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2016年5月17日
フィオ・マスカレナス神父(イエズス会)による講話(後半) 日時:2016年5月17日(火)18:30~20:30 場所:SJ ハウス1階5号室 通訳:小熊晴代 聖書では、慈しみ、憐れみという言葉は罪の赦しだけを意味しているのではありません。 聖書の慈しみという言葉には罪の赦し以上の深い意味があります。旧約聖書で慈しみとい う意味で使われているヘセドという言葉は、優しい愛に満ちた親切という意味です。罪の 赦しももちろん入りますが、それだけではありません。 旧約聖書で慈しみという意味で使われているもう一つの言葉はラハミームというヘブライ 語です。これは、母親がお腹に宿している子供を感じるその優しさとか愛情のことです。 ですから旧約聖書で慈しみ、憐れみと訳されている言葉は、へセドかラハミームのどちら かです。旧約聖書で、この二つの言葉を両方組み合わた「慈しみ」の意味は、「神のゆるぎ ない忠実な優しさに満ちた愛」を意味すると言えます。 新約聖書では慈しみ、憐れみという言葉は罪の赦しだけを意味しません。慈しみは、神か ら私たちに向けられたあらゆる善意に満ちた行いのことをいいます。 神から私に与えられた命の賜物も神の慈しみの表れです。さらに私が受けた洗礼の賜物も 神からの慈しみによるもので、私はそれに値する者ではありませんでした。ですから神の 慈しみは私たちがそれにまったく値しないにもかかわらず与えられる愛のことです。教会 自体も神の慈しみのわざそのものです。秘跡は神の慈しみのわざです。神の御言葉(聖書) も神からの私達に対する慈しみそのものです。交わり、関わりは、コミュニケーションな しには深まりません。神は私たちを愛するあまり、私たちといつもコミュニケーションを 取っていたい。その表れが、聖書をとおして常に語り掛けておられるということです。イ エスは言われました。人は心に満ちているものが口から出るのであると。ですから聖書に は神の溢れている思いがすべて込められているのです。 ここでは神の御言葉がどれほど力強い慈しみのわざであるかをお話ししたいと思います。 まずイエスの言葉で、ヨハネの福音書の 6 章 63 節です。覚えている人はいますか。いくつ かの御言葉はぜひそらんじてください。今日から始めましょう。ヨハネ 6 章 63 節「私のこ とばは命であり、霊である」。ヨハネ 6 章 63 節をもう覚えましたか。ですから、イエスが 言っているのは、もし私たちが命と霊を得たければ神の御言葉に向かえばいいのであり、 秘跡だけではないということです。バチカン公会議の神の啓示に関する教義憲章21項で は「神のことばには非常に大きな力と能力が内在しているので、教会には支えとも活力と もなり、教会の子らには信仰の力となり、霊魂にとっては糧、霊的生活にとっては純粋な 尽きない泉となって現れる」とあります。私がカトリック信徒になぜあなたは神の御言葉 を読むのですかと聞くと、通常の答えはほとんど頭に焦点を置いています。彼らは「神に ついて知りたいから読むのです」、「神は歴史の中でどんなことをされたか知りたいので読 みます」と答えます。でも、「神が私の心を変えてくださるように聖書を読みます」と言う 人はほとんどいません。神のみことばの目的は情報(information)ではなく、変えられるこ と(transformation)です。それが今の第二バチカン公会議の文章が言ったことなのです。 「神 のことばは信仰の力、霊魂にとっては糧、霊的生活の純粋な尽きない泉である」と。カト リック信者にとってとてもショッキングなことが書いてあるのですね。「絶えず熱心に聖体 の神秘に与ることによって教会生活が発展するのと同じように、神のことばへの崇敬をま すます深めることによって、霊的生活の新しい刺激を期待することができるであろう。」で すから第二バチカン公会議は、ご聖体とまったく同じように聖書の神のことばも同じ力(私 たちを養う力)を持っていると言っているのです。 私たちカトリック信者が力や恵みを受けたいときは普通、ご聖体のところに行きます。プ ロテスタントの人達は神のことばに行きます。でもイエス様が与えてくださったのは二者 択一ではありません。ご聖体がいいのならご聖体に、それが嫌ならみことばに行きなさい とは言われませんでした。イエスは、両方とも取りなさい、両方から養われなさいと言わ れました。ですから、神のことばは神の慈しみの大いなるわざなのです。前半で言った三 つの恵みは、神のことばを通してもやって来ます。 ヘブライ人への手紙の 4 章 12 節から読みます。「神の言葉は生きていて力があり、どんな 両刃の剣よりも鋭く、魂(プシケー)と霊(プネウマ)との分かれ目まで刺し通して、心 の思いや考えを見分けることができます。」ヘブライ人の手紙の著者は三つのポイントを私 たちに教えています。 第一は、神の言葉は、昨日の新聞のようにまったく無効になって役に立たないことばでは ありません。神のことばは生きていて力があります。何千年も前のことばですが、現在も 生きていて、私たちを変える力を持っています。 第二は、神のことばはとても鋭いので、私たちの無意識の層にまで入ることが出来ます。 それが潜在意識、無意識の層にまで深く差し抜かれるとどうなるでしょうか。 第三ですが、良いものと悪いものを分けます。福音に反するこの世から来るあらゆる悪い ものも無意識の層にたくさん入っていますが、神のことばはそれを取り分けることができ ると言っているのです。原語のギリシア語では、霊はプネウマという言葉で、魂や精神と 訳されている言葉はプシケー(英語ではサイキ)と言います。体はソーマと言います。こ の三つが出て来るのは、第一テサロニケ 5 章 23 節です。「どうか平和の神御自身が、あな たがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊(プネウマ)も 魂(プシケー)も体(ソーマ)も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたち の主イエス・キリストの来られるとき、非の打ちどころのないものとしてくださいますよ うに。」ここで聖パウロが言っていることは人間には三つの次元があるということですね。 霊、魂あるいは精神、そして体です。原語のギリシア語では、プシケー、プネウマ、ソー マと言います。プシケーは英語では魂(soul)と訳されているのですが、むしろ精神(mind) と言ったほうが正しい訳だと思います。パウロは私たちが完全なあますところのない人間 に命に満たされて造られるようにと願っているのです。 ヘブライ人への手紙と第一テサロニケの教会への手紙の二つの御言葉を併せて、癒しにつ いて考えてみましょう。私たちの霊はどのように癒されるでしょうか。秘跡によって特に ご聖体によって霊は癒されます。私たちのうちにある霊をご聖体は強めてくださいます。 私たちの信仰、希望、愛を強めてくれます。体を癒してもらいたい場合は薬で癒してもら います。プシケと言われる精神を癒していただくにはどうしたらいいでしょうか。秘跡は 霊のためのものなので、秘跡ではありません。どこからでしょうか。神のことばからです。 これがヘブライ人への手紙に書いてあることです。神のことばは生きていて力があって魂 と霊の分かれ目まで刺し通して心の思いや考えを見分けると書いてあります。そして心の 思いを振り分けることができるのです。 このプシケ(サイキ)と言われる精神は五つの部分からできています。知性、記憶、想像、 感情、意思ですね。忘れないでください。精神は氷山のようなものなのです。氷山は海に 浮かんでいますね。海面の上に8分の1、残りの8分の7は海面下にあります。精神も同 じようです。この五つのすべての8分の1が意識下にありますけれども、残りの8分の7 は私たちの知らない無意識、潜在意識の中にあるのです。多くの言葉が私たちの親や先生 やこの世の文化から入ってきます。私たちの偏見も外側からやってきます。性や身分(カ ースト)に関する偏見、人種に関する偏見などですが、それは 8 分の1の意識下ではなく、 無意識下にあるのです。ですからイエスのように考えることができる唯一の方法は、神の ことばに無意識の中に入り込んでいただいて精神を癒していただくことです。 例を挙げましょう。私はかつてインドの大学で学生専属の司祭になったことがありました。 多くの学生がカウンセリングにやってきました。一人の学生は、理由はわからないけれど もいつも怒りに満たされているのです、と言いました。もう一人はまったく逆の症状でや ってきました。わたしは臆病で将来のことが心配で心配で不安だらけなのです、と言いま した。もう一人の学生は、マスターベーションを止めたいけれども止めることができませ ん、と言いました。私は三人に神の言葉の力を教えて、神の言葉によって自由になるよう にと話ました。そして次のように実践するようにと教えました。寝る前に2、3分聖書の 言葉を読みなさい。なぜなら寝ている間に意識は眠っていますが、無意識はずっと起きて います。その中に神のことばが剣のように入ってきて、良いものと悪いものとを分けてく れます。まずこうしなさい、イエスに「主よ、あなたの言葉が私を癒してくださると信じ ます」と言いなさい、と言いました。「イエス様、あなたは聖書の中で約束してくださいま した。あなたの言葉は霊であり命であると。あなたの言葉は生きていて力があります。で すから私の無意識下に入って私を自由にすることができます。」これを信仰の行いとしてし なさいと。どこでもいいので、新約聖書から3分から4分、御言葉を読みなさいと言いま した。そして終わったらマルコ11章24節に書いてあることをしなさいと言いました。 そこには、イエスが「祈ったらそれが与えられたと信じて感謝しなさい」と言っておられ ます。ですからあなたたちも「イエス様ありがとうございます。あなたが私を自由にして くださいます」と言いなさい、そして床につきなさい。これを1週間か2週間ずっと続け て報告に来なさい、と言いました。三人とも非常に肯定的な結果を携えてやってきました。 ですから今の教皇様は私たちカトリック信者に聖書を読むように励ましておられます。ベ ネディクト16世はケルンでのワールドユースデーでこう言われました。もしレクシオ・ ディビナという祈りがいろいろなところで実行するようにと勧められたら、教会に新し春 をもたらすだろうと。レクシオ・ディビナというのは聖なる読書という意味です。毎日聖 書を数分間、頭で理解するのではなく心で読む方法です。聖霊の実りは、聖書への信心を とおしてやってきます。聖霊の実りの一つは忍耐ですね。それは精神(サイキ)に属して います。なぜ私たちは忍耐が無くなるのでしょうか。無意識下で何かが暴れています。自 制も聖霊の実りの一つですね。これも精神に関わっています。ですから私たちが聖書のこ とばに熱心に取り組むことによってこれらの実が結ばれます。 ですからこうやって私たちは秘跡化ではなく福音宣教化される必要があります。私たち皆 が聖書大好きなキリスト者になっていただきたいと思います。原理主義的になるという意 味ではありませんよ。カトリックの解釈はあるのですが、それは難しい個所に関してであ り、日常は必要ありません。バチカン公会議は、私たちが御言葉の民になるようにと奨励 しています。教皇フランシスコは無料で福音書を配っています。もうルカ福音書5万部を 3回にわたって無料配布しています。「皆さんのうちに毎日、福音書の一節を読んでいる人 は何人いますか。いつも小さな福音書を持ち歩いてください。思いつくままに福音書のペ ージを開き、イエスが語られていることを読み、イエスがそこにおられることを体験して ください。一日のどんな時にでも私はポケットから福音書を取り出し、少しだけ短い一節 を読みます。福音書を読んでください。福音書です。前にも同じことを言ったのを覚えて いますか。毎日福音書を読んでください。ポケットやハンドバックに小さい福音書を携帯 し、どこででもすぐ取り出してください。そこである一節を読めばそこにイエスがおられ るのです。」教皇様は福音書の分冊、小さな一福音書をポケットに入れておられるそうです。 そして折あるごとてその福音書を出しては一分か二分読むんです。それを通して霊と命を 受け取っています。ですからこうやって私たち皆がすばらしい慈しみの聖年を過ごすこと が出来ますように。父である神と新たに交わり、イエスと新たに関わりを深め、聖霊とも 新たに交わり、そして教会と新たに関わる。そのような交わりを深めるために神のことば は大変有用です。私がご聖体をあえて強調しないのはそれが私たちほとんどにとって信仰 生活の一部であるからです。そして神のことばを強調しますが、それは私たちにとって未 知のことが多いからです。第二バチカン公会議によれば、それはご聖体とまったく同じ恵 みの源であるのです。 (以下癒しのための祈り) ここでは癒しのために私に祈ってほしい人がいると聞きました。では今やりましょう。(右 手を隣の人の肩に置き、・・・)先ほど歌った「生ける神の霊」の一番最後の「つかい」を 「癒し」と歌いましょう。信仰をもって聖霊が必ず来て癒しの賜物をくださると信じまし ょう。 天の父よ、今、あなたに祈ります。あなたの霊を天から送ってください。主イエス、あな たに願います。あなたの霊を私たちのうちに遣わしてください。聖霊よ、命の与え主であ る方、あなたを心から迎え入れます。私たちの心に迎え入れます。私たちの家に迎え入れ ます。この世にあなたを迎え入れます。御父の愛を私たちの中に注いでください。イエス の死と復活を通して得られたすべての功徳、すべてのよいものを私たちに注いでください。 聖霊よ、あなた自身の聖性を私たち一人ひとりに注いでください。今このとき、特別な形 で癒しのために祈ります。私たちは霊においてあなたの十字架の足元に集います。あなた の脇に立っていた兵士があなたの心臓を槍で貫きます。イエスの聖なる心から血と水が流 れ出ています。新しい命のシンボルです。その流れて滴り落ちる血と水が私たち一人一人 の上に降り注ぎますように。それが私には脳の部分に降り注がれているのがわかります。 今ここにいて脳に関する病で苦しんでいる人は今、癒されよ。癒しの力が今、顔全体に注 がれています。目にも鼻にも耳にも、口にも舌にも喉にも、歯にも髪の毛にも。今、この 部分で病で苦しんでいる人、癒されよ。今、癒しの力が胸に流れています。心臓にも肺に も。呼吸器官にも循環器官にも。あなたの癒しの愛が腹部にも流れています。胃、肝臓、 腎臓、消化器官全体、生殖器官、背中全体にも脊椎にも流れて行っています。手や足の骨 にもすべて流れています。主イエスよ、あなたは私たちのどの部分に癒しが必要であるか ご存知です。あなたの栄光のために私たちを癒してください。あなたの霊の力を送ってく ださい。体の癒しだけでなく精神(サイキ)の癒しもお願いします。私たちの怒りや恨み からも私たちを癒してください。悲しみや落胆からも私たちを癒してください。その代り に、聖霊の実を豊かに実らせてください。そして主よ、今、霊の癒しのために祈ります。 私たちの信仰が強くなりますように。愛が暖められて慈しみに満ちますように。あなたの 御国が来るという希望を強めてください。そして祈りの賜物のために祈ります。聖母マリ アよ、私たちもあなたと同じように言えますように。「私の魂は主を崇めます、私のために 偉大なことをしてくださいましたから」と。主よ、他のすべてのとりなしの祈りのために、 典礼の祈り、観想の祈り、さまざまな形の祈りを私たちの祝福としてお与えください。私 たちを祈りの民としてください。私たち一人一人を祈りの人にしてください。このように して私たちを新たにして新たに派遣してください。まず家族が新たにされるように、近所 の人々、職場の同僚、小教区の人々も。日本の教会を強めてください。主よ。キリストの 体は多くの形で砕かれています。キリストの体は本当にたくさんの否定的なもので満ちて います。この慈しみの聖年が私たちを新たにしますように。特にあなたの神のみことばに 対する愛を私たちにください。そして教皇フランシスコが言われたことを実行する力をお 与えください。毎日、しばしば神のみことばを読むように。母であるマリア様、あなたは 私たちキリスト者の鑑です。あなたは余すところなく聖霊に心を開いておられます。イエ スは私たちにあなたを母として与えてくださいました。聖なる母マリア、私たちのために お祈りください。私たちがキリストの約束に適うものとなりますように。これをすべて主 イエスキリストによっておささげいたします。 私たちが神の母聖マリア私たちのために祈ってくださいと祈った時に、次は私たちはどう 言ったでしょうか。キリストの御約束に適うものとなりますようにと言いました。キリス トがしてくださった約束で一番大切なものは何でしょうか。・・・聖霊ですね。聖霊を受け るまでは離れてはならないとイエスは言われました。私が去って行ったほうがよいのだ、 そうしないと聖霊が来ないからだと言われました。イエス様は、「私は父に願ってもう一人 の助け主を送ろう、そして彼があなたがたといつもいるように」と祈られました。ですか らマリア様にキリストの御約束に適うものとなれますようにと祈っているということは、 いつも聖霊を受けることができますようにという意味です。 注:通訳を尊重しつつも、文章として読みやすくするため、英語をもとに微修正を加えた (高浜武則)