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冊子「荻野吟子」 - 熊谷デジタルミュージアム

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冊子「荻野吟子」 - 熊谷デジタルミュージアム
日本最初の女医
不居の精神とえいなる愛
熊谷市教育委員会
│
日本最初の女医荻野吟子
│
l荻 野 吟 子 年 譜
誕生
吟子は嘉氷4
年(
1
8
5
1
)
3月3日、幡羅郡俵瀬村(現熊谷市)の
嘉永 4年 (
1
8
5
1
)
3月3目、武蔵国幡羅郡議論村(現
にも合格し、女医第 1
号となる。 5
埼玉県熊谷市俵瀬)に生まれる。
月本郷湯島に医院開業し、後に下
谷に移る (
3
5歳)。
万延元年 (
1
8
6
0
) 寺子屋
(
9
歳"')
I
存自主醤様Jで基礎学聞を
勉強。
慶応 4年 (
1
8
6
8
) 埼玉県上川上村(現熊谷市)の名主・
(
1
7
歳"')
F
3
8
稲村貫一郎と戸
歳)。その舎
寺門静軒の「両宜塾J
を継承した松
本菖年に師事。
明治 3年 (
1
8
7
0
) 病気で協議離婚、大学東校附属病
(
1
9
歳"')
院に入院。女医になる決意をする。
明治 6年 (
1
8
7
3
) 国学者・非主婦菌の門に入る。
(
2
2
歳"')
明治 7年 (
1
8
7
4
) 内藤蒲嘉争の甲府内藤塾に助教と
(
2
3歳"')
して招かれ、甲府に赴く。
明治 8年 (
1
8
7
5
) 東京女子師範学校に入学し、
(
2
4
歳"')
(
3
5
歳"')
7
月同校を卒業。
1
5
人矯風会に参加、後に風俗部長と
なる。
荻野家は、俵瀬村の名主として村運営の中心を担った家で、
長屋門を構えた豪壮な家でした。この俵瀬村は、北に流れる
利根川には堤がなく、南には中条堤がそびえ、利根川の増水
みずば
のたびに水が滞留する「水場」の村でした。
生家の長屋門(群馬県千代田町光思寺へ移築された)
0
年(
1
8
8
7
) 大日本婦人衛生会に参画し、翌々年、
明治2
(
3
6
歳"')
明治女学校教師・校医となる。
年同校舎監となる。
25
明治2
3
年(
1
8
9
0
) 議会の婦人傍聴禁止撤回運動に参
(
3
9
歳"')
││学問への導き
吟子は、幼いころから聡明で、勉強好きであったといわれています。
画
。1
1月熊本県の志方之善と結婚
する (
4
0
歳
)
。
俵瀬村の隣の葛和田村には、大龍寺があります。本堂が落雷のため焼失
9
年(
1
8
9
6
) 北海道インマヌエル(現今金町)こ
(
明治2
多くの人々がその指導を受けました。吟子も、行鈴書院で学んだとも言
(
4
5
歳"')
われています。
1
2
年
明治 1
2
年(
1
8
7
9
) 私立医学校の忌語能に入学し、
歳"')
(
2
8
明治 1
9
年(
1
8
8
6
) 本郷教会にて洗礼を受け、東京婦
名主、荻野綾三郎・嘉与の五女「ぎん」として生まれました。
入所し、夫のキリスト教による理
想郷建設に協力。夏には国縫に転出。
翌年、トミを養女とした。
した文久 3年 (
1
8
6
3
)に入寺した北条察源は、行儀書院を開設し、近村の
吟子が本格的に学問を学び始めたのは、幕末の著名な儒学者であった
寺門静軒が妻沼にて開塾した両宜塾です。吟子は、静軒の後を継いだ松
明治3
0
年(
1
8
9
7
) 瀬棚田に移り、医院を開業し、医
本高年の教えを受けました。松本高年は、吟子をはじめ、公許女医2
号の
(
4
6
歳"')
生沢クノなどの師であり、女子教育にカを注いだ人物でした。また、その頃、
年優秀な成績で、卒業 (
3
1歳)。
療に従事。淑徳婦人会を結成し、
会長となる。
ー
高年の長女である装えと親交を結びました。
当時の両宜塾
明治 1
5
年(
1
8
8
2
) 東京府に医術開業試験の願書を提
明治3
8
年(
1
9
0
5
) 夫、志方之善病死。
(
3
1歳"')
(
5
4
歳"')
明治4
1年 (
1
9
0
8
) 北海道を引き揚げ、東京都向島新
(
5
7
歳"')
小梅町に医院を開業する。
││最初の結婚
大正 2年 (
1
9
1
3
)
慶 応4
年(
1
8
6
8
)、吟子が1
8歳になる年に、上川上村(現熊谷市上川上)の名
出したが却下される。翌年、東京都、
埼玉県に提出したが却下。内務省
に請願書を提出するが却下される。
明治 1
7
年(
1
8
8
4
) 医術開業受験が許可され、
(
3
3歳"')
9月前
期試験に合格。翌年3
月後期試験
6
月2
3日永眠。東京の雑司ヶ谷霊
3
歳
。
園に埋葬される。享年6
主稲村家の長男、貫一郎に嫁ぐことになりました。
稲村家は、古河藩領であった上川上村の運営を担った家で、この地域では
有数の豪農でした。吟子が嫁いだ当時、古河藩士を父に持ち、日本を代表す
る南画家・奥原晴湖が、戊辰戦争の難を逃れるため、稲村家に仮寓していました。
この晴湖との出会いが、吟子のその後の人生に
大きな影響を与えたといわれています。
貫一郎は、熊谷のために多くの功績を挙げた
人物です。少年の頃古河藩に遊学し、若くして
奥原晴湖
名主役を務めるようになりました。明治 8
年(
1
8
7
5
)に結成された埼玉県初の
政治的社交団体「七名社」の構成メンバーとなり、明治1
7
年(
1
8
8
4
)には、埼玉
県議会副議長を務めています。銀行の創設・経営や牧畜牛乳販売の開業など、
実業家としても大成しています。また、地元の農家のために、「ゃなぎごおり」
の普及にも励みました。
吟子と貫一郎の結婚は長くは続きませんでした。吟子が病気にかかり、実
家での療養を余儀なくされたのです。そして、明治3
年(
1
8
7
0
)、協議離婚と
なりました。貫一郎はその後も吟子への援助を続けたといわれています。
明治当時の生誕地周辺地域
2
稲村貫一郎
3
日本最初の女医荻野吟子
││東京女子師範学校へ入学 (
2
4歳--)
││女医になる決意 (19歳--)
この頃、初めて女性の教員養成を目的とした学校である東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)が設立
吟子は高年の薦めで、彼が寺門静軒の克己塾で学んだ佐藤尚中が校長を務める大学
東校(下谷和泉橋通りの津藩藤堂和泉守邸跡にあり、後に本郷に移り東京大学医学部
されます。吟子は、この学校で学ぶことを選び、受験して第 1期生として合格します。このとき、松本荻江は、
となる)の、付属病院に入院することになりました。
女子師範学校の訓導(教授)を務めていました。荻江の勧め通り受験し合格して、新たな段階へと歩み始め
たのです
吟子は、入院中、生死をさまようほどの病状となります。やや回復し、同じ女性患
明治8
年(18
7
5
)
1
1月2
9日、皇后を迎えて開校式が行われ、第 1回生
者を励ます際、男性の医師に診察される経験に差恥と屈辱を感じることに共感し、せ
めて向性の医師であったら、もっと気安く診てもらえる。同じ病を持ち、悩み続ける
74
名の学校生活が始まりました。教科内容は、地理・歴史・物理・化学・
女性が救われるのではないか。「女医になりたい」という気持ちは「女医になる」に高
数学・博物・経済・教育学・簿記法・養生法・唱歌・体育等多岐にわ
まっていきました。この決意は固く、その後の吟子の情熱を支え続けたのです。
たる科目でありました。医学に直接関係するものではありませんでし
佐藤尚中
たが、吟子は積極的に学び、その人格形成に役立てられたのです。
当時の東京女子師範学校
││医学への導き (25歳--)
東京女子師範学校での授業について行けない者も多く、第 1回入学者7
4
名は半数が脱落し、卒業できた
のは 3
3名でした。このうちの 1
5名が明治1
2
年(18
7
9
)
2月1
0日の第 1回として卒業し、残りの 1
8名が同年7月
当時の医学校
その後の東京大学医学部(帝国大学医科大学)
1
0日に第2回として卒業しました。この頃 6か月ごとに進級試験が行われ、何らかの理由で遅くなった者が
.
.
.百十
第2回を受験しました。吟子も第2回の卒業生の中に含まれてい ー一一- -
寸 て
官
‘
百
ました。
卒業にあたって、吟子の担当教官であった氷井久一郎教授と
の面談の際、吟子は究極の目的が女医になることを告げ、助カ
吟子は 2年間の入院生活を終え、再び俵瀬に戻ってきました。彼女は病院で立てた志を松本高年の娘、荻
を願いました。氷井教授は女子の入学が至難であることを知っ
江に語りました。荻江もこれを励ましたものの、これは至難の業でした。当時男でも医師になるのには限
ていましたが、彼女の意志が固いことをみて、知人の陸軍軍医監、
られた道しかなく、さらに「西洋医学」を習得できるのは極めて少数でした。
東京大学医学部総理の石黒忠恵を紹介してくれたのです。彼女
せいとくかん
当時の主な医学所は全国に 3
つありました。官立では長崎の精得館、東京の大学東校(後の東京大学医学部)、
私立は千葉佐倉の佐藤順天堂がありました。これらの学校の入学定員は 3
0名程で、全国から志願者が集まつ
いしぞろただ由り
は石黒に面会し女医の必要性を述べ、是非医学校を紹介してほ
しいと懇願しました。
東京女子師範学校第二回卒業生一同(矢印が吟子)
医学の新たな学び、舎へ (
2
9歳--)
学を許していなかったのです。
石黒は知人の宮内省侍医、高階経徳が経営している好寿院医学校に入学を懇願し、認めてもらうことが
できました。吟子は長い時聞を経て念願の医学校入学にたどり着いたのです。
好寿院では多くの人が吟子の存在を物珍しく捉えていました。当時の医学校では有力者の子息やその紹
介がある者に限られており、女性の姿は無いに等しかったからです。そのような中で、吟子は男装して通
学していたという逸話も残されています。
吟子は、学資を稼ぐため、石黒や、豪商であった高島嘉右衛門などの家の家庭教師となりました。こう
││学びを求めて (
2
2歳--)
して 3年間の修学の後の明治1
5年(
1
8
8
2
)に、好寿院を卒業しました。ここでも彼女の成績は抜群でした。
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主
主!
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ぎ1
32
立の医学校卒業生は政府の行う医術開業試験に合格しなければ、 L
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しかし卒業後が正念場でした。当時の医師制度の下では、私 122 12 1芝 l~ ご l~ l
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何事~)動 |拘 | 続税d j'ífllヲ叩何恥 1
正規の医師となることが出来なかったのです。対して、官公立
I
(
18
7
3
)に国学者であり、かっ皇漢医である井上頼聞の「神習舎」に入ります。頼園は、後に国学の大家とな
医学校を卒業した者や外国の医学校を卒業した者は、その卒業
l
F
る人物です。その翌年には、甲府に女性私塾の設立を目指していた高暴走嘉宇の求めにより、指導者として、
証書を提出して請願すれば認可が下りるという制度でした。
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同じく井上門下であった年下の田中かく子とともに甲府に赴きますが、満寿子が病気となったため休校と
なり、吟子は再び東京に戻ります。井上頼聞、内藤満寿子、田中かく子とは、この後も長くっきあいが続きます。
吟子は、師や友をたいへん大切にしました。
4
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妻沼の両宜塾で学んでいた吟子は、父綾三郎が亡くなると、上京して学ぶ道を選びます。明治 6年
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しかし、 今まで女性肘で医術開業試験を受けた者は皆無であり
叩
叫
:
之
♂
叫 羽│
ほ
比
羽
主
北去
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計
之
之
乏1
似三三、│
広
之
弘
叫
主
記
ヒ
必
三
刀
江
;
刈
;
J 三
、
ました。これから鉄の扉を開けるべく吟子の果敢な挑戦が始ま東京女子師範学校第二回卒業生名簿(矢印が吟子)
るのでした。
※通称は「吟子J
であるが、本名の「ぎんJ
で記載されている。
5
│
l不屈の請願
││鹿鳴館スタイルの写真
吟子は明治 1
5
年(
1
8
8
2
)
6月2
9日、東京府に医術開業試験の願書を提出し、一豆は受理されましたが8月1
6
日に却下されました。翌日年 (
1
8
8
3
)春、再び願書を提出しますがこれも却下。
1
6
年(
1
8
8
3
)
9月に今度は埼
玉県に提出しますが却下。内務省にも提出するがこれも却下されたのです。
吟子はしばらくして帰郷しました。両親の墓と実家の人々に開院の報告
をし、熊谷の姉友子の家に 1泊しました。その翌日、鹿鳴館スタイルの服
装で写真を撮りました。
これを受けて、吟子は一つの方策として、石黒忠恵に頼んでみることを考えました。石黒は友人の内務
鹿鳴館は明治1
6年(
1
8
8
3
)の7月に、政府の条約改正のための欧化政策で、
省衛生局長、長与専斉に面会して事の状況を伝えました。当時長与の部局が医師
日比谷に造られた社交場でありま
1
制度を策定していたのでした。アメリカでの女性医師の存在を知る石黒は日本で
した。夜会服にボンネット(帽子)
も同様に認めてよい時期に来ていることを唱え、資格があれば受験を許すべきと
が当時の流行スタイル山まし
た。吟子はこれに影響を受けて、
して、もし許さないならば規則に「女子は不可」と入れるべきだと批判したのでした。
吟子は同じく高島嘉右衛門から紹介状を貰い、内務省衛生局に長与専斉を訪ね
リ 服を調達し、写真を撮ったと思わ
ました。吟子は先に高島に日本の古代にも女医がいた文献(rr"令義解J
)があること
れます。ここに現在でも多くの人
を伝えました。彼はそれに信葱性を持たせるため、吟子のかつての師、井上頼園
が親しんでいる吟子像が出来上
の調書を貰って紹介状に付け加えたと言われています。
モダンスタイルが見える当時の東京
がったのです。
熊谷で撮影された鹿鳴館スタイルの写真
吟子は自らの体験を思い起こし、婦人科においては同性の医師がいることが病晩年の石黒忠恵。
気を重くさせてしまわぬ良い点であることを告げました。
吟子の生涯についての語り部
となった。
日本最初の女医の誕生 (33歳~)
││キリスト教入信と社会運動
吟子は女子師範の在学中からキリスト教に関心を持っていましたが、明治 1
9年(
1
8
8
6
)
本郷教会で海老名
弾正牧師から洗礼を受けました。同年、万国キリスト教婦人矯風会運動の一環として、ミセス・レヴ、エツ
吟子やその周辺の人々の尽力により、明治1
7
年(
1
8
8
4
)1月 1日施行の内
トが来日しました。彼女は「過飲及家内諸不徳に対する婦人の義務」という内容の講演会を聞きました。
務省医術開業試験規則改正では、資格のある者なら女性の受験も差支えな
この聴衆の中に女子学院長、矢島楊子がいて感銘を受け、同年1
2月に東京婦人矯風会(後日本キリスト教
いことになり、同年9月3日の前期試験の吟子の願書は遂に受理されました。
婦人矯風会)を成立させました。この会は婦人覚醒運動・婦人参政権運動・廃娼運動・禁酒禁煙運動など多
女子の受験者は、荻野吟子・木村秀子・松浦さと子・岡田みす子の 4
人でした。
方面の活動を始めました。
試験科目は、物理・化学・生理・解剖でした。
吟子もこの会に賛同して入会しました。これらの問題にも関心を持っており、同会の風俗部長としてこ
吟子は既に東京女子師範学校で、物理・化学・生理を学び、好寿院で本
れらの問題を取り上げました。忙しく診療に追われながらも、会に
格的な医学を学んでおり、さらに自分で必死に受験勉強をしていたことに
は欠かさず出席していました。
より優秀な成績で合格しました。そして吟子 1人だけの合格でした。
その他、吟子は大日本婦人衛生会の幹事に就任し、婦人衛生雑誌
次いで、後期試験が翌 1
8
年(
1
8
8
5
)
3月に行われました。内科・外科・産科・
婦人科・眼科・薬科・衛生・細菌の専門科
目でありましたが、これにも合格、医籍登
の編集にも関わっています。また、明治女学校創立者で信仰心の厚
『贋列伊氏解剖訓蒙園J
H
e
n
r
yG
r
a
y
著
松村矩規訳明治5・9
年(
1872・1
8
7
6
)
録されここに日本最初の公認された女医、荻野吟子が誕生したのです。吟
子はその時、
い巌本善治の招きで、同校の生理・衛生の講師、校医になっています。
また巌本は同校の青年教師、島崎藤村らの協力を得て「女学雑誌、」を
発刊していました。
3
5歳でありました。
『女学雑誌J(創刊号明治 18
年)
しかし、後期試験に合格した頃、吟子は母危篤の通知を受けたのです。
二年前に開通した高崎線に乗って熊谷で下車し、自宅に駆け付けました。
当時の熊谷駅
そして、母の死と向き合うことになります。
│
│
第2の結婚
明治 2
3
年(
1
8
9
0)
1
1月2
5日、荻野吟子と志方之善の結婚式が、志方の郷里熊本県小
||荻野医院の開設 (35歳~)
母の初七日後、上京。早速医院開業に取り掛かり、小さいながらも本郷三組町の家に「産婦人科荻野医院」
の看板を掲げました。これを見る吟子は感慨無量でありました。
新聞・雑誌は、この日本最初の女医の誕生を報道したのです。患者が日に日に増えて、やがて下谷・西
黒門町の 2階建ての大きな家に移りました。
鹿町の生家で、 0・
H・ギユーギ師の司会の下に挙行されました。吟子4
0歳、志方2
7
歳
、
同志社の学生でした。
ニ人はキリスト教の教会を通じて知り舎うことになったのです。志方は吟子に崇
拝に近いものを抱き、吟子は志方の直情的な性格を、姉らしい気持ちで愛していま
した。この恋愛は結婚に進んでいきます。しかし、これは周囲の誰からも歓迎され
なかったのでした。吟子は自身にとって最初の結婚は親が決めたものであったこと
から、自分に理解を示し共鳴してくれる者とこそ結婚すべきであると考えていました。
6
1
志方之善(前列左端)
7
│
日本最初の女医荻野吟子
そして二人はキリスト教の信者として助け会い、共に生きていくことにしたので
した。
しかしながら、明治 1
0年代の鹿鳴館時代の欧化政策が終り、
2
0年代になると
年
大正 2
(
1
9
1
3
)3月 2
2日、吟子は帰宅後間もなく臥床しました。
3日、姉友子
その後、 5月に脳卒中で倒れ、遂に回復せず、 6月 2
と娘トミに看取られて波澗多き一生を閉じたのです。享年 6
3歳
帝国憲法・教育勅語の発布を契機にして、国粋主義が台頭してきました。キリス
でした。葬儀は 2日後の
2
5日、本郷教会で行われ、女医たち及
ト教信者の中には新天地北海道へ行って、理想郷を建設しようという運動が始
び女子師範の友人たち、数十名の参会者がありました。そして、
まってくるのでした。
雑司ヶ谷霊園に葬られました。
同志社の学友と共に(中央後方が志方)
吟子の墓碑
││荻野吟子をめぐる女性たち
││北海道ヘ
明治 2
4
年(
1
8
9
1
)、衆議院議員の犬養毅は 8
名の組合を組織して、瀬棚町利別原野に固有未開地の広大な
【母・嘉与】
(
1
8
1
2
1
8
8
5
) I
I
吟子の母、嘉与は、荻野綾三
りました。翌年の 6月、熊谷聖公会の信徒天沼常三郎が同志を連れて訪れるなど、また組合教会派の同志
郎との聞に二男五女をもうける。
i
も少しずつ増え、村落を形成するようになりました。この土地を新約聖書中の「神と共にいる」の意味のイ
俵瀬村では、賢夫人と評判で
│
ンマヌエル(現今金町神丘)と名付け、信仰者はこの地域に集まったのです。
あった。「周囲こぞりて予が行 │
為を非難する時も、涙をのんで
心長くも予が成功を待てり。」と
その後、吟子は、夫の待つ北海道へ向かいました。明治 2
9年からのインマヌエルでの吟子たちの生活は、
想像以上に過酷であり、脱落者が次第に出てきました。翌年に志方の姉のシメが産んだ
子トミを、志方夫婦が引き取り養女としました。
明治 3
0年(
1
8
9
7
)、志方と吟子は国縫から瀬棚に
一三士二一
~膨ι ,.: , '_
貸付地を得ました。志方は知人を通じて、この内の一部を譲り受けることになり、同年 5月に北海道に渡
・ト
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1
1
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Jr
古河
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‘・園f
l
│
可~
~
ました。
天保 8年、古河藩士池田政明
の四女として生まれる。
谷文晃の門人牧田水石に師事、
関宿藩奥原家の養女となり江戸
へ
。
山内容堂、木戸孝允らの名士
! の知過を得て名声を上げる。明治2
4
年(
1
8
91)には熊
視力低下となり、吟子に介助されながら東京に来た
│ 谷上川上の「繍水草堂」に移住。稲村貫一郎らの支援
I女流南画家の代表者である。
(
1
8
4
5
1
8
9
9
)
松本荻江は、弘化 2
年(18
4
5
)
【田中かく子】 (
1
8
5
9
1
9
5
3
)
【松本荻江】
また吟子は町の有力者の妻たちと淑徳婦人会を
結成し、これに加え、日曜学校を経営して母子を
飯能の旅寵の家に生まれる。
吟子の 8歳年下。明治 6年、井
6月生まれ。両宜塾で父高年を
集めて信仰を普及させたのです。
・
助け、代稽古も行う。吟子は 6
開業の地跡
歳年上の荻江を義姉にように
慕っていた。
明治8年女子師範教授となり、
I
1可 四・E
上頼園が父に依頼し、井上門下
生となる。甲府の女学塾の助教
になる。井上門下には、 4名の
女性がいたが、吟子は特に田中
I
~叱込"!6'
下回歌子の帝国婦人協会の設立や実践女学校の創立 l かく子と親しくなり、生涯の友となった。吟子は、
2 j 没前 3カ月前にも手紙を出している。また、かく子
をたすけ、女子教育のため各地を遊説した。明治 3
1
8
9
9
)
9月1
5日死去。本名はむつ。
I に婿の紹介も行うなどした。
年(
志方の死
(
1
8
9
4
1
9
7
8
)
トミは、明治2
7
年、之善の
【竹ノ谷トミ】
は悪化し、会津町の自宅で吟子の手厚い看護を受けましたが、同
年9
月2
3日、眠るように亡くなりました。志方4
1歳、吟子 5
4
歳でした。
。
~~咽
瀬棚・インマヌ工ル周辺地図
【吉岡繍生】
||吟子の上京と死 (57歳 ~63歳)
吟子は純粋に夫を愛しており、夫が眠る地に 3年留まりましたが、病弱の身を心配する姉友子の勧めに
(
1
9
0
8
)再び東京に戻りました。親類が近くに住んでいる本所新小梅町に医院を経営し、
6
7歳の姉友子と 1
5歳の娘トミと、穏やかに暮らしました。
(
1
8
7
1
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9
5
9
)
遠江国城東郡土方村(現:静
姉のシメの子として生まれる。
岡県掛川市)に生まれる。上京し、
シメが次子を妊娠中夫が死去。
済生学舎(現:日本医科大学)
l ・・・h 、長
き取る。その後、吟子が渡道、 l 司・圃・h・ ・
に入学した。明治 2
5年
内務省医術開業試験に合格し、
志方の死を経て、吟子が亡くな
日本で 2
7人目の女医となる。
弟の之善が養子としてトミを引
8
(
1
8
3
7
1
9
1
3
)
吟子を応援し続けた。晩年片目を失明、もう片目も
(
7
2
歳)
0
吟子は久し振りに、婦人科・小児科医院を開業し
淑徳婦人会の会員(後列右端が、吟子)
. .
【奥原晴湖】
こともあった。明治 1
8
年(1
8
8
5
)
4月3
0日、嘉与死去 │ を受けながら、この地で没する。近代日本における
移りました。この市街の中心地会津町に家を借り、
1年
より、明治 4
墓地に建てられた像
│
可
r
(
1
8
9
2
)、
るまでともに暮らす。その後結婚し、吟子の語り部
!東京女子医科大学の前身である東京女医学校、東京
として熊谷にて多くの人々との交流を持った。昭和
│女子医学専門学校を創設し、女性医師の養成や医学
5
3
年(即8
)8月間死去。
! の教育・研究の振興に尽力した。吟子が東京で開業
した医院にも足を運び、吟子の影響を強く受けた。
9
│
日本勧の女医荻野吟子
1年 (
1
9
3
6
) 日本女医公認 50周年祭、荻野吟子女史慰霊祭。
昭和 1
2年 (
1
9
6
7
)瀬棚町に、顕彰碑建立。
昭和 4
昭和 4
3年 (
1
9
6
8
)生誕の地及ひ'秦小学校に、顕彰碑建立。
昭和 4
5年 (
1
9
7
0
)渡辺淳一『花埋み』発表。
6年 (
1
9
7
1
)生誕の地が、町指定文化財(史跡)に指定。
昭和 4
平成 1
0年 (
1
9
9
8
)三田佳子主演の舞台「命燃えて』が脚光を浴びる。
6年 (
2
0
0
4
)熊谷市立荻野吟子記念館開館。
平成 1
平成 2
5年 (2013)荻野吟子没後 1
0
0年記念事業。
さピ、たま輝さ荻野吟子賞
暗玉県では、「荻野吟子」にちなみ、その不屈の精神を今に
伝える先駆的な活動をしているなど、男女共同参画の推進に
熊谷市立荻野吟子記念館
-吟子ゆかりの資料を展示-
熊谷市指定文化財記念物(史跡)
「荻野吟子生誕之地」
荻野吟子が生誕した地は、昭和 46年 11月3
日に旧妻沼町の指定文化財記念物(史跡)に指
定されました。現在、吟子像と顕彰碑が設置
されており、整備された公園と共に、市民の
憩いの場となっています。
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所 在 地 熊 谷 市 俵 瀬581番地 1
開 館 時 間 9時
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7時
休館日月曜日
(月曜が祝日の時は翌平日)
年末年始
入館料無料
電
話 0
48-588-2044(妻沼中央公民館)
顕著な功績のあった個人や団体、事業所の方々に「さいたま輝
を贈っています。
き荻野吟子賞J
この表彰制度は、女性と男性が個性と能力を十分に発揮し、
あらゆる分野に対等に参画することができる男女共同参画社
会づくりを推進するとともに、埼玉の偉人である荻野吟子を
7年度から実施しています。
顕彰するため、平成 1
公益社団法人日本女医会荻野吟子賞
公益社団法人日本女医会は、女性として初めて公に医師の資格を与えられた荻野吟子の偉業を称え、その名
を永久に伝え、女性の地位向上を図ることを目的として、「日本女医会荻野吟子賞jを制定しています。毎年、
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C
荻野吟子)
小惑星
独自の活躍をもって女性の地位向上に著しい貢献をした女性医師(原則として 1名)に与えられています。
10526
発見目 1
990年 1
0月 1
9日
登録番号
-荻野吟子を顕彰する団体を紹介します。
昭和 4
6年 3月 1日に当時の妻沼町教育委員会から荻野吟子誕生之地が史跡
として指定を受けました。その翌年、俵瀬地区の全戸が加入し、荻野吟子史
跡保存会が結成されました。それから今日まで、地域の人々が協力し合い、
生誕の地周辺の公園の整備や清掃、樹木草花の育成などを行い、吟子を偲び
この地を訪れる人々をお迎えしています。
平成 1
4年に結成された女性を中心とした吟子の顕彰会です。主に地域のイ
ベントでの『吟子鍋」の提供や、雛祭りの 3月 3日が吟子の誕生日であるこ
とにちなんで、雛人形の提供を募り、妻沼の井田記念館での「吟子雛」の飾
発見者早川修司氏・日置努氏
名前の認定日
資料提供:熊谷市プラネタリウム館
│
吟子鍋レシピ荻野吟子ゆかりの食材で作る郷土の昧
り付け展示などを行っています。これらを通じて、妻沼を訪れる多くの人々
│
材料(4
人分)I
直盟
に対して吟子の P Rを行っています。
・生鮭:切身 160
グラム
・ じゃがいも:中2個 150
グラム
・大和芋:中 1
本 150
グラム
・にんじん:中 1
本 100
グラム
.ほうれん草 :
3分の 1
束1
0
0グラム
本 100
グラム
.ごぼう:小 1
.ねぎ:1
本
.昧噌:約 50
グラム
・だし汁:約 6カップ
・油:小さり 1から 2
1生鮭は、 1切を 4つ位に切って
についての顕彰活動、吟子記念館に訪れる方々への説明、妻沼地域の郷土遺
産への案内も行っています。その他、熊谷市のイベントや聖天山の春秋の大
祭など、への協力を始め、妻沼の郷土文化の啓発を担う中心的存在です。
2008
年3
月2
0日
公転周期 3.
4
年
軌道長半径 2
.
2
5
天文単位
命名の経緯
平成 1
9年秋、発見者の早川修司氏から「小惑星の命名申請を計画しているが、舎併後の熊谷市のイメージアップに役
立ててほしい。」と申し出がありました。そこで、プラネタリウム館で小惑星を勉強する市内の中学 3年生から名前を
募集し、命名されました。
妻沼聖天山本殿の国宝「歓喜院聖天堂」のガイドボランテイアや「荻野吟子」
1
0
観測地東京都奥多摩町
火星と木星の聞の小惑星帯
を回る、直径1
01m曜度の天体。
熊谷市ゆかりの名の小惑星
五つ(直実・熊谷・星川・
荻野吟子・ムサシトミヨ〉
のうちの一つ。
吟子鍋
湯がいておく。また、ほうれん
草は、ゆでて 3センチの長さに
切っておく。
2ごぼうは、包丁の背で、皮をこそ
げ取り、斜め切りにし、水に浸
してアクを抜く。ねぎ、も斜め切
にしておく。
3大和芋、にんじん、じゃがいもは、
一口大の大きさに切る。
4鍋に油を熱し、ごぼうに油がよ
くしみ込むまで、妙める。
5大和芋、にんじん、じゃがいも
を妙め、用意しておいただし汁
を入れて煮る。浮いてくるアク
をすくい取る。
6野菜が柔らかくなったら、ねぎ・
鮭を入れ、昧唱を入れて、ひと
煮立ちしたら火を止め、ゆで、て
おいたほうれん草を混ぜる。
1
1
荻議診
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吟子のテープ、ルクロス
吟子の手帳
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吟子のハンドパック
吟子が愛読した「聖書」
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たゆまぬ努力の結果、
日本で初めて公許登録
女医となった。
[熊谷市]
〈荻野吟子関連の図書〉
・渡辺淳一著『花埋み」河出書房新社 1970
年
・荻野吟子女子顕彰碑建設期成会著『荻野吟子』瀬棚町 1
9
7
1
年
。瀬戸内晴美[ほか]編『女の一生 7人物近代女性史:明治女性の知的情熱』講談社 1
981
年3月
年2月
。奈良原春作著『荻野吟子:日本の女医第 1号」国書刊行会 1984
年2月
。奈良原春作著『荻野吟子抄:日本の女医第一号栄光と波乱の生涯』妻沼町 1985
塙悔己ー
自らの障害を乗り越え、
「群書類従」の編纂など
を行った。
年1
月
。佐佐木武観著『荻野吟子抄:新作戯曲日本公許・女医一号』妻沼町 1990
。牧野昇・竹内均監修『日本の「創造力 Jj]日本放送協会 1992
年
。『もののふ第 2
1
号:荻野吟子』埼玉県立熊谷女子高等学校日本史部 1993
年 9月
4
砂長島二三子編『松本高年の女弟子たち:松本荻江・荻野吟子・生沢クノ』長島二三子 1993
年1
1月
[本庄市]
・鈴木裕子監修財団法人東京女性財団編著『先駆者たちの肖像』ドメス出版 1994
年
栄
沢
品
4
砂佐佐木武観原作『マンガ荻野吟子抄:日本公許女医第 1号
』
vh
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MK荻野吟子は、埼玉県が選定した
実
埼玉ゆかりの三偉人の一人です。 鐙
i
務
潟埼玉ゆかりの三偉全
荻野口今子
4
砂森まゆみ著『明治快女』労働俊報社 1996
年
年 6月
妻沼町商工会むらおこし事業「荻野吟子マンガ作成実行委員会J1998
企業の育成や社会事業
・窪塚綾子、中田陽子/絵・文『荻野吟子物語:紙芝居』窪塚綾子 2002
年
に尽力し、近代日本経
済の礎を築いた。
年
。楠瀬佳子著、三木草子編 Hわたし」を生きる女たち』世界思想社 2004
[深谷市]
。北海道女性医師史編纂刊行委員会『北の命を抱きしめて』ドメス出版 2006
年
。茨木保著『医師という生き方』ペリカン社 2010
年
資料提供・作成協カ:せたな町教育委員会・今金町教育委員会・埼玉県教育委員会
平成27
年7月発行(改訂):熊谷市教育委員会(妻沼中央公民館)
作成:社会教育課文化財保護係(熊谷市立江南文化財センター)
干3
60-0107熊谷市千代329
番 地 電 話 048-536-5062 FAX048-536-4575 メール c
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H
P
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熊谷デジタルミュージアム Jhttp://www.kumagaya-bunkaza
.
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jp/museum/index.htm
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