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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅

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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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世界戰後の地名考(六)
瀧川, 規一
地球 (1933), 20(4): 302-309
1933-10-01
http://hdl.handle.net/2433/184205
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
地
球
仙
聖 l十 客
多 - は厳鮪 であ って、粗 恵見 るに堰 へな いも の
が 臆 面7
9を -出 版 nれね のであ る。 魔が筆 者 の
新兼 に明治 九年 の平出柴 の作 った「大 日本閥 問」
が あ る. これ は方 格間 で勿論赤 水周 の亜閲で は
あ るが 、京都 の銅 版 工福富 正為 ' 正利 の 二人が
か ∼つて朝 鮮 の略 固 攻 で加 へカも のであ る。が
節 四批
三
〇
二
六二
乙の園 に は緯度 は従前 通与 であ るのは'経度 は
東 京 〇度 で起 算 し、兼 四度 から 四十 四度 に至 る
経線を引 いてゐると いふ新意が あ る のであ る.
六
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洩
1
(
未完 )
同時 に山 脈 はす べ て ケ バ審 さ けか は って カ ツ 4
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二
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増 に在 って ゐるのであ る。
世 界 戦 後 の 哩 名 考
瀧
グ レの内 地と源 岸 と の貿 易中 心地 であわ人 口五
千。
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アヅウール dour)。 俳蘭 筒 の河。古 代 ア ツ
ル ス(
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urus)と解 し た河。 ビ レ ニー ス山脈 に敬
し ホ-トビ レネ (
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nかes)t .I,
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)、 ロ ンド(
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流 れてビス
1八九 六年 三 月 1日伊 大利 軍 は 1
Jの地 に於 で
シ ニア (
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a)図 の都 骨 。 チグ レ (
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州 の首府。帝政 六 二七 〇沢 の高 地 にあ って' チ
ケ轡 (
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ay) に 狂ぐ 。 長n 二首 哩、 そ
俳蘭 閏製 ライ フ ル銃 を以 て武 装 せ る ア ビ シ ニア
人 の薦 めに敗 ぶ れ た。夜 間 進 軍中 伊 太利 勝 箕 の
計薪 が飢 離 し伊 太 利 軍 は敵 の攻撃 を 受け 取 死者
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のう ち八十 哩ば か少 は航 行も 得 '譜 慶 に運河 を
設-0
アドウア(
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wa又は A d oa)。 アビ
六 千人 を出 し 四 千人 が輔 虜 と在 った 。 アビ シ ニ
ア人 も 亦損 客 を蒙 る r
Jと 甚 し- を の結 果伊 大 利
(A
す る庭 。 小 並 紬 並 の海
da
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m yti)。 士其 古 語 ほ て は ァ
軍 の侵 入が 停 止 され平 和候 約 が 純 綿 され た。
アドラミ手
ド レミド(
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)と 桁
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)よ-地道 に ょ って酉 北酉
三七哩にあ る。シー - ム (Setim)二世 に よ っ
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て建 立 され た十 六世紀 の同数 寺 院 、廟 塊 と 在 っ
て ゐ る宮 腰' ビ ザ ソチ ク ム式 の橋 染 が あ-加 ふ
る に 宏 大な る市場 、病院 、草 枕 '兵潜 が ある。 希
臓 大 冊 正 の居 住 地 であ る。 人 口三寓 四千 七 官 。
乙の都 骨 は初 め タ スク ダ マ(
Us
kudama)と 呼
ば れ たが皇 帝 ',ド リ ア ンが 紀 元 〓 云 年 頃 に改
港
ド ラ ミチ滑 の海 角 に位 置 しp ミチ -1 ニ (
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) 島 と 和 動 Lt ス 7- ナ の北 八十 哩 に
築 し カ の で'皇 帝 の名 を袈 う で 'Tド - ア ノポ J
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m)と 柄
あ る。 育 代 の アド ラ ミ ツ ム(
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re)の首 府
ア ノー ブ ルの我 閲 は皆 時裸 馬帝 閣内 に移 任 し居
寧空 一
七 八年 八 月九 日 に行 ほれ た所 謂 ア ドリ
の地 に於 で協 約 は調 印 さ れ た。
であ った。 露 土 我 事 後 1八 二九年 九 月 十 四 日 乙
間 は オット マン酔 問
スと 改栴 され た。 二 二六 一- .L四五 三年 に至 る
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。 サ ハラ (
Sahara)の 三大 地
せら れ た塵 が 附近 にあ る。
ア ドラル
。
方、 北アド ラ γ
、 西 ア ド ラ ル' 兼 ア ド ラ γの線
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アドリアノーブ ル (Adi
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. 希胞 語 ほて
は ハドリア ン(
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ノポ リ ス (Hadri
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)と 和 す 。 士其
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少 し ゴー ト人と雁 馬 人と の問 に我 はれ たが '雁
馬 人 の敗 北と 在 った。 .r
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r ト人 の耽 勝 は騎 兵隊
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古 の都 骨 。 土其 古 人 は エヂ ル ネ E
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h)と呼
の偉 効 にょ つた。
云
三
六三
一九 二 1
年 の十 一月 に飴 せ つカ最 初 の パ ル カ
ん で ゐ る。 マリ ブ ツア (
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)河と ヅン'
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nJ.a)河と の合流 瓢 托催 し、 コソ スタ ンチ ノー
粧非根後 の地名 考
餌 二十怨
解 剖批
三〇 四
大別
nia) の源 岸 は風 景佳 絶 托し て カ タ ロ (
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附 近 ほ て は源 よ-直 は高 山が 陀 立 し て ゐ る。 西
球
ン戦 替 ほ て はブ ルガ リ ア人 及 び セ ルビア人 が ア
ド- ア ノー ブ ルを攻 撃 し たが 失 敗 に終 -' 一九
海 岸 及 び島 唄 ほて は住 民 は漁 業 は よ って生 活し
地
1三年 三月再 び攻撃 し て、 EZ
寓 の軍 人と 大 官 の
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て ゐる。 西海 岸 はあ る主 要姑 はヴ ェニス (
地中海 の
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、 ブリ
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)であわ 東 海 岸 の主 要 港 は ツ
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)、 ポー ラ (Pot
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)' ブイ ク メ (
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)、 ザ- ラ (Z ara'
) ラグ サ (
R agusa)' カ
砲 を備 へた要 塞 を昭 弥 せし めた。 r
Jの勝 利 は 一
ねが 、第 二次 バ ルカ ン故 事 は於 て は アドリ ア ノ
九 二 二年 五 月 三十 日伶 敢 確 約 に よ って確 認 n れ
ー ブ ルは再 び士其古 人 に よ って占接 され、 一九
(
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)
。
二 二年 九 月 コソ スタ ンチ ノー ブ ル健約 に よ って
公式 に士其 古 人 に遼 附 さ れた。
ア ド リ アチ ッ ク海
二 〇 讐 両横 は島 唄 を含 めて室 T
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C
)00 平方
の間 に於 で西 北 に延 びを の長 さ四七〇哩'中 隔
は伊 太利 と ユー ゴ ステディア (
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)と
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m) と挿 し た。 アド リ ア チック源
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闘 は掃 海 艇 を迭 -敷 設 水雷 等 の危 険 を除 か凡と
を造 って伊 太利艦 隊 に多 大 の損 客 を典 へね。共
バ ニアに軍隊 を上陸 せ し めた。猫 乙閥 は潜 航 艇
岸 は侵 入 し たが ' 一九 一六年 に は伊 大利 は ア ル
入が為 に戦闘 が 行 はれ ね。襖 地利 人 は伊 大 利 沿
世 界 大 戦常 時 アド - ア チック 海 の制 海 楯 を移
哩 であ る 0西 海 岸 は比較 的 低 -数 個 の入 江が あ
1支海 。 育 代 ほ て は ヤー レ ・アドリ アチ ク ム (
る。東 海 岸 は峻 険 にし て岩 石 よ 少成-士 地 不 電
し た。 これ は伊 太 利 をし て戦 争 に 以き 入 れ' 伊
太利 罫 は漸 次 優勢 と を -喚 地利 の海 軍根 接 地 で
。
あ る ポー ラに布 三 入 る を得 た〇 一九 一八年 に は
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ほし で 山岳 多 -島 哩 に よ って練と られて居 る。
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) 及 .S ア ルバ ニ (
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)振峡 hf
閉塞 す る 乙と はょ
オ ーラ ソー (
って敵艦 隊 を してアド- アチック源 に 入 る 能 は
ざら し め る 乙と の可能であ る こと が判 った。 一
九 一九年 に は東 海 樺 即 ち喚 地利 の海 岸 を そ の梅
唄と 共 に伊 大利が 所有 す る こと に つ いて困難在
る問 題が起 ,
二 九 二〇年 に ラ ''1P (
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du r).英蘭 士 サ セック ス
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協 定 に よ って伊 大利 及 び ユー ゴ スラブィア は 妥
協 し南開 は夫 々領 土 を得 た。
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河。長 里 0
1 哩帆船 の好 にょ って航 行
可能 であ
る0シ ョアラ ム(
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m)ほて英 海峡 (
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annet)に入る。 築港によ って ヨット舶製造が
行 はれ'世界 大戦潜 時 ヨットの造船 業が非 常を
る刺 戟 をうけ て活気 を毒 し た。
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島 喚 中、
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oea)最大 にし てそ の他 ミチ-1 ニ (
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)' サ モスレ
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)、イ ムブ pス (Imbros)、 レムノ ス
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モ ス(
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)の諸 島 、及 び スボ ラデー ズ群 島 (
ades)、 シク ラデー ズ (Cyctades)群 島が あ
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イー '・シア ン文明 (
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多 鳥 海 文明在 る名稲 は希胞 文 明 (
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n)以前 の文明 であ るが 故 に プ レ・ヘレ ニッ
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)文明とも解 せら れ、叉 は マイ ノ
ン.賢
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)文明、 マイ シ ニア ン(My
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y)、希臓 に
恥骨 は小 ア ジアに於け る ト ロイ (
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於け る マイ シー ニ (
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enae)及び タイタ ンズ
文明と も釈 せら れ る。 r
Jの文明 を代 表 す る主 要
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)' クリー ト (
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イージアン・
シー(
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。 希膿多鳥海
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ago)。 地中海の一部 分 にし て、
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u北 よ希腰 と 小亜柵並 と の間 にあ る。を の長 r
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) 及 び フ ェスタ ス (
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)であ っ
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nn)の磯堀 は 1八七
た0 シ ュリー マン(
三宝
南 に凹 ○ ○ 哩ば か ゎ、 桁 敢廉 さ 塵 に於で -1七〇
哩 である。航 行困難 であ るが魚瓶 及 び海綿 を多
世非枇後 の地名 考
姉 別緋
三崇
六 六
比較 す る 乙と は ょ つて略 定 めら れ る. ま ね陶 器
弟 二十怨
〇年 ヒ ッサ リク (
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ik)即 ち古 代 の - ロイに
於 で開 始n れ' タ イ - ン ズ及 び マイ シ ニほ於 て
の土中 物 に よ っても p
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の文 明 の磯 蓮 の譜 階 梯 が
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空 剛 1五 〇〇年 以前 Iu
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も 頂 いて行 は れ其 結果紀 l
Jれ る。 r
Jれを初 期中 期 後 期 の三 階梯 に別 ち
示r
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上述 の文 明 の存 在 し て ゐね こと 教程 明 し た。 シ
更に 三小 期 は分 つ。 文明 の全 期 を蔽 ふ年 代 は紀
元前 三 〇 〇 〇年 よら紀 l
空 肌 二 〇 〇年 は至 る の
を 示す . マイ ノア ン朝 の年 代 は攻 及 の年 代 記 に
ュリー マ ンは クリー ト砧 に於 で史 に重 要な る磯
掘 物 を 得 るであら う信 じ て ゐたO l八 九 四年 以
であ る。 ノー サ ス (
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) 及 び フ ェスタ ス
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凍 ク リー ト島 は於 で イ ブァソズ
(
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us)に あ った最 初 の宮 殿 は紀 元前 二〇 〇
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)
シ ュリ
そ の他 の人 々に よ って畿 掘 nれ ね結 果 は
の文 明 よ少も 以前 の文 明 と有 し紀 元前 二〇〇〇
代 よ与青 銅 器 時 代 は移 少、 希 腰 及 び マイ シーこ
宮 殿 は焼 か れ た。紀 元前 十 四世 記 に は既 は マイ
って、 そ の末頃 に は侵 入者 が 凍-、 ノー サ スの
〇年 よ-撃 空別 一四 〇 〇年 に至 る 一世 紀 間 で あ
ー マンの所 信 を確 静 す る 乙と ほを つね。斯 - し
〇年頃 に建 築 n れ、紀 元前 一七 五 〇年 頃 に破壊
て、 紀 元前 三 〇〇 〇年 頃 に クリー ト島 は石器 時 . さ れ た。 ク リー ト島 の黄 金時 代 は紀 元前 一五〇
年 頃 に文明 の最頂 鮎 に達 し た。
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) 文 明を る名 桐 は ユダァ
マイ ノア ン (
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ノ ア ン文 明 の衰微 を謎 め軍 票 馴十 一世 紀 に はそ
の樽 筏 を 見 た の であ る.
ユダ ァンズ が つき と めた宮 殿 の遺 物 は育 代 の
ラ ビリ ン ス L
( b
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rinth) を基 礎 にし複 離 在 る配
置 法に よ っ て 確 管 さ れた のであ るが 、 宮 殿 の造
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示し て居 み、 f
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Jの うち
物 は有 線 の建 築 的才 能 J
ンズ (
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ns)の使用せし用 語 であ わ' イー '・,
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a)文 明 と 云 ふ
ン文 明又は地中 海 (
名 析よ- は包 括的 で老 いと は雛も
、 乙の文明 の
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中 心とし て ク -I -島 が ヤイ ノア ン胡 (
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y) の偉大な る統治 者 の下 にあ った 乙し
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属 の油化
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Lエアに起 原
を有 す る丑畳 を計 る方 激 を採用 し て ゐね。〆 1 ト鳥 人が 信奉 し て ゐね主 要在 る神様 は自 然の
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kせ
t 敢 触興 味あ る7
9のは党旗室(
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二 審斧 の飯 問 (
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e Axe)、
盈后官 (
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)であ る。二重の斧 は或 は
、H
邦物敬 の剛健 であ った かも知 れ覆 い。各 室 の壁
他 の図民的生活 を表 はし て ゐる。
に は壁 番が あ わ宗 教的 を 行列 や闘牛 や拳闘 そ の
女榊 であわ、 r
Jれ に従属 す る若 い男 性 の榊が あ
ったO女榊 は後 に希膳 の種 々を る女 神 と 同 1減
され' 男榊 は ヂク ス(
Zeus
)
と 同 一親 せら れ た。
イージヤイナ (
j
Egi
na)。 希臓 の島、 古代 の
衛生 設備 の卓 越 を 不し て居 る r
Jとと '婦 人 の
であ る0記載 に は敢 初 は給 笛 に よ る方法 を用 払
と柄 せら れ たも の怒 ら んと 瓜為 さ れ、人種 の特
長 は頭部 長 -、
顔 色 巣- '
身 長短 か- あ った r
Jと
乙の文明 を有 L ti
Jゐね氏 族 は所謂 地中海 民族
・
Tナ3
.2は紀 元前 四五 六年 頃 に長期 の包囲 の後 に
し海綿 疎娘 業 は食 前 な る生 業 であ る。 イー ジ ヤ
であ るが'主 と し て・
・
;
・
・図在 れど も 地 味肥沃 であ
る。穀粗 ・
葡 萄酒 及 び英資 を産 し陶器 を製 造 品と
あ る。而積 四 〇平方 哩。島 の西海 岸 は硬柄 の地
和 食。希臓 多 鳥海 の出 口にし て' サ ロ ニック (
Sa
r
o
n
i
c)轡 又はイー ジヤイナ幣 と稀す る滞内 に
硬 に は線 に ょ る方 法を用 以たら し い。多 - の標
アゼ ツ ス人 に よ って奪 取 n れた。輔 の起 原 はせ
服装が 近 代 の型 父界 の婦 人 の服装 は似 て ゐる 乙
とと に驚 -0
本が 礎掘 さ れたが 米 だ解 粋が つかを い。 彼等 は
く ド - ア ン以前 の時 代 (
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Do
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anAge
)に遡 る
三〇七
六七
ミュ
ー ニッヒ
於 で罪 悪な る彫 刻が散見 され狗 乙 の.
(
Mi
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ni
c
h)に鎚 ば れ て ゐ る。 人 口八千五官 。
Aphaea)の殿 堂 の鷹 補 に
1八 二 年 ア フ ェア (
海 上生 活 を 王と し て督 み顔 汎在 院域 に亘 って通
商 をを し殊 に玖 及と 貿 易 をな し て居 たら し いC
ク リー ト鳥 人 は大工 及 び金属 工と し て優 れ て わ
たが=:
競業 は多 -菅 まれ で ゐ夜 か つたら し い。 金
世非械後 の地 名考
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節 二十 番
イ-ゴ 見蕗 タ マイ (
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。 ス レー ス
牛島
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onese)の河。 紀 元前 四
ン人とスパ ルタ人と の爾艦
〇五 年 に此 塵 で アゼ
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節 凹舵
賞 杯 を 得 た。
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)。確 格蘭 のイ ンブァネ スシ
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sire)の郡 谷 。河 及 び湖 水 の名Q
玉樹中 敷 79美 しき 風景 であ ると 考 へら
新 谷 は英
ルタ人 は ラ イ サ ンダ
隊 の海 戦 が あ った0 スパ
湖水 を 経 て グ ラ ス(
Gl
as
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)河 は各 流 し で ゐ る。 ・
アフガ ニスタ ン (Afg官 nistan)。 ア フガ ニス
机 で屠 る。 河 はそ の薪 谷 を流 れ長 n十 八 哩あ -
Lys
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er)に よ って統帥 され ぺ レシャ艦 隊 の援
をうけ ね 。 アゼ ン スの艦 隊 が 敗 れ そ の結 果 ア
助
ぜ ン ス人 の海 軍 優越樵 を破 壊 せし め希 臓 の覇権
タンは印 度 の酉 牝 は概 ね は る図
っ て露 酉 並
を アゼ ンスよ-奪 ふ 乙と はな つT
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f。 イー ゴ スポ
と 印度 確 聞 と の綬 衝 地帯 を夜 L t
Jゐ る。 そ の見
閲
で
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魔 々ほ 操き峡 谷が あら ま ね肥 沃 在 る低
績 み面 積 は 二四 五、 0 0 0平 方 哩。主 と し て山
であ
タ マイ は山 羊 の河 と 云 ふ意 味 であ る.
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by)O倫 敦 で
エ- リ ア ル ・ダ- ど (
行 はれ る飛 行競 走場 を指す も .薯 際 は倫 敦 用陶
を飛 翻 し て競 寧 す る飛 行競 走 そ のも の数名 づ -
uれ同 紙 は金 杯 を提 供 す るC
3 .i九
に ょ つて創 始 r
乙の競 走 はデ イリ・メイ
〇 〇帆 に達 し で ゐ岳 。 衆 傾聴 し て健 康 に適 し 茶
気は乾 燥 し て ゐる。
す る高 さ 山 脈 が某 北 は貫 き そ の澱 高峰 は
地が あ るO ヒ ンゾ ・クツシ 三 Hi
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)と 術
二四〇
1二年 の最 初 の競 走 は英 人 ソッビ ス(
T. 0.声
然 し 気 温 は塵 は よ っで極 端 な る差 異 が あ る 。
布 二回 の収 穫 が あ -穀 類 野菜 某資 をジ
産r
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荷 を座 す0 鋼 鉄 金の鹿 田 が あ -用 布 城 山既が 製 造
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磯を用 以で 一時 間 六 〇 雌 の スピー ド ほ て八 一哩
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程たO J九 二三 年 に はカー タ
L_Carteユ が 一時囲 .i九LJ・四 哩 を飛ん で
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印度と の交通 に は四 つの鹿路 があ-そ のうち
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最 蚤要在 る二 つの経路 は ぺシャワ ル(
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酬 の地 排郁死者 にと
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0支 那及満洲地誌故地園田線鋸
地脚 の日蝕 が公 にさ れた こと は支 那及
ふる に茶棚同番 館 .
1北海 同輩 館粥 戒 のも のを 以 てし、達 に五
簡灘岬の御苑 にか ・
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るも の、約 人又 は称脚 によ るも の、之 に加
千 二官僚部 の塊状 を見た のである。 日銀 戟す る所 は省肺胞 州
懸志 を虫 と し娘 ね て迦銀 志術志 朗志鯛 志 場悲願 外患 称 に及び
て列我 し てある が耐蝕 には基 僧 を附赦 し英樹 府 溶 以下 七部 を
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挙 げ てあ るO 遼 寧 に五 十五郎 ' 書林 に六部 、凝離 江 に 二十 ]
部、熟 河 に三部 を掲げ てあ る。 勅諭 河北河南 山東 等 のも のは
民図 二十 二年 一月
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あ る。 支 那地 溝 の侍 孤 は本 日蝕 によ って韻文 の銘 柄 を挙 げ て
甘放 十部 以上 に達 し殊 に川東 の如 き は紙 数 三十 七枚 を裁 し て
ゐると云 へる。
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これは洋紙 横 紙 の貰故 二 八 の小本 であ る。 緬 文 の金戯 大挙
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漕 通 と したが民図 十六 七年 以衆 は求者 多 き痛
に就す る こ千首 四粒 三 謁 二千五 十六柵 とな った0本 日蝕 では
か ら 十 元 にな って収集 が困難 と な った、 それ でも速 に本 日銀
節共譲 編
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