十月一日から同二十
三年五月三十一日までの日記である。筆者の
見たのはその中の﹁第四十三号明治十四年
座右目薄第一号﹂であった。この時、春巌は
五十四歳、小石川水道町の屋敷に住んでいた。
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
ニューヨークのユニオン神学校で牧師の勉強
をしていたグリフィスはちょうどこの年十月
の吋言﹄
hE号、師同S
H
U
N
-ミ出版を前に忙しい日
を送っていたと恩われる。しかしフイラデル
フィアには福井の留学生今立吐酔がいてペン
シルパニア大学に在学中であった。開成学校
で互いに知っている当時二十一歳の吐酔と二
十六歳の力雄の再会はあったように思う。
ここまでのところ筆者は幕末維新の政事の
大きな要の存在であった春巌が対外国及ぴ外
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国人にたいしてどういう精神で臨んだかをグ
承持トス
y洋行えた這紘
リフィスの観点から考えてみた。そして春巌
が寛大な心の持主であり、将来を見通すこと
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その日記によると、
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のできた偉大な人物の一人であるとの印象を
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骨子札え'鴎
枕 7A勺均レ為
鶏舎酔;レ j17徐緒 ρ油供 3
偽三時カヰ注品
フィスという雇一いの青年教師を相手に互に会
7望ゐ持臭
国
語習月
読廿
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持った。さらにその人物が今度は直接にグリ
って話し、手紙で相手を気遣うなどして外国
への理解を深めて行く、そういう春巌を陰に
(
図 2)
3
1
口町二月七日:・出浦力雄本邸英語習読スカ
ステイラ一箱ヲ送ル
m二月十四日:・出浦力雄来邸英語習読ス
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菓子出ス
L二月廿一日・:出浦力雄午後四時拾分来
邸英語習読ス
そして弘二月廿八日・:と続く。日付の頭につ
いたR は、その日の日記の上の余白について
いるもので、おそらくリードルのR のしるし
桂
であろう。毎週一回の英語の稽古である。
nM
十二月十二日・:出浦力雄来邸英学習読
ス生菓子晩餐出ス
後
恥十二月廿日:・出浦力雄来邸英語習読ス
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円伽刊フ苦す仇
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ードル﹂と書かれた二冊のノl ト、一一一十一丁
れている。(図3) 習 読 法 は 文 意 を と る こ と
と二十七丁になって春巌公記念文庫に保存さ
た当時としては工夫した出浦力雄の教授法で
を主眼とした漢文素読式に発音をカナでうっ
ダーであった。これは一八七二年にニューヨ
あった。使用したり1ドルはユニオン・リー
送ル
英語または英学習読のあとに出浦は菓子が
本日稽古納酒肴晩餐仕ス謝金五円雲丹等
でたり夕食を馳走になったりしているが、稽
リーズ
ークで出版されたサンダl ス・ユニオン・シ
ユ
) の第一か
g
印udEo
叶
巾
弘
口
白
ロω巾
であろう五円をもらった上に雲丹を贈って労
古納の夜は酒が出て、おそらく一年分の謝礼
E ユ目印巧・ ω山口骨吋印(一八O 五i 一八八
はわ
(
ω
でのリーダーの尚ーであった。著者
ら第四ま
q由)と並ん
ズ・リーダー(冨品丘同弓〆問。回己
九)といって、十九世紀の米国でマガフィl
月給は九十円、一ヶ年千八十円であった。
(明治十三年四月三十日付、村田氏寿宛春山獄
をねぎらわれている。ちなみに官吏の出浦の
の手紙)この英語稽古は松平春巌筆写の﹁リ
た。しかし日本に輸入されて大いに歓迎受容
で最も人気を誇ったリーダーの書き手であっ
されたのはユニオンであった。それはマガフ
て、ユニオンは国家主義、愛国心を編集の意
ィーが道徳的、宗教的内容であったのに対し
昂揚期には後者の方が好まれたのであろう。
図としていたからであった。明治の国家主義
ていいが、明治十八年、初代文相森有礼の欧
春巌の英語稽古は五十の手習いくらいに思っ
化主義流行時代を受けて英語の奨励が起予﹂る
ことを、機に敏い春巌は感じとっていたかも
知れない。
『若越郷土研究』(福井県郷土誌懇談会)
図 3)
(
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