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近代上下水道の建設 - 日本産業技術史学会

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近代上下水道の建設 - 日本産業技術史学会
呈
え
、
守斗喝
J丸
員同
近代上下水道の建設
一一京都市水道ζ
l おける琵琶湖疏水の意義一一
小
野芳朗**
1
.緒 論
2
. 伝染病と衛生行政
3.水道以前の水利用形態
4
. 琵琶湖第 2疏水と上水道
(
1)衛生問題と上下水道
(
2)京都市会第 6
2号議案一一京都策二大事業
(
3)上水道建設一一京都市三大事業
5 結び
三ι
1
.緒
日
間f
1990年 4月
, 琵琶湖疏水は竣工 100年をむか える。
周知のとおり, 琵琶湖疏水は京都府知事北垣園道が,工部大学校の卒業論文のテ ーマに疏水
計画を選んだ田辺朔郎を京都府技師に雇いあげ,
明治 16 (1883)年より 音1
−画が開始された。起
j
(刺を開通して以て運輸を便 l
とする」「器械を運転して以て諸
工趣意書にみる疏水の目的は,「7
製造を盛大」にするととが中心課題と なっている。そして余力の及 ぶ所管内 K在ては「之を京
l備ふべく」「水車を装し
都市街 縦横に引用して以て井水の欠乏を補ひ」,また「火災防御の用ζ
て精米の用 をなし J「下水を清浄にして衛生に取るべく」,
ζ れに加え「郡内皐損の田面を謹概
して若干の収穫を得べし」 とある 。いずれにせよ ,主目的は水運による物資輸送と,水力発電
*1989年12月14日受理,
1
9
9
0
年 1月20日改稿受理,上水道,下水道,琵琶湖疏水,京都市三大事業,衛
生思想
料 京都大学
(
1
) 田辺朔郎 『琵琶湖疏水誌』,丸善,大正 9年
, 16∼21頁
。
(
2)疏水の水道と
しての役割は琵琶湖水上輸送を京都市内へ直結するものであったが, 鉄道の敷設によ
り,その主業務を譲る乙とになるが,京都大津聞の運輸船の数は明治30年代にはいっても年間 1
1
,000∼
5
年
。
1
2
,0
0
0台が通航 していた。京都水道局「京都市水利事業一覧表』,明治3
2
7
技術 と文明
5巻 2号 (1
1
4)
によるエネルギー獲得であり , 明治 23(
1
89
0
)年 4月の竣工後, さらに大津,京都と淀川を結
合すべく,鴨川運河の着工が始まっている。
8(
1
8
9
5)年ζ
l 水利調査委員会を市会におき ,
一方,琵琶湖第 2疏水計画は ,はやく も明治 2
実施への胎動が始まっている。いうまでもなく ,疏水水量の増加を目的 としているが, 乙の事
5(
1
9
1
2)年には京都市域に近代式水道の敷設が完了した。現在の 琵琶湖疏
業が完成した明治4
水の用途は,京都市水道局が管轄する琵琶湖から京都市への水道水源で、あり ,疏水は着工当時
の事業目的を時とともに変還させっつ,明治末の水道鉄管の市域への埋設とともに,現在の水
道取水源へ と役割を収れんさせたといえる。
1
989年,疏水竣工 1
0
0年ζ
l先立ち ,また京都市制 1
0
0年の記念事業 として,京都市岡崎の地,
l琵琶湖疏水記念館が開館し た
。 記念館の展示はそれ程豊富なものでは
疏水イン クライン の下ζ
ないが,疏水建設に寄与した人々,北垣園道,嶋田道生,南一郎平,田辺朔郎のプロフィール
や,田辺の工事メモや渡米日記(田辺家寄託) ,工事記録画(田村宗立画)がなら べられている。
それは,近代都市への脱皮,具体的にいえば,とくに水力発電に よる 産業の興隆や,電気鉄道
i教えてくれる。
の開設に果した疏水の役割を観覧者ζ
ととろで疏水記念館は疏水の歴史的効用をのみ示 しているのではない。展示全体から 与 えら
れるイメ ージとしては 多少 トー ンが落ちる気がしない でもないが,京都市三大事業と水道開設
が,地下のもっと も奥の展示室にスペースをさかれている。
年代から京都市がコレ ラ,赤痢,腸チフス といった伝染病におそわれた とと。それら
明治 20
が飲料水として使用していた井戸に問題があっ たとされた乙と。そして,その解決策として上
水道をつくるととになった,と 説明されている。 琵琶湖第 2疏水は ,水道,発電,市電などの
事業の ためにひらかれた。
展示の最後が水道事業であり,かつそれが伝染病対策であったとと,当時最高の浄化技術を
採用 し,市民に豊富で安全な水を供給する責務を果たしていると主張するのは,
ζ
の記念館と
しては当然 といわねばならない。 疏水記念館のバン フ レッ 卜をみて気づくのだが, ζ とは京都
市水道局 の管理下にある。 琵琶湖疏水の管轄は現在京都市水道局にあるの だ。飲料水源 とし て
の琵琶湖疏水があるから ,それを管理すべき水道局の展示プリンシプルと しては最終的に,水
道の効用
, つ まりは豊富で安全な水の確保に力点がおかれるのは至極あ たりま えの乙とであろ
う。しかし ,と れだけでは他都市の水道,たとえば横浜水道記念館に おける展示理念も同じ水
道の効用を うたっていてとくに 目新 しいものはない。どの都市においても水道,それも圧力式
送水法を採用した近代水道を導入した理由は一事,すなわち伝染病対策にあるの だろうか ?
.
J
<と使し
あるいは,都市には各々の水利用形態があろう。たとえば河川水,湖水,地下水
, 湧7
てきた水の獲得法は奥なっていよう。それでも近代水道導入の プ ロセスには 同じもの があっ た
のか。伝染病とくにコレラ,そして水道建設 と続くプロセスは。
本論で考察するのは,との第 2疏水着工に至る上水道起工,あるいは衛生工事 とし て両翼を
2
8
近代上下水道の建設(小野)
なすはずの下水道工事 との相関についてである。
水道史 ・下水道史を技術史としてかくととは ,次に紹介するように ,事業史 ・通史としては
日本水道協会の『日本水道史』や,近年発干j
lされた日本下水道協会の『日本下水道史』が存在
する。いずれも地方公共団体に対して協会編纂部より ,事業史 としてその地方の水道事業 ・下
水道事業をかくように要請がいき ,それらをまとめあけ、たものである。
本論でかかげる到達目標は ,水道 ・下水道技術の成立と,その及ぼす市民の水生司活,
7
.
J
¥文明
への影響を解き明かす乙とにある。 技術は何らかの社会的ニ ーズがないと誕生しないし,また
世ζ
i出でてのち,それ以前のモノ体系 (本論では水体系)を大きく変容 させる乙とがしばしばあ
る。乙こでは,
ζ の問題を明治末の京都市ζ
l焦点をあて論ずると
とにより,ある技術の モノ体
系,すなわち文明との連関性を聞い,現在,あるいは将来への,ある技術の在り方を考えてい
く一助としたい。具体的にいえば,水は水道の蛇口からでてくるものだ, という現代に棲む我
々の水文明観はどうやって形成されるようになったのか,果してそれは絶対的なものなのかを
最終的には論じたい。
以上ζ
l,水道技術の水文明に及ぼした影響について触れた随筆を 2例あげたい。本論の主題
と述べられ た水文明観ζ
l端 を発している。
は, 乙の 2例 l
ひとつは谷崎潤一郎の大正 8 (1919)年にかかれたものである。
東京と 云ふ土地は(中略)以前より 文明的 の 施設は殖えたであらうが,市民がそれらから
受ける便利は ,それらから受ける不便に比べたら無い方が増しなくらいなものだった。水
道が出来たから安心して井戸を埋めると,その水道が卜分には水をくれない。おまけ K納
税を怠れば直きに水を止められてしまふ。
(井戸の時分には設がそんな心配をしたらう?)
いまひとつは ,寺田寅彦が大正 1
1(
1
9
2
2〕年 1
2月 8日の東京地域の地震によって,淀橋近く
の水道溝渠が崩れ,断水となった日の随想である。寺田は ,断水の 日l
ζ現代文明における科学
の応用が不徹底であり表面的である
ζ
とを ,水道という文明施設を例ζ
l論ずる。
そして, どうしてもやはり ,家庭でも国民でも『自分のうちの井戸』がなくては安心でき
ない , という結論に落ちていくのであった。
以上の 2編は ,いずれも水道を文明施設と して採用しつつも,そ れのみに依存する
ζ
とへの
疑問を提出している点で共通している。双方とも東京の例である。同様な観点から ,京都の水
道 ,下水道という水システムに次章以下で論考を加える。
(
3
) 日本水道協会『日本水道史.
lf
昭和42年
。
(
4
) 日本下水道協会「日本下水道史』,行政編(昭和6
1年),事業編(昭和 62
年),技術編(昭和63年
)
。
(
5)谷崎潤一郎「絞人
J
,『谷崎潤一郎全集 ・第 9巻』所収,中央公論社。
(
6)寺田寅彦「断水の日」,『寺田寅彦全集第 3巻』所収,岩波書店。
2
9
図− 1 京都府の伝染病患者数
5
0
0
0
1
0
0
0
~
く
5
0
0
事
草
1
0
0
く
宰
5
0
j
E
翌
i~t ~ I
v
一一一コレラ
一一赤
一
ー
j
f
t
j
−n
昌チフス
大
明
;
t
s
1
0
1
5
2
0
2
5
3
5
3
0
4
0
正
5
J
'
C
1
0
1
5
表− 1 政府及び京都府 ・市の衛生関連の法令
国
京都府
・市
明治 5 2.1
1文部省医務課設置
I
明治 7
明治 8 6.
28内務省衛生局設置
I 6 府,伝染病予防手続を制定
明治 1
0 8.2
7 「虎列刺病予防心得」内務省達乙
第 79号
明治 1
2
. 中央衛生会,地方衛生会設置
6.2
8「
虎列刺病仮規則」太政官布告第
9.療病院開設
1
1
. 市中に公衆便所
|
I
9
. 予防心得,虎列束j
l
死体葬送取扱方
I10. 東福寺内を避病院とする
I
1.虎列刺流行措置として「 クワー ランタイン」
|
(
検疫)実行
23号
明治 1
3 7
.9「伝染病予防規則」太政官布告第
34号
IB
街生課(衛生掛+報告掛)設置
I10. 町村衛生委員選挙法
9.1
0「
伝染病予防心得書」内務省達乙
第36号
明 治1
4
5
. 地方衛生会開催
明 治1
6 大 日本私立衛生会発足
明 治1
8
9.伝染病取締規則
5.府,路傍便所構造ならびに取締規則
4.答察本部ζ
l検疫本部
1
0
. 大 日本私立衛生会京都支会発足
明治20
7.上下京区衛生組合規則
明 治21 3. 1「伝染病予防消毒取締規則」警察
令第 3号
明 治2
3 2
.1
3「
水道条例」施行
「伝染病予防心得害」内務省訓令668号
明 治24 2
.一「検疫施行法」公布
明治2
6 1
0.3
1地方庁衛生事務の警察部移管
明 治2
8
3.長屋建築規則ならび1
ζ 井戸便所下水溝橋造
規則
11
. 市内下水溝渠吸込汚泥ノ 許可地以外へノ;委
棄禁止(府令6
0
)
1
. 答察部衛生課
8.衛生工事事務を衛生課よ り第二諜土木掛へ
移管
明治2
9
明治3
0 4. 1「伝染病予防法」公布
明 治3
2
明治3
3 3.7 「汚物掃除法J 「下水道法J
6 市の衛生組合,連合衛生組合設置
4.衛生組合設置規則
11
. 府衛生会発足
近代上下水道の建設(小野)
2.伝染病と衛生行政
我が国の近代上下水道の歴史を語る ときに,消化器系伝染病 は 避 け て と お れ な い 問 題 で あ
る
。
1
9世紀後半は医学史上「細菌学革命」と名付け られ る時代である。つまり,伝染病の多くの
原因が, 病気ζ
l特有の細菌 という単細胞生物が 原因であるととが解明されていった
ζ
とに加
え
, 乙の事実は細菌を体に接触させなければ病気ζ
l躍らない,という防疫法を生みだしたので
ある。鋳鉄管をも ってして, 浄水を圧力をかけて送水する近代水道は,まさにと の 「衛生」上
の必要性から建設がいそがれたのだ, とは確かに否定 しがたい事実である。
C明治 1
0(
1
8
7
7)年から大正 1
5(
1
9
2
6〕年までの,京都府下のコレラ ,赤痢,腸チフス
図− 1I
の患者数を図化 した。消化器系に伝染病中 , コレラ は1
9世紀になり,インドより突如世界に流
行 を始めた伝染病であり ,下痢, H
匝吐,高熱を発し,数日 で脱水症状をお ζ し死に至 る
。 我が
乙侵入したとされるが,明治以後,全国的に大流行するのが, 明治 1
0(
1
8
7
7
)
国にも江戸末期 l
年西南戦争をきっかけとして,その後 12 (
1
8
7
9)年, 1
9(
1
8
8
6)年, 23 (
1
8
9
0)年,28 (
1
8
9
5)年
であった。図より京都府もほぼそれに対応して患者が発生し,以後大正にかけて, ときに流行
1
9
1
2)年竣工であるから ,
はあるものの傾向として減少に転じている 。京都市水道が 明治45 (
水道の衛生効果があったのであろうか。
一方,赤痢,腸チフスの患者数は図より増加傾向にあるといえよう。つまり,
京都の水道
は,コレラを減じはしたものの ,消化器系伝染病全般にただちに効果があったとはいいがた
い。実際,京都のとうした伝染病患者が減少傾向に転じるのは,
1
9
4
5)年以降, 下水
昭和 20 (
道 の普及率が高まりはじめてか らである。
明治初期より発令された政府および京都府,市の衛生行政を表一 lにまとめ た。伝染病予防
の法的措置としては,コ レラ ,赤痢,チフスなどを法定伝染病と して, 明治 30 (
1
89
7)年 の伝
1
8
9
3)年にみら れるごとく ,末端では警察
染病予防法に整備される。また衛生行政が明治 26 (
力ζ
l頼っ ていた。明治 23 (
1
8
9
0)年の水道条例により,我が国の水道は私会社による経営の道
l限るものとされ, 今 日に至 っている。
は閉ざ、
され,公共団体ζ
一方,衛生知識(予防,消毒,清潔法) ζ
I関する啓蒙機関は ,学会 として長与専斎中心の大日
1
8
8
3)年 K設立 されている。衛生啓蒙のための末端組織に「隣保協同
本私立衛生会が明治 16 (
相互警戒清潔法ニ注意シ伝染病 ヲ予防スル等 ヲ専ラ自衛自治ノ機関」とし ての衛生組合や, 「
衛
生上の利害得失を論究して各自の摂生を促し彼我の健全を保つ」目的で設立された,下京区有
(
7
) 京都府『京都府統計史料集 ・ 第 3 巻 ・ 衛生~. 3
0
2頁。
山本俊一『 日本コレラ史』,東大出版会,昭和5
7
年。
(
9
) 京都府立総合資料館蔵行政文書 「
京都府訓令」,明治2
7
年1
1月 7日,明 2
7 6。
側
『日出新聞』,明治 1
9年 1月2
6日。
(
8)
3
1
5巻 2号
( 118)
技術と文明
志による通俗衛生講談会社,さらに上京区有志による疫毒保険会社や伝染病養生所などがあっ
f
こ
。
乙れらの機関が伝染病予防に実際どれだけ効果を示 した のかは詳らかではな いが, 主として
石炭酸を中心 とする消毒薬の使用法を説く消毒法や,衛生掃除,害虫駆除の ための清潔法 ,そ
して飲料水,食品を媒体とする細菌への予防法を大衆に流布したものであった。
本論でとりあげる京都市の上下水道建設と琵琶湖第 2疏水工事着工へ至るきっかけとなった
のは ,当 初 は 明 治 28 (
1
8
9
5)年の内国博及び還都紀念祭開催ζ
l際 して,下水道を建設する計画
であっ た ととが, 京 都市会における内貴甚三郎市長の発言よりうかがい知れる。
本市下水道ノ濫j
邸ヲ各]
j
話センニ是レハ既ニ前述ノ紀念祭博覧会ノ時ニ当 ッテ日本衛 生 会 京
時 分ヨリ参事会モ其必
都支会或ハ京都医会等ヨリ臨毘起工必要ノ 建議書等 ヲ提出セラレ其 l
要事業タルヲ認メ居リ
0月には, 選 都 千
つまり,同年は京都市岡崎で 4月より 第 4囲内国勧業博覧会の開催, そして 1
百年祭が予定され,人の出入りが激しくなるととが予想されていた。加えて, 前年の 明 治2
7
(
1
8
9
4)年は ,前掲図一 lk示したように,赤痢が大流行し , 博 覧 会 ・紀 念 祭 の 開 催 自 体 が あ
やぶまれていた。
明治 28年 に発令された衛生関係の防疫措置を表一 2にまとめた。とのような措置にもかかわ
らず, ζ の年には日清戦争終結とともに大陸からの帰還軍人らによりコレラ が侵入する。
行政文書に みる最初のコ レラの報は ,福岡県門司における 患者発生で,博覧会 ・紀念祭への
表− 2 明治2
8
年京都府の衛生関述の法令
1
. 4 警察部中に衛生課の設置(庁第 I号
)
1
.2
5 伝染病簡易消毒法(司l
怜1
0号
)
2.5 飲食物ニ覆蓋ヲ為スベキ(府令 1
2号
)
2.5 紀念祭 ・博覧会ニ付予防ノ為塵芥ノ採取便所下水等ノ掃除ニ注意(訪i
i
令1
3号
)
2.
2
8
3
.1
3
4.1
4.1
9
5.1
2
7.1
0
日清戦争役軍人 ノ危険伝染病予防ノ件(司|
!
令28号
)
し尿運搬時間制限ヲ改正(府令2
8号
)
爽楽病院開設
臨時検疫部ヲ府庁内ニ設置(庁第 2
5号
)
予防消毒法執行心得(司|
|令84号
)
官国幣社私祭禁止(府令5
6号
)
8
.1
7 演劇寄席諸興行場ノ群集差止(府令6
4号
)
8.
2
6 市内公私立学校休業(訓令 1
2
5号
)
(
I
I
) 『
日出新聞』
,明治 1
9年1
0月2
9日。
(
l
?
J 消毒薬として使用されたのは石炭酸 (
フェノール)
, 希硫酸,
ショウコワ 7
.
J
<,また塩化石灰(サラシ
粉),生石灰などであった。
帥
『京都市会議事録』,明治3
3
年 5月2
5日。
(
1
4
) 長与専斎「博覧会の準備」,「大日本私立衛生会雑誌、』第 1
4
2号,明治2
8
年
, 300頁。あるいは「術生準
0
5頁。さらに京都府立総合資料館蔵行政文m「
雷
||
令綴」,明治28年,明 2
8- 20
備施行要略」,同上誌, 3
(
1
5
) 京都府立総合資料館蔵行政文告「地方事務管内景況調査J
,明治2
8
年,明 29-34。
3
2
近代上下水道の建設(小野)
影響を懸念している。同年 4月,検疫所が七条,伏見, 1
1
1科,稲荷,向日町,山崎の各停車場
聞
と,三条蹴上の疏水の舟着場 l
とおかれた。
0日
, 38人の ピー クを示し ,その後一時減少したが, 8月
コレラ 患者は 5月に発生し, 7月 1
1日よ り再び増加を始め , 1日約 30数人 の患者の発生をみた。患者の多く発生した場所は ,の
ちに述べる深井戸の多かった堀川以西中立売付近であ った
。
府令は大人数の集合を禁じる。 7月 1
0日宮国幣社および府社祭礼の禁止, 8月 1
7日演劇寄席
側
諸興行の禁止などがそれである。祭礼禁止令は結局乙の年の祇園祭延期にまで至った。
乙のように, 明治28年が近代京都にとっては ,博覧会 ・紀念祭を開催し,かつ日清戦争に勝
,
利した,ある意味では記念すべき年 K,コレラ大流行を経験 し
ζ
の 乙とが,市内の衛生家ζ
l
衛生工事 の必要性を声高に云 う機会を与え たのである 。 ただ\その衛生工事とは ,先ζ
l引用し
た内貴市長の言葉にあるように ,下水道工事のととであっ た
。
3.水道以前の水利用形態
近代水道が明治 45 (
1
9
1
2)年に竣工する以前の市民の水利用形態の中心は井戸水であった。
井戸水の調査に関しては , 明治 33 (
1
90
0)年 に報告された『京都市上下水道工事市区域拡張
道路改良取調書』において,臨時土木委員会の示した結果をもとに当時の状況がある程度復元
できる。
lて嘱託委員比企忠の調査した明治 31(
1
8
9
8)∼ 32 (
1
9
9
9)年の市内の
図− 2は,同報告書中ζ
井戸 736ケ所の地表面より水面までの距離をもとに,海抜より,との距離を差 し51
いた距離を
メー トルで
、 表 わしたものである 。つ まり ,地下水の水位をある程度表現した ものと考えた。乙
の図によって推定される当時の地下水脈は,市の北東部,鴨川合流点から現在の京都御所の下
をぬけ,市南西部へ流下していたととが推察できる。さらに ,市北西部には地下水位の 落差の
大きい地域が存在していたととがわかる 。
l,間報告書中にある京都府技師谷井鋼三郎の調査した市内井戸水の水質の分
同様な地図上ζ
問
布を表わしたものが図− 3である。図ζ
lは調査井水中 ,良 7
j
(の占め た割合を ,市内各組ごとに
あげである。 但 し
, 良水をどのような水質基準で、決定したのかは明らかで=ない。
j
(で、ある井戸は市北東部,すなわち鴨川伏流水を直接うけていたと 三
考え ら
同図より ,概ね良 7
同 京都府立総合資料館蔵行政文幸子「訓令原容J
,明治2
8
年 3月2
5日,明 28-70
』,大正4年,433頁。
Q
S
)前出京都府立総合資料館蔵行政文書,明 29-340
Q
9
) 『日出新聞
』,明治28年 8月2
9日
。
側 明 治2
8
年紙園祭延期の事情については,中
l
i
稿「博覧会と衛生」,吉田光邦編『万国博覧会の研究J
,思
文関出版,昭和61
年所収 I
C詳述した。
I
) 比企忠「京都市地質及水脈調査報告書」,『
京都市上下水道工事市区域拡張道路改良取調書』所収,京
3
年
。
都市長内寅甚三郎発行,明治3
四 谷 井 鋼三郎「京都市下水工事ノ起工ヲ必要トスノレノ窓見書J
,同上 『取調書』所収。
m 京都府『京都府誌(下)
。
3
3
技術と文明
5巻 2号 (
1
2
0
)
図− 2 京都市地下水位推定図(明治3
1∼32年
)
(比企忠調査データを図化)
図
3 京都市内井戸水水質(明治2
3∼29
年調査)
良水の書]
l
{
t
園 O∼20%
•
2
0∼40%
川40∼60%
:
,6
0∼80%
0
0%
8
0∼1
(谷井鋼三郎調査データを図化)
3
4
近代上下水道の建設(
小
野
)
図− 4 京都市内井戸側構造(明治31
∼33年
)
円M財閥川川悶悶
地垣
そ瓦石
喰石
漆
(比企忠調査データを図化)
れる御所周辺に 集 中している
ζ
とがわかる。一方,地下水の流下方向にしたがい,水質は悪化
問
し
, 二条城の南,城下地区とよばれる地域はとくに悪い。また市北西部,いわゆる西陣とよば
れる地域も惑水の多い井戸が多く分布した。との地域は ,井戸の水深も深く ,地表から 水 位 面
まで 15m以上の「深井戸」と呼ばれる井戸が多かったとさ れている。
ζ れら 井戸の材質,すなわ ち井戸側の構造を比企が調査している。図−
4I
C示すものであ
、石ヲ厚サ一尺以上ノ
る。井戸側につ いて は, 明治 23 (1890)年, 府令により「井戸ノ、砂又ノ,,j
小井ノ、厚サ一寸以上ノ;松ノ側壁ハ石煉瓦或ハ漆喰ヲ以テ充填但地質堅致ニシテ汚水浸透ノ恐 ナ
ω
キモノ ハコノ限ニアラス」と規制さ れている 。図中 I
Cは,井戸側の構造を南北方向の分布でそ
の割合を棒グラフ上に示している。市東部は石垣,市中部は石,市西部はその他が多い。
ζの
「その他」の内容は井戸の上部は石垣,下部は漆喰等 の二段構造であるものや,井戸側をつけ
ない 「掘り まま」と 呼ばれたものである
ζ
とを示している 。 ζ れは土がしまっ ていて,井戸の
崩れる心配がないためと考えられる。
倒水質による楼みわけを考えるならば,最上級の地には御所が,そしてとの城下は貧民地区が占めてい
7
こ
。
倒京都府立総合資料館蔵行政文容「井戸便所下水構造規則」,明治23年 3月1
4日,明 2
3 90
3
5
技術と文明
5)
.
'
g2号
(1
2
2
)
以上,調査報告書中にみられる市内の井戸の概観をまとめると ,市北東から南西 l
乙向かつて
流下する地下水脈にそって北東部は浅井戸も多く , 井戸側も石垣, 瓦,漆喰で補強されてお
り,かつ水質は良好である。一方,市西部は一般に粘土質を貫く「深井戸」で, 「掘りまま」
の構造であり,水質も悪い乙とがわかる。
乙のような文献資料を裏づけるために ,京都市内在住の井戸掘職人に ききとりした調査結果
を示そう。
聞
ヒアリングの対象とした職人は,
大正 5 (
1
9
1
6)年生ま れで,
9歳で=井戸掘及び水道設備事
業であった富永製作所 (
!日二条御前通)ζ
Iでっち奉公にあがり , 1
8歳で中村ポンプ製作所を設立
して井戸職人,水道工として独立した。
京都市内 ,と くに市中心部の井戸は 7m以浅の浅井戸がほとんどであった。 7mとは ポンプ
による揚水能力の限界である。浅井戸は「手掘り」で掘られた。手で掘ってゆ き
, 7
j
(,土をつ
るべでかいだし,空にして,掘りきれるととろまで掘っていく。掘った壁の土留に ,石,瓦,
漆喰を用いたのである。乙れが井戸側となる。井戸の底には底のない松の桶を置き ,底面は石
でおおい,底泥の浮上を防止した。
大正末期頃より,直径 3尺のコンクリー卜枠を土の上にのせ,その中 ζ
l人がはいって ,下へ
と掘りすすむととにより,コンクリー卜枠は底へ向かつて落ちてゆき,そのまま井戸側となす
工法もとら れた。乙の 3尺という大きさは,人間が中にはいり,背と足で自らの体を支えられ
る大きさである。 7
j
(のかいだしはポンプを使用するようになった。
「打込井戸」あるいは「金棒掘り」といわれる工法は ,鉄管を打ち乙んでゆき ,その管をロ
j
(脈をさがしあてた方法である。水脈にあたると自噴する場合
で吸い,その音をきく乙とで, 7
もあるが,竹
ノ fイフ。(孟宗竹)を差しいれ, シュロで接続して,簡易ポンプでひきあげた。簡易
ポンプは大正初期花園産品が普及をはじめ,黄銅もしくは銅製であっ たという。その後,大正
後期になると,鋳鉄製の ポンプと鉄ノ fイフ。が出現する 。とのポンプは現在も市内の各所に,そ
の残がいをみる乙とができるが (図− 5),「ヵーチャボン」と通称された普及品であ る。湯水効率
は7
0∼80%,つまり深度 7mの水位が限界で、あった。
乙の方法は江戸においても ,文化年聞に著わされた書に「掘抜ノ井」としてあらわれている。
鉄ノ長キ棒ヲ持来リテ地ヲ先最初三尺斗ホドニ土ヲ穿チ水出ル卜夫レカラハ高橋ノ様ニシ
テ彼鉄ノ棒ノー丈モ長キ先ノ 七八寸手前ニ土ヲ受 Jレ器ヲ付テ ,櫓ノ上ヨリ井中ヲツケパ水
ヲ 引上ゲノ−−−シテ棒ガ足ラネパ俸ヲ接シテ水葦迄ノ
瓢テ下ニ残リ土斗彼 /器中ニ入リ留 jレ
j
(蓋ナノレヲ知リ其ヨリシテ立樋ヲ段々接
土ヲ地上ニ居ナガラ取リ議シ,其塩梅ヲ能ク覚へ 7
関
埋テ市後彼榛ニ刃金ノノミヲ村テ地蓋ヲ打抜ト直ニ清水地 上ニ j
涌出
岡 京都市指定,東洋設備株式会社代表取締役社長 ・中村一男氏の回顧談 I
C
:
:よる。
制 中 神琴渓「生々堂養生論J
,文化丁
丑
, 三宅秀編『 日本衛生文庫』第 5緒所収, 教育新潮研究会,大
正 6年
。
36
近代上下水道の建設(小野)
ζ
うした掘抜型式の井戸工法は,その後水脈への打込
工法がさ らに発達する。
さ〈せい
昭和に入って,「擢井井戸」が掘られるようになった。
地中の不透水層以下の水を試掘で、掘り 下げながら水脈を
0∼ 7
0mζ
l達する深井戸であった。
さがす工法で,深さ 5
間
関東で発達した井戸掘り工法に「上総掘り」がある。氏
によれば,京都で「かずさぼり」の名はきいた ζ とはな
い,とのととであるが, 「さく井」の工法を きく限り,
「上総掘り」の変形したものと類推できる。足場を組み
上げ\滑車をつ るし ,まずワイヤーで鉄棒を引き上げて
は離し,ボ ー リングしていく。掘った土はスイゴと呼ば
れる先に弁のついた竹筒で地表 にだした。竹筒の中に
は,先ζ
l ノミ状の金具をつけた 2
5∼3
0
m
m巾のヘネ竹と呼
図− 5 手押しポンプ(ガチャポ ン
)
(京都市北区御前盛山寺付近)
ばれるものが通されており,乙のヘネ竹は地表でヘネ車
という滑車に巻きつけ引き上げるのである。上総掘りと奥なるのは,上総掘りが掘る際に人力
をもってヘネ竹を押しとみ,弓竹の反動でもとに戻るのに比し,との工法では引く際に人力を
要 し,ヘネ車の中 ζ
l人がはい って車を回転させた乙とであろう。
0∼ 4
0尺,粘土質で土留を要 しない
市内の井戸の種類は,市北西部,西陣界隈の井戸水深は 3
l市東部,御所以南は浅井戸で s
m程度,石,瓦,漆喰で土留して
掘りままの井戸が多く,逆ζ
あったという。
井水の水質は ,氏によれば市内 Kそれほどの大差はなかった , という。質が良い水,といわ
0∼15mの丘陵の伏流水で,「 しぼり水」といった
れるのは河川水系(鴨川水系)に属さない , 1
.示した谷井の調査した井水水質とは異なり ,掘りあてて噴
ようだ。乙の水質 というのは ,先 K
出したときの水の質をい っているよう だ。谷井の示す水質は ,井戸の生活空聞に占めてきた履
歴と して表現されていると考えてもよいのではないか。つまり,井戸の家屋内におけ る位置
(便所,風呂との配置)や,
;
J
i
ニ戸構造が井水水質に影響を及ぼすととは明らかで,たとえば西陣
の水は悪い,という結果は,
井戸側がなく(それは粘土質で崩れないという理由で),その結果,
土壌を通して下水が混入しやすか ったと推察できょう。
以上のヒアリングでは,先ζ
l図化した市内井戸の状況に,ほぼ同調した結果を見 出すととが
きる。
とあ っては井水であったが,
水道布設以前の水利用形態の主力は,市民 l
明治 2
3(
1
8
9
0)年に
C
:
.保存されている(木更津市太田字森崎 3
5
2一
間上総掘りに関する資料,模型は千葉県立上総博物館 I
3)。ま た上総掘りの研究には,大島暁雄「上総掘りの技術と伝承」,『民具研究会』,昭和5
7
年がある。
以上の上総掘りについての情報は上総博物館学芸課 ・宮内速男氏による。
3
7
年)
図− 6 第 4囲内国勧業博覧会場用水乙しろ過器(明治28
J
E
u
−7
3
8
’
ZEB修業
====r
'
'
智内法リ巾拾尺長捨五尺深ヘぺ
/
「
「日
t
.
第廿三国
水漉槽之閏
波 料 砂 霊 旦 尺 へ 寸 砂 利安芸泉石川原ロ八 ナり
よ小杉制
H
厚京寸五分内介 f tコール 71金
j
比 ナ 杉 製 コ 1N タ1塗、要岬叫円一欽物留/
−
帯
十
一明夜︵圏中 野⋮線三アポシタルモノ︶ハ抜割ニテ作リ取畳二ス
J
ー之官事会 Ii:~
~ ~
−
骨
逼
7 琵琶湖疏水からの飲用水路(明治28
年
)
図
5巻 2号
( 124)
技術と文明
(京都府立総合資料館蔵行政文書 ・明 2
6ー 7
2
)
るヲ会付宰巷刈 ι配 歓
.
・
-
近代上下水道の建設(小野)
完成した琵琶湖疏水(第 1疏水) ' 8n
i
l秒の水量も,
その起工趣意書にあるように,飲用水と
しても使用された例をみる。
臨時の用として使用されたのは,
明治 28 (1895)年の内国勧業博覧会会場内で,岡崎会場の
l 高さ 26尺の大ろ過装置(砂一尺八寸,砂利一凡 栗石二尺を充填した 2段ろ過) i
とポンプで
疏水端ζ
ω
揚水し,会場内の飲料に用いた (図− 6)
。
また疏水の周辺で飲用として水路がひかれた乙とが,つぎの資料よりわかる(図
7)
。
二条通疏水際ニ於テ従来北側ニ水路有之疏水ヲ引キ近傍寺院ニ飲料水ヲ供、ン居ル所弊社電
気鉄道ヲ該道路ノ北側ニ布設スルニ当タリ当水路ヲ移転セサルヲ得サル場合有之就テノ、従
来使用者ノ言ニ依リ目今ノ溝川ノ姿ニテハ接近スル者ヨリ塵芥ヲ投機シ時トシテノ、田畑肥
料ノ器具ヲ洗浄スル等ノ事ア リ実ニ不潔ニ耐へサルノミ ナラス衛生上ニモ妨害ト(中|略)
側
水路ヲ南側ニ移転シ土管ヲ 布設(後l
略
)
以上は明治28 (1895)年,
京都電気鉄道が布設した二条通の電鉄軌道にともなう,疏水引水水
路のっけかえ工事要望書である。
ζ れより,当時,いわゆる開渠で,溝として飲用水路が存在
した乙と,およびその後,土管をして代替した乙とが知れる。もちろん,当時の水道は近代水
道の特徴である圧送式でも,浄化方式でもなく ,単に自然流下方式である。
さて排水はどのような処置が施されていたであろうか。
明治 23 (1
89
0)年,地方衛生会の発議で「長屋建築構造規則」と ともに,「井戸便所下水構造
側
規則」が施行されている。乙れによると,下水を新設もしくは改造せんとするものは以下の規
喰もしくは薬のかかった土樋とする乙と,土樋でない
制による乙ととなっている。石煉瓦,漆 l
C溜めますを設ける
ものは厚さ八分以上の石,または板で密封する乙と ,そして 3間以内 I
ζ
と
等である。
つまり,排水は「下水吸込」あるいは「溜メマス」と呼ばれる,土中に掘った穴に導かれ,乙
j
(の地中への浸 出防
の上澄水がさらに屋外の道路の溝へ導かれていた。乙の規制の目的は,悪 7
止を図 ったもので,飲料水を 主 として地下水 I
C頼る現状に鑑み て制定された規則といえよう。
ζ の下水吸込の数は,
明治28 (1895)年の警察の調査によれば約 1万が市内に存在した。そ
の実在例を図− 8にみる。図− 8は,上京区烏丸一条下ルの同志社所有地の外溝に,上方より
流れくる汚水が停滞して衛生上好ましくないとの理由で,汚水抜きを設ける
とを府知事宛提出した工事請願書である。
ζ の図より,
ζ
と,後深したと
l
汲込は個人所有敷地と道路の境界に位
自
由
置し,外溝と連絡していた乙とがわかる。
9年。なおとのろ過装置の模型は筆者監修
倒 『第四囲内園勧業博覧会事務報告』,同事務局編纂, 明治 2
により横浜水道記念館(横浜市保土ケ谷区川島町522)に展示されている。
ω
) 京都府立総合資料館蔵行政文書「第二課人民指令原議書J
,明治28年 2月2
7日s 明2
8ー 72。
側 前出文献( 9
。
)
l
) 『京都府通常市部会議事録J
,明治2
8年。
6
年,明 2
6ー 7。
倒 京 都 府立総合資料館蔵行政文書 「
第二課人民指令原議筈」,明治2
。
3
9
5巻 2号( 1
2
6)
技術と文明
図− 8 下水吸込京都市上京区烏丸一条下ル 明治2
6
年(右方が北,下方は御所)
6
ー 7)
(京都府立総合資料館蔵行政文書 ・明2
T
柔 I.
~'i 訴訟ち同
Z曹
司F条主イ
+
一
一
一 一
に
1
i
一一一−
1-
----0
__,.~戸 、青
肉 え 何・
1
図
9 下水吸込
明治2
6
年(井戸端吸込下水溶へ土樋が通じ ている)(同上行政文書
)
守工ド’ト
足
一
~=~-~-~
v
、 掛払内 妥 蜘 _ , .
~lll
;
j
I
一 弘
図− 1
0 新 設 悪 水 溝 京 都 市 下 京 区 五 条 透 明 治2
6
年(同上行政文書)
(右方の東側 i
ζ東高瀬J
l
lが南北 K.
流れ悪7
.
l
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i
警はそれに導かれている)
!
l-1
F﹃ ゐ
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,
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1
1
'
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ザ ター
,
.
.
,
;
;
;.
〆 I・
叫,埠ゐ︸
近代上下水道の建設(小野)
同様の例を図− 9にみる乙とができる。とれも工事請願書であり ,井戸端より土樋をもって
側
1
J
<
i
留めに悪 7
j
(を導き ,そ乙から往来へ出したい旨がかかれている。
j
(
l
汲込で固形物を沈澱除去 され,あるいは一
乙のように家屋から排出された下水は,一端下 7
l導い ていたものと考えられる。
部土中に浸透させ,その上澄水を通りにある 潜ζ
とれら外溝へ排出された下水の流れ先は ,付近の河川であったようだ。
今般京都市下京区五条通御幸町ヨリ東高瀬川ニ通ス悪水溝新設相成侯就テハ従来ノ溝甚タ
流水ニ差支ヲ生シ候依テ右新設悪水溝へ一戸毎ニ私費ヲ以テ石造下水道水致度候間何卒特
添ヱ連署ヲ以テ口口事願上侯也
別ノ ;
御詮議/上御許可被成下度則別紙図面相j
0である。大通り(五条通) の中央に 悪水溝が設けられ,
以上の請願書に添付された図面が図− 1
ω
各戸より集水して,東高瀬川(図中右方ζ
l南へ流下)に流入していた。
0年代の飲用水の確保と,排水の処置に関
本章では ,近代水道以前の京都市へ,とくに明、
冶2
して示した。井戸水の揚水,そして使用後は吸込,溝,河川への放流が水の流れであった。と
乙で注意すべきは,乙れらの水管理はほとんど個別で,
つまり各戸でなされていた乙とであ
る。井戸を掘るとと ,その水質管理,俊深 (井戸がえ)。一方は ,吸込も 後諜が必要である し,
j
(の乙とは日常生活の中 K,労働を
外潜も水ノ\ケを良くする ための波諜を実施したであろう 0 7
ともな って,管理せねばならない対象 として存在していた。
4
. 琵琶湖第 2疏水と上水道
大正 5 (1916)年,すでに市内に近代式上水道が布設された後の乙とである。京都市水道は
疏水着水点に浄水場をもち,日 本で最初の 急速ろ過方式による処理をお乙なった。同年京都市
の発行 した『京都市水道要誌Jは以下のように述べる。
鴨川以東及ビ堀川以西ハ少シク粘土ヲ含有、ン井水概シテ不良ナルモ中京及 ビ加茂川ノ沿岸
慮、過作用ニイ衣リ古来其美ヲ誇リ
ハ大概花筒石ノ酸化土ヲ含有セル砂質ニシテ井水ノ\天然ノ i
と,市内の井水の佳良なる乙とを述べたうえで近年 はその汚染が 目立ちはじめたとしている。
近時諸工業ノ発達ト人口ノ澗密ニ至ルニ従ヒ土地ハ著 シク汚械、ン地表水ノ汚レハ井水ニモ
及ボシ且ツ下水道ノ設備全カラザル為メ 一朝霧雨ニ際曾スレパ溝渠ノ 汚水ノ\汎濫シ 路上ヲ
横流シ或ハ戸内ニ入リ時トシテハ岡ヲ浸シ 井ニ混ジ 殆ン ト‘名状スベカラザル不潔ヲ呈スル
コ卜アリ
つまり井水の汚染は,下水溝不備のために, 汚水の混入によるものと 考えている。
時ノ京都府知事北垣園道氏ノ\下水改良ノ 計画傍ラ上水道ノ調査ヲ為セシモ亦市会ノ議ニ上
ラズシテ止ミタリ爾来荏南浦西郷菊次郎氏市長卜ナルニ及ンテ‘同三十九年五月ニト六日初
同 向上行政文書,明 26 7
(
3
4
) 同上行政文書,明 26-7。
,大正 5年
。
岡京都市『京都市水道要誌J
0
41
技術と文明
5巻 2号
(1
28
)
メテ水道事業ノ 調査方針 ヲ決定 シ周辺工学博士 ヲ設計監督ノ任ニ挙ゲ
1
8
9
5)年頃から実
乙の井水の汚染は下水排除施設の不備にあった, という事実に対し明治28 (
施された臨時土木委員会報告書へつながる調査結果を経て,最終的に田辺朔郎を主班とした水
道建設計画決定までの間,なぜ近代水道を布設する必要があったのか,と い う説明は ,乙 の
『京都市水道要誌』には十分なされていない。むしろ,井水の汚濁源としての下水を排除する
施設の計画が優先していたようなかき方である。
ともかくも京都市三大事業として,
明治末期に実施された道路改良, 琵琶湖第 2疏水と 並
1
91
2
)年に竣工 した。 ζ の上水道について,
び,上水道施設は ,明治 45 (
給水設備ノ、明治四十五年四月通水ト同時ニ着手セルモ本市ハ古来ヨリ井水佳美トノ念市民
ノ脳裡ニ潜ミアリテ水道ノ水ノ、夏温ニシテ冬寒冷ナル非ヲ唱ヒ且飲料水ニ代価 ヲ支払 フノ
愚ナルヲ誤想シ給水設備ノ 請求甚ダ少ナカワキ
j
(
I
C
:
:劣り , しかも有料の
とある。衛生上必要として建設された上水道を京都市民は,水質は井 7
水という乙とから買おうとせず,つまり市が引いた配水管より給水設備をつくろうとしな かっ
たのである。
それでは,一体乙の上水道建設計画は どうやって出現してきたのであろうか。さらにいうな
l先立ち,上水道計画が採用されたのであろうか。
らば,なせ、下水道計画ζ
(
1) 衛生問題と上下水道
明治期の衛生界における議論が, 乙の上水道か,下水道かという選択におい て影を投げかけ
ていた。
ζ れは,
トイツ衛生学会の重鎮マックス ・フォン ・ぺッ テンコーへルのいう伝染病病
因は土地に起因する ,と いういわゆる環境決定論と , ロベルト ・コッホの細菌による接触伝染
説であ る。ぺッテンコーへルは ,伝染病が病原菌と ,土地の状況及び人体の体調が同調し て伝
染すると主張し た。乙の両説は ,衛生工事と して,上水 ・下水いず、れが伝染病予防により有効
ζ結びつく。
か,という 議論 l
l関係し伝染病は単に病原徽菌のみに
ぺッテンコ ーへ ル派の学理則ち伝染病は地水の昇降ζ
l入り一層有毒なる者となりて後伝染する との学理に擦れば
援て伝染するもの でなく地中ζ
下水が必要である, 其に反し てロベルト ・コッホ氏の学説則ち伝染病は各病原徽菌があり
乙伝搬すとの学
て単に其徽菌に嬢 り病を起し得るものにして病原菌は多くは飲料水より人 l
聞
説ζ
l撲れば上水が必要である。
乙のようにぺッテンコーへルよる悪疫の土地原因説=下水建設論,コッホによる飲水説=上水
建設論となる。無論,衛生上の ζ とを考えれば,両上下水とも建設されるのは理想的である。
ぺ派とコ派との学説は各論旨は相反するも帰着する庭はーにして上下水 とも に必要とする
のである。従来衛生工事を起されたる 箇庭の実例に照すも上下水の中片一方のみでは到底
同
「京都市是と衛生J
,『公衆術生』第 1
4
号,明治3
4
年 8月
, 1∼ 5頁
。
4
2
近代上下水道の建設(小野)
充分の効は収められぬ上水下水とも完成して始めて人工の免疫地となり十分の効を修むる
事が出来る のだ
しかしな がら ,上記のような論争がおとるのは ,いずれを先に建設すれば衛生上より有効か,
という乙とであり,両者と も同時につくれぬのは建設に莫大な工費を要するからであった。
京都においては,下水工事着手の声が大きかったようだ。早くも下水改良に関して明治 23
(
1
8
9
0)年, 下京区長が有志義損金を基金に貧民救済策 として,溝渠の波深工事をする等の動
聞
きがあ った。
1
8
9
5)年,京都府属技師,若松雅太郎は,『日出新聞』紙上ζ
l京都市下水管敷設の設
明治 28 (
l は,下水が吸込から花関岩質の砂礁を通して井 1
.
!
<
I
C混入し,乙の乙
計計画を掲載する。乙れζ
側
とが悪疫流行の原因となっているため,汚水溝の改造の早期着手の必要性を主張している。ま
.B
u
r
t
o
n は ζ の年京都に立ち寄り ,下水工事設計調査をしたよう
た,内務省雇技師の W. K
自
由
だ。残念ながら京都市下水の B
u
r
t
o
n計画に関 して残る資料はない。
, 「日出新聞』紙上に「下水工事は如何」との論説がのる。
同年 8月
人々下水装置の不完全なるを知る,市街の衛生如何は,ーに下水の俊深および、飲水の性質
いかんにある乙と今ま たと乙に説くの要なし。
京都市参事会の諮問を受けて,先にも述べた臨時土木委員会(委員長 ・大津善助)の上下水道
l関する取調書が提出されたの は 明 治 32 (
1
8
9
9)年である。乙の
工事,市区域拡張,道路改良ζ
取調書における結論として,
「臨時土木事業調査ニ係ル答申」には,下水工事を優先着手すべ
き旨があげられている。
別紙第武号嘱托委員医学士等ノ意見書ニ徴シテ最モ有力ニ最モ確実ナルモノアル寸ヲ認知
スルニ足ル(中略)上水改良工事ニ至ツテハ素ヨリ之ヲ改良スルノ必要アリ卜雌斥斯ノ、其
意見書ニ示ス如ク学説経験両ラ未 タ一定ノ関係ヲ明ニスルモノナク且ツ各種ノ比較点ニ於
テ下水ヲ後ニシテ先ツ之レガ工事ヲ起スノ有力ナル必要ヲ発見スノレ能ノ\ス
そして,下水管は分流式,つまり汚水管 と雨水管は分ける方式を推めている。
答申中の別紙第 2号 の意見書の内容を以下に略述する。
l市内井水水質調査を実施した ζ とを紹介した谷井鋼三郎京都府技師は,下水道の優先着
先ζ
ω
手を主張する。都市においては通常上水工事を先に着工する。 それは上水が,水 の使用料を市
民から 徴すれば巨万の富が得ら れるからである。し かし,京都 という都市の地域性を鑑みるべ
『日出新聞』,明治2
3
年10月10日
。
『日出新聞』,明治2
8年 7月1
3,
日 2
7日
。
,明治2
8
年 7月14日
。
)
日
旧 『日出新聞J
制
「日出新聞J
,明治2
8
年 8月 3日
。
住I
) 「臨時土木事業調査ニ係ル答申 J
, 『京都市上下水道工事市区域拡張道路改良取調書』所収, 京都市
3
年
。
長内貴甚三郎発行,明治3
制 谷井鋼三郎「京都市下水工事ノ起工ヲ必要トスノレノ意見書」,同上書所収。
闘
倒
4
3
5巻 2号
(1
3
0)
技術と文明
きで ある 。
井水ノ\化学上不良卜雄 氏市ノ多数ノ井水ノ\肉眼ニ テハ非常 ノ清水ニシテ且夏時ニ冷ニ冬時
ニ暖ニシテ純良ナル水卜異ナル処ナク井水ノ、水道 ノ鉄管 ヲ通スル水ヨリ 普通人ノ喜フ処ニ
シテ殊ニ京都ノ如ク市人ニ水銭 ヲ支払フ観念ナク何処ニテモ清浄ナル水卜信スル人民ヲシ
テ水道ノ水ヲ使用料ヲ徴シテ広ク且経済上利益アルタケ速ニ使用セシメントスルノ難事ナ
レ
ノ
つまり ,水道は京都に ては 採算はと れまいという 経済上の理由に加え, ぺッテン コーヘル流
の土地説に基づき,下水道の優先建設を説く。
京都府技師 ・河村注も ペッテ ンコーヘルの説にしたがい,下水道の早期建設が衛生上有効で、
1
4
f
i
あると説く。
医学士 ・斎藤仙也は, 京都市でも上水改良 は下水改良とと もに早急 に着工すべきであるとい
い,水源、を琵琶湖に求めるべきだと説く。
京都帝国大学理工科大学土木工学科の創設初期の教官とな った二見鏡三郎と大藤高彦 は,下
水道は自然流下方式であり , 汚濁物(図形物) が沈澱するため,
乙れを流すのに構造が複雑で
(
伺
ある。したがって工費の増加は免れ得な い。上水道は圧力配水方式だからそれ程難かしくな
い。工事の難か しい,下水工事に まず着手 し,急ぎ完成させてのち ,上水工事 にとりかかるべ
きという。下水の放流先(分流方式)は,団関耕作物の濯慨に供す方法をとると している。
(
2) 京都市会第6
2
号議案一一京都策二大事業
臨時土木委員会答申は ,下水工事着手の論理として,衛生問題を主座に据えた。
さて,いわば専門家による科学的考察の加えられた答 申に並行 して, 京都市会では,下水改
1
89
9)年より概観する。
良工事が議事に あがる。以下, その経緯を明治 32 (
明治 32 (
1
89
9)年 3月
,
市会ζ
l おいて, 七条停車場より御所まで,行幸道と して烏丸通を拡
Cおいて道路拡張は 下水改良 とともに審議すべしとい
張する計画の審議がなされた。乙の市会 I
う意見があがる。と乙ろがとの計画に対 し, とくに下京区民から反対の声があがる。周年 3月
1
1日,道路拡張反対演説会が祇園 ζ
lて聞かれ,その反対理由として,衛生上最大急務の下水改
良工事は全市民の利益になるが,道路拡張は市民から平等に税金をとっても利益があるのは沿
道住民が地所の騰貴をうるにすぎず,市の体面上 (行幸道としての拡張)の工事には協力できぬ,
ω
というものであ った。しか し下京区民の本音は工事負担金の ととらしし〉。課税のかけ方が,上
帥
制
仰
同
制
同
河井注「京都市下水工事ヲ必急トスノレノ意見書」,向上書所収。
斎藤仙也「京都市上下水道工事ニ対スノレ意見書J
,同上書所収。
向じ水量で=水深を深くすれば掃流力が増す。そのため図形物を合む下水管には卵形管が用いられた。
二見鏡三郎,大藤高彦「京一
都市下水道改良計画ニ付報告書」,同上容所収。
『京都市会議事録』, l
明治3
2年 3月2
2日。
『日出新聞
』,明治3
2
年 3月 1
1,
日 1
3目。
'
1
4
電
近代上下水道の建設(小野
)
京区%
,下京区%で計画線路も下京区内が大半であり,沿道が立ち退きを強いられるためであ
っf
こ
。
同年 1
0月 20日,先述の臨時土木委員会取調書が提出されるが,結局 1
0月 28日
, 道路改良は下
側
水工事と併わせ再調査する乙とが決議された。
翌明治 33 (
1
9
0
0)年 3月 7日,下水道法が公布され,その第 9条で,
市ハ市税ノ別ニ依リ其費用ヲ義務者ヨ リ徴収スルコトヲ得
と規定され, 費用に関する受益者負担制がみられる。
再び京都市会である。
1
9
0
0)年 6月,第 62号議案は土木工事費に関する予算審議である。乙の議案中 ζ
l提
明治 33 (
示された道路改良案は,烏丸通が七条から丸太町までのいわゆるメインストリ ー トとして,車
l 人道 2間 5分,そして下水溝一(閉渠デ巾一尺が, 車道と人道の間,及び人道の
道 7間,両側 ζ
両端,計 4本つけられていた。そして丸太町から今出川に至る烏丸通は人車の区別なく , 巾 7
間,両端に三尺 巾の溝を備えていた。但し,下水溝のうち御所 ζ
l近い方は開渠であり ,御所の
ω
外縁として存在した。
しかしながら , 乙の行幸道としての烏丸通拡張案の真意は , 乙の市会会期中ζ
i市長内貴甚三
側
郎によって,市区域拡張をともなう縦横各 3線を建設する大工事 として計画のベールを脱ぐ。
内貴は京都未来の道路として,東西線として鞍馬口, 御池通, 七条通を, 南北線として烏丸
とともない ,
通,千本通,川 端還の拡張計画の青写真を明らかにする。そして, 乙の道路拡巾 l
下水道幹線を建設してしまおう,というわけである。のちに,第 2疏水,上水道,道路拡張が
0年もたたぬうちに始まるのだが,
京都市三大事業として, 1
つ
,
内貴の乙の計画は , それに先立
「京都策」 2大事業計画であった。ただ莫大な工事費が予測吉れたために,予算案 ζ
l計上
されたのは ,烏丸通拡 巾と下水改良で、あり , 総予算は 5,404,606円(うち%を国庫補助)であっ
T
こ
。
乙の予算,とくに国庫補助については内貴は以下のように目途をいう。
道路費ニ補助 卜云 フコトハ前例ナキ白ニテ又タ上水ニハ例アルモ下水モ其工事費ノ補助ト
云 フコ卜ハ前例ナキ趣ナレパ此庭デ諸君ニ向ツテ此補助ハ必ズ取レルトハ梢ヤ断言スルニ
際踏スルノ感アルモ併 、ン既ニ上水事業ニ前例アノレニヨリ同一ノ;衛生策タル下水事業ニテ補
側
助セズトハまさか政府モ云ノ\サ、ルベシ
乙の計画策定時における内貴の経済的にいささか甘い見込みは結局,彼の 2大事業を葬る乙と
『京都市会議事録』,明治3
3
年 6月2
8日
。
『京都市会議事録』,明治3
3
年1
0月2
8日
。
同 京都府衛生会, 『公衆衛生』第 l号所収, 「
i
法律第3
2号,下水道法 J
. 44頁,明治33年 4月
。
(
5
2
) 現在の京都御所 と烏丸通り歩道との間にある潜である。
3
年 6月2
6日
。
)
日
( 『京都市会議事録』, 明治3
(
5
4
) 向
上。
制
側
4
5
技術 と文明
5巻 2号
( 132)
になるのだが,その乙とは 後述するとして,市会は道路拡張問題で紛糾する。
内貴案 l
乙反対の 急先峰 となるのは ,議員中村栄助であった。彼 は,まず彼の鉄道会社の経営
刷
出身という出自から, 基本的 に都市交通機関と しての道路には懐疑的である 。
今ハ道路ノ拡張 卜云フガ如キヨリハ市街鉄道ヲ以テ最上ノ機関 トス レ
ノ ニ至レリ市シテ之レ
ニ就テ我京都ノ有様ヲ見ルニ素ヨリ道路ガ広澗 ナリ卜ハ云ノ、ザルモ我国商業ノ中心地ナル
側
大阪ニ比例セ パまだ /∼ 余裕アル姿ニ付
乙れに対し市長案ζ
l賛成する東枝吉兵衛議員は中村ζ
l 「昨年道路案 ヲ廃セシトキ更ニ下水ト
相共ニ発案セヨト注文シナガラ 今 ニ至ツテ再ビ周章狼狽スル如キノ、我議政機関ノ上ニモ大ナル
汚点」 と迫る 。 との東校の発言より , ζ の道路 ・下水の 2大事業が,実は道路問題が先行し ,
下水改良が衛生工事の大義名分で,道路拡張云々の議論に付随 して,始ま っている乙とが類推
できる。
内貴市長の真意を知ったのちの中村は,さらに反対の意を強く した。
本市ニ於テ道路取拡卜云パ其目的ハ行幸道トスルヲ以テ旧都タル本市ノ上ヨ リ見ルモ最モ
適当 ノ1ナルニ市長ガ道路ニ対スル意見ハ之ヲ交通上 ノ至要機関トシ道路拡張ヲ以テ本市
ω
前途ノ繁栄策卜為スニ至テハ大ニ其目的ヲ誤ルモノ卜云
目的が違うとの反対意見であ る。加えて, 中村ら一部の議員には ,行幸道 として道路を拡張す
るならば,烏丸通ではなく,御所の正面にあたる堺町通を拡張すべきだ\という意見をもって
闘
.
t
し~ こ
。
さらに前述したよう に,下京区民の反対も強かった。乙う して内資案は ,主として「経済上」
の理由と内貴案の示し た市区拡張を目指した大道路構想への反発,行幸道をめぐる 意見の相違
などから, 道路拡張案は廃案。そ して下水改良案だけが,衛生上是非とも必要として残ったの
である。 62号議案は修正され,下水改良費(合公債費)として 3
,3
8
9
,122円 (市公債 760,000円
,
側
国庫補助 1
,0
2
1
,2
2
4円,市税 1
,
6
0
7
,
8
9
8円)を可決している。道路拡張が廃案となった時点で,付
属施設である下水改良はあまり 意味をなさなくなっているわけであるが, 市 会 決 議 案 と し て
は,ともかくも残った。が,乙 ののち改良計画は進展をみない。
中村栄助は当時の京都市における新興資本家の l人で, 府会議員, 市会議長, 衆議院議員などを歴
任。明治20年,大沢善助らと京都電灯会社を設立。疏水による水力発電をてがけた。明治26年浜岡光哲
らと京都鉄道を設立し京都ー舞鶴間の鉄道事業を興した。
)
日
( 『京都市会議事録』,明治33年 6月2
5日。
問
間 向上
。
協) 『京都市会議事録J
,明治3
3年 6月2
6日。
(
5
9
) 「京都市会議事録』,明治3
3
年 6月2
7日。
)
陶 第 2~水建設時の米価(明治45年) と昭和56年の米価の比は約 1 800 である。 (朝日新聞社『値段の明
昭和風俗歴史』)しかし米ζ
l対する価値はかなり異なると三考えられる。勤労者の所得からみ
治 ・大正 ・I
ると
, 現在の京都市民の平均サラ リーは,昭和62年で440,020円(京都市『京都市統計書昭和 63年版)。
.
9円,月 2
5日間{到し〉た として 2
2.
5円 (
京
明治38年の時点で京都市内の農作雇の月給 4円。機織上自給 o
都商工会議所『京都経済の百年』資料編, 昭和5
7年)。職種の差が大きいと考えられるが,現在の平均
所得は明治のそれの約1
1万倍 (農作雇比較),あるいは約 2万倍(機織工比較)となる。
4
6
近代上下水道の建設(小野)
市会の決議 l
乙対し,京都府衛生会は 明治34 (1901)年論説し ている。京都市が下水を先 ζ
l建
設するととに決めたのは ,井戸水が半分不良水でも東京大阪に比べれば清良であり,また京都
l 改良するという 議論は
人が京の水は清良なりという考えが十分浸透しているため,上水を先 ζ
曲
目
行われにくいのであろう ,という 。衛生上の観点からは確かにその とおりであろうが,市会に
おける議論は下水の改良よりも道路拡巾問題K終始していた乙とは注意を要する。
明治 35 (1902)年, 大藤高彦は再び下水道工事調査報告を提出し,分流式の採用を提案して
悶
いる。
また,京都市連合衛生組合幹事会は同年 7月 27日,下水工事急施の件を市長へ建議する決議
闘
をしている。
市会の明治 33 (1900)年の下水改良費決議より,市会は国庫補助を請願していたようだ。た
とえば国庫補助を経費増大を理由 K ,明治 35 (1902)年には 1
.031,387円へあけ、てほしいと請願
倒
している。
師
自
しかし結局,
明治 37 (1904)年に至り,
乙の下水改良工事の国庫補助は不許可となり ,工事
そのものはほぼ日の目をみなくなってしまうのである。
(
3)上水道建設
京都市三大事業
京都市三大事業のひとつとしての琵琶湖第 2疏水工事は建設計画は, 内務省土木局による瀬
田川洗堰の建設,ならびに宇治川 電気による 取水のために琵琶湖の水位が低下する乙とを懸念
j
(
I
ζ 及ぼす影響を調査した明治 28 (
1
8
9
5)年 の水利調査に端を発
した京都市が,水位低下の疏 7
する。とのとき疏水を改築し,モルタル張りにして水量を増やすか,新水路を新らたに開さく
するかの, 2案が提示された。そして水量確保の目的は,年々需要の増加する電力量維持のた
側
めとしている。
) が京都府に提出され,
明治 32 (1899)年 11月 6 日,琵琶湖疏水運河増水願(京都市甲第1809号
既往の水路をセメントモルタル張りにする ζ とで毎秒 220立方尺の増水を図る計画がなされた。
そしてとの中 l
と初めて,上水道建設計画の水源として琵琶湖があげられている。乙の増水願は
その後拡張され,明治 35 (1902)年 3月20日
, 田辺朔郎による新水路開撃願で、は , 550立方尺/秒
,000馬力の電力源として, 50立方尺/秒を上水源に用い
の増水をはかり,うち 500立方尺/秒を 4
仰
るというものであった。
同年 10月 20日
, 琵琶湖疏水水路開盤願書(京都市乙第4011号)がだされ, 新水路建設の目的と
(
6
U 「京都市是と衛生J
,『
公衆衛生』第 1
4号,明治3
4
年 8月
, l∼ 5頁
。
(
6
2
) 大藤高彦「下水道工事調査報告」,『京都医事衛生誌』第9
6号,明治3
5
年 3月, 8頁
。
年 8月
, 1
9頁
。
)
閃
( 『
京都医事衛生誌J第101号,明治35
6
(
)
4 『京都医事衛生誌』第 1
0
0号,明治3
5
年 7月
, 2
7頁
。
附
『京都府衛生会年報』 2号,明治37年 6月
, 42頁
。
師
団 京都市役所 『京都市三大事業誌 ・
第二琵琶湖疏水編第一集J
,大正元年。
胴向上書。
4
7
5巻 2号
( 134)
技術と文明
倒
して,①上水源,②下水溝排除,③防火,④電力の 4白的が示された。計画中では上水源に比
せば 1
0倍の水量を電力 I
C使用するわけだが,目的として,上水,下水と 衛生上の理由を前面に
だしているととに着目したい。
結局,乙の第 2疏水計画は ,明治 3
9(
1
9
0
6)年 4月 4日l
ζ
2
,1
4
6
,306円4
9銭で起工許可を得て
関
~) る。
さて,乙のようにして,第 2疏水を建設 し,かつ上水道をつくると決定されたわけだが,と
の上水道の効果に対し,同年の京都市会で はまだ疑問の声があがっている。
明治 3
9(
1
9
0
6)年 1
1月25日の京都市会において, 乙の上水道の経済性に関 し
,
「元来此上水
ヲ使用スレハ使用料ヲ出ササルヘカラス然ルニ本市ノ如キ東京ヤ大阪トハ事情ヲ異ニスルヲ以
問
団
テ悉ク上水ヲ使用スルコトナカルヘシ (
林長次郎議員)」と, 需用についての不確実性をいう声
がある。同様な意見につぎのようなものがある。
o
n
京都ノ井水ノ、随分飲料ニ適ス ルモノ多ク東京ヤ大阪トハ多 ニ趣ヲ異 ニセリ (大清新太郎議員)
ではなぜ,かつて下水改良工事が衛生上の「必然性」か ら市会で議決 されながら ,いま上水道
建設なのか。
京都ノ如キ上水ノ、全国中最優等ナルヤ ニ聞ケトモ下水道ニ至リテノ、 構造甚タ不完全ナル
(
中略
) 先以テ下水ノ 改良ヲ必要ナリ 卜認ム然ルニ理事者カ上水ヲ先キニセラレタル理由
ハ如何ニ(渡辺昭議員)
乙の聞に対する京都市側の答えは極めて簡単なものであった。ときの市長 ・西郷菊次郎は答え
ていわく。
衛生上下水ノ 改良モ亦必要ナレトモ第二疏水事業ノ起工に臨ミ 工事上ノ都合ニヨリ上水事
業ト同時二着手スルヲ以テ利主主ナリト信ス
あるいは,疏水事業と上水事業は当初別個ζ
l考えていたが,疏水事業が許可がおりたため , ζ
閃
れとあわせて事業とすれば市債を集めやすい ,という理由を述べた。
乙うして上水工事に関しては,同年 1
1月2
7日,水道布設許可申 請書, ならびに布設費補助請
願書が内務大臣 ・
原敬宛に提出された。工事予算は 3
,0
0
0
,000円,うち国庫補助は%の 1
.0
0
0
,000
u~
円である 。工事許可は明治 4
2(
1
9
0
9)年 6月 5日におりている。
側 向 上書
。
側 明 治3
8(
1
9
05
)年瀬田川洗濯が完成し,琵琶湖 I
C
:
:河川法が準用された。 乙の明治3
9
年 4月 4日の工事
認可は京都府知事大森鐙ー と滋賀県知事鈴木定直の連名で京都市長内貿甚三郎宛お乙なわれたが,乙の
許可ζ
i際 し 京 都 市が滋賀県 I
C
:
:対し発電用水利使用料を納付する 乙とを命ぜら れた。以下の文であ る
。
2条ニ依)
'使用料トシテ通水開始ノ年ヨリ毎年金千六百翻 ヲ滋賀県知事へ納付スへ
京都市ハ河川法第 4
シ(
『琵琶湖治水沿革誌』)
問
)
『京都市会議事録J
,明治3
9
年1
1
月2
5日
。
円 向 上。
同 向 上。
問 向 上。
刊 京都市役所『京都市三大事業誌上水編』, 大正元年。もっとも工事の予算はその後鴨川運河改築,
大津市西部飲料水補給工事,夷川 ・伏見発電所新設工事を追加し,最終的に 4
,
4
7
7
,
8
0
5円を確定予算と
した (
田辺朔郎 『琵琶湖疏水誌
』 丸善,大正 9年
)
。
4
8
近代上下水道の建設(小野)
以上の経緯から, 衛生上の専門家たちからの「京都市の場合は,上水は井水でたりる, 衛生
上は,まず下水道から」 という 議論が,なぜ上水建設決定で決着 していくのかを推察すれば,
以下のよ うな結論を導く
ζ
とができょう。
まず第ーに ,下水改良計画は ,そもそも内貴甚三郎市長の抱い てい た,京都市道路拡張案,
つまり縦横 3幹線の建設に付随 していた計画であった。内貴は ζ れを「京都策」 2大事業と称
す るが, 中心課題は都市交通網整備の一環である道路と,それにともなう市区域拡張にあった
であろう。しかし,乙れを内貴は ,七条停車場(現在の京都駅)から御所への「行幸道」新設の
ためとして市会に提出した。内賓の真意が交通網整備にあるもの の,市会では変移した市長の
姿 勢ζ
l批判の声があがり ,道路拡張案は廃案においとまれた。付属設備である下水道は乙の時
点で建設すべき理由を失 う。
, 国庫補助がおり なか った
第二 K,下水改良工事には同 じ衛生工事である上水道とは異な り
ζ
とで ある。明治 40 (
1
9
07)年の市会で 中安信三郎議員がつ ぎのように述べている 。
下水工事ノ如キハ五六年前ニ決議シテ内務省ニ提出シテ居 Jレ問題デアル(中略)其決議ノ
間
工事 マデ着手セヌハ詰リ市民ノ 負担ニ耐ヘヌカラ出来ヌノデアノレ
国庫補助は全体の工費の %をみ ζ んでいた。乙れが許可されないとすれば,市債などの借金,
間
あるいは市税に頼るほかない。そのような財源の目途がたたなかったようだ。
第三 に,琵琶湖疏水の効用 をめぐる京都市当局者の考ーえ方であ る。市会議員の中にも , 「彼
ノ疏水事業ノ、
生産事業ニシテ今度ノ事業ハ不生産事業ナリ」と,道路 ・下水工事を即時に利益
があ るとは考えていなかった傾向がみられる。乙れに対して琵琶湖疏水は当初の大きな目的で
あった水運の効用は,その後鉄道の建設とともになくなってしまうものの ,水力発電による電
力確保という点では確かに「生産事業」であった。
工事を計画 した 田辺朔郎によれば,
1
8
9
0)年当初の疏水による 電力の供給は,鴨 J
l
l
明治 23 (
以東ζ
l限 られ,その主なものは時計製造会社,藤井紡績会社,京都電後会社であった。 その 後
数年を経て工場区域も鴨川以東に限るに及ばなくなり, 製糸,電車(京都電鉄による市街電車)
,
煙草,機織,精米,製氷,印刷,油,炭団,組組 , ラムネ等の工業にも使用さ れる に至っ た
。
9
0
0)年にはほ とん ど電力水力を利用しつくして余力なく ,ついには電力水力使用権
明治 33 (1
聞
が高価に売買されるようになった という。
電力源のための水量確保は当時にあっては必須の ζ とであり,そのための第 2疏水建設であ
る乙とはまず間違いあるまい。上水道は,乙の「多目的水路」である疏水工事の目的の一部に
0分の 1の水量がそれに充てられ る計画となっていた。
あげ られ, 1
以上のように,京都市における上水道,下水道の建設に至る 経緯は ,発案の発端 ζ そ,衛生
。
5
) 『京都市会議事録』,明治4
0
年 2月 7日。
『京都市会議事録J
,明治3
3
年 6月2
5日。
問
間同上。
a
s
l 田辺朔郎 『
琵琶湖疏水誌』丸善,大正 9年
, 1
7
2頁。
4
9
図− 1
1 京都市給水栓の普及と人口
門
司
n D 7’
。
円比
︵翠咋︶ ︺ 総 記 長 柏 崎
ハ
−つι ハ
URV
URURud
放任専用栓
2111ιτi1411
U
円
n
w
︾
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ぺ
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大正元
明治判
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~ 11
・
力
あ
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の
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一
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断
少
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え
多
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密
口
考
を
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疏
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1
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1
4
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2
4
2
2
4
6
J て時つを設礁のがせ確ら到市
の設いそ都しさた到
建よ’がとく策し臨’良建の書除さ量
多先てのど備つ九日市都帯たい叫改水量願排え水ば崎京
疏水懇潜控力ねのの
’優つのん設めろて京付っ験水
﹁
電 さて
後
れをともと帯埋あし
を
な
晶下
2 力開水に
水下めは徴しの
かれ
行党て第電
ζ るほ付ででとの案
説ず劇す’の議コ分貴良を学しは疏で番実持とそ
改 申﹁と’由
野行は
物論川名内
’ い40’債
性’優先程設済ょ義。水答’論て理しつ第るが市方比
熱らのが過建経て大る下のは議しのか
・ ると
’はあ道
か民論たののえのすにそ告のそてし水力で水税す
乱用市議つ他と考画活案。報上。し。上
の上市対た
電
復 巾た会学たとた’
つ
て効がう至の論と計
’ たの’に
しのといに上用た設は拡れ員生い然つはれい市め民あ
と上乙と定菌効い建字路さ委衛て必あにわて都た市で
事生る
’2 道議木りえ’に頭たれ京のい事
’決計のて
工衛すかの市てれだのも論土ま考も保冒うら保な工
ζ むのである。
けて家内 K引き
明治4
5(
1
9
1
2)年 3月 2
7日完成し,同年 4月 l日よ り市内に配水
ともかくも京都市水道は,
5巻 2号
(1
36)
技術と文明
ろう。確かに,現代,琵琶湖疏水の存在で,京都盆地 lζ140万人の飲料水をまかなえる乙とは
事実である。しかしながら,本当の「衛生」上は,当時必ずなくてはならないものではなかっ
た。そのあらわれが,本章の冒頭で述べたとおり ,市民は水質が一井 1
1
<ζ
l劣り,有料の水道水を
買おうとしないという行動であった。
では,乙のように不評で必然性 もない水道水をなぜ市民は買 っていったのであろうか。
を開始した。配水管と は道路地下に埋設され た水道鉄管の ζ とであり,蹴上の浄水場より 圧力
をか けて送水されている。乙の配水管より水道を購入した家は配水管より給水設備を自 費でつ
近代上下水道の建設(小野)
給水栓の普及状況を当時の京都市内戸数,人口とともに図化した のが図一 1
1であ
2
。図より
放任専用 栓の数は大正 2年より 3年にかけて大きく増加し ,その後漸次増加している
ζ
とがわ
かる 。一方,言十盟:給水栓,すなわち使用 した水量に応 じて水道料を支払う給水栓は大正 8年以
降めだって増加する。乙の大正 2年から 3年にかけての放任専用栓の急増の理由は 以下のとと
と考え られる。
前述したとおり,
ζ の給水設備の請求は大変少なかったという。そ ζ で京都市は,
水道普及ノ為メ大正二年度ヨ リ給水設備勧誘ヲ開始シ且ツ各自給水設備費ノ負担ヲ軽カラ
シメンガ為配水管ヨリ道路ノ両側下水迄ニ至ル工費ヲ市ノ負担トシ且ツ給水工費ノ支弁ヲ
側
年賦又ハ割引ヲ為シ
つまり,工事費の負担,年賦,割引でなんとか買ってもらお うと 努力 した わけである。
乙の ような市側の努力に市民も応え,水道を買ってあげたようである。乙乙で再び前出の東
洋設備 ・中村氏の言である。
種々の「特典」をもって勧誘してくる京都市に対し,
「お上がそれほどまでにいうのなら」
という気持ちを市民が持ったという乙とだ。 ζ の給水設備は一戸単位で引きいれたのではなか
った。町内 1
0か ら2
0戸単位,共同で設備を設けたのである。したがって「うちはいりません」
と強く 主張するととは困難であったという。ただ「お上」がすすめてくれて,かつ隣近所と無
用のあつれきを生むととをのみ, 煩 しが ったのではな い。別段,水道が家 の中にあ っても 構わ
なかった。結局飲む水は,おいしいと感じた井戸水でミあったから。水道の水は有料であろうと
も使わなければ払う必要はなかったのである。ただし,升ニ戸水もときには水質が悪化するとと
もあったようだ。それは金魚などを井戸水で飼っていれば,毎日その状態を観察して判断でき
る。今日はどうも具合が悪そうだ, という日は水道の水を用いたのである。
ζζ l
ζ 京都市民は自らの水源を 2重にもつ ζ とができた。井戸水と水道水の 2元構造。 たし
かに水道水は安全だ。しかし井戸水の方がはるかにおいしい。夏冷たく,冬暖かい。しかも無
1
<1
ζ黄信号が点れば,水道の水をのめばよい。
料。もしとの 1
水道か下水道かの論議のはてに,安全性と晴好性を兼ね備えた水文明を享受していたはずの
市民であ った。しかし ,現代の京都市はほぼ水道水のみの一元構造である。井戸は,本論冒頭
の谷崎や寺田のため息と同様の運命をたど った。うめ てしま ったのである。
5.結 び
わが国において上水道の建設に比し,下水道の建設が非常におくれてい る理由,少なくとも
京都府立総合資料館蔵行政文書「水道表」,明治4
5
年,明45-48,追 l。 なお水道使用料は専用給水
2
銭 1月
。 l人増すどとに 5銭。共用給水は私設が 1戸2
0
銭 1月。市設が 1戸 6銭 1
栓で l戸 5人まで4
月であった(京都市『京都市水道要誌』大正 5年
)
。
(
8
0
) 京都市『京都市水道要誌J
,大正 5年
。
問
5
1
技術と文明
5巻 2号
( 138)
欧米諸国に比せば甚しくおくれてきた理由をつぎのように解釈する説がある。
わが国の都市近郊の農村にとって,都市は欠かせぬ肥料源であり,有価物として尿が農村と
都市との聞に市場を形成していた。したがって ,水洗化による下水道への要求があがりにくか
っT
こ,という
問
ζ
とだ。
また,西欧ではぺッテンコーへル l
ζ 代表 される公衆衛生思想が先行し ,下水道の建設が完了
ζ ,コッホに代表される細菌学革命がお ζ った。わが国は, コレラのような伝染病の到
した後 l
来とともに ,細菌学革命にも遭遇したのである。そ乙で, ぺ ッテンコーへル流の考え方は下水
道, コッホ流の考え方は上水道と二者択一論が盛んになるが,
、
ぎ るを得なかったからである 。と
ζ ろが,上水にと
ζ
れは経済上いずれか一方にせ
っても下水にと っても ,その目的が伝染病
撲滅にあったのに ,伝染病は細菌学発達のため , ワクチン接種に よって制御さ れていった。金
のかかる下水道は ζ ζ にも登場の機会を逸した,という乙とである。
たしか に,東京 ・大阪の例をみれば,下水道よりもなによりも , とにかく上水道が緊急に必
要であった,という乙とがわかる。というのは ,両都市ともに近代水道以前の水構造は,河川
水などの表流水 l
ζ 頼っ ていた。 表流水は当然ながら汚染されやすい。東京は江戸期よりの「水
道」が機能していたものの,木管構造で老朽化し,排水の混入がしばしばあった。したがって
鋳鉄管による水道が望 まれた。事実,東京水道は市区改正の中 で最優先されて計画が実施され
ー
ド」。
大阪の場合は淀川の水である。河川水というのは上流で汚濁物が流され る危険性に常に 面し
ている。大阪はコレラが流行するたびに全国でもも っとも擢患率の高い地方となった。
上水下水問題そのものは,それらが近代化される以前のその都市の水構造に大きく依存して
いる ,とみなければならないであろう。
ζ
うしてみれは
司
京都は豊富かつ佳良な井戸水を有して
いたがため,市民からは要求はお乙らず,上水下水建設問題は,一部専門家たちのむしろ当然
である 衛生上の議論 をよそに,市が真 にほしがっていた都市施設,道路,あ るいは電力源 とし
ての疏水に付随して計画が策定されていく。
「衛生上是非とも必要」である上水道は,結果的には京都市民の水生活に,井戸水と水道水
客好
の二元構造をつくりあげた,という点では評価されるべきものであ った。 まさに,安全と l
の両義性を有しえたという意味では「衛生的」水構造であったはずだ。
しかし当 時, ζ の水の 2元構造の重要性に どれ ほど、の人が気づ、いたのであろうか。
水道 はといへば,岡崎公圏内各所 に設け られた洗面所と水呑場,キュッと栓を捻れば,
のとうり見事 と,お眼に かけて衛生上 の助けをなした,
ζ
闘
ζ れが三大事業の急応用
8
lU 大場英樹「歴史にみる世界の環境問題同J
,『公害と対策』 第1
1巻第 3号,昭和5
0年 3月
。
京都市の場合も近郊の段村より農民が尿尿を汲みに市中へ入り,肥料と して買 っていっ た。ま た高瀬
川沿いには尿問屋が存在 した。
(
)
お
『大阪朝 日新聞
』.明治45年 6月1
5日。
悶
5
2
近代上下水道の建設(小野)
明治 45 (
1
9
1
2)年 6月
,
道路, 疏7
.
J
<,水道の京都市三大事業の完成を祝う式典の報道である。
たしかに水道は栓を捻れば水がとめどもなく流れだしてくる。乙れは便利なものであ ったに
ちがいない。井戸後えや,井戸の水汲みの重労働から解放され, しかも水量が豊富(有料だが)
なのである。井戸水と水道水の 2元構造は近年まで存在したらしいが,やがて井戸は埋められ
ていくのである。
井戸で水を得,排水は下水マスへ。乙の排水システムも自分で管理しなければ,固形物がた
まってあふれでしまう 。乙の自己管理システムは水道の導入により大きく変容したであろう。
日々水の安全性を確かめる 必要もなくなっ た。しかし ,水がど ζ から,どのように得られるの
かに日常的関心をもっ必要もなくなった。蛇口が新システムとの接点である。
同様の乙 とは排1
.
k
iとついてもいえよう。排水を自己管理せねばならないときには ,溝の掃除
や害虫の駆除で「衛生」を自覚できた。下水道の完備は衛生的環境をもたらしたと同時に,排
ω
1
.
kの流れていく先を日常空間より消した。
かつて井戸から水を汲み,使った水は土壌へ再び.還していくシステムは ,水道と下水道で都
市の入口 と出口で処理が行われ,我々は蛇 口か ら排水口へ流れ落ちる水を知るのみとなった。
乙うなったとき ,7
.
J
<を酒養してきた土壌,地下に対して興味は失なわれていったのである。今
や京都の土壌 は有機塩素化合物で汚染さ れている。自 ら井戸水を市民が管理せ ねばならなかっ
たら,果して乙のような事態を許 しえたであろうか。
それでも ,水道の水を市水道局が供給するなら安全で、はないか, と言お うか。 京都市の水源
は琵琶湖である。その表流水を疏水で導いているのである。表流水が汚染されやすいという乙
とは,かつてコレラ禍の時に 学んだ教訓ではなかったか。それゆえ ,京都の水は佳良,と その
井水の品質の良さを誇り,衛生上は上水よりも下水優先の声が大きかったのではなかったか。
さらにいうならば, もはや代替水源はないのである。乙の水源そのものが何らかの原因で飲
めなくなればどうしようもない。水源の一元構造はそうした危険性を常 Kふくんでいる。琵琶
湖水源を京阪神地区では「いのちの水」と呼ぶようになった。水道システムに水源の全てをか
けてしまったととに対するアイロニーであろうか。
いずれにせ よ「 自分のうちの井戸」はもう手に入れる乙とはできないのである。
〔
付記〕本研究は,筆者が土木学会第 3回日本土木史研究発表会(昭和5
8
年).及び第 7回同研究発表会
(昭和62年)において口頭発表したものを論文構成化 した ものである。
l関する情報を提供していただいた東洋設備制中村社長と,中村
研究にあたって,と
く K京都市の井水ζ
氏へのコンタクトの労をとっていただけた津田務氏(現在 TOTO勤務)
κは深甚の謝意を表する次第で
ある。
側近代水道がつくられた乙とによって,地域社会の中で構築されていた水管理システムが揺らいでい
き,ついには水質汚染をもたらすようになった,という研究部例は,鳥越,嘉田氏らのグループl
とより
琵琶湖西岸の村を対象 K実証されている。鳥越結之 ・嘉回由紀子編『水と人の環境史』,御茶の 7
.
1
<容房,
昭和59年
。
5
3
技術と文明
5巻 2号
( 140)
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